スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
手島 知佳(てしま ちか、1980年9月27日 - )は、大… 手島 知佳(てしま ちか、1980年9月27日 - )は、大分県出身の日本の柔道家。現役時代の階級は78kg級。身長は162cm。得意技は内股。 柔道は6歳の時に始めた。杵築中学3年の時には全国中学校柔道大会の56kg超級に出場して準決勝まで全て一本で勝ち上がると、決勝では日下部基栄以来史上2人目の3連覇を狙っていた大宮中学3年の薪谷翠を判定ながら破って優勝を飾った。杵築高校2年の時には高校選手権の78kg級で3位になった。3年の時には全国女子体重別(現 講道館杯)の決勝で帝京大学2年の松崎みずほに敗れて2位だった。1999年には筑波大学へ進学すると、1年の時には体重別(全日本選抜)と正力杯で3位だったが、優勝大会ではチームの初優勝に貢献した。
清原 正博(きよはら まさひろ、1965年4月30日 - )… 清原 正博(きよはら まさひろ、1965年4月30日 - )は、TBSテレビのアナウンサー。 大分県出身。大分県立杵築高等学校、早稲田大学第一文学部美術史学専修卒業後、1988年4月TBSにアナウンサー24期生として入社。 以後、主にスポーツ中継(野球、ゴルフ、競馬、競輪、サッカー)を担当。 2025年4月30日に60歳の誕生日および正社員定年を迎えたが、翌日以降もアナウンサーのまま嘱託社員として引き続き勤務。TBSでは正社員定年後の嘱託雇用自体は珍しくないものの、「アナウンサーのまま嘱託移行」という例は過去にほぼ皆無だった。
田北 浩章(たきた ひろあき、1960年(昭和35年)8月1… 田北 浩章(たきた ひろあき、1960年(昭和35年)8月16日 - )は、日本の編集者、実業家。 株式会社東洋経済新報社代表取締役社長。 大分県杵築市出身。大分県立杵築高等学校(31回生)卒業。1984年(昭和59年)慶應義塾大学経済学部を卒業し、東洋経済新報社入社。建設、医薬、証券、機械などの産業記者、『オール投資』『週刊東洋経済』の編集部を経て、1999年(平成11年)『ベンチャークラブ』編集長、2002年(平成14年)『週刊東洋経済』副編集長、2005年(平成17年)『会社四季報』編集長、2007年(平成19年)第1編集局次長兼証券部長、2008年(平成20年)企業情報部長を歴任。 2011年(平成23年)取締役、2020年(令和2年)専務。
古庄 玄知(こしょう はるとも、1957年12月23日 - … 古庄 玄知(こしょう はるとも、1957年12月23日 - )は、日本の政治家、弁護士。自由民主党所属の参議院議員(1期)。 現在の国東市生まれ。大分県立杵築高等学校、早稲田大学法学部卒業(奥島孝康ゼミ)。1982年に司法試験に合格し、1985年に弁護士を開業した。2008年に大分県弁護士会会長を務めた。大分朝日放送のコメンテーターを務めた。 2016年7月、第24回参議院議員通常選挙に大分県選挙区から立候補したが1,090票差で民進党現職の足立信也に敗れ落選。 2022年7月、第26回参議院議員通常選挙では国民民主党現職の足立を破り初当選を果たした。 2024年9月27日に行われた自民党総裁選挙において高市早苗の推薦人に名を連ねた。
永松 悟(ながまつ さとる、1953年11月24日 - )は… 永松 悟(ながまつ さとる、1953年11月24日 - )は、日本の政治家。大分県杵築市長(4期)。 大分県杵築市出身。大分県立杵築高等学校卒業。1976年(昭和51年)3月、同志社大学法学部卒業。1978年(昭和53年)10月、大分県庁の佐伯福祉事務所に入庁。こども・女性相談支援センター所長、福祉保健部長などを歴任。 2013年(平成25年)3月、大分県庁を退職。同年10月の杵築市長選挙に無投票で初当選した。2017年10月に無投票で再選。2021年10月の市長選挙では選挙戦となったが元市議の衛藤竜一郎を破り3選。2025年10月の市長選挙も選挙戦となり4選。 2020年(令和2年)2月6日、杵築市が財政危機に陥っていることから、2022年度を目標とした緊急財政対策を取りまとめた。
