津村 重舎(つむら じゅうしゃ、1871年8月20日〈明治4… 津村 重舎(つむら じゅうしゃ、1871年8月20日〈明治4年7月5日〉 - 1941年〈昭和16年〉4月28日)は日本の実業家。大和国宇陀郡池上村(後に奈良県宇陀郡榛原町、現在は宇陀市)出身。廃藩置県の9日前に出生。 1893年(明治26年)に津村順天堂(現・ツムラ及びバスクリンの前身)を創業した。1925年(大正14年)から1936年(昭和11年)まで貴族院議員を務めた。 出身の大和国(奈良県)から上京し、東京高等商業学校(現・一橋大学)中退。1893年(明治26年)津村順天堂を創業、日本橋に店を構えて婦人用煎じ薬中将湯の販売を始めた。郵便報知新聞に広告を出し、1895年(明治28年)には日本で初めてガスイルミネーションを用いた看板を掲げた。
坂梨 哲(さかなし さとる、1871年6月19日(明治4年5… 坂梨 哲(さかなし さとる、1871年6月19日(明治4年5月2日)- 1943年(昭和18年)5月25日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県で坂梨磯吉の長男として生まれる。1897年(明治30年)東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業。 東亜煙草株式会社取締役、山東興業・山東水産・山東運輸株式会社取締役、神戸・第一水産取締役、坂梨(名)社長、坂梨商事社長、旭セメント社長、日之出漁業社長、日本海水工業社長、東邦化学工業社長、西部合同瓦斯監査役、福岡県会議員などを歴任。 1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙において、福岡県第15区で立憲政友会から出馬し当選し衆議院議員となり、1期務めた。
村瀬 春雄(むらせ はるお、1871年5月18日(明治4年3… 村瀬 春雄(むらせ はるお、1871年5月18日(明治4年3月29日) - 1924年(大正13年)4月9日)は、日本の保険学者、実業家。法学博士。族籍は兵庫県平民。 日本の海上保険学の祖とされる。東京高等商業学校(現一橋大学)教授や帝国海上保険副社長を歴任し、独自の保険学を確立するとともに、多くの後進を育てた。申酉事件で母校防衛に尽力し、没後キャンパス内に胸像が設置された。 東京で生まれた。旧福井藩士・関戸由義の二男。兵庫県神戸市北長狭通出身。父である関戸由義は福沢諭吉の知人で、自家の屋敷内で福沢らが神戸商業講習所を設立。1883年、東京府平民・村瀬さだの死跡を相続する。 神戸商業講習所が改組された兵庫県立神戸商業学校(現兵庫県立神戸商業高等学校)を5回生として卒業後、1886年高等商業学校(現一橋大学)に入学。
深川 忠次(ふかがわ ちゅうじ、1871年2月21日(明治4… 深川 忠次(ふかがわ ちゅうじ、1871年2月21日(明治4年1月3日) - 1934年(昭和9年)2月23日)は、日本の実業家、政治家。深川製磁創業者、元有田町長。有田焼の輸出を進め、パリ万国博覧会金賞金牌やセントルイス万国博覧会一等賞金牌を受賞。 当時の肥前国有田(現・佐賀県有田町)出身。8代深川栄左衛門の二男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1887年に独立して陶磁器製造販売業を営む。1894年に深川製磁を設立。ヨーロッパ人の陶磁器愛好家の好みに合わせてアレンジした大花瓶を、1900年のパリ万国博覧会に出展し金賞受賞。同年よりボールトン・アンド・ワットを代理店としてヨーロッパでの販売展開を進めた。
武居 綾蔵(たけい あやぞう、明治3年12月5日(1871年… 武居 綾蔵(たけい あやぞう、明治3年12月5日(1871年1月25日) - 昭和7年(1932年)12月9日)は、日本の実業家。内外綿頭取や在華日本紡績同業会委員長を務めた。 長野県諏訪郡湖南村生まれ。長野県尋常中学校(現・長野県松本深志高等学校)を経て、1892年高等商業学校(現・一橋大学)卒業、市立大阪商業学校(現・大阪公立大学)教諭。1895年日印貿易会社入社。1902年同社副支配人。1903年同社支配人。 1912年内外綿取締役。1922年から同社頭取となり、高付加価値化戦略を進めた。1929年在華日本紡績同業会委員長。また、日華学会評議員、大阪朝日新聞社内東亜調査会評議員なども務め、日満経済協和会を創立。
岸 吉松(きし きちまつ、1871年(明治4年) - 195… 岸 吉松(きし きちまつ、1871年(明治4年) - 1956年(昭和31年))は、新潟県出身の実業家。岸宇吉の子。アメリカ合衆国テキサス州南東部に移住して当地に稲作を広め、また当地での石油採掘で財を成した。現地では「バロン・キシ」と呼ばれた。 岸吉松は新潟県長岡市の名家に8人兄弟の1人として生まれた。東京高等商業学校(現一橋大学)に進学したものの、1904年に日露戦争が勃発すると徴兵され、翌1905年の終戦まで満州にとどまった。その後、岸は満州に残ることを望んだが、地価と治安の問題により帰国した。 岸が渡米する数年前、1902年に、駐米総領事内田定槌はアメリカ合衆国南部を視察し、当地の稲作は未発達で、大きな利益が望めるとの報告を持ち帰った。
長尾 良吉(ながお りょうきち、1870年11月19日(明治… 長尾 良吉(ながお りょうきち、1870年11月19日(明治3年10月26日)- 1937年(昭和12年)1月22日)は、日本の経営者。鐘淵紡績社長を務めた。 兵庫県出身。1885年に府立大阪中学校(現大阪府立北野高等学校)初等中等科を卒業。1891年に高等商業学校(現一橋大学)本科を卒業。県立神戸商業学校教諭を経て、1895年に同校長事務取扱となる。 内外綿神戸出張所長、孟買出張所主任/副支配人を経て、1900年に鐘淵紡績に入社。1916年取締役。1922年には平生釟三郎の甲南高等学校(現甲南大学)設立を支援。1925年常務取締役。1928年副社長。1930年に社長に就任。 1933年川崎造船所取締役、本山村会議員。
