栗原 五郎(くりばら ごろう、1915年〈大正4年〉8月14… 栗原 五郎(くりばら ごろう、1915年〈大正4年〉8月14日 - 2009年〈平成21年〉12月4日)は、日本の経営者。三重銀行頭取を務めた。 群馬県桐生市東久方出身。旧制桐生中学校を経て、1936年に東京商科大学専門部を卒業し、同年に住友銀行に入行した。1966年5月に取締役に就任し、1967年10月には三重銀行副頭取に就任し、1968年10月には頭取に昇格。1979年6月に会長に就任し、1989年6月に取締役相談役、1991年6月に相談役、1997年6月に特別顧問を経て、1999年6月には顧問に就任。 1980年四日市商工会議所会頭に就任し、翌1981年から三重県商工会議所連合会長を務めた。
永井 典彦(ながい のりひこ、1915年7月23日 - 20… 永井 典彦(ながい のりひこ、1915年7月23日 - 2003年1月21日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長、会長を務めた。 東京都出身。1944年に東京商科大学を卒業し、同年に三井物産に入社。1942年に三井船舶に転じ、1968年5月に大阪商船三井船舶取締役に就任し、1971年5月に常務、1973年11月に専務を経て、1976年6月に社長に就任。1980年6月に会長に就任し、1984年6月には相談役に就任。 1977年7月に運輸大臣表彰を受け、1978年11月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等旭日重光章を受章し、1989年11月に文部大臣表彰を受けた。 2003年1月21日肺炎のために死去。
坪井 東(つぼい はじめ、1915年〈大正4年〉5月1日 ‐… 坪井 東(つぼい はじめ、1915年〈大正4年〉5月1日 ‐ 1996年〈平成8年〉7月5日)は、日本の実業家。三井不動産の社長や会長を22年間務め、ツーバイフォー工法の導入や東京ディズニーランド開園事業に携わったほか、三井ホーム社長、世界不動産連盟会長、不動産協会理事長、不動産流通経営協会理事長等の公職も務めた。 千葉県市川市生まれ。旧制東京府立第三中學校(のちの都立両国高等学校)を経て、旧制東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業。のちに三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、東京銀行頭取の横山宗一、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、日東製網社長の小林政夫、一橋大学学長の小泉明らとともに大学の同期会を結成した。
石川 次夫(いしかわ つぎお、1915年(大正4年)3月30… 石川 次夫(いしかわ つぎお、1915年(大正4年)3月30日 - 1974年(昭和49年)3月28日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員(4期)。 茨城県で生まれた。1935年、東京商科大学専門部を卒業。 日立製作所に入社し、多賀工場厚生課長、同勤労課長、同企業課長を歴任。その後、茨城県議会議員に選出され三期務めた。 1958年4月、第28回衆議院議員総選挙で茨城県第二区から日本社会党所属で立候補して当選。その後、第29回、第31回、第32回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算四期務めた。この間、日本社会党政審科学技術政策委員長、同総合エネルギー政策委員会事務局長、同党茨城県連書記長、同委員長、電機労連顧問、日本社会党茨城県本部顧問などを務めた。
八尋 俊邦(やひろ としくに、1915年2月1日 - 200… 八尋 俊邦(やひろ としくに、1915年2月1日 - 2001年10月27日)は東京都出身の実業家。三井物産の社長や会長を歴任したほか、商社出身者として初めて経済団体連合会副会長を務めた。1987年に勲一等瑞宝章を受章。 東京で生まれたものの、日本製粉勤務の父の仕事の関係でまもなく福岡県久留米市に転居。4年後、父が下関支店長となったため、下関に転居。 養治小学校、旧制豊浦中学校(現:山口県立豊浦高等学校)、旧制第二神戸中学(現:兵庫県立兵庫高等学校)を経て、1932年旧制麻布中学校卒業。旧制東京商科大学(現:一橋大学)卒業。大学では一橋新聞部、上田辰之助ゼミナールに所属。戸倉勝城(元阪急監督)は小学校、中学校の友人。
横山 宗一(よこやま そういち、1914年(大正3年)11月… 横山 宗一(よこやま そういち、1914年(大正3年)11月30日 - 1985年(昭和60年)6月18日)は、日本の実業家。東京銀行頭取・会長を務めた。東京出身。 1938年旧制東京商科大学(現・一橋大学)卒業。同期に三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、三井不動産社長の坪井東、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、日東製網社長の小林政夫、一橋大学学長の小泉明らがおり、同窓会を結成している。 1938年に東京銀行の前身である横浜正金銀行に入行。ハノイ、サイゴンなどインドシナに派遣され、1946年に帰国するまでは生死の境をさまよったこともあるという。
