磯辺 包義(いそべ かねよし、1842年7月30日(天保13… 磯辺 包義(いそべ かねよし、1842年7月30日(天保13年6月23日) - 1917年(大正6年)6月4日)は、明治から大正時代前期の大日本帝国海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。貴族院勅選議員。幼名は虎之助。 熊本藩士磯辺謙叟の長男として、豊後国大分郡鶴崎村(鶴崎町、鶴崎市を経て、現在の大分市鶴崎)に生まれる。1856年(安政3年)5月、家督を相続する。のち本籍を東京府に置いた。幼年より海軍を志し、1868年(明治元年)「摂津艦」乗組となり、翌年艦長代理に進んだ。ついで「飛龍丸」艦長を経て、1871年(明治4年)海軍大尉に進み、「千代田形」艦長となる。間もなく「第一丁卯」艦長に転じ、1873年(明治6年)「大坂丸」艦長を経て、1874年(明治7年)4月、少佐に進んだ。
香月 恕経(かつき じょけい / ゆきつね、1842年7月2… 香月 恕経(かつき じょけい / ゆきつね、1842年7月21日(天保13年6月14日)- 1894年(明治27年)5月18日)は、幕末の医師、明治期の政治家、教育者。衆議院議員。玄洋社社員。幼名・恕吉郎、字・子貫。号・晦処、晦洞。 筑前国夜須郡下浦村(現福岡県朝倉市下浦)で、医師・香月春庵の長男として生まれる。佐野東庵(甘木高原町)の私塾梅西舎で漢籍を、医師・深水玄門(熊本)に漢方内科医術を、玉井養純(筑後国生葉郡)に漢学・医術をそれぞれ師事した。文久2年(1862年)父の死去により家督を相続し医業を開業し、幕末には国事に奔走した。 明治2年3月13日(1869年4月24日)秋月藩に同藩の情報を久留米藩に提供したとして捕らえられたが、同月17日に釈放された。
小幡 篤次郎(おばた とくじろう、1842年7月15日(天保… 小幡 篤次郎(おばた とくじろう、1842年7月15日(天保13年6月8日) - 1905年(明治38年)4月16日)は、幕末の中津藩士。明治時代の政治家(貴族院議員)・教育者・思想家。慶應義塾長。小幡甚三郎の兄。号は箕田。 1842年(天保13年)、豊前国中津藩殿町(現在の大分県中津市殿町)に、中津藩家老・小幡氏の中津藩士で、供番・元締兼郡奉行を務める小幡篤蔵の次男として生まれる。幼時から父に四書五経を習い、中津藩の藩校・進脩館(しんしゅうかん) で藩儒・野本真城、野本三太郎、藩士・古宇田姑山らに就き漢学を学び、教頭となるが、1864年(元治元年)、福澤諭吉が欧州から帰朝後、中津に帰省中に中津藩士の次男・三男で家事に係累のない優秀な子弟を物色して江戸に伴って行こうと考え野本三太郎に相談したところ篤次郎を推薦したため、説得されて江戸に出ることになった。
樋口 杏斎(ひぐち きょうさい、天保13年6月7日(1842… 樋口 杏斎(ひぐち きょうさい、天保13年6月7日(1842年7月14日) - 1917年(大正6年)11月11日)は、幕末、明治時代の徳島県の教育者。名は健三。元治元年(1864年)、櫛淵村(小松島市櫛渕町)の自宅に寺子屋敬義斎を開き、1874年(明治7年)に櫛渕小学校(現小松島市立櫛渕小学校)に改組、1906年(明治39年)に退職するまで長く初等教育に携わった。日本史学者・喜田貞吉の恩師。 天保13年(1842年)6月7日、阿波国那賀郡櫛淵村に医者・樋口才庵の長男として生まれた。 嘉永元年(1848年)1月から父・才庵より習字、素読を習い、安政4年(1857年)1月から名東郡富田浦の櫛淵駒蔵、安政6年(1859年)4月から富田幟町の湯浅道輔に漢学を学び、岡本斯文に経史学を学んだ。
鈴木 大亮(すずき だいすけ、1842年6月26日(天保13… 鈴木 大亮(すずき だいすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日) - 1907年(明治40年)2月1日)は、日本の政治家、農商務官僚。貴族院議員、官選県知事、錦鶏間祗候、男爵。幼名・篤敬。 陸奥国遠田郡中埣村(現:美里町)で仙台藩士・鈴木雄三郎の長男として生まれる。文久3年(1863年)、江戸で江川塾において砲術を学び、黒田清隆と知り合う。戊辰戦争に従軍した。 明治4年(1871年)11月、黒田清隆の推薦で開拓使十二等出仕となる。以後、開拓少主典、同主典、同権大主典、同大主典、開拓権少書記官、同権大書記官などを歴任。1882年2月、開拓使が廃止され農商務省に移り大書記官に就任。以後、兼大蔵大書記官、北海道庁理事官、農商務省水産局長などを務めた。
野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13… 野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日)- 1927年(昭和2年)12月23日)は、幕末から昭和初期にかけての日本の武士(長州藩士)、官僚、政治家、書家。正二位勲一等 男爵。幼名は範輔、字は絢夫、号は右仲、素軒。 1842年(天保13年)5月18日に長州藩士 有地留之助の次男として周防国吉敷郡長野村(現在の山口県山口市)に生まれる。はじめ、萩の藩校明倫館で学ぶ。1859年(安政6年)4月、江戸へ行き、長州藩上屋敷内の有備館で学ぶ。さらに儒学者 塩谷宕陰から漢籍・経書・歴史を、書家 小島成斎から書道を学ぶ。1862年(文久2年)に帰国して明倫館舎長となる。 1863年(文久3年)10月に同じく長州藩士 野村正名の養子となり、1866年(慶応2年)2月、家督を継ぐ。
