井上 清(いのうえ きよし、1886年(明治19年)10月 … 井上 清(いのうえ きよし、1886年(明治19年)10月 - 不明 )は、日本の実業家である。朝鮮商業銀行取締役。岡山県総社市出身。 1886年(明治19年)、岡山県吉備郡岡田村(現:総社市)の井上徳之助の長男として出生。地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。同期には、後に台湾銀行本店支配人代理や岡山県議会議員をつとめる小山美登四がいる。1906年(明治39年)に同校を卒業し、東京高等商業学校予科を経て、翌年、正式に東京高等商業学校(現:一橋大学)へ入学する。1910年(明治43年)に同校の本科を卒業。 卒業後、直ぐに1年志願兵として第17師団へ入隊し、陸軍経理部三等主計となる。
安田 源右衛門(やすだ げんえもん、明治19年(1886年)… 安田 源右衛門(やすだ げんえもん、明治19年(1886年)10月 - 昭和8年(1933年)9月28日)は、日本の経営者。沖縄軌道代表取締役などを務めた。 石川県在籍。1907年東京高等商業学校(現一橋大学)予科入学。1911年同本科卒業。日本郵船入社後、弘済丸乗組などを経て、1915年に家督を相続した。 1918年台南製糖入社。台南製糖工場長兼主事を経て、1927年台南製糖取締役、沖縄第一次健康保険審査会委員。 台南製糖常務取締役と兼務して、1931年からは沖縄軌道代表取締役も務めたが、1933年に株主総会のため東京に出張した際、急病で入院しそのまま48歳で死去した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
田村 文吉(たむら ぶんきち、1886年(明治19年)9月2… 田村 文吉(たむら ぶんきち、1886年(明治19年)9月22日 - 1963年(昭和38年)6月26日)は、日本の政治家、実業家。位階は正三位。郵政大臣(第2代)、電気通信大臣(第2代)、参議院議員(2期)、長岡市長(第8代)。北越製紙社長。 新潟県長岡市の紙問屋田村文四郎の三男として生まれる。新潟県立長岡中学校を経て、1911年に東京高等商業学校(一橋大学の前身)専攻科を卒業、越後鉄道に入社し、経理課長として実務経験を積む。 1915年、父たちが設立した北越製紙(現:北越コーポレーション)に支配人として入社し、1934年に専務、1940年には社長に就任。工場の新設・拡充をリードし、北越製紙を現在の規模に育て上げた。
定塚 門次郎(じょうづか もんじろう、1886年(明治19年… 定塚 門次郎(じょうづか もんじろう、1886年(明治19年)9月10日 - 1932年(昭和7年)7月22日)は、日本の実業家、政治家、計理士。衆議院議員。 富山県射水郡伏木町(現:高岡市)で、定塚三右衛門、たか夫妻の四男として生まれる。1908年、東京高等商業学校を卒業し、さらに同専攻部銀行科で学んだ。 卒業後、日比谷商店に入社。以後、所沢商業銀行常務取締役、日比谷銀行常務取締役、大宮商業銀行監査役、東京商業会議所書記長代理、同事務嘱託、大礼記念東京博覧会事務副長、国際振興会常任幹事、民政社常務理事などを務めた。 1928年2月、第16回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区から立憲民政党所属で出馬して当選。
下田 文一(しもだ ぶんいち、1886年8月23日 - 19… 下田 文一(しもだ ぶんいち、1886年8月23日 - 1951年7月1日)は、日本の実業家。南洋拓殖社長。 長野県下伊那郡竜丘村(現・飯田市)出身。1910年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1912年同専攻部銀行科卒業。 1913年から1915年まで東亜同文書院教授を務め、三井物産入社後、同社台北支店長代理、本店業務課長、奉天出張所長等を経て、1936年南洋拓殖入社。 日満鋼材監査役、南洋開拓理事、南国企業社長等を歴任し、1940年南拓鳳梨社長。1944年南洋拓殖社長。 妻の二三子は中山久四郎の長女。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
上田 碩三(うえだ せきぞう、1886年2月27日 - 19… 上田 碩三(うえだ せきぞう、1886年2月27日 - 1949年1月30日)は日本のジャーナリスト、実業家。元電通社長。 熊本県八代郡宮原町(現・氷川町)出身。1909年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、日本電報通信社(のちの電通)入社。語学力を活かしパリ講和会議、ワシントン会議、ロンドン海軍軍縮会議で特派員を務め、「カミソリ上田」と呼ばれた。 電通で常務取締役通信部長等を務めたのち、同盟通信社編集局長、常務理事。日映専務理事。 1945年電通社長に就任。同年、大学の後輩で、結核の療養中だった田中寛治郎を再入社させた。田中は結核の療養を続けながら、電通の監査役兼渉外部長や秘書役等を歴任し、パブリック・リレーションズ(PR)研究・導入の日本における草分けとなった。
石田 礼助(いしだ れいすけ、1886年(明治19年)2月2… 石田 礼助(いしだ れいすけ、1886年(明治19年)2月20日 - 1978年(昭和53年)7月27日)は、日本の実業家。三井物産代表取締役社長・日本国有鉄道元総裁。本名・石田 禮助(読みは同じ)。