佐川 明(さがわ あきら、旧姓:森本〈もりもと〉、1914年… 佐川 明(さがわ あきら、旧姓:森本〈もりもと〉、1914年〈大正3年〉11月5日 - 2005年〈平成17年〉1月4日)は、日本の実業家。栗田工業社長。 兵庫県出身。森本茂の次男として生まれる。7歳のときに父親が死去、幼い頃から本の行商をさせられるなど、祖母に厳しく育てられる。 1940年(昭和15年)東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。学生時代はラグビー部員。卒業後神戸に戻り、伊藤忠商事大阪本社に入社。その後徴兵されて満洲に渡り、一時帰国の際に神戸の貿易商(佐川商店社長)の佐川与一の長女・登美子と結婚して佐川家に婿入りする。 敗戦後、シベリアに抑留される。そのさなか、長女が産まれて十日で死ぬ。
佐藤 光夫(さとう みつお、1914年(大正3年)10月1日… 佐藤 光夫(さとう みつお、1914年(大正3年)10月1日 - 1997年(平成9年)7月17日)は、日本の運輸官僚、海上保安官。海上保安庁長官や運輸事務次官等を務めた後に、京成電鉄第6代社長として京成グループを率い、経営危機に陥っていたグループの再建を成功させた。敬虔なクリスチャンとしても知られた。1987年勲二等旭日重光章受章。 長野県諏訪郡上諏訪町(現:諏訪市)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て旧制東京商科大学(一橋大学の前身)卒業後、実業に関係のありそうな省庁を希望し、鉄道省入省(大鉄局書記)。同期入省の木村睦男(元参議院議長)は、佐藤を「若いころからまじめを絵にかいたような男だった」と評する。
河村 勝夫(かわむら かつお、1914年 <大正3年> 8月… 河村 勝夫(かわむら かつお、1914年 <大正3年> 8月18日 - 2002年 <平成14年> 9月13日)は、日本の経営者。フジクラ社長、会長を務めた。位階は従四位。 山口県出身。1939年に東京商科大学を卒業し、同年に藤倉電線(のちのフジクラ)に入社。1967年11月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1973年11月に専務を経て、1976年12月には社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1991年6月から相談役を務めた。 1980年4月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年9月13日肺炎のために死去。88歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
庭野 正之助 (にわの しょうのすけ、1914年3月25日 … 庭野 正之助 (にわの しょうのすけ、1914年3月25日 - 2004年1月11日)は、日本の実業家。日本鉱業(現ENEOSホールディングス)の社長・会長や日本鉱業協会会長を務めた。勲一等瑞宝章。 新潟県十日町市川原町生まれ。旧制新潟県立十日町中学校(のちの新潟県立十日町高等学校)卒業後、1936年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。内池廉吉ゼミ出身。大学予科時代には、文部省による東京商科大学予科および専門部廃止案に反対し籠城闘争を決行(籠城事件)。後藤達郎(のちにホテルオークラ社長)らとともに警察に検挙され勾留されたが、商法の本間喜一教授や民法の常盤敏太教授の尽力で釈放された。 1936年日本鉱業入社、1964年取締役、1971年専務、1973年副社長。
武藤 光朗(むとう みつろう、1914年3月17日 - 19… 武藤 光朗(むとう みつろう、1914年3月17日 - 1998年7月25日)は、日本の社会評論家・社会思想家。学位:経済学博士(中央大学より1961年取得 / 論文タイトル「経済倫理 : 経済学と世界観」)。 社会民主主義思想、カール・ヤスパース哲学などを研究した。鈴木三郎・草薙正夫らと共に、1951年設立となったヤスパース協会創立者の一人である 福島県生まれ。幼少期に両親を失い、長崎の長兄のもとに移り育つ。長崎の旧制高等商業学校を経て、1937年東京商科大学(現一橋大学)卒業。横浜専門学校(現神奈川大学)教授、日本外政協会、日本国連協会の調査課長を務め、國學院大學教授、中央大学教授、早稲田大学客員教授を歴任した。
望月 達夫(もちづき たつお、1914年(大正3年)3月9日… 望月 達夫(もちづき たつお、1914年(大正3年)3月9日 - 2002年(平成14年)8月21日)は、日本の実業家、登山家。和光証券(現・みずほ証券)副社長、新和光投信委託(現・アセットマネジメントOne)社長。日本山岳会名誉会員。 東京生まれ。1938年、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業し、三井信託銀行(現・三井住友信託銀行)に入社。 1941年から召集を受け、大日本帝国陸軍東部七十八部隊独立野戦高射砲第二十二中隊に配属され、キスカ島で書類作業に従事。1943年のキスカ島撤退作戦で北千島に逃れたものの、ソビエト連邦の捕虜となり、南樺太で通訳やソ連軍将校に英語を教える仕事などに従事した。1947年に復員。