足立 寛(あだち かん、1842年6月14日(天保13年5月… 足立 寛(あだち かん、1842年6月14日(天保13年5月6日) - 1917年(大正6年)7月7日)は、幕末から明治にかけての医師、医学者、日本陸軍軍医、陸軍軍医学校校長。最終階級は陸軍軍医総監。字は士得。号は菊径、欲堂。妻は坪井信道の娘。 遠江国山名郡国本村(現・静岡県袋井市)生まれ。木村軍太郎に師事した後、緒方洪庵の適塾、福沢諭吉の書生として慶應義塾で学び、のちに塾長も務める。幕府の西洋医学校塾頭となる。1887年(明治20年)陸軍軍医学舎長となり、一等軍医正まで昇格する。陸軍省に出仕し、軍医総監、陸軍軍医学校長、慶應義塾医学所の設立に携わる。文部省医術開業試験委員長、文部省薬剤師開業試験委員長をつとめ、多忙を極める中、衛生学教程本を多数記す。
初代 三橋 四郎次(みつはし しろうじ、1842年5月17日… 初代 三橋 四郎次(みつはし しろうじ、1842年5月17日(天保13年4月8日)- 1923年(大正12年)12月25日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員。 遠江国城東郡丹野村(のち静岡県小笠郡川野村、現菊川市)で、地主・里正、三橋四郎助の長男として生まれる。和漢学を修め、丹野村の里正となる。 明治維新後、浜松県第十五区戸長、第三大区十三小区長、兼学区取締、浜松県第十三番中学区内学区取締、静岡県会議員、同議長、同常置委員などを務めた。1898年3月、第5回衆議院議員総選挙に静岡県第四区から出馬して当選。さらに第6回総選挙でも再選され、憲政本党に所属して衆議院議員を連続二期務めた。 茶園の経営に尽力し、1890年、内国勧業博覧会に自家製の緑茶を出品し有功三等章を受章した。
岡内 重俊(おかうち しげとし、天保13年4月2日〈1842… 岡内 重俊(おかうち しげとし、天保13年4月2日〈1842年5月11日〉 - 1915年〈大正4年〉9月20日)は、幕末の土佐藩士、明治期の司法官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。通称・俊太郎。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)で、土佐藩士・岡内清胤、鹿子夫妻の長男として生まれる。土佐藩の横目職を務めた。その後、海援隊に加わり坂本龍馬の秘書役を務め、土佐藩の武器調達に尽力。 明治維新後、新政府に出仕し、明治2年2月15日(1869年3月27日)刑法官鞫獄判司事に任じられた。以後、鞫獄副知判司事、徴士・鞫獄司知事、刑部大解部、刑部少判事、刑部中判事、司法少判事、司法権中判事を歴任。
竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日〈… 竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日〈天保13年3月15日〉- 1917年〈大正6年〉3月31日)は、日本の外交官、漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した。甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者。 肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田順左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身の医者(熊本藩医)で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮の宮司二上出雲の娘である美加と結婚した。順左衛門は儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた。 1855年(安政2年)15歳の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。
泉 麟太郎(いずみ りんたろう、1842年〈天保13年4月2… 泉 麟太郎(いずみ りんたろう、1842年〈天保13年4月21日〉 - 1929年〈昭和4年〉1月7日)は、北海道栗山町の前身である角田村の開祖。 1842年(天保13年4月21日)、陸奥国伊具郡角田にて、陸奥石川氏に仕える添田保の子として生まれる。幼名は拙之助。 成教堂で経史を修めた拙之助は、生徒たちに書物の読み方を教える「句読役」を命じられ、さらに仙台への遊学を経てからは、成教堂目付兼武頭役に就いた。 1864年(元治元年)8月1日、角田藩重役の泉靖七郎の養子となり、10月6日には藩主・石川義光から「麟太郎」の名を賜る。 1868年(慶応4年)に戊辰戦争が勃発すると、仙台藩一門の筆頭格たる石川家は、はじめ仙台の警備にあたっていた。
小松 彰(こまつ あきら、1842年4月19日(天保13年3… 小松 彰(こまつ あきら、1842年4月19日(天保13年3月9日) - 1888年(明治21年)3月25日)は明治時代の日本の実業家、官僚。旧松本藩士。通称・彰太郎、左右輔。号は雪巌。 久美浜県権知事兼生野県権知事、豊岡県令、東京株式取引所頭取を歴任した。 天保13年3月9日(1842年4月19日)、信濃国筑摩郡松本城下に松本藩医小松維貫(通称・齢司、坪井信道門弟)の子として生まれる。幼名は金八。藩学崇教館に学んだのち、安政5年(1858年)から藩命で江戸に遊学。塩谷宕陰の教えを受け、文久元年(1861年)には陽明学を学ぶため古賀謹堂に入門したが、父・維貫が江戸に赴任した文久2年(1862年)、家事を掌るべく帰藩した。
