森本 麻里子(もりもと まりこ、英: Mariko Mori… 森本 麻里子(もりもと まりこ、英: Mariko Morimoto、1995年3月17日 - )は、日本の陸上競技選手及び元ボブスレー選手。陸上競技での専門は三段跳。 大阪府枚方市出身。枚方市立枚方中学校→太成学院大学高等学校→日本女子体育大学。 ジュニア時代に地元の「ひらかたキングフィッシャーズスポーツクラブ」に入会し、陸上競技に取り組む。ジュニア年代から跳躍種目を選択して各種大会に出場。太成学院大学高等学校3年の時には「平成24年度全国高等学校総合体育大会 / 第65回全国高等学校総合体育大会陸上競技大会」(新潟県・新潟スタジアム)に出場、走幅跳で6mを跳び2位入賞を果たしている。 日本女子体育大学進学後に三段跳のみに専心するようになり、大学3年次の2015年「第84回日本学生陸上競技対校選手権大会」(大阪市・長居陸上競技場)で12m58を跳んで2位入賞を果たしている。
大利 久美(おおとし くみ、1985年7月29日 - )は、… 大利 久美(おおとし くみ、1985年7月29日 - )は、日本の元陸上競技選手。専門は競歩。 1985年7月29日、埼玉県出身。西武学園文理中学校・高等学校を経て日本女子体育大学卒業。 西武学園文理中学校時代はスポーツすら何もせず、本人曰く「帰宅部」だったが、西武学園文理高等学校に進学後、友人と「何か青春しよう」と語り合い、部活をやることを決意して入ったのが陸上競技部であった。 陸上競技を始めた時は中距離選手だったが、競歩をやっていた部の先輩のモノマネをやったところ、実にサマになっていた為、陸上部の仲間から「競歩をやってみたら」と言われて転向。転向当初は先輩や他校の指導者からもアドバイスを貰うなどしてレースに出るうちに記録も伸びるようになった。
石野 真美(いしの まみ、1983年1月10日 - )は、日… 石野 真美(いしの まみ、1983年1月10日 - )は、日本の陸上競技選手。専門は100mハードル。 千葉県立大多喜高等学校卒業後、日本女子体育大学に進学。大学では成瀬美紀と同期。 大学卒業後の2005年より、長谷川体育施設に所属。 2007年の日本選手権の100mハードルで優勝し、同年に大阪で開催された世界選手権に出場した。 2015年3月、長谷川体育施設を退社。
堀籠 美紀(ほりごめ みき、旧姓成瀬、1982年8月12日 … 堀籠 美紀(ほりごめ みき、旧姓成瀬、1982年8月12日 - )は、日本の陸上競技選手。身長161cm。 関市立関商工高等学校卒業後日本女子体育大学及び日本女子体育大学大学院に進学、卒業後は日本女子体育大学ACとして出場。 専門は200メートル(自己ベスト23秒82、2008年第63回国体東京都代表最終選考会)であり、2006年度より400メートルにも挑戦。 「優勝を意識して力んだが、久々に地元で走ってタイトルも取れてうれしい」「400メートルにも力を入れて、日本代表に入りたい」[要出典]
柴田 こずゑ(しばた こずゑ、1970年5月6日 - )は、… 柴田 こずゑ(しばた こずゑ、1970年5月6日 - )は、日本の陸上競技選手、陸上競技指導者。旧姓は田中。 専門は400m走。元400m日本記録保持者・陸上日本代表。夫は元・オリンピック走幅跳日本代表選手の柴田博之。 日本女子体育大学卒業後に府立高等学校教員(地方公務員)となり、京都府立鳥羽高等学校教員を経て、京都府立東稜高等学校教員として指導に当たる。同校で指導に当たっていた1997年10月29日、なみはや国体成年女子400mで53秒21をマークし、柿沼和恵が保持していた日本記録を更新した(その後柿沼は2001年に再度日本記録を樹立している) 。また同年の日本陸上競技選手権大会でも400mで優勝している。
三井 美代子(みつい みよこ、1919年1月23日 - 20… 三井 美代子(みつい みよこ、1919年1月23日 - 2007年4月28日)は、日本の陸上競技選手。結婚後の姓は井上(いのうえ)。走高跳から始めて障害走(ハードル)に転向し、80mハードルで1936年ベルリンオリンピックに出場した。東京府生まれ、静岡県育ちで、競泳の古田つね子と並ぶ静岡県初の女子オリンピック選手である。 「日本陸上競技界の至宝」、「ミス陸上」の異名を持っていた。 1919年(大正8年)1月23日、東京にて3人きょうだい(兄・姉)の末っ子として生まれる。父・三井純一は慶應義塾大学卒の電力会社社員で、三井家はたびたび引っ越しし、美代子が小学4年生の時に静岡県沼津市に居を移した。学生時代野球部員だった純一は、沼津市体育協会理事を務めるなどスポーツに熱心な人物であった。
峰島 秀(みねしま ひで、1916年 - 没年不詳)は、日本… 峰島 秀(みねしま ひで、1916年 - 没年不詳)は、日本の女子陸上競技選手、高等女学校教師。1936年ベルリンオリンピック陸上女子円盤投代表。元円盤投日本選手権覇者。女子スポーツ黎明期に欧米の選手の好敵手として五輪で入賞した名選手として知られる。 資料によっては「峯島秀」、「峰島秀子」と表記するものもある。 千葉県千葉市出身で、千葉第一尋常高等小学校(現・千葉市立新宿小学校)を経て千葉県立千葉高等女学校(現・千葉県立千葉女子高等学校)に進学する。千葉高女2年生の頃よりテニスをはじめ、1931年には県下女子庭球選手権大会で、1932年には関東女子競技大会で優勝を果たした。また投擲(とうてき)種目もこの頃より始め、高女3年には学友会誌に「スポーツ界の現状を直視して」と題した論文を寄せるなど文才も発揮し、「人見二世」と呼ばれた。