星野 太郎(ほしの たろう、明治3年10月19日(1870年… 星野 太郎(ほしの たろう、明治3年10月19日(1870年11月12日) - 昭和8年(1933年)11月25日)は、日本の商学者、教育者。東京商科大学(現一橋大学)商学専門部教授として簿記論や商品学を講じた。 駿河国(現静岡県)で旧幕臣星野鉄太郎(のちに初代静岡市長)の長男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、1904年同校教授に就任。下野直太郎、鹿野清次郎らと簿記・商品学を講じた。同僚の志田鉀太郎、下野直太郎、關一、佐野善作、村瀬春雄、坂本陶一、石川文吾、瀧本美夫、横井時冬らとともに明治大学商学部設立にも尽力し、1904年に明治大学商学部が設立されると商品学講師に就任。1920年に東京高等商業学校が旧制東京商科大学に改組されると、同大学付属商学専門部教授や予科教授、同大学付属商業教員養成所主事を務めたが、在任中の1933年に死去した。
横山 泰造(よこやま たいぞう、1870年10月14日(明治… 横山 泰造(よこやま たいぞう、1870年10月14日(明治3年9月20日)- 1947年(昭和22年)4月10日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県邑久郡鶴山村長、同県和気郡日生町長。木堂派として活動した。 備前国邑久郡鶴海村(岡山県邑久郡鶴山村鶴海、備前町を経て現備前市鶴海)で、素封家、酒造業・横山栄蔵の二男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)を中退し兵役に服し、帰郷して家業の酒造業を手伝った。 その後、分家して果樹園を営みナシ栽培を行う。邑久郡農会長、同郡畜産組合長、岡山県畜産組合連合会副会長、中央畜産会副会頭、帝国馬匹協会理事、岡山酪農販売購買利用組合理事長などを務め、畜産などの農業振興に尽力。
杉野 喜精(すぎの きせい、明治3年9月6日(1870年9月… 杉野 喜精(すぎの きせい、明治3年9月6日(1870年9月30日) - 昭和14年(1939年)5月2日)は日本の実業家、相場師。山一證券の初代社長や、東京株式取引所理事長を務めた。 1870年東京深川で江戸詰めの津軽藩藩士・納戸役の家に生まれる。翌年父が失職。 東京商業学校(のちの一橋大学)卒業。1889年日本銀行入行、1896年愛知銀行副支配人。 1902年名古屋銀行取締役支配人就任も、日露戦争後のバブル景気の崩壊による戦後恐慌の影響でモラトリアムを余儀なくされ、責任をとり1907年辞職し兜町で株の現物店の八幡屋を開設。 1910年、八幡屋の経営が思わしくなかったところ、小池国三に誘われ小池合資会社入社、七番番頭となる。
正田 貞一郎(しょうだ ていいちろう、明治3年2月28日〈1… 正田 貞一郎(しょうだ ていいちろう、明治3年2月28日〈1870年3月29日〉 - 1961年〈昭和36年〉11月9日)は、日本の実業家。位階は正五位。勲等は勲三等。 日清製粉株式会社社長、東武鉄道株式会社会長、社団法人如水会理事長、貴族院議員などを歴任した。 上皇后美智子の祖父。今上天皇の曽祖父。 生家は群馬県館林において「米文」の名で米問屋を営み、明治に入って醤油醸造業に従事した。横浜で外国米輸入商売をしていた正田作次郎の長男として生まれるが、翌年父が風邪をこじらせて26歳で亡くなり、館林の祖父・3代正田文右衛門の下で育てられた。 館林小学校を卒業。1884年(明治17年)上京し、1887年(明治20年)東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学。
坂 仲輔(さか なかすけ、明治3年1月29日(1870年3月… 坂 仲輔(さか なかすけ、明治3年1月29日(1870年3月1日) - 大正14年(1925年)8月14日)は、日本の内務官僚、実業家。茨城県知事、石川県知事、新潟県知事。 長州藩一門家老吉敷毛利家の家臣である坂新一の子として周防山口に生まれ、高等商業学校(のちの一橋大学)を矢野二郎排斥事件により中退し、会計検査院入庁。検査官補を務める。 内務省参事官、神奈川県事務官・第一部長兼第三部長などを経て、1908年10月、茨城県知事、1912年12月、石川県知事、1914年4月、新潟県知事を歴任。 1916年、藤田組常務理事、同年同社総務理事。1918年、小坂鉱山事務所長兼務。藤田銀行設立を決定。1916年に社長に進言し柵原鉱山の買収を決断させる。
北大路 実信(實信、きたおおじ さねのぶ、 1870年1月2… 北大路 実信(實信、きたおおじ さねのぶ、 1870年1月29日(明治2年12月28日)- 1935年(昭和10年)9月22日)は、明治から昭和期の税関官吏、政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧姓・園池。幼名・楢麿。 山城国京都で奈良県知事・園池公静の三男として生まれ、1895年(明治28年)8月、男爵・先代北大路公久の死去後に養子となり、同年9月28日に男爵を襲爵。同年10月9日、実信に改名した。 学習院、東京高等商業学校を修了。1895年、税関属に任官。その後、同事務官補などを務め、東京築港に関する貨物調査嘱託となった。 1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、死去するまで5期在任した。