瓜生 寅(うりゅう はじめ/はじむ、1842年2月24日(天… 瓜生 寅(うりゅう はじめ/はじむ、1842年2月24日(天保13年1月15日)- 1913年(大正2年)2月23日)は、幕末から明治時代の官僚、教育者、英学者、実業家である。別称は寅(とら)、通称は三寅、号は梅村・六合魁民、幼名は乕作。本姓は多部。海援隊士・瓜生震(雷吉)の兄。 日本の近代教育の起源となる1872年(明治5年)の「学制」起草者の一人で、故郷福井藩の英学教育にも大きな足跡を残した。大阪理学校(現・京都大学)校長、初代神戸税関長、日本鉄道会社幹事などの要職も歴任し、実業家としても活躍した。ホーム・リンガー商会と協同で下関に設立した「瓜生商会」は、三菱・三井の両財閥の石炭輸出の主要な仲介業者となった。
高橋 竹之助(たかはし たけのすけ、1842年2月14日(天… 高橋 竹之助(たかはし たけのすけ、1842年2月14日(天保13年1月5日) - 1909年(明治42年)11月7日)は、江戸時代幕末の尊攘運動家。明治時代の教育者、治水家。名は竹之介とも書き、「ちくかい」とも読む。諱は三寅、字は誠仲。変名として北山信や芳賀喜之七がある。号は蘇門。 越後国南蒲原郡中之島村杉之森(現在の新潟県長岡市)の名主の高橋家に次男として生まれる。生家跡には生誕地の碑が建つ。与板の斎藤赤城の塾に学び、20歳で漢学者・鈴木文臺の私塾・長善館に入門した。1863年(文久3年)、西国遊学に出発し、湊川神社の楠木正成の墓前で尊王を誓う。京都で播磨国林田藩の儒学者の河野鉄兜の門下となり、森田節斎や日柳燕石にも学ぶ。
田村 又吉(たむら またきち、1842年2月14日(天保13… 田村 又吉(たむら またきち、1842年2月14日(天保13年1月5日)- 1912年(大正元年)11月14日)は、日本の農業指導者である。 伊豆の賀茂郡稲取村(現在の静岡県東伊豆町)に生まれる。幼少時に寺子屋にて学び、農業や和漢の著書の研究に携わった。明治維新後の1876年(明治9年)には同村の地主総代を務め、当時漁業が盛んであったものの、大部分が山林で耕地が少なかったことにより植林事業に携わる。翌1887年(明治10年)には地元稲取村等4つの村の戸長を務め、寒天の原料となるテングサの栽培及び採取を初め稲取村の特産品として名を広めた。またこの栽培の利益の寄付により、学校や水道局、病院等の公共施設の整備にも携わる。
石井 省一郎(いしい しょういちろう、1842年2月8日(天… 石井 省一郎(いしい しょういちろう、1842年2月8日(天保12年12月28日) - 1930年(昭和5年)10月20日)は、幕末の小倉藩士、明治期の内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院勅選議員。錦鶏間祗候。 豊前国企救郡(現・福岡県北九州市)において小倉藩士の家に生まれる。第二次長州征討において長州藩との停戦に尽力した。 明治2年(1869年)、明治政府に出仕し民部官書記となる。以後、民部兼大蔵大録、監督大佑、庶務大佑、土木権正、土木権頭、内務権大書記官などを歴任し、1877年、初代の内務省土木局長に就任。「土木の石井」と称された。その後、西南戦争時に熊本県権令心得として務めた。 1884年2月に岩手県令に就任。
工藤 行幹(くどう ゆきもと、天保12年12月28日(184… 工藤 行幹(くどう ゆきもと、天保12年12月28日(1842年2月8日) – 明治37年(1904年)4月21日)は、日本の衆議院議員(自由党→立憲革新党→進歩党→憲政党→憲政本党)。 弘前藩士櫛引儀三郎(錯斎)の子として生まれ、幼名を峯次郎といった。19歳で同藩士工藤秀四郎の養子となり、姓名を改めた。戊辰戦争の際には、奥羽越列藩同盟のために奥羽諸藩を奔走したが、弘前藩が新政府軍に帰順すると、禁錮となった。しかしすぐに赦免され、参軍助役として秋田や水沢口で盛岡藩と戦い、盛岡に入城し、さらに箱館にも出陣した。 1869年(明治2年)、公議所書記に選ばれて上京。さらに民部省土木権少祐に任ぜられ、各地の河川の調査に赴き、土木権少祐、土木中属に昇進した。
芳川 顕正(よしかわ あきまさ、1842年1月21日〈天保1… 芳川 顕正(よしかわ あきまさ、1842年1月21日〈天保12年12月10日〉- 1920年〈大正9年〉1月10日)は、日本の官僚・政治家。旧姓は原田、高橋、幼名は賢吉。号は越山。栄典は従一位勲一等伯爵。 官僚時代は、藩閥の後ろ盾がなく苦労するが、銀行制度の確立に貢献。山縣有朋に認められて政界へ進出した。東京府知事(第8代)、貴族院議員。司法大臣(第5代)、文部大臣(第3代)、内務大臣(第12・16・23代)、逓信大臣(第9・12代)、枢密院副議長(第4代)を務めた。東京府知事では市区改正や築港に尽力し、第1次山県内閣の文部大臣では教育勅語の制定に関与した。 阿波国麻植郡山川町(現:徳島県吉野川市)で医師であった原田民部の5人兄弟の末子として生まれる。
