指田 義雄(さしだ よしお、慶応3年1月3日(1867年2月… 指田 義雄(さしだ よしお、慶応3年1月3日(1867年2月7日) - 大正15年(1926年)9月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。東京米穀取引所理事長。 武蔵国埼玉郡袋村(埼玉県北埼玉郡下忍村、吹上町を経て現在の鴻巣市袋)にて指田泰助の長男として出生。北埼玉郡役所に勤務した後、1887年(明治20年)に英吉利法律学校(現在の中央大学)に入学した。1890年(明治30年)、東京法学院(英吉利法律学校が改称)を卒業し、翌年に弁護士試験に合格した。弁護士として担当した事件のうち、馬車に轢かれた子どもが小指を損傷した事故では千円の損害賠償を勝ち取った。この判決は身体損害賠償の最初の判例となった。
堀 啓次郎(ほり けいじろう、1867年2月7日(慶応3年1… 堀 啓次郎(ほり けいじろう、1867年2月7日(慶応3年1月3日)- 1944年(昭和19年)10月8日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。大阪商船社長、阪神電気鉄道社長、貴族院勅選議員。 加賀国石川郡金沢(現在の石川県金沢市)で加賀藩士・堀五平の長男として生まれ、親族・堀霞の養子となる。1890年(明治23年)第一高等中学校を卒業し、1893年(明治26年)7月、帝国大学法科大学法津学科を卒業した。官界に進むことを好まず、郷里の先輩早川千吉郎に民間企業への紹介を依頼し、中橋和之の推薦で1893年7月、大阪露油合資会社に入社し手代格となる。 大阪露油での働きが認められ、1895年(明治28年)12月、系列の大阪商船に転じ試験雇を務めた。
兼松 寅太郎(かねまつ とらたろう、1867年2月4日(慶応… 兼松 寅太郎(かねまつ とらたろう、1867年2月4日(慶応2年12月30日)- 1941年(昭和16年)5月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 近江国犬上郡、のちの滋賀県犬上郡彦根町(現彦根市)出身。(株)近江米取引所監査役、同理事長、彦根米穀取引所仲買人、長浜製氷冷蔵(株)社長、大津商業会議所会頭、近江絹糸紡績(株)取締役、近畿バラスト(株)監査役となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において滋賀1区から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1964年死去。
矢野 鉉吉(やの げんきち、慶應3年1月10日〈1867年2… 矢野 鉉吉(やの げんきち、慶應3年1月10日〈1867年2月3日〉 - 1955年〈昭和30年〉4月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 群馬県高崎市龍見町出身。1893年、群馬県立中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒。アメリカに留学し、帰国後は東京機器標本(株)取締役、多摩川水力電気(株)監査役となる。また、下谷区議、同議長、東京府議、同議長、東京市会議員を務めた。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において東京8区から立憲政友会公認で立候補したが落選。1924年の第15回衆議院議員総選挙で当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では東京2区から立候補して当選した。衆議院議員を2期務めた。
益田 古峯(ますだ こほう、1867年2月3日(慶応2年12… 益田 古峯(ますだ こほう、1867年2月3日(慶応2年12月29日) - 1944年(昭和19年)4月10日)は戦前日本の教育者。名は祐之。筑前秋月藩出身で、号は故郷の古処山に因る。大橋陶庵、栗本義喬、楠本碩水等に漢学を学び、『福陵新報』記者、東筑中学校雇教師を経て、福岡県中学修猷館で約30年間漢文を教えた。
