申 駿遠(シン・ジュヌォン、朝鮮語: 신준원、1901年7月… 申 駿遠(シン・ジュヌォン、朝鮮語: 신준원、1901年7月23日 - 1966年6月1日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第5代韓国国会議員。 慶尚北道善山郡(現・亀尾市)出身。日本大学文学部卒。故郷善山の三・一運動に参加したことや、大学在学中に朴烈や曺奉岩と共に黒涛会のアナキスト運動に参加したことにより投獄された。帰国後は朴相熙、金雨東らと共に亀尾消費組合を組織し、新聞社の支局長を務めた後、1960年の第5代総選挙で善山郡選挙区より無所属で出馬し当選、国会議員を1期務めた。
菊池 重三郎(きくち しげさぶろう、1901年7月3日-19… 菊池 重三郎(きくち しげさぶろう、1901年7月3日-1982年4月16日)は、日本の作家、編集者、翻訳家。「芸術新潮」初代編集長。 宮崎県臼杵郡北方村(現在の延岡市) で生まれる。1920年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒業、1925年、立教大学文学部英文科を卒業。1925年から3年間、麻布中学校の英語教師を務め、1928年渡欧し、1930年帰国。 研究社、春秋社、新潮社に勤務し、傍ら文筆活動にも努める。 新潮社では、1950年「芸術新潮」初代編集長となり、創刊から62号まで携わり、1955年退職。 晩年の島崎藤村と交流があり、1947年の木曾馬籠の藤村記念館の設立に尽している。
古田 重二良 (ふるた じゅうじろう、1901年(明治34年… 古田 重二良 (ふるた じゅうじろう、1901年(明治34年)6月23日 - 1970年(昭和45年)10月26日)は、日本の教育者。昭和時代戦後期の日本大学第四代理事長および会頭を歴任し、日大のマンモス化を達成した。私立大学の経営者(教育者)として昭和戦後期の高等教育機関が少なかったころに、マスプロ大学(マスプロ教育)のシステムを導入して大学進学率上昇に貢献し、理系学部を重視した政策をとった。また、戦後期に財界から期待されてサラリーマン育成機関となった私立大学のなかで、日大におけるビジネス教育の推進といった日本の大学経営における手法を確立した。大学闘争では最大規模となる日大紛争(日大闘争)を招いた当事者になる。
山本 正一(やまもと しょういち、1901年(明治34年)4… 山本 正一(やまもと しょういち、1901年(明治34年)4月15日 - 1979年(昭和54年)9月17日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(5期)、鎌倉市長(3期)、鎌倉市会議員、神奈川県会議員(鎌倉市選挙区)。山梨県生まれ、東京都出身。位階は従四位。
中野 文門(なかの ぶんもん、1901年3月30日 - 19… 中野 文門(なかの ぶんもん、1901年3月30日 - 1988年10月9日)は、日本の政治家。神戸市会議員、兵庫県議会議員、参議院議員(2期)を歴任した。政界引退後は神戸森学園(現在の神戸学院)理事長を務めた。寺院の出身で、福海寺住職の経歴も持つ。 大分県大分郡鶴崎町(現・大分市鶴崎)に、東厳寺住職の長男として生まれる。 1927年に日本大学専門部社会科を卒業後、東京府職員となる。1933年、神戸市会議員に当選。その後、戦争を挟み、神戸市会議員と兵庫県議会議員を同時に務める。(当時は市議と県議の兼任が可能であった。)神戸市会では1947年、兵庫県議会では1955年にそれぞれ議長に就任した。 義務教育を無償とすべきであるとの信念に基づき、清瀬一郎を弁護士として憲法違反訴訟を展開し、大審院で勝訴した。
足立 梅市(あだち うめいち、1901年(明治34年)2月9… 足立 梅市(あだち うめいち、1901年(明治34年)2月9日 – 1988年(昭和63年)2月2日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。位階は正五位。衆議院議員(2期)。 三重県多気郡三瀬谷村(三瀬谷町を経て現大台町)出身。1932年(昭和7年)日本大学法文学部を卒業。弁護士を開業し、東京弁護士会、三重弁護士会に所属した。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に三重県第2区から日本社会党公認で立候補して初当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。この間、社会党三重県支部連合会初代会長などを務めた。その後、社会党本部を批判し和田敏明らと共に社会党再建全国連絡会を結成、第25回から第27回総選挙まで3回連続で立候補したがいずれも落選した。
金 哲柱(キム・チョルジュ、朝鮮語: 김철주、1901年1月… 金 哲柱(キム・チョルジュ、朝鮮語: 김철주、1901年1月25日 - 1962年2月22日)は、大韓民国の医師、教員、政治家、実業家、社会事業家。麗水郡郡守、麗川郡郡守、第3代韓国国会議員、湖南新聞社長を歴任した。 全羅南道麗川郡(現・麗水市)出身。ソウル中東中学校、日本大学師範科卒。莞島中学校教員、光州農業実習学校長を歴任した後に全羅南道の医師試験に合格した。その後は韓国キリスト教青年会(朝鮮語版)総務、麗水郡・麗川郡郡守を経て、全羅南道三日保健診療所長を務めた。麗水華井医院を開業したほか、麗水愛養園長を務めた。1954年の第3代総選挙では麗川郡選挙区から無所属で出馬し当選し、その後は自由党に入党した。
