田中 敦(たなか あつし、1910年1月8日 - 1998年… 田中 敦(たなか あつし、1910年1月8日 - 1998年10月24日)は、日本の経営者。倉敷紡績社長、会長を務めた。 京都府亀岡市出身。1935年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に三和銀行に入行。1944年4月に倉敷紡績に転じ、1955年6月に取締役に就任し、1959年6月に常務、1962年3月に専務を経て、1964年6月に副社長に就任し、1965年6月に社長に昇格。1979年7月には会長に就任し、1987年6月から相談役を務めた。 1982年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1998年10月24日、心不全のために死去。88歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
平野 順次(ひらの じゅんじ、1909年10月2日 - 19… 平野 順次(ひらの じゅんじ、1909年10月2日 - 1990年9月13日)は、日本の経営者。栗本鐵工所社長を務めた。 和歌山県出身。1933年に京都帝国大学哲学科を卒業し、1939年に栗本鐵工所に入社。1961年5月に取締役に就任し、1966年11月に専務を経て、1967年10月には社長に就任。1981年6月から1985年6月までに会長を務めた。 1990年9月13日、肺炎のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山口 興一(やまぐち おきかず、1909年8月13日 - 2… 山口 興一(やまぐち おきかず、1909年8月13日 - 2008年12月31日)は、日本の実業家。元関西テレビ放送代表取締役社長、元阪急電鉄副社長、元新阪急ホテル監査役、元京都大学蹴球部OBクラブ会長。 1909年、兵庫県神戸市に生まれる。1927年、甲陽中学校(現在の甲陽学院、6回卒)を卒業。その後、旧制山口高等学校を経て京都大学法学部を卒業。同大学では蹴球部に所属し、後にOBクラブ会長を務めた。 関西テレビ放送代表取締役社長、阪急電鉄副社長、新阪急ホテル監査役、阪急ブレーブスオーナー代行などを歴任した。
八幡 次郎(やわた じろう、1909年6月1日 - 1993… 八幡 次郎(やわた じろう、1909年6月1日 - 1993年12月15日)は、日本の実業家。九州朝日放送の社長を務めた。 岩手県出身(一部の文献では東京都出身との記載有り)。1944年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に朝日新聞社に入社し、政治部長、論説委員副主幹、西部本社編集局長、大阪本社編集局長を歴任した。 1971年5月に九州朝日放送に転じ、専務に就任し、1973年5月には社長に昇格。1981年6月には会長に就任。1978年から1980年までは日本民間放送連盟副会長も務めた。 1982年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1993年12月15日、脳梗塞により死去。84歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
南部 知伸(なんぶ とものぶ、1909年4月18日 - 没年… 南部 知伸(なんぶ とものぶ、1909年4月18日 - 没年不明 )は、日本の経営者。 大阪府大阪市出身。1934年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に阪神電気鉄道に入社。1957年4月に阪神百貨店常務に就任し、専務を経て、1963年11月に社長に就任。1983年6月に会長に就任し、1990年6月には相談役に就任。1985年12月には大阪商工会議所副会頭に就任。 1981年11月に勲四等旭日小綬章を受章。
住友 友成(すみとも ともなり、1909年(明治42年)2月… 住友 友成(すみとも ともなり、1909年(明治42年)2月20日 - 1993年(平成5年)6月14日)は、住友家16代当主で、最後の住友本社社長。アララギ派の歌人でもあり、斎藤茂吉、川田順(住友本社の重役)とも交流があった。歌人の雅号は「泉幸吉」。幼名は厚。男爵。 1926年(大正15年)3月2日、父友純が没する。同年3月9日に厚を改め住友吉左衛門を襲名し、5月1日、男爵となる。住友合資社長に就任。以降、住友銀行や住友信託、住友生命、住友倉庫などの取締役に就任する。 1931年(昭和6年)、大阪城天守閣復興(総額150万円)のうち25万円を寄付する。 1933年(昭和8年)、京都帝国大学文学部史学科を卒業。
