松任谷 正隆(まつとうや まさたか、1951年11月19日 … 松任谷 正隆(まつとうや まさたか、1951年11月19日 - )は日本の音楽プロデューサー・アレンジャー・キーボーディスト・作曲家であり、またモータージャーナリスト・俳優としても活動。
慶應義塾大学:188人
松任谷 正隆(まつとうや まさたか、1951年11月19日 … 松任谷 正隆(まつとうや まさたか、1951年11月19日 - )は日本の音楽プロデューサー・アレンジャー・キーボーディスト・作曲家であり、またモータージャーナリスト・俳優としても活動。
塩川 和則(しおかわ かずのり 1950年[要出典] - )… 塩川 和則(しおかわ かずのり 1950年[要出典] - )は、元・TBSプロデューサー。プレミアムエンターテイメント代表取締役会長CEO。 福島県出身。慶應義塾大学商学部卒業。1973年、株式会社東京放送(TBS)入社。同期はTBSテレビ執行役員の八木康夫。 入社後、テレビ制作局制作部に所属。居作昌果プロデューサーの部下になる。当時の人気番組「8時だよ!全員集合」、「クイズダービー」を担当。居作から番組制作の手ほどきを受けつつ、師と仰ぎADとして勉強を積む。 その後、その経験が番組制作に大いに生かされヒット番組を続出させた。当時、TBSの視聴率も2位まで復活させ「バラエティの神様」とも呼ばれた。
阿部 秀司(あべ しゅうじ、1949年8月7日 - 2023… 阿部 秀司(あべ しゅうじ、1949年8月7日 - 2023年12月11日)は、日本の映画プロデューサー。阿部秀司事務所代表。東京都出身。 元CMディレクター、クリエイティブディレクター、コピーライター。 慶應義塾大学法学部政治学科卒業。 広告代理店・第一企画(現:ADKホールディングス)から独立後、企画制作プロダクションROBOTを設立。 岩井俊二の映画デビュー作品『Love Letter』『Undo』『PiCNiC』の制作をきっかけに映画プロデュースを開始。他にも、本広克行、森淳一、羽住英一郎、小泉徳宏、山崎貴らの映画デビュー作を世に送り出した。 フジテレビ、日本テレビ、テレビ朝日など民放キー局との連携を武器に圧倒的なプロモーション活動を展開、後年は、山崎貴とタッグを組み『ALWAYS 三丁目の夕日』三部作、『永遠の0』、『ゴジラ-1.0』など数多くの大ヒット作を連発した。
玉置 泰(たまおき やすし、1949年7月17日 - )は、… 玉置 泰(たまおき やすし、1949年7月17日 - )は、日本の実業家(株式会社一六本舗代表取締役社長)、映画プロデューサー。 愛媛県松山市出身。父親は一六本舗の前社長・玉置一郎。1972年、慶應義塾大学卒業。電通入社。1977年、電通を退社。松山に戻り、家業の一六本舗に入社、宣伝担当となる。主力商品一六タルトのCMに出演する俳優を考えていたところ、リストにたまたま松山市と縁の深い伊丹十三の名があったため、伊丹を起用。これが機縁となり、2人の親交が始まる。伊丹の初監督作品となった『お葬式』製作の際、一六本舗として製作費を出資。映画は大ヒットし、玉置は自ら伊丹プロダクションの社長を兼任することになった。
岡田 裕介(おかだ ゆうすけ、本名︰岡田 剛(おかだ つよし… 岡田 裕介(おかだ ゆうすけ、本名︰岡田 剛(おかだ つよし)、1949年5月27日 - 2020年11月18日)は、日本の実業家、映画プロデューサー。東映代表取締役グループ会長、ティ・ジョイ(現:東映ジョイ・エンタテインメント)代表取締役社長、テレビ朝日ホールディングス社外取締役を務めた。1970年代には俳優として活躍したことでも知られる。 京都市出身。父は岡田茂(東映社長・会長を経て最晩年は名誉会長)。妹は高木美也子(コメンテーター、日本大学総合科学研究所教授)。声優・ナレーターの政宗一成ははとこ。 子供の頃の遊び場は東映京都撮影所(以下、東映京都)で、東映京都は子煩悩な役者が多く、片岡千恵蔵や萬屋錦之介、大友柳太郎、伏見扇太郎らによく可愛がってもらった。
渡辺 有三(わたなべ ゆうぞう、1949年3月30日 - 2… 渡辺 有三(わたなべ ゆうぞう、1949年3月30日 - 2014年1月2日)は、日本のミュージシャン、音楽プロデューサー。ポニーキャニオン元常務。 1949年に東京都港区赤坂で生まれる。横浜市長および元貴族院議員・平沼亮三の孫にあたる。また俳優の石坂浩二とは従弟に当たる(渡辺の母と石坂の父が兄弟)。 慶應義塾幼稚舎から慶應義塾普通部、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学商学部を卒業。 慶應義塾大学入学と同時に加山雄三&ザ・ランチャーズにベーシストとして参加。若大将シリーズ『南太平洋の若大将』の撮影を兼ねた武道館ライブが新生ランチャーズの事実上のデビューとなる。以後、日劇東宝スターパレード、加山雄三全国縦断コンサートなどライブの他、加山のレコーディングの参加、若大将シリーズ(『リオの若大将』など)への出演など、当時のグループサウンズとは一線を画し、全員が慶大生らしい雰囲気であった。