平井 繁男(ひらい しげお、慶応3年2月3日〔1867年3月… 平井 繁男(ひらい しげお、慶応3年2月3日〔1867年3月8日〕- 大正14年〔1925年〕9月10日)は、日本の実業家、官吏、特許辨理士。推理作家・江戸川乱歩の父。 三重県津市出身。武士の家柄で津藩の藤堂家に仕えていた七代目平井杢右衛門(陳就)・後妻の和佐との間に生れた。関西法律学校(現・関西大学)第一回卒業生として卒業後、青年官吏として三重県名賀郡右名張町(名張市)役所に奉じた。この頃、津藩家臣の長女のきくと結婚し、1894年 (明治27年)第一子を儲け、太郎と命名。これが後の江戸川乱歩である。間もなく、鈴鹿郡へ転勤。1897年に東海紡績同盟会の職員となり、名古屋に移った。東海紡織同盟会書記長を歴任。
金子 角之助(かねこ かくのすけ、旧姓・武藤、1867年1月… 金子 角之助(かねこ かくのすけ、旧姓・武藤、1867年1月30日〈慶應2年12月25日〉 - 1937年〈昭和12年〉9月24日)は、日本の政治家、自由民権運動家、会社重役。神奈川県高座郡藤沢町長(第2代)。関東興信銀行、神奈川県農工銀行各取締役。高座郡農会長。全国町村長会会長。中央報徳会理事。 相模国(のち神奈川県高座郡綾瀬村本蓼川、現・綾瀬市)出身。農民・武藤卯左衛門の三男。大庭の金子小左衛門の嗣子となる。耕余塾に学んだ。 横浜中学校卒業後は一時教職に就いた。1885年、有一館の館長・磯山清兵衛の誘いで大井憲太郎らの大阪事件に加わり、投獄され、軽懲役2年の刑をうける。1890年、保安条例に触れて東京を逐われ、同志と共に神奈川県倶楽部同青年会等を組織する。
二階堂 三郎左衛門(にかいどう さぶろうざえもん、1867年… 二階堂 三郎左衛門(にかいどう さぶろうざえもん、1867年1月28日(慶応2年12月23日) - 1944年(昭和19年)4月16日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。前名は熊七郎。 安芸広島藩領佐伯郡大竹村(現・大竹市)出身。望戸清四郎の長男として生まれ、先代二階堂三郎左衛門寿光の養嗣子となり、襲名する。1890年(明治23年)25歳にして大竹郵便局長となる。ついで大竹町油見村組合会議員、大竹貯蓄銀行頭取、芸防抄紙社長、広島県農工銀行、日本紙業各取締役などを経て、広島県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、1918年(大正7年)5月3日から1925年(大正14年)9月28日まで務めた。
後藤 宙外(ごとう ちゅうがい、1867年1月27日(慶応2… 後藤 宙外(ごとう ちゅうがい、1867年1月27日(慶応2年12月22日) - 1938年(昭和13年)6月12日)は、明治後期から昭和初期に活躍した小説家、評論家。本名寅之助。 後藤三郎右衛門、斎藤サダ(花館村の斎藤勘左衛門の妹)の次男として生まれる。宙外の家家は後藤家の惣家とされる。なお、戸籍上の誕生日は慶応2年12月22日だが、宙外自身は12月23日、12月24日の二様に記述している。後藤家は元豪族の旧家であったが、父の代に没落していた。1879年(明治12年)、遊学のため兄と上京するが明治19年(1886年)に帰郷。1889年(明治22年)再上京し、東京専門学校(現早稲田大学)専修英語科に入学。
永田 泰次郎(ながた やすじろう、1867年1月26日(慶応… 永田 泰次郎(ながた やすじろう、1867年1月26日(慶応2年12月21日) - 1923年(大正12年)1月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将 正四位 勲二等 功三級に至る。 永田健助の長男として江戸に生まれる。攻玉社から慶應義塾幼稚舎に移り、大人部に移る。海軍兵学校(15期)に転じ少尉候補生として登用される。その後海軍兵学校教官となり南清各地を視察。1903年(明治36年)、常備艦隊の幕僚となり日露戦争中は東郷平八郎大将の幕僚副官となり参謀部にあり。戦争終結ののち海軍省出仕となり勲三等に叙す。出雲艦、石見艦の副長となり、第一、第二駆逐艦隊司令官として横須賀に滞在。神戸高等商船学校長に在職中に死去。
井上 通泰(いのうえ みちやす、1867年1月26日(慶応2… 井上 通泰(いのうえ みちやす、1867年1月26日(慶応2年旧暦12月21日) - 1941年(昭和16年)8月15日)は、主に明治時代に活躍した桂園派の歌人・国文学者、また眼科を専門とする医師でもあった。名は音読みで「つうたい」ともいう。幼名は松岡泰蔵。雅号に南天荘。 実弟の一人に民俗学を大成した柳田國男がいる。 1866年(慶応2年)、儒者(医者)松岡操の三男として、姫路元塩町に生れる。松岡家は播磨国の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家で、父・操は姫路藩の儒者・角田心蔵の女婿・田島某の弟として一時期田島家に籍を入れ、田島賢次の名で私塾の仁寿山黌や好古堂で修学し、のちに医者となった。