土倉 冨士雄(どくら ふじお、1908年(明治41年)11月… 土倉 冨士雄(どくら ふじお、1908年(明治41年)11月1日 - 1983年(昭和58年)7月31日)は、日本の実業家。カルピス食品工業元社長・会長。 1908年11月1日、奈良県に生まれる。父は日本統治下の台湾で林業・電力事業等に足跡を残した土倉龍治郎(カーネーションの父とも称される)。 祖父は明治期の林業家で、自由民権運動や大学設立等の教育他、幅広い分野に大きな影響を与えた土倉庄三郎。 成城高等学校を経て(級友に大岡昇平など)、1932年、京都帝国大学経済学部卒業。 1956年、招聘を受けカルピス食品工業入社、調査部長(東亞合成化学工業退社)。1957年、取締役経理部長。1959年、常務。
田中 隆造(たなか たかぞう、1908年5月4日 - 198… 田中 隆造(たなか たかぞう、1908年5月4日 - 1989年3月3日)は、日本の実業家。元阪神電気鉄道社長。元阪神タイガースオーナー。 次弟は、元三菱自動車工業会長の田中利治。 香川県三豊郡和田村(現 観音寺市豊浜町)出身。旧制香川県立三豊中学校、旧制第六高等学校を経て、京都帝国大学法学部法律学科卒業。 1921年(大正10年)三豊中学に入学。在学中は、実技が出来ないにもかかわらず、野球への趣味は相当強いものがあり、少ない対外試合にも熱心に観戦に出掛けていた。当時の野球部長の目に留まり、4年生の時に半ば強制的にマネージャーとなる。同野球部には、第6回全日本都市対抗野球大会優勝投手の木村秀一(全神戸)が在籍していた。
野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1… 野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1992年11月10日)は、日本の鉄道実業家、工学博士。阪神電気鉄道社長を務めた。大阪府大阪市出身。 1908年(明治41年)大阪府生まれ。大阪高等学校 (旧制)を卒業後、京都帝国大学工学部電気工学科に入学し、1930年(昭和5年)に同校を卒業、同年に阪神電気鉄道に入社した。 技術者として、大型新造車の投入、ジェット・カーの開発などの車両の近代化を進めた。1952年5月に取締役に就任し、1957年5月に常務、1965年1月に専務、1967年11月に副社長を経て、1968年(昭和44年)1月12日に社長に就任し、輸送の近代化と乗客サービスの向上に取り組んだ。
平河 一夫(ひらかわ かずお、1908年 <明治41年> 3… 平河 一夫(ひらかわ かずお、1908年 <明治41年> 3月29日 - 1980年 <昭和55年> 9月19日)は、日本の経営者。神奈川県出身。 1932年に京都帝国大学法学部を卒業し、1949年5月に日動火災海上保険に入社。1960年6月に取締役に就任し、1962年6月に常務、1964年1月に専務を経て、1966年2月には社長に就任。1969年5月から1972年6月までに会長を務めた。 19809月19日急性腎不全のために死去。72歳没。
山口 恒則(やまぐち つねのり、1908年3月11日 - 1… 山口 恒則(やまぐち つねのり、1908年3月11日 - 1994年8月12日)は、日本の経営者。四国電力社長、会長を務めた。愛媛県北宇和郡広見町(現在の鬼北町)出身。 1933年に京都帝国大学法学部を卒業し、1936年に伊予鉄道電気に入社。1942年、四国配電(現在の四国電力)に転じる。1961年、取締役に就任し、1964年に常務、1966年に副社長を経て、1974年、社長に就任。1981年、会長に就任し、1988年6月には相談役に就任。経済団体連合会常任理事、四国経済連合会会長、四国旅客鉄道取締役相談役なども歴任。 1994年8月12日心不全のために死去。86歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
三木 敏(みき さとし、1907年〈明治40年〉12月19日… 三木 敏(みき さとし、1907年〈明治40年〉12月19日 - 没年不明)は、日本の実業家。三木興業会長。三木商店合名会社代表社員。ナニワ電球工業監査役。 兵庫県姫路市・牛尾梅吉の二男。祖母・三木みなの養子となり1915年、家督を相続する。1932年、京都帝国大学法学部卒業。野村銀行本店に入り、1936年6月に退社し同年7月に三木商店を設立、代表社員に就任する。 三木政夫の養兄である。趣味は園芸、スポーツ、洋楽。宗教は仏教、真宗。住所は兵庫県武庫郡精道村東芦屋、打出字原田(現・芦屋市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
井上 利行(いのうえ としゆき、1907年9月24日 - 1… 井上 利行(いのうえ としゆき、1907年9月24日 - 1988年11月5日)は、日本の経営者。淀川製鋼所社長、会長を務めた。宮崎県出身。 1934年に京都帝国大学法学部を卒業。京都市役所での勤務を経て、1939年に淀川製鋼所に転じ、1944年に常務に就任し、1957年5月に専務を経て、1962年に副社長に就任し、1969年5月には社長に昇格。1977年6月に相談役に就任。 1988年11月5日肝不全のために死去。81歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
