近藤 哲雄(こんどう てつお、1975年 5月15日- )は… 近藤 哲雄(こんどう てつお、1975年 5月15日- )は、日本の建築家。(株)近藤哲雄建築設計事務所主宰。 「建築、アートがつくりだす新しい環境-これからの"感じ"」展の中の 特別展示(期間は2011年12月24日-2012年3月22日)として クラウドスケープ トランスゾーラー+近藤哲雄
名古屋工業大学:20人
近藤 哲雄(こんどう てつお、1975年 5月15日- )は… 近藤 哲雄(こんどう てつお、1975年 5月15日- )は、日本の建築家。(株)近藤哲雄建築設計事務所主宰。 「建築、アートがつくりだす新しい環境-これからの"感じ"」展の中の 特別展示(期間は2011年12月24日-2012年3月22日)として クラウドスケープ トランスゾーラー+近藤哲雄
北川 啓介(きたがわ けいすけ、KEISUKE KITAGA… 北川 啓介(きたがわ けいすけ、KEISUKE KITAGAWA、1974年 - )は、愛知県出身の建築家、建築学者。名古屋工業大学大学院教授。専門は、建築意匠、建築設計、現代建築論、情報空間論、防災工学。
鳥居 徳敏(とりい とくとし、1947年3月25日 - )は… 鳥居 徳敏(とりい とくとし、1947年3月25日 - )は、日本の建築家、作家。神奈川大学名誉教授。 愛知県豊川市生まれ、静岡県浜松市育ち。静岡県立浜松工業高等学校 建築科、そして、名古屋工業大学工学部建築学科卒業後、1973年から84年までスペイン、マドリード工科大学にて建築史を専攻した。工学博士。 スペインの建築、特にガウディの建築を研究しており、研究成果をいくつか発表した。なかでも、1983年にスペイン国費で刊行された『ガウディの謎に満ちた世界』は、サクラダ・ファミリア聖堂の建築家や模型職人たちの基礎資料となっている。その後、KMG建築事務所設立に参画した。ザンビアに10年以上在住している[要出典]。
田中 孝典(たなか たかのり、1946年 - )は、日本の建… 田中 孝典(たなか たかのり、1946年 - )は、日本の建築家。株式会社山下設計執行役員から現在同社代表。同社では主に海外の無償資金協力案件の業務を担当していた。三重県松阪市生まれ。 1970年、名古屋工業大学工学部建築学科卒業。同年から株式会社山下設計。1979年12月まで、東京支社建築設計部。1980年1月から1989年10月まで海外業務室、1989年11月から2000年11月まで国際プロジェクト部部長 。2000年12月から2003年11月まで執行役員。2003年12月から取締役常務執行役員。1977年、バグダッド放送局国際コンペティション当選。1986年にエジプト放送局プロポーザル当選。
岡本 賢(おかもと まさる、1939年2月23日 - )は、… 岡本 賢(おかもと まさる、1939年2月23日 - )は、日本の建築家。元久米設計代表取締役社長。日本建築美術工芸協会会長。 東京都生まれ。1964年名古屋工業大学建築学科卒業、久米建築事務所(現久米設計)入社。1999年同社代表取締役社長。2006年社団法人東京都建築士事務所協会副会長。2007年社長定年68歳の内規により久米設計代表取締役会長。2014年一般社団法人日本建築美術協会会長。岡本賢設計室を開設し、久米設計特別顧問、光鯱会会長、久米・早川建築関連業務共同企業体特別顧問、東京都建築賞選考委員、高校生けんちくコンテスト審査委員長、AACA賞・芦原義信賞選考委員等も歴任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
黒川 雅之(くろかわ まさゆき、1937年4月4日 - )は… 黒川 雅之(くろかわ まさゆき、1937年4月4日 - )は、愛知県名古屋市生まれの建築家・プロダクトデザイナー(金沢美術工芸大学博士)。日本建築学会会員。日本建築家協会会員。株式会社黒川雅之建築設計事務所主宰。株式会社デザイントープ主宰。
