西條 八十(さいじょう やそ、新字体:西条、1892年1月1… 西條 八十(さいじょう やそ、新字体:西条、1892年1月15日 - 1970年8月12日)は、日本の詩人、作詞家、仏文学者、小説家。早稲田大学文学部文学科元教授であった。 長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。孫の西條八兄はエレキギター製作者。 自費出版した処女詩集『砂金』(1919年)が好評を博し、抒情性に富んだ清新な詩風で、象徴詩人としての地位を確立。童謡、歌謡曲の作詞も多く手がけた。作品に詩集『一握の玻璃』(1951年)など。 東京府東京市牛込区牛込払方町(現:東京都新宿区払方町)出身。石鹸の製造販売業で財を成したが、父親の死後、家庭は没落した。1898年、桜井尋常小学校に入学。
阿部 茂夫(あべ しげお、1892年(明治25年)1月3日 … 阿部 茂夫(あべ しげお、1892年(明治25年)1月3日 - 1960年(昭和35年)8月3日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。 徳島県徳島市富田浦町に生まれる。1912年(明治45年)徳島県師範学校を卒業し、徳島県名東郡沖洲尋常高等小学校訓導、津田尋常高等小学校訓導、津田水産補修学校訓導を務めた。1919年(大正8年)早稲田大学政経科を修了。 古河鉱業(現古河機械金属)に入社し、1922年(大正11年)労働事情調査のためアメリカ合衆国へ派遣されイェール大学で学んだ。1927年(昭和2年)に帰国後、社会民衆党に入党した。1930年(昭和5年)全国民民衆党の結成に参画し中央委員に就任。
古塚 正治(ふるづか まさはる、1892年 - 1976年)… 古塚 正治(ふるづか まさはる、1892年 - 1976年)は日本の建築家。阪神間モダニズムを代表する建築家の一人。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
三井 道男(みい みちお、1891年〈明治24年〉12月13… 三井 道男(みい みちお、1891年〈明治24年〉12月13日 - 1970年5月11日)は主に昭和期に活動した建築家。江戸東京たてもの園の「田園調布の家」や滋賀武徳殿などの作品がある。 東京市生まれ。父はニコライ堂の司祭として知られる三井道郎である。1915年(大正4年)、早稲田大学理工学部建築学科を卒業後、斎藤久孝建築事務所に入所。翌年、司法省に入るが1年ほどで辞め、再び斎藤事務所に入所。 1921年(大正10年)11月、早稲田大学の恩師である岡田信一郎の事務所に入所する。当時はちょうど火災で焼失した歌舞伎座再建工事の設計が進んでいる時期であった。岡田事務所では歌舞伎座のほか、青山会館、東京府美術館、浅野図書館、府立化学工業学校、府立第一高等女学校、府立第一中学校、ニコライ堂修復、信濃町教会、虎屋、明治生命館(現存)、国民会館などの設計に関与した。
西宮 藤朝(にしのみや とうちょう、1891年12月7日 -… 西宮 藤朝(にしのみや とうちょう、1891年12月7日 - 1970年5月19日)は、文芸評論家・翻訳家・フランス哲学研究者、教育家。 秋田県生まれ。16歳の時一家で東京に移り、大成中学校をへて早稲田大学文学部英文科卒。1918年『早稲田文学』の編集に従事、評論、翻訳を行う。1924年、早大講師、立正大学教授、1942年豊南学園を設立し校長・理事長を務めた。トルストイ、ジャン=マリー・ギュイヨーの影響を受けた。
広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年(明治24… 広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年(明治24年)12月5日 - 1968年(昭和43年)9月21日)は、日本の小説家、文芸評論家、翻訳家である。明治期に活動した硯友社の小説家・広津柳浪の子。
大錦 卯一郎(おおにしき ういちろう、1891年(明治24年… 大錦 卯一郎(おおにしき ういちろう、1891年(明治24年)11月25日 - 1941年(昭和16年)5月13日)は、大阪府大阪市南区鍛冶屋町(現:大阪府大阪市中央区)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第26代横綱。本名は細川 卯一郎(ほそかわ ういちろう)。 1891年(明治24年)11月25日に大阪府大阪市南区鍛冶屋町(現:大阪府大阪市中央区)で宮師の長男として生まれる。当時の力士としては珍しく旧制天王寺中学校卒業で、非常に頭が良かった。さらに運動神経抜群だったことから陸軍幼年学校を受験したが、体重超過で不合格となってしまった。ある日、常陸山谷右エ門に対して入門を願う手紙をローマ字で書いたところ、その返事もローマ字で書かれていたことに感激し、出羽海部屋へ入門、1910年(明治43年)1月場所で初土俵を踏む。