李 浩錫(イ・ホソク、朝鮮語: 이호석、1901年または19… 李 浩錫(イ・ホソク、朝鮮語: 이호석、1901年または1911年11月12日 - 1959年)は、大韓民国の教員、政治家、農家。第2代慶尚北道大邱市(現・大邱広域市)長、制憲韓国国会議員。本貫は星山李氏(朝鮮語版)。字は致亨(チヒョン、치형)。 日本統治時代の慶尚北道星州郡出身。星州公立普通学校(現・星州初等学校)、大邱公立農業学校(現・大邱農業マイスター高等学校)、日本大学法学部卒。星州公立普通学校で教員を務めたほか、満州の吉林省で農場を経営した。1948年の初代総選挙では星州郡選挙区から無所属で出馬し国会議員に当選した。1951年9月19日から第2代大邱市長を務め、1952年5月5日に地方自治制度により大邱市議会(朝鮮語版)の間接選挙で初代民選市長に選出された。
城戸 芳彦(きど よしひこ、1900年12月20日 - 19… 城戸 芳彦(きど よしひこ、1900年12月20日 - 1973年6月18日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。福岡県出身。 1924年(大正13年)に日本大学商科を卒業。法律評論社に入社したが、サラリーマン生活が嫌で同年12月に高等文官試験司法科を受験して合格し、1925年(大正14年)5月に弁護士になり、同時に同社を退社した。 著作権に興味を持ち、弁護士になって間もなく大日本作曲家協会の法律顧問となり、戦後の1947年(昭和22年)3月から1963年(昭和38年)まで日本音楽著作権協会法律顧問を務めた。1950年(昭和25年)10月に著作権法の改訂の際に、城戸試案をまとめた。1951年(昭和26年)12月に「著作権法研究と音楽著作権」の学位論文で法学博士。
柴田 衛(しばた まもる、1900年12月4日 - 1977… 柴田 衛(しばた まもる、1900年12月4日 - 1977年12月29日)は、日本の鉄道・機械技術者。 日本の電車用連結器として21世紀初めまでもっとも広範に用いられている柴田式密着連結器の開発者として知られる。 同じく鉄道省に勤務した技術者で柴田式自動連結器開発者の柴田兵衛は実兄。 本籍地は東京府豊多摩郡杉並町。1916年(大正5年)岩倉鉄道学校卒業、鉄道院に入職。以後鉄道省改組後も勤務し、工作局車両課の技手として長く電車を担当した。業務と並行して日本大学高等工学校(現在:理工学部)に学び1923年(大正12年)卒業。1938年(昭和13年)3月に技師に昇格したが、1939年(昭和14年)12月退官。
高野 弘正(たかの ひろまさ、1900年〈明治33年〉10月… 高野 弘正(たかの ひろまさ、1900年〈明治33年〉10月31日 - 1987年〈昭和62年〉5月27日)は、日本の剣道家。称号は剣道範士、一刀流中西派(または小野派一刀流中西派)宗家。 小野派一刀流の剣道家高野佐三郎の次男として東京に生まれる。6歳より父の道場明信館で剣術を修行し、後に小野派一刀流を継承する。小野派一刀流の中西子定から数えて8代目にあたる。 1918年(大正7年)、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一中学校・日本大学第一高等学校)を卒業。1923年(大正12年)、東京高等師範学校体育科を卒業。1926年(大正15年)、大日本武徳会から精錬証を授与される。 昭和に入り、早稲田大学に奉職する一方、修道学院を運営、さらに劇団を作って主演もした。
中井川 浩(なかいがわ ひろし、1900年(明治33年)9月… 中井川 浩(なかいがわ ひろし、1900年(明治33年)9月23日 – 1949年(昭和24年)11月3日)は、衆議院議員(立憲民政党)。厚生政務次官、陸軍参与官。ジャーナリスト。 茨城県に警察官の息子として生まれる。父の配属の都合で東京・茨城を転々としながら、水戸中学校に入学するも教師を批判したことで放校処分となり、日本中学校を卒業。日本大学専門部を中退し、やまと新聞に入社し水戸支局に入り、1922年(大正11年)に報知新聞へ移って土浦支局長になった。のち茨城民報を創刊するが、茨城民報はいはらき新聞に吸収合併され、そのままいはらき新聞社の取締役を務めた。 土浦町会議員、茨城県会議員に当選する一方で、茨城県出身の民政党代議士原脩次郎が拓務大臣に就任すると拓務省嘱託となり、ついで原が鉄道大臣に就任すると鉄道省嘱託となった。