小林 政夫(こばやし まさお、1914年 <大正3年> 2月… 小林 政夫(こばやし まさお、1914年 <大正3年> 2月16日 - 2000年 <平成12年> 9月15日)は、日本の実業家、政治家。日東製網社長、参議院議員(1期)、福山商工会議所会頭などを歴任した。位階は従四位。孫に衆議院議員の小林史明がいる。 広島県福山町(現・福山市西町)に生まれる。1931年(昭和6年)、広島県立福山誠之館中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)卒業。1938年(昭和13年)に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。 三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、東京銀行頭取の横山宗一、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、三井不動産社長の坪井東、一橋大学学長の小泉明らとともに大学の同期会を結成。
冨樫 総一(とがし そういち、1914年1月31日(戸籍上は… 冨樫 総一(とがし そういち、1914年1月31日(戸籍上は2月1日) - 1973年1月17日)は労働官僚。労働事務次官を務めたのち退官し、中小企業退職金共済事業団理事長等を歴任。 秋田県秋田市大町五丁目に富樫総太郎の長男として出生。旧制東京商科大学(一橋大学の前身)で、日本で初めて労働法講義を開講した労働法学者孫田秀春のゼミナールに所属し労働法を学ぶ。妻の杜美子は、孫田の長女。大平正芳元総理大臣は大学の同期で、大平らと憲法の田上穣治講師や国際法の大平善梧教授が中心となっていた研究会で勉強し、高等試験行政科に上位の席次で合格した。 大学卒業後、内務省社会局に入り、以来、奈良県警務課長、長崎県警務課長を務めたほかは、一貫して労働行政にたずさわり、戦後は労働三法である労働組合法や労働関係調整法といった重要法案の立案も担当、著書も多数執筆し、労働行政において重きをなした。
今井 道雄(いまい みちお、1914年1月24日 - 199… 今井 道雄(いまい みちお、1914年1月24日 - 1990年9月4日)は、日本の実業家。丸井今井代表取締役社長、札幌商工会議所会頭、札幌証券取引所理事長等を務めた。 北海道札幌市生まれ。1938年東京商科大学(現一橋大学)を卒業(同期に小泉明ら)。大阪の大丸百貨店で修業したのち、家業の丸井今井グループ入りし、1944年から丸井今井の三代目代表取締役社長を務めた。1973年から札幌商工会議所会頭を務め、北海道商工会議所連合会会頭、札幌観光協会会長、北海道百貨店協会会長、札幌証券取引所理事長なども歴任した。1974年北海道経済連合会設立発起人代表。1981年エフエム北海道発起人。1987年北海道立文学館建設期成会会長。
久保村 隆祐(くぼむら りゅうすけ、1914年1月1日 - … 久保村 隆祐(くぼむら りゅうすけ、1914年1月1日 - 2006年2月26日)は、日本の経営学者。専門はマーケティング論等。第7代横浜国立大学学長、横浜国立大学名誉教授。元日本商業学会会長。 長野県生まれ。1946年東京産業大学(現一橋大学)卒業。1951年横浜国立大学講師。1954年横浜国立大学助教授。1965年中小企業診断員。横浜国立大学教授を経て、1967年横浜国立大学経営学部学部長。1970年横浜国立大学経営学部長。1976年から1979年まで第7代横浜国立大学学長を務め、横浜国立大学より名誉教授の称号を受けた。1980年から1985年まで日本商業学会会長。1985年勲二等瑞宝章受章。
柿原 謙一 (かきはら けんいち、1913年 <大正2年> … 柿原 謙一 (かきはら けんいち、1913年 <大正2年> 8月19日 - 2000年 <平成12年> 1月16日) は、日本の実業家。六代目秩父鉄道社長。日本民営鉄道協会副会長。位階は正五位。 秩父市で秩父鉄道4代目社長・柿原亀吉の6人兄弟の長男として生まれる。旧制埼玉県立熊谷中学校を経て、1937年、東京商科大学卒業。謙一自身はこれで学校は終わりだと思っていたが、陸軍経理学校に入学させられた。 大学卒業後、一年半ばかり家業を手伝っていたが、1934年に補充兵で応召。その後9年間兵役に従事。大尉となる。 戦後、秩父鉄道に入社。1947年に取締役経理部長となり常務取締役を経て、1969年に六代目社長に就任。
氷川 瓏(ひかわ ろう、1913年7月16日 - 1989年… 氷川 瓏(ひかわ ろう、1913年7月16日 - 1989年12月26日)は、日本の作家。探偵小説家。東京都出身。 本名、渡辺 祐一。同じく探偵作家の渡辺剣次(本名・渡辺健治)は実弟である。また、ファンタジー作家のひかわ玲子は姪(末弟の娘)にあたる。東京商科大学(現在の一橋大学の前身)卒業。 第二次世界大戦後、創刊されて間もなかった雑誌『宝石』1946年(昭和21年)5月号に、「乳母車」を発表しデビューした。以後、断続的に幻想・怪奇系に属する探偵小説作品を書いた。作品の多くは短編である。 一方でもともと純文学指向のあった彼は木々高太郎が編集にあたっていた『三田文学』に本名で「天平商人と二匹の鬼」、「洞窟」の二編を発表、後者は1952年度上半期の第27回直木賞候補となっている。