岡田 徳輔(おかだ とくすけ、1886年(明治19年)2月1… 岡田 徳輔(おかだ とくすけ、1886年(明治19年)2月19日 - 1971年(昭和46年))は、日本の政治家、実業家。埼玉県蕨市長。 第5代埼玉県蕨町長、蕨町会議員、埼玉県町村議会議長会会長、全国町村議会議長会会長、自治大学校運営審議会委員、地方制度審議会委員、町村合併促進審議会委員、自治庁参与をつとめたのち第二代蕨市長に就任した。ほか実業界でも秩父セメント連合会関東支部長、セメント共版会社常務取締役社長、埼北自動車取締役社長など歴任した。
石塚 粂蔵(いしづか くめぞう、1886年〈明治19年〉2月… 石塚 粂蔵(いしづか くめぞう、1886年〈明治19年〉2月17日 - 1962年〈昭和37年〉7月15日)は、日本の実業家。日本製鋼所社長・会長や昭和飛行機工業社長、日本兵器工業会会長、日本機械工業連合会理事、旧・日経連理事、旧・経団連理事などを歴任した。 東京府麹町区出身。麹町小学校、府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)、東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。一中では同級生に、市河三喜や黒田鵬心がいた。卒業後の1908年(明治41年)日本製鋼所に入社。1911年(明治44年)、会計事務研究のためイギリスの兵器メーカーヴィッカースに出向。帰国後は経理会計部門に配属後、室蘭工場次長や事務部長などを経て、1945年(昭和20年)に同社社長に就任した。
田中 完三(たなか かんぞう、1886年1月20日 - 19… 田中 完三(たなか かんぞう、1886年1月20日 - 1986年1月9日)は日本の実業家。三菱商事の社長・会長、三菱本社の社長を務めた。 新潟県佐渡郡相川町(現:佐渡市相川)出身。儒学者、佐渡奉行所地役人の田中葵園は祖父。 1908年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、三菱合資会社入社。1940年三菱商事会長、1943年三菱商事社長。 占領軍指令により追放された岩崎小弥太前社長の後継として、1945年に三菱本社に社長就任し、財閥解体による三菱本社清算まで、最後の社長を務めた。 1954年には旧三菱商事の後継会社である光和産業と東京貿易、不二貿易の大合同を実現。 1986年葉山町の自宅で死去、享年99。
竹原 傳(たけはら つとう、1885年10月22日 - 没年… 竹原 傳(たけはら つとう、1885年10月22日 - 没年不詳)は、日本の実業家。 竹原松次郎の長男として、福岡県宗像郡河東村(現・宗像市)に生まれる。1905年福岡県立中学修猷館を経て、1910年東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。 1910年南満州鉄道に入社し、山東鉄道管理部員、鉄道事務官、用度課長を務めたが、その後、貝島商業津久見出張所長、中央火災傷害保険参事、戸畑鋳物業務部長、同大阪工場長、同鐵管継手販売専務取締役などを歴任。 1938年7月、満洲重工業開発総裁鮎川義介が、竹原の経営手腕を高く評価し、同和自動車工業理事長に抜擢される。1939年5月満洲自動車製造が設立されると理事に就任。
塚田 公太(つかだ こうた、1885年9月27日 - 196… 塚田 公太(つかだ こうた、1885年9月27日 - 1966年6月9日)は日本の実業家。東洋棉花会長、日本織物統制社長、貿易庁長官、倉敷紡績社長、同会長等を務めた。藍綬褒章受章。 新潟県出身。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。三井物産ボンベイ支店員等を経て、三井物産綿花部が独立した東洋棉花に移り、ムンバイ支店長、常務、専務などを経て、1940年東洋綿花会長に就任。1943年トヨタ自動車工業監査役。 日本織物統制社長を経て、1946年公職追放された三井物産出身の向井忠晴に代わり貿易庁長官についたが、その後公職追放となる。 1951年倉敷紡績社長。1955年倉敷紡績会長。日本経営者連盟(のちの日本経営者団体連盟)常任理事等も務めた。
西山 勉(にしやま つとむ、1885年4月18日 - 196… 西山 勉(にしやま つとむ、1885年4月18日 - 1960年9月21日)は日本の銀行家、外交官。満州中央銀行総裁、終戦連絡中央事務局次長等を務めた後、戦後 GHQにより公職追放を受ける。追放解除後は初代駐インド大使を務めた。高知県出身。
堀 義貴(ほり よしあつ、1885年(明治18年)2月5日 … 堀 義貴(ほり よしあつ、1885年(明治18年)2月5日 - 没年不詳)は、日本の外交官。駐メキシコ公使兼初代駐エルサルバドル公使、初代駐グアテマラ公使、初代駐ホンジュラス公使、初代駐ニカラグア公使、初代駐コスタリカ公使。 鹿児島県に吉利靖の三男として生まれ、堀千夫の養子となった。1905年(明治38年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)専攻科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補、シンガポール領事、外務事務官・書記官、外務大臣秘書官、内閣総理大臣秘書官、中華民国公使館一等書記官、浦塩派遣軍政務部長、ロンドン総領事、中華民国大使館参事官、イギリス大使館参事官を歴任。 ロンドン海軍軍縮会議に全権事務所情報部長として参加し、1931年(昭和6年)、旭日中綬章受章。