石橋 鞆次郎(いしばし ともじろう、1891年11月20日 … 石橋 鞆次郎(いしばし ともじろう、1891年11月20日 - 没年不詳)は、日本の裁判官。 石橋次作の二男として、福岡県早良郡田隈村に生まれる。1912年福岡県立中学修猷館を経て、1917年早稲田大学英語第一法律科(司法科)卒業。 1921年判事に任官し、長崎地方裁判所、福岡地方裁判所、熊本地方裁判所、鹿児島地方裁判所、大分地方裁判所、1947年11月福岡高等裁判所の各判事を務めた後、1951年12月佐賀地方裁判所所長兼佐賀家庭裁判所所長を経て、1954年10月鹿児島地方裁判所所長兼鹿児島家庭裁判所所長に就任。
市岡 忠男(いちおか ただお、1891年(明治24年)11月… 市岡 忠男(いちおか ただお、1891年(明治24年)11月15日 - 1964年(昭和39年)6月23日)は、日本の野球選手(捕手)・監督、プロ野球球団経営者。日本競輪学校初代校長。
大槻 憲二(おおつき けんじ、1891年11月2日 - 19… 大槻 憲二(おおつき けんじ、1891年11月2日 - 1977年2月23日)は、日本の精神分析家、心理学者、文芸評論家。兵庫県洲本市出身。早稲田大学卒。孫に翻訳家の長井那智子。 日本における精神分析の草分けの一人であり、代表的な紹介者である。ジークムント・フロイトやその他の精神分析家の翻訳者としても著名である。文芸評論家としては『文藝日本』『新潮』などにマルキシズム文学論批判の評論を発表している。 1928年、矢部八重吉や長谷川天渓(本名、長谷川誠也)らとともに東京精神分析学研究所を創設し、後に所長となった。1933年には日本初の精神分析学の雑誌、『精神分析』を創刊した。 戦後創設された日本精神分析学会には大槻は入会していない。
米田雄郎(よねだ ゆうろう、1891年(明治24年)11月1… 米田雄郎(よねだ ゆうろう、1891年(明治24年)11月1日 - 1959年(昭和34年)3月5日)は、大正・昭和前期の歌人。出生名、米田菊次。本名、米田雄還。同じく歌人の米田登は次男。 奈良県磯城郡川西村(現・川西町)の農家の長男として生まれる。尋常小学校卒業後、伯父が住職を務める香久山村の法念寺に寄寓。1907年(明治40年)、大阪市の上宮中学に入学。18歳より短歌を始め、若山牧水の添削を受ける。1911年(明治44年)前田夕暮の白日社に入社し、雄郎の筆名を使い始め、自由律短歌及び定型律短歌を作る。1917年(大正6年)には歌集「日没」を発行。 早稲田大学中退後、1918年(大正7年)滋賀県蒲生郡(現・東近江市)石塔町の浄土宗寺院・極楽寺住職となり、また高等小学校の代用教員も務める。
村島 歸之(むらしま よりゆき、1891年10月20日 - … 村島 歸之(むらしま よりゆき、1891年10月20日 - 1965年1月13日)は、日本のジャーナリスト。 自由党衆議院議員滝口帰一の三男として奈良県に生まれる。早稲田大学政治経済学部を卒業する前に母方の姓を継ぎ、村嶋姓となる。1915年、大阪毎日新聞社に入社、売春、風俗、労働問題などに関心を持ち多くのルポルタージュをものする。1925年『歓楽の墓』を上梓して自身の買春を懺悔し、賀川豊彦により洗礼を受ける。以後、廃娼運動家、社会主義者として論陣を張る。谷崎潤一郎が「蓼食ふ蟲」を連載した際は担当記者。1946年賀川とともに平和学園を創設。近年著作選集全5巻が刊行された。長男は社会評論家の村嶋健一。
太田 宇之助(おおた うのすけ、1891年〈明治24年〉10… 太田 宇之助(おおた うのすけ、1891年〈明治24年〉10月8日 - 1986年〈昭和61年〉9月2日)は、大正から昭和にかけての新聞記者、評論家。 女性初のNHK解説委員である縫田曄子の父。 1891年(明治24年)10月8日に、兵庫県揖保郡網干町で生まれた。早稲田大学在学中の学生時代には国木田収二邸に同居していた。 王統との知遇を得て、1916年(大正5年)4月に王統からの要請で第三革命に孫文一派として参加した。後年、太田は当時の心境を「『中国の革命のため、死んでもよいではないか』と心に叫んだ」と振り返っている。この際に上海に渡った太田は、王統の秘書として活動し、同年5月に帰国して1917年(大正6年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。
大濱 信泉(おおはま のぶもと、1891年10月5日 - 1… 大濱 信泉(おおはま のぶもと、1891年10月5日 - 1976年2月13日)は、日本の法学者(専門は商法)・教育者。第7代早稲田大学総長(1954年 - 1966年)。旧名大濱 信陪。妻は評論家の大浜英子。