三宅 恵介(みやけ けいすけ、1949年2月5日 - )は、… 三宅 恵介(みやけ けいすけ、1949年2月5日 - )は、日本のテレビディレクター、テレビプロデューサー。
喜多嶋 修(きたじま おさむ、1949年2月3日 - )は、… 喜多嶋 修(きたじま おさむ、1949年2月3日 - )は、日本の作曲家、音楽プロデューサーである。「喜多島修」名義でも活動していた。 神奈川県茅ヶ崎市出身。兄に同じくザ・ランチャーズの一員だった喜多嶋瑛がいる。加山雄三とは母方の従弟にあたる。妻は女優の内藤洋子。妻との間に一男二女がおり、元女優の喜多嶋舞は第一子長女。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
小関 道幸(おぜき みちゆき、1949年 - )は、日本のテ… 小関 道幸(おぜき みちゆき、1949年 - )は、日本のテレビプロデューサー。大阪観光局局長補佐。株式会社ソーシャルプロデューサーグループ代表取締役会長。 大阪府立箕面高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、1972年に朝日放送株式会社へ入社。 15年間にわたりラジオ・テレビの報道記者、ディレクターを経験。その後、ドキュメンタリー番組制作で内閣総理大臣賞、ギャラクシー賞、民間放送連盟賞など受賞多数。1989年にスタートした『サンデープロジェクト』を立てあげると同時にプロデューサーを務めた。その他にもテレビアニメ『クッキングパパ』など、テレビ番組のプロデューサーを務め、番組宣伝部長、報道局次長・番組審議会事務局長、総務局局次長などを経て、2009年定年退職。
鈴木 敏夫(すずき としお、1948年〈昭和23年〉8月19… 鈴木 敏夫(すずき としお、1948年〈昭和23年〉8月19日 - )は、日本の映画プロデューサー、編集者。株式会社スタジオジブリ代表取締役議長、徳間記念アニメーション文化財団副理事長。 徳間書店取締役、徳間書店スタジオジブリ・カンパニープレジデント、徳間書店スタジオジブリ事業本部本部長、東京大学大学院情報学環特任教授、スタジオジブリ代表取締役社長などを歴任した。 愛知県名古屋市生まれ。名古屋市立金城小学校、東海中学校・高等学校を経て、慶應義塾大学文学部社会・心理・教育学科社会学専攻を卒業。 大学在学中は執筆作業など多くのアルバイトを経験した。就職活動では執筆作業の経験があることから知人の助言もあって新聞社や出版社を志す。
澤 雄二(さわ ゆうじ、1948年〈昭和23年〉4月22日 … 澤 雄二(さわ ゆうじ、1948年〈昭和23年〉4月22日 - 2025年〈令和7年〉1月3日)は、日本のジャーナリスト、テレビプロデューサー、政治家。 フジテレビ国際局次長を経て、参議院議員(1期)、農林水産大臣政務官(第1次安倍改造内閣・福田康夫内閣)、参議院法務委員長などを務めた。 大阪府大阪市天王寺区に生まれる。千代田区立麹町中学校を経て、東京都立城南高等学校卒業。シンガーソングライターの山本コウタローと俳優の角野卓造は麹町中学校時代の同級生で、山本とは参議院議員時代に自身の公式サイト(現在は閉鎖)にて対談を行っている。 1971年3月、慶應義塾大学法学部政治学科卒業(石川忠雄ゼミ)。同年4月、フジテレビ(旧法人/現・フジ・メディア・ホールディングス)に入社。
三ツ谷洋子(みつや ようこ、1947年-)は日本のジャーナリ… 三ツ谷洋子(みつや ようこ、1947年-)は日本のジャーナリスト、スポーツコンサルタント、プロデューサー。元産経新聞社記者、元法政大学教授、元株式会社スポーツ21エンタープライズ代表取締役、女性スポーツ財団日本支部設立者、元公益社団法人日本プロサッカーリーグ理事。専門はスポーツビジネス、スポーツジャーナリズム、女性とスポーツ、スポーツとまちづくり。 1947年:東京都で生まれる。 1970年:慶應義塾大学法学部政治学科卒業 1970年:産経新聞社入社、社会部記者を経て、サンケイスポーツ運動部記者となる。 1973年:同社退社後、フリーランスのスポーツジャーナリストとして、オリンピックなどの国内外のスポーツ事情を取材し、原稿執筆などを開始する。
山田 良明(やまだ よしあき、1946年12月18日 - )… 山田 良明(やまだ よしあき、1946年12月18日 - )は、ドラマを手がけるテレビプロデューサー。共同テレビジョン取締役相談役、フジクリエイティブコーポレーション(FCC)取締役、バスク取締役。
中村幻児(なかむら げんじ、1946年11月21日 - )は… 中村幻児(なかむら げんじ、1946年11月21日 - )は、日本の映画監督・映画プロデューサーである。栃木県大田原市出身。 1968年、慶應義塾大学文学部中退。東京綜合写真専門学校在学中よりフリーの助監督として活動し、1972年「完全なる同性愛」で監督デビューした。以降多数のピンク映画を手がけ、その青春映画・ニューシネマ的作風によって高橋伴明、渡辺護らとともに、ピンク映画界を代表する監督となった。中村は、日活の下請けプロダクションであるプリマ企画などで約83本のピンク映画を撮影した。また1982年、筒井康隆原作の作品『ウィークエンド・シャッフル』にて一般映画にも進出した。 。その後テレビドラマ・Vシネマなども手がけている。