牧野 菊之助(まきの きくのすけ、慶応2年12月21日(18… 牧野 菊之助(まきの きくのすけ、慶応2年12月21日(1867年1月26日) - 昭和11年(1936年)12月24日)は、日本の判事(大審院長)。帝国弁護士会名誉会員。 東京府出身。1891年(明治24年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。1893年(明治26年)、前橋区裁判所判事となり、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京控訴院部長、大審院判事、京都地方裁判所所長、東京地方裁判所所長を歴任。1918年(大正7年)には法学博士号を取得している。1920年(大正9年)には名古屋控訴院院長となり、さらに東京控訴院長、大審院部長を歴任した。 1927年(昭和2年)に大審院長に就任した。
小野 寅吉(おの とらきち、1867年1月25日(慶應2年1… 小野 寅吉(おの とらきち、1867年1月25日(慶應2年12月10日) - 1947年〈昭和22年〉3月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、愛媛県会議長、愛媛県新居郡高津村長。 愛媛県新居郡沢津村(高津村を経て現新居浜市沢津町)で、篤農家・小野嘉平の長男として生まれる。1879年(明治12年)泉川の遠藤石山の稽崇館に入り漢学を修めた。家督を相続して農業を営む。 1893年(明治26年)高津村会議員となり、1897年(明治30年)高津村助役に就任。1908年(明治41年)高津村長となり1928年(昭和3年)まで在任。水資源確保のため吉岡泉を掘削し、西条農業学校(現・愛媛県立西条農業高等学校)の設立に尽力した。
杉野 孫七(すぎの まごしち、1867年1月24日(慶応2年… 杉野 孫七(すぎの まごしち、1867年1月24日(慶応2年12月19日) - 1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人。日露戦争での広瀬武夫とのエピソードで知られる。 1867年に三重県奄芸郡磯山村(後の河芸郡栄村大字磯山、現在の鈴鹿市磯山町)で農業・杉野孫太夫の長男として生まれる。小学校卒業後、代用教員・巡査・監守を経て1886年3月に海軍水兵を志願し、二等水兵として[要出典]浦賀屯営に入営した。「日進」「筑波」と転乗し、1891年から「松島」回航委員付としてフランスへ渡った。 日清戦争では第五号水雷艇に乗り組み、威海衛防材排除の功によって勲八等白色桐葉章および年金36円を支給される。
田島 竹之助(田嶋、たじま たけのすけ、1867年1月21日… 田島 竹之助(田嶋、たじま たけのすけ、1867年1月21日〈慶応2年12月16日〉 - 1939年〈昭和14年〉7月14日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。族籍は埼玉県士族。 武蔵国埼玉郡小針村(のち埼玉県北埼玉郡太田村大字小針、現:行田市)で、豪農・田島新之助、いよ夫妻の長男として生まれる。1879年6月、祖父・新六から家督を相続した。農業を営む。 農事改良に熱心に取組み、小針沼の浚渫事業を実施して良田に変え、1910年、耕作組合を組織して農民の意識と技術の向上に努めた。また、教育の充実を図り、設備整備、貧困家庭への教育援助を実施した。その他、青年文庫の設立、青年会の組織を行い風紀の改善に努め、家庭会を組織して会長に就任し、講習会を実施するなど太田村民の意識の向上に寄与した。