石川 素童(いしかわ そどう、天保12年12月1日(1842… 石川 素童(いしかわ そどう、天保12年12月1日(1842年1月12日) - 大正9年(1920年)11月16日)は、尾張国大曽根出身の僧侶。 天保12年12月1日(1842年1月12日)、尾張国大曽根において出生。9歳のときに仏門に入る。長門国・信濃国・尾張国など各地で修行を積み、地元泰増寺に戻る。元治元年(1864年)には總持寺、1875年(明治8年)には豊橋龍拈寺の住職に就任。さらには彦根清涼寺、東京豪徳寺、小田原最乗寺の住職を歴任し、1905年(明治38年)には当時石川県鳳至郡にあった曹洞宗大本山總持寺の貫首に至った。翌年には曹洞宗管長となる。焼失した總持寺の再興に際して、神奈川県鶴見への移転を主導したとされる。
建野 郷三(たての ごうぞう、1842年1月12日(天保12… 建野 郷三(たての ごうぞう、1842年1月12日(天保12年12月1日) - 1908年(明治41年)2月16日)は、幕末の小倉藩士、明治期の官僚・外交官・実業家。大阪府知事、元老院議官。旧名・牧野弥次左衛門。 豊前国京都郡延永村(現:行橋市延永)に生まれる。小倉藩士・建野建三の養子となり「郷三」と改名。第二次長州征討において長州藩との戦いに従軍した。明治3年(1870年)、イギリスに留学し法律学を学んだ。 1877年(明治10年)11月、宮内省御用掛三等侍補心得となる。以後宮内権大書記官、兼太政官権大書記官を歴任。1879年(明治12年)、グラント前米国大統領の来日に当たり接伴掛を務めた。 1880年(明治13年)5月、大阪府知事に就任し約9年間在任、在任中に大阪府と堺県の合併を実現させた。
佐々木 直前(ささき なおまえ、1842年 - 大正5年(1… 佐々木 直前(ささき なおまえ、1842年 - 大正5年(1916年)11月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍工兵大佐。紀州藩(和歌山県)出身。慶應義塾出身の士官として、明治時代の陸軍省および砲兵工廠に勤務した。 紀州藩の藩士として生まれる。明治4年(1871年)頃、洋行を志した同藩の後輩松島剛を憐れみ、学資を補助したと伝えられる。 明治5年(1872年)に陸軍大尉に任じられ、明治6年(1873年)8月26日、陸軍少佐。明治13年(1880年)には陸軍工兵中佐に進み、従六位・勲五等を授与された。明治19年(1886年)に勲四等旭日小綬章を受章し、明治25年(1892年)3月11日に正五位に叙せられた。
小ノヶ崎 仙吉(おのがさき せんきち、1842年〈天保13年… 小ノヶ崎 仙吉(おのがさき せんきち、1842年〈天保13年〉 - 1877年〈明治10年〉4月24日)は、尾張国中島郡(現在の愛知県一宮市)出身で境川部屋に所属した元力士。本名は山田 仙吉(安吉とする資料もある)。身長・体重は不明。最高位は東前頭5枚目。 故郷の尾張藩では良く働く親孝行者だったが、突然として江戸へ行って入門した。1867年11月場所で初土俵(序ノ口)を踏んだ。1873年12月場所で、尾張藩のお抱え力士となり、東十両7枚目(十枚目格)に昇進。十両では5割強の勝率だったが、番付運に恵まれ順調に昇進を重ねた。1876年4月場所で、新入幕を果たした。國見山半五郎,甲喜三郎と共に「尾張三人衆」との呼び名が高く、将来を大いに期待されたが、翌1877年1月場所後の4月24日に36歳(満34歳)で急死。
松枝 顕勝(顯勝、まつえ けんしょう、1842年(天保13年… 松枝 顕勝(顯勝、まつえ けんしょう、1842年(天保13年3月) - 1909年(明治42年)3月1日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥後国宇土郡郡浦村(のち熊本県宇土郡郡浦村、三角町を経て現・宇城市)生まれ。農業を営む。郡浦村会議員、宇土郡会議員、同議長、熊本県会議員、同副議長となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において熊本1区から国民協会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙は不出馬。1909年に死去した。
山田 穣(やまだ ゆたか / みのる、1842年(天保13年… 山田 穣(やまだ ゆたか / みのる、1842年(天保13年7月)- 1892年(明治25年)5月6日)は、明治期の地主、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・蒲、幼名・幸輔。 越前国今立郡東庄境村(福井県今立郡南中山村、粟田部町、今立町を経て現越前市)で素封家・蒲家に生まれ、文久2年(1862年)越前国坂井郡一本田村(坂井郡丸岡町を経て現坂井市)の同国屈指の豪農・山田穆斎の養子となる。 明治5年(1872年)足羽県坂井郡副長に就任し、敦賀県第57大区区長、第15大区副区長兼学区取締を務めた。1875年(明治8年)地租改正の総代人となりその事務に従事した。 1880年(明治13年)石川県会議員に当選し、福井置県後は福井県会議員に選出され同議長、同常置委員も務めた。
奥村 左近太(おくむら さこんた、1842年(天保13年)-… 奥村 左近太(おくむら さこんた、1842年(天保13年)- 1903年(明治36年)1月11日)は、幕末から明治の剣術家。流派は直心影流を学んだ後、奥村二刀流を創始した。称号は大日本武徳会精錬証。幼名は寅吉。 岡山藩士・奥村安心の子として生まれる。干支が壬寅であったことから寅吉と名付けられた。1855年(安政2年)、13歳で直心影流剣術の阿部右源次の道場に入門。同門に右源次の息子・阿部守衛がいた。剣術のほかに起倒流柔術や日置流印西派弓術、香取流槍術、砲術、馬術も学んだ。 1859年(安政6年)1月から回国修行の旅を繰り返す。この間に、伊予西条藩士・高橋筅次郎(田宮神剣流)が二刀を遣うのを見て、2年もの間、二刀を工夫し、左の大刀を横一文字に、右の小刀を大刀に交差し頭を庇いながら腰を引き、前かがみにする構えの奥村二刀流を編み出した。