高橋 信之(たかはし のぶゆき、1946年(昭和21年)7月… 高橋 信之(たかはし のぶゆき、1946年(昭和21年)7月15日 - )は、日本の音楽プロデューサーである。男性。ミュージシャンの高橋幸宏は実弟、ファッションデザイナーの伊藤美恵は実姉。 東京都出身。トキワ松学園小学校卒業。 慶應義塾普通部では中学3年の謝恩会に成毛滋らとバンドを組み、慶應義塾高等学校(日吉)に進学後の1962年にザ・フィンガーズを結成し、慶應義塾大学在学中の1966年に「勝ち抜きエレキ合戦」でグランドチャンピオンになりプロデビュー。 1969年にバンドを解散した後はプロデューサー業となる。 1972年にヒットしたバズ(BUZZ)の日産スカイラインのCM曲『ケンとメリー〜愛と風のように〜』や、NHK「みんなのうた」で放送されたガロの『そして君は』、山口百恵のグリコアーモンドチョコレートのCM曲など数多くの楽曲を作曲・プロデュースした。
萩田 光雄(はぎた みつお、1946年6月16日 - )は、… 萩田 光雄(はぎた みつお、1946年6月16日 - )は、日本の作曲家、編曲家、音楽プロデューサー。静岡県出身。血液型A型。 疎開先の福島県信夫郡信夫村(現在の福島市)で生まれた。戦後、そこから一家は東京に戻ろうとしたが、まだ焼け野原だったため、埼玉県浦和に引っ越す。 両親はともに静岡の生まれで、家業は電子部品を作る会社の経営で、家は東京の大森にあった。 父は音楽には興味はなかったが、母は琴を弾き、11才年の離れた兄は、自分で電蓄を作り、ベートーヴェンやモーツァルトのレコードを聴いていた。上の姉はピアノを習っていたので、自宅にはピアノがあったが、幼少期の音楽体験はなかった。 中学校に入りブラスバンドの応援で打楽器を担当し、その後正式部員となり3年に進級する際、先生から「(管楽器の)トランペットとホルンとチューバの欠員が出たので、どれかやってみないか」と言われ、チューバだけ音が出せたので、担当した。
菅原 正豊(すがわら まさとよ、1946年1月28日 - )… 菅原 正豊(すがわら まさとよ、1946年1月28日 - )は、日本のテレビプロデューサー、テレビディレクター、実業家。 テレビ番組制作会社・ハウフルス代表取締役社長、フルハウス取締役。 東京都大田区出身。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾中等部、慶應義塾高校、慶應義塾大学法学部卒業。 大学時代、アルバイトで『11PM』(日本テレビ)のアシスタントディレクターを務める。卒業後は就職せず、放送作家として企画構成や知人の広告代理店を手伝っていたが、1973年5月にPR代理店フルハウスを関口晃弘、原伸次とともに設立した。1978年にはフルハウスの番組制作部門として「フルハウステレビプロデュース(フルハウスTVP、1991年にハウフルスに社名変更)」を分社設立し、菅原は社長業と並行してテレビディレクターとして活動した。
後藤 陽次郎(ごとう ようじろう、1946年(昭和21年)-… 後藤 陽次郎(ごとう ようじろう、1946年(昭和21年)- )は、日本のデザインプロデューサー。株式会社デザインインデックス代表取締役。愛媛県生まれ。 1946年愛媛県生まれ。後に東京都へ転居し、旧・永田町小学校(現麹町小学校)卒業。 1969年慶應義塾大学商学部卒業、同年博報堂入社。入社後はCMプロデューサーとして活躍。カネボウやシェル石油、味の素ゼネラルフーヅなど、多くの商品を手掛けた。 1981年博報堂を退社し、同年シンクタンク博報堂生活総合研究所創設に参加。CMプロデュースを手がける一方で、商品開発から店舗プロデュースへと仕事の幅を広げていった。1983年にはインテリア小物・雑貨のセレクトショップ、株式会社デザインインデックスを創業。
戸張 捷(とばり しょう、1945年10月19日 - )は、… 戸張 捷(とばり しょう、1945年10月19日 - )は、日本のゴルフトーナメントプロデューサー、ゴルフキャスター。東京都港区出身。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学商学部卒業。株式会社ランダムアソシエイツ代表。日本ゴルフ協会常務理事。テレ朝チャンネル放送番組審議会委員。 東京都港区高輪生まれ。父の影響で慶應義塾高校1年生の時にゴルフを始め、高校・大学とゴルフ部に所属した。大学卒業後の1968年、住友ゴム工業に入社した。その5年後の1973年にゴルフトーナメントをプロデュースする目的で同社子会社として設立されたダンロップスポーツエンタープライズの設立に携わる。 1986年から1989年までリクルートの役員も務め、岩手県の同社関連のゴルフ場開設にも尽力した。