向井 忠晴(むかい ただはる、1885年1月26日 - 19… 向井 忠晴(むかい ただはる、1885年1月26日 - 1982年12月19日)は実業家。太平洋戦争期における三井財閥の指導者。1970年勲一等旭日大綬章。
坪上 貞二(つぼかみ ていじ、1884年6月1日 - 197… 坪上 貞二(つぼかみ ていじ、1884年6月1日 - 1979年5月28日)は、日本の外交官。拓務次官、満洲拓殖公社総裁を経て、太平洋戦争中に初代駐タイ特命全権大使として日泰攻守同盟条約に調印した。戦後公職追放され、追放解除後に日本海外協会連合会(現 国際協力機構)会長を務めた。 佐賀県出身。1909年東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業。外務省入省。1912年ウラジオストク外交官補。外務省アジア局第2課長や、外務大臣官房会計課長、文化事業部長、拓務次官を経て、1935年に満洲国、南満洲鉄道、三井合名会社、三菱合資会社の出資で設立された満洲拓殖株式会社総裁に就任。1937年満洲拓殖公社総裁、1940年満洲国参議府参議。
鹿村 美久(しかむら よしひさ、1884年(明治17年)5月… 鹿村 美久(しかむら よしひさ、1884年(明治17年)5月11日 - 1939年(昭和14年)1月21日)は、日本の実業家。第2代富士瓦斯紡績社長。在任中死去した。 現在の愛媛県宇和島市に生まれる。1901年に東京府城北中学校(現・都立戸山高校)を卒業。1905年に東京高等商業学校(現・一橋大学)本科を首席総代で卒業し、岩崎久弥の知遇を得て三菱の海外研究生として、3年間欧米に遊学した。帰国後、三菱合資銀行部に入行した。豊川良平初代銀行部長の娘婿となった。 1909年に富士瓦斯紡績に入社。同社小山工場庶務主任、営業部次長を経て、1913年に川崎工場が設立されると、工場長に就任する。営業部長(1919年)。
阿部 嘉八(あべ かはち、1884年(明治17年)2月 - … 阿部 嘉八(あべ かはち、1884年(明治17年)2月 - 1938年(昭和13年)5月18日)は、日本の外交官、実業家。在シカゴ帝国領事、在バンクーバー帝国領事、大阪鐵工所取締役等を歴任した。 熊本県熊本市生まれ。壷川小学校を経て、1900年(明治33年)熊本商業学校卒業。1904年(明治37年)東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、大阪商船に入社。1906年(明治39年)同校専攻部卒業。柔道部出身。1907年(明治40年)外交官試験に合格し、領事官補任官。1908年(明治41年)在ホノルル総領事代理。1909年(明治42年)在サンフランシスコ領事官補。 1910年(明治43年)在シアトル領事官補。
岡橋 林(おかはし しげる、1883年12月15日 - 19… 岡橋 林(おかはし しげる、1883年12月15日 - 1959年11月24日)は、日本の実業家。元住友銀行社長。 福岡県出身。明治39年(1906年)東京高商(現・一橋大学)を卒業し、同年住友銀行に入り下関、名古屋、東京各支配人を経て常務、昭和15年(1940年)専務翌年社長と改称。また住友本社、住友信託、住友倉庫、住友生命、住友ビル、昭和銀行各取締役のほか、住友金属工業、住友電気工業、住友化学工業、住友鉱業、住友機械工業、住友アルミ製錬、四国中央電力、日本板硝子各監査役を兼ねた。戦時中は大阪銀行集会所会長、敗戦直後関西経済連合会常務理事を務めたが、公職追放となり、解除後の昭和28年(1953年)第5次吉田内閣の経済最高顧問となった。
菅 礼之助(すが れいのすけ、1883年11月25日 - 1… 菅 礼之助(すが れいのすけ、1883年11月25日 - 1971年2月18日)は、日本の実業家、俳人。秋田県生まれ。旧制秋田中学、日本中学(現:日本学園)、東京高等商業学校(現:一橋大学)出身。古河鉱業(現古河機械金属)を経て、石炭庁長官、同和鉱業(現DOWAホールディングス)会長、昭和鉱業(現昭和KDE)会長、東京電力会長、経済団体連合会評議会議長等を務めた。1970年勲一等瑞宝章、1971年従三位勲一等。第九代、十代、十三代如水会理事長。初代日本相撲協会運営審議会会長。俳人としては裸馬と号し、俳誌「同人」を主宰した。 菅礼之助(菅裸馬)は明治16年(1883年)に秋田県南秋田郡土崎港町に生まれ(本籍は雄勝郡秋ノ宮)、東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業後、明治38年(1905年)に古河鉱業へ入社、古河グループの三代目古河虎之助をビジネスで支える一人となった。
原口 徠(はらぐち きたる、1883年(明治16年)10月2… 原口 徠(はらぐち きたる、1883年(明治16年)10月29日 - 1936年(昭和11年)4月22日)は、日本の銀行家、華族。 1903年東京高等商業学校(現一橋大学)予科入学。1910年同専攻部卒業、日本勧業銀行入行。1919年男爵を襲爵し、正五位に叙される。1926年叙従四位。1934年日本勧業銀行常務理事。叙正四位。1936年死去。享年54。 父は原口兼済。妻は伊東巳代治の娘。 娘の峯子は、博多大丸取締役の武田克(磯部正春の甥、岩崎弥太郎の婚族)に嫁いだ。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