山田 長夫(やまだ ながお、1913年6月5日 - 1987… 山田 長夫(やまだ ながお、1913年6月5日 - 1987年1月27日)は、日本の経済学者。 愛知県出身。東京商科大学卒。関東学院大学助教授、横浜市立大学助教授、教授、1979年定年退官、名誉教授。ケインズ経済学を研究した。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
普川 茂保(ふかわ しげやす、1913年5月13日 - 19… 普川 茂保(ふかわ しげやす、1913年5月13日 - 1995年5月30日)は日本の実業家。元日本信託銀行社長・会長。 神奈川県出身。旧制神奈川県立小田原中学校(神奈川県立小田原高等学校の前身)、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を経て、第百銀行に入行。 三菱銀行で総務部長や常務を務めたのち、1974年に日本信託銀行社長就任。日本列島改造論後の不動産不況で多額の不良債権が生じていた同行のたてなおしにあたった。また労働組合との関係改善も進め、のちの三菱銀行との経営統合の基盤を作った。1981年に社長を退任し、会長に就任。1987年6月、会長を退き、取締役相談役に就任。1988年6月には取締役を退任し相談役に就任。
野々村 一雄(ののむら かずお、1913年3月10日 - 1… 野々村 一雄(ののむら かずお、1913年3月10日 - 1998年1月12日)は、日本の経済学者。専門はソヴィエト経済。一橋大学名誉教授。元経済理論学会代表幹事。 1i913年、愛知県で生まれた。大阪商科大学(現大阪市立大学)を卒業後、満鉄調査部に入社。 満鉄調査部では石堂清倫とともに資料課に属し、基礎理論が中途半端なまま、関東軍の要望にこたえて総合調査をおこなう経調派・綜合課グループに批判的な立場をとった。そしてそこでの研究、調査内容が軍部に批判的なものであったため、満鉄調査部事件で逮捕され、1945年に懲役2年執行猶予3年の判決を受けた。 敗戦後は満鉄の後身である中長鉄路調査局に上級調査員として勤務。
清川 正二(きよかわ まさじ、1913年〈大正2年〉2月11… 清川 正二(きよかわ まさじ、1913年〈大正2年〉2月11日 - 1999年〈平成11年〉4月13日)は、日本の水泳選手、実業家。愛知県豊橋市出身。オリンピックに2度出場し、1932年ロサンゼルス五輪で100m背泳ぎ金メダリスト、1936年ベルリン五輪でも銅メダルを獲得。第二次世界大戦後は総合商社兼松江商の社長・会長を務める。アマチュアスポーツの振興にも尽力し、日本人として初めて国際オリンピック委員会(IOC)副会長となった。位階は従四位。 豊橋市関屋町出身。旧制愛知第四中学校(現・愛知県立時習館高等学校)、名古屋高等商業学校(現・名古屋大学)を経て、1936年(昭和11年)東京商科大学(現・一橋大学)卒業。
小泉 明(こいずみ あきら、1913年2月10日 - 197… 小泉 明(こいずみ あきら、1913年2月10日 - 1977年2月8日)は、日本の経済学者。ケインズ経済学を専攻、国際金融論。第7代一橋大学学長。経済学博士。正三位勲二等旭日重光章。 神奈川県横浜市出身。1938年東京商科大学(現一橋大学)を卒業。山口茂ゼミ出身。三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、東京銀行頭取の横山宗一、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、日東製網社長の小林政夫、三井不動産社長の坪井東らとともに大学の同期会を結成。 大学卒業後第一生命保険に入社するが、1940年に同社を退職し東京商科大学助手に就任。同助教授を経て、戦後一橋大学商学部助教授、58年教授に昇格。
露木 清(つゆき きよし、1913年1月5日 - 1995年… 露木 清(つゆき きよし、1913年1月5日 - 1995年1月29日)は日本の実業家。元伊勢丹代表取締役会長。 静岡県田方郡函南村(現・函南町)出身。旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。三菱銀行副頭取を経て、1975年伊勢丹取締役、1976年伊勢丹副社長。1978年、三菱銀行出身者として初めて伊勢丹代表取締役会長に就任。1984年に伊勢丹社長に就任した、三菱銀行の部下で創業家4代目の小菅国安とともに、伊勢丹に近代経営を持ちこみ、「ファッションの伊勢丹」を作り上げた。1981年浦和店開店、1984年新潟伊勢丹開店、1987年には伊勢丹アイカードを導入。 1990年伊勢丹取締役相談役。 1995年1月29日、急性心筋梗塞のため東京都世田谷区の病院で死去。
倉内 大次(くらうち だいじ、1913年 - 生没不明)は、… 倉内 大次(くらうち だいじ、1913年 - 生没不明)は、日本のフィールドホッケー選手。 東京商科大学出身。1936年ベルリンオリンピックホッケー競技に出場した。 伊藤赳夫 | 伊藤通弘 | 上野安夫 | 大津敏雄 | 菊池信 | 倉内大次 | 酒井義雄 | 杉山益男 | 武知治 | 田中昇 | 浜田駿吉 | 村岡敏 | 柳武彦 | 脇坂貞夫 | 監督: 石川周策 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