山田 修爾(やまだ しゅうじ、1945年9月10日 - 20… 山田 修爾(やまだ しゅうじ、1945年9月10日 - 2013年8月28日)は、日本の演出家、プロデューサー。愛称は「修爾さん」、「マムシ」。 東京都渋谷区出身。1969年4月、TBSに入社。アナウンサー、ラジオ制作を経て『ザ・ベストテン』、『輝く!日本レコード大賞』を企画・演出等、TBS音楽番組の中心的存在として活躍した人物でもある。2005年9月にTBSを定年退職後は、TBSグループのキャスト・プラス(クリエイティブ・メディア・エージェンシー)に移り常務取締役→代表取締役社長(2008年)→取締役相談役(2013年)を歴任、演出・プロデュース活動も行う。 清廉潔白であり、曲がった事が大嫌いで、えらく真面目で几帳面な部分があり、銀行の総務課や経理課の様な人物だったという。
小泉 洋(こいずみ ひろし、1945年8月27日 - )は、… 小泉 洋(こいずみ ひろし、1945年8月27日 - )は、日本の音楽プロデューサー。埼玉県出身、慶應義塾大学経済学部卒業。 ・ 慶應義塾大学卒業後 1968年東芝EMI(当時:東芝音楽工業)入社 最終役職の常務取締役を担当するまで氷室京介ソロデビューの初代A&Rなど数多くのヒット作品に携わる。(氷室ソロアルバム「NEO FASCIO」、BOØWY のライブアルバム「 “LAST GIGS” 」オリジナル盤等) ・1997年より ユニバーサルビクターにて専務取締役を担当 ・2000年より ユニバーサルミュージックにて執行役員を担当 ・2004年~2007年 株式会社エムティーアイ(music.jp運営会社)の執行役員常務/music.jp事業本部コンテンツ獲得グループ統括を担当 ・2008年より 株式会社エムティーアイ,株式会社インクストゥーエンター, 株式会社トイズファクトリーの特別顧問担当 ・2009年より現在まで 株式会社アップライツ顧問取締役 ・2016年より 株式会社アップドリーム,株式会社テイチクエンタテインメントの顧問を歴任 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
片岡 義朗(かたおか よしろう、1945年4月8日 - )は… 片岡 義朗(かたおか よしろう、1945年4月8日 - )は、日本のアニメプロデューサー、舞台プロデューサーである。現在は株式会社コントラ代表取締役社長、アニメコンテンツビジネスのコンサルティングを行っている。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。 神奈川県立湘南高等学校を経て慶應義塾大学を卒業した1969年春、大手広告代理店の東急エージェンシーに入社。『UFO戦士ダイアポロン』『メカンダーロボ』『恐竜大戦争アイゼンボーグ』『恐竜戦隊コセイドン』『科学冒険隊タンサー5』など各TVアニメ番組に企画営業として参加。また1979年10月~ラジオ大阪で日本初のアニメファン向けラジオ番組『アニメトピア』、文化放送でも同種番組『アニメNOW!』を企画制作、ラジオというメディアの中に現在で言うところのアニラジというジャンルを芽生えさせるキッカケ的存在となった。
村井 邦彦(むらい くにひこ、1945年〈昭和20年〉3月4… 村井 邦彦(むらい くにひこ、1945年〈昭和20年〉3月4日 - )は、日本の作曲家、音楽プロデューサー。アルファレコード(現在のソニー・ミュージックパブリッシング、およびソニー・ミュージックレーベルズ)創立者。 ザ・テンプターズ、ザ・モップス、ザ・タイガース、ピーター、赤い鳥、辺見マリ、トワ・エ・モワ、ヴィッキーらのヒット曲で知られている。代表曲には「エメラルドの伝説」「夜と朝のあいだに」「廃墟の鳩」「朝まで待てない」「経験」「翼をください」「虹と雪のバラード」などがある。 アメリカ合衆国・ロサンゼルス在住。居住するロサンゼルスの小学校の合唱団が「翼をください」を歌うのを聴いて涙が止まらなかったのは、加齢により涙もろくなった所為かも知れないと村井は書いている。
千草 宗一郎(ちぐさ そういちろう、1944年〈昭和19年〉… 千草 宗一郎(ちぐさ そういちろう、1944年〈昭和19年〉2月3日 - )は、日本のテレビプロデューサー。関西テレビ放送顧問、元代表取締役社長、相談役、メディアプルポ代表取締役会長。 兵庫県出身。甲陽学院高等学校を経て、慶應義塾大学文学部卒業。慶應義塾大学野球部出身。 1969年4月に関西テレビ入社。同期には桑原征平、杉山一雄、上沼真平(元制作局長で上沼恵美子の夫)、荒田静彦(のち鹿児島テレビ代表取締役社長)がいる。報道局、スポーツ局などを経て、制作部へ配属された。 1986年に深夜の人気番組『エンドレスナイト』のプロデューサーとなる。番組では「シーチャカ」のあだ名で人気を得て番組にもたびたび出演し、「エンドレスにシーチャカあり」と言われるほどになった。
田岡 満(たおか みつる、1943年5月26日 - 2012… 田岡 満(たおか みつる、1943年5月26日 - 2012年10月8日)は、日本の実業家、映画プロデューサー、歌手。