前田 幸太郎(まえだ こうたろう、1883年10月26日 -… 前田 幸太郎(まえだ こうたろう、1883年10月26日 - 1965年3月8日)は、日本の経済学者。専門は経済学史、経済史。第3代横浜市立大学学長。横浜文化賞受賞。 京都府出身。1904年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1909年同専攻部領事科卒業。市立下関商業学校教諭、山口高等商業学校教授を経て、1932年から横浜市立横浜商業専門学校校長、横浜市立商業学校校長を務め、教員の充実化などを進めた。1933年横浜経済研究所(のちの横浜市立大学経済研究所)を設立し所長に就任。1949年初代横浜市立大学商学部長兼横浜市立経済専門学校校長。1955年度横浜文化賞受賞。1957年横浜市立大学学長。
瀧谷 善一(たきたに ぜんいち、1883年6月30日 - 1… 瀧谷 善一(たきたに ぜんいち、1883年6月30日 - 1947年9月18日)は、日本の商学者。神戸経済大学(現神戸大学)名誉教授。初代日本経営学会理事長。 大阪府貝塚市出身。1908年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部卒業。村瀬春雄門下。1910年神戸高等商業学校(現神戸大学)教授。1913年英米留学。1923年欧米出張。1924年同校商業研究所調査部長。1929年神戸商業大学(現神戸大学)教授。1935年商学博士の学位を取得。1941年日本経営学会初代理事長。1942年依願退官。同年従三位。のち、東洋紡績経済研究所初代所長、神戸市助役、神戸市最高顧問を歴任した。
足立 正(あだち ただし、1883年(明治16年)2月28日… 足立 正(あだち ただし、1883年(明治16年)2月28日 - 1973年(昭和48年)3月29日)は、日本の実業家・財界人。位階勲等は正三位勲一等旭日大綬章。号立堂。王子製紙社長、ラジオ東京(現・TBSホールディングス)初代社長・会長、日本民間放送連盟初代会長。日本商工会議所名誉会頭。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。 1883年(明治16年)鳥取県境町(現・境港市)朝日町に生まれる。1905年(明治38年)東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業、三井物産へ入社。1920年(大正9年)王子製紙取締役に就任、1942年(昭和17年)同社社長就任 1951年(昭和26年)ラジオ東京(現・TBS)創立に当たり取締役社長。
鈴木 與平(すずき よへい、1883年(明治16年)2月5日… 鈴木 與平(すずき よへい、1883年(明治16年)2月5日 - 1940年(昭和15年)5月2日)は、明治から昭和にかけての日本の実業家、政治家。鈴与創業者。清水市会議長、静岡県会議長、貴族院多額納税者議員等を歴任した。旧名山崎通太郎。 2021年現在、鈴与会長を務める鈴木与平は8代目で、孫にあたる(没後に誕生した為、面識はない)。 静岡県有度郡上清水村(現静岡市清水区清水)で、沢野道太郎出生。静岡県静岡中学校に学ぶ。静岡中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)に所属した。東京高等商業学校(現一橋大学)在学中に鈴木家の婿養子となる。1906年に同校専攻部を卒業。1917年に家督相続し第6代鈴木與平の名を継ぐ。
國分 勘兵衛(こくぶ かんべえ、1883年1月19日 - 1… 國分 勘兵衛(こくぶ かんべえ、1883年1月19日 - 1975年2月23日)は、日本の実業家。養子として入った國分家の家業を株式會社國分商店(のちの国分グループ本社株式会社)とし、カルピス食品工業株式會社代表取締役社長なども務めた。旧名山本 秀次郎。 現在の三重県松阪市で生まれた。1905年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、國分商店に入った。國分家の養子となり、1924年には國分勘兵衛を襲名した。1938年大日本洋酒食料品商組合の初代会長に就任した。 日本の降伏後、1950年に合名会社国分商店と国分漬物株式会社を合併して国分株式会社(のちの国分グループ本社株式会社)を設立し、同社社長に就任。
武者 錬三(むしゃ れんぞう、明治16年(1883年)1月7… 武者 錬三(むしゃ れんぞう、明治16年(1883年)1月7日 - 昭和56年(1981年)1月13日)は、日本の実業家。朝鮮電気協会元副会長。京城電気元社長。族籍は京都府士族。 土木技師である武者満歌の長男として、神戸市に生まれる。 明治29年(1896年)に京都府尋常中学校(現・京都府立洛北高等学校)、同38年(1905年)に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業する。尚、東京高商の同期には、三井物産の田島繁二(後同社常務取締役)、内田信也、芳川寛治がいる。 卒業と同時に第一銀行へ入行し、間もなく釜山支店副支配人に挙げられ、朝鮮へ渡る。渡鮮後、朝鮮における電気事業を有望視し、親友の芳川寛治らとともに渋沢栄一が後援する日韓瓦斯(ガス)株式会社の経営に当たったが、明治30年代当時の朝鮮では、一般の需要は少なく、会社の業績は上がらなかった。