吉田 能安(よしだ よしやす、1891年(明治24年)9月2… 吉田 能安(よしだ よしやす、1891年(明治24年)9月26日 - 1985年(昭和60年)11月15日)は日本の弓道家。正法流を創始した。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)岡山県高梁市の旧備中松山藩士の家に生まれる。先祖代々備中松山藩主板倉家に仕えたが、早くに両親に死別し、祖父文治郎に育てられる。藩士であった祖父に幼少から剣術を習い、旧制高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1909年(明治42年)に早稲田大学予科へ進学する。早稲田大学では、初め剣道部に所属した。その後、早稲田大学商科へ進み、翌年の7月に弓術に出会った。 同年、大学2年で中退し、京都帝国大学政治学科の聴講生となる。
島田 兵蔵(しまだ ひょうぞう、1891年8月25日 - 1… 島田 兵蔵(しまだ ひょうぞう、1891年8月25日 - 1967年11月28日)は、日本の経営者、工学博士。中国電力初代社長。神奈川県川崎市出身。 1915年に早稲田大学電気科を卒業。浜田電気での勤務を経て、1936年6月に取締役に就任し、常務を経て、1942年4月に中国配電理事に就任し、1946年12月には社長に昇格。1951年5月に中国電力社長に就任。1961年10月に会長を経て、1964年11月には相談役に就任。 1955年11月に藍綬褒章を受章。 1967年11月28日胆嚢炎のために死去。76歳没。
渡辺 泰邦(渡邊 泰邦、わたなべ やすくに、1891年(明治… 渡辺 泰邦(渡邊 泰邦、わたなべ やすくに、1891年(明治24年)8月1日 - 1949年(昭和24年)10月5日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員。旧名・長一郎。 北海道函館区船見町(現函館市)で渡辺長蔵の長男として生まれる。早稲田実業学校を経て、早稲田大学政治経済科専門部で学んだ。 その後、函館新聞記者となる。1914年、家督を相続し「泰邦」と改名。函館区会議員、函館市会議員を務める。政治家としての見識を広げるため、1923年から1928年まで、中国、蒙古、インドを経てヨーロッパ、アメリカ合衆国を視察した。 1930年、函館市で興民会を組織し、機関誌『興民』を発刊した。同年2月、第17回衆議院議員総選挙で北海道第三区から出馬して当選し、立憲民政党に所属。
宇野 浩二(うの こうじ、1891年〈明治24年〉7月26日… 宇野 浩二(うの こうじ、1891年〈明治24年〉7月26日 - 1961年〈昭和36年〉9月21日)は、日本の小説家。本名は格次郎。父は六三郎、母はキョウ。7歳年長の兄・崎太郎は幼時に脳膜炎にかかり知的障害があった。日本芸術院会員。 福岡県福岡市南湊町(現在の福岡市中央区荒戸一丁目)に生まれる。早稲田大学英文科中退。『蔵の中』『苦の世界』など、おかしみと哀感のある作品を独自の説語体で発表し、文壇に認められた。その後『山恋ひ』『子を貸し屋』などで作風の幅を広げた。一時精神に変調をきたすが、復活後は冷厳に現実を見つめる簡素で写実的な作風に転じ、『枯木のある風景』『器用貧乏』『思ひ川』などを発表。他に松川事件の被告を弁護した『世にも不思議な物語』などがある。
竹田 敏彦(たけだ としひこ、1891年〈明治24年〉7月1… 竹田 敏彦(たけだ としひこ、1891年〈明治24年〉7月15日 - 1961年〈昭和36年〉11月15日)は、日本の劇作家、小説家。本名は敏太郎。 1891年(明治24年)7月15日、香川県仲多度郡多度津町本町の資産家に生れる。香川県丸亀尋常中学校に入る頃までは家庭も安定していたが、4年生の頃、父が事業に失敗し、一家は大阪へ移り住む。 敏彦は働いて家計を助けなければならず、石炭人夫、人力車夫、沖仲仕、風呂屋の釜焚きなど、様々な肉体労働に従事した。この頃、重労働のために失明寸前になるという出来事もあった。そんな生活の中で仕事や将来への不安に襲われ、悩みぬいた挙句上京し、早稲田大学に入学。按摩などに従事して苦学した。
中野 登美雄(なかの とみお、1891年(明治24年)7月1… 中野 登美雄(なかの とみお、1891年(明治24年)7月13日 - 1948年(昭和23年)5月21日)は、日本の法学者、早稲田大学第5代総長、立教大学元教授。専門は公法学。 1891年7月13日、北海道札幌市に遠藤俊の五男として生まれ、後に中野家の養子となる。 1913年6月、早稲田大学高等予科を、1916年6月、早稲田大学大学部政治経済科を卒業し、同年9月、早稲田大学研究科に入学する。副島義一、中村進午の下で国法学、国際法学を専攻する。 1918年9月、アメリカ合衆国に留学し、シカゴ大学で語学研修等を受けた後、1919年10月から1922年6月までジョンズ・ホプキンズ大学に在学し、ウェステル・ウィロビー(英語: Westel W. Willoughby)の下で政治学、公法学を学ぶ。