五歩一 勇(ごぶいち いさむ、1943年 - 1995年)は… 五歩一 勇(ごぶいち いさむ、1943年 - 1995年)は東京府(現・東京都)出身のテレビプロデューサー。 1967年に慶應義塾大学法学部政治学科卒業、日本テレビ入社。同期に吉岡正敏が居た。 入社後『シャボン玉ホリデー』制作班にADとして配属、その後経験を積んでディレクターに昇格し同番組の制作に携わる。 以降もディレクターならびにプロデューサーとして『紅白歌のベストテン』『おかしなおかしな60分!』『カックラキン大放送!!』『ピンク百発百中』『欽ちゃんの全日本仮装大賞』『木曜スペシャル』『今夜は最高!』(1985年、民間放送連盟最優秀賞)『素人バカ受けビデオ祭り』『コサキン勝手にごっこ』『やっぱりコント55号』『引っ越せますか』『モグモグGOMBO』など多数の番組の制作を手がける。
平林 邦介(ひらばやし くにすけ、1942年(昭和17年)1… 平林 邦介(ひらばやし くにすけ、1942年(昭和17年)12月19日 - )は、日本のドラマプロデューサー。元 日本テレビ執行役員。元 帝京大学文学部社会学科教授。現オスカープロモーション顧問。長野県出身。 【その他】 橋田寿賀子賞 審査委員 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
京須 偕充(きょうす ともみつ、1942年11月12日 - … 京須 偕充(きょうす ともみつ、1942年11月12日 - )は、落語の録音プロデューサー、落語評論家。日本文芸家協会会員。 東京神田区松住町生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。CBSソニー第1AV事業部制作三部課長、A&R第五部次長を経て、ソニー・ミュージックエンタテインメント・チーフプロデューサー。 ソニー・ミュージック(旧:CBS・ソニー)のプロデューサーとして、6代目三遊亭圓生の「圓生百席」や3代目古今亭志ん朝の作品など、数多くの落語レコード、CDの制作を手がけている。また、「朝日名人会」(有楽町朝日ホールで開催)、「朝日いつかは名人会」(浜離宮朝日ホールで開催)などの落語会をプロデュースしている(この落語会は録音することを前提としても開催)。
林 瑞峰(はやし ずいほう、1941年3月15日 - )は、… 林 瑞峰(はやし ずいほう、1941年3月15日 - )は、日本の実業家、映画プロデューサーである。 ヒューマックス副社長、ジョイパックフィルム(のちのヒューマックスピクチャーズ、現在のヒューマックスシネマ)代表取締役社長、ギャガ・コミュニケーションズ取締役、株式会社カミングスーン・ティービー取締役を歴任、現在、ヒューマックスシネマ代表取締役社長、ヒューマックスコミュニケーションズ代表取締役社長、外国映画輸入配給協会理事、東京都興行生活衛生同業組合副理事長。 1941年(昭和16年)3月15日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。父はヒューマックスグループ創業者の林以文(1913年 - 1976年)、兄に現在の同グループ会長・林瑞祥(1935年 - )、ヒューマックス副社長・林瑞禎(1937年 - )、弟にジョイパックグループの林光男(1943年 - )がいる。
加瀬 邦彦(かせ くにひこ、1941年3月6日 - 2015… 加瀬 邦彦(かせ くにひこ、1941年3月6日 - 2015年4月20日)は、日本の作曲家、音楽プロデューサー。 東京府(現東京都)生まれ。一歳年上の姉がいる。幼稚舎から慶應義塾に通う。 1957年11月、慶應義塾高等学校1年生の時、東京都から神奈川県茅ヶ崎市に転居したが、これが縁で同年12月23日にアメフト部の先輩の紹介により俳優・上原謙のクリスマス・パーティーに誘われ、当時、慶應義塾大学2年生だった加山雄三に出会い、音楽面のみならず、プライベートでも親交を深めるようになる。 慶應義塾大学法学部政治学科在学中の1961年に、初めてのバンド「ザ・トップビーツ」を結成する。その後、ホリプロに所属し、清野太郎、かまやつひろしらとバンド「キャノンボール」を結成。
加賀 義二(かが よしじ、1940年2月 - )は、日本のテ… 加賀 義二(かが よしじ、1940年2月 - )は、日本のテレビプロデューサー。慶應義塾高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業。 東京都世田谷区生まれ。父の加賀二郎は元週刊ダイヤモンド記者、のち松竹株式会社元常務、歌舞伎座専務・歌舞伎座映画プロデューサー。また、祖父は元衆議院議員の加賀卯之吉、伯父・加賀一郎は陸上競技選手でアントワープオリンピックの100メートル競走、200メートル競走の日本代表選手、叔父・加賀四郎は大映のプロデューサー。四郎の娘で女優の加賀まりこはいとこに当たるという芸能一家の出身。姉がいたが、1945年の太平洋戦争終戦直後に19歳で亡くなっている。 高校生になってからは、年に100本以上の映画を観るようになり、特に好みは『愛の泉』(ジーン・ネグレスコ監督作品)、『花嫁はどこにいる』(野村芳太郎監督作品)だった。