上西 亮二(うえにし りょうじ、1907年8月15日 - 2… 上西 亮二(うえにし りょうじ、1907年8月15日 - 2002年2月27日)は、日本の経営者。島津製作所社長、会長を務めた。滋賀県大津市出身。 1931年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に島津製作所に入社した。1954年に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1971年から社長に就任し、1981年から会長に就任した。1986年から相談役を務めた。 1975年に創業100周年記念を機に島津創業記念資料館を開館し、1980年には島津科学技術振興財団を設立した。 1964年に藍綬褒章を受章し、1977年に勲二等瑞宝章を受章した。 2002年2月27日老衰のために死去。94歳没。
密田 博孝(みつだ ひろたか、1907年 <明治40年> 7… 密田 博孝(みつだ ひろたか、1907年 <明治40年> 7月22日 - 1994年 <平成6年> 10月10日)は、日本の経営者。大協石油 (現在のコスモ石油) 社長、会長を務めた。位階は正四位。 富山県出身。1931年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1953年に取締役に就任し、1957年に大協石油に転じ、専務に就任し、1960年1月には社長に昇格。1975年8月に会長に就任し、1986年4月にはコスモ石油名誉会長に就任し、1988年6月には相談役に退いた。 1967年5月から1969年5月までと1973年5月から1974年5月までに石油連盟会長を2度務めた。 1967年10月に藍綬褒章を受章し、1987年11月に勲二等旭日重光章を受章。
坂口 宏(さかぐち ひろし、明治40年(1907年)7月11… 坂口 宏(さかぐち ひろし、明治40年(1907年)7月11日 - 没年不明)は、日本の実業家。 実業家2代坂口平兵衛の従弟にあたる。 鳥取県米子市出身。坂口武市の長男。 昭和7年(1932年)京都帝国大学法学部卒業。東京芝浦電気入社。昭和20年(1945年)退職、ヤマサ電気工業所創立所長就任。 趣味はスポーツ、住所は米子市西町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
森 曉(もり さとる、1907年(明治40年)6月19日 -… 森 曉(もり さとる、1907年(明治40年)6月19日 - 1982年(昭和57年)2月12日)は、日本の実業家、政治家。昭和電工社長、衆議院議員。衆議院議員の森清・森美秀は弟。三木武夫の妻睦子は妹である。 森コンツェルンの創設者、森矗昶の長男として千葉県に生まれる。東京府立第五中学校、成城高等学校を経て、1934年(昭和9年)京都帝国大学文学部を卒業。昭和電工社長、千葉工業大学理事長などを務めた。1946年(昭和21年)千葉県から第22回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。2期務める。日本自由党、民主自由党に所属した。1948年(昭和23年)11月、昭和電工に関する問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
三浦 秀文(みうら しゅうぶん、1907年4月3日 - 19… 三浦 秀文(みうら しゅうぶん、1907年4月3日 - 1985年2月23日)は、日本の新聞編集者、実業家。元中日新聞社代表取締役社長、共同通信社理事会長。愛知県出身。 1907年(明治40年)、愛知県丹羽郡岩倉町(現在の岩倉市)で三輪陸太郎の三男として出生し、母方の実家を継いで三浦姓となった。1933年(昭和8年)に京都帝国大学法学部を卒業し、新愛知新聞社へ入社する。1942年(昭和17年)に戦時統制で新愛知と競合紙の名古屋新聞が合併して新たに中部日本新聞社が発足し、終戦を経て編集局長に起用された。 常務、専務を経て1964年(昭和39年)に副社長へ至り、翌1965年(昭和40年)に与良ヱ社長の主導で中日新聞社との統合交渉を進めていた東京新聞社の代表取締役副社長を兼務。
菅沼 俊彦(すがぬま としひこ、1907年3月14日 - 2… 菅沼 俊彦(すがぬま としひこ、1907年3月14日 - 2001年12月18日)は、日本の経営者。日本板硝子社長、会長を務めた。大阪府大阪市出身。 1935年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に住友電気工業に入社。1963年2月に取締役に就任し、1967年2月に常務、1972年8月に専務を経て、1976年6月には日本板硝子社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1984年6月に取締役相談役を経て、1986年6月から相談役を務めた。 1991年3月から1996年6月までに住友化学監査役を務めた。 2001年12月18日腹部大動脈りゅう破裂のために死去。94歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
