冨田 義治(とみた よしはる、1935年12月25日 - 没… 冨田 義治(とみた よしはる、1935年12月25日 - 没年不明)は、岐阜県出身の映画監督、助監督、脚本家。
日本大学:4,179人
冨田 義治(とみた よしはる、1935年12月25日 - 没… 冨田 義治(とみた よしはる、1935年12月25日 - 没年不明)は、岐阜県出身の映画監督、助監督、脚本家。
杉浦 滋男(すぎうら しげお、1935年12月15日 - 1… 杉浦 滋男(すぎうら しげお、1935年12月15日 - 1997年12月6日)は、日本の男性アナウンサー。 東京都出身・日本大学法学部卒業だが、北海道に憧れていたことから、1958年に北海道放送へアナウンサーとして入社。その後1962年に名古屋テレビ放送開局と同時に移籍後の1964年、やはり開局後の日本科学技術振興財団テレビ事業本部(東京12チャンネル)に移った。 東京12チャンネルでは主に格闘技の実況中継に携わり、プロレス中継では、米国のプロレスを紹介するプロレスアワー・小畑千代VSファビュラス・ムーラをはじめとした日本女子プロレス中継・NETによる『ワールドプロレスリング』開始前の新日本プロレスの単発中継でのアントニオ猪木VSカール・ゴッチ二連戦を経て、国際プロレスのレギュラー中継番組『国際プロレスアワー』のメイン実況を担当。
加藤 修甫(かとう しゅうほ、1935年11月9日 - 20… 加藤 修甫(かとう しゅうほ、1935年11月9日 - 2012年4月16日)は、日本中央競馬会(JRA)に所属した調教師。1990年東京優駿(日本ダービー)優勝馬アイネスフウジン、1998年天皇賞(秋)優勝馬オフサイドトラップ等を管理した。1990年度JRA賞最高勝率調教師。千葉県市川市出身。日本大学農獣医学部獣医学科卒業。 1935年、日本競馬会中山競馬場に所属する調教師・加藤朝治郎の長男として生まれる。幼少期から父と同じく調教師を志し、日本大学在学中に調教助手免許を取得。卒業後、学友であった成宮明光と共にアメリカの生産現場を視察した後、父の元で助手となった。 1971年に調教師免許を取得。
三田村 元(みたむら はじめ 、1935年10月10日 - … 三田村 元(みたむら はじめ 、1935年10月10日 - )は、日本の俳優。本名、村瀬 桂造。旧芸名は村上 文二。 愛知県江南市布袋伝馬町出身。大映、東京俳優生活協同組合、赤坂プロ、日活、アローエンタプライズ、ユーアイプロに所属していた。 実家は村瀬酒造。父親が陸軍軍人であり、各地を転々としていた事情から、幼少時は兄や姉と共に祖父の家で暮らしていたが、問題児であったことを見かねた父親に母親とともに呼び寄せられ、静岡県三島市、千葉県銚子市、千葉県四街道市などで2年間父と過ごした後、愛知に戻り、江南市立布袋小学校入学。負けず嫌いな性格であったことが功を奏し、2年生から卒業までは学年でトップの成績だったとされる。
中野 昭慶(、1935年〈昭和10年〉10月9日 - 202… 中野 昭慶(、1935年〈昭和10年〉10月9日 - 2022年〈令和4年〉6月27日)は、日本の特技監督。満洲国安東県(現:中国丹東市)出身。名前は音読みで「しょうけい」と呼ばれることもある。[要出典] 満洲では、父親は南満洲鉄道の関連会社の国際運輸に勤務していた。祖父はいわゆる大陸浪人であり、日露戦争などに貢献したとして国から金杯を下賜されるなどしていた。幼少のころは裕福な生活を送り、小学校は安東大和在満国民学校に通う。 1946年(昭和21年)、日本敗戦のため愛媛県新居浜市に引揚げ。新居浜には小学校卒業まで過ごす。 1948年(昭和23年)、月輪中学校入学とともに京都府京都市に移る。 1955年(昭和30年)、京都市立日吉ヶ丘高等学校普通科を卒業と同時に日本大学芸術学部映画学科脚本コースに入学。
原田 清人(はらだ きよと、1935年9月2日 - )は、日… 原田 清人(はらだ きよと、1935年9月2日 - )は、日本の俳優。本名は同じ。 大分県日田市出身。大分県立日田林工高等学校卒業、日本大学卒業。劇団俳優座に所属していた。 現日田市長、原田啓介は甥にあたる。[要出典] 1958年、俳優座養成所(10期生)に入り、その後、劇団俳優座に入団。 舞台出演のほか、テレビドラマ、映画にわき役として多数出演した。一時期、原田樹世土名義で活動していた時期もある。 1968年、連続テレビ小説『あしたこそ』に主人公の兄、香原大輔役で出演。 1998年、舞台『遅咲きの花のワルツ』を最後に俳優座を退団。