大日向 蔦次(おおひなた つたじ、1900年8月20日 - … 大日向 蔦次(おおひなた つたじ、1900年8月20日 - 1975年2月23日)は日本の政治家。東京都議(6期)、第21代都議会議長を歴任した。 1900年8月20日、千葉県に生まれる。1924年に日本大学商学部を卒業。1947年、東京都議会議員選挙に江戸川区選挙区から立候補し、初当選する。その後、総務委員会委員長(1952年から1953年)、厚生委員会委員長(1956年)、社会党都議団幹事長(1960年)を歴任した。1960年10月28日に衆議院選挙に立候補するため都議を辞職した。第29回衆議院議員選挙に旧東京6区から立候補したが、次点で落選した。その後は、東京都選挙管理委員会委員(1960年から1963年)を務めた。
李 鎮洙(イ・ジンス、朝鮮語: 이진수/李鎭洙、1900年8… 李 鎮洙(イ・ジンス、朝鮮語: 이진수/李鎭洙、1900年8月7日 - 1968年12月9日または12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の計理士、弁理士、教育者、政治家、実業家。朝鮮弁理士会(現・大韓弁理士会)会長、制憲・第2代韓国国会議員。本貫は徳山李氏(朝鮮語版)。 咸鏡南道利原郡出身。北青公立普通学校、京城オソン中学校、日本大学専門部工科専修科、同大商科経済学科卒。京都帝国大学(現・京都大学)経済学・社会学修了。世和堂製薬株式会社代表取締役、世和産業・世和商事・世和土建株式会社代表取締役、朝鮮弁理士会(現・大韓弁理士会)会長、韓国民族代表者大会代議員、総選挙対策委員会委員、財団法人世和学院理事長、ソウル薬学大学理事長、朝鮮雄弁会副会長、国会文教厚生・産業労働分科委員、独立政治経済問題研究所代表者、李儁先生記念事業協会理事、大韓労農党党員、大韓国民党党員、大韓労総委員長、自由党幹部、東洋水産株式会社代表、咸南人会総務部長を務めた。
細田 綱吉(ほそだ つなきち / つなよし、1900年(明治… 細田 綱吉(ほそだ つなきち / つなよし、1900年(明治33年)7月20日 - 1959年(昭和34年)4月5日)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 長野県西筑摩郡大桑村(現木曽郡大桑村)出身。1925年(大正14年)日本大学専門部法律科を卒業した。 1927年(昭和2年)弁護士を開業。農民運動、労働運動にかかわった。1927年、日本労農党中央執行委員に就任し、その後、全国大衆党、全国労農大衆党、社会大衆党の各執行委員を務めた。1930年(昭和5年)日本大衆党埼玉県支部連合会の委員長に選出され、同時に党名が全国大衆党に変更され初代県連委員長となる。また、全日本農民組合(全日農)茨城県連委員長、全国農民組合(全農)茨城県連委員長も務めた。
徐 淳永(ソ・スニョン、朝鮮語: 서순영、1900年6月17… 徐 淳永(ソ・スニョン、朝鮮語: 서순영、1900年6月17日 - 1983年5月9日)は、大韓民国の法曹、政治家。制憲韓国国会議員。 号は然斎。法曹の徐柱演(朝鮮語版)は甥、韓大鉉(朝鮮語版)(韓聖寿(朝鮮語版)の息子)は娘婿。 慶尚南道晋州郡(現・晋州市)または巨済島出身。巨済普通学校、東亜商業高等学校を経て、36歳の時に日本大学専門部法科本科を卒業した。40歳の時に朝鮮弁護士試験および高等文官試験司法科に合格し、その後京城弁護士試補試験にも合格した。1941年より大邱地方法院(朝鮮語版)所属の弁護士、大邱控訴院判事、釜山地方法院晋州支院上席判事などを務めた。地元の要請により1948年の初代総選挙で統営乙選挙区(現在の巨済市にあたる)より無所属で出馬して当選し、国会法制司法委員、反民族行為特別調査委員会特別裁判部第3部裁判長を務めた。
佐々木 更三(ささき こうぞう、1900年〈明治33年〉5月… 佐々木 更三(ささき こうぞう、1900年〈明治33年〉5月25日 - 1985年〈昭和60年〉12月24日)は、日本の政治家。元衆議院議員、第5代日本社会党委員長。 宮城県本吉郡(現在の登米市津山町柳津石貝)に農民の子として生まれる。両親が家出をしているときに出来た子どもだったため、11歳になるまで戸籍に登載されず、小学校教育も十分に受けることは出来なかった。若いころは炭焼きなど、故郷で重労働に従事した。1924年(大正13年)、一念発起して、仙台市に出て、製糸工場の臨時人夫をして金をため、東京に出る。その後、苦学しながら日本大学専門部政治科を卒業した。 1928年(昭和3年)、勤務先の自転車会社でストライキを指導して解雇される。
竹内 金治郎(たけうち きんじろう、1900年〈明治33年〉… 竹内 金治郎(たけうち きんじろう、1900年〈明治33年〉5月24日 - 1984年〈昭和59年〉11月5日)は、国文学者。 千葉県君津市生まれ。小学校の代用教員ののち、1930年日本大学法文学部国文科卒、日大教授、1960年「万葉集の修辞的研究」で日大文学博士。70年定年、名誉教授、帝京大学文学部教授、文学部長。77年退任。
三田 華子(みた はなこ、本名:三ツ田 ハナ子、1900年(… 三田 華子(みた はなこ、本名:三ツ田 ハナ子、1900年(明治33年)5月15日 - 1983年(昭和58年)10月13日)は、徳島県徳島市出身の小説家。 徳島の民話や伝説に取材した郷土色豊かな作品を残しており、その功績が認められ1977年に第3回徳島県文化賞を受賞。 1900年5月15日、徳島県徳島市古物町(現・南新町)に生まれる。1916年11月、三ツ田富蔵と結婚する。1932年、新聞社募集の民謡に『阿波小唄』が一等に入選する。 1935年、一家で上京する。1939年、日本大学文学部芸術科に入学する。在学中、1年生の時に『二つの公休日』が文芸推薦候補となり、2年生の時に『石切場』が芥川賞候補となり、3年生の時に『祖父』が文芸推薦賞となる。