池田 宰(いけだ つかさ、1907年2月7日 - 1989年… 池田 宰(いけだ つかさ、1907年2月7日 - 1989年3月21日)は、日本の経営者。長野県出身。位階は従五位。 1926年に京都大学附属電気工学講習科を修了し、同年3月に日立製作所に入社。 1955年10月に日立運輸代表取締役に就任し、1957年5月に社長に就任し、1967年5月には東京モノレール社長にも就任し、1969年11月には日立運輸東京モノレール社長に就任した。1970年5月に会長に就任し、1977年6月には相談役に就任した。 1977年6月に運輸大臣表彰を受け、1979年11月に勲四等瑞宝章を受章。 1989年3月21日食道癌のために死去。82歳没。死没日付をもって従七位から従五位に進階。
益邑 健(ますむら たけし、1907年1月24日 - 199… 益邑 健(ますむら たけし、1907年1月24日 - 1994年12月5日)は、日本の経営者。大同生命保険社長を務めた。 山口県出身。1930年に京都帝国大学を卒業し、同年に大同生命保険に入社。1953年6月に取締役に就任し、1961年1月に常務、1971年5月に専務を経て、1973年1月に社長に就任。1978年4月に会長に就任し、1988年7月に取締役相談役を経て、1989年6月には相談役に就任。 1980年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1994年12月5日老衰のために死去。87歳没。
三橋 誠(みつはし まこと、1907年 <明治40年> 1月… 三橋 誠(みつはし まこと、1907年 <明治40年> 1月16日 - 1990年 <平成2年> 10月20日)は、日本の経営者、バスケットボール選手。全国農業協同組合連合会会長を務めた。位階は従四位。 鳥取県鳥取市出身。1933年に京都帝国大学農業経済科を卒業。山陰日日新聞社取締役などを経て、1955年に鳥取県議員となり、後に副議長も務めた。1957年6月に全国購買農業協同組合連合会会長に就任し、1972年3月には全国農業協同組合連合会会長に就任。 バスケットボール選手としても活躍し、1934年には極東大会に出場し、1936年のベルリン・オリンピックでは、日本代表チームのヘッドコーチを務め、1967年11月には日本バスケットボール協会理事長に就任。
湯浅 佑一(ゆあさ ゆういち、1906年12月17日 - 1… 湯浅 佑一(ゆあさ ゆういち、1906年12月17日 - 1994年4月17日)は、日本の実業家。ユアサコーポレーション、ユアサ商事社長、会長を務めた。京都府出身。 1930年に京都帝国大学法学部を中退し、父親が経営する金物問屋湯浅七左衛門商店に入社した。取締役、専務を経て、1945年から社長に就任し、1983年から会長に就任した。 関西経済同友会初代代表幹事、関西経済連合会副会長、関西経営者協会会長、湯川記念財団理事長などを歴任し、関西財界の重鎮として活躍した。また、1975年から日本高校野球連盟最高顧問も務めた。 1964年に紺綬褒章を受章し、1973年に藍綬褒章を受章し、1978年に勲二等瑞宝章を受章し、1987年に第3回ヒューマン大賞を受賞し、1989年に京都府スポーツ賞特別栄誉賞を受賞した。
熊谷 太三郎(くまがい たさぶろう、1906年11月3日 -… 熊谷 太三郎(くまがい たさぶろう、1906年11月3日 - 1992年1月15日)は、日本の実業家、政治家。 科学技術庁長官(第32代)、参議院議員(4期)、福井市長(官選第10代、公選初代)。熊谷組2代目社長。行政、事業の両面で原子力発電所の建設を推進した。 建設業を営む熊谷三太郎の二男として福井県福井市豊島上町に生まれた。旧制福井県立福井中学校、旧制第一高等学校を経て、京都帝国大学経済学部に入学し1930年に卒業。一高在学時には、アララギ会に入会。このとき、斎藤茂吉や土屋文明から短歌の指導を受けている。 その後、家業の建設業に従事していたが、1933年4月、飛島組(現在の飛島建設)社長の後援により福井市会議員選挙に市議でもあった父の後継として当選。
山本 源左衛門(やまもと げんざえもん、1906年(明治39… 山本 源左衛門(やまもと げんざえもん、1906年(明治39年)10月16日 - 1987年(昭和62年)10月26日)は、昭和期の実業家である。元東京海上火災保険会長。 1906年、兵庫県の生まれ。1925年に旧制山口高等学校卒業。1930年に京都帝国大学法学部を卒業。同年、東京海上火災保険に入社。1938年満州火災海上に出向し、営業部長として活躍した。 1947年東京海上火災に復帰。1966年同社の5代目社長として就任。1968年6月より1974年まで日本損害保険協会会長。1972年6月、同社会長に就任。1987年10月26日に81歳にて他界。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