岩崎 栄(いわさき さかえ、1891年6月29日 - 197… 岩崎 栄(いわさき さかえ、1891年6月29日 - 1973年3月5日)は、日本の作家。 岡山県児島郡琴浦町(現・倉敷市)に農家の次男として生まれる。岡山商業学校(現岡山県立岡山東商業高等学校)卒。 郷里の商工学校で教えたりしたが上京し、早稲田大学予科および明治大学中退。帰郷し、岡山新聞、大阪時事新報支局の記者をしたのち1920年大阪毎日新聞に入社、1928年東京日日新聞社会部に転じ、社会部副部長を務め1939年に退社。 1934年8月、佐山栄太郎の筆名で『改造』に発表した「天保忠臣蔵」が1935年片岡千恵蔵によって映画化された。 はじめ政治家伝などを書き、戦後はエロティック歴史小説を書いた。
橋浦 時雄(はしうら ときお、1891年(明治24年)6月2… 橋浦 時雄(はしうら ときお、1891年(明治24年)6月21日 - 1969年(昭和44年)2月10日)は、日本の社会運動家である。ペンネームは溟郎生。鳥取の左翼運動の先駆者と言われた。 鳥取県岩美郡大岩村(現在の岩美町)に生まれる。旧制鳥取県第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)に進み、同級生の由谷義治らと社会主義グループを結成し、平民新聞を愛読した。 早稲田大学中退後、社会主義を主張し幸徳秋水や堺利彦らと親交を持つ。後に彼らと共に社会主義研究会の設立時のメンバーとなり、1910年(明治43年)に発生した幸徳らが起こした大逆事件ではその事件に関する批判した日記を日本政府に提出した事により起訴され、さらにその日記の没収した事により不敬罪として計禁錮5年4ヶ月の有罪判決を受けた。
細田 源吉(ほそだ げんきち、1891年6月1日 - 197… 細田 源吉(ほそだ げんきち、1891年6月1日 - 1974年8月9日)は、日本の小説家。 東京市麻布生まれ。旧姓は池田。すぐに埼玉県川越町(現:川越市)の細田丑太郎の養子に出され長男として川越で成長する。1915年、早稲田大学英文科卒。大学の同じクラスには宮島新三郎、植村宗一(直木三十五)、青野季吉、田中純、西条八十、細田民樹、木村毅らがいた。1918年に早稲田文学に処女作『空骸』を発表、1922年に自伝的長編小説『罪に立つ』で成功する。1924年には自叙伝ともいえる『はたち前』を発表し、川越での生活を現実主義的に描いた。弱者を描いた小説で知られ、日本プロレタリア作家同盟に加盟しプロレタリア文学の作家として『誘惑』(1927年)などで活躍する。
柿沼 太郎(かきぬま たろう、1891年(明治24年)5月2… 柿沼 太郎(かきぬま たろう、1891年(明治24年)5月20日 - 1967年(昭和42年)12月22日)は、日本の音楽評論家。 東京出身。本名・柿沼市太郎。早稲田大学文学部英文科卒、中央音楽院に学び、天谷秀に師事。1924年、雑誌『音楽新潮』主幹になり、1942年まで勤めた。その後音楽評論家としてクラシック音楽についての著作や翻訳を多くなした。
村野 藤吾(むらの とうご、1891年(明治25年)5月15… 村野 藤吾(むらの とうご、1891年(明治25年)5月15日 - 1984年(昭和59年)11月26日)は、日本の建築家。日本建築家協会会長、イギリス王立建築学会名誉会員、アメリカ建築家協会名誉会員。 佐賀県東松浦郡満島村(現・唐津市)で代々船問屋を営む家の一男第三子として生まれた。生後すぐから12歳頃まで乳母の元に預けられ、その後両親の住む福岡県遠賀郡八幡村(北九州市八幡東区 )で育った。 1910年、小倉工業学校(現小倉工業高校)機械科を卒業後、八幡製鐵所に入社。1911年から2年間にわたる従軍中、学問に興味を持ち、東京京橋の石材屋に弟と下宿する。1913年、早稲田大学大学部理工科電気工学科に入学。
三浦 弥平(みうら やへい、1891年4月2日 - 1971… 三浦 弥平(みうら やへい、1891年4月2日 - 1971年4月)は、日本の陸上選手(長距離走)。現在の福島県伊達市出身。1920年アントワープ・1924年パリオリンピックのマラソン競技に出場。早稲田大学卒業後、ドイツに留学して体育学を修め、帰国後は郷里のスポーツ振興に尽力した。 福島県伊達郡白根村字木ノ田(現在の伊達市梁川町白根字木ノ田)に生まれる。生家は蚕種製造を行う大きな農家であった。 白根村立白根尋常小学校から梁川町立梁川尋常高等小学校(現在の伊達市立梁川小学校)に進む。幼いころから病弱であり、高等小学校2年時にはリウマチによって1年半の休学を余儀なくされている。1907年、白石中学校(現在の宮城県白石高等学校)に進学後も病気のため留年を経験した。
