真田 秀夫(さなだ ひでお、1918年〈大正7年〉10月18… 真田 秀夫(さなだ ひでお、1918年〈大正7年〉10月18日 - 1981年〈昭和56年〉1月10日)は、日本の法制官僚、裁判官、弁護士。内閣法制局長官。 福井市出身。弁護士・真田一夫、政乃夫妻の七男として生まれた。福井県立福井中学校、第三高等学校を卒業。大学在学中に高等試験司法科試験に合格。京都帝国大学法学部を卒業。1942年(昭和17年)1月、司法官試補となり東京地方裁判所判事に任官。召集され陸軍の戦車隊に配属されたが、海軍短期現役士官を志願し海軍法務官に転じ、終戦時は海軍法務中尉であった。 戦後、裁判官に復帰したが、1947年(昭和22年)法制局に転じ参事官となり、第二部長、第一部長、内閣法制次長などを歴任。
山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年(大正2年)11月… 山口 良忠(やまぐち よしただ、1913年(大正2年)11月16日 - 1947年(昭和22年)10月11日)とは、日本の裁判官。佐賀県杵島郡白石町出身。太平洋戦争の終戦後の食糧難の時代に、闇市の闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを口にし、栄養失調で亡くなったことで知られる。 1913年(大正2年)、佐賀県杵島郡福治村(現在の白石町)に、小学校教師の長男として生まれる(→白石町ホームページ)。鹿島中学校(旧制)・佐賀高等学校(旧制)・京都帝国大学法学部を卒業。大学院に進み宮本英脩・佐伯千仭に師事、高等文官試験司法科試験に合格、判事となる。1942年(昭和17年)に東京民事地方裁判所に転任後、1946年(昭和21年)10月に東京区裁判所の経済事犯専任判事となる。
樋口 和博(ひぐち かずひろ、1909年12月1日 - 20… 樋口 和博(ひぐち かずひろ、1909年12月1日 - 2009年2月7日)は、日本の裁判官、弁護士。 長野県上伊那郡川島村(現辰野町)生まれ。旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)、旧制松本高校文科甲類、京都帝国大学法学部卒業。昭和11年司法官試補、以後、大阪、青森、高松、長野、東京の各地裁で約38年間裁判官生活を送る。昭和49年定年退官。昭和50年1月、弁護士登録(東京弁護士会)。
伊達 秋雄(だて あきお、1909年(明治42年)1月1日 … 伊達 秋雄(だて あきお、1909年(明治42年)1月1日 - 1994年(平成6年)12月25日)は、日本の裁判官、弁護士、法学者。法政大学名誉教授。砂川事件一審において、日米安全保障条約によるアメリカ軍の駐留は日本国憲法違反とする判断を示したことで知られる。長男の伊達寛は東京メトロポリタンテレビジョン社長[要出典]。 大分県出身。旧制静岡県立掛川中学校を経て旧制静岡高等学校に進んだ。高校時代、軍事教練に反対して安倍川渡河演習を拒否したり、銃掃除の命令に従わなかったことがあったという。 京都帝国大学卒業。1933年(昭和8年)判事となる。1942年(昭和17年)、満州国司法部刑事司参事官となったが、この時期、不当に拘束され強制労働をさせられた中国人らを次々と釈放していた、との逸話がある。
細野 長良(ほその ながよし、1883年(明治16年)1月7… 細野 長良(ほその ながよし、1883年(明治16年)1月7日 - 1950年(昭和25年)1月1日)は、日本の裁判官、弁護士。最後の大審院院長を務めた。 富山県立富山中学校(後の富山県立富山高等学校)中退、旧制第六高等学校卒業。1908年、京都帝国大学法学部卒業。1918年、東京控訴院判事。広島控訴院院長の時に1944年2月の東條演説事件に対して、司法権独立の侵害と憲法違反に抗議する意見書を提出した。 1946年2月に第23代大審院長に就任。これは岩田宙造司法大臣による人事であり、細野は岩田大臣と司法権独立で意気投合していた。細野は日本の司法改革に意欲を持つGHQ民政局司法法制課課長のアルフレッド・C・オプラーとも意気投合した。
木村 尚達(きむら しょうたつ、明治12年(1879年)5月… 木村 尚達(きむら しょうたつ、明治12年(1879年)5月27日 - 昭和22年(1947年)11月1日)は、日本の裁判官、検察官、政治家。検事総長、司法大臣、貴族院議員。 熊本県出身。東秀則の二男として生まれ、木村成苗の養子となる。中学済々黌、第五高等学校を経て、1906年7月、京都帝国大学法科大学を卒業。司法官試補となり奈良地方裁判所詰となる。 1908年4月、検事に任官し東京地方裁判所予備検事に着任。以後、岡崎区裁判所検事、千葉地方裁判所検事を歴任し、1911年4月に退職。翌月、ドイツに留学し、チュービンゲン大学、ミュンヘン大学で学んだ。 1914年に帰国し、同年4月、東京地裁判事に復帰した。