宇都宮 徳馬(宇都宮 德馬、うつのみや とくま、1906年〈… 宇都宮 徳馬(宇都宮 德馬、うつのみや とくま、1906年〈明治39年〉9月24日 - 2000年〈平成12年〉7月1日)は、日本の政治家、実業家。位階は正三位、勲等は勲一等。 ミノファーゲン製薬創設者。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。月刊誌『軍縮問題資料』創刊者。 参議院議員(2期)、衆議院議員(10期)、日中友好協会会長・名誉会長、日本北アフリカ協会会長。 東京府に生まれる。父は陸軍大将、朝鮮軍司令官を務めた宇都宮太郎。父の意志で旧制府立第一中学を経て、東京陸軍幼年学校(25期)に入学し、1924年に卒業。1925年に旧制水戸高等学校に入学。水戸高校時代はマルクス主義に傾倒し、水田とともに東京帝国大学ではなく、学生連合会の要請で京都帝国大学を志望校に選んだ。
黒田 巌(黑田 巖、くろだ いわお、1906年(明治39年)… 黒田 巌(黑田 巖、くろだ いわお、1906年(明治39年)9月18日 - 1981年(昭和56年)4月27日)は、日本の陸軍軍属、実業家、政治家。衆議院議員。 兵庫県印南郡阿弥陀村(現高砂市)で生まれる。1932年(昭和7年) 京都帝国大学法学部を卒業した。小学校訓導、兵庫県巡査、満州国ハルピン警察庁巡官、浜江省規画科長、北支那方面軍嘱託、済南治安維持会顧問、済南特務機関勤務、山東省会警察局顧問、同省公署顧問補佐官、日本陸軍師団・旅団の政治工作班長などを務めた。 1942年(昭和17年)4月、 第21回衆議院議員総選挙に兵庫県第3区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選。当選後は翼賛政治会に参加し、終戦後は日本進歩党に所属して衆議院議員を1期務めた。
金井 久兵衛(かない きゅうべえ、1906年9月4日 - 1… 金井 久兵衛(かない きゅうべえ、1906年9月4日 - 1996年11月5日)は、日本の経営者。北陸電力社長を務めた。富山県富山市出身。 1930年に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業、1932年に日本海電気に入社した。 1946年、北陸配電社長に就任し、1954年、北陸電力副社長を経て、1959年(昭和34年)9月9日、社長に就任。 1967年11月、北陸経済連合会の初代会長に就任した(1979年4月まで)。 1972年に会長に就任し、1979年には相談役に就任。 1964年11月19日、藍綬褒章を受章し、1976年に勲一等瑞宝章を受章。1968年(昭和43年)11月1日、中経産業功労賞(中部経済新聞社)を受賞。
岡田 重吉(おかだ じゅうきち、1906年7月23日 - 1… 岡田 重吉(おかだ じゅうきち、1906年7月23日 - 1982年1月25日)は、日本の経営者。三重県出身。 1931年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年4月にダンロップ護謨に入社。1955年12月に取締役に就任し、1960年7月に常務、1964年5月に専務を経て、1968年11月には社長に就任。1973年11月から会長を務めた。 1982年1月25日呼吸不全のために死去。75歳没。
山野 種松(やまの たねまつ、1906年 <明治39年> 3… 山野 種松(やまの たねまつ、1906年 <明治39年> 3月26日 - 1995年 <平成7年> 12月23日)は、日本の経営者。レンゴー社長を務めた。位階は正五位。 大阪府出身。1931年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年にレンゴーに入社。1947年に監査役に就任し、1950年に取締役、1960年11月に常務、1962年5月に専務を経て、1963年11月に社長に就任。1973年2月に会長に就任し、1984年6月に相談役に就任。 1978年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1995年12月23日肺炎のために死去。89歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
青木 精太郎(あおき せいたろう、1906年 <明治39年>… 青木 精太郎(あおき せいたろう、1906年 <明治39年> 2月27日 - 1991年 <平成3年> 7月13日)は日本の鉄道技術者、実業家。京阪電気鉄道社長、京福電気鉄道会長などを務めた。位階は正四位。 岡山県岡山市出身。旧制岡山中学校(在学中に第一岡山中学校に改称、現:岡山県立岡山朝日高等学校)、第六高等学校を経て、1928年(昭和3年)に京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。当初、指導教官から日本電力への就職を紹介されたが、その年度の新卒採用がなかったため、代わりに紹介された京阪電気鉄道に入社した。当時京阪電気鉄道は、新京阪鉄道(現:阪急京都本線)の建設、名古屋急行電鉄の設立準備などをおこなっていた時期であったため、前例のない50余名もの大学・専門学校生を採用しており、のちに阪急電鉄社長を務めた森薫も同窓・同期で新京阪に入社している。