出羽 重芳(でわ しげよし、1891年(明治24年)3月16… 出羽 重芳(でわ しげよし、1891年(明治24年)3月16日 - 1946年(昭和21年)6月7日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・出羽重遠の四男として生まれる。父の死去に伴い、1930年(昭和5年)3月15日、男爵を襲爵した。 1916年(大正5年)早稲田大学商学部を卒業した。同年、日本郵船に入社。その後、国際汽船に移り、横浜出張所長、調度課長を務め、さらに大阪商船で勤務。その他、鶴見化学工業取締役、東京測機監査役、船舶運営会副参事などを務めた。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属したが、翌月に死去した。
小笠原 長丕(おがさわら ながまさ、明治24年(1891年)… 小笠原 長丕(おがさわら ながまさ、明治24年(1891年)3月15日 - 昭和43年(1968年)4月7日)は、日本の華族。子爵。旧安志藩忠脩系小笠原家第13代当主。旧小倉藩小笠原家当主小笠原忠忱の二男。 兄に小笠原長幹、弟に小笠原豊、妹に津軽英麿夫人、百子(尚昌夫人)。養子に小笠原忠幸。 明治38年(1905年)、安志小笠原家12代の子爵小笠原貞孚が後嗣なく没したため、貞孚の甥にあたる長丕が養子として跡を継いだ。明治44年(1911年)3月、学習院中等科を卒業。その後、早稲田大学専門部に進学、卒業。東京府立第一中学校、法政大学商業学校などの講師となる。昭和5年(1930年)に隠居し、養子忠幸(兄小笠原長幹の子)に家督を譲った。
大内 一郎(おおうち いちろう、1891年(明治24年)3月… 大内 一郎(おおうち いちろう、1891年(明治24年)3月11日 - 1962年(昭和37年)3月18日)は、日本のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員。号・逸堂。 福島県安達郡針道村(東和村、東和町針道を経て現二本松市針道)で、大内丈右衛門の息子として生まれる。早稲田大学大学専門部政経科を中退した。 立憲政友会に入党し、1919年(大正8年)10月、安達郡会議員に当選し(2期在任)、公立福島病院組合議員(5期)を務め、1927年(昭和2年)9月、福島県会議員に選出され4期在任した。 また、福島新聞主筆、福島民報主筆、読売新聞福島支局長を務め、1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)まで岩盤中央新聞を経営した。
高橋 清吾(たかはし せいご、1891年〈明治24年〉3月3… 高橋 清吾(たかはし せいご、1891年〈明治24年〉3月3日 - 1939年〈昭和14年〉1月17日)は、日本の大正から昭和前期の政治学者。早稲田大学教授を務め、ビアード、グッドナウ、ベントリーらのアメリカ政治学を日本に紹介した。 1891年(明治24年)、宮城県宮城郡利府村(現・利府町)に生まれる。1911年(明治44年)9月、早稲田大学専門部政治経済科第二学年に入学。1913年(大正2年)7月、同科卒業。1914年8月、コロンビア大学に留学、チャールズ・ビアードの指導を受ける。1916年2月、同大学でM.A.を取得。1917年7月、同大学でPh.D.を取得。その後帰国まで、ニューヨーク市政調査会で調査研究にあたる。
武者 金吉(むしゃ きんきち、1891年(明治24年)2月2… 武者 金吉(むしゃ きんきち、1891年(明治24年)2月22日 - 1962年(昭和37年)11月7日)は日本の地震学者、地理学者、英語教師。本業である英語教師としての業務のかたわら、独学で地震学を学んだ。ほとんど独力で膨大な量の歴史地震に関する史料を収集し、『増訂大日本地震史料』としてまとめた。 1891年(明治24年)2月22日(戸籍上は3月1日)、東京市本所区向島須崎町(現在の墨田区)に生まれる。浅田家の第4子であったが、間もなく武者家の養子となる。 府立三中を経て、1910年(明治43年)9月、早稲田大学文学部英文学科に入学。1911年7月と1912年7月の2回、首席となり早稲田大学特待生となって授業料を免除される。
直木 三十五(なおき さんじゅうご、1891年2月12日 -… 直木 三十五(なおき さんじゅうご、1891年2月12日 - 1934年2月24日)は、日本の小説家、脚本家、映画監督。本名は植村 宗一(うえむら そういち)。弟は東洋史学者の植村清二。エンターテインメント系の作品に与えられる直木三十五賞(通称:直木賞)は、彼に由来する。 1891年2月12日、現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれる。 父の反対を押して早稲田大学英文科予科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。しかし早稲田大学へは登校し続けており、卒業記念写真の撮影にも参加している。 1920年、久米正雄、吉井勇、田中純、里見弴らによって創刊された『人間』の編集を担当。