若松 宗雄(わかまつ むねお、1940年〈昭和15年〉 - … 若松 宗雄(わかまつ むねお、1940年〈昭和15年〉 - )は、日本の音楽プロデューサー。福島県いわき市生まれ。慶應義塾大学文学部英文科卒業。エスプロレコーズ代表。 1969年 - CBS・ソニーレコード株式会社(現・株式会社ソニー・ミュージックエンターテインメント)入社後、大阪営業所に着任する。セールスの実績を買われ、一年半後に広島営業所の所長となる。当初、広島営業所は全営業所中最下位だったが、若松の着任後一年足らずで売上、回収、キャンペーン等すべての面で全営業所中トップの成績にまで回復する。その実績を認められ、東京第一営業所長に抜擢される。更に制作管理(アーティスト契約なども当時はこのセクションで担当していた)、宣伝部門を経て企画制作部に移り、プロデューサーとして活躍するようになる。
本城 和治(ほんじょう まさはる、1939年12月 - )は… 本城 和治(ほんじょう まさはる、1939年12月 - )は、日本の音楽プロデューサー。著作家。作曲家。 「日本にポピュラー音楽を根付かせたプロデューサー」「60年代から80年代にかけてのJ-POPシーンを作った制作者」「音楽プロデューサーは目利きであり耳利きでなければならない。そんな観点に立つと本城和治という音楽プロデューサーはすごいプロデューサー」との評価がある。 別名義は「藤まさはる」「乗輪寺モトオ」。 東京出身。父は銀行マン。慶應義塾大学経済学部卒業。在学中は慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団に所属。慶應ワグネルの先輩だった渡邊學而に誘われ、1962年日本ビクター(現ビクターエンタテインメント)に入社。
筑波 久子(つくば ひさこ、1939年〈昭和14年〉11月6… 筑波 久子(つくば ひさこ、1939年〈昭和14年〉11月6日 - )は、日本の元女優で、アメリカ合衆国の映画プロデューサーである。筑波プロ、チャコフィルム代表。 アメリカ合衆国での別名はチャコ・ヴァン・リューウェン (Chako van Leeuwen)。 茨城県多賀郡大津町(現・北茨城市大津町)五浦出身。父・弥一郎、母・ハツの間に4人兄妹の末っ子として生まれる。 兄が2人、姉が1人いる。父は地元大手の旅館「五浦観光ホテル」と映画館を経営していた。旅館の女将であった母親に溺愛され、母を憧れにして育つ。小・中学校は地元の大津小学校、常北中学校に通った。中学時代は生徒会長を務め、トップ成績で慶應義塾女子高等学校に進学。
古川 清(ふるかわ きよし、1939年8月8日 - 2015… 古川 清(ふるかわ きよし、1939年8月8日 - 2015年4月20日)は、日本の演劇プロデューサー、演出家。北九州市ソレイユホール館長。 父は喜劇俳優の古川ロッパ、弟は俳優の古川ロック。 東京に生まれる。1962年、慶應義塾大学文学部美学美術史科卒業。 卒業と同時に、東宝演劇部へ。演出部を経て、1967年、現在の帝国劇場の開場よりプロデューサーを務める。東宝時代は『スカーレット』(1970年『風と共に去りぬ』のミュージカル化)、『シカゴ』(1985年、1986年)、『レ・ミゼラブル』(1987年日本初演)、『ミス・サイゴン』(1992年日本初演)などの製作を担当。師である菊田一夫の演出助手を主に務め、演出作品としてミュージカル『ピピン』、演出補として『屋根の上のヴァイオリン弾き』『佐渡島他吉の生涯』『マイ・フェア・レディ』など多数を手がけた。
金子 満(かねこ みつる、1939年(昭和14年)1月 - … 金子 満(かねこ みつる、1939年(昭和14年)1月 - 2018年(平成30年)6月15日)は、日本のアニメーション・プロデューサー、ディレクター、シナリオライター。「日本のコンピュータグラフィックスの父」と称される。 東京都生まれ。東京工業大学大学院後期博士課程修了。学位は博士(学術)。 慶應義塾大学、東京工科大学教授を務めた。 父は映画配給会社・東宝の重役を務めた。 慶應義塾大学法学部を卒業後、フジテレビジョンに入社。編成部で『日清オリンピックショウ 地上最大のクイズ』や『第7の男』『ゼロファイター』などを手掛ける。1964年に担当した『ゼロファイター』では制作方針の混乱から、当時のスポンサーが完成作品を敬遠して1969年まで「お蔵入り」を招く失敗を経験した。
赤尾 健一(あかお けんいち、1938年 - )は、元・日本… 赤尾 健一(あかお けんいち、1938年 - )は、元・日本テレビ放送網のプロデューサー、演出家。日企代表取締役会長。 千葉県出身。父親が新聞記者だったこともあって、早くからマスコミ業界を志望していた。 慶應義塾高等学校では安部譲二と同級生だった。 1962年3月に慶應義塾大学文学部仏文科を卒業し、同年4月に日本テレビ放送網株式会社に入社。芸能局音楽部に配属された。 1974年に日本テレビを独立して、番組制作会社・日企を設立する。
