遠山 清(とおやま きよし、1903年〈明治36年〉11月1… 遠山 清(とおやま きよし、1903年〈明治36年〉11月15日 - 1963年〈昭和38年〉6月10日)は、日本の教育者、画家。 サンサシオン同人、広井尋常小学校教員、名古屋市立第一高等女学校教員、光風会会員、愛知県立愛知工業高等学校教員、社団法人光風美術会会員、社団法人日展会員、社団法人日展審査員などを歴任した。 愛知県名古屋市出身の洋画家である。広井尋常小学校、名古屋市立第一高等女学校、愛知県立愛知工業高等学校に教員として勤務する傍ら、光風会展、帝展、日展に出品を続け、光風賞や岡田賞を受賞している。光風会や日展の会員となり、のちに日展の審査員も務めた。 1903年(明治36年)11月15日、大日本帝国の愛知県名古屋市にて生まれた。
永田一脩(ながた いっしゅう、1903年11月11日 - 1… 永田一脩(ながた いっしゅう、1903年11月11日 - 1988年4月9日)は、日本戦前期の、前衛美術系およびプロレタリア美術系の画家、写真家、グラフィックデザイナー。演劇にも携わる。本名永田一脩(ながた かずなが)。 福岡県門司市生まれ。1927年東京美術学校洋画科卒。労働美術家連盟、前衛芸術家同盟、ナップに参加。1929年国際文化研究所に入り、『国際文化』を編集。1930年ナップの一斉検挙にあい、保釈後フリーで活動する。1941年東京日日新聞社入社、毎日新聞となり1958年まで勤務。 写真に関しては、1930年代に、写真評論などを『フォトタイムス』誌に執筆し、実作品も制作した。写真作品としては、フォトモンタージュを利用したシュルレアリスム的な作品が多い。
藤野 天光(ふじの てんこう、1903年〈明治36年〉9月2… 藤野 天光(ふじの てんこう、1903年〈明治36年〉9月27日 - 1974年〈昭和49年〉12月30日)は、日本の彫刻家。本名は藤野隆秋。号は当初舜正(しゅんせい)、後に天光に改めた。 群馬県館林町裏宿(現館林市城町付近)出身。千葉県市川市の地域文化発展に貢献。日展審査員を6回、さらに理事をつとめた。 戦後は文化運動者としても活動した。また師北村西望作の長崎平和祈念像の制作筆頭助手をつとめた。晩年は千葉県立美術館の建設促進に献身した。 1903年(明治36年)9月27日、藤野隆秋として群馬県館林市に生まれる。藤野家は旧館林藩士の家柄だった。 館林町立北尋常高等小学校(現・館林市立第一小学校)に学ぶ。
大沢 昌助(おおさわ しょうすけ、1903年9月24日 - … 大沢 昌助(おおさわ しょうすけ、1903年9月24日 - 1997年5月15日)は、昭和・平成の日本の洋画家。戦後二科会再建時の創立会員。80歳を過ぎてソフトライン、水平線シリーズなど簡潔で色彩豊かな独自の抽象絵画を確立した。東京都庁に壁画がある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
徳山 璉(とくやま たまき、1903年〈明治36年〉7月27… 徳山 璉(とくやま たまき、1903年〈明治36年〉7月27日 - 1942年〈昭和17年〉1月28日)は、戦前から戦中に活躍した日本の声楽家(バリトン)・流行歌手・俳優。愛称は「徳さん」。 1903年(明治36年)7月27日、神奈川県高座郡藤沢町(現在の同県藤沢市)の開業医の家に生まれた。 開校したばかりの逗子開成中学校(現在の逗子開成高等学校)を経て、1928年(昭和3年)、東京音楽学校声楽科(現在の東京芸術大学音楽学部声楽科)を卒業。武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)の教師になったが、流行歌手として日本で初めて大スターになった佐藤千夜子のピアノ伴奏をした縁で、1930年(昭和5年)、ビクターから『叩け太鼓』で流行歌手としてデビュー。
小磯 良平(こいそ りょうへい、1903年<明治36年>7月… 小磯 良平(こいそ りょうへい、1903年<明治36年>7月25日 - 1988年<昭和63年>12月16日)は、日本の昭和期に活躍した洋画家である。 肖像画、特に群像を多く手がけたことで知られる。 1903年(明治36年)、旧三田藩の旧家で貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として、神戸市神戸(現在の中央区)の中山手通に生まれた。兵庫県立第二神戸中学校(現在の兵庫県立兵庫高等学校)では竹中郁と同級で、生涯の親友だった。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に進み、猪熊弦一郎・岡田謙三・荻須高徳らの同級生と画架を並べる。在学中の1925年(大正14年)に親戚の小磯吉人の養子となり改姓し、同年「兄妹」が帝展入選、1926年(大正15年)「T嬢の像」が帝展特選を果たす。