金成 太郎(かんなり たろう、アイヌ名:ペテロ、1867年1… 金成 太郎(かんなり たろう、アイヌ名:ペテロ、1867年1月20日〈慶応2年12月15日〉 - 1897年〈明治30年〉1月20日)は、北海道幌別郡幌別村(現:登別市幌別)出身のアイヌ。アイヌ学校愛隣学校の教師。アイヌで最初にプロテスタントの洗礼を受けた人物で、アイヌ初の伝道者である。 幌別アイヌの長老である金成喜蔵(アイヌ名:カンナリキ)の長男で、金成マツ(同名:イメカヌ)・ナミ(同名:ノカアンテ)姉妹の従兄で、知里幸恵・高央・真志保姉弟の従伯父である。 1877年(明治10年)5月に常盤小学校に入学し、ただ一人アイヌ生徒として教育を受けた。聖公会の宣教師のジョン・バチェラーにアイヌ語を教えていく中で、キリスト教に入信して、1885年(明治18年)にバチェラーより、アイヌとして最初の洗礼を受けた。
岡村 司(おかむら つかさ、慶応2年12月14日〈1867年… 岡村 司(おかむら つかさ、慶応2年12月14日〈1867年1月19日〉 - 1922年〈大正11年〉3月23日)は、明治・大正期の法学者・弁護士。子に数学者の岡村博がいる。 下総国猿島郡古河町(現:茨城県古河市)に古河藩家臣・岡村忠右衛門の次男として生まれた。二松学舎で漢学を学んだ後、帝国大学でフランス法を専攻する。1892年(明治25年)に大学を卒業し、陸軍経理学校教授などを経て1899年(明治32年)に京都帝国大学法学部助教授となりフランスに留学、3年後に帰国して教授になった。同じころの留学生に坪井玄道、谷本富、大村仁太郎、森岡常蔵らがいる。1900年(明治33年)には中川小十郎が設立した京都法政学校講師に就任。
高柳 広蔵(たかやなぎ ひろぞう、1867年1月18日(慶応… 高柳 広蔵(たかやなぎ ひろぞう、1867年1月18日(慶応2年12月13日) - 1947年(昭和22年)2月14日)は、日本の政治家。北海道岩見沢の村長・町長・市長を務めた。 1867年(慶応2年)1月、上野国(後の群馬県佐波郡豊受村、現伊勢崎市)に高柳家の四男として生まれる。東京法学院(現・中央大学)を卒業。その後、英語教師を経て、岩見沢に入植した。1895年(明治28年)7月、岩見沢村毛陽に入植し200町歩の開墾に従事。 1901年(明治34年)7月10日、同年6月11日に今井勇吉が辞職したため、村会の村長選挙により2代目岩見沢村長に選出され、就任。以来、39年間にわたり村長・町長・市長を務めた。
富永 孝太郎(とみなが こうたろう、1867年1月18日(慶… 富永 孝太郎(とみなが こうたろう、1867年1月18日(慶応2年12月13日)- 1945年(昭和20年)10月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 越後国頸城郡、のちの新潟県中頸城郡美守村(三和村を経て現上越市)出身。東京英和学校で学ぶ。アメリカに渡り、イリノイ大学で学ぶ。帰国後、新潟地方森林会議員、中頸城郡農会長、新潟県農友会長、美守村議、同村長、産業組合中央会監事、同新潟支会長、至誠信用組合長、県信用組合連合会会長、百三十九銀行、新潟貯蓄銀行各取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において新潟12区から立憲国民党公認で立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙では革新倶楽部公認で立候補して再選した。
永瀧 久吉(えいたき ひさきち、1867年1月17日(慶應2… 永瀧 久吉(えいたき ひさきち、1867年1月17日(慶應2年12月12日) - 1942年(昭和17年)10月20日)は、日本の外交官、実業家。上海総領事、ホノルル総領事を経て退官後、安田保善社参事や、東京建物常務取締役、満州興業社長等を歴任した。 越後国刈羽郡野田村(現柏崎市)生まれ。元野田村戸長の永瀧治助は祖父。新潟県立新潟中学校(現新潟県立新潟高等学校)を経て、1889年英吉利法律学校(現中央大学)及び専修学校(現専修大学)法律科卒業。専修学校創設者田尻稲次郎などに師事。1890年代言人試験及文官高等試験合格。1891年司法省入省、東京地方裁判所司法官試補。同年外務省入省、取調局配属。 1893年釜山領事官補。
大幸 勇吉(おおさか ゆうきち、1867年1月17日(慶応2… 大幸 勇吉(おおさか ゆうきち、1867年1月17日(慶応2年12月12日)- 1950年(昭和25年)9月9日)は、日本の化学者。京都帝国大学名誉教授。 物理化学の基礎を池田菊苗と共に生み出したことで知られている。 士族であった雨夜平八の次男として加賀に生まれる。東京帝国大学に入学し櫻井錠二から理論化学を学ぶ。1892年(明治25年)に卒業後、第五高等学校を経て東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)にて教鞭を執った。 1899年(明治32年)には親交のあった池田と共にドイツに研究のため留学した。ライプツィヒ大学に入学し、同大学の教授であったヴィルヘルム・オストヴァルトから触媒作用研究に携わり、後に転校しゲッティンゲン大学にてヴァルター・ネルンストから電気化学を学ぶ。