三上 於菟吉(みかみ おときち、1891年2月4日 - 19… 三上 於菟吉(みかみ おときち、1891年2月4日 - 1944年2月7日)は、大正・昭和時代の小説家。大衆文学の流行作家となり、文壇の寵児と呼ばれた。代表作に『雪之丞変化』など。活躍期にはその作風から「日本のバルザック」とも呼ばれた。内縁の妻は作家の長谷川時雨。 埼玉県中葛飾郡桜井村生まれ(現在の春日部市木崎)。代々儒医(漢方医)家業で、祖父はまた漢詩人大沼枕山門下の詩人でもあった。旧制粕壁中学校(現在の埼玉県立春日部高等学校)を経て田山花袋に私淑。父純太郎も於菟吉を医師に進ませようとしたが、中学校時代から文学少年となり白夜のペンネームで『文章世界』『中学世界』などに投稿していた。 1911年早稲田大学文学部英文科予科に入学し、広津和郎や谷崎精二らと交友を持ち、ロシア文学で片上伸に認められて「片門十哲」の一人とも言われた。
高橋 亀吉(たかはし かめきち、旧字体: 高橋 龜吉、189… 高橋 亀吉(たかはし かめきち、旧字体: 高橋 龜吉、1891年(明治24年)1月27日(戸籍上では1894年(明治27年)9月23日) - 1977年(昭和52年)2月10日)は、経済評論家・経済史研究者。石橋湛山と並ぶ、日本の民間エコノミストの草分け的存在である。新平価解禁派。文化功労者。 山口県徳山村(現・周南市)に、船大工の長男として生まれる。1906年5月、家業の衰退から高等小学校卒業後に大阪の袋物問屋に丁稚奉公へ出る。1907年、朝鮮へ渡航し二田商会に入り、日本人居留民相手の営業や販売、貿易実務・電信局の請負などに従事した。 やがて本格的に商売の勉強を志し、早稲田大学の講義録で旧制中学の内容をマスター。
小林 房之助(こばやし ふさのすけ、1891年(明治24年)… 小林 房之助(こばやし ふさのすけ、1891年(明治24年)1月20日 - 1986年(昭和61年)2月26日)は、大正から昭和期の著述家、実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府大阪市で、小林市之助の四男として生まれた。1913年(大正2年)早稲田大学政治経済学科を卒業した。 大阪現株取引(株)支配人、大阪市福島商業学校講師、逓信省海運事業調査嘱託などを務め、下岡忠治が朝鮮総督府政務総監に就任した際に随行して同秘書(朝鮮総督府嘱託)となった。その他、神戸電機製作所監査役、石産製作所監査役、日本輸出農産物(株)設立委員なども務めた。 1937(昭和12年)4月の第20回衆議院議員総選挙に兵庫県第2区から立憲民政党公認で出馬して当選し、翼賛議員同盟に所属して衆議院議員に1期在任した。
山本 市英(やまもと いちえい、1891年(明治24年)1月… 山本 市英(やまもと いちえい、1891年(明治24年)1月1日 - 1969年(昭和44年)9月25日)は、日本の政治家、実業家。北海道会議員、衆議院議員、北海道岩見沢市長(1947年-1954年)。 石川県出身。空知農学校卒。1915年(大正4年)早稲田大学専門部政治経済科卒業。小樽新聞(後の北海道新聞)に入社し政治経済部記者となり、同社岩見沢支局長を務めた。その後、小樽商業会議所総務課長に就任。1924年(大正13年)第8期北海道会議員に当選、2期8年務め、北海道会参事会員にも在任。その後1932年の第18回衆議院議員総選挙にて北海道第4区から当選。1期務め、立憲政友会に所属。1936年の第19回から1942年の第21回総選挙まで立候補するもいずれも落選。
巌本 荘民(いわもと まさひと、1891年 - 没年不詳)は… 巌本 荘民(いわもと まさひと、1891年 - 没年不詳)は、日本の教育者、外交官。立教大学元教授。 1891年(明治24年)12月、父・巌本善治と母・若松賤子の長男として生まれる。 早稲田大学政治経済科を卒業。その後、アメリカに留学し、ハーバード大学に修学。 帰国後、外交官として在日米国大使館で務めたのち、立教大学教授に就任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
松栄 俊三(まつばえ しゅんぞう、1890年12月31日 -… 松栄 俊三(まつばえ しゅんぞう、1890年12月31日 - 1983年1月28日 )は、日本の実業家、政治家。新潟県佐渡郡相川町長・新潟県議会議員・佐渡汽船社長、会長などを務めた。 新潟県佐渡郡金丸村金丸の舟崎家の出で、相川の素封家松栄家に婿入りした。1889年の相川町の長者番付では、秋田藤十郎・幅野長蔵に次いで養父の松栄治作が3位にランクされている。 1915年早稲田大学商学部を卒業、1918年から町会議員を5期20年務める。この間郡会議員に2回当選。また1923年9月と1935年9月に県議に、高位当選している。相川町長は、1926年8月から1927年7月までと、佐渡鉱山の縮小騒ぎが起きた1928年6月から約1年余、推されて難しい時期の町政を担った。