江口 夜詩(えぐち よし、1903年7月1日 - 1978年… 江口 夜詩(えぐち よし、1903年7月1日 - 1978年12月8日)は、日本の作曲家、海軍軍人。海軍軍楽隊員。本名江口 源吾(えぐち げんご)。 岐阜県養老郡時村大字上(現・岐阜県大垣市上石津町上)出身。16歳の時、海軍軍楽隊に応募し、第一期軍楽補習生として横須賀海兵団に入団。海軍軍楽隊専属の作曲家としての将来を嘱望され、海軍省委託生として東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に6年間通学し、信時潔の許などでチェロ等の音楽を学び、1925年(大正14年)、処女作『千代田城を仰ぎて』を完成させる。また1928年(昭和3年)には昭和天皇即位大典演奏会で吹奏楽大序曲『挙国の歓喜』を発表した。 1931年(昭和6年)に海軍を退役し、翌年、亡妻をしのんで作曲した『忘られぬ花』が松平晃(レコードでは池上利夫)の歌唱により大ヒット。
ベルトラメリ 能子(ベルトラメリ よしこ、1903年4月1日… ベルトラメリ 能子(ベルトラメリ よしこ、1903年4月1日 - 1973年8月2日)は、日本の声楽家・ソプラノ歌手。旧姓は鐵(てつ)。 1903年(明治36年)4月1日に鉄信夫、こん夫妻の長女として生まれた。生家の鉄家は茨城県多賀郡大津町(現・北茨城市)で遠洋漁業と缶詰製造業を営む旧家であり、能子の祖父鉄伝七は茨城県議(2期)、第19代茨城県会議長を務めた。日露戦争後に鉄家は家業の水産業を東京の水産会社に譲渡し、一家で東京に移った。 8歳頃から東京で育つ。1917年(大正6年)4月に東京音楽学校(現東京芸術大学)乙種師範科に入学し、1918年(大正7年)3月に卒業。引き続き東京女子音楽園で学んだのち、高輪尋常小学校で教師をしながら矢野寿美子、山田耕筰、米国人女性バーカーに師事し、アドルフォ・サルコリにベルカント唱法を学んだ。
塚本 茂(つかもと しげる、1903年〈明治36年〉3月14… 塚本 茂(つかもと しげる、1903年〈明治36年〉3月14日 - 1983年〈昭和58年〉1月25日)は、昭和期の洋画家である。 1903年(明治36年)、群馬県多野郡美土里村(現・藤岡市)に生まれる。旧制前橋中学校に学び、雑誌で見た中村彝「エロシェンコ氏の像」に感動し、美術教師・曽根末次郎の影響もあり画家を志す。東京美術学校図画師範科に入学し、藤島武二に教えを受け、学外で中村彝、牧野虎雄にも師事する。在学中の1924年(大正13年)に第5回帝展に『緑蔭』を出品し初入選する。1925年(大正14年)同校を卒業。 卒業後は神奈川県立湘南中学校(現・湘南高等学校)教諭となり、1946年(昭和21年)まで勤務。
藪下 泰司(やぶした たいじ、男性、1903年2月1日 - … 藪下 泰司(やぶした たいじ、男性、1903年2月1日 - 1986年7月15日)は、記録映画の撮影、日本のアニメーション映画監督・演出・企画、アニメーション制作の教育者。大阪府北河内郡四条村(現 大東市)生まれ。東京美術学校写真科卒業。略字の薮下、本名の藪下 泰次と表記することも多い。代表作に『白蛇伝』等がある。映画監督の高橋玄は孫。 東京美術学校写真科卒業後、1925年松竹株式会社撮影所現像部を経て、1927年文部省社会教育局で映画製作設備を創設。そこでツェッペリン号飛来時の無声記録短編映画等を代表とする、文化・記録映画製作を約40本ほど担当し、記録映画畑を歩む。 戦時体制が解けた後の1947年、山本善次郎が設立する日本動画株式会社(1948年1月創立)で、初めてアニメーション作品の制作に参加。
山口 長男(やまぐち たけお、1902年11月23日 - 1… 山口 長男(やまぐち たけお、1902年11月23日 - 1983年4月27日)は、洋画家。日本の抽象絵画の先駆者である。武蔵野美術学園長を務めた。 京城府(現・韓国ソウル)出身。1921年に19歳で日本に来るまでを京城ですごした。 本郷洋画研究所で岡田三郎助に学び、20歳になった1922年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。1927年、同校卒業と共に渡仏。フランスではパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、それに当時渡仏中だった佐伯祐三にも刺激を受ける。また、彫刻家のオシップ・ザッキンのアトリエにも出入りし、立体的な造形をも習得に努めた。戦後、二科展の再結成にあたり会員として参加し、1962年まで二科展1953年、日本アブストラクト・アート・クラブの創立に参加し、1954年に会員としてニューヨークでのアメリカ抽象美術展に出品。
平井 美奈子(ひらい みなこ、1902年(明治35年)3月3… 平井 美奈子(ひらい みなこ、1902年(明治35年)3月31日 - 2004年(平成16年)3月3日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、歌手、童謡歌手、音楽教育者。 旧姓:早川(はやかわ) 実業家、早川鉄冶の子として東京に生まれる。6歳から山田流箏曲を山木派の須藤春賀に学ぶ。1919年(大正8年)青山女学院卒業。東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)でハンカ・シェルデルップ・ペツォルトとマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事し、1923年(大正12年)同校本科声楽部卒業。1925年(大正14年)同校研究科声楽部修了。1925年8月函館市で本居長世・みどり・貴美子、吉田晴風、早川美奈子による演奏。