鈴木 錠蔵(すずき ていぞう、1870年1月5日(明治2年1… 鈴木 錠蔵(すずき ていぞう、1870年1月5日(明治2年12月4日) - 1947年(昭和22年)6月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 茨城県出身。東京高等商業学校を矢野二郎排斥事件により中退。日本海員掖済会理事兼横浜支部長、共同火災保険(株)名古屋支店長、横浜生命保険(株)支配人、硫酸販売、関東機械ナット、東京リベット製造各(株)取締役、保土ヶ谷化学電気(株)常任監査役、東京硫酸(株)常務監査役となる。また、朝鮮政府に招かれ、法規編纂に従事する。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において茨城県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選する。1920年の第14回衆議院議員総選挙では茨城7区から立候補して再選する。
坂田 重次郎(さかた じゅうじろう、1869年12月24日(… 坂田 重次郎(さかた じゅうじろう、1869年12月24日(明治2年11月22日)- 1919年(大正8年)11月26日)は、日本の外交官。外務省通商局長や、在スペイン特命全権公使を務めた。 出雲国仁多郡三成村(現島根県奥出雲町)で旧家の金坂太八郎の次男として生まれる。兄の金坂儀一郎は村長を務めた。小学校卒業後大志を抱き上京したが、資金が尽きたため帰郷した。島根県師範学校に入学し3年間在学したが、休校となったため退学。1890年に坂田マスの養子となり坂田姓となる。1894年に高等商業学校(後の東京高等商業学校、一橋大学)本科卒業後、1896年第3回高等文官試験(外交科)に合格し、外務省入省。 高等商業学校在学中、1893年に学校から旅費を支給され、同校学生の福田徳三(のちに経済学者)とともに栃木県、群馬県、長野県、新潟県、富山県、石川県、福井県に視察に行った。
山本 邦之助(やまもと くにのすけ、1869年12月15日(… 山本 邦之助(やまもと くにのすけ、1869年12月15日(明治2年11月13日) - 1955年(昭和30年)12月23日)は、東京キリスト教青年会(YMCA)の第2代目総主事である。 1869年(明治2年)島根県に生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後に、地元の村役場、三井銀行(現三井住友銀行)などで勤めた後、日本郵船に入社する。1902年(明治35年)に統計課長に就任した頃、V・W・ヘルムの指導する日本郵船内の聖書研究会の影響で、銀座教会で洗礼を受ける。 1905年(明治38年)に東京YMCAの第2代目の主事になる。1923年(大正12年)の関東大震災の復興を終えるまで務めた。1924年(大正13年)に青山学院高等学部商科長に就任する。
久原 房之助 (くはら ふさのすけ、1869年7月12日〈明… 久原 房之助 (くはら ふさのすけ、1869年7月12日〈明治2年6月4日〉- 1965年〈昭和40年〉1月29日)は、日本の実業家、政治家。 日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。第一次世界大戦後の恐慌を機に政界へ進出。 衆議院議員当選5回(16、17、18、19、25回総選挙)。逓信大臣、内閣参議、大政翼賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁を歴任。 「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与した。戦後はA級戦犯容疑者(不起訴)となり、公職追放となった。 戦後は日中・日ソ国交回復会議議長などを務めた。
三宅川 百太郎(みやがわ ひゃくたろう、1869年6月23日… 三宅川 百太郎(みやがわ ひゃくたろう、1869年6月23日(明治2年5月14日) - 1952年(昭和27年)4月27日)は、日本の実業家。第2代三菱商事会長を務めた。 1869年6月23日、愛媛県越智郡富田村の旧今治藩藩士・三宅川清三郎の嫡男として生まれる。 三宅川家は南北朝時代、伊予河野氏第26代当主通有の孫である越智朝臣三宅川備後守通房(伊勢国宮川領主)を始祖とする家系。血統紋は三つ鱗、定紋は崩三鱗改三霞摺菱、替紋は轡十文字、寺紋は三霞摺菱、墓紋は尻合わせ三階菱。 1892年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業。一年志願兵を経て、1893年三菱合資会社入社。神戸支店、大阪支店、高砂製紙所勤務を経て、漢口支店長、上海支店長、北京支店長、営業部副長を歴任し、1913年門司支店長兼若松支店長兼船舶課長。
稲田 藤治郎(いなだ とうじろう、明治2年3月21日(186… 稲田 藤治郎(いなだ とうじろう、明治2年3月21日(1869年5月2日) - 昭和17年(1942年)2月22日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。稲田家の七代目。鳥取県平民。 弁護士・公証人雑賀愛造、洋食のレストラン“十字屋”経営主で元米子市会議員野坂康久などは稲田一族の出身である。 鳥取県米子市久米町出身。稲田喜重郎の二男。家業は酒・醤油醸造業(現・稲田本店)。 明治21年(1888年)東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒業。 明治25年(1892年) 久米町にてビール工場を建設。本場ドイツで学んだ技師を雇い入れ、瓶は手拭で手造り、長いコルク栓でガス漏れを防ぐ等の工夫を凝らし“イナタビール”として売り出す。