本間 耕曹(ほんま こうぞう、1842年(天保13年6月)‐… 本間 耕曹(ほんま こうぞう、1842年(天保13年6月)‐ 1909年(明治42年)12月18日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。浮世絵の蒐集家、浮世絵商。 現在の山形県酒田市において生まれる。本間家4代目の本間光道の三男であった本間光和の次男として出生、幼名を友三郎と言った。 早くから江戸へ出ており、江川太郎左衛門の塾で洋学や剣術を学んだ。また、一時は長崎の砲術家の高崎四郎右衛門のもとで塾頭を務め、蝦夷地の北方警備の任にあたった。戊辰戦争を前にサハリンから帰郷する際にはアカハネ・スネルの船で酒田に戻るが、その折に、スネルとの知遇を得て、本間家の銃器購入のため働いたほか、仙台藩、米沢藩、会津藩などの兵器の買い入れにも携わった。
星合 常恕(ほしあい つねのり、1842年(天保13年) -… 星合 常恕(ほしあい つねのり、1842年(天保13年) - 1875年(明治8年)8月2日)は、徳島藩権大参事。現在の淡路島洲本市出身。 1868年(明治元年)に洲本目付役、1869年(明治2年)に徳島藩権少参事、同年に権大参事に遷任。徳島藩東京出張所の外交係を務める。1870年(明治3年)に起こった庚午事変により謹慎50日となる。しかしその際の事件処理が高く評価され、1871年(明治4年)大蔵省に出仕。海外視察団に参加して欧米を洋行。帰国後は高知県に赴任。岩崎弥太郎と交流を持ち、近藤廉平を岩崎に紹介して三菱商会に入社させた。 1872年(明治5年)、権大参事を辞する。殖産事業(鉱山業)を興す計画を進めたが、1875年(明治8年)8月2日に急逝。
雷電 震右エ門(らいでん しんえもん、1842年 - 188… 雷電 震右エ門(らいでん しんえもん、1842年 - 1884年11月16日)は、能登国羽咋郡(現在の石川県羽咋市)出身で千賀ノ浦部屋(入門時は阿武松部屋)に所属した大相撲力士。本名は和吉→楠 和助。現役時代の体格は身長177cm、体重125kg。得意手は突き、押し。最高位は大関。 史上最強と言われる雷電爲右エ門引退後、ただ一人雷電の四股名を名乗った人物である。彼以後、雷電の名を名乗る力士はおらず、止め名となっている。 文久2年(1862年)ごろ江戸に出て、3代阿武松(元松ヶ枝)のもとに入門したと伝わる。元治元年(1864年)4月場所に序ノ口から初土俵。四股名は初め「槇割」、のち「里神楽」から「北ノ浦」、「兜山」と次々替わるが実力は高く評価されており、まだ入幕もしていないのに姫路藩お抱え力士になったほどである。
浜田 儀一郎(濱田、はまだ ぎいちろう、1842年(天保13… 浜田 儀一郎(濱田、はまだ ぎいちろう、1842年(天保13年2月) - 1914年(大正3年)5月16日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 淡路国三原郡(のち兵庫県三原郡松帆村→西淡町、現・南あわじ市)生まれ。漢学、数学、武術を修める。公立洲本中学校(現・兵庫県立洲本高等学校)学務委員、兵庫県会議員、同常置委員、同副議長となる。 1894年9月の第4回衆議院議員総選挙において兵庫10区から自由党所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙では憲政党から立候補したが落選した。同年8月の第6回衆議院議員総選挙で再び立候補したが落選した。1914年に死去した。
川真田 市太郎(かわまた いちたろう、1842年(天保13年… 川真田 市太郎(かわまた いちたろう、1842年(天保13年2月) - 1919年(大正8年)5月30日)は、日本の政治家、実業家。徳島県吉野川市出身。別名は市兵衛。 麻植郡鴨島町(現在の吉野川市)で生まれる。実家は藍商を営む。藍の粗悪を戒め、製品の声価を高めることに努めた。また、吉野川の氾濫を防ぐため、堤防を修築する等の功績を上げた。 1887年(明治20年)、阿波国共同汽船を起し、同社の社長に就任。1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選。徳島鉄道の敷設、吉野川改修工事に功労があった。 1919年(大正8年)5月30日、78歳で没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
伊丹 重賢(いたみ しげかた、文政13年11月17日(183… 伊丹 重賢(いたみ しげかた、文政13年11月17日(1830年12月31日) - 明治33年(1900年)7月15日)は、日本の男爵。志士、貴族院議員、大審院判事、錦鶏間祗候、従五位。通称、蔵人、右近大進。子に伊丹春雄、伊丹二郎。 京都(山城国)粟田(現京都市東山区)生まれ。伊丹家は代々粟田青蓮院宮に仕えた。幼き頃から神童と呼ばれ、徳川幕府が衰退するにいたって尊皇攘夷派の志士となり東奔西走する。安政5年(1858年)に橋本左内、梅田雲浜らと共に幕府に捕らわれ彦根城に幽閉される。その後、放免となり明治維新を迎える。 維新後、大阪府判事に命ぜられて同地に赴任。その後、長崎・東京府へ赴任し、大審院に入り元老院議官に転ず。