梁川 剛一(やながわ ごういち、1902年(明治35年)3月… 梁川 剛一(やながわ ごういち、1902年(明治35年)3月30日 - 1986年(昭和61年)4月26日)は、北海道函館出身の画家・彫刻家。東京美術学校を首席で卒業、戦前から少年倶楽部をはじめとする児童雑誌や絵本などの挿絵画家として活躍。彫刻家としても、函館市の高田屋嘉兵衛像や長崎市グラバー園の三浦環(蝶々夫人)像などの作品を制作した。また、日本出版美術家連盟の設立にも加わった。 1902年、北海道函館区で梁川亀太郎、ヨコの長男として生まれ、生後すぐ亀太郎の兄・鶴松の養子となる。14歳のとき父親の転勤に伴い札幌へ移り、北海中学に入学する。北海中学では応援団に入ったほか、「団栗(どんぐり)会」という美術部で本郷新らと絵を描いていた。
冨澤 有爲男(とみさわ/とみざわ ういお、1902年3月29… 冨澤 有爲男(とみさわ/とみざわ ういお、1902年3月29日 - 1970年1月15日)は、日本の作家、画家。 大分県大分市生まれ。父・冨澤久蔵は中学校の英語教師をしており、転勤の都合により全国に移り住む。やがて幼年期より名古屋市で過ごす。旧制東海中学校卒業。東京美術学校に進学して絵画だけでなく文学についても学ぶが1年で中退し、漫画記者として新愛知新聞(現在の中日新聞)に入社する。 1921年より2年連続で帝展に入選し、1927年にはフランスへ1年間留学し絵画を学んだが、その側で作家としての活動も行い1925年に同人誌『鷲の巣』を創刊している。1930年に結婚し、東京市牛込区天神町(当時)へ移住すると、次第に作家としての活躍が認められるようになり、1936年8月に発表した『地中海』で翌1937年2月に芥川賞を受賞した。
沖 不可止(おき ふかし、1902年3月6日 - 1976年… 沖 不可止(おき ふかし、1902年3月6日 - 1976年3月15日または3月31日)は、日本の昭和期の作曲家、指揮者、チェロ奏者。東京府出身。ハインリヒ・ヴェルクマイスターと信時潔に師事し、1926年(大正15年)3月に東京音楽学校本科器楽部チェロ専攻を卒業。妻は日本舞踊家の藤蔭絃枝(2代目藤蔭静枝、本名:沖カツ子)。数多くの学校の校歌を作曲している。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
丹治 伊三郎(たんじ いさぶろう、1902年1月7日 - 1… 丹治 伊三郎(たんじ いさぶろう、1902年1月7日 - 1981年)は、日本の画家。洋画家。 印象派の技巧を取り入れた画風を確立、主に関西画壇で活動した。 1902年(明治35年)大阪府堺市に生まれる。旧制堺中学校(現大阪府立三国ヶ丘高等学校)を卒業後、東京美術学校洋画科に入学して岡田三郎助に師事。1926年(大正15年)同校を卒業、一陽会に入会して創作活動を続ける。後に神戸山手女子短期大学教授。
山本 茂斗萌(やまもと もとめ、1902年 - 1985年)… 山本 茂斗萌(やまもと もとめ、1902年 - 1985年)は東京生れの日本画家。本名は求。 1902年東京生まれ。東京美術学校日本画本科次席卒。1928年より旧制兵庫県立柏原中学校(現兵庫県立柏原高等学校)にて美術教師として勤務。1962年に定年退職するまで一度も異動がなかった。1935年、日本画家堂本印象の画塾東丘社に入塾。1936年、34歳の時に「小憩」で日展初入選。丹波市内に作品を多く残し、兵庫県立柏原高等学校、兵庫県立氷上西高等学校の校章デザインも手がけた。堂本印象のほか、三木翠山にも師事した。1985年逝去。
関谷 陽(せきや たかし、1902年(明治35年)- 198… 関谷 陽(せきや たかし、1902年(明治35年)- 1988年(昭和63年)2月6日)は、昭和時代の洋画家。大正-昭和時代に活躍した日本画家の関谷雲崖の長男。 1902年(明治35年)栃木県那須郡両郷村富貴田(現:栃木県大田原市河原)に生まれる。東京美術学校西洋画科卒業。1930年代従軍画家として中国へ赴く。妻は同じく画家で従兄弟である関谷富貴(せきや ふき、1903-1969)。晩年まで東京都世田谷区松原に暮らす。二科会に属した。 陽は「たかし」と読むが、作品の署名は「YO」としていた。
福宿 光雄(ふすき みつお、1901年12月28日 - 19… 福宿 光雄(ふすき みつお、1901年12月28日 - 1970年)は、鹿児島県出身の日本画家。浦和画家のひとり。 日本画は川合玉堂に学び、自らの雅号を一穂と号した。26年間埼玉県立浦和高等学校(浦和中学時代から)に勤務し、以後浦和高校教頭、春日部女子高校校長、久喜高校校長も務め、教育功労者として表彰された。 のちに浦和画家と呼ばれることとなる多くの画家を指導したことで知られており、日展理事長や日本芸術院会員である高田誠、人間国宝の増田三男をはじめ、渡辺武夫、金子徳衛、川村親光、小松崎邦雄、尾上一男、金子仁三郎、小川游、三尾彰藍などを指導した。松岡映丘にも師事し大和画の研究を行い、新興大和画展に発表した。