小俣 一平(おまた いっぺい、1952年2月2日 - )は、… 小俣 一平(おまた いっぺい、1952年2月2日 - )は、日本のルポライター、ノンフィクション作家。 早稲田大学大学院政治学研究科ジャーナリズムコース兼任講師、弓立社代表取締役。 NHK社会部記者、NHKスペシャルエグゼクティブプロデューサーなどを務め2010年退職、東京都市大学メディア情報学部教授などを歴任。「坂上遼」のペンネームでも著書がある。
甲斐 扶佐義(かい ふさよし、1949年4月18日 - )は… 甲斐 扶佐義(かい ふさよし、1949年4月18日 - )は、日本の写真家、エッセイスト、翻訳家、ほんやら洞(京都市上京区に存在した喫茶店)、八文字屋(京都市中京区)の経営者。「自衛隊米兵人権ホットライン」発起人のひとり。大分県大分市出身。
佐藤 廣士(さとう ひろし、1945年9月25日 - )は、… 佐藤 廣士(さとう ひろし、1945年9月25日 - )は、日本の実業家、工学博士。神戸製鋼所代表取締役社長、同社代表取締役会長、神戸国際会館代表取締役社長、関西経済連合会副会長、日本鉄鋼連盟副会長、日本知的財産協会会長等を歴任。 大分県日出町出身。大分県立杵築高等学校を経て、九州大学工学部金属学科卒業。表面処理分野研究室出身。1970年九州大学大学院工学研究科冶金学専攻修士課程修了、神戸製鋼所入社。1983年「チタンの不働態化反応と局部腐食に関する研究」で九州大学より工学博士の学位を取得。 神戸製鋼所では技術開発本部材料研究所長、開発企画部長、技術開発本部長を経て、1996年取締役に昇格。常務、専務を経て、2004年代表取締役副社長。
八坂 恭介(やさか きょうすけ、1945年(昭和20年)5月… 八坂 恭介(やさか きょうすけ、1945年(昭和20年)5月20日 - )は、日本の政治家。前大分県杵築市長(新制)(2期)。元杵築市長(旧制)(1期)。元杵築市議会議員(5期)。旭日小綬章受章。 1964年(昭和39年)3月、大分県立杵築高等学校卒業。1968年(昭和43年)3月、日本大学法学部卒業。同年4月、美容師専門学校に就職し、事務局長に就任。1974年(昭和49年)、同校を退職。同年、株式会社協栄シスコムに入社。 1983年(昭和58年)、杵築市議会議員選挙に出馬し、初当選。以後5期連続当選。 2002年(平成14年)、杵築市長選挙に出馬し、初当選。 2005年(平成17年)10月1日、杵築市が隣接する速見郡山香町・西国東郡大田村と合併し、新制の杵築市が誕生した。
二階堂 暹(にかいどう あきら、1930年3月11日 - 2… 二階堂 暹(にかいどう あきら、1930年3月11日 - 2006年9月15日)は、日本の経営者。二階堂酒造社長を務めた。大分県出身。 杵築中学校(旧制)を卒業後に、実家の家業を引き継ぐ。1964年に二階堂酒造取締役に就任し、1972年には社長に昇格。1995年には会長に就任。 2006年9月15日肝臓癌のために死去。76歳没。
石田 徳(いしだ いさお、1923年(大正12年)7月4日 … 石田 徳(いしだ いさお、1923年(大正12年)7月4日 - 2009年(平成21年)6月3日)は、昭和から平成時代の政治家。大分県杵築市長。杵築市名誉市民。 大分県出身。1952年(昭和27年)東京大学法学部卒業。農林省に入り、食糧庁総務課長、経済企画庁総合計画局審議官、1978年(昭和53年)農林水産省九州農政局長などを歴任。 1982年(昭和57年)から5期20年にわたり杵築市長を務めた。2004年(平成16年)11月、杵築市名誉市民に推挙された。2009年(平成21年)6月3日死去、85歳。死没日をもって正四位に叙される。
佐藤 文生(さとう ぶんせい、1919年7月21日 - 20… 佐藤 文生(さとう ぶんせい、1919年7月21日 - 2000年4月25日)は、日本の政治家。明治大学専門部卒業。別府市名誉市民。ジェラルド・カーティスの著書『代議士の誕生』のモデルとして知られた。 大分県別府市西部の温泉旅館主佐藤倉八の長男として出生。 地元の初等・旧制中学校を経て、明治大学専門部政治経済科に入学。1939年の卒業後、まもなく第二次世界大戦が勃発。陸軍大尉として従軍する。終戦後別府に戻り自動車セールスマンとして働きながら、「日本の伝統の良さを守りたい」という思いから政治に関心を持ち始めた。 佐藤家には政治家と直接のコネはなく、政界進出には大きな壁があった。そこで佐藤は実の妹を大分県議会議長の荒金啓治の子息に嫁がせた。