原田 與作(原田 与作、はらだ よさく、1900年(明治33… 原田 與作(原田 与作、はらだ よさく、1900年(明治33年)4月10日 - 1979年(昭和54年)2月2日)は、日本の政治家。第6代札幌市長(在任1959年~1971年。3期。公選市長としては2代目。)。栃木県生まれ。 1902年、3歳で栃木県から一家で北海道名寄市に入植し厳しい開墾生活の中で村の学校で尊敬を受ける教師の存在に感銘を受け教師を志す。 1915年(大正4年)に札幌師範学校(現北海道教育大学札幌校)に学費免除で入学するも、洗練された校風や要領の悪さで馴染めず学費の請求を避けるべく不良な生活態度をとって2年で退学。 1917年(大正6年)に上京し新聞配達や内閣統計局でのアルバイトに励みつつ4年後に日本大学法学部夜間部に合格し、1922年(大正11年)に東京市職員講習所にトップの成績で合格し半年後に東京市職員となる。
北川 定務(きたがわ さだむ、1900年(明治33年)3月3… 北川 定務(きたがわ さだむ、1900年(明治33年)3月31日 - 1963年(昭和38年)2月22日)は、昭和期の弁護士、検察官、政治家。衆議院議員。 佐賀県小城郡芦刈村(芦刈町を経て現小城市)で生れる。1926年(大正15年)3月、日本大学法文学部法律学科(英法)を卒業した。1927年(昭和2年)12月、高等試験司法科試験に合格し、1928年(昭和3年)4月、司法官試補に任官。 1929年(昭和4年)11月、予備検事となる。1930年(昭和5年)11月、台北地方法院検察官に任じられ、以後、高雄支部検察官、台北地方法院検察官を歴任し、1945年(昭和20年)台湾高等法院検察官に就任し終戦を迎えた。
志津田 藤四郎(しつた とうしろう、1900年(明治33年)… 志津田 藤四郎(しつた とうしろう、1900年(明治33年)3月24日 - 1987年(昭和62年)3月10日)は、日本の教育者、方言や俗言の研究者。佐賀県出身。佐賀龍谷短期大学副学長を務めた。 1900年(明治33年)佐賀県佐賀郡久保田村(現・佐賀市久保田町)の宗教家、志津田富太郎の四男として出生。横江の久保田第二尋常小学校、高等科は元小路の思斉尋常高等小学校(現・佐賀市立小中一貫校思斉館)に入学。高等科の卒業を前に師範学校入学。卒業後、江北小学校へ赴任。その後さらに日本大学高等師範を卒業。その後、鹿島中学校(旧制)母校佐賀県師範学校で後輩の指導にあたり、佐賀大学合併後は付属中学校総務に転出。
榊田 敬二(、1900年〈明治33年〉1月15日 - 没年不… 榊田 敬二(、1900年〈明治33年〉1月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名・旧芸名は榊田 敬治(読み同じ)。おもに現代劇に出演し、戦後は東宝特撮に多く出演。 1900年(明治33年)1月15日、秋田県仙北郡大曲町に生まれる。 東京に移り、旧制・赤坂中学校(現在の日本大学第三高等学校)を卒業後、1921年(大正10年)10月、高田馬場に撮影所を持つ小松商会に入社し、『熱火の狼』に出演し、満21歳で映画界にデビューした。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の後、京都に移り、日活大将軍撮影所に入社、1924年(大正13年)7月4日に公開された三枝源次郎監督の『民族の黎明』に出演している。
弘中 伝二(ひろなか でんじ、1900年1月15日 - 19… 弘中 伝二(ひろなか でんじ、1900年1月15日 - 1962年11月29日)は、日本の経営者。西日本新聞社社長を務めた。山口県出身。 1921年に日本大学専門部政治科を中退し、1922年に福岡日日新聞社に入社した。 1943年に西日本新聞社に転じ、1947年に常務に就任し、1950年に監査役、1951年に取締役、1955年に副社長を経て、1957年11月には社長に就任。 共同通信社理事会会長も務めた。 1962年11月29日肺気腫のために死去。62歳没。 12008年3月で終刊。 2資本・友好関係のあるテレビ局・ラジオ局。 32007年から暫くの間、共催社として参加。 4過去に資本・友好関係のあったラジオ局。
深谷伊三郎(ふかや いさぶろう、1900年 - 1974年)… 深谷伊三郎(ふかや いさぶろう、1900年 - 1974年)は、日本のきゅう師、灸関連書籍著者、一般社団法人日本鍼灸師会学術部長、第20回日本鍼灸治療学会会長、東京高等鍼灸学校(現・東京呉竹医療専門学校)講師、鍼灸之世界社主宰。 東京府東京市麹町区中六番町(現在の千代田区四番町)生まれ、番町尋常高等小学校(現:千代田区立番町小学校)卒業。早稲田大学入学、日本大学法学科卒業。 小学校卒業後、奉公に出て箱を作る仕事に従事した。小学校しか出でいなかったが、ある日日本大学法制学会発行の普通文官養成講義録と言う通信講座の新聞広告を目にする。その通信講座を一年間受講して卒業試験に合格すれば日本大学専門部に無試験で入学出来た。