中尾 蔦一(なかお つたいち、1901年〈明治34年〉12月… 中尾 蔦一(なかお つたいち、1901年〈明治34年〉12月24日 - 1937年〈昭和12年〉9月16日)は、日本の大正から昭和にかけての日本画家。拝石、光林などと号していた。フォークシンガーの高田渡の叔父。 佐賀県鹿島市に生まれた中尾は、東京美術学校日本画科に進学し、日本画家としてデビューした。 根津の下宿に住んでいたとき、隣の部屋に住む高田豊(高田渡の父)と出会ったことをきっかけに、豊の妹と結婚する。 帰郷すると鹿島高等女学校で教師をしながら作品をつくっていたが、病のため35歳で永眠した。 2012年には佐賀県立博物館で、作品やスケッチブック、貴重な資料などが展示された。2016年には佐賀大学美術館で開催された、「佐賀の美術教師たち」ー地方画壇の成立と美術教育者 展で展示される。
荻須 高徳(おぎす たかのり、仏: Takanori Ogu… 荻須 高徳(おぎす たかのり、仏: Takanori Oguiss、1901年11月30日 - 1986年10月14日)は、大正・昭和期の洋画家。愛知県中島郡井長谷村(現在の稲沢市井堀高見町)出身。新制作協会会員。愛知県稲沢市には顕彰美術館として稲沢市荻須記念美術館がある。 1901年(明治34年)11月30日、愛知県中島郡千代田村井堀(現在の稲沢市井堀町)に生まれる。父福次郎、母こうも2男2女の次男。父は代々地主を継ぎ、書画骨董を好む。1908年(明治41年)4月、千代田尋常小学校(現・稲沢市立千代田小学校)に入学、生家に近い井堀分校に通う。すでに絵を描くことに熱中する。1912年(明治45年)、5年生になって本校に通うようになるが、2キロの通学距離は生来の病身に負担が大きく欠席して家で絵を描く日が多くなる。
大須賀 喬(おおすが たかし、1901年8月24日 - 19… 大須賀 喬(おおすが たかし、1901年8月24日 - 1987年7月14日)は、日本の彫金家。帝展・新文展・日展で活動し、日本芸術院賞を受賞した。日展評議員・理事・参事を歴任し、日本金工作家協会会長も務めた。 香川県高松市に生まれる。1919年に高松工芸学校金工科を卒業後、東京美術学校金工科に進み、1925年に卒業した。 1927年、北原千鹿を中心として信田洋、田村泰二、村越道守、山脇洋二らと工人社を創立し、同人となった 1929年、第10回帝展に「壁面花挿」が初入選し、1933年、第14回帝展で「彫金花瓶」により特選を受賞した。。1936年の改組帝展では「仙人掌香盆」が推奨となり、新文展でも「象嵌文壷」「蝶文香盆」などを出品した。
高橋 均(たかはし ひとし、1900年10月20日 - 19… 高橋 均(たかはし ひとし、1900年10月20日 - 1978年2月10日)は、愛媛県出身の音楽評論家、雑誌編集者。 筆名古久 文治、K・T生。父はプロテスタントの牧師高橋鷹藏。16歳頃から信時潔に師事。東京音楽学校においてヴァイオリンを専攻するも2年で中退。また在学中教えを受けた乙骨三郎の知遇を得る。日本プロレタリア音楽家同盟に所属し、1922年(大正11年)日本共産党結党の際、結党式において、翻訳された革命歌インターナショナルの足踏みオルガンを弾き、鉛筆で指揮をしての歌唱指導に参加した。1923年(大正12年)中に信時の斡旋のもとに雑誌『音樂研究』を編集し、5冊を音樂研究社より発行。この頃、大山郁夫の書生となる。
田口 寛(たぐち ゆたか、1900年8月29日 - 1979… 田口 寛(たぐち ゆたか、1900年8月29日 - 1979年)は、昭和時代後期の日本で活動した作曲家、教育者。 1900年(明治33年)、岡山県に生まれる。1928年(昭和3年)に東京音楽学校甲種師範科を卒業した後、1931年(昭和6年)から1949年(昭和24年)まで兵庫県の尼崎市立高等女学校(現在の尼崎市立尼崎高等学校)で音楽教諭を務める。学制改革に伴い兵庫県立尼崎高等学校へ転籍し、同校の校歌を作曲した。 1952年(昭和27年)11月、香川大学学芸学部(のち教育学部)教授に着任。在職中は1954年(昭和29年)1月に制定された「香川県民歌」並びに、岡山・香川両県内の小中学校の校歌を作曲する。
土方 久功(ひじかた ひさかつ、1900年7月13日 - 1… 土方 久功(ひじかた ひさかつ、1900年7月13日 - 1977年1月11日)は、日本の彫刻家・民俗学者。パラオなど広く南洋に取材し、民族学的資料を多く残すとともに、芸術作品のテーマとして作品を残した。 1900年(明治33年)7月13日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。父は陸軍砲兵大佐の土方久路、伯父は伯爵・土方久元、母方の祖父は海軍大将・男爵・柴山矢八、築地小劇場の演出家・土方与志(本名は久敬)はいとこ甥に当たる。 旧制・学習院初等科、同中等科を経て、父の病気退職による経済的理由から1919年(大正8年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科に入学する。三沢寛、林謙三、小室達、岡鹿之助、小泉清、山本丘人らが当時の同学に在籍した。