勝本 勘三郎(かつもと かんざぶろう、1867年1月17日(… 勝本 勘三郎(かつもと かんざぶろう、1867年1月17日(慶応2年12月12日) - 1923年(大正12年)12月17日)は、日本の法学者(刑法)・検察官・弁護士。京都帝国大学などを歴任。財団法人立命館初代協議員。 フランス刑法が通説的地位を支配していた旧刑法時代に、ドイツにおける旧派と新派の学派争いを日本に紹介した人物であり、基本的立場は、新派刑法理論に立つが、その犯罪理論は、不能犯において客観説をとるなどむしろ主観主義的色彩の薄いものであった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
伊丹 弥太郎(伊丹 彌太郎、いたみ やたろう、慶応2年12月… 伊丹 弥太郎(伊丹 彌太郎、いたみ やたろう、慶応2年12月12日(1867年1月17日) - 1933年(昭和8年)10月3日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の実業家。 現在の佐賀県佐賀市出身。父の事業を継いで佐賀の栄銀行(佐賀銀行の前身の一つ)頭取を務め、同行を中心に多数の企業に関係して「佐賀財閥」と呼ばれる地方財閥を築いた。また佐賀県下有数の地主でもあり、佐賀県多額納税者として貴族院議員を1期7年務めている。 佐賀県外では電気事業や鉄道事業にかかわり、九州電灯鉄道・東邦電力社長、九州鉄道(現・西日本鉄道)初代社長を歴任した。 伊丹弥太郎は慶応2年12月12日(1867年1月17日)、佐賀県士族伊丹文右衛門の長男として生まれた。
中島 駒次(なかじま こまじ、1867年1月17日(慶応2年… 中島 駒次(なかじま こまじ、1867年1月17日(慶応2年12月12日)- 1950年(昭和25年)1月16日)は、日本の篤農家。明治期の豊橋地域において温室栽培を始めた人物。 三河国渥美郡野田村の農家中島市兵衛の次男として生を受ける。当時の義務教育である小学校4年を修業したのち、1880年(明治13年)からは夜学に5年間通いつつ、家業である農業を手伝う。稲作や麦作にかわる現金収入となる作物の研究を行い、1887年(明治20年)ごろにはタマネギや桃といった園芸作物の栽培、さらには温室栽培を試みるようになった。 1901年(明治34年)には自宅の風呂場横に5坪のガラス温室を新設し、山椒の栽培を始める。
関田 英穂(せきだ ?、1867年(慶應3年)1月17日 -… 関田 英穂(せきだ ?、1867年(慶應3年)1月17日 - 1943年(昭和19年)10月27日)は、高知県長岡郡大篠村大そね254番屋敷に生まれた高知県人。大篠村村長やその他地方自治に尽力した。 土佐国長岡郡大篠村大そね関部落に生まれる。(現・南国市大そね)1867年(慶応3年)1月17日に、関田為三郎と登良の長男として生まれる。初名は駒太郎。明治27年2月15日英穂に改名願。幼少のころは、琴平神社宮地氏のもとで漢籍を学んだ。性格は温厚篤実であり、郷党信望していた。 明治38年、大篠村助役になった後、続けて大篠村村長に推薦されて4期にわたり村長を勤めた。歴代村長には、溝淵静閑や岡上忠兵衛、島崎清美や関田為平などがいる。
戸野 周二郎(との しゅうじろう、1867年1月15日(慶応… 戸野 周二郎(との しゅうじろう、1867年1月15日(慶応2年12月10日)– 1955年(昭和30年))は、日本の教育者。三重県四日市市長。 丹後田辺藩儒戸野周太郎の二男として舞鶴に生まれる。京都府師範学校を卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)を経て、1891年(明治24年)に東京高等師範学校文科を卒業。青森県師範学校校長、長野県視学、東京高等師範学校を歴任した。1902年(明治35年)、湖北師範学堂に総教習・学務顧問として招かれ、清に渡った。1904年(明治37年)に帰国した後は東京市教育課長に任じられた。1914年(大正3年)からは下谷区長を務め、1919年(大正8年)には東京市助役に就任した。