松村 光三(まつむら こうぞう、1882年(明治15年)12… 松村 光三(まつむら こうぞう、1882年(明治15年)12月24日 – 1962年(昭和37年)6月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→自由党)、商工参与官、大蔵政務次官、軍需政務次官。 栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)出身。1909年(明治42年)、東京高等商業学校専攻部(現在の一橋大学)を卒業。その後、ベルリン大学、ベルリン高等商業学校に留学した。古河合名会社参与、大日本人造肥料株式会社監査役、旭電化工業株式会社監査役、八戸水力電気株式会社監査役、日光登山鉄道株式会社取締役、協調会社会政策学院講師を務めた。 1928年(昭和3年)、日本初の普通選挙となった第16回衆議院議員総選挙に出馬して当選。
園部 潜(そのべ ひそむ、1882年(明治15年)12月 -… 園部 潜(そのべ ひそむ、1882年(明治15年)12月 - 1945年(昭和20年))は、日本の銀行家。安田保善社理事や、安田銀行社長を務めた。 三重県出身。1904年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、日本銀行入行。1916年から3年間アメリカ合衆国で銀行業の視察を行ったのち、日本銀行検査役、日本銀行調査役、日本銀行松江支店長等を経て、日本銀行での上司であった結城豊太郎安田保善社専務理事兼安田銀行副頭取がいた安田保善社に転じ、1923年安田保善社調査部長に就任。 同年安田保善社理財部長。1924年安田保善社理財部長兼銀行部長。安田銀行常務監査役を経て、1926年安田銀行常務取締役。1940年からは森広蔵の後任として安田銀行副頭取を務め、事業金融への進出を行うなどした。
佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月… 佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年(明治15年)10月30日 - 1971年(昭和46年)12月18日)は、日本の外交官、政治家。林内閣外務大臣、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使、戦後には参議院議長(第2・3代)等を歴任した。 旧弘前藩士で当時大阪府警部であった田中坤六の次男として大阪府に生まれる。旧制正則中学校(正則高等学校の前身)卒。1904年(明治37年)、東京高等商業学校(一橋大学の前身)全科卒。同専攻部領事科へ入学。一橋では同級生の向井忠晴(三井総元方理事長や大蔵大臣を歴任)や福島喜三次(元三井合名理事)と首席を争った。後年、向井に駐米大使を打診したが飛行機嫌いであるとして固辞されている。
室谷 藤七(むろたに とうしち、前名・藤太郎、1882年〈明… 室谷 藤七(むろたに とうしち、前名・藤太郎、1882年〈明治15年〉10月3日 - 没年不明)は、日本の商人(材木商)、アマチュアゴルファー、実業家、兵庫県多額納税者、神戸商工会議所議員。 兵庫県人・先代藤七の長男。1906年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1912年、家督を相続し前名・藤太郎を改め襲名した。竹木材商、材木問屋、製竹輸出業、クレー製造業を営む。 会社の重役であり、室谷商店社長、室谷工業会長、大平鉱山会長、太平鉱山社長、神戸果実青物市場取締役、廣野ゴルフ倶楽部、大日本塩業各監査役などをつとめた。 アマチュアゴルファーとしても知られた。趣味は武道、ゴルフ。宗教は浄土宗。兵庫県神戸市須磨区在籍で、住所は神戸市須磨区離宮前、同区大黒町。
寿原 英太郎(すはら えいたろう、1882年(明治15年)8… 寿原 英太郎(すはら えいたろう、1882年(明治15年)8月27日 - 1957年(昭和32年)6月17日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、小樽市長。 北海道出身。富山県出身の寿原猪之吉の長男として生まれる。1906年(明治39年)東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業。小間物洋品商を始め、1921年(大正10年)寿原商事を設立し社長に就任。その他、共成 、寿原産業、北洋無尽の各社長、小樽商工会議所議員、小樽市会議員などを務めた。 1932年(昭和7年)2月、第18回衆議院議員総選挙に北海道第1区から立憲政友会公認で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。 1947年(昭和22年)4月、公選初代の小樽市長に就任し、1期在任して1951年(昭和26年)4月に退任。
岩田 新(いわた あらた、1882年5月29日 - 1947… 岩田 新(いわた あらた、1882年5月29日 - 1947年10月3日)は、日本の法学者。民法学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。日本で初めて事情変更の原則を論じた。国際私法の大平善梧一橋大名誉教授や商法の吉永榮助一橋大名誉教授は岩田ゼミ出身。なお、民法の後継者は出していない。川名兼四郎門下。 愛知県碧海郡知立町(現・知立市)出身。1906年(明治39年)第一高等学校卒業。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学独法科卒業。1916年(大正5年)東京帝国大学大学院(旧制)法学研究科修了。東京高等商業学校(現一橋大学)教授。1920年(大正9年)フランス・ドイツ・スペイン・イギリス・イタリアに文部省在外研究員として、研究留学( - 1923年)。