小林 守夫(こばやし もりお、1935年9月2日 ー )は日… 小林 守夫(こばやし もりお、1935年9月2日 ー )は日本の音響監督、演出家である。 東京向島生まれ。歌舞伎を見たことがきっかけで芝居に興味を持ち、日本大学芸術学部を卒業。 1960年4月に東北社(現在の東北新社)へ入社。入社当初は小林曰く「翻訳者の集団」だったが、しばらくして海外作品の吹替版の制作をすることになり、1961年に連続ドラマ『ハイウェイ・パトロール』の演出を担当。これが演出デビュー作となる。以後、数々の洋画吹替の演出を担当(アニメーションの音響監督も担当している。)。 吹替の創生期から活躍する大ベテランであり、同じ演出家で小林の助手を務めた経験のある小山悟は「大作をたくさん手掛けていた」と語っている。
石川 才顯(いしかわ わざあき、1935年8月10日 - 1… 石川 才顯(いしかわ わざあき、1935年8月10日 - 1996年11月28日)は、日本の法学者。専門は刑事法。元日本大学法学部教授。大分県中津市出身。 日沖憲郎に師事し、刑事法、特に、刑事訴訟法分野においての業績で著名。その著書、論文は多くの刑事訴訟法学者や法律実務家に影響を与え、立命館大学教授の井戸田侃とともに捜査手続の訴訟的構造化に基づいて、捜査機関の攻撃的捜査活動に対して、被疑者側の防御活動捜査活動を対等なものとして位置づけた。その当事者主義的捜査構造から導かれる捜査訴訟構造説(捜査独自性説)の有力な推進者として知られる。それら研究の集大成である主論文『捜査における弁護の機能』に対しては、慶應義塾大学より博士(法学)の学位が授与された。
蔵原 惟二(くらはら これつぐ、1935年7月15日 - )… 蔵原 惟二(くらはら これつぐ、1935年7月15日 - )は、日本の映画監督、映画プロデューサー。映画監督蔵原惟繕の実弟。詩人蔵原伸二郎の甥。 東京・田園調布出身。高校時代を神戸市で過ごす。1958年、日本大学芸術学部卒業。日活入社後、助監督として長谷部安春らに師事し、1971年に旧日活体制最後の一般向け映画『不良少女 魔子』で監督デビュー。退社後は兄・惟繕と共に蔵原プロダクションを設立し、プロデューサーとして多くの映画を手掛ける。
沢本 忠雄(さわもと ただお、1935年7月2日 - 202… 沢本 忠雄(さわもと ただお、1935年7月2日 - 2022年6月5日)は、日本の俳優。三重県松阪市出身。白木万理は元妻にあたる。 1958年、日本大学芸術学部(映画科・演出/シナリオ)卒業。日活に入社。公式のデビュー作は南田洋子主演で、南田の弟役を演じた『雌花』(1957年、阿部豊監督作品)であるが、その前に同じ南田主演の『素足の娘』でエキストラ出演している。そのエキストラ出演で阿部に認められて『雌花』に起用されたという。 1958年に『十代の恋よさようなら』(小林桂三郎監督作品)にて初主演。以後は『嵐を呼ぶ友情』、『群衆の中の太陽』、『青春蛮歌』、『祈るひと』等、数々の作品に出演し、日活映画の顔となる。
藤本 秀朗(ふじもと ひでろう、1935年6月14日 - 2… 藤本 秀朗(ふじもと ひでろう、1935年6月14日 - 2022年1月15日)は、日本の実業家、会社経営者。 ユニデンホールディングス創業者。東京都出身。 1960年、藤本秀朗は日本大学商学部を卒業し、中堅輸出商社のツルミ貿易(株)に就職した。入社2年目で米国駐在になった。 1966年、藤本はツルミ貿易からトランシーバーメーカーの株式を買収し、「ユニ電子産業(株)」(現・ユニデンホールディングス)を設立。日本で生産したトランシーバーを米国にOEM(相手先ブランドでの生産)で輸出し、業績を拡大。 1974年12月、藤本は会社名を「ユニデン株式会社」に商号変更。 1976年には、売上高が400億円を突破するまでに急成長した。
松本 敏男(まつもと としお、1935年5月30日 - )は… 松本 敏男(まつもと としお、1935年5月30日 - )は、日本の俳優。 東京府(現・東京都)出身。日本大学卒業。劇団近代派、銀座プロを経て、楡プロに所属していた。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