城戸 久(きど ひさし、1908年〈明治41年〉6月16日 … 城戸 久(きど ひさし、1908年〈明治41年〉6月16日 - 1979年〈昭和54年〉10月30日)は、日本の建築学者。名古屋工業大学名誉教授。日本建築史の専門家として、多くの城の再建に携わったことで知られる。建築家の城戸武男は兄。 三重県阿山郡上野町(現・伊賀市)の生まれ。旧制三重県立上野中学校をへて、1929年名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)建築学科卒。 1934年名高工助教授、1942年教授、戦後学制改革により名古屋工業大学教授に就任。 1949年、「近世日本城廓建築に関する基礎的研究」により京都大学から工学博士を授与。1969年2月、名工大学長代行に就任するが、学内の大学紛争の影響で同年9月に辞任。
黒川 巳喜(くろかわ みき、1905年(明治38年)3月 -… 黒川 巳喜(くろかわ みき、1905年(明治38年)3月 - 1994年(平成6年)1月2日)は、愛知県海部郡蟹江町出身の建築家。愛知県総務部営繕課に勤務した後に独立して黒川建築事務所を設立し、公共建築を多く手掛けた。建築家の黒川紀章と黒川雅之と黒川喜洋彦は息子。 1905年(明治38年)3月、愛知県海部郡蟹江町蟹江新田に生まれた。1924年(大正13年)、旧制私立東海中学校を卒業した。 1927年(昭和2年)3月には名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)建築科を卒業。卒業設計は「或美術協会」の洋画自由研究所である。卒業後には愛知県総務部営繕課の建築助手となった。昭和塾堂(1929年)の設計主任は足立武郎であり、実施設計は黒川が担当した。
泰井 武(やすい たけし、1901年 - 1997年)は、日… 泰井 武(やすい たけし、1901年 - 1997年)は、日本の建築家。泰井の作品については実績で詳らかなものは少ないが、広く知られているものに駿府城跡に立地する静岡県庁舎本館(1937、登録文化財)が挙げられている。1934年(昭和9年)の静岡県庁舎懸賞設計競技に当選したものであるが、実施設計は静岡県営繕課の中村與資平・大村巳代治らによっておこなわれた。 名古屋高等工業学校の出身で、卒業後は東京市臨時建築局学校建設課に勤務。大正15年(1926)開催の神奈川県庁舎懸賞設計に応募し、三等二席に入選。1927年(昭和2年には西村好時が所属する第一銀行に勤め、西村の独立とともに西村設計事務所に移った。
城戸 武男(きど たけお、1899年〈明治32年〉4月29日… 城戸 武男(きど たけお、1899年〈明治32年〉4月29日 - 1980年〈昭和55年〉5月5日)は、日本の建築家。戦前は表現主義やスパニッシュ風の作品を多く手がけ、戦後は機能主義建築と和風建築で秀作を残す。建築史家の城戸久は弟。 1899年(明治32年)4月29日、三重県阿山郡上野町(現・伊賀市)字忍町12番屋敷に生まれた。城戸操の長男である。 三重県立第三中学校(現・三重県立上野高等学校)を経て、1920年(大正9年)3月に名古屋高等工業学校建築科(現・名古屋工業大学)を卒業した。教授の鈴木禎次に直接薫陶を受け、それが制作への強い源泉になったと回顧している。 卒業後は合名会社竹中工務店に入社し、1920年(大正9年)から1923年(大正12年)には本店設計部、1923年(大正12年)から1933年(昭和8年)には名古屋支店に勤務した。