柴田 徳次郎(しばた とくじろう、1890年12月20日 -… 柴田 徳次郎(しばた とくじろう、1890年12月20日 - 1973年1月26日)は、日本の右翼で教育者。国士舘創立者。正四位勲二等、瑞宝章受章。経済学博士。
森 慈秀(もり じしゅう、1890年12月5日 - 1973… 森 慈秀(もり じしゅう、1890年12月5日 - 1973年4月15日)は、熊本県天草郡湯島村(現上天草市)出身の政治家。熊本県議会議員(1期)、大矢野町長(3期)。天草五橋架橋の功労者として知られている。 1890年(明治23年)12月5日、熊本県天草郡湯島村(天草諸島の湯島、現上天草市大矢野町湯島)に生まれた。父は森幸吉、母は森タミ。幼名は秀松であり、長男である。 1901年(明治34年)には湯島村立尋常小学校4年課程を修了し、湯島村役場の小使となった。18歳か19歳の時、貿易商の親戚を頼って上海に渡航し、事業によって財を成した。1917年(大正6年)または1918年(大正7年)頃に日本に引き揚げたが、この時には当時の金額で100万円を持ち帰っている。
額田 六福(ぬかだ ろっぷく、明治23年(1890年)10月… 額田 六福(ぬかだ ろっぷく、明治23年(1890年)10月2日 - 昭和23年(1948年)12月21日)は、日本の劇作家・大衆小説作家。岡本綺堂の高弟。翻訳家、額田やえ子の父。 岡山県勝南郡勝田村(現在の勝田郡勝央町)に生まれた。本来の名前はむつとみ。5男2女の末子であった。勝間田尋常小学校のとき父を亡くしたが、家は豊かであった。勝南高等小学校を経て、明治37年(1904年)、津山中学へ進んだが、校則に触れ、京都市の立命館中学へ転じた。 明治41年(1908年)17歳のとき、結核性関節炎になり、翌年右腕切断の手術を受けた。脊髄カリエスも病んだ。 明治44年の「演藝画報」誌の懸賞に、勝間田町から『踏絵』を応募して落選したが、その選者岡本綺堂に、入門を願って快諾を得、原稿を送り添削を受け推敲を重ねるという、通信指導を受けた。
金 明植(キム・ミョンシク、1890年9月26日 - 194… 金 明植(キム・ミョンシク、1890年9月26日 - 1943年4月11日)は、朝鮮の独立運動家で、後に親日派へ転向した人物として知られている。号は松山(ソンサン、송산)。 済州島の名家に生まれる。日本へ留学して早稲田大学を卒業し、留学中にアジア地域の被圧迫国家の青年達によって構成された秘密結社である新亜同盟団で活動した。新亜同盟団は以後社会革命党に改編され、帰国した金明植は社会革命党と上海派高麗共産党(朝鮮語版)において活動し、労働運動団体である朝鮮労働共済会の創立に参加した。 上海派は民族主義勢力との広範囲な連帯をはかる統一戦線路線を歩んだが、1922年に金允植が死去した際、金允植の社会葬を推進した張徳秀の右派とこれに反対した金明植や兪鎮煕の左派が対立し、分離することとなった。
伊藤 康安(いとう こうあん、1890年(明治23年)9月2… 伊藤 康安(いとう こうあん、1890年(明治23年)9月23日 - 1965年(昭和40年)12月10日)は、臨済宗僧侶・仏教学者。 東京・北品川の沢庵宗彭ゆかりの臨済宗春雨寺に生まれる。1912年早稲田大学文学部和漢文学科卒。早稲田第一高等学院教授、高等師範部教授、1942年早大教授。61年定年退任、名誉教授。1941-59年早稲田大学仏教青年会会長。中世文学、仏教文学を教えた。のち春雨寺主管。
小田嶋 定吉(おだじま さだきち、1890年(明治23年)9… 小田嶋 定吉(おだじま さだきち、1890年(明治23年)9月18日 - 1972年(昭和47年)12月19日)は、日本の実業家。日本経済新聞社元社長。 岩手県和賀郡岩崎村出身(現:北上市)。1916年に早稲田大学文学部英文科卒業。万朝報で記者としての勤務を経て、日経の前身である中外商業新報社に入社した。 常務を経て、公職追放を受けた小汀利得に代わり、1947年から日本経済新聞社代表取締役を務め、翌年には社長に就任した。 共同通信社理事会長、日本短波放送社長、日本教育テレビ代表取締役などを歴任し、1951年から55年まで日本新聞協会会長を務めた。1965年に勲二等旭日重光章を受章した。 1972年12月19日肺炎のために死去。
田中 亮一(たなか りょういち、1890年(明治23年)8月… 田中 亮一(たなか りょういち、1890年(明治23年)8月29日 - 1945年(昭和20年)12月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)、佐賀県神埼郡千歳村(のち千代田村→千代田町、現・神埼市)長。 佐賀県出身。1915年早稲田大学政治経済科卒。卒業後は佐賀県に戻り農業を営む傍ら千歳村長、同農会長、神埼郡会議員、同農会長、佐賀県会議員、同参事会員、肥前麺業(株)社長、肥筑軌道取締役などを経て、1928年の第16回衆議院議員総選挙で立憲政友会公認で立候補して初当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で落選したが、1932年の第18回衆議院議員総選挙で復帰して以来4回連続当選した。1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では非推薦で立候補して当選した。