立花 保夫(たちばな やすお、1912年8月31日 - 19… 立花 保夫(たちばな やすお、1912年8月31日 - 1984年5月13日)は、日本の経営者。トピー工業社長、会長を務めた。岩手県出身。 1936年に東京商科大学を卒業。東芝、八幡製鉄での勤務を経て、1965年10月にトピー工業常任顧問に就任し、同年11月副社長を経て、1968年11月には社長に就任。1977年6月に会長を経て、1980年7月には相談役に就任。 1977年4月に藍綬褒章を受章。 1984年5月13日前立腺腫瘍のために死去。71歳没。
斉藤 晋一(さいとう しんいち、1912年8月24日 - 1… 斉藤 晋一(さいとう しんいち、1912年8月24日 - 1985年10月6日)は、日本の経営者。住友ゴム工業3代目社長を務めた。新潟県栃尾市(現:長岡市)出身。 1936年に東京商科大学を卒業し、同年に住友電気工業に入社。1962年11月に取締役に就任し、1964年に常務、1969年5月に専務を経て、1971年5月に副社長に就任。1974年8月に住友ゴム工業社長に就任し、1980年3月に会長に就任。 1978年5月に藍綬褒章を受章。 1985年10月6日肝不全のために死去。73歳没。
水野 忠夫(みずの ただお、1912年(明治45年)6月21… 水野 忠夫(みずの ただお、1912年(明治45年)6月21日 - 1976年(昭和51年)3月6日)は、日本の実業家。三井製糖社長や、初代精糖工業会会長を務めた。 岐阜県出身。1937年東京商科大学(現一橋大学)卒業。台湾製糖入社後、1949年第一物産入社。砂糖部長などを務め、1965年国際連合砂糖会議日本政府代表顧問。1970年三井製糖専務。1972年三井製糖社長。1974年全日本精糖工業会会長。同年全日本精糖工業会と日本精糖工業会が合併した精糖工業会の会長に就任。1976年に死去し、正五位勲三等旭日中綬章を追贈された。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
亀井 孝(かめい たかし、1912年6月3日 - 1995年… 亀井 孝(かめい たかし、1912年6月3日 - 1995年1月7日)は、日本の国語学者、言語学者。一橋大学名誉教授。 東京府生まれ。ユーラシア史学者・亀井高孝の長男。哲学者・亀井裕は弟 慶應義塾幼稚舎、武蔵高等学校 (旧制)を経て、1935年東京帝国大学文学部卒業。1938年同大学大学院を中退し、同大助手に就任。東京商科大学(のちの一橋大学)予科非常勤講師、同教授を経て、戦後、一橋大学助教授を経て教授。1977年定年退官し、名誉教授になる。成城大学教授、1984年に東洋文庫研究員となる。 「国語学よ、死して生れよ」をテーゼとし、方法論それ自体に対する手厳しい批判精神に満ちていた。いわば「学問の在り方を問う立場の飽くなき提示」という知的運動こそが、亀井の学問の真骨頂であった。
紅林 茂夫(くればやし しげお、1912年5月2日 - 20… 紅林 茂夫(くればやし しげお、1912年5月2日 - 2004年3月30日)は、日本の経済評論家。 東京出身。1936年東京商科大学(現一橋大学)卒業、安田銀行入行、戦後改称して富士銀行調査部長、67年常任監査役。経済評論で活躍。のち創価大学教授、90年退職、国際経済研究センター理事長。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
杉江 清(すぎえ きよし、1912年4月13日 - 2006… 杉江 清(すぎえ きよし、1912年4月13日 - 2006年8月1日)は、日本の文部官僚。文部省大学学術局長、国立科学博物館長、公立学校共済組合理事長などを歴任した。 愛知県出身。東京商科大学付属商業教員養成所を経て、1941年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。大学では米谷隆三ゼミナールに参加。 東京明治工業専門学校(現明治大学理工学部)教授、文部省初等中等教育局職業教育課長、文部省初等中等教育局中等教育課長、文部省大臣官房人事課長、文部省調査局長を経て、文部省体育局長として東京オリンピックの準備にあたった。 1962年1月から文部省管理局長を務めたのち、1964年から文部省大学学術局長として大学の学部学科増設や大学闘争への対応などにあたった。
吉永 榮助(よしなが えいすけ、1912年3月20日 - 1… 吉永 榮助(よしなが えいすけ、1912年3月20日 - 1998年9月28日)は、日本の法学者。専門は、商法・経済法。学位は、法学博士(一橋大学)。一橋大学名誉教授。東京出身。 1929年府立第七中学校(現・東京都立墨田川高等学校)卒業。東京商科大学(現一橋大学)予科入学。1934年司法試験合格(旧制)。1935年東京商科大学商学部卒業。商学部助手。民法学の岩田新ゼミナール出身だったが、岩田が白票事件で退官すると、田中誠二に師事して商法研究に転じた。また、大平正芳(のちに内閣総理大臣)や武野義治(のちに初代駐イスラエル大使)、小島太作(のちに駐インド大使)、富樫総一(のちに労働事務次官)らと、憲法の田上穣治講師や国際法の大平善梧教授が中心となっていた研究会にも参加した。