芳川 寛治(よしかわ ひろはる、1882年(明治15年)5月… 芳川 寛治(よしかわ ひろはる、1882年(明治15年)5月12日 - 1956年(昭和31年)9月29日、旧姓・曾禰 )は、大正時代から昭和時代にかけて活躍した実業家。伯爵。「千葉心中」と呼ばれる身分違いの心中事件で世を騒がせた芳川鎌子の夫。 曾禰荒助子爵の次男として生まれる。1905年(明治38年)東京高等商業学校(現・一橋大学)卒。同級生には、政治家の内田信也や京城電気(現・韓国電力公社)社長の武者錬三がいた。のち芳川顕正伯爵の四女・鎌子(1891-1921)と結婚して芳川家の婿養子となる。男子に恵まれなかったため、資産等は娘・明子の婿である芳川三光(三室戸敬光三男)が相続している。 高等商業の先輩である犬塚信太郎や、その友人でもあった秋山真之と親しく、犬塚や秋山とともに、孫文の革命派を支援した。
山崎 一保(やまざき かずやす、1882年(明治15年)5月… 山崎 一保(やまざき かずやす、1882年(明治15年)5月 - 1944年(昭和19年)3月21日)は、日本の実業家。東洋綿花代表取締役会長や、輸出綿糸布同業会会長を務めた。 京都府出身。1904年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、三井物産入社。1914年同社大阪支店綿花部副部長。1920年に綿花部が東洋綿花として独立すると、同社常務取締役に就任。児玉一造を補佐し、1930年には児玉の後任として専務取締役に就任。同年に児玉が死去すると1934年からは後任として代表取締役会長を務め、輸出綿糸布同業会会長も兼務し、日蘭会商への対応にあたるなどした。 妻幸は、在ベルギー一等書記官や外務大臣官房翻訳課長等を務めた竹村本五郎の二女。
矢田部 保吉(やたべ やすきち、1882年(明治15年)4月… 矢田部 保吉(やたべ やすきち、1882年(明治15年)4月1日 - 1958年(昭和33年)10月8日)は、日本の外交官。駐シャム(タイ王国)公使在任中タイ立憲革命を支援。第二次世界大戦時にはタイ人留学生受入れを進め日泰攻守同盟条約慶祝答礼使節団大使等を務めた。 山口県出身。1907年(明治40年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。翌年、外交官補としてシャムに赴任。安東領事官補、ロンドン領事官補、蘇州領事官補、汕頭領事官補、シドニー領事官補、ボンベイ(現在のムンバイ)領事、廈門領事・台湾総督府事務官、外務事務官・参事官、イタリア大使館一等書記官、外務書記官、在アメリカ合衆国大使館一等書記官、青島総領事などを歴任。
山崎 馨一(やまざき けいいち、1882年(明治15年)2月… 山崎 馨一(やまざき けいいち、1882年(明治15年)2月28日 - 1948年(昭和23年)9月12日)は、日本の外交官。駐ペルー公使。 神奈川県出身。1905年(明治38年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)専攻部を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補となり漢口、ニューヨークに勤務した。さらにシカゴ領事、イギリス大使館三等書記官、同二等書記官、ロンドン総領事、上海総領事、ホノルル総領事、駐ペルー公使を歴任した。 退官後は後藤風雲堂株式会社取締役会長、後藤風雲堂製作所株式会社社長を務めた。 1948年(昭和23年)9月12日、病気療養中に東京都世田谷区の自宅で死去、63歳。
堀 文平(ほり ぶんぺい、1882年(明治15年)2月10日… 堀 文平(ほり ぶんぺい、1882年(明治15年)2月10日 - 1958年(昭和33年)1月1日)は、日本の実業家。第3代富士紡績社長や、同社会長、経済団体連合会副会長、初代日本紡績協会委員長、日本銀行参与、通商産業省顧問などを歴任した。 岡山県津山に生まれる。滋賀県立商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)特待生を経て、1904年に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業した。卒業後は大阪商船に入社した。1907年に福島紡績に移る。 1912年に大阪莫大小(メリヤス)創立に参画し、同社常務に就任した。1931年に改称された明正紡織の社長に就任する。1941年には同社を富士紡合と合併させ、富士瓦斯紡績の社長となった。
井上 富三(いのうえ とみぞう、1882年(明治15年)2月… 井上 富三(いのうえ とみぞう、1882年(明治15年)2月6日 - 1974年(昭和49年)3月28日)は、日本の実業家。大建産業副社長等を経て、呉羽紡績社長や、同社会長、呉羽化学工業会長などを務めた。 福井県遠敷郡熊川村生まれ。同郷の幼馴染だった伊藤竹之助の招きで東京高等商業学校(現一橋大学)在学中から伊藤本店で店内教育の講師を務め、1908年に同校本科卒業後、専門学校出身者として初めて伊藤本店に入店した。 1909年、マニラに視察のため出張。1914年伊藤忠支配人。1920年伊藤忠商事経理部長。1921年大同貿易監査役、富山紡績取締役、伊藤忠商事監査役。1929年呉羽紡績専務取締役。1933年伊藤忠商事取締役。