兼島 信栄(かねしま しんえい、1900年 - 没年不明)は… 兼島 信栄(かねしま しんえい、1900年 - 没年不明)は、日本の政治家、空手家、弁護士、画家。沖縄県那覇市首里寒川町出身。 東京都北区に疎開し、警察官として勤務した。 日本大学法学部を卒業して弁護士となる。 1947年9月10日、美里村で琉球社会党を結成し、10月20日には兼島信栄の第一次沖縄社会党に合併。沖縄社会党は沖縄民主同盟や沖縄人民党とともに知事・議会議員の公選を訴え、アメリカ合衆国による沖縄統治の下での琉球独立を模索した。 山城善光によれば、1949年5月1日以後、社会党・民主同盟・人民党の3党からなる「民族戦線演舌会」が開催されると、那覇市を皮切りに、糸満、石川、名護、本部、今帰仁、大宜味で盛況を収めたという。
野口 弥太郎(のぐち やたろう、野口 彌太郎、1899年10… 野口 弥太郎(のぐち やたろう、野口 彌太郎、1899年10月1日 - 1976年3月23日)は、日本の洋画家、日本芸術院会員。 東京本郷区生まれ。その後朝鮮の仁川、東京、長崎県諫早市、神戸と移り住む。1920年、関西学院中学部卒後、川端画塾に学び、1922年、二科展で初入選。1926年、「一九三〇年協会」会員となる。1929年、フランスに渡り、サロン・ドートンヌに出品。1933年、帰国、独立美術協会会員となる。戦後、1949年から日本大学芸術学部教授。以後独立展に出品を続け、1962年、国際形象展同人。1964年、「セビラの行列」で毎日芸術賞受賞、1970年、日大を辞める。1972年、紺綬褒章受章。
牛山 栄治(うしやま えいじ、1899年9月12日 - 19… 牛山 栄治(うしやま えいじ、1899年9月12日 - 1979年2月11日)は、日本の教育者、歴史家。山岡鉄舟の研究の第一人者。 1899年、埼玉県に生まれる。16歳の頃から小倉鉄樹の薫陶を受けた。東京高等師範学校、次いで日本大学で日本史を専攻、卒業後は教育者として中等教育に従事する傍ら、山岡鉄舟の研究に打ち込み多数の著作を残した。 1947年(昭和23年)、東京都中学校長会が発足すると1957年まで副会長を務めたほか、1949年(昭和24年)には文化庁による第1期国語審議会の委員を務めるなど公的な組織にも参加した。 1966年(昭和41年)、日本大学豊山女子高等学校が開校すると初代学長に就任、1970年(昭和45年)まで務めた。
金 声浩(キム・ソンホ、朝鮮語: 김성호/金聲浩、1899年… 金 声浩(キム・ソンホ、朝鮮語: 김성호/金聲浩、1899年9月5日または1900年 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の検察官、裁判官、弁護士、実業家、政治家。初代全羅南道議会(朝鮮語版)議員、第3代韓国国会議員を歴任した。 全羅南道康津郡出身。日本大学専門部法科卒。朝鮮弁護士試験・高試司法科合格。光州地方法院木浦支庁上席検事・首席判事、光州地検木浦支庁長、東光学校校長、大韓国民党木浦市党委員長、初代全羅南道議会議員、韓国金属工業会長、国民会木浦支部支部長、自由党全羅南道党副委員長、朝鮮建国青年会全南委員長、木浦体育会会長、第3代国会金融界不正事件および農林部疑惑事件国政監査特別委員会委員長を務めた。
藤田 西湖(ふじた せいこ、1899年(明治32年)8月13… 藤田 西湖(ふじた せいこ、1899年(明治32年)8月13日 - 1966年(昭和41年)1月4日)は、甲賀流忍術を受け継いだ忍術家・武術家。甲賀流忍術第14世(甲賀二十一家の和田惟政から14代目と称した)。本名は「藤田 勇治」(ふじた ゆうじ)。生涯本名を嫌い、著書では「藤田 勇」(ふじた いさむ)を本名とし「藤田 西湖」(ふじた せいこ)と称す。「西湖」は画家(忍術修行の一つとして画業にも熟達していた)としての雅号。幼少より家伝の忍術を修行し継承、「最後の忍者」という異名を持つ。甲賀流忍術以外に南蛮殺到流拳法、大円流杖術、心月流手裏剣術、一伝流捕手術も継承。 東京・浅草出身。日本大学宗教科卒業。
高橋 禎一(たかはし ていいち、1899年(明治32年)7月… 高橋 禎一(たかはし ていいち、1899年(明治32年)7月27日 - 1987年(昭和62年)5月27日)は、昭和期の検察官、弁護士、政治家。衆議院議員。 広島県芦品郡、のちの福山市芦田町で生まれる。栄治の長男。1925年(大正14年)、日本大学専門部法律科を卒業した。 司法省に入省し、大阪地方裁判所などの検事、水戸地方裁判所次席検事、水戸保護観察所長、東京控訴院(現東京高等裁判所)検事などを歴任。退官後に弁護士を開業した。 1948年(昭和23年)4月の第23回衆議院議員総選挙・広島県第3区補欠選挙に民主党公認で立候補して初当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙では落選。 1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙で再選され、以後、第28回総選挙まで当選した。