赤羽 克己(あかばね かつみ、1869年4月10日(明治2年… 赤羽 克己(あかばね かつみ、1869年4月10日(明治2年2月29日) - 1941年(昭和16年)7月5日)は、日本の実業家。南満州鉄道理事としてオイルシェール事業に取り組んだ。 赤羽家は「高遠以来」と称される保科家時代からの会津松平家家臣である。山形藩時代には1000石、500石、400石、150石を食む赤羽家があり、江戸時代を通じ100石以上の赤羽家が複数存在した。赤羽四郎(スペイン公使)や、陸軍航空草創期の軍人である赤羽佑之(航空兵大佐)などは同族である。赤羽の実父は禄100石の会津藩勘定頭、斗南藩大属会計係であった赤羽治平友温。克己はその三男で、同藩士赤羽友春の養子となる。養母は若松市長松本時正の妹、長男はコーネル大学出身の中島飛行機技師で、第二次世界大戦期は同社の誉発動機推進主任を務める。
原 亮一郎(はら りょういちろう、明治2年2月12日(186… 原 亮一郎(はら りょういちろう、明治2年2月12日(1869年3月24日) - 昭和10年(1935年)10月9日)は、日本の実業家。東京書籍初代会長。 岐阜県羽島郡生まれ。同人社、高等商業学校(現一橋大学)を経て、ダリッジ・カレッジ卒業後、1886年にイギリスのサミュエル商会に入社。1892年同社横浜詰仕入部主任。1900年に父・原亮三郎が創業した金港堂書籍の社長を継いだが、1902年に教科書疑獄事件で偽証罪及び証拠隠滅罪の容疑で逮捕された。1909年東京書籍を創立し、初代会長に就任。1917年日本製紙発起人総代。1918年日本製紙会長。1921年日本製紙相談役。 父は金港堂書籍創業者の原亮三郎。
各務 鎌吉(かがみ けんきち、1869年2月3日(明治元年1… 各務 鎌吉(かがみ けんきち、1869年2月3日(明治元年12月22日) - 1939年(昭和14年)5月27日)は、明治から昭和にかけての日本の実業家。三菱財閥系の東京海上火災保険などの社長・会長をはじめ、三菱財閥の要職を務めて三井財閥の池田成彬とともに内外より重んじられ貴族院議員を務めた。その業績は、「損害保険業界の父」といわれ、国際的にも世界保険殿堂に日本人として初めて選出。大正8年(1919年)ICC(国際商業会議所)の設立メンバー(アトランティック通商会議日本国代表)。 美濃国方県郡安食村(現在の岐阜県岐阜市)の農家の次男として生まれた。父省三は西南戦争勃発の1877年に駅逓寮(のちの郵便局)の下級官吏として勤務した関係で上京したが、鎌吉が中学生のころに辞めて京橋で葉茶屋を始めた。
田村 八二(たむら はちじ、慶應4年8月16日(1868年1… 田村 八二(たむら はちじ、慶應4年8月16日(1868年10月1日) - 昭和4年(1929年)8月31日)は、日本の実業家。 播磨国姫路生まれ。1892年高等商業学校(現一橋大学)卒業、三菱合資入社。旭硝子常務取締役、鶴見臨港鉄道取締役、日本板硝子監査役などを歴任した。 父は姫路藩士田村九一で姫路紡績所の創業者。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
上領 純一(かみりょう じゅんいち、1868年8月26日〔明… 上領 純一(かみりょう じゅんいち、1868年8月26日〔明治元年7月9日〕 - 没年不詳)は、日本の実業家。大日本人造肥料(現・日産化学)株式会社大阪支店長、小樽木材株式会社支配人、吉岡鉱山長。 1868年8月26日(明治元年7月9日)に東京府士族、上領純三の長男として生まれる。 1892年(明治25年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)を退学。高商在学中に、校長の矢野二郎と衝突して、優秀な学生の大部分が退学する学校騒動の元祖ともいうべき矢野二郎排斥事件があったが、発頭人としてこれを先導した。また、在学中には、久保田富次郎(後の立教大学名誉教授)と親交が深く、久保田は上領の家に寄寓した。 高商卒業後、三菱合資会社に入社。
永富 雄吉(ながとみ ゆうきち、慶應4年5月21日(1868… 永富 雄吉(ながとみ ゆうきち、慶應4年5月21日(1868年7月10日) - 昭和4年(1929年)1月20日)は、明治・大正期の日本の海事実業家。高等商業学校(現・一橋大学)講師などを経て、日本郵船の副社長を務めた。 遠江国横須賀藩に生まれる。安房国花房藩横渚出身。高等商業学校(現・一橋大学)本科第二年生だった1889年から、村瀬春雄とともにアントワープ商業大学(Institut supérieur de commerce d'Anvers:現・アントウェルペン大学(英語版))に留学し、リサンシェ(フランス語版)(学士)を取得して卒業後、1894年に帰国し、高等商業学校講師となった。1895年に日本郵船に入社した。
浅野 陽吉(あさの ようきち、1868年3月26日(慶応4年… 浅野 陽吉(あさの ようきち、1868年3月26日(慶応4年3月3日 )- 1944年(昭和19年)2月12日)は、日本の教育者、実業家、政治家、郷土史研究家。衆議院議員、久留米商業学校長。号・是々。 筑後国三潴郡大隈村原古賀(福岡県久留米市原古賀町)で、浅野為三郎の長男として生まれる。福岡県立久留米中学校在学中に英語教師宮崎駿児の薫陶を受け、宮崎が退職して上京する際に中学を退学して同行した。1892年7月、東京高等商業学校を卒業。 『信濃日報』主筆、『九州日報』主筆を経て、福岡県嘉穂郡で幸袋工作所の設立に参画し、また、久留米で同志と久留米実業会を組織して、商工会議所の設立に尽力した。1899年11月、久留米市から強く要請され久留米商業学校校長に就任し、校風の刷新と、校勢の進展に尽力した。