黒田 慶太郎(くろだ けいたろう、1882年〈明治15年〉2… 黒田 慶太郎(くろだ けいたろう、1882年〈明治15年〉2月 - 1951年〈昭和26年〉10月5日 )は、日本の実業家。中国にあった日系紡績会社の上海紡織代表取締役会長として戦前の上海に暮らした。孫は明仁上皇の女婿・黒田慶樹。 大阪府堺市出身。黒田吉三郎の長男。 1904年に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業した。卒業後は三井物産会社ロンドン支店で約9年勤務し、1912年に東京本社へ異動となった。1913年、三井物産会社の傘下にあった上海紡織に入社し、1926年に代表取締役に就任し、のちに代表取締役会長に就任した。 終戦と同時に上海紡織は閉鎖され、黒田一家は日本へ引き揚げた。 黒田について『第五版 財界人物選集』(1939年、560頁)には、「在華紡織界の指導的人材として知らる」とある。
星野 唯三(ほしの ゆいぞう、1882年〈明治15年〉1月1… 星野 唯三(ほしの ゆいぞう、1882年〈明治15年〉1月18日 - 1967年〈昭和42年〉1月3日)は、日本の経営者。第3代日清製粉代表取締役社長。 群馬県館林町の酒造家の次男として生まれる。学業優秀で、終始首席を占め、1904年に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した。 同級生に佐藤尚武(元参議院議長)、向井忠晴(元三井物産会長)、梁瀬長太郎(ヤナセ創業者)、橋本万之介(元東北配電総裁)、前田幸太郎(元横浜市立大学学長)、斎藤浩介(元日立精機社長)、堀文平(元富士紡績社長)などがいた。 京都の大実業家の養子となることとなっていたが、兄が急逝したため生家を継ぎ、正田氏ほか館林の有力実業家の推挙を受け、日清製粉館林工場支配人や、小泉銀行監査役などを務めた。
貝島 太市(かいじま たいち、1881年11月3日 - 19… 貝島 太市(かいじま たいち、1881年11月3日 - 1966年8月28日)は、日本の実業家。貝島炭礦社長。 貝島炭礦の創始者である貝島太助の四男として、福岡県遠賀郡に生まれる。1895年、福岡県立尋常中学修猷館に入学、在学中の1898年、貝島鉱業合名会社を、社長・貝島太助、社員・貝島六太郎(太助の次弟)、貝島嘉蔵(太助の三弟)、貝島太市の4名で設立する。1901年、東京高等商業学校(現・一橋大学)を目指すため、修猷館を退学して東京商工中学校へ入学し、1902年、東京高等商業学校に進学する。在学中の1904年、旧長州藩士鮎川弥八の三女で鮎川義介(日産コンツェルン創始者)の妹であるフジと結婚する。
遠藤 為春(えんどう いしゅん、明治14年(1881年)10… 遠藤 為春(えんどう いしゅん、明治14年(1881年)10月26日 - 昭和44年(1969年)2月6日)は、日本の歌舞伎研究家。 東京市日本橋馬喰町出身。東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。1908年三菱銀行入行。1911年歌舞伎座入社。 1914年には自宅の庭にあった演舞館を三渓園の入口に移築し、横浜演舞館とした。 家業の柏木運送店専務を務めた他、1915年松竹理事。1937年松竹取締役。 第二次世界大戦後は、松竹演劇部相談役や新橋演舞場常務などを務めた。また、評論、随筆などを執筆した。 1964年藍綬褒章受章。1968年勲四等瑞宝章受章。1969年死去。一乗寺で葬儀が行われた。本名は弥市。
河上 哲太(かわかみ てつた、1881年(明治14年)10月… 河上 哲太(かわかみ てつた、1881年(明治14年)10月13日 – 1952年(昭和27年)11月17日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 愛媛県周桑郡国安村(現在の西条市)出身。1905年(明治38年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業。卒業後は、国民新聞社に入社し、経済記者として活動。経済部長に昇った。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。9回連続当選を果たした。その間、加藤高明内閣で文部参与官に就任し、その他に政友会総務を務めた。 戦後、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となる。1951年(昭和26年)、追放解除となるが、翌1952年(昭和27年)11月17日死去。