清水 末雄(しみず すえお、1905年12月30日 - 19… 清水 末雄(しみず すえお、1905年12月30日 - 1993年6月21日)は、日本の経営者。奈良県出身。 1928年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に朝日新聞社に入社。 1960年1月に神奈川新聞社に転じ、1969年1月には社長に就任した。1981年1月に会長に就任し、1982年1月に取締役相談役を経て、1984年1月には相談役に就任した。 1980年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1993年6月21日脳血栓のために死去。87歳没。
馬淵 威雄(まぶち たけお、1905年〈明治38年〉10月1… 馬淵 威雄(まぶち たけお、1905年〈明治38年〉10月1日 - 1988年〈昭和63年〉9月20日)は、昭和期の実業家。死去時の役職は東宝相談役、フジテレビ取締役。京都府出身。 水戸高等学校を経て1930年に京都大学法学部を卒業。戦時中は軍需省管理官、戦後は中央労働委員会で第一部長兼第二部長を務める。労働争議に悩んでいた東宝社長田辺加多丸(小林一三の実弟)の懇請により、1947年12月26日に東宝取締役(労務担当)に就任、新社長の渡辺銕蔵と共に人員整理に取り組み、翌1948年の第三次東宝争議を乗り切って、経営権や人事権を会社側の専権事項とした。 馬淵はそののち、1948年10月8日に代表取締役副社長に就任したが、1949年4月12日に常務取締役に降格するや、渡辺銕蔵と再建策をめぐって対立、1949年9月26日に辞任した。
竹内 喜三郎(たけうち きさぶろう、1905年9月4日 - … 竹内 喜三郎(たけうち きさぶろう、1905年9月4日 - 1989年3月7日)は、昭和時代の研究者、経営者。大阪府大阪市出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
久富 武夫(ひさとみ たけお 1905年7月12日 - 19… 久富 武夫(ひさとみ たけお 1905年7月12日 - 1987年12月3日)は、元安田信託銀行社長。
佐々木 勇蔵(ささき ゆうぞう、1905年 <明治38年> … 佐々木 勇蔵(ささき ゆうぞう、1905年 <明治38年> 6月7日 - 1985年 <昭和60年> 6月17日)は、日本の経営者、銀行家。大阪府出身。位階は従五位。 1931年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に大阪府農工銀行に入行。 1937年3月に日本勧業銀行を経て、1951年1月に泉州銀行に転じ、常務に就任し、1958年4月に専務を経て、1963年10月に頭取に就任した。1974年11月に取締役相談役に就任した。 1973年に泉州高等学校の設立に携わり、泉州学園名誉理事長を務め、関西経済連合会顧問、日本少年野球連盟副会長なども歴任。 1972年9月に藍綬褒章を受章し、1982年5月に勲四等旭日小綬章を受章。
河合 堯晴(かわい たかはる、1905年3月11日 - 19… 河合 堯晴(かわい たかはる、1905年3月11日 - 1985年6月6日)は、日本の経営者。岡山県出身。 1929年に京都帝国大学工学部採鉱冶金科を卒業し、同年に日本鉱業に入社。 1950年5月に取締役に就任し、1957年11月に常務、1959年5月に専務を経て、1964年5月に副社長に就任し、1969年5月には社長に昇格。1974年5月に会長を経て、1976年6月には相談役に就任。日本鉱業協会会長、全日本剣道連盟会長なども歴任。 1964年10月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲一等瑞宝章を受章。 1985年6月6日急性心不全のために死去。80歳没。
桑田 猛(くわた たけし、1905年2月14日 - 2000… 桑田 猛(くわた たけし、1905年2月14日 - 2000年8月18日)は、日本の経営者、理学博士。協和醗酵工業(現在の協和キリン)社長を務めた。 京都府京都市出身。1931年に京都帝国大学理学部化学科を卒業し、協和化学研究所主任を経て、1949年7月に協和醗酵工業に入社し、常務にも就任。1956年に専務を経て、1962年8月に副社長に就任し、1969年8月には社長に昇格。1972年7月に取締役相談役に就任し、1978年3月に相談役に就任。 2000年8月18日気管支肺炎のために死去。95歳没。