立花 寛蔵(たちばな かんぞう、1867年12月2日〈慶応3… 立花 寛蔵(たちばな かんぞう、1867年12月2日〈慶応3年11月7日〉 - 1940年10月5日)は、日本の商学者。広島県商業学校校長や、滋賀県商業学校校長などを経て、初代大倉高等商業学校校長を務めた。 長野県生まれ。1888年高等商業学校(現一橋大学)卒業。 在学中は、文部省による高等商業学校と東京外国語学校の合併案の不当性を訴え、各務鎌吉(のちに東京海上火災保険社長)や、上野季三郎(のちに大膳頭)、水島銕也(のちに初代神戸高等商業学校校長)、下野直太郎(のちに東京商科大学(現一橋大学)名誉教授)らと議論を交わした。 卒業後は、函館商業学校教諭、市立大阪商業学校(現大阪公立大学)教諭などを経て、1898年広島県商業学校校長。
矢橋 亮吉(やばし りょうきち、1867年10月3日(慶応3… 矢橋 亮吉(やばし りょうきち、1867年10月3日(慶応3年9月6日) - 1946年(昭和21年)9月30日)は、日本の実業家・銀行経営者・慈善家。先祖は嵯峨天皇の第12皇子・源融にまで遡る矢橋家・本家の出身。国会議事堂などの日本の近代建築史に残る建造物・高層ビル・ホテル・豪華列車の床材・海外の航空会社のラウンジから自動運転技術・EV・新幹線などまで関わってきた、矢橋グループの一翼を担う矢橋大理石の創業者。 1867年に美濃赤坂で生まれる。明治維新の廃藩置県の時に、徳川家康が織田信長の岐阜城千畳敷御殿を移築し造営させた将軍家専用休泊所であるお茶屋屋敷の払下げを受けた矢橋本家・宗太郎の三男。 実父である矢橋本家・宗太郎の二女で姉の勝(後改幾世)の三男である、大蔵省営繕官僚として中心となって国会議事堂の設計をまとめた甥矢橋賢吉(矢橋惣本家)と上京。
相生 由太郎(あいおい よしたろう、慶応3年4月28日(18… 相生 由太郎(あいおい よしたろう、慶応3年4月28日(1867年5月31日) - 昭和5年(1930年)1月3日)は明治・大正・昭和にかけて満州で活躍した日本人実業家。 1867年福岡県福岡市の魚商相生久次の長男として生まれる。1890年福岡県立尋常中学修猷館を経て、1896年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。 日本郵船、中学校教師などの勤務先を転々と変えた末、1904年三井物産入社、門司支店に勤務。炭坑人夫のストライキを収拾してその手腕を認められ、支店長犬塚信太郎の知遇を得る。 日露戦争後の1906年、上司の犬塚は新たに設立された南満州鉄道株式会社(満鉄)の理事に抜擢されるが、当時混乱を極めていた大連埠頭の荷役問題を解決できる唯一の人材として相生を推挙し、それを受けて相生は満鉄入りする。
藤野 亀之助(ふじの かめのすけ、1867年5月27日(慶応… 藤野 亀之助(ふじの かめのすけ、1867年5月27日(慶応3年4月24日) - 1920年(大正9年)1月7日)は、日本の実業家。大阪株式取引所理事長、大阪電気軌道取締役、電気化学工業監査役、王子製紙取締役、豊田紡織取締役、大日本セルロイド取締役などを歴任した。 埼玉県生まれ。商法講習所(現一橋大学)で外国語を学んだ。三井物産で、綿糸部主任、大阪支店次長、大阪支店長を歴任し、大阪商業会議所特別議員も務めた。また、豊田佐吉の豊田式織機事業を推進し、豊田式織機相談役を務めた。 1915年大阪株式取引所理事長、大阪電気軌道取締役、電気化学工業監査役。1917年王子製紙取締役。1918年豊田佐助の菊井紡織設立にあたり、児玉一造らとともに出資を行い、同年豊田紡織取締役。
原 錦吾(はら きんご、1867年4月30日(慶応3年3月2… 原 錦吾(はら きんご、1867年4月30日(慶応3年3月26日)- 1936年(昭和11年)4月13日)は、日本の実業家である。 江戸の生まれ。高等商業学校(現在の一橋大学)卒業後、同学校の教授となり教鞭を執る。1892年(明治25年)に明治火災保険(現在の東京海上日動火災保険)に入社し、副支配人や代表取締役を歴任した。 1914年(大正3年)には同社の常務に就任するが翌1915年(大正4年)に自身の独立によって辞任し、三井物産の小田柿捨次郎常務取締役から損害保険会社設立のための調査研究の委嘱を受け、大正海上火災保険の設立計画書の立案を行った。 しかし、1917年(大正6年)には平生釟三郎東京海上火災保険専務取締役の反対で、大正海上火災保険での経営への参画を辞退させられ、その後は日本初の火災保険協会であった日本共立火災保険の設立に携わる。
藤瀬 政次郎(ふじせ まさじろう、1867年2月9日(慶応3… 藤瀬 政次郎(ふじせ まさじろう、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1927年(昭和2年)1月7日)は、日本の実業家。三井物産株式会社取締役、東洋綿花株式会社(後のトーメン、現在の豊田通商)代表取締役社長。 長崎県出身。1885年に商法講習所(現在の一橋大学)を卒業し、三井物産株式会社に入社した。同期に高柳豊三郎(のちに株式会社読売新聞社社長)がいた。香港支店を経て、上海支店長、綿花部長を歴任し、取締役に就任。東洋綿花株式会社の設立に関与(同社の設立は、三井物産綿花部が分離独立したもの)。代表取締役社長に就任する。 政財界に幅広い人脈を持ち、東亜同文書院教授で、南満州鉄道社員の山田純三郎を通じて、孫文の辛亥革命を支援したり、犬養毅、新渡戸稲造らとともに南洋協会の設立発起人、渋沢栄一、中島久万吉らとともに日米電信株式会社創立委員などもつとめた、晩年は、財団法人滝乃川学園の理事もつとめ、同学園創立者の石井亮一の事業を援けた。