佐々木 高行(ささき たかゆき、1830年11月26日〈文政… 佐々木 高行(ささき たかゆき、1830年11月26日〈文政13年10月12日〉- 1910年〈明治43年〉3月2日)は、江戸時代末期(幕末)から明治期の日本の政治家。爵位は侯爵。幼名は万之助、通称は三四郎。初名は高喜(たかあつ)、高春(たかはる)と称し、高行(たかのり)に改名した後に、現在の名称に改名した。佐佐木高行とも表記される。土佐三伯の1人(他に板垣退助・後藤象二郎)。著作である日記『保古飛呂比』は幕末・維新期の第一級資料として知られる。 藩士と郷士の身分が確立されている土佐藩の中で上士の板垣退助や谷干城と同じく、郷士に対し寛大だった人物として有名。明治政府高官の中でも保守派を代表する1人であり、明治天皇の信任を楯に政治体制を巡り伊藤博文らと争った。
小笠原 東陽(おがさわら とうよう、1830年10月29日〈… 小笠原 東陽(おがさわら とうよう、1830年10月29日〈文政13/天保元年9月13日〉 - 1887年〈明治20年〉8月12日)は、幕末から明治時代前半の儒学者、教育者。神奈川県高座郡羽鳥村の耕余塾(旧読書院)創設者。明治維新以前は、江戸詰の姫路藩士で奥山銕四郎と称した。 天保元年9月(1830年10月)美作勝山藩士小笠原忠良の三男として江戸谷中の藩邸で生まれる。幼名は亀吉、諱は董。天保4年2月の父の病没後、姫路藩士奥山重義の養子となって巣鴨の同藩下屋敷に移り、奥山銕四郎を名乗った。 数え12歳で御用使仮役(秘書見習)として初出仕。以後、近海防禦御道具調方手附手伝(天保14年)、巣鴨学問所肝煎心得兼務(弘化3年)、小役人格御用使頭取(弘化5年)、奥御番方仮役(安政2年)と累進。
宮本 包則(みやもと かねのり、1830年10月11日(文政… 宮本 包則(みやもと かねのり、1830年10月11日(文政13年8月25日) - 1926年(大正15年)10月24日)は、幕末から明治・大正期の代表的刀工。帝室技芸員。 1830年(文政13年)、伯耆国大柿(現鳥取県東伯郡三朝町大柿)に醸造家の次男として生まれる。本名は宮本志賀彦。幼時は沢次郎と名乗った。郷里が輩出した平安末期の名匠で「童子切」の作者である伯耆安綱を慕って刀工を志し、1851年(嘉永4年)、22歳のときに備前国長船(現、岡山県瀬戸内町)を訪ねて、長州藩と関係の深い横山祐永の門を叩くが拒絶される。しかし、同じく長船の刀工で「友成五十八世孫」を名乗る横山祐包に入門を許され、7年間の収斂で備前伝を習得した。
大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日〈18… 大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日〈1830年9月26日〉- 明治11年〈1878年〉5月14日)は、日本の政治家、武士(旧薩摩藩士)。幼名は正袈裟、通称は正助、一蔵、諱は利済、のち利通、号は甲東。位階・勲等は贈従一位勲一等。 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称され、「維新の十傑」のひとりでもある。初代内務卿で、内閣制度発足前の日本国政府(太政官)の実質的・事実上の初の日本の首相。 文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現:鹿児島県鹿児島市高麗町)に、薩摩藩士・大久保利世と福の間に長男として生まれる。幼名は正袈裟(しょうけさ)。
前田 長禮(まえだ ながひろ、文政13年7月28日(1830… 前田 長禮(まえだ ながひろ、文政13年7月28日(1830年9月14日) - 1903年(明治36年)4月2日)は、江戸幕府の高家旗本で表高家。高家前田家の8代当主。高家役前田長徳の婿養子。通称は愿十郎。 文政13年7月28日(1830年9月14日)、肥前国唐津城内(現・佐賀県唐津市)で生まれる。幼名は鑑之助。実父は旗本御小性組小笠原頼母とされるが、内実は唐津藩主・小笠原長泰の三男。母は家女。 嘉永5年11月25日(1853年1月4日)、実子がなかった前田主馬長徳の婿養子となる。嘉永6年2月(1853年3月)、13代将軍徳川家慶に御目見し、表高家柳之間詰となる。慶応元年12月24日(1866年2月9日)、養父の家督を相続。
尾高 惇忠(おだか あつただ、文政13年7月27日〈1830… 尾高 惇忠(おだか あつただ、文政13年7月27日〈1830年9月13日〉 - 明治34年〈1901年〉1月2日)は、日本の豪農、志士、実業家。富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを務めた。諱ははじめ惇孝(あつたか)、後に惇忠と改めた。惇忠の読みは「じゅんちゅう」とも。通称は新五郎、号は藍香(らんこう)。 岡部藩領の武蔵国榛沢郡下手計村(現・埼玉県深谷市下手計)に名主の尾高勝五郎保孝の子として生まれた。惇忠は幼少時から学問に秀で、自宅に私塾の尾高塾を開き、17歳から幕末の頃まで近郷の子弟たちを集めて漢籍などの学問を教えた。惇忠に教えを受けた一人が渋沢栄一である。惇忠の母・やへが栄一の父・渋沢市郎右衛門の姉であり、惇忠と栄一は従兄弟であった。