岡本 廣太郎(おかもと こうたろう、岡本広太郎、1867年1… 岡本 廣太郎(おかもと こうたろう、岡本広太郎、1867年1月13日(慶応2年12月8日) - 1923年(大正12年)3月29日)は、三河国碧海郡刈谷(現愛知県刈谷市)出身の酒造家・刈谷町長。 慶応2年12月8日(1867年1月13日)、三河国碧海郡刈谷(現愛知県刈谷市)に生まれた。父は岡本瀧三郎。岡本家は庄屋を務めていた家であり、酒造業を生業としていた。 1911年(明治44年)9月から1912年(大正元年)7月まで刈谷町会議員を務めた。1915年(大正4年)6月には刈谷町長に推されて就任した。1919年(大正8年)9月には5代目藤井清七が岡本の後任の刈谷町長に就任したが、1921年(大正10年)7月には岡本が再び刈谷町長に就任した。
石井 研二(いしい けんじ、1867年1月12日(慶応2年1… 石井 研二(いしい けんじ、1867年1月12日(慶応2年12月7日) - 1936年(昭和11年)4月3日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 伊豆国賀茂郡、のちの静岡県賀茂郡中大見村(田方郡中大見村、中伊豆町を経て現伊豆市)に生まれる。慶應義塾に学ぶ。韮山村会議員、君沢・田方二郡連合会議員、静岡県会議員、同参事委員を歴任した。財界では、三島乾燥、沼津委託倉庫各社長、東海起業取締役を務めた。 1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙では静岡県第10区から憲政会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
松尾 広吉(松尾 廣吉、まつお こうきち / ひろきち、18… 松尾 広吉(松尾 廣吉、まつお こうきち / ひろきち、1867年1月8日〈慶応2年12月3日〉- 1937年〈昭和12年〉1月16日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、佐賀県西松浦郡伊万里町長。 肥前国松浦郡伊万里町(現佐賀県伊万里市伊万里町)で、素封家・松尾貞吉の長男として生まれる。漢学を修める。 1904年(明治37年)、陸海軍の諸機械器具製造を行う松尾鉄工所を設立。家業をたばこ専売のほかに郡内の「煙草元売捌所」を開業して拡大。その他、伊万里銀行監査役、伊万里鉄道監査役、魚市 (名) 社長、東洋油脂工業取締役などを務めた。 政界では、伊万里町会議員、西松浦郡会議員などを務め、1911年(明治44年)9月29日、貴族院多額納税者議員に就任し、一期務めて1918年(大正7年)9月28日まで在任した。
床次 竹二郎(とこなみ たけじろう、1867年1月6日〈慶応… 床次 竹二郎(とこなみ たけじろう、1867年1月6日〈慶応2年12月1日〉- 1935年〈昭和10年〉9月8日)は、日本の官僚、政治家(衆議院議員)。内務大臣、鉄道大臣、逓信大臣を歴任し、政友本党総裁も務めた。鹿児島県士族。「床次竹次郎」は誤りである。 慶応2年12月1日(1867年1月6日)、薩摩藩士の床次正精・友子の長男として、現在の鹿児島県鹿児島市新照院町に生まれる。幼名は竹熊。1872年(明治5年)に父の正精は上京して検事を務めていたが、6歳の竹二郎を含む家族は薩摩に残った。1877年(明治10年)に勃発した西南戦争では西郷死後に大久保利通の留守宅(空き家)を友人と叩き壊した。戦争で家や学校が焼かれたため、父の招きにより上京し、以後東京で教育を受けることとなった。
松実 喜代太(まつみ きよた、1867年1月3日(慶応2年1… 松実 喜代太(まつみ きよた、1867年1月3日(慶応2年11月28日) - 1953年(昭和28年)5月2日)は、日本の政治家、地主。衆議院議員(当選5回、立憲政友会所属)、新十津川村長。参議院議員橋本聖子の大叔父にあたる。 大和国吉野郡南十津川村(現在の奈良県吉野郡十津川村)出身。奈良県士族・松実漏器の長男。 1884年(明治17年)に上京し、成城学校、慶應義塾で学ぶ。東京時代には三田の下宿で血脇守之助、矢野文雄、藤田茂吉らと政談を闘わせた。1890年(明治23年)に横浜商業学校を卒業した。その前年に十津川大水害があったのをきっかけに、十津川村民とともに北海道樺戸郡に移住し、新十津川村を開いた。