三宅 則義(みやけ のりよし、1899年6月19日 - 19… 三宅 則義(みやけ のりよし、1899年6月19日 - 1979年9月3日)は、日本の税理士、政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1923年日本大学商学部卒。計理士、税理士、司法書士の業務に就く。全日本計理士協会理事、日大学士会理事長、東京都立第五実業学校高等科講師、日大講師、日本監査協会理事長、東京税理士会副会長、日本税理士会常務理事、全国計理士会議長を務める。 1943年の東京都発足直後の東京都会議員選挙に立候補したが、落選した。1946年の第22回衆議院議員総選挙で愛知2区(大選挙区)から日本自由党公認で立候補するが次点で落選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において愛知4区から日本自由党公認で立候補するも落選。
三浦 寅之助(みうら とらのすけ、1899年(明治32年)6… 三浦 寅之助(みうら とらのすけ、1899年(明治32年)6月18日 - 1973年(昭和48年)7月5日)は、大正・昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 宮城県加美郡宮崎村(宮崎町を経て現加美町)の農業・三浦寅治、やす夫妻の二男として生まれる。1914年(大正3年)村立実業補習学校を卒業。1918年(大正7年)9月に上京し、小川平吉の支援で日本大学専門部法律科に入学し、1921年(大正10年)に卒業した。 1921年、横浜区検事局に入り、1923年(大正12年)弁護士試験に合格し、同年4月、横浜市浦島ヶ丘に弁護士事務所を開業した。 横浜市会議員、同副議長を務め、1936年(昭和11年)から1946年(昭和21年)まで神奈川県会議員に在任した。
安藤 覚(安藤 覺、あんどう かく、1899年(明治32年)… 安藤 覚(安藤 覺、あんどう かく、1899年(明治32年)6月16日 - 1967年(昭和42年)11月27日)は、昭和期の僧侶、政治家。衆議院議員(5期)。僧名は覚堂。 神奈川県愛甲郡小鮎村(現厚木市)に生まれる。1925年、日本大学専門部宗教科卒業。神奈川県愛甲郡依知村(後厚木市に編入)の曹洞宗安竜寺、同広徳寺の住職を務める。 萬朝報や読売新聞の記者を務め、後に読売新聞社政治部長・編集局次長、日本大学新聞研究室講師、神奈川民声新聞社社長、神奈川中央交通、小田急運送各取締役、神奈川県仏教連盟、同青年連盟各理事となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会推薦で神奈川県3区から立候補して初当選するが、戦後公職追放処分となる。
金 長烈(キム・ジャンヨル、朝鮮語: 김장열、1899年5月… 金 長烈(キム・ジャンヨル、朝鮮語: 김장열、1899年5月24日 - 1974年4月3日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、ジャーナリスト、大韓民国の警察公務員、政治家。制憲韓国国会議員。 全羅南道莞島郡出身。普成中学校中退(4学年在学中に三・一運動への関与により退学)。日本大学専門部政治学科卒。朝鮮独立運動により投獄されたほか、農業に従事し、莞島郡で蘆花学校、金日学校、瑞星学校を設立し、教育者としても活動した。他は莞島漁業組合理事、東亜日報・朝鮮日報支局長、朝鮮建国準備委員会莞島郡委員長、全羅南道警察庁総務課長、羅州警察署長、第8管区警察庁公報官、制憲国会外務・国防委員、反民特委特別裁判官を務めた。
金 天海(キム・チョンへ、きん てんかい、김 천해、1899… 金 天海(キム・チョンへ、きん てんかい、김 천해、1899年5月10日 - 没年不明)は、在日朝鮮人の左翼活動家。在日本朝鮮人連盟最高顧問。日本共産党中央委員。「天海」は僧名で、本名は金 鶴儀(キム・ハクウィ、きん かくぎ、김 학의)。大韓帝国(現在の大韓民国)慶尚南道蔚山郡出身。日本大学中退。 1899年5月10日、大韓帝国慶尚南道蔚山郡で流通・貿易関係を営んでいた家に生まれた。現在は蔚山特別市内の方魚津(방어진)(行政区画としては方魚里)である。一人っ子だった金天海は梁山の通度寺に預けられ、仏道の修行を行なった。 日本統治下の1916年、京城の仏教学校・京城中央学林に入学。京城中央学林卒業後、慶尚南道蔚山郡に帰り、夜間学校の教師をした。
時雨 音羽(しぐれ おとは、1899年(明治32年)3月19… 時雨 音羽(しぐれ おとは、1899年(明治32年)3月19日 - 1980年(昭和55年)7月25日)は、昭和期の作詞家。出生時の戸籍上の名前は池野 音吉(いけの おときち)であるが、1961年(昭和36年)に筆名を本名に改名したため、没年時の本名も時雨音羽である。 北海道利尻島沓形村番外地出身。5人兄弟の末っ子として生まれる。父邦蔵は、新潟県佐渡郡の出身。 新湊小学校、沓形小学校高等科卒業。1916年(大正5年)沓形村役場に附属員として勤めていたが、1918年(大正7年)秋頃上京する。日本大学法科に検定で合格し、1923年(大正12年)卒業後、大蔵省主税局織物課に勤めた。 1925年(大正14年)、新大衆誌『キング』9月号に講談社の依頼で民謡詩「朝日をあびて(後の出船の港)」を掲載。