辻 利平(つじ りへい、1900年4月22日 - 1988年… 辻 利平(つじ りへい、1900年4月22日 - 1988年4月15日)は、日本の洋画家。 明治33年(1900年)、長崎県北松浦郡星鹿村(現・松浦市星鹿町)生まれ。大正11年(1922年)長崎師範学校卒業後に教師となる。その後、大正14年(1925年)に東京美術学校図画師範科に入学、昭和3年(1928年)卒業。大阪で大谷学園に勤務しながら斎藤与里に師事した。 昭和8年(1933年)に第1回東光会展でT氏奨励賞を受賞、第14回帝展で入選。昭和15年(1940年)に東光会会員となる。昭和41年(1966年)に第9回日展で菊華賞受賞、昭和45年(1970年)より日展会員。昭和41年(1966年)から夙川学院短期大学造形美術科主任教授、昭和48年(1973年)名誉教授。
山本 丘人(やまもと きゅうじん、1900年(明治33年)4… 山本 丘人(やまもと きゅうじん、1900年(明治33年)4月15日 - 1986年(昭和61年)2月10日)は、日本画家。文化勲章受章者。本名は山本 正義(やまもと まさよし)。 東京市麻布(現在の東京都港区)に生まれる。府立三中、府立工芸を経て、1924年(大正13年)東京美術学校卒業。その後松岡映丘に師事。 1936年(昭和11年)、文展に出品した『海の微風』が選奨(文部大臣賞に次ぐ賞)を受賞 1944年(昭和19年)東京芸術大学助教授、1947年(昭和22年)女子美術専門学校(現女子美術大学)教授に就任、多数の後進を育てる。1977年(昭和52年)文化勲章受章、文化功労者顕彰。 「到春」 1942年、彩色・絹本・軸(1面)58.0cm×72.5cm「冬岳」 1953年、絹本・彩色・額(1面)55.4cm×71.5cm
南城 一夫(なんじょう かずお、1900年〈明治33年〉3月… 南城 一夫(なんじょう かずお、1900年〈明治33年〉3月29日 - 1986年〈昭和61年〉2月25日)は、日本の画家。花や小動物などをモチーフとして、詩情豊かな作品を描いた。 1900年(明治33年)群馬県前橋市一毛町(現・城東町)に、南城要三郎・ふみの長男として生まれる。群馬師範学校附属小学校を経て、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶ。前橋中学校の同級生に洋画家の横堀角次郎や詩人の萩原恭次郎がいる。 1918年(大正7年)に同校を卒業すると、先輩の俳優・河原侃二のすすめにより岡田三郎助主宰の本郷洋画研究所に入所し絵画を学んだ。ここで岡鹿之助、伊藤廉と知り合う。1920年(大正9年)に東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学。
金澤 庸治(かなざわ ようじ、1900年(明治33年)3月1… 金澤 庸治(かなざわ ようじ、1900年(明治33年)3月15日-1982年(昭和58年))は、日本の建築家、建築教育者。金沢庸治とも表記される。 東京出身。1917年(大正6年)3月に京北実業学校中学校を卒業。1919年4月、東京美術学校図案科第二部予備科に入学(1923年5月に図案科第二部は建築科となる)、1924年3月、建築科の第1回生として卒業。同年、一年志願兵として近衛輜重兵大隊に入隊。1927年4月に東京美術学校の講師となり、1936年1月、助教授に就任、1946年3月に退職 建築設計も平行して手がけ、恩師である岡田信一郎の建築事務所のスタッフを務める。一説には、岡田が設計した黒田記念館(1928年)、明治生命館(1934年)の装飾を担当したとも言われる。
浅野 孟府(あさの もうふ、1900年(明治33年)1月4日… 浅野 孟府(あさの もうふ、1900年(明治33年)1月4日 - 1984年(昭和59年)4月16日)は、日本の彫刻家。東京都渋谷区生まれ。昭和時代初期、前衛美術運動に参加し、活躍したことで知られる。本名は猛夫。東京美術学校(現在の東京芸術大学)塑造科で北村西望に学ぶが中退。1973年(昭和48年)、大阪芸術賞受賞。作品に「レーニン像」「原爆母子像」「テラコッタの馬」「方形婦女」など。連作に「大阪の女」など。
金 文輔(キム・ムンボ、日本語読み: きん ぶんすけ、朝鮮語… 金 文輔(キム・ムンボ、日本語読み: きん ぶんすけ、朝鮮語: 김문보、1900年〈光武3年〉 - 没年不明)は大韓帝国出身のバリトン歌手、作曲家。 大韓帝国大邱郡出身。1918年、京城の徽文義塾(朝鮮語版)卒業後に日本に渡航。1919年、東京音楽学校予科に特別入学。1924年3月、同校本科声楽部を修了。東京音楽学校在学中に船橋榮吉とハンカ・ペツォルトに、修了後にマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事。関東学院の音楽教員となった。作曲家としての作品に『朝鮮樵夫の哀調歌』がある。 ソプラノ歌手であった先妻の吉澤なを(金直子)と結婚。移住の直前に文輔の弟子であった長野県出身の宇田豊子(朝鮮名:金朝美、キム・チョミ)と再婚。