林 月雲(りん げつうん、英字表記:Lim Goat-hun… 林 月雲(りん げつうん、英字表記:Lim Goat-hun、1915年9月8日 - 1992年6月19日)は、日本統治時代の台湾の陸上競技選手。日本女子体育専門学校卒。オリンピック日本代表の候補に2度選出され、もし出場が実現していれば、台湾初の女子オリンピック選手となる選手であった。 1915年(大正4年)、日本統治時代の台湾の台中州彰化郡和美庄(現・彰化県和美鎮)柑子井に生まれる。彰化女子公学校を卒業後、彰化高等女学校(現・国立彰化女子高級中学)に進学する。1931年(昭和6年)彰化高女在学中、台湾籍の女性として初めて明治神宮体育大会(第6回)に出場し、三段跳で2位に入賞した。1933年(昭和8年)の第7回明治神宮体育大会では三段跳で優勝、100mで12秒5、走幅跳で5m39と2種目で台湾記録を樹立した。
石津 光恵(いしづ みつえ、1914年4月16日 - 没年不… 石津 光恵(いしづ みつえ、1914年4月16日 - 没年不明)は、日本の陸上競技(投擲)選手。女子円盤投・砲丸投の元日本記録保持者。山中高等女学校在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに円盤投とやり投で出場した。広島県初の女子オリンピック選手である。 現在の広島県廿日市市出身。山中高等女学校に進む。 1931年、日本陸上競技選手権大会の円盤投・砲丸投で優勝。1931年11月の明治神宮競技大会で、円盤投の日本記録を出したという。1931年には砲丸投で10.14mを出し、「10mの壁」を突破した。 1932年ロサンゼルスオリンピックに出場、円盤投で7位、やり投で8位。 山中高等女学校卒業後は、日本女子体育専門学校(現在の日本女子体育大学)に進学。
相良 八重(さがら やえ、1913年11月27日 - 196… 相良 八重(さがら やえ、1913年11月27日 - 1967年4月29日)は、日本の元陸上競技選手である。ロサンゼルスオリンピック日本代表。田中英光の小説「オリンポスの果実」のヒロイン、“熊本秋子”のモデルとして知られる。身長166cm、体重55kg。 千葉県生まれ、高知市土佐市育ち。日本女子体育専門学校(現・日本女子体育大学)出身。 女子体専在学中の1932年、第19回日本陸上競技選手権大会の女子走高跳で優勝し、同年のロサンゼルスオリンピックでも女子走高跳に出場した。この種目には6つの国から10人の選手が出場して、予選なしの決勝のみで実施された。結果は10人中の9位(1m46cm)に終わる。
真保 正子(しんぼ まさこ、1913年1月22日 - 199… 真保 正子(しんぼ まさこ、1913年1月22日 - 1995年12月19日)は、日本の陸上競技選手・陸上競技指導者。元大谷女子大学教授。日本陸上競技連盟終身1種審判員。長野県上田市出身。上田高等女学校(現在の長野県上田染谷丘高等学校)、日本女子体育専門学校(現在の日本女子体育大学)卒業。
人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年〈明治40年〉1月1日… 人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年〈明治40年〉1月1日 - 1931年〈昭和6年〉8月2日)は、日本の陸上競技選手、ジャーナリスト。日本人女性初のオリンピックメダリスト。100m、200m、走幅跳の元世界記録保持者。(100m、200mについては非公認)岡山県御津郡福浜村(現:岡山市南区)出身。 1907年(明治40年)1月1日、岡山県御津郡福浜村福成(現・岡山市南区福成)で人見猪作および岸江の次女として誕生した。人見家はイネとイグサを栽培する裕福な自作農家で、父・母・祖母・姉と人見絹枝の5人家族であった。幼少期は魚とりや鬼ごっこをして遊び、友人は女の子よりも男の子の方が多かった。 1913年(大正2年)4月、福浜村立福浜尋常高等小学校尋常科(現・岡山市立福浜小学校)に入学。
杉村 清子(すぎむら せいこ)は、日本の陸上競技(短距離走、… 杉村 清子(すぎむら せいこ)は、日本の陸上競技(短距離走、走幅跳)選手。1940年代末から50年代初頭にかけて活躍。第1回アジア大会(1951年)で3つの金メダル(個人2、リレー1)を挙げ、1952年ヘルシンキオリンピックの有力選手と目されたが、合宿中に病に倒れて闘病生活を余儀なくされた。 1949年の日本陸上競技選手権大会の走幅跳で優勝(当時の所属は高井メリヤス)。 日本女子体育大学に入学。1950年7月、日本学生陸上競技対校選手権大会女子走幅跳で、5m86と日本学生記録を更新。1950年8月、日本学生東西対抗陸上競技大会に参加し、女子100m走で戦前の人見絹枝に並ぶ12秒2の日本記録タイ記録を出したほか、女子200m走の初代日本学生記録(26秒0)を残す。