加藤 哲夫(かとう てつお、1935年5月-)は、日本の元テ… 加藤 哲夫(かとう てつお、1935年5月-)は、日本の元テレビプロデューサー、元KBS京都代表取締役社長。
堀 澄也(ほり すみや、1935年4月27日 - )は、実業… 堀 澄也(ほり すみや、1935年4月27日 - )は、実業家。ヤクルト代表取締役会長。東京ヤクルトスワローズオーナー。広島県福山市出身。
石本 隆(いしもと たかし、1935年4月6日 - )は高知… 石本 隆(いしもと たかし、1935年4月6日 - )は高知県安芸市出身の競泳選手。1956年メルボルンオリンピックの200mバタフライ銀メダリスト。 1935年4月6日、高知県安芸市出身。高知県立安芸高等学校を経て日本大学卒業。 中学校の時に野球をしていたが、水泳部の大会に出場したことがきっかけで水泳を始めた。大学1年の時に100mバタフライで日本記録を出した。 1956年メルボルンオリンピック男子200mバタフライ銀メダリストで、1957年9月7日に神宮プールで、富田一雄、古川勝、石原勝記との400mメドレーリレーの世界記録、9月14日に100mバタフライの世界記録を保持した。 日本選手権水泳競技大会では、100mバタフライで1956年から1958年まで3連覇、200mバタフライでも1955年から1957年まで3連覇した。
齋藤 康一(さいとう こういち、1935年3月31日 - )… 齋藤 康一(さいとう こういち、1935年3月31日 - )は、日本の写真家。東京都品川区生まれ。 東京学芸大学附属竹早中学校、東京都立竹早高等学校卒業後、日本大学芸術学部写真学科入学。 大学在学中、写真家林忠彦の助手を19歳から務めた後、写真家秋山庄太郎の助手となった。1959年大学卒業後フリーとなった。 週刊誌・月刊誌等に数多くの人物写真および、ルポルタージュを多数掲載。 1965年、第一回日中青年大交流に日本写真家協会より参加、以後、80回中国各地を訪問、取材する。日本写真家協会名誉会員。日本写真協会監事。 1976年、第7回講談社出版文化賞をシリーズ「この人」にて受賞。1988年には日本写真協会年度賞。
永野 靖忠(ながの やすただ、1935年3月29日 - 19… 永野 靖忠(ながの やすただ、1935年3月29日 - 1993年2月17日)は、日本の映画監督、テレビ演出家。北海道小樽市奥沢町出身。 1953年に東京都立江北高等学校、1959年に日本大学芸術学部映画学科を卒業。東映教育映画部を経て東映テレビ・プロダクションに所属し、助監督として関川秀雄に師事する。1963年にテレビ朝日系「特別機動捜査隊」第80話「帰らざる海」で監督としてデビュー。 プライベートでは、監督を務めたライオン奥様劇場「罪人形」に出演していた女優の松木路子と1972年頃に結婚。 1993年2月17日、肝臓がんで死去。 特記がない限り監督のみ担当。
尾上 規喜(おのえ きよし、1935年3月16日 - )は、… 尾上 規喜(おのえ きよし、1935年3月16日 - )は、日本の放送技術者、実業家。元フジ・メディア・ホールディングス取締役(常勤監査等委員)、元フジテレビジョン監査役。 京都府宮津市出身。京都府立宮津高等学校卒業後、日本大学芸術学部写真学科卒業。フジテレビジョン開局前の1958年12月に同社に入社。 入社後は映画部写真室を皮切りに、報道部外信班、放送部主事、放送技術局部長(技術管理)、総務局人事部長などを経て1987年6月、技術局長。 1989年6月、取締役技術局長。1991年6月、取締役 総務・人事担当兼人事局長、1992年6月、常務取締役。1994年7月、常務取締役 総合調整担当、1997年6月、専務取締役 管理業務本部長。
藤木宏幸(ふじき・ひろゆき、1935年3月5日 - 2003… 藤木宏幸(ふじき・ひろゆき、1935年3月5日 - 2003年12月24日)は日本近現代演劇研究者、演劇評論家。 東京都出身。1957年日本大学芸術学部卒業、1960年同大学院研究科修了。日大在学中に秋庭太郎の教えを受け、秋庭太郎の日本演劇研究での数少ない弟子とされる。1967年共立女子大学専任講師。同助教授、教授を経て同大学名誉教授。近代日本のイプセン受容研究で業績をあげる。「戦争と平和」戯曲全集を源五郎、今村忠純と共に編集。日本演劇学会理事も務める。 2003年12月24日、大動脈瘤破裂のため自宅で死去。68歳没。 藤木宏幸氏死去 演劇評論家(共同通信)