西川 浩(にしかわ ひろし、1900年 - 1951年)は、… 西川 浩(にしかわ ひろし、1900年 - 1951年)は、日本の造園家。東京美術学校(美校)出身。美校では建築家の吉田五十八と同期。卒業後は1924年に開校した東京高等造園学校に第一期生として入学するが、自分の興味のある授業しか受講しないので、落第する。その後、造園家として独立。 その他、鎌倉山松本氏別邸庭園などがある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
長谷 秀雄(はせ ひでお、1900-1986年)日本の彫刻家… 長谷 秀雄(はせ ひでお、1900-1986年)日本の彫刻家。大分県別府市生まれ。 彫刻家 朝倉文夫に師従し、現在の東京藝術大学の前身である東京美術学校(旧制)を修了。 京都西本願寺 大谷尊由の支援を受け、埼玉県蕨市中央三丁目にアトリエを開設。終戦の2年後(昭和22年)には蕨画塾(わらびがじゅく)を開塾、翌年(昭和23年)には埼玉県から各種学校の認可を受けている。芸術家を志す人だけでなく広く一般人を受け入れ、戦後美術の発展に寄与した。 閉校するまでの受講生は約1300名、現在の東京藝術大学にも200名以上の塾生が入学した。東京芸術藝術大学教授の安井 曾太郎は画塾を「芸大分校」と形容している。 随筆集『随筆画窓漫談』には熊本の「とのさん」こと細川護立侯と当時の美術界の面々の日常が記され、歌集『浩然居歌集』の題字も細川侯より寄稿されている。
大友 純(おおとも じゅん、明治32年(1899年)11月2… 大友 純(おおとも じゅん、明治32年(1899年)11月21日 - 昭和53年(1978年)12月28日)は、日本の俳優である。綜芸プロ、テアトロ脚光、ハナブサプロ、東京俳優生活協同組合に所属していた。 1899年(明治32年)11月21日、宮城県仙台市に生まれる。 旧制・東京音楽学校(現在の東京芸術大学)乙種師範科卒業。1923年(大正12年)から1929年(昭和4年)まで、旧制・大阪市立難波高等小学校(現在の大阪市立難波元町小学校)と同じく旧制の群馬県師範学校(のちの群馬師範学校、現在の群馬大学学芸学部)に音楽教師として勤務した。1929年、田谷力三、淡谷のり子らと松竹座チェーンのアトラクションに出演し、以後は歌手兼俳優としてカジノ・フォーリーやムーランルージュ新宿座、榎本健一一座などで活躍した。
山本 豊市(やまもと とよいち、1899年10月19日 - … 山本 豊市(やまもと とよいち、1899年10月19日 - 1987年2月2日)は、彫刻家。東京新宿生まれ。本名は豊。 戸張孤雁に師事。1918年から三年間、太平洋洋画会研究所においてデッサンを学ぶ。1923年~28年フランスに留学。パリのグランド・シュミエールで学んだ後、アリスティド・マイヨールの日本人では唯一の直弟子となり四年間学ぶ。フランスから帰国後、乾漆技法を現代彫刻に生かし独自の作風を展開。 1953年第五回毎日美術賞受賞、同年東京芸術大学教授に就任。1957年芸術選奨文部大臣賞受賞。1983年文化功労者。叙正四位、勲二等瑞宝章追贈。
村井 満寿(むらい ます、1899年〈明治32年〉10月13… 村井 満寿(むらい ます、1899年〈明治32年〉10月13日 - 1988年〈昭和63年〉9月7日)は、日本のアルト歌手。北海道札幌市の札幌市時計台を題材とした楽曲「時計台の鐘」の歌い手として知られる。同曲の作曲者である高階哲夫は1人目の夫。2人目の夫はバリトン歌手にして日本初の腹話術師でもある澄川久(本名:村井武雄)であり、後夫との子にクラリネット奏者の村井祐児がいる。納豆の研究で知られる農学者の半澤洵は母方の叔父にあたる。 北海道札幌区(後の札幌市)で誕生した。旧姓は相沢。幼少時に、教会の宣教師の賛美歌に感銘を受けて、音楽の道を志した。また自宅の窓からは時計台が針まではっきりと見え、時計台に馴染んで少女期を送った。
兎束 武雄(うづか たけお、1899年(明治32年)10月6… 兎束 武雄(うづか たけお、1899年(明治32年)10月6日 - 1969年(昭和44年)9月18日)日本の音楽家、教育者。バイオリニストで元東京芸術大学教授の兎束龍夫は実弟。 長野県上田市松尾町の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれる。1912年(大正元年)3月上田尋常小学校卒業。1919年(大正8年)3月旧制東京芝高輪中学校卒業、4月旧制青山学院入学。在学中に東京楽器研究所入所(山田耕筰主宰)セロ科3年修了。その後も山田耕筰のもとで学ぶ。東洋音楽学校(現東京音楽大学)中退。 1921年(大正10年)志願兵として高田輜重大隊入隊。1922年(大正11年)関東大震災で山田耕筰のオーケストラが解散となり上田へ帰郷。