都留 重人(つる しげと、1912年〈明治45年〉3月6日 … 都留 重人(つる しげと、1912年〈明治45年〉3月6日 - 2006年〈平成18年〉2月5日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。公害の政治経済学を提唱し、雑誌『公害研究』(現『環境と公害』)創刊。 初代一橋大学経済研究所長、第6代一橋大学学長、ハーバード大学客員教授、イェール大学客員教授、国際経済学連合会長(日本人初)を歴任、日本学士院会員に選出された。日本人として2人目のハーバード大学名誉学位保持者。国民経済計算における三面等価の原則の考案・命名などをおこなった。 大分県生まれ、名古屋市育ち。小学校第5学年修了、旧制愛知県熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)第4学年修了を経て第八高等学校(現・名古屋大学)に入学したが、日本の中国侵入に反対して欠席届を出さずにストライキを起こしたため(反帝同盟事件)、宮崎辰雄(元神戸市長)、田中文雄(元王子製紙社長)、河本敏夫(元通産大臣)らとともに除籍される。
小島 太作(こじま たいさく、1912年1月27日 - 20… 小島 太作(こじま たいさく、1912年1月27日 - 2002年11月4日)は、日本の外交官。位階は正三位。 初代駐フィンランド特命全権大使や、外務省研修所長、駐インド特命全権大使等を歴任した。 神奈川県出身。1936年東京商科大学(現一橋大学)卒業、外務省入省、中華民国留学。1943年総力戦研究所入所。外務省アジア局一課長、外務省アジア局参事官等を経て、1961年駐フィンランド特命全権公使。1962年駐フィンランド特命全権大使。1964年駐エチオピア特命全権大使。1967年駐マレーシア特命全権大使。同年トゥンク・アブドゥル・ラーマンマレーシア首相との間で戦争賠償協定たる血債協定を締結。1970年外務省研修所長。
小坂 善太郎(こさか ぜんたろう、1912年〈明治45年〉1… 小坂 善太郎(こさか ぜんたろう、1912年〈明治45年〉1月23日 - 2000年〈平成12年〉11月26日)は、日本の政治家。位階は正三位。自由民主党の衆議院議員(16期)。外務大臣(第83・84・99代)、経済企画庁長官(第23代)、国家公安委員会委員長(初代)、労働大臣(第8代)を歴任した。 長野県長野市出身。学習院を経て、1935年(昭和10年)に東京商科大学(現在の一橋大学)を卒業する(上田貞次郎ゼミナール)。三菱銀行勤務や信越化学工業直江津工場長、同社取締役を経て、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に長野1区(当時)から立候補し、初当選する。以後、当選16回(当選同期に二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・川崎秀二・井出一太郎・早川崇・中野四郎など)。
金子 幸彦(かねこ ゆきひこ、1912年1月5日 - 199… 金子 幸彦(かねこ ゆきひこ、1912年1月5日 - 1994年7月25日)は、日本のロシア文学者、翻訳家。一橋大学名誉教授。 1912年、東京市・新宿津久戸町で生まれた。私立早稲田中学校を経て、東京外国語学校ロシア語科に進学。在学中に治安維持法違反で逮捕され勾留された。 卒業後は、逓信省勤務を経て、1948年に旧制東京商科大学予科非常勤講師となった。1951年、一橋大学社会学部専任講師に採用され、ロシア語を担当。1954年に助教授、1957年に教授昇格。この間、1953年から1972年まで北海道大学スラブ研究センター(現・北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター)客員研究員も兼ねた。1977年一橋大学を定年退官。
木村 元一(きむら もとかず、1912年1月1日 - 198… 木村 元一(きむら もとかず、1912年1月1日 - 1987年4月7日 )は、日本の経済学者。専門は財政学。一橋大学名誉教授。井藤半彌門下。ドイツ流の財政社会学を日本の財政学に導入。 宮城県志田郡志田村(現・大崎市古川、旧・古川市)生まれ。 1928年和歌山高等商業学校(現・和歌山大学経済学部)に無試験入学。1934年東京商科大学(現・一橋大学)卒業(井藤半彌ゼミナール)、同大学大学院研究科に進学するとともに、高輪商業学校(現・高輪中学校・高等学校)等で教鞭をとる。 1945年に召集により第2師団入隊。同年終戦により復員。 1973年に胃癌が発見され東京女子医科大学消化器病センターで胃3分の1の切除手術を受ける。
申 泰煥(シン・テファン、英語: SHIN Tae-hwan… 申 泰煥(シン・テファン、英語: SHIN Tae-hwan、1912年 - 1993年)は、大韓民国の経済学者、政治家。大韓民国建設部長官、ソウル大学校総長、大韓民国国土統一院長官を歴任した。本貫は平山申氏。 日本統治時代の朝鮮の京畿道仁川府で生まれる。1936年に京城高等商業学校卒業。1939年に旧制東京商科大学(現一橋大学)本科を卒業し、商学士を取得。専門は理論経済学。在学中、全朝鮮陸上選手権大会の800メートル競走で優勝。同年延禧専門学校(現延世大学校)教授。 1945年朝鮮基督教大学(現延世大学校)教授。1952年ソウル大学校法科大学教授。同年釜山で韓国経済学会を創立。1957年ソウル大学校法科大学長。