田中 利明(たなか としあき、1935年2月24日 - 19… 田中 利明(たなか としあき、1935年2月24日 - 1998年2月6日)は日本の卓球選手。 北海道紋別市出身(小樽市生まれ)。日本大学卒業。 世界卓球選手権では、1955年から3年連続決勝に進出し、1955年および1957年に世界チャンピオンとなった。また荻村伊智朗、角田啓輔らとともに、1954年から、世界卓球選手権男子団体3連覇に貢献した。男子シングルスでは、1955年、ドリナーをわずか15分で破り初優勝、1956年は決勝で荻村に敗れたが、1957年は決勝で荻村を破り2度目の優勝を果たした。1956年大会の男子団体準決勝ルーマニア戦では日本が3-4と追い込まれた(5点先取)8番手の試合で、ゲームオール14-20とマッチポイントを取られた状況から23-21と逆転勝利した。
内山 斉(内山 齊、うちやま ひとし、1935年2月6日 -… 内山 斉(内山 齊、うちやま ひとし、1935年2月6日 - 2022年2月2日)は、読売新聞グループ本社顧問、同社元代表取締役社長、日本新聞協会会長、第13代横綱審議委員会委員長。位階は正三位。 北海道札幌市出身。北海道札幌西高等学校、日本大学文学部社会学科卒業。1957年4月、読売新聞社入社。地方部を中心に記者として活動する。制作局を担当していた当時、印刷拠点の分散化を経営トップに進言して功績が認められる。のちに渡邉恒雄から後継者指名を受ける。 2022年2月2日21時48分、心不全のため、東京都内の病院で死去。86歳没。同日付をもって正三位に叙され、旭日大綬章を受章した。
高梨 豊(たかなし ゆたか、1935年2月6日 - )は、日… 高梨 豊(たかなし ゆたか、1935年2月6日 - )は、日本の写真家。東京造形大学元教授。 東京都出身。1957年、日本大学芸術学部卒業後、八木治のスタジオに就職。その後、桑沢デザイン研究所に入り、大辻清司に学ぶ、1961年、卒業。日本デザインセンターに入社。1968年には写真同人誌「プロヴォーク」に参加(1970年の活動休止まで)。1970年、日本デザインセンターを退社、フリーとなる。1980年、東京造形大学助教授、1983年、教授、2000年、客員教授。 ライカ同盟(メンバー:高梨豊、赤瀬川原平、秋山祐徳太子)家元。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
白川 義員(しらかわ よしかず、1935年〈昭和10年〉1月… 白川 義員(しらかわ よしかず、1935年〈昭和10年〉1月28日 - 2022年〈令和4年〉4月5日)は、日本の写真家。「地球再発見による人間性回復へ」をテーマに、原始の風景と聖地などを撮り続けた。 1996年から『世界百名山』撮影プロジェクトを開始する。エドモンド・ヒラリーらの各国の11名が選考委員を快諾して、この委員と「白川義員世界百名山撮影プロジェクトを支援する会」により、世界の山から110座を選んだ。これをもとに2001年(平成13年)までに、自ら127座すべてを空から撮影した。理想の被写体を求めて、日の出や日没時を含めて360度のあらゆる方向からその山を眺め航空機の窓を開けての撮影を行った。
吉川 一義(よしかわ かずよし、1935年1月28日 - )… 吉川 一義(よしかわ かずよし、1935年1月28日 - )は、日本の映画監督である。平仮名表記の「よしかわ いちぎ」名義で『電子戦隊デンジマン』の監督も手掛けた。京都府京都市出身。 日本大学藝術学部卒業後東映に入社。今井正に師事し、1968年に監督デビュー。以降テレビドラマ作品を中心に活動し、刑事ドラマ・時代劇・2時間ドラマと数多くの作品で現在もメガホンを執り続ける。特に1988年のスタートから足掛け20年続いた『はぐれ刑事純情派』ではメイン監督として長年携わり、その縁から藤田まこと主演の東映テレビ時代劇にもコンスタントに参加した。 瀬川昌治が塾長を務める瀬川塾では講師を務めた。