三井 義夫(みつい よしお、1899年9月22日 - 195… 三井 義夫(みつい よしお、1899年9月22日 - 1959年1月2日)は、日本の彫金家。号は為楽。帝展・新文展・日展で活動し、日本芸術院賞を受賞した。 東京府東京市中根岸に生まれる。初め彫金家土田勝業に学び、のち海野家の門をたたき、さらに海野清に師事した。 東京美術学校金工科選科彫金部に学び、1928年に卒業した。 1927年、第8回帝展に「楽園之図手箱」が入選し、以後も帝展・新文展などに継続して出品した。 昭和初期から戦後にかけて彫金界で活動し、工芸諸展にも作品を発表した。1956年、第11回日展出品作「彫金象嵌花器」により日本芸術院賞を受賞した。 また、光風会工芸部会員としても活動した。
関 鑑子(せき あきこ、1899年(明治32年)9月8日 -… 関 鑑子(せき あきこ、1899年(明治32年)9月8日 - 1973年(昭和48年)5月2日)は、日本の声楽家、音楽教育者、音楽評論家。プロレタリア音楽同盟の委員長に選ばれ、「アカイ歌手」と騒がれた。 第二次世界大戦後、日本共産党員として同党の文化政策に基づく実践活動を行い、国内外において、日本のうたごえ運動の創始者と見なされるようになった。 父 関厳(美術評論家。雅号 "関如来")、母 トヨの長女として、東京都本郷区龍岡町(当時)に生まれる。弟に関忠亮。関家は代々郡山藩の江戸詰め御典医の家系で、読売新聞の美術担当だった父親は美術評論の草分けであり、鑑子が生まれた時はパリ万国博覧会 (1900年)へ出品する美術品の鑑定官をしていたことから、娘の名に「鑑」の字をつけ、秋生まれであったことから「アキ」と読ませた。
小室 達(こむろ とおる、1899年〈明治32年〉8月10日… 小室 達(こむろ とおる、1899年〈明治32年〉8月10日 - 1953年〈昭和28年〉6月18日)は、日本の彫刻家。 1899年(明治32年)8月10日、宮城県柴田郡槻木村大字入間田(現・柴田町)に、小室源吾(後の槻木町長)の三男として生まれた。 1919年(大正8年)、(旧制)白石中学校(現・宮城県白石高等学校)を卒業すると、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科塑造部に進学した。その後、同校を首席で卒業し、研究科に進んだ。 第4回帝展(帝国美術院展覧会、現日展)に「想」を初出品すると、第5回帝展からは無鑑査となり、27歳ながら日本美術界での地位を確立した。第6回の帝展には「構想」を出品し、特選となった。
伊藤 熹朔(いとう きさく、1899年8月1日 - 1967… 伊藤 熹朔(いとう きさく、1899年8月1日 - 1967年3月31日)は、日本の舞台美術家、美術監督である。伊藤熹朔賞に名を残す。 1899年(明治32年)8月1日、東京市神田区(現東京都神田)三崎町に建築家伊藤為吉の四男として生まれる。兄に舞踊家の伊藤道郎、弟に演劇人の千田是也、妹暢子はのちに画家の中川一政を夫とした。 旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学、在学中から土方与志の模型舞台研究所に参加した。1923年(大正12年)に同校を卒業し、1924年(大正13年)、『ジュリアス・シーザー』の装置で舞台美術家としてデビューする。その後、築地小劇場、分裂後の劇団築地小劇場、築地座、新協劇団などの舞台美術を手がけ、舞台美術の先駆者となる。
林 謙三(はやし けんぞう、1899年5月1日 - 1976… 林 謙三(はやし けんぞう、1899年5月1日 - 1976年6月9日)は、日本の音楽研究者、彫刻家。 雅楽の古い楽譜の解読や、正倉院の楽器や伎楽面、東アジアの伝統音楽の研究で知られる。 林謙三は大阪市に生まれた。本名は長屋謙三。1924年に東京美術学校彫刻科を卒業した。彫刻家として活躍する一方、独学で東洋の伝統音楽を研究した。 設立間もない東洋文庫にて、日本に亡命していた郭沫若と交友関係を結び、最初の著書『隋唐燕楽調研究』は郭沫若によって中国語に翻訳されて上海で出版された。林は郭沫若の胸像を作成した。 戦後、正倉院の古楽器の研究、復元を行い、1949年に朝日賞を受賞した。1951年から奈良学芸大学の教授をつとめた。
深沢 省三(ふかざわ しょうぞう、1899年(明治32年)3… 深沢 省三(ふかざわ しょうぞう、1899年(明治32年)3月24日 - 1992年(平成4年)3月24日)は、日本の洋画家、童画家。岩手県内の美術教育にも尽力した。
宮原 禎次(みやはら ていじ、1899年3月8日 - 197… 宮原 禎次(みやはら ていじ、1899年3月8日 - 1976年1月21日)は、日本の作曲家。岡山県出身。 岡山師範学校、東京音楽学校師範科卒業し、岡山師範学校に勤務。山田耕筰、エルウィン・クリストフ、アドルフ・シュルツに師事する。 1934年国立音楽学校作曲科教授、1937年より神戸女学院教授、1954年から1976年まで武庫川女子大学音楽学部教授を歴任。 実弟・宮原康郎と共に、「国民歌謡」(1936年 - 1941年)の作曲にも寄与した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