千々岩 助太郎(ちぢいわ すけたろう、1897年 - 199… 千々岩 助太郎(ちぢいわ すけたろう、1897年 - 1991年)は、日本の建築家。建築学者。戦前台湾にわたり、台湾先住民の住居を研究・再現するなどの功績を遺した。台湾時代の教え子に郭茂林らがいる。 佐賀県出身。名古屋高等工業学校建築科を卒業後広島、名古屋、宮崎などの旧制中等工業学校で教鞭をとった。1925年に台湾にわたり、台北州立台北工業学校(現在の国立台北科技大学)建築学科の教員になった。1930年に台湾建築会に入会し、会長の井手薫とともに台湾建築会誌の編集を担当した。1940年2月から1940年5月までは台北州立台北工業学校の第六代校長を務めた。その後1944年から1947年までは台南工業専門学校(現在の台湾国立成功大学)建築学科長として教えていた。
権藤 要吉(ごんどう ようきち、1895年(明治28年)- … 権藤 要吉(ごんどう ようきち、1895年(明治28年)- 1970年(昭和45年))は、日本の建築家。朝香宮邸(東京都庭園美術館)の設計者として知られる。 福岡県筑紫郡三宅村(現・福岡市南区)で権藤伊兵衛の長男として生まれる。福岡県立福岡工業学校(現・福岡県立福岡工業高等学校)建築科から名古屋高等工業学校に進学。1916年(大正5年)同校建築科を銀時計授与され優等で卒業した。 卒業同年、住友総本店営繕課建築係に入り、竹腰健造に師事。 1921年(大正10年)から学校側の推薦により住友を辞し、内匠寮技手として宮内省に勤務。高橋貞太郎の下で東伏見宮邸(大正13年)を手がける。これはのちの宮邸平面計画の原型となる。
松田 軍平(まつだ ぐんぺい 1894年 - 1981年)は… 松田 軍平(まつだ ぐんぺい 1894年 - 1981年)は、日本の建築家。松田平田設計の創始者。福岡県鞍手郡直方町(現・直方市)生まれ。 兄・松田昌平は旧門司三井倶楽部の設計者で知られる建築家。父の武一郎は鉱山技師。福岡工業学校から名古屋高等工業学校に進学し卒業後、清水組設計部に勤務。1921年に渡米し、コーネル大学で建築学を学ぶ。コーネル大学を卒業してアメリカの建築設計事務所、トローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所(英語版)で修行。三井本館監理副主任に就任。三井銀行の本店と支店を担当した。 1931年(昭和6年)赤坂の地に兄と松田事務所を開設し、1942年にはコーネル大学卒業の藤井羊三、平田重雄を迎え、株式会社松田平田設計に発展、日本におけるパートナーシップにより運営される組織系建築設計事務所の草分け的存在となる。
松田 昌平(まつだ しょうへい、1889年 - 1976年)… 松田 昌平(まつだ しょうへい、1889年 - 1976年)は、日本の建築家。松田軍平の兄。福岡市を中心に多くの作品を手がけた。 日本建築士会連合会の副会長や福岡県建築士会会長も務め、1968年(昭和43年)からは九州共立大学工学部の教授も務めた。 名古屋高等工業学校建築科の出身で、卒業後は南満州鉄道株式会社建築課に勤務した後、日本ゴム(現アサヒシューズ)嘱託、その後福岡市嘱託。 1931年(昭和6年)には松田建築設計事務所を構える。 主要作品には北九州市旧門司三井倶楽部(1921年、国重要文化財、近代化産業遺産)や杤木ビル(1920年、日本遺産)、旧日本足袋久留米第三工場(現アサヒコーポレーション第三工場、1930年)などが挙げられる。
中村 順平(なかむら じゅんぺい、1887年8月29日 - … 中村 順平(なかむら じゅんぺい、1887年8月29日 - 1977年5月24日)は日本の建築家。建築教育者。 大阪府大阪市生まれ。三男二女の末子。旧制天王寺中学(現・大阪府立天王寺高等学校)に進学。同校を経て、1910年に名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)を卒業。曾禰達蔵・中條精一郎の曾禰中條建築事務所に入所する。1910年12月から大阪高槻工兵第四大隊第一中隊入営。1914年には東京大正博覧会第一会場の設計を委ねられ、また1919年には一ツ橋如水会館の設計を担当。1920年に、岩崎財団の助成をうけ、フランスに渡る。1921年、エコール・デ・ボザールに、33歳にして留学。クロモール&エクスペールのアトリエに所属。