今村 忠助(いまむら ちゅうすけ、1899年2月12日 - … 今村 忠助(いまむら ちゅうすけ、1899年2月12日 - 1954年12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。自由党吉田派。
井出 岳水(いで がくすい、明治32年(1899年)- 昭和… 井出 岳水(いで がくすい、明治32年(1899年)- 昭和57年(1982年))は、大正時代から昭和時代にかけての版画家。 荒井寛方の門人。本名は井出泰三。岳水と号す。明治32年(1899年)、山梨県船津町(現・南都留郡富士河口湖町船津)に生まれた。日本大学芸術学部を卒業後、山内多門に師事、その後、荒井寛方に学んでいる。後に美術育英協会の理事を務めている。岳水は昭和4年(1929年)には中国へ引っ越して、上海で日本画塾を開き、第二次世界大戦後までそこで暮らしていた。17年間、同地に滞在した後、昭和21年(1946年)に日本に帰国した。昭和24年(1949年)、彼は渡辺版画店の渡辺庄三郎と協力して花鳥画を制作し始めた。
平岡 市三(ひらおか いちぞう、1898年(明治31年)12… 平岡 市三(ひらおか いちぞう、1898年(明治31年)12月20日 - 1952年(昭和27年)3月20日)は、昭和期の経済学者、教育者、政治家。参議院議員(2期)、経済学博士。 静岡県富士郡北山村(現・富士宮市)出身。1923年(大正12年)日本大学商学部法律学科を卒業した。アメリカに留学し、ワシントン大学、アリゾナ大学で学んだ。 米国カリフォルニア州カダループ日本人会書記長兼日本語学校長、日本大学専門部教授、同経済学部教授、同大監事、日本女子経済専門学校(現嘉悦大学)校長、日本女子経済短期大学(のち嘉悦大学短期大学部)学長、静岡県田子浦高等学校(現静岡県立吉原工業高等学校)校長、嘉悦学園理事長、平岡政治経済研究所長、公認会計士試験委員などを務めた。
小沢 佐重喜(旧字体: 小澤佐重喜、おざわ さえき、1898… 小沢 佐重喜(旧字体: 小澤佐重喜、おざわ さえき、1898年〈明治31年〉11月25日 - 1968年〈昭和43年〉5月8日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(10期)。栄典は正三位勲一等。 吉田茂の側近の一人。新進党、民主党代表などを歴任した小沢一郎の父。 『朝日人物事典』によると、 岩手県生まれ。馬車引きなどをしながら1923年に日本大学法学部法律学科を卒業。弁護士となり、三木武吉に師事して1929年から東京市議、府議を5期務める。1946年の戦後初の総選挙で岩手県から衆議院議員に当選(自由党)。選挙法改正の論功行賞で1948年に第2次吉田内閣の運輸大臣に抜擢され、以後も、郵政・電気通信大臣、行政管理庁長官、自由民主党国会対策委員長を歴任。
大滝 亀代司(大瀧、おおたき きよし、1898年(明治31年… 大滝 亀代司(大瀧、おおたき きよし、1898年(明治31年)10月25日 - 1977年(昭和52年)8月31日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)、白鷹町名誉町民。 山形県西置賜郡蚕桑村大字山口(現白鷹町大字山口)で大滝利久馬の二男として生まれる。苦学して日本大学法学部を卒業。1923年(大正12年)弁護士試験に合格した。 東京で弁護士を開業。全日本弁護士会理事、第一東京弁護士会常議員となる。また、大興社取締役社長を務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に山形県全県区から日本自由党公認で出馬して次点で落選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に山形県第1区から出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
南部 彰三(なんぶ しょうぞう、1898年6月26日 - 1… 南部 彰三(なんぶ しょうぞう、1898年6月26日 - 1981年11月16日)は、日本の俳優である。本名は鴛海 正次(おしうみ まさじ)。旧芸名は南部 章三(読み同じ)、南部 彰(なんぶ あきら)。 1898年(明治31年)6月26日、大分県速見郡日出町に生まれる。 1916年(大正5年)、大分県立杵築中学校(現在の大分県立杵築高等学校)卒業後、県下で代用教員を務め、1919年(大正8年)、歩兵47聯隊に入隊。同年4月、シベリア出兵に従軍し、同年8月に帰還。1921年(大正10年)に除隊後、再び代理教員を務めていたが、1922年(大正11年)4月に上京。陸軍省東京経理部に就職すると共に日本大学商学部予科に入学する。