宮島 将郎(みやじま まさろう、1937年〈昭和12年〉7月… 宮島 将郎(みやじま まさろう、1937年〈昭和12年〉7月27日 - 2025年〈令和7年〉5月23日)は、日本のテレビプロデューサー・実業家、元ラジオパーソナリティー、社会運動家、音楽家。 東京都新宿区出身。東京教育大学附属高等学校(現:筑波大学附属高等学校)卒、1962年(昭和37年)慶應義塾大学商学部卒。在学中は慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団に所属し副指揮者を務める。2025年(令和7年)現在埼玉県入間市に在住していた。 1962年(昭和37年)日本テレビ放送網株式会社入社、芸能局音楽班配属。教育・音楽番組を制作。宮島が最も気に入っている番組は幼児教育番組『カリキュラマシーン』だという。
淀野 隆(よどの たかし、1937年4月15日 - 2022… 淀野 隆(よどの たかし、1937年4月15日 - 2022年7月31日)は、新聞記者、イベントプロデューサー、作家。 京都府出身。父は文芸同人誌「青空」同人、フランス文学者淀野隆三。京都府立桃山高等学校から慶應義塾大学文学部に進学し社会学専攻(1961年卒業)。産業経済新聞社社会部勤務。1964年東京オリンピックの取材、川端康成ノーベル賞受賞特派員などに従事した後1969年同社退社。1970年から万国博覧会等のプロデューサーとして活動。元電通総研客員研究員。NPO法人亜州友好協会の理事であり、上海万博開幕1000日まえの発行雑誌(2007年8月創刊)として、2か月刊日本PR雑誌の編集、執筆を担当。
牧口 雄二 (まきぐち ゆうじ、1936年6月29日 - 2… 牧口 雄二 (まきぐち ゆうじ、1936年6月29日 - 2021年12月5日) は、日本のテレビ・映画監督、プロデューサー。東京都板橋区出身。 東京都立九段高等学校を経て慶應義塾大学文学部を卒業後、1960年(昭和35年)に東映株式会社に入社。以来、京都に在住し、東映京都で山下耕作・中島貞夫作品の助監督を経る。 1975年(昭和50年)に東映ポルノ『玉割り人ゆき』で監督デビュー。『玉割り人ゆき』を当時の東映社長・岡田茂から、叙情とエログロの合わせ、その技を高く評価され、以降『五月みどりのかまきり夫人の告白』などの監督作品を発表した。 1977年の鰐淵晴子主演の話題作『らしゃめん』を最後に劇場映画を離れ、テレビドラマ「暴れん坊将軍」シリーズ、「柳生一族の陰謀」「影の軍団」シリーズ、「長七郎江戸日記」などのプロデューサー・監督業を中心に活動。
萩原 敏雄(はぎわら としお、1936年(昭和11年)5月1… 萩原 敏雄(はぎわら としお、1936年(昭和11年)5月18日 - )は、日本のテレビプロデューサー、実業家。日本テレビ社長、日本テレビフットボールクラブ会長兼社長を務めた。 萩原雄祐・結子夫妻の三男として東京府(現・東京都)に生まれる。 慶應義塾高等学校を経て慶應義塾大学文学部を卒業。俳優の早川保と川口浩は慶應高校の同級生。早川とは慶大でも同期であった。 文学青年だった萩原は、出版社を志し、新潮社の最終面接まで行った。だが、萩原には日本テレビにコネがあった。新潮社の最終面接で「あなたは合格したら間違いなく入社しますね?」という問いに正直に答えた。日本テレビが採ってくれるといえば、そちらに入らざるを得ないと、。
桑原 秀郎(くわはら ひでろう、1935年4月29日 - 2… 桑原 秀郎(くわはら ひでろう、1935年4月29日 - 2022年10月5日)は、日本のテレビドラマプロデューサー。東映のプロデューサーとして知られた。 東京都出身。慶應義塾大学文学部(社会心理学専攻)卒業後の1959年に東映に入社、制作部を経て、東映テレビ企画営業部でテレビドラマの企画・プロデューサーを務めた。1983年にテレビ企画部第一営業部チーフとなり、1999年にはエランドール賞・プロデューサー賞を受賞した。 定年後も嘱託として東映に残ったが、2009年に退社し、製作からも退いた。 2022年10月5日、肺結核のため東京都葛飾区の病院で死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
岡田 晋吉(おかだ ひろきち、1935年2月22日 - )は… 岡田 晋吉(おかだ ひろきち、1935年2月22日 - )は、神奈川県出身のテレビドラマプロデューサー。 日本テレビのドラマプロデューサーとして知られ、同局芸能局長、中京テレビ取締役制作本部長、取締役副社長を歴任した。 定年退職後は川喜多記念映画文化財団常務理事(常勤)、日本テレビ顧問を務めた。 鎌倉学園高等学校、慶應義塾大学卒業後、1957年に日本テレビ入社。 入社と同時に海外ドラマの吹き替え版制作を担当し、1963年の「宇宙Gメン」を皮切りに自局制作のテレビドラマに携わる。「青春とはなんだ」「これが青春だ」や「おれは男だ!」などの青春シリーズ、「東京バイパス指令」を経て「太陽にほえろ!」、「俺たちの旅」、「大都会」シリーズ、「あぶない刑事」などを手がけた。
木村 英俊(きむら ひでとし、1934年6月10日 - 20… 木村 英俊(きむら ひでとし、1934年6月10日 - 2019年7月16日)は、北海道出身の音楽プロデューサー。ジーベック音楽出版代表取締役。 実娘はシンガーソングライターの木屋響子(本名・木村恭子)。妻はマリンバ奏者の安倍圭子。 慶應義塾高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業。日東金属鉱山を経て、1963年に日本コロムビア入社。1965年に志願して営業部から学芸部へ移籍し、1977年から学芸部長、1989年から制作本部長を歴任した。アニメーション作品・特撮作品の楽曲や子供向けの楽曲をプロデュースし、日本コロムビアの隆盛期の一分野を担う。 1992年、日本コロムビアが新規設立したグループ会社「フォルテミュージックエンタテインメント」(FME)の社長に就任。