香取 正彦(かとり まさひこ、1899年〈明治32年〉1月1… 香取 正彦(かとり まさひこ、1899年〈明治32年〉1月15日 - 1988年〈昭和63年〉11月19日)は、日本の鋳金工芸作家。梵鐘分野で重要無形文化財保持者(人間国宝)。父は鋳金工芸作家の香取秀真。 1899年(明治32年)1月15日、東京市小石川区に生まれた。父は鋳金工芸作家の香取秀真であり、正彦は長男だった。まもなく両親の出身地である佐倉(現・千葉県佐倉市)へ移り、幼少期を佐倉で過ごした。 1916年(大正5年)から1920年(大正9年)には太平洋画会研究所で洋画を学んだ。1920年(大正9年)には東京美術学校(現・東京藝術大学)鋳造科に入学し、主任教授である津田信夫の指導を受けた。製作にあたっては古典研究を基礎としている。
安倍 栄作(あべ えいさく、1899年 - 1983年6月2… 安倍 栄作(あべ えいさく、1899年 - 1983年6月27日)は、山形県出身の日本の洋画家。 東田川郡藤島村(現・鶴岡市)に生まれる。生家は高橋家で、鶴岡の安倍家の家督を継いだ。山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)に進学し、東京美術学校日本画科出身の美術教員・小貫博堂に指導を受けた。東京美術学校図画師範科に進学・卒業後、北海道庁立函館高等女学校(現・北海道函館西高等学校)教員となる。その後、郷里に近い山形県立鶴岡高等女学校(現・山形県立鶴岡北高等学校)の教員に転じた。 画家としては、太平洋美術会、槐樹社、地元鶴岡の美術団体である白甕社に所属。「バラの画家」の異名もあった。
大内 青圃(おおうち せいほ、1898年12月12日 - 1… 大内 青圃(おおうち せいほ、1898年12月12日 - 1981年2月21日)は、日本の仏師、彫刻家、日本芸術院会員。本名は正。兄は洋画家の大内青坡。 仏教学者大内青巒の子として東京府麻布区に生まれる。 1922年、東京美術学校彫刻科卒業。在学中は、高村光雲に木彫を学び、水谷鉄也に塑造を学んだ。1927年、日本美術院同人。1936年以降は、帝展や文展に出品し、戦後は日展や院展を中心に出品した。ただし、日展が社団法人になった後は出品していない。 1933年、世田谷区で薬の製造販売をしていた久保川貞節氏が、渋谷で有名だった秋田犬ハチ公に感銘を受け、故上野英三郎教授の内縁の妻八重子氏と、吉川忠一渋谷駅長の許可を得、ハチ公の木像制作を大内に依頼。
ジェームス・ダン(James Dun, 日本名・壇治衛、18… ジェームス・ダン(James Dun, 日本名・壇治衛、1898年11月29日 - 1950年4月2日)は、日本で活動した音楽家・ピアニスト。明治期のお雇い外国人で後に駐日米国公使を務めたエドウィン・ダンの次男。幼少期を直江津で過ごし、在学した直江津小学校の校歌を後に作曲した。ジェームスが選定した「ベヒシュタイン」のピアノが今でも同校に残されている。 エドウィン・ダン、中平ヤマ(後妻)夫妻の次男として生まれる。四人兄弟で、兄のエドウィン・ダン・ジュニアも音楽家。 1897年(明治30年)に駐日米国公使を辞任した父・エドウィンは、その後も引き続き日本の発展のために貢献したいと考え、当時の新潟県の石油ブームに着眼し、直江津に石油精製工場を造る。
鎌倉 芳太郎(かまくら よしたろう、1898年(明治31年)… 鎌倉 芳太郎(かまくら よしたろう、1898年(明治31年)10月19日 - 1983年(昭和58年)8月3日)は、日本の染織家、沖縄文化研究者。 美術教師として赴任した沖縄県で、琉球王国時代からの沖縄独特の芸術や文化に心を奪われその研究を開始。染織家としては沖縄伝統の染織技法である紅型の技術を継承し、重要無形文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)に認定された一方、第二次世界大戦前に沖縄の文化財を調査し、その時に遺した数々の写真やメモは、後に1945年(昭和20年)の沖縄戦で壊滅に瀕した沖縄文化の保存や復旧に大きく役立った。戦後の首里城再建も鎌倉の資料に負うところが大きく、彼の評伝を著した与那原恵は、鎌倉を「琉球文化全般の最高のフィールドワーカー」と評している。
佐分 眞(さぶり まこと、1898年(明治31年)10月8日… 佐分 眞(さぶり まこと、1898年(明治31年)10月8日 - 1936年(昭和11年)4月23日)は、大正期昭和期に活躍した日本の洋画家。レンブラントの影響を受け写実主義に傾倒した堅実な画風を築いた。 愛知県名古屋市西区園井町(現・中区錦)に、資産家で第6代一宮町長の佐分慎一郎の庶子として生まれる。母・田中たまは元芸者で、佐分との結婚前に有栖川宮熾仁親王との間にイクという名の娘をもうけていた。叔父・田中徳次郎は中部電力の前身会社を興す。愛知県立第一中学校在学中の1914年、複雑な家庭事情に悩み、自殺しようと家出するも三浦三崎で見つかる。 1915年に上京して郁文館中学校に転校、また川端画学校夜間部でも学ぶ。