末綱 恕一(すえつな じょいち、1898年(明治31年)11… 末綱 恕一(すえつな じょいち、1898年(明治31年)11月28日 - 1970年(昭和45年)8月6日)は、日本の数学者。東京大学教授を歴任。日本学士院会員。 1898年、大分県東国東郡中武蔵村(現:国東市武蔵町)生まれ。大分県立杵築中学校(現:大分県立杵築高等学校)時代に、数学者高木貞治の下で教科書作成に関わった真鍋仙一に師事。旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部数学科に進んだ。大学では、高木貞治に師事した。1922年3月、東京帝国大学理学部数学科を卒業。 東京帝国大学を卒業後は、1922年4月より九州帝国大学工学部講師となった。1923年、同大学助教授に昇進。1924年、東京帝国大学助教授となる。
南部 彰三(なんぶ しょうぞう、1898年6月26日 - 1… 南部 彰三(なんぶ しょうぞう、1898年6月26日 - 1981年11月16日)は、日本の俳優である。本名は鴛海 正次(おしうみ まさじ)。旧芸名は南部 章三(読み同じ)、南部 彰(なんぶ あきら)。 1898年(明治31年)6月26日、大分県速見郡日出町に生まれる。 1916年(大正5年)、大分県立杵築中学校(現在の大分県立杵築高等学校)卒業後、県下で代用教員を務め、1919年(大正8年)、歩兵47聯隊に入隊。同年4月、シベリア出兵に従軍し、同年8月に帰還。1921年(大正10年)に除隊後、再び代理教員を務めていたが、1922年(大正11年)4月に上京。陸軍省東京経理部に就職すると共に日本大学商学部予科に入学する。
佐野 学(さの まなぶ、1892年〈明治25年〉2月22日 … 佐野 学(さの まなぶ、1892年〈明治25年〉2月22日 - 1953年〈昭和28年〉3月9日)は、日本の社会主義運動家で、昭和初期の非合法政党時代の日本共産党(第二次共産党)の中央委員長。獄中から転向声明を発表し、大きな反響を呼んだ。 豊後杵築藩の侍医を勤めた佐野家に生まれる。 第七高等学校造士館を経て東京帝国大学法学部を卒業後は大学院で2年間、矢作栄蔵の下で農政学を学び、新人会創立に参加した。日本勧業銀行に短期間勤めた後、兄彪太の岳父後藤新平の伝手で1919年、満鉄東亜経済調査局に嘱託社員として勤務し、翌1920年4月、早稲田大学商学部講師となって経済学と経済史を講義した(東海林太郎は佐野の教え子という)。
丸毛 信勝(まるも のぶかつ、1892年(明治25年)- 1… 丸毛 信勝(まるも のぶかつ、1892年(明治25年)- 1977年(昭和52年))は、大分県臼杵市出身の昆虫学者、農学博士、ゴルフ場設計者。 丸毛信勝は、1892年(明治25年)、大分県臼杵市の臼杵藩士、町奉行の家柄に生まれ、旧制杵築中学校を卒業し、東京帝国大学農学部に入学、昆虫学の三宅恒方に学んだ。 丸毛は蝶の研究で権威といわれ、日本昆虫図鑑を作成し、1921年(大正10年)、29歳で農学博士になった。その後、ドイツに留学し、帰国後、1964年(昭和39年)、釧路女子短期大学の学長を務めた。 ある時、芝の害虫調査の依頼があった、旧制杵築中学校の海軍中尉・吉良俊一(後・海軍中将)からである。丸毛は芝調査をするため、イギリスやアメリカのゴルフ場を視察し調べた。
吉良 俊一(きら しゅんいち、1889年(明治22年)9月9… 吉良 俊一(きら しゅんいち、1889年(明治22年)9月9日 - 1947年(昭和22年)4月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1889年9月9日、大分県に生まれる。1909年3月、杵築中学を卒業。9月、海兵40期に入学。同期には山口多聞、宇垣纏、大西瀧治郎、千田貞敏らがいる。1912年7月、海兵40期を卒業し、少尉候補生になる。1913年(大正2年)12月、少尉任官。 1916年12月1日、航空術学生に任命。1921年(大正10年)8月6日、センピル教育団の講習に参加した。1922年11月10日、航空母艦「鳳翔」航空長兼分隊長に任命。1923年(大正12年)3月16日、「鳳翔」で行われた一〇式艦上戦闘機の発着艦テストに成功。