下野 直太郎(しもの なおたろう、1866年11月30日(慶… 下野 直太郎(しもの なおたろう、1866年11月30日(慶應2年10月24日) - 1939年(昭和14年)11月22日)は、日本の会計学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。 現在の岐阜県生まれ。岐阜県中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)を経て、1888年高等商業学校(現一橋大学)卒業。数学や英語が得意で、同じ岐阜出身の各務鎌吉(のちに東京海上火災保険社長)と首席を争ったが、次席となった。 また在学中、文部省による高等商業学校と東京外国語学校の合併案の不当性を訴え、各務や、上野季三郎(のちに大膳頭)、水島銕也(のちに初代神戸高等商業学校校長)、立花寛蔵(のちに初代大倉高等商業学校校長)らと議論を交わした。
大田黒 重五郎(おおたぐろ じゅうごろう、慶応2年6月15日… 大田黒 重五郎(おおたぐろ じゅうごろう、慶応2年6月15日(1866年7月26日) - 昭和19年(1944年)7月28日)は江戸出身の実業家。 当時経営が悪化していた芝浦製作所(現東芝)を再建し、同社専務等を務めた後に、各地で水力電気会社を設立した。 また、二葉亭四迷とは、東京外国語学校および東京商業学校(現一橋大学)での親友であり、四迷は大田黒をモデルに小説『浮雲』を執筆した。 徳川幕府の御家人である小牧辰蔵の四男として江戸小石川(後の東京府東京市小石川区、現・東京都文京区)に生まれ、幕府の没落により3歳のとき一家で静岡へ移住し富士の裾野に帰農。没落士族の辛酸を嘗める。 沼津の旧制中学校を卒業後、上京して大学予備門(現東京大学)を受験したが失敗して東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科に入学、二葉亭四迷と親交を結ぶ。
平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、1866年7月4日〈慶応… 平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、1866年7月4日〈慶応2年5月22日〉- 1945年〈昭和20年〉11月27日)は、日本の実業家・教育者(甲南学園創立者)・政治家(廣田内閣で文部大臣・貴族院勅選議員・枢密顧問官)。甲南病院(現在の甲南医療センター)の設置者。住吉村に住まい、その跡地は自ら創立した甲南大学の平生記念セミナーハウスとして活用されている。 明治、大正、及び昭和初期に活躍。1934年(昭和9年)、移民制限を始めたブラジルに対し経済的貢献により移住を確保しようと海外移住組合連合会長だった平生が、訪伯経済使節団長としてブラジルを訪問。ブラジル産綿花を日本に輸出する橋渡しをするなどの貢献を行った。
丸岡 九華(まるおか きゅうか、本名:久之助、慶應2年3月2… 丸岡 九華(まるおか きゅうか、本名:久之助、慶應2年3月25日(1866年5月9日) - 昭和2年(1927年)7月9日)は、日本の詩人、小説家、実業家。 江戸青山生まれ。共立学校(現開成高等学校)、東京大学予備門を経て、1887年高等商業学校(現一橋大学)卒業。 在学中、尾崎紅葉らと硯友社創設に参画し、新体詩などを発表し、卒業後は文学を離れ、矢野二郎校長の勧めで教員となり、1892年からは県立神戸商業学校校長事務取扱を務めた。 のち、実業家に転じ、高田商会横浜支店長等を経て、独立し、イギリスのサン保険会社(英語版)の東京支店開設にあたり同支店支配人となり、同社の契約高や保険料収入を日本国内3位以内にまで育てた。
福井 菊三郎(ふくい きくさぶろう、1866年4月16日(慶… 福井 菊三郎(ふくい きくさぶろう、1866年4月16日(慶應2年3月2日)- 1946年(昭和21年)) は、日本の実業家。戦前三井財閥の幹部で、三井合名常務理事や、東神倉庫会長、パリ講和会議代表顧問等を務めた。陶磁器収集家としての著書もある。 江戸で中村萬吉の五男として生まれる。1881年福井家の先代むめの養子となる。1883年、商法講習所(現一橋大学)卒業後、18歳で三井物産に入る。同級生に小室三吉元三井同族会理事などがいた。 在学中の成績は良くなかったが、村長や地主に落ち着いた同級生たちを尻目に小室とともに出世頭となり、三井物産シンガポール支配人、三井物産香港支店長、三井物産営業部長、三井物産大阪支店長、三井物産ニューヨーク支店長、三井物産取締役兼東神倉庫取締役を経て、1910年三井物産常務取締役。
尾高 次郎(おだか じろう、1866年4月2日〈慶応2年2月… 尾高 次郎(おだか じろう、1866年4月2日〈慶応2年2月17日〉 - 1920年〈大正9年〉2月4日)は、日本の実業家、銀行家。武州銀行(現埼玉りそな銀行)の初代頭取。岳父は渋沢栄一。族籍は埼玉県平民。 武蔵国榛沢郡下手計村(のちの八基村、現埼玉県深谷市下手計)出身。尾高惇忠の次男。数え3歳の頃、親族の尾高幸五郎の養子になる。1882年、幸五郎から家督を相続する。 1891年、高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、第一銀行(現みずほフィナンシャルグループ)入行。名古屋支店長、四日市支店長、釜山支店長、仁川支店長、監査役を歴任し、釜山・仁川で日本人商業会議所会頭、居留民会議長も務めた。 1904年、韓国興業専務取締役。