福島 喜三次(ふくしま きそうじ、1881年〈明治14年〉1… 福島 喜三次(ふくしま きそうじ、1881年〈明治14年〉10月10日 - 1946年〈昭和21年〉9月17日)は日本の実業家。三井合名会社理事。内閣調査局専門委員及び企画院参与を務めた。日本人初のロータリアンで、元ダラスロータリークラブ会員。 佐賀県西松浦郡有田村に福島喜平の六男として生まれる。2歳のとき父を亡くす。小学校時代から終始級長を務めるなど秀才で鳴らし、長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)を経て、1904年(明治37年)7月に東京高等商業学校(現・一橋大学)を首席で卒業。同期には星野唯三、園部潜、佐藤尚武、山崎一保、向井忠晴、黒田慶太郎、梁瀬長太郎らがいた。なお、同校では上級の優等生を選び夏季休業中に実地研究を課したが、福島も3年次に選ばれ「清国上海ニ於ケル貨幣事情調査報告書」を提出している。
村瀬 玄(むらせ げん、1881年(明治14年)7月12日 … 村瀬 玄(むらせ げん、1881年(明治14年)7月12日 - 1963年(昭和38年)5月6日)は、日本の会計学者。元東京商科大学(現・一橋大学)附属商学専門部教授。日本会計学会発起人。 愛知県出身。1899年愛知県名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)卒業、同校嘱託教員。1903年東京高等商業学校(現・一橋大学)附属商業教員養成所卒業。1923年ペンシルベニア大学ウォートン・スクール卒業、MBA(経営学修士)。 熊本県立商業学校(現・熊本県立熊本商業高等学校)教諭時代の教え子に、のちに同僚になる堀潮がいた。小倉市立小倉商業学校(現・福岡県立小倉商業高等学校)校長を経て、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)教授在任中、1921年から1924年までイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ帝国に留学。
武藤 長蔵(むとう ちょうぞう、1881年6月9日 - 19… 武藤 長蔵(むとう ちょうぞう、1881年6月9日 - 1942年6月27日)は、日本の経済学者・歴史家(経済史・経済学史専攻)。長崎高等商業学校(長崎大学経済学部の旧制前身校)の教授を長く務めた。従三位・勲三等。 1881年、愛知県海部郡津島町(現・津島市)に武藤長八の二男として生まれた。東京高商専攻部(のちの旧制東京商科大学、一橋大学の前身)貿易科に進学して、1905年7月に卒業。 卒業後は東亜同文書院講師に就いた。1907年より長崎高等商業学校教授。1909年から 1912年まで、商学研究のためにアメリカ・イギリス・ドイツに3年間留学。この間、小泉信三などと交流をもった。1936年、長崎高等商業学校を退官し、名誉教授となった。
山本 厚三(やまもと こうぞう、1881年(明治14年)5月… 山本 厚三(やまもと こうぞう、1881年(明治14年)5月29日 - 1950年(昭和25年)1月18日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・平沢。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)で平沢家に生まれる。1903年6月、東京高等商業学校を卒業。外交官を目指したが、同年8月、北海道松前郡福山町の富豪、3代山本久右衛門の養子となる。1906年、一年志願兵として入隊し、陸軍三等主計まで昇進して除隊。その後、養父が小樽区に移りその事業を補佐。小樽区会議員、小樽市会議員、小樽商工会議所顧問、小樽倉庫社長、小樽商船社長、北日本汽船取締役、北海道製綿取締役、大正製麻取締役、小樽新聞取締役、北海道練乳監査役、定山渓鉄道監査役、松前造林 (資) 社長などを歴任。
藤巻 太一(ふじまき たいち、1881年(明治14年)4月2… 藤巻 太一(ふじまき たいち、1881年(明治14年)4月23日 - 没年不明)は、日本の実業家。甲子不動産、佐賀炭鉱各元取締役。大阪港湾土地元監査役。朝鮮銀行総裁席外国為替元課長・初代ニューヨーク支店長。元参議院議員の藤巻健史と藤巻幸夫は孫。 新潟県出身。農業・藤巻伊三郎の次男として生まれる。兄が亡くなったため、戸主を継いだ甥・敏太郎から1930年(昭和5年)に分家する。1904年(明治37年)、旧制東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し、第一銀行に入行。5年後の1909年(明治42年)、朝鮮銀行に転じ大連支店支配人、東京支店助役、東京総裁席課長を経て大阪支店の支配人に就任。一方で大阪港湾土地監査役に挙げらる。
塩田 団平(しおた だんぺい、旧字体: 塩田 團平、1881… 塩田 団平(しおた だんぺい、旧字体: 塩田 團平、1881年〈明治14年〉4月1日 - 1963年〈昭和38年〉4月16日)は、日本の政治家。銀行家。羽後銀行(現:北都銀行)頭取。 秋田県雄物川町(現:横手市)沼館の大地主の長男として生まれる。幼名、重三。明治41年、父親が死去し、8代目の団平を襲名。 旧制秋田中学、東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業。帰郷後、1913年(大正2年)32歳で沼館町(現:横手市)町長に就任し、1946年(昭和21年)まで町長を務めた。また、この間には1919年(大正8年)からは秋田県会議員を2期、1924年(大正13年)からは衆議院議員を2期(第15回、第17回総選挙当選)、1939年(昭和14年)には、貴族院多額納税者議員にも選出され、同年9月29日に就任し、同成会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在職した。