人見 武雄(ひとみ たけお、1935年1月5日 - )は、滋… 人見 武雄(ひとみ たけお、1935年1月5日 - )は、滋賀県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 大津東高(現膳所高校)では、1952年夏の甲子園県予選決勝で瀬田高に敗退、京津大会には進めなかった。日本大学へ進学。東都大学野球リーグでは在学中に5回優勝。1年生の春季リーグからレギュラーとなり三塁手、遊撃手として活躍。1954年秋季リーグでは穴吹義雄に次ぐ打率.345を記録。1955年春季リーグで優勝に貢献、最高殊勲選手賞を獲得した。直後の全日本大学野球選手権大会では、決勝で明大の秋山登に完封され準優勝。翌1956年の同大会でも、同じく決勝で関大の村山実に抑えられ準優勝に終わった。リーグ通算98試合出場、364打数101安打、打率.277、3本塁打。
小野 正弘(おの まさひろ、1935年1月4日 - 2010… 小野 正弘(おの まさひろ、1935年1月4日 - 2010年12月25日)は、日本の建築家。長野県長野市生まれ。立正大学・日本大学・宇都宮大学・足利工業大学講師を歴任。 受賞歴に、中部建築賞、神奈川県建築コンクール優秀賞、東京建築士事務所協会作品コンクール最優秀賞・優秀賞 奈良市民ホール国際建築競技設計佳作入選などがある。
野上 透(のがみ とおる、1935年〈昭和10年〉- 200… 野上 透(のがみ とおる、1935年〈昭和10年〉- 2002年〈平成14年〉)は、日本の写真家。本名は、根岸 秀廸(ねぎし ひでみち)。 1935年(昭和10年)、東京都台東区に生まれる。1958年(昭和33年)、日本大学芸術学部写真学科を卒業後、講談社へ入社。1964年(昭和39年)にフリーランスとなる。文士をはじめ、各界で活躍する人々の人物写真、報道写真、ルポルタージュ等を撮影。1977年(昭和52年)、第8回講談社出版文化賞を受賞。女子美術大学、NHK文化センターの講師を務める。2002年(平成14年)、死去。 作品は東京都写真美術館、JCIIフォトサロン、日本写真保存センター、日本大学芸術学部、横浜市民ギャラリーなどに収蔵されている。
近藤 伯雄(こんどう はくお、1935年 - )は、日本のテ… 近藤 伯雄(こんどう はくお、1935年 - )は、日本のテレビプロデューサー、児童文学作家。 1935年、ブラジル出身。日本大学芸術学部卒業後、東京12チャンネルに入社。主にアニメや特撮番組を担当。その後退職し児童文学作家として活動。 この項目は、アニメ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJアニメ)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
斎藤毅(さいとう つよし、1935年 - )は、日本の歯科医… 斎藤毅(さいとう つよし、1935年 - )は、日本の歯科医師、歯学者。日本大学名誉教授。学術著作権協会代表理事。元日本大学歯学部歯科保存学第II講座教授。元日本歯科医学会会長、元日本口腔インプラント学会副会長。 1959年日本大学歯学部卒業、1963年同大学院修了し、以後同大学助手、講師、助教授を務め、1973年より教授に就任、2005年より名誉教授。 1963年日本大学より歯学博士号を得る。論文の題は「象牙質齲蝕の病巣における蛋白質(ことにそのアミノ酸組成)糖質Ca,Mg,Pの量的変動 」。 2014年11月瑞宝中綬章受章。
平賀 国夫(ひらが くにお、1935年 - )は、日本の建築… 平賀 国夫(ひらが くにお、1935年 - )は、日本の建築家。東京都生まれ。丹下健三都市建築設計研究所(URTEC)副社長を歴任。 1957年 日本大学理工学部建築学科卒業後、RIAや日建設計、増沢洵の事務所に出入りしていた。 1963年にURTECに入所し、電通本社ビル、大津プリンスホテル、今治市民会館などを担当する。1998年にURTECを退所した。
森 啓(もり けい、1935年 - )は、日本のグラフィック… 森 啓(もり けい、1935年 - )は、日本のグラフィックデザイナー。森啓デザイン研究室主宰。女子美術大学大学院客員教授。日本大学大学院芸術学研究科非常勤講師。専門は、グラフィックデザイン史、書体設計、タイポグラフィ。 東京都生まれ。日本大学芸術学部美術学科卒業。桑沢デザイン研究所講師、明星大学日本文化学科教授、女子美術大学教授を歴任。2005年から女子美術大学大学院客員教授。