阿部 賢一(あべ けんいち、1890年(明治23年)8月28… 阿部 賢一(あべ けんいち、1890年(明治23年)8月28日 - 1983年(昭和58年)7月26日)は、日本の経済学者・ジャーナリスト。第8代早稲田大学総長。 徳島県板野郡大山村大字神宅村(現在の上板町)生まれ。1903年(明治36年)から1908年(明治41年)までの5年間を同志社普通学校で学ぶ。同窓には湯浅八郎がいた。同志社を出た後早稲田大学大学部政治経済学科に進学。1912年(明治45年)同学科を首席卒業。同年専門学校令により設立された同志社大学に講師として赴任し、さらに1916年から2年間アメリカに留学する。 1922年、田中穂積に請われて早稲田大学に移籍。立教大学商学部(現・経済学部、経営学部)教授も務め、財政学を講じた。
川原田 政太郎(かわはらだ まさたろう、1890年8月7日 … 川原田 政太郎(かわはらだ まさたろう、1890年8月7日 - 1983年9月6日)は、日本の工学者、早稲田大学名誉教授。日本におけるテレビジョン研究において、高柳健次郎と並ぶ第一人者。 同郷の宇田新太郎、盛永俊太郎と共に「魚津の三太郎博士」と呼ばれた。 富山県下新川郡下野方村(現・魚津市)に生まれ、素質を認められ地元の医師の支援のもとで働きながら苦学し、魚津町立魚津尋常高等小学校(後の魚津市立大町小学校、現在は魚津市立よつば小学校に統合)→魚津中学校(現富山県立魚津高等学校)を経て早稲田大学大学部予科に入学。1915年早大理工科電気工学科卒業。早稲田大学助教授としてイギリスに留学した際、ロンドン大学のテレビジョン実験に感銘を受ける。
山本 飼山(やまもと しざん、1890年(明治23年)7月2… 山本 飼山(やまもと しざん、1890年(明治23年)7月23日 - 1913年(大正2年)11月5日)は、思想家、社会運動家。本名は山本 一蔵。 1890年(明治23年)、東京に生まれる。8歳の時自由民権運動の壮士であった父を失い、母とともに長野県松本市にある亡父の生家に寄寓。その後、飼山の母は彼が12歳の時に、彼を残して再嫁している。 小学校時代より無教会派キリスト教の感化を受け、旧制長野県松本中学に在学中、キリスト教的社会主義に共鳴し、とりわけ木下尚江の思想に関心を示した。15歳の頃、日露戦争の際に、非戦論の演説をし、停学処分を受けている。その後、早稲田大学文学部に入り、石川三四郎・渡辺政太郎を介して、大杉栄・荒畑寒村・幸徳秋水らの知遇を得、『近代思想』に評論を寄せるようになる。
西岡 竹次郎(にしおか たけじろう、Takejiro Nis… 西岡 竹次郎(にしおか たけじろう、Takejiro Nishioka、1890年〈明治23年〉5月28日 - 1958年〈昭和33年〉1月14日)は、日本の政治家、実業家。西岡伊三次の養子。長崎県知事や戦前から戦後にかけ長崎民友新聞社長を務めた。位階は正四位。勲二等瑞宝章。 長崎市出身。1916年(大正5年)に早稲田大学法学部を卒業すると、普通選挙運動に関わり1921年(大正10年)からヨーロッパへ外遊。1924年(大正13年)に帰国すると同年5月の総選挙に中立候補として出馬し水産大学の誘致・総合大学の設置・国立博物館の建設等の6大政策を掲げたが、憲政会の対立候補だった本田恒之がそれを利益誘導として西岡を告訴したものの、結果的に本田・則元卯太郎(政友本党)と激戦の末に2,385票の最高点で初当選した。
名取 堯(なとり たかし、1890年5月21日 - 1975… 名取 堯(なとり たかし、1890年5月21日 - 1975年)は、日本の思想史学者、芸術学者。 長野県諏訪郡落合村(現・富士見町)生まれ。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、長野師範学校を卒業後、小学校に2年勤務後、1918年早稲田大学文学部卒業。 日本美術学校(後の日本美術専門学校)講師。1929年帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)教授。1934年同校校長 北昤吉に学校二分案を提示し、翌1935年、同盟休校事件が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)が分離独立。1948年1月造型美術学園(現・武蔵野美術大学)経営顧問。1948年11月武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)校長。