大槻 弌(おおつき はじめ、1867年1月(慶応2年12月)… 大槻 弌(おおつき はじめ、1867年1月(慶応2年12月) - 1942年2月15日)は、日本の薬学者。正六位勲六等。薬学博士。大阪薬学専門学校長。長女・芳は法医学者古畑種基の妻。 大阪府人・大槻季夫の長男。1894年7月、帝国大学医科大学薬学科卒業、薬学士の称号を得た。更に大学院に学んだ。1915年、博士会の推薦により薬学博士の学位を授けられた。 1921年、家督を相続した。趣味は旅行。宗教は神道。大阪府在籍で、住所は堺宿院町。1950年の時点で故人。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
岡本銺太郎(おかもと そうたろう、1867年 - 1918年… 岡本銺太郎(おかもと そうたろう、1867年 - 1918年)は、日本の建築家である。清水組(現:清水建設)の第4代技師長をつとめ、澁澤倉庫や清水組本店などを設計した。 慶応3年(1867年)、江戸で誕生。明治23年(1890年)に東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、翌年より清水組の技師となる。岡本の前妻は技師長渡辺譲の妹であり、その縁故での入社と考えられている。明治33年(1900年)より1年間洋行し、明治34年(1901年)より技師長となる。大正2年(1913年)に田辺淳吉を後任とするも、その後2年ほど監事として社に留まる。清水組が合資会社になる直前に退店。大正7年(1918年)没。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。
加藤 与之吉(かとう よのきち、1867年 - 1933年)… 加藤 与之吉(かとう よのきち、1867年 - 1933年)は、日本の土木技術者、都市計画家。鹿嶺という雅号をもつ。 1867年、武蔵国(のち入間県高麗郡上鹿山村、現在の埼玉県日高市大字上鹿山)に生まれる。1894年、帝国大学工科大学土木工学科卒業。1895年、新潟県土木課に勤務、1897年には土木課長となり、道路、河川改修工事にあたる。加藤自身が農村出身であることから、地元民を良く理解してその任を務め、尊敬を受けたという。県技師時代、新潟市から1901年10月、内務省技師の土田鉄雄とともに上水道布設調査・設計を委託されている。 日露戦争後の1907年に、南満州鉄道の付属地長春の都市建設にかかる際総裁後藤新平は、担当の人選に際して土木行政・都市計画の担当については高潔な人材を求めた。
可児 悌二郎(かに ていじろう、1867年 – 1934年)… 可児 悌二郎(かに ていじろう、1867年 – 1934年)は、日本の獣医師、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は獣医中将。 福井県遠敷郡雲浜村(現・小浜市)に生まれる。1873年に上京し、旧小浜藩主の酒井家邸内に居住した。幼少期より馬を好み、厩で馬を見ていたという。 東京府立中学校で、高田早苗や坪内逍遥から教えを受ける。1892年に東京農林学校(現・東京大学農学部)獣医医学科を卒業する。牧畜への興味から入学後に獣医学科に移ったという。卒業後はそのまま研究生として残り同校の講師となる。 その後神奈川県庁・和歌山県庁に勤務して、牧畜に関する講演活動に従事した。1894年、同郷でもある和田維四郎の紹介で陸軍3等獣医となる。
佐々木 勇太郎(ささき ゆうたろう、1867年(慶応3年) … 佐々木 勇太郎(ささき ゆうたろう、1867年(慶応3年) - 1944年(昭和19年))は、明治期の鉄道実業家。 豊前国(現・大分県)中津生まれ。藩校進脩館、中津市学校を経たのち慶應義塾を経て郷里中津に帰る。山陽鉄道、豊州鉄道を経たのち日本紡績会社社長となる。その後南海鉄道(現・南海電気鉄道)に転じ副支配人となる。のちに欧米を視察し南海鉄道に改良を加える。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