ビクトル 古賀(ビクトル こが、日本名:古賀 正一(こが ま… ビクトル 古賀(ビクトル こが、日本名:古賀 正一(こが まさかず)、1935年 - 2018年11月3日)は、日本の格闘家。日本人と白系ロシア人のハーフで、日本にロシアの国技であるサンボを広めた功労者である。 1935年、満洲国ハイラルで日本人の父と白系ロシア人の母との間に生まれる。母方の祖父はロシア皇帝ニコライ2世の近衛兵を務めたコサック騎兵隊のアタマン(頭目)だった人物で、父は筑後柳河藩主立花家の流れを汲む士族の家の次男であり、ビクトルはコサックとサムライの血を引く日本人である。 ビクトルは終戦後の1946年12月、11歳の時ひとりで満州から父の故郷である福岡県柳川市に帰国した。その後東京の親戚の家に預けられ、東京都立一橋高等学校から日本大学医学進学課程へ進学してレスリング部に入部した。
成瀬 宇平(なるせ うへい、1935年(昭和10年) - 2… 成瀬 宇平(なるせ うへい、1935年(昭和10年) - 2016年(平成28年)8月23日)は、日本の栄養学者(医学博士)。鎌倉女子大学名誉教授。 現在の福島県いわき市に生まれる。1958年(昭和33年)、日本大学農獣医学部(現 生物資源科学部)卒業。同大学学部助手、講師、東邦大学医学部研究生、東京大学応用微生物研究所研究生を経て、武蔵野栄養専門学校講師、鎌倉女子大学教授、同家政学部長を歴任。鎌倉女子大学名誉教授。 日本テレビ「3分クッキング」、テレビ朝日「いまどき!ごはん」などの元アドバイザー。お魚博士として、NHK「ためしてガッテン」、フジテレビ「発掘!あるある大事典」、日本テレビ「おもいっきりテレビ」「所さんの目がテン!」、TBS「はなまるマーケット」などにも出演した。
小山 幹夫(こやま みきお、1934年12月7日 - )は日… 小山 幹夫(こやま みきお、1934年12月7日 - )は日本の映画監督、テレビディレクター、舞台演出家、脚本家、日本映画監督協会会員。日本大学芸術学部映画科卒業、神奈川県茅ヶ崎市出身。福島県西白河郡矢吹町在住。 神奈川県茅ヶ崎市生まれ。神奈川県立湘南高等学校、日本大学芸術学部映画科を卒業。 1957年(昭和32年)東映東京撮影所の助監督として入社。関川秀雄、佐伯清、深作欣二らに師事。 1965年(昭和40年)東映東京撮影所・監督に昇進。初監督作品は藤田まこと主演映画『喜劇・一発かましたれ!』、キャッチコピー「昼はサラリーマン、夜はギャングのボス!腰抜け社員で笑わせて、恐いギャングでまた笑わせる、爆笑必至の底抜けコメディー!!」。
升田 重蔵(ますだ じゅうぞう、1934年11月6日-200… 升田 重蔵(ますだ じゅうぞう、1934年11月6日-2001年10月5日)は、日本の政治家・教育者。北海道島牧郡島牧村出身。北海道寿都町町長(1996年-2001年、2期)。位階は正六位。勲五等瑞宝章受章。 漁師の家に生まれる。北海道小樽水産高等学校卒業。1952年、島牧村の小学校助教諭に就く。日本大学文理学部通信教育課程卒業。日本大学で教員免許を取得し、歌棄中学校や寿都中学校などで教諭を務めた。寿都中学校長を経て、1992年寿都町教育委員会勤務。1994年寿都町教育長。1996年寿都町町長選挙に出馬し、同じ新人の岡部武を破って初当選。2000年も無投票で再選したが、2001年10月 在職中に逝去。
都築 政昭(つづき まさあき、1934年(昭和9年)11月-… 都築 政昭(つづき まさあき、1934年(昭和9年)11月- )は、元NHKの製作スタッフで、日本映画とりわけ黒澤明に関する著作を多数出版している。 愛知県に生まれる。1959年日本大学芸術学部映画学科卒業。NHK制作業務局撮影部に入局。『ある人生』、『日本の美』、『NHK特集』などドキュメンタリー番組、海外取材番組の撮影を担当する。1987年に九州芸術工科大学(現在は九州大学芸術工学部ほか)教授を、2000年より岐阜県大垣市にある公立情報科学芸術大学院大学教授を務めた。現在は豊田市に在住し著述活動を行っている。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