川田 甕江(かわた/かわだ おうこう、文政13年6月13日〈… 川田 甕江(かわた/かわだ おうこう、文政13年6月13日〈1830年8月1日〉- 明治29年〈1896年〉2月2日)は、幕末・明治期の漢学者。本名は剛()であるが、これは師である山田方谷の命名であり、それ以前は竹次郎と名乗っていた。字は毅卿()。錦鶏間祗候。 備中国浅口郡玉島(現・倉敷市玉島中央町)の回船問屋「大国屋」に生まれる。幼いうちに両親に先立たれ伯父惟德の家で少年時代を過ごす。玉島で儒学者鎌田玄渓に学んだが、玄渓は甕江の才能に気付いて自ら「師に足らず」と述べて江戸への遊学を勧めた。江戸では古賀茶渓、大橋訥庵、佐藤一斎らの下で学びながら、学資のために蔵書を売り、家庭教師をするなどの苦学の末、近江大溝藩の藩儒として100石が与えられることとなった。
高山 長五郎(たかやま ちょうごろう、文政13年4月17日〈… 高山 長五郎(たかやま ちょうごろう、文政13年4月17日〈1830年6月7日〉 - 1886年〈明治19年〉12月10日)は、上野国緑野郡高山村(現・群馬県藤岡市)出身の養蚕業者。清温育を生み出し日本中に広めた。長五郎は通称で、名は重礼。 その遺跡である「高山社跡」は国の史跡に指定されており、世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産となっている。 文政13年(1830年)4月17日に高山村で生まれた。高山家は戦国時代以降、この村に住むようになったと伝えられており、高山彦九郎と共通の先祖を持つという。 経済観念に乏しい父のもとで傾いていた家にあって、幼時に母をなくし、祖母に育てられた。この祖母が敬虔な気持ちを持って養蚕業に熱心に打ち込んでいたが、蚕病によってたびたび深い悲しみに暮れることがあった。
西郷 頼母(さいごう たのも、1830年5月16日(文政13… 西郷 頼母(さいごう たのも、1830年5月16日(文政13年閏3月24日) - 1903年(明治36年)4月28日)は、幕末の会津藩の家老。名は近悳(ちかのり)、幼名龍太郎、字を汝玉(じぎょく)、明治維新後は保科 近悳(ほしな ちかのり)と改名。号を栖雲(せいうん)、酔月軒(すいげつけん)、晩年は八握髯翁(やつかぜんおう)と称した。 西郷家は、もとは「保科」姓で、信州高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町一帯)藩主保科正直の弟三河守正勝から始り、後に会津藩主となった保科家の分流である。保科家は高遠城主で清和源氏頼季流に属し、正俊の代に武田氏に従い、正直の代から徳川氏に従った名家である。 近悳は、文政13年閏3月生まれ。
粟谷 品三(あわや / あわたに しなぞう、1830年4月7… 粟谷 品三(あわや / あわたに しなぞう、1830年4月7日(天保元年3月15日)- 1895年(明治28年)11月10日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。旧名・桜木注兵衛。 阿波国板野郡五条村(徳島県板野郡五条村、一条村、一条町、吉野町を経て現阿波市吉野町五条)で、地主・桜木忠兵衛の息子として生まれた。10歳で父が死去したため伯父、藍玉商・桜木忠次の後見を受けて成長した。農業より商業を好み大阪で藍玉、砂糖の商いを数年行って、弟・延次郎に家督を譲り大坂に移った。 幕末に剣術を習い、諸藩の浪士と交わり国事に奔走した。明治維新後、名を粟谷品三と改め、幕末に往来した防長諸州の物産を扱う防長物産会社を有志と組織して社長に就任した。
中井 太一郎(なかい たいちろう、1830年4月2日(天保元… 中井 太一郎(なかい たいちろう、1830年4月2日(天保元年3月10日)- 1913年(大正2年)5月21日)は、幕末から明治時代の農地改革者、技術者。 庄屋の子として伯耆国久米郡中河原村(鳥取県東伯郡小鴨村大字中河原を経て、現倉吉市中河原)に生まれる。9歳の頃に寺子屋で農業を学ぶ。後に耕地を所有し、1858年(安政5年)に鳥取藩が執行した地方改革により、中庄屋に昇格した。 明治維新後、最高位の戸長及び地券の取調役となり、全国の稲作を巡回し農地改革の講演を行う。耕地は実子の中井益蔵に譲る。1884年(明治17年)、田植えの際、苗の間隔を一定にするため、田に目印をつけるための農具である田植え定規を発明。
広沢 安任(ひろさわ やすとう、文政13年2月2日(1830… 広沢 安任(ひろさわ やすとう、文政13年2月2日(1830年2月24日) - 明治24年(1891年)2月5日)は、江戸時代後期(幕末)から明治期の武士(会津藩藩士)、牧場主である。通称富次郎(とみじろう)。 広沢庄助の次男。文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に任ぜられ、安任は先んじて上京し京都の情勢を探った。容保上京後は公用方に任ぜられ、公卿、諸藩士、新選組などと交流を持った。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸そして会津に戻った容保らの立場を新政府に嘆願するため、江戸に残ったが新政府軍に投獄された。明治2年(1869年)に釈放されているが、これは親交のあった英国外交官アーネスト・サトウの進言があったと言われている。