原田 勘七郎(はらだ かんしちろう、旧姓:前原(まえばら)、… 原田 勘七郎(はらだ かんしちろう、旧姓:前原(まえばら)、慶応2年2月14日(1866年3月31日) - 大正7年(1918年)3月18日))は、日本の実業家、政治家。東陽倉庫、帝国製糸の創設に尽力し、名古屋市に日本車輌製造を設立して専務取締役を務め、名古屋市会議員なども務めた。 下野国安蘇郡作原(現在の栃木県佐野市作原町)に生まれる。小学校卒業後、栃木小学校で教鞭を執っていたが、田中正造の知遇を得て森鴎村の家塾に学び、宇都宮市の英学校を経て、明治27年(1894年)に高等商業学校(現在の一橋大学)に入学。経済的な苦労もあったが、島田三郎の玄関番や、佐久間貞一の知遇を得て学生生活を続けた。 しかし、成瀬隆蔵教授や、森島修太郎教授の更迭を求める同盟休校騒ぎ(矢野二郎排斥事件)の首謀者となり、矢野二郎校長の逆鱗に触れ、明治26年(1893年)に退学となった。
小田柿 捨次郎(おだがき すてじろう、慶応元年11月6日(1… 小田柿 捨次郎(おだがき すてじろう、慶応元年11月6日(1865年12月23日) - 昭和3年(1928年)3月5日)は、日本の実業家。三井物産で大正海上火災保険の設立にあたった。 近江国彦根藩出身。3歳のとき父が死去したため、遠縁の相馬永胤のもとに寄宿し、1891年高等商業学校(現・一橋大学)卒業。同年三井物産に入社し、上海支店詰となった。 サンフランシスコ出張員を務めていた1900年には、親友の正田貞一郎の依頼を受け製粉機械の輸入を行い、館林製粉の設立に協力した。 三井物産シンガポール支店詰、三池炭鉱詰、口ノ津支店支配人等を経て、1908年参事長。1909年営業部長。1911年木材部長兼小樽支店長。
東 奭五郎(ひがし せきごろう、慶応元年7月17日〈1865… 東 奭五郎(ひがし せきごろう、慶応元年7月17日〈1865年9月6日〉 - 1947年〈昭和22年〉12月3日)は、日本の会計学者。"Skyscraper" に摩天楼という訳語を与えた人物という説がある。 1865年、長崎県西彼杵郡三重村の士族東太郞兵衞の四男として生まれた。 1888年、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、函館商業学校の教諭となった。その後長崎商業学校や熊本商業学校の教諭、母校東京高等商業学校附属商業教員養成所主任や神戸高等商業学校(現神戸大学)の教授を務めた。1916年に教授を辞任し、会計事務所を開き、商業実踐や簿記学研究のためにイギリスやアメリカに留学した。アカウンティングの訳語として会計学をあてるべきと主張し、鹿野清次郎と論争したことでも知られる。
江口 定條(えぐち さだえ、元治2年4月1日(1865年4月… 江口 定條(えぐち さだえ、元治2年4月1日(1865年4月25日) - 昭和21年(1946年)3月14日)は、日本の実業家、政治家。 土佐国土佐郡高知城下本町(現・高知県高知市本町)出身。1887年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒、同校教諭に就任。その後、三菱合資会社入社。同社専務理事、監事等を経て1920年同社総理事。1925年社団法人如水会初代理事長。1931年6月、経営状態が悪化していた南満州鉄道(満鉄)の副総裁に就任し経営の実務に当たるが、就任直後に満州事変が発生。満鉄総裁の内田康哉が急進的な事変拡大派に転向し、満鉄が関東軍に協力する中で江口は事変拡大に反対し軍部に批判的な立場であり続けた。
鹿野 清次郎(かの/しかの せいじろう、1865年(慶應元年… 鹿野 清次郎(かの/しかの せいじろう、1865年(慶應元年) - 1941年(昭和16年))は、日本の会計学者。東京商科大学(現一橋大学)附属商学専門部教授。 山形県山形市肴町出身。山形師範学校を経て、1893年高等商業学校(現一橋大学)卒業。同じ肴町出身の先輩に新関善八第5代山形市長がいる。大阪府師範学校教諭、京都商業学校教諭を経て、1897年新潟市立新潟商業学校長。 1899年鹿児島市立商業学校長。1902年滋賀県商業学校長。1903年母校東京高等商業学校教授に就任。星野太郎、下野直太郎らと簿記・商品学を講じた。1906年から2年間イギリス、アメリカ合衆国に留学し会計学研究に従事。 1917年には専修大学に計理科を設置し計理学研究会を設立。
上野 季三郎(うえの すえさぶろう、1864年4月11日(元… 上野 季三郎(うえの すえさぶろう、1864年4月11日(元治元年3月6日)- 1933年(昭和8年)2月28日)は、日本の外交官、宮内官僚。宮内大臣秘書官、宮内省式部官、大膳頭等を歴任した。 出羽国由利郡(現秋田県由利本荘市岩城)出身。亀田藩藩校長善館を経て、1887年高等商業学校(現一橋大学)卒業。在ドイツ公使館書記等を経て、1897年香港二等領事。1901年にサンフランシスコ領事に着任。在任中アメリカ合衆国での排日運動の高まりで日本人が公立学校への入学を拒否されるなどの事態が生じ、カリフォルニア州知事への抗議などを行い対応にあたった。1907年シドニー総領事。1909年宮内大臣秘書官兼式部官。
牛島 謹爾(うしじま きんじ、1864年2月13日(文久4年… 牛島 謹爾(うしじま きんじ、1864年2月13日(文久4年1月6日) - 1926年(大正15年)3月27日)は、実業家。アメリカに移民し、「馬鈴薯王」と呼ばれた。勲四等、雅号に別天。現地ではジョージ・シマの名で親しまれた。妻は同志社総長, 下村孝太郎の妹である.