辻岡 通(つじおか とおる、1886年 - 1955年)は、… 辻岡 通(つじおか とおる、1886年 - 1955年)は、日本の建築家。台湾総督府を経て、建築設計事務所を東京に構えていたが、地元福井市内でも設計活動を継続していたとみられる。福井市の出身。 1908年、名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)卒業。建築科の第一期生である。 作品については記録の詳細は詳らかではないが、主要作品として東京都にあったI邸(1936年頃、旧名:市橋医院)、福井市役所三代目庁舎や公会堂(1933年、現存せず)、福井銀行本店(1936年竣工)福井城三の丸跡に立地する旧福井信託銀行(現三井住友信託銀行福井支店、1934年)が確認されている。とくに信託銀行は装飾を抑えた直線的デザインが特徴で多くの近代建築が倒壊した1948年の福井地震でも被災を免れたという歴史とともに、貴重な作品として評価がなされている。
李 醺雨(り くんう、イ・フヌ、이 훈우、1886年 - 1… 李 醺雨(り くんう、イ・フヌ、이 훈우、1886年 - 1937年)は、朝鮮の建築家。 1886年、慶尚南道河東郡に李鍾亀の3男として生まれた。日本で留学し、1908年4月、名古屋高等工業学校建築科に入学し、1911年3月に卒業した。1917年12月31日、朝鮮総督府総督官房土木局営繕課の技手に任じられ、朝鮮総督府の景福宮新庁舎の建築過程に職員として参加した。 1920年、総督府技手を辞職し、李醺雨建築工務所を開業した。これは、朝鮮人により設立された建築事務所の中で最も早い例とされる。
小林 利助(こばやし りすけ、? - 1970年)は日本の建… 小林 利助(こばやし りすけ、? - 1970年)は日本の建築家。竹中工務店で活動。 長野県飯田市出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1919年名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)卒業、竹中工務店入社。1939年東京支店設計部長。1949年取締役。
大賀 隆(おおが たかし)は、日本の建築家。 名古屋高等工業… 大賀 隆(おおが たかし)は、日本の建築家。 名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)を卒業。昭和四年朝日新聞社主催朝日住宅図案 : 懸賞中小住宅に参加。 1933年(昭和8年)に完成した朝香宮邸を権藤要吉のもとで担当。 また主任技手として、1926年(大正15年)完成の洋館木造建築である那須御用邸本邸を技師鈴木鎮雄のもとで手がける。 その他、図書寮庁舎、楽部庁舎をそれぞれ権藤要吉、藤田文蔵らのもとで手がけている。
是永 雄(これなが ゆう、生年不詳 - 没年不詳)は、日本の… 是永 雄(これなが ゆう、生年不詳 - 没年不詳)は、日本の建築家。 福岡県に生まれる。1914年福岡県立中学修猷館を経て、1919年3月名古屋高等工業学校(名古屋工業大学の前身)建築科を卒業。 1919年5月南満洲鉄道に入社。鞍山製鉄所工務課設計科に勤務し、1920年6月退社。 1921年4月鈴木禎次の鈴木建築事務所の所員となり、1922年内国貯金銀行金沢支店建築場、1923年内国貯金銀行京都支店建築場、1926年松坂屋臨時建築部に勤務。 1929年福岡県嘱託となり、内務部営繕課に勤務。1932年福岡県営繕技師となり、1932年内務部営繕課、1935年総務部営繕課に勤務。1943年福岡県技師となり、知事官房営繕課に勤務。