井深 宅右衛門(いぶか たくえもん、文政13年1月26日(1… 井深 宅右衛門(いぶか たくえもん、文政13年1月26日(1830年2月19日) - 明治30年(1897年)3月19日)は、日本の幕末から明治にかけての武士(会津藩士)、地方官吏、教育者である。幼名は梶之助、名は重義、宅右衛門は通称である。 父の死去により、家禄550石の井深家を継ぐ。物頭、組頭、町奉行、奏者番上席などを歴任し、京都守護職となった会津藩軍事奉行として幕末の京へ赴く。慶応2年(1866年)に会津へ戻り学校奉行に就任。藩校・日新館館長として教育にあたる。後の白虎隊士らが在籍していた時期である。鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津藩は藩領の防衛体制を固めることになり、宅右衛門は日新館の教師、学生などから構成された第二遊撃隊頭として出陣。
十九 貞衛(つづ さだえ、1830年(文政13年)1月4日 … 十九 貞衛(つづ さだえ、1830年(文政13年)1月4日 - 1892年12月2日)は、江戸時代幕末から明治時代の武士、軍人、勤皇家。 肥前国大村藩士の稲垣主計の三男として大村に生まれる。通称は巳之助。諱は勝見。幼くして同藩の十九采記俊彬の養子となる。尊王を唱え、大村藩三十七士の1人として数えられ、藩の用人となり勤皇に導いた。戊辰戦争では東北に従軍し、参謀から大隊長となり、賞典禄八石を賜る。1871年、藩の歩兵中隊長に任じられ、熊本鎮台の副官となった。翌年官を退いた。東京に移り、小石川区小日向武島町の自宅で死去。享年63歳。1912年、従五位を追贈された。墓所は池上本門寺。
中島 錫胤(なかじま ますたね、1830年1月2日(文政12… 中島 錫胤(なかじま ますたね、1830年1月2日(文政12年12月8日) - 1905年(明治38年)10月5日)は、幕末の徳島藩士、明治時代の内務・司法官僚、裁判官。官選県知事を歴任、元老院議官・貴族院議員。錦鶏間祗候、華族(男爵)。旧名は三木永吉。明治維新後に直人、錫胤と名乗る。号は可庵、無外。 徳島藩士・三木章助の長男として、徳島城下の佐古町楠小路(現在の徳島県徳島市佐古地区)で生まれる。はじめ漢学を楠本鼇山・岩本贅庵に学ぶ。少壮の頃、篠崎小竹・古賀謹堂(古賀謹一郎)の門、及び昌平黌に学ぶ。京都の儒者・中島棕隠の門下となり、のち老齢の棕隠の養子となり、中島永吉と称した。 幕末期には新居水竹らと交わり、尊王攘夷派として国事に奔走。
長山 弥一(ながやま やいち、1830年〈天保元年〉 - 1… 長山 弥一(ながやま やいち、1830年〈天保元年〉 - 1899年〈明治32年〉)は、日本の柔術家。 気楽流柔術師範や免許皆伝(14世)として知られた。 11世飯塚臥龍斎並びにその養子12世飯塚義高、その子、13世飯塚龍之輔興高から気楽流を学ぶ。上野国新田郡高根村(後の新田郡綿内村、現群馬県太田市新田大根町)生まれ。 1852年(嘉永5年)に義高帯刀に入門、その子・龍之介興高からも教授を受け、1861年(文久元年)免許皆伝。1864年(元治元年)、大根村領主であった加納遠江守の武練組役となる。1870年(明治3年)に帰農。 岡部正春、高山辰二郎らほか多数の門弟を育て、弟弟子にあたる飯塚猪早司義興に免許を授与ける。
大庭 恭平(おおば きょうへい、天保元年〈1830年〉 - … 大庭 恭平(おおば きょうへい、天保元年〈1830年〉 - 明治35年〈1902年〉1月5日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての人物。会津藩の密偵である。別名は機、景範、松斎。 天保元年(1830年)、大庭弘訓の次男として生まれる。文久2年(1862年)に藩主・松平容保が京都守護職に任じられて上洛すると、これより先に上洛する。会津藩の重臣である田中玄清や野村左兵衛の密命で浪人となって京都で活動する過激派の攘夷浪人の監視を行なうためだったとされている。文久3年(1863年)には足利三代木像梟首事件が起こり、事件後に情報を会津藩に流した大庭も犯人の1人として捕縛され、信濃国上田藩に幽閉された。
市岡 晋一郎(いちおか しんいちろう、1830年 - 189… 市岡 晋一郎(いちおか しんいちろう、1830年 - 1896年11月27日)は、明治時代前期の開拓者。 信濃国筑摩郡日出塩村(現長野県塩尻市)の庄屋の家に生まれる。幼名は「文暁」。父勘之丞と共に水田造成のため、私財を投じて奈良井川からの水利を計画し、山腹に隧道を設け、7年の歳月をかけて安政6年(1859年)に完成させた。 平田派国学に傾倒していた市岡は、幕末の戊辰戦争で中山道を江戸に向けて東下する官軍(東山道鎮撫軍)に従軍し、岩倉具視の知遇を得た。明治3年(1870年)、民部省下総開墾局知事の北島秀朝の懇請により、三井組の代理人として採用され、秩禄処分で困窮した士族に授産事業として小金牧一帯に入植帰農させ、開墾場周辺の農民を通い小作人として農業経験のない旧士族の指導に当たらせるなど、開墾の指揮を取った。
伊藤 助太夫(いとう すけだゆう、天保元年(1830年) -… 伊藤 助太夫(いとう すけだゆう、天保元年(1830年) - 明治5年11月19日(1872年12月19日))は、幕末から明治にかけての下関の豪商。別名、九三(きゅうぞう)。 長府藩赤間関の大年寄であり、大名に宿舎を提供する東の本陣伊藤家の当主であった。諱は盛正、号は自然居士、静斎。 下関を代表する豪商であり、幕末の攘夷志士らを様々な側面から支援した。特に志士の代表とも言える坂本龍馬との関係は深いものであった。伊藤邸は慶応元年(1865年)の初対面以来、龍馬の止宿先であった。邸は広く、高杉晋作らが結成した奇兵隊も一時、邸内にある阿弥陀寺(赤間神宮)に本陣を移したこともある。 現存する龍馬が書いた手紙のうち、助太夫宛の手紙が2番目に多い(14通)ことからも龍馬との関係が深かったことが覗える。