池 河連(チ・ハリョン、1912年 - 1960年)は、日本… 池 河連(チ・ハリョン、1912年 - 1960年)は、日本統治時代の朝鮮・連合軍軍政期の南朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国の女性小説家。本名は李 現郁。朝鮮文学家同盟常任委員などとして活動し、第1回朝鮮文学賞受賞。 日本統治時代の朝鮮の慶尚南道居昌郡の裕福な家に生まれ、当時の女性としては珍しく日本に留学し、旧制東京商科大学(現一橋大学)を卒業した。日本の降伏後、朝鮮文学家同盟常任委員などとして活動し、1946年7月の機関紙『文学』創刊号で発表した作品「道程」により第1回朝鮮文学賞を受賞した。1947年に北朝鮮に移るが、朴憲永派が失脚したのち、夫の林和が処刑されたのを知り、発狂して死去したとされる。
後藤 達郎 (ごとう たつろう、1911年11月11日 - … 後藤 達郎 (ごとう たつろう、1911年11月11日 - 2020年7月10日)は、日本の実業家。ホテルオークラ社長・会長、日本ホテル協会会長を歴任。 愛知県渥美郡二川町(現豊橋市二川町)出身。1935年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。同年三井物産入社。大学予科時代には、文部省による東京商科大学予科および専門部廃止案に反対し籠城闘争を決行(籠城事件)。 庭野正之助(のちに日本鉱業社長)らとともに、警察に検挙され勾留されたが、商法の本間喜一教授や民法の常盤敏太教授の尽力で釈放された。 米国三井物産社長・会長、三井物産副社長等を経て、1977年新設ポストである、三井物産副会長に就任。 大成観光常勤顧問を経て、1981年大成観光代表取締役社長就任。
相川 泰吉(あいかわ たいきち、1911年10月2日 - 1… 相川 泰吉(あいかわ たいきち、1911年10月2日 - 1982年11月28日)は、日本の経営者。東京都出身。 旧制成蹊中学校を経て、1936年に東京商科大学を卒業し、後に三菱江戸川化学(のちの三菱ガス化学)に入社。取締役、1964年5月に常務、1970年5月に専務を経て、1973年11月に副社長に就任し、1975年5月に社長に昇格した。 1956年のメルボルンオリンピックと1964年の東京オリンピックで馬術チームの監督も務めた。第4回全日本学生馬術選手権大会で優勝。子・相川一成も成蹊学園出身の第32回全日本学生馬術選手権大会優勝者であり、親子2代の優勝が報道された。 1982年11月28日肺炎のために死去。
篠田 義雄(しのだ よしお、1911年9月10日 - 198… 篠田 義雄(しのだ よしお、1911年9月10日 - 1988年4月2日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長、会長を務めた。岐阜県岐阜市出身。 1935年に東京商科大学を卒業し、同年に大阪商船(のちの大阪商船三井船舶)に入社。1964年4月に取締役に就任し、1967年5月に常務、1970年5月に専務を経て、1972年5月に副社長に就任し、1973年5月には社長に昇格。1976年6月に会長に就任し、1980年6月には相談役に就任。 1976年11月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1988年4月2日心不全のために死去。76歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
中村 茂(なかむら しげる、1911年8月31日 - 198… 中村 茂(なかむら しげる、1911年8月31日 - 1985年5月25日)は、日本の外交官。駐ポーランド特命全権大使や、駐ブラジル特命全権大使を務めた。 千葉県出身。1935年高等試験外交科合格。1936年東京商科大学(現一橋大学)卒業。1937年に外交官補に任官後、アメリカ合衆国や、ソビエト連邦、外務省調査部第二課、外務省政務局第三課で勤務。 1950年賠償庁特殊財産部長心得兼特殊財産部総務課長。1951年出入国管理庁長官官房秘書課長。1952年法務省入国管理局総務課長、法務教官。1953年外務大臣官房会計課長、在外公館等借入金整理準備審査会幹事。 在ロス・アンゼルス日本国総領事館総領事を経て、1958年在パキスタン日本国大使館参事官。
平岡 忠次郎(ひらおか ちゅうじろう、1911年(明治44年… 平岡 忠次郎(ひらおか ちゅうじろう、1911年(明治44年)8月17日 - 1989年(平成元年)6月20日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 埼玉県入間郡元加治村(現:入間市)で、所沢町の織物問屋浜田屋の二男として生まれる。1936年、東京商科大学を卒業した。 その後、平岡洋行主、富士汽船社長、所沢産業社長などを務めた。 戦後すぐに日本社会党に入党。所沢市議会議員に就任。1952年10月、第25回衆議院議員総選挙で埼玉県第二区から出馬して当選。その後、第31回総選挙まで連続7回の当選を果たした。この間、世界連邦日本国会委員会事務局長、世界連邦国会議員世界協会常任理事、日本社会党埼玉県連合会長、同党政策審議会副会長、同財務委員会副委員長、同代議士会副会長、同国際団体部長、同政審会大蔵部長、同税制部長、同中央執行委員、社会文化会館建設副委員長兼事務局長、首都圏開発副委員長などを務めた。