藤波 収(ふじなみ おさむ、1888年〈明治21年〉2月27… 藤波 収(ふじなみ おさむ、1888年〈明治21年〉2月27日 - 1972年〈昭和47年〉10月18日)は、大正から昭和にかけて活動した実業家。主として電気事業に関係した。 元は電気技術者。戦前期の大手電力会社大同電力で常務取締役まで昇進し、日本発送電理事、関東配電副社長を経て戦後は北海道電力社長・会長、電源開発総裁を務めた。大分県出身。 藤波収は1888年(明治21年)2月27日、藤波久文の六男として大分県速見郡杵築村(現・杵築市)に生まれた。生家は杵築城の旧城下町の一角である北台にあり、藤波家は父久文の代まで杵築藩士であった。収は男子6人・女子4人の兄弟姉妹の末子で、23歳年上の長兄に司法官となり大審院判事などを歴任した藤波元雄、一つ上の兄に陸軍の軍医となり軍医総監を務めた藤波正がいる。
重光 葵(しげみつ まもる、1887年〈明治20年〉7月29… 重光 葵(しげみつ まもる、1887年〈明治20年〉7月29日 - 1957年〈昭和32年〉1月26日)は、日本の外交官・政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。造船工学者の重光蔟は兄。外交官の重光晶は甥。 大分県大野郡三重町(のち大分県豊後大野市)に旧杵築藩士で大野郡長を務める父・重光直愿と母・松子(重光立平景行の末娘)の次男として生まれた。父は速見郡八坂村の代官の家に生まれたが、10歳で藩に召し出され、維新後初代郡長として赴任し、養蚕の振興に努めた。しかし、母の実家である南安岐村山口の重光本家に子供がなかったため養子となり、重光本家26代目の当主となった。旧制杵築中学、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法科大学を卒業する。
豊田 副武(とよだ そえむ、1885年(明治18年)5月22… 豊田 副武(とよだ そえむ、1885年(明治18年)5月22日 - 1957年(昭和32年)9月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。第29代・第30代連合艦隊司令長官。海兵33期・海大甲種15期首席。最後となる第19代軍令部総長を務めた。 1885年(明治18年)5月22日、大分県速見郡杵築町(現杵築市)に生まれる。名前の「副武」は「添え物」に由来する。旧制大分県立杵築中学校を経て、1904年(明治35年)12月17日、海軍兵学校第33期に180名中第107位の成績で入校。同期には、「両豊田」の片割れの豊田貞次郎がいるが、和歌山県出身の貞次郎とはこれが初面識であった。1905年(明治38年)11月28日、卒業成績順位171名中第26位で海軍兵学校を卒業。
堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日… 堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日 - 1959年〈昭和34年〉5月12日)は、日本の海軍軍人、実業家。日本飛行機 社長、大日本兵器社長、浦賀船渠(現:住友重機械工業)社長を歴任した。 海軍兵学校32期首席・海軍大学校16期次席。海軍軍人としての最終階級は海軍中将。海軍の現役を退いた後の1941年(昭和16年)に、法制局長官(現:内閣法制局長官)に擬されたが、辞退した。大分県杵築市出身。 天下の秀才を集める海軍兵学校の同期生たちをして「神様の傑作の一つ堀の頭脳」 と畏敬せしめる程の、桁外れの英才であった。 からの信頼が厚く、山本権兵衛(兵2期)・加藤友三郎(兵7期)の系譜を継ぐ人物として、いずれ海軍大臣に就任することが確実視されていた。