熊切 圭介(くまきり けいすけ、1934年9月24日 - 2… 熊切 圭介(くまきり けいすけ、1934年9月24日 - 2020年11月27日)は、日本の写真家。本名は奎介。 2015年〜2019年日本写真家協会会長。長男は同じく写真家の熊切大輔。 東京都下谷西町出身。1958年日本大学芸術学部写真学科卒業。丹野章に師事。報道写真を中心に、美術全集収録の写真撮影などにもたずさわる。 三重県名張市でおきた名張毒ぶどう酒事件の遺児を記録した「母なき新入生」で、1961年講談社三賞の写真賞。 のちにフリーランスの写真家として週刊誌を中心に月刊誌、グラフ誌など主にジャーナリズムの分野で活動する。同時に単行本、美術全集等の撮影を行う。写真集に「東南アジア鉄の旅」など。
青木 行義(あおき ゆきよし 1934年9月15日 - 19… 青木 行義(あおき ゆきよし 1934年9月15日 - 1996年4月19日)は、日本の競泳選手。種目は自由形。熊本県出身。 熊本県立鹿本高等学校在学中の1952年のヘルシンキオリンピックの1500m自由形では19分27秒0で予選敗退、日本大学に在学中の1956年のメルボルンオリンピック1500m自由形では18分38秒3で7位となった。 また1954年アジア競技大会1500m自由形では金メダルを獲得した。 菊鹿町の名誉町民となっている。1996年、61歳で死去した。 1972年ミュンヘンオリンピックの女子100mバタフライで金メダルを獲得した青木まゆみはいとこにあたる。
塚田 徹(つかだ とおる、1934年(昭和9年)8月12日 … 塚田 徹(つかだ とおる、1934年(昭和9年)8月12日 - )は、昭和期の政治家。元衆議院議員(3期)。塚田政治経済研究所長。 新潟県出身。1957年、日本大学法学部政治経済科卒業。日産自動車販売勤務を経て光陽商事社長となり、1963年、父の知事転任に伴い衆議院議員総選挙に旧新潟4区から無所属で立候補して、29歳で初当選、以来通算3期。のち自由民主党に入党。 衆院内閣常任委員会理事、日本ユネスコ国内委員、自民党政調内閣部会副部会長等を歴任する。福田赳夫内閣で建設政務次官を務めた。同じ選挙区から白川勝彦が当選してから塚田は落選続きとなり、以後立候補しなかった。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
大島 昌宏(おおしま まさひろ、1934年7月27日 - 1… 大島 昌宏(おおしま まさひろ、1934年7月27日 - 1999年12月14日)は、日本の小説家、時代小説家、CMプランナー。 福井県生まれ。福井県立藤島高等学校、日本大学芸術学部卒業。広告制作会社に勤務し、多くのテレビCM制作を手がける。 1992年『九頭竜川』で第11回新田次郎文学賞を受賞。1995年『罪なくして斬らる』で第3回中山義秀文学賞を受賞した。
たてかべ 和也(たてかべ かずや、1934年7月25日 - … たてかべ 和也(たてかべ かずや、1934年7月25日 - 2015年6月18日)は、日本の俳優、声優、芸能プロモーター。本名は立壁 和也(読みは同じ)で、1970年代までは本名で活動していた。血液型はA型。設立時より死去するまでケンユウオフィス取締役を務めていた。
江崎 照雄(えざき てるお、1934年7月21日 - 201… 江崎 照雄(えざき てるお、1934年7月21日 - 2016年2月19日)は、愛知県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。
小俣 芳明(おまた よしあき、1934年7月7日 - )は、… 小俣 芳明(おまた よしあき、1934年7月7日 - )は、日本の経営者。東急建設社長を務めた。 東京都出身。1959年に日本大学理工学部土木科を卒業し、同年に東急電鉄に入社。1991年6月に取締役、1997年6月に常務を経て、1998年6月に東急建設副社長に就任し、2001年6月には社長に昇格。2002年5月には副社長に降格。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
後藤 暢(ごとう とおる、1934年〈昭和9年〉6月26日 … 後藤 暢(ごとう とおる、1934年〈昭和9年〉6月26日 - )は、福岡県出身の元競泳選手。 高校3年生のときに1952年ヘルシンキオリンピックに出場し、男子800m自由形リレーで銀メダルを獲得した。のちに西日本新聞社に入社してスポーツ記者として活動、運動部長を務める。 福岡県朝倉郡朝倉村恵蘇宿(現在の朝倉市山田)に生まれる。 父の後藤均は村長も務めるとともに地域の水泳の発展に貢献した人物で、本人含め2男4女(暢は次男)が水泳の達者という水泳一家であった(とくに長男の龍美、次女の美智子は全国大会で成績を残し、オリンピック選手候補として名が挙がるレベルであったという)。1940年には均が中心となり、有志の協力・村民の理解のもとで、朝倉村立朝倉小学校に福岡県の小学校では最初に25mプールが設けられた。