田波 靖男(たなみ やすお、1933年12月12日 - 20… 田波 靖男(たなみ やすお、1933年12月12日 - 2000年3月21日)は、日本の脚本家・作家・プロデューサー。東京都出身。ペンネームに「梅野かおる」「大井みなみ」がある。名前の表記は「靖」の右下の「月」が「円」になっている旧字も使われている。
池田 文雄(いけだ ふみお、1933年(昭和8年)8月23日… 池田 文雄(いけだ ふみお、1933年(昭和8年)8月23日 - 2003年(平成15年)1月23日)は、日本のテレビプロデューサー。ニッポン放送、日本テレビのプロデューサーを務めた。 東京日本橋の商家の4代目として生まれた。小学校時代は、疎開先のお寺の本堂でドラマを作り、地元の老人たちを泣かせた。 慶應義塾大学在学中はグリークラブでアレンジやコンダクターをしていたほか、先輩のダークダックスに駆り出されて、アルバイトで日劇や国際劇場のステージにも立った。 大学卒業後、広告代理店の三晃社に入社。音楽プロデューサーとして『日石ドライブ・イン・アワー』等を担当した。1958年には担当していた番組が縁でニッポン放送に移る。
石川 一彦(いしかわ かずひこ、1933年7月30日 - 2… 石川 一彦(いしかわ かずひこ、1933年7月30日 - 2001年6月19日)は、日本の経営者、プロデューサー。福岡放送社長を務めた。東京都出身。 1958年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に日本テレビ放送網に入社。 主に制作畑を歩み、『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』の演出を担当。 1976年に制作局チーフプロデューサーに就任し、『アメリカ横断ウルトラクイズ』の発案や、「木曜スペシャル」にてカンボジアのアンコール・ワットの潜入取材ルポ番組『アンコール・ワットの謎をさぐる~密林に眠る東洋の神秘~』、『太平洋戦争秘話 ~欧州から愛をこめて~ 緊急暗号電「祖国ヨ和平セヨ!」』などのドキュメンタリー番組などを手掛ける。
逸見 稔(へんみ みのる、1933年4月1日 - 1995年… 逸見 稔(へんみ みのる、1933年4月1日 - 1995年12月9日)は、日本のテレビプロデューサー、オフィス・ヘンミ創業者。神奈川県出身。 慶應義塾大学法学部を卒業すると同時に松下電器産業に入社して、東京宣伝部に配属される。初仕事はCMソング「明るいナショナル」の担当。やがてドラマを任されることとなり、スポンサー側プロデューサーという立場の「クライアントプロデューサー」としてテレビ番組作りに参加し、青春ドラマのはしり『青年の樹』、ホームドラマのはしり『七人の孫』(森繁久彌主演)、クイズ番組のはしり『ズバリ!当てましょう』(フジテレビ)等を制作した。 1966年に開始した、NETテレビのナショナルゴールデン劇場で、時代劇、サスペンス、現代劇、フルーツ・シリーズ等ジャンルにとらわれない多数の作品を制作し、『だいこんの花』が大ヒットを飛ばした。
山田 順彦(やまだ よりひこ、1933年1月18日 - 19… 山田 順彦(やまだ よりひこ、1933年1月18日 - 1997年1月24日)は日本映画のプロデューサー。 1955年に慶應義塾大学文学部を卒業と同時に東宝に入社、文芸部配属。1965年より製作担当者。1967年にプロデューサーに昇格。1969年に契約者となる。1981年に契約が切れフリープロデューサーとなる。小寺朝名義で脚本や原作を手がけることもある。(共同脚本=『育ちざかり』『死ぬにはまだ早い』『娘ざかり』、原作=『年ごろ』『縄と乳房』) この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
槇 洋介(まき ようすけ、1932年12月2日 - )は、タ… 槇 洋介(まき ようすけ、1932年12月2日 - )は、タレント・ラジオパーソナリティ・放送作家・ファッション評論家・フリープロデューサー。主に関西で活躍中。 神戸市出身。神戸二中(現兵庫高等学校)卒業。1955年慶應義塾大学卒業後に朝日放送に入社、同期に植草貞夫と山内久司と澤田隆治らがいる。その後、大阪テレビ放送へ出向し、大阪テレビ放送が朝日放送と合併後は新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)へ移籍。毎日放送退社後は松下電工(現・パナソニック電工)に転職。 朝日放送・大阪テレビ時代は制作部に所属し、多くの番組でディレクターとして活動。新日本放送時代は制作部門を渡り歩き、松下電工時代は広報・宣伝に携わる。