檜原 敏郎(ひわら としろう、1905年(明治38年)2月1… 檜原 敏郎(ひわら としろう、1905年(明治38年)2月14日 - 1984年(昭和59年)1月10日)は、日本の経営者。近畿日本鉄道元副社長。近鉄百貨店元社長。三交不動産元取締役。伊勢志摩国立公園開発元監査役。関西経営者協会元副会長。位階は従四位。 兵庫県美嚢郡奥吉川村(現:三木市吉川町)出身。大阪府八尾市在籍。 1930年(昭和5年)京都帝国大学経済学部を卒業し、1932年(昭和7年)大阪電気軌道(現:近畿日本鉄道)に入社。1951年(昭和26年)取締役、同年12月常務に就任。1959年(昭和34年)6月専務を経て、1968年(昭和43年)5月副社長に就任した。 百貨店事業の担当になっていたため、1972年(昭和47年)4月に近畿日本鉄道から近鉄百貨店が分離・独立した際、社長に就任した。
漆野 寿一(うるしの じゅいち、1905年2月3日 - 19… 漆野 寿一(うるしの じゅいち、1905年2月3日 - 1992年8月4日)は、茨城県出身の実業家。山下汽船(現:商船三井)常務、山栄船舶社長等を歴任した。 1905年2月3日、茨城県新治郡志士庫村宍倉に於いて漆野佐一郎と孝子の長男として生まれる。父佐一郎は1903年に東京帝国大学工学部を卒業後、大倉鉱業や入山採炭などの重役を務めた。母孝子は利根運河開鑿など地方産業開発に貢献した、茨城県北相馬郡高井村の広瀬誠一郎の次女。 1928年に弘前高校を卒業後、京都帝国大学経済学部に入学。在学中は剣道に打ち込んだ。1931年に同大学を卒業して山下汽船に入社。1935年、会社に命じられてアメリカ・カナダを視察。
李 丙吉(イ・ビョンギル、朝鮮語: 이병길、1905年(光武… 李 丙吉(イ・ビョンギル、朝鮮語: 이병길、1905年(光武9年 / 明治38年)1月12日 - 1950年12月28日)は、日本の官僚、実業家。位階は正四位。爵位は侯爵。本貫は牛峰李氏。 1905年に李恒九男爵の長男として生まれた。李完用の次男が恒九であり、丙吉は孫にあたる。その後、李完用の長男である李升九の養子に入り、1926年に(大正15年)に李完用が死去すると、侯爵を襲爵した。学習院高等科を卒業し、1927年(昭和2年)京都帝国大学に入学。1931年(昭和6年)に帝大を卒業し、朝鮮総督府学務局編集嘱託を経て、1934年(昭和9年)に宮内省式部職御用掛に任命された。1939年(昭和14年)から国民精神総動員朝鮮連盟参事を兼任。
鹿野 彦吉(かの ひこきち、1904年(明治37年)12月1… 鹿野 彦吉(かの ひこきち、1904年(明治37年)12月11日 - 1978年(昭和53年)2月18日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(5期)。 民主党衆議院議員で農林水産大臣などを務めた鹿野道彦の父。 山形県出身。1931年(昭和6年)京都帝国大学法学部法律学科を卒業。京城化学支配人、関西ペイント東京支店長、東京特殊塗料監査役、関西ペイント取締役、徳山曹達(現トクヤマ)取締役、山形天然瓦斯取締役、蔵王高原観光開発取締役社長などを務めた。 1949年(昭和24年)の総選挙で山形1区から出馬し、初当選。以来通算5期務めた。第1次岸改造内閣経済企画政務次官、国土開発審議会委員、自由党総務、自民党国会対策副委員長、衆院公職選挙法改正に関する調査特別委員長等を務めた。
都留 勝利(つる かつとし、1904年12月3日 - 197… 都留 勝利(つる かつとし、1904年12月3日 - 1976年2月15日)は、日本の経営者。大分県宇佐市出身。 1930年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に東京ガスに入社。関東タール製品社長、東京コークス社長を経て、1954年2月に取締役に就任し、1967年11月に副社長を経て、1972年8月に社長に就任。日本経営者団体連盟常任理事も務めた。 1962年10月に藍綬褒章を受章。 1976年2月15日脳血栓のために死去。71歳没。墓所は多磨霊園。
田村 太郎(たむら たろう、旧姓・牧野、1904年(明治37… 田村 太郎(たむら たろう、旧姓・牧野、1904年(明治37年)11月 - 1984年(昭和59年)1月2日)は、日本の実業家。尼崎造船社長・興亜海上火災運送常監・大阪曹達監査を務めた。 大阪府出身。牧野太吉の二男に生まれ、田村家の死跡を相続した。1930年、京都帝国大学法科を卒業した。趣味は柔道、読書。宗教は真宗。住所は兵庫県尼崎市難波通、大阪市北区中之島。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