髙本 善四郎(たかもと ぜんしろう、1911年8月11日 -… 髙本 善四郎(たかもと ぜんしろう、1911年8月11日 - 2007年12月7日)は、日本の実業家、慈善活動家。ダイトロン創業者。 京都府舞鶴町(現舞鶴市)吉原地区生まれ。吉原尋常小学校、京都府立舞鶴中学校(現京都府立西舞鶴高等学校)卒業後、貿易に携わるため、東京商科大学(現一橋大学)専門部に進学し、1944年に卒業後商社に入る。 太平洋戦争中は中国大陸で従軍し、日本の降伏後大阪で個人事業を起業。東京通信工業の『テープコーダー』を扱い、1952年には大阪市北区に大都商事(現ダイトロン)を設立。 90歳で経営から引退後は、福祉や教育分野での慈善活動のため2001年に滋賀県にダイトロン福祉財団を設立、舞鶴市社会福祉協議会への寄付などを行った。
島村 道康(しまむら みちやす、1911年 <明治44年> … 島村 道康(しまむら みちやす、1911年 <明治44年> 4月28日 - 1989年 <平成元年> 2月19日)は、日本の経営者。位階は従四位。 なお名前については、音読みの「どうこう」と呼ばれることも多かった。 高知県高知市出身。1935年に東京商科大学本科を卒業し、同年4月に第一銀行に入行。1963年11月に取締役に就任し、1966年11月に常務。1968年から翌1969年にかけて起きた第一銀行と三菱銀行の合併騒動では、合併反対派の急先鋒として当時同行会長だった井上薫らに与し、合併を推進した頭取の長谷川重三郎と対立したため、長谷川の逆鱗に触れた島村は銀行を追い出され東亜ペイントに転出を余儀なくされた。
坂根 哲夫(さかね てつお、1911年 <明治44年> 3月… 坂根 哲夫(さかね てつお、1911年 <明治44年> 3月18日 - 2005年 <平成17年> 2月15日)は、日本の公取官僚。元公正取引委員会事務局長。退官後、日鐵海洋工事代表取締役社長、新日本製鐵参与等。 山口県小野田市出身。1931年山口高等商業学校(現山口大学)卒業。1934年に東京商科大学(現一橋大学)学部卒業後、猪谷善一研究室に勤務。1937年に外務省入省(調査部)。1943年大使館調査官、叙高等官六等。大東亜省調査官を経て、1945年に外務省に復帰(総務局総務課)。 1947年の公正取引委員会創立時から同事務局に入り、外務事務官を免ぜられ、総理府事務官、叙二級。1949年公正取引委員会事務局調査部長心得。
栖原 亮(すはら あきら、1911年 <明治44年> 3月1… 栖原 亮(すはら あきら、1911年 <明治44年> 3月11日 - 2000年 <平成12年> 7月30日)は、日本の経営者。本州製紙社長、会長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。1934年に東京商科大学を卒業し、同年に王子製紙に入社。1949年8月に本州製紙に転じ、1960年11月に取締役に就任し、1963年11月に常務、1969年5月に専務、1970年11月に副社長を経て、1974年11月には社長に就任。1982年6月に会長に就任し、1990年6月から相談役を務めた。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲二等瑞宝章を受章。 2000年7月30日肺炎のために死去。89歳没。
水野 衛夫(みずの もりお、1911年2月16日 - 198… 水野 衛夫(みずの もりお、1911年2月16日 - 1987年3月22日)は、日本の経営者。安田生命保険社長を務めた。 東京都出身。1922年に東京商科大学を卒業し、同年に安田銀行に入行。1959年5月に安田生命保険に転じ、常務、専務、副社長を経て、1969年に社長に就任した。 1974年10月に藍綬褒章を受章し、1981年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1987年3月22日、肺炎のために死去。76歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
村松 祐次(むらまつ ゆうじ、1911年1月16日 - 19… 村松 祐次(むらまつ ゆうじ、1911年1月16日 - 1974年3月6日)は、日本の経済学者。専門は中国社会経済史。一橋大学学長事務取扱等を歴任。日本学士院賞、日経・経済図書文化賞特賞受賞。従三位勲二等瑞宝章。 東京府八王子市寺町出身。旧制府立二中(現東京都立立川高等学校)を経て、1933年東京商科大学(現一橋大学)を卒業。根岸佶門下。 1933年大学を卒業し近衛歩兵連隊入隊。1936年大日本帝国陸軍主計少尉、1938年同中尉、1939年東京商科大学助教授。 1951年一橋大学経済学部教授、1954年東京大学文学部講師併任、1963年一橋大学経済学部長、1969年一橋大学学長事務取扱を歴任するも、1974年北里大学病院にて肝硬変のため死去。