加藤 彰(かとう あきら、1934年5月9日 - 2011年… 加藤 彰(かとう あきら、1934年5月9日 - 2011年4月8日)は日本の映画監督。 東京都立小石川高等学校、日本大学藝術学部映画学科卒業。後に、日活の社長になる根本悌二は小石川高校の同級生。日活に入社し中平康に師事する。日活ロマンポルノの全盛期を支えた監督の一人である。その後はテレビドラマを中心に活動していた。
木村 晟(きむら あきら、1934年4月7日 - )は、日本… 木村 晟(きむら あきら、1934年4月7日 - )は、日本の国語学者、駒澤大学名誉教授。 滋賀県中主町(現野洲市)生まれ。近江兄弟社学園を経て、1957年日本大学文学部国文学科国語学専攻卒業。桜美林大学講師、神戸女子大学助教授、駒澤大学文学部助教授、教授、2002年「中世韻書の基礎的研究」で日大文学博士。2005年駒沢大を定年退職、名誉教授。近江野田教会は母教会。東京都東久留米市の久留米キリスト教会会員。 日本の古辞書の研究が専門だが、近江兄弟社に関する単著がある。
雲村 俊慥(くもむら しゅんぞう、1934年4月3日 - 2… 雲村 俊慥(くもむら しゅんぞう、1934年4月3日 - 2021年6月5日)は、日本の作家。別名・沢村健。 新潟県五泉市村松生まれ。日本大学法学部新聞学科卒。 1957年光文社に入社し、週刊「女性自身」、月刊「宝石」、文芸図書、各種の文庫編集部を歴任。 定年後、初めて執筆した『小説・仙壽院裕子―越後村松藩の維新』で第6回日本文芸家クラブ長編小説部門大賞を受賞。 江戸を歩く会会長。NHK文化センター歴史探訪の講師を担当する。
北川 陽一郎(きたがわ よういちろう、1934年〈昭和9年〉… 北川 陽一郎(きたがわ よういちろう、1934年〈昭和9年〉3月20日 - )は、日本の俳優。本名・旧芸名は細川 隆一(ほそかわ りゅういち)。北海道小樽市出身。 日本大学芸術学部中退。 1950年代後半ごろに東宝の専属俳優となって、本名の細川隆一名義で数多くの作品に出演した。専属制度が崩壊した1971年以降は北川陽一郎と芸名を付け、エヌ・エー・シーの専属として主にテレビで活動する。 その後、活動の拠点を北海道に移し札幌市に「NACタレントセンター札幌」を開設、1980年には劇団「劇団道」を創設する。 2005年にNACタレントセンター札幌を「北海道俳優養成所」と独立改称し、現在代表、主宰を務めている。
勝部 義夫(、1934年〈昭和9年〉3月19日 - 2023… 勝部 義夫(、1934年〈昭和9年〉3月19日 - 2023年〈令和5年〉5月)は、日本の元俳優。島根県大田市波根町出身。日本大学芸術学部映画科卒業。 1953年、大学入学と同時に帝国劇場の研究生となり、翌年に正式な劇団員となる。 1955年に東宝専属となり、1956年に公開された東宝配給作品『白夫人の妖恋』(豊田四郎監督)でデビュー。 その後も多数の作品でバイプレイヤーとして活躍。合計327本の映画に出演。書籍『ゴジラ大百科 [メカゴジラ編]』では、「決定打的な役はないが、常に何らかのかたちで画面に登場してくる不思議な俳優」と評している。 テレビドラマでも『ウルトラセブン』の準レギュラー・ウエノ隊員をはじめ多数の作品に出演。
佐藤 允(、1934年〈昭和9年〉3月18日 - 2012年… 佐藤 允(、1934年〈昭和9年〉3月18日 - 2012年〈平成24年〉12月6日)は、日本の俳優。身長173 cm、体重71 kg。 佐賀県神埼郡神埼町(現:神埼市)出身。日本大学第三高等学校卒業。息子は映画監督の佐藤闘介。 4歳の頃に父が戦死し、教員の母の手一つで育てられた。なお佐藤の父親は生前、陸軍の久留米連隊に所属しており、後年に役者として軍人を演じる際は幼少期に見た父親の立ち居振る舞いが大いに影響されているとのこと。 高校卒業後、1953年に俳優座養成所に第4期生として入団。同期には宇津井健・佐藤慶・仲代達矢・中谷一郎らがいる。なお、佐藤、仲代、中谷の3人は、後年に岡本喜八の「喜八一家(ファミリー)」の一員と見なされた。