宇田 耕一(うだ こういち、1904年(明治37年)10月1… 宇田 耕一(うだ こういち、1904年(明治37年)10月15日 - 1957年(昭和32年)12月30日)は、昭和期の日本の政治家、実業家。経済企画庁長官(第3-4代)、科学技術庁長官(第2-3代)、衆議院議員(3期)。旧姓は六田。 高知県出身。大阪市西区で六田橘太郎、ウタ夫妻の六男として生まれる。1917年(大正6年)土佐中学校・高等学校の創立者でもある海運業者で衆議院議員(憲政会)も務めた宇田友四郎の養子となる。幼少期は高知県香美郡岸本町の伯父の家で育ち、岸本尋常小学校から高知県立第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)、高知高等学校(現高知大学)を経て、京都帝国大学法科に入学。1929年(昭和4年)卒業後、ヨーロッパ視察、兵役を経て、1930年(昭和5年)南満洲鉄道に入社。
坂田 勝郎(さかた かつろう、1904年(明治37年)10月… 坂田 勝郎(さかた かつろう、1904年(明治37年)10月1日 - 1990年(平成2年)1月16日)は、毎日新聞社元常務取締役(大阪本社代表)、毎日放送(MBS)元社長・会長、テレビ東京(TX)元取締役、宮崎放送(MRT)元取締役。 宮崎県延岡市出身。旧制第五高等学校(現・熊本大学)を経て、京都帝国大学卒業後、1932年(昭和7年)に大阪毎日新聞社へ入社。1943年(昭和18年)に大阪毎日新聞と東京日日新聞は新聞統制で東西で異なっていた題号を「毎日新聞」に統一し、両紙の発行元であった大阪毎日新聞社は社名を「毎日新聞社」に改めてから、バンコク特派員、広島支局長、郷里である宮崎支局長、宮崎放送取締役を務め、毎日新聞社常務取締役(大阪本社代表)に就任した。
佐野 広(廣、さの ひろし、1904年(明治37年)9月28… 佐野 広(廣、さの ひろし、1904年(明治37年)9月28日 - 1980年(昭和55年)1月19日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員。旧姓は永井。 島根県大原郡春殖村(大東町を経て現雲南市)で、永井伊太郎の三男として生まれる。1925年(大正14年)弁護士佐野正雄の養子となった。旧制山口高等学校を経て、1932年(昭和7年)京都帝国大学法学部法律学科を卒業した。 1933年(昭和8年)出雲電気に入社。その後、代議士櫻内幸雄の秘書となる。戦後、中国電力島根支店次長、同東京支社長を歴任。その他、島根県農村電化協会会長、同体育協会理事長、日本バレーボール協会参与、ラジオ山陰(現山陰放送)相談役、民主党島根支部連幹事長、自由民主党島根支部連会長などを務めた。
瀧川 勝二(たきがわ かつじ、1904年8月22日 - 19… 瀧川 勝二(たきがわ かつじ、1904年8月22日 - 1993年11月28日)は日本の実業家。元兵庫トヨタ自動車会長。 兵庫県神戸市出身。第二神戸中学校卒業(同窓会理事長)、第六高等学校卒業、京都大学卒業。父親は瀧川儀作で神戸トヨペットの前身であるカネキ商店を経営していた。 1946年商工省陸運管理局の指示で兵庫県自動車整備配給株式会社が解体され兵庫トヨタ販売が設立。瀧川勝二は取締役に就任する。 1963年運輸大臣表彰。1965年厚生大臣表彰。1967年藍綬褒章受章。1973年トヨタ自動車販売店協会理事長に就任。1975年勲三等旭日中綬章受章。1977年日本自動車販売協会連合会会長に就任。1979年トヨタ自動車販売店協会会長に就任。
平山 亮太郎(ひらやま りょうたろう、1904年7月30日 … 平山 亮太郎(ひらやま りょうたろう、1904年7月30日 - 1971年2月15日)は、日本の経営者。野村不動産社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1929年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に野村證券に入社。野村財閥の創始者である野村徳七にかわいがられ、指導を受け、1946年4月に取締役に就任し、1947年8月に常務、1952年8月に専務、1956年11月に副社長を経て、1959年6月に野村不動産社長に就任した 大阪証券取引所理事、大阪証券業協会理事、京都大学講師、読売テレビ放送取締役なども歴任した。 著書に「証券市場論講義」がある。
鄭 準謨(チョン・ジュンモ、朝鮮語: 정준모、1904年5月… 鄭 準謨(チョン・ジュンモ、朝鮮語: 정준모、1904年5月23日 - 1978年11月26日)は、大韓民国の医師、病院経営者、陸軍軍人(陸軍少領)、政治家、実業家。保健社会部次官・長官、第3・4代韓国国会議員を歴任した。 本貫は東萊鄭氏(朝鮮語版)。漢字表記は鄭準模とも。 全羅北道(現・全北特別自治道)長水郡出身。京城薬専、平壌医専を経て、1937年京都帝国大学(現・京都大学)医学部研究科卒。1939年医学博士号取得。1928年医師試験合格。同仁外科医院経営者、ソウル医師会副会長、陸軍軍医学校校長、保健社会部次官(1952年)、高等選考委員、大韓医学協会理事、大韓赤十字社副総裁、第3代国会保社委員長、自由党中央委員、第2代保健社会部長官(1956年5月26日~1957年6月16日)を務めた。