石橋 幸太郎(いしばし こうたろう、1898年2月18日 -… 石橋 幸太郎(いしばし こうたろう、1898年2月18日 - 1979年8月22日)は、日本の英語学者。学位は、文学博士(日本大学・論文博士・1965年)(学位論文「英文法論」)。東京教育大学名誉教授。 福岡県福岡市出身。東京高等師範学校卒。旧制埼玉県立熊谷中学校(現在の埼玉県立熊谷高等学校)教諭をへて東京教育大学教授、1959年定年退官、名誉教授、日本大学教授、1968年大妻女子大学文学部長。1965年「英文法論」で日本大学より文学博士の学位を取得。 1979年8月22日、肝硬変のため東京女子医科大学病院で死去。81歳。
池田 正之輔(いけだ まさのすけ、1898年1月28日 - … 池田 正之輔(いけだ まさのすけ、1898年1月28日 - 1986年3月27日)は、日本の政治家、衆議院議員(10期)、科学技術庁長官(第9代)、社団法人内外事情研究所理事長。 山形県飽海郡観音寺村芹田(現酒田市観音寺)出身。1922年日本大学新聞創刊。1926年日本大学政治学科を卒業後、読売新聞記者となる。論説委員を経て三木武吉の知遇を得て報知新聞に入社。常務などを歴任後、同盟通信社理事となる。 1942年の翼賛選挙に非推薦候補として初当選。戦争末期には護国同志会に参加。思想検事の大御所である塩野季彦の司法大臣時代には秘書官も務めた。 戦後、護国同志会のメンバーとともに日本協同党の結成に参加。
加藤 瀧二(滝二、かとう たきじ、1898年〈明治31年〉1… 加藤 瀧二(滝二、かとう たきじ、1898年〈明治31年〉1月1日 - 1984年〈昭和59年〉3月22日)は、昭和時代の政治家。官吏。埼玉県川越市長。 加藤甚左エ門の長男として、福井県大野郡下庄村(下庄町を経て、現大野市)に生まれる。1926年(大正15年)日本大学法文学部政治学科を卒業し、同年高等試験(行政科)に合格する。1927年(昭和2年)官界に入り、資源局企画課、拓務省文書課勤務、資源局統計官、総務企画部、資源局企画院総務部属を経て、1940年(昭和15年)8月に和歌山県経済部長となり、群馬県経済部長、富山県内務部長を歴任した。1947年(昭和22年)富山県知事選挙に立候補するも落選し、官界を退き川越へ移住する。
金 鍾善(キム・ジョンソン、朝鮮語: 김종선、1898年また… 金 鍾善(キム・ジョンソン、朝鮮語: 김종선、1898年または1900年10月12日 - 1950年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 漢字表記は金鍾先とも。日本名は金田 国本(かねだ くにもと)。 現在のソウル特別市鐘路区または全羅南道求礼郡出身。求礼公立普通学校、東京正則英語学校中等科、日本大学政経科卒。1926年に新設の朝鮮殖産信託会社副社長となり、1930年代には現金80万ウォン以上を持つ資産家かつ全羅道の大地主であり、咸鏡南道の安辺郡に鉱山も所有していた。教育にも積極的に関与し、1927年から京城の往十里に旺新青年会で経営する旺新学院を支援し、1929年に私立旺新学院の院長を務め、大金を寄付して校舎を新築した。
崔 昌燮(チェ・チャンソプ、朝鮮語: 최창섭、1898年また… 崔 昌燮(チェ・チャンソプ、朝鮮語: 최창섭、1898年または1899年4月29日 - 1979年11月30日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、政治家。制憲・第3・4代韓国国会議員。 慶尚南道陜川郡出身。釜山商業(高等)学校、日本大学社会学科卒。東亜日報・朝鮮日報で記者を8年間務めた後、治安維持会慶尚南道総本部治安部長、独促国民会陜川郡支部宣伝部長、自由党陜川郡党委員長・中央委員、第3代国会大邱毎日新聞テロ事件真相調査委員会委員長を務めた。 しかし、第4代国会議員のとき、隣の陜川郡甲選挙区選出の同じ自由党の兪鳳淳議員が滄浪号ハイジャック事件当時に拉北されて、その後また韓国に帰還したスパイだと誣告したため、2年の有期刑を言い渡されて投獄された。
山下 博章(やました ひろあき、1898年 ‐ 1943年1… 山下 博章(やました ひろあき、1898年 ‐ 1943年12月5日)は、弁護士、法学者。日本大学教授を務めた。岡山県生まれ。1918年日本大学法律科卒。1921年から1924年までドイツ留学し、その後日本大学教授。息子は中国哲学者・山下龍二。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
神田 久太郎(かんだ きゅうたろう、1897年12月20日 … 神田 久太郎(かんだ きゅうたろう、1897年12月20日 - 1977年6月15日)は、日本の柔道家。講道館9段。 柔術を修行して肩車や双手刈といった技に長じ戦前の全日本選士権大会や明治神宮競技大会柔道競技で優勝、戦後も50歳で全日本選手権大会に出場するなど永く選手として活動した、昭和初期を代表する柔道家の1人である。警視庁柔道師範や福島県警柔道師範を務めたほか、1964年の東京五輪柔道競技での強化委員や福島県柔道連盟会長等も歴任した。 福島県出身で本籍地は福島市荒町。幼少時より宏道館道場の渡辺峰松の元で約3年、さらに大日本武徳会福島支部にて学んだ。 上京して日本大学中学校(現:日本大学第一中学校・高等学校)に進学するも中退し、時を前後し千葉の武徳殿で戸塚派揚心流山本欽作範士の門下となって1915年には武徳会の初段を取得。