坂野 兼通(ばんの かねみち、文久3年12月12日〈1864… 坂野 兼通(ばんの かねみち、文久3年12月12日〈1864年1月20日〉 - 昭和6年〈1931年〉8月12日)は、日本の銀行家。元山口合資会社理事長。 尾張国名古屋出身。1888年高等商業学校(現一橋大学)卒業、三菱合資会社銀行部入行。三菱合資会社銀行部大阪支店長を経て、1910年に町田忠治の後任として山口銀行上席理事に就任。1914年日本生命保険監査役。1918年大阪貯蓄銀行取締役。山口銀行の近代化を進めた。1924年には山口銀行筆頭常務を退任し、以降山口合資会社理事に専念し、山口合資会社理事長も務めた。1929年共同火災海上保険取締役会長。 ファミリア創業者の坂野惇子は、七男通夫の妻。長女の芳子は、衆議院議員横井時雄四男柳瀨存の妻。
小室 三吉(こむろ さんきち、文久3年7月9日(1863年8… 小室 三吉(こむろ さんきち、文久3年7月9日(1863年8月22日) - 大正9年(1920年)10月18日) は、日本の実業家。戦前三井財閥の幹部で、三井合名参事、三井家同族会理事などを務めた。 江戸出身。ロンドン留学後、1883年商法講習所(現一橋大学)卒業。同期に福井菊三郎。1884年に三井物産入社。香港支店長、上海支店長、ロンドン支店長などを経て、1906年理事。1909年取締役、三井合名参事。のち、三井家同族会理事。1913年三井合名監査部幹事長。1916年東京海上保険取締役。1918年大正海上火災保険監査役。1920年に病気で危篤となり叙従六位。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
堀越 善重郎(ほりこし ぜんじゅうろう、1863年6月18日… 堀越 善重郎(ほりこし ぜんじゅうろう、1863年6月18日(文久3年5月3日) - 1936年(昭和11年)4月24日)は、貿易商。堀越商会主。 下野国足利郡三重村五十部東山の農家に生まれる。1868年、瑞泉院の寺子屋に入り神童と評される。1878年五十部学校入学。 木村半兵衛の目に留まり、東京遊学給費生となり、共立学校(現開成高等学校)を経て、1883年商法講習所(現一橋大学)卒業。 霊巌寺の人相占いの助言を受けアメリカ合衆国へ渡ることを決意し、木村が蒐集した骨董品を売却して捻出した資金を貰い、1884年、横浜港から出帆し、同窓の友人の世話で力士の下で下宿生活を送ったのち、母校矢野二郎校長の紹介状を伝手に相談した高橋新吉在ニューヨーク領事の紹介で、フレッチャーの二番商会に入社した。
藤田 敏郎(ふじた としろう、1862年8月1日(文久2年7… 藤田 敏郎(ふじた としろう、1862年8月1日(文久2年7月6日) - 1937年(昭和12年)1月29日)は、明治・大正期日本の外交官。初代シンガポール領事や、ロンドン総領事、サンパウロ総領事等を務めた。 岡山県津山市出身。父は津山藩士・渡邊政。明治維新後に没落し藤田家に養子入りした。英語などを学び、商法講習所(現一橋大学)卒業。共同運輸会社入社後、母校商法講習所の矢野二郎校長の勧めで、1885年に外務書記生となった。翌1886年から在ホノルル日本領事館勤務。 1888年から在サンフランシスコ日本領事館書記生を務め、在任中メキシコでの日本人殖民地建設を建議し、1891年に中南米初の日本領事館がメキシコに開設されると初代領事代理として赴任した。
宇尾野 藤八(うおの とうはち、1862年3月8日〈文久2年… 宇尾野 藤八(うおの とうはち、1862年3月8日〈文久2年2月8日〉 - 1928年〈昭和3年〉4月2日)は、日本の銀行家・会社役員、新潟県の大地主、篤農家、新潟県多額納税者。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)・宇尾野友太郞の長男。1887年、東京高等商業学校を卒業する。新潟商業学校長となる。1893年、家督を相続する。 新発田倉庫、新潟貯蓄銀行各監査役、第四銀行取締役・同専務取締役をつとめる。 宇尾野家は古着商で、平凡な一庶民階級であったが、藤八は極めて堅実な人で、よく産を為した。第四国立銀行創設当時、支配人の白勢彦次郎に知られ同行に入り、累進して専務取締役となった。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。