鈴木 錦泉(すずき きんせん、1867年‐1945年)は、明… 鈴木 錦泉(すずき きんせん、1867年‐1945年)は、明治から昭和にかけての挿絵画家、口絵画家。 1867年に和歌山市に生まれる。本名は為之丞。または尚俊とも号している。父は和歌山藩士であったが、明治維新によって職を失い、その後に始めた事業にもことごとく失敗、錦泉は和歌山にいる頃から筑紫翠雲に師事、南画を習い、雲溪という号をもっていた。その後、錦泉は大阪に出て絵を描こうとしたが、大阪という商業都市では南画は受け入れられなかった。そこで、生活のため、独学で浮世絵を学び、夥しい数に上る講談本の口絵や『神戸新聞』の挿絵を描くようになった。勤勉な性格で有職故実を習得、間違いのない時代考証に基づいた木版口絵を描くことに努めたほか、文筆面においても達筆であった。
比嘉 保彦(ひが やすひこ、1867年 - 1937年12月… 比嘉 保彦(ひが やすひこ、1867年 - 1937年12月11日)は沖縄県出身の日本メソジスト教会所属の牧師である。 読谷山尋常高等学校で小学校の校長をしていたが、3人の子供を2年間のうちに亡くす。自分の子供の連続した死を、ユタに不運の解明と将来を占わせていたが解決はなかった。 1903年に大阪で開催された内国勧業博覧会に行き、キリスト教伝道館に入り、キリスト教の説教を聴いて感銘を受けて、地元沖縄でも教会に通うようになった。那覇メソジスト教会の立て看板に書かれていたマタイ福音書11章28節に心を引きつけられ、クリスチャン医師の勧めで牧師を訪ねて以来、キリスト教を受け入れ1902年に洗礼を受けた。
浅羽 佐喜太郎(あさば さきたろう、1867年(慶応3年3月… 浅羽 佐喜太郎(あさば さきたろう、1867年(慶応3年3月) - 1910年(明治43年)9月25日)は、日本の医師,篤志家。ベトナムの東遊運動の指導者だったファン・ボイ・チャウを支援した事で有名である。 1867年(慶応3年3月)、遠江国山名郡梅山村(後の磐田郡東浅羽村梅山、現在の静岡県袋井市梅山)にて生まれた。佐喜太郎の父・義樹は神社の神職だったが、戊辰戦争で官軍に加わった事をきっかけに軍人に転向した人物だった。佐喜太郎は東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)卒業後、神奈川県小田原市国府津町と故郷の東浅羽村にて医院を開業した。 生来、困っている人を見ると助けずにはいられない性分で、貧しい患者から決して金銭を取ろうとせず、むしろ金銭を施した程であったと伝わっている。
佐藤東華(さとう とうか、1867年(慶應3年)- 1923… 佐藤東華(さとう とうか、1867年(慶應3年)- 1923年(大正12年)12月16日)は、明治・大正時代のジャーナリスト。本名は佐藤敬吉(さとうけいきち)。 猊鼻渓(岩手県一関市東山町)の観光地開発に携わった佐藤猊巌(さとうげいがん)の実弟。1916年(大正5年)「磐井(いわい)の名勝」を出版、猊鼻渓の項あり。仙臺風藻(せんだいふうそう)1912年(大正元年)9月27日出版によると、慶應3年 丁卯 生まれで、中陸新聞、仙臺新聞、秋田魁新報などの記者として従事中と記載がある。後に北海道に移住した。また、「胆振公論」(いぶりこうろん)という雑誌を発行していた。生前に、3冊の書籍を出版している。大正12年12月16日に没す。
磯千鳥 重五郎(いそちどり じゅうごろう、1867年(慶応2… 磯千鳥 重五郎(いそちどり じゅうごろう、1867年(慶応2年12月)- 1922年(大正11年)9月)は、明治時代の大相撲力士。本名笹島 重太郎。最高位十両5枚目。年寄9代玉ノ井。 富山県砺波郡東石黒村(のち西砺波郡東石黒村→東砺波郡福野町、現南砺市)生まれ。玉ノ井部屋に入門し、1889年1月磯千鳥の四股名で序ノ口に就く。1895年幕下に上がる。1900年に師匠玉ノ井が亡くなり、1902年1月より二枚鑑札となり玉ノ井に改名。1902年5月新十両。十両在位3場所で幕下に陥落し、最終的には1909年6月場所で三段目にまで陥落して引退し、年寄専務になる。 1922年9月死去、55歳没。
富田 仙助(冨田、とみた せんすけ、1855年12月31日(… 富田 仙助(冨田、とみた せんすけ、1855年12月31日(安政2年11月23日) - 1913年(大正2年)9月27日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 但馬国城崎郡豊岡内小井田町(のち兵庫県城崎郡豊岡町、現・豊岡市)に生まれる。漢学を学ぶ。酒造業と貿易業を営む。豊岡町戸長、豊岡町長を経て、城崎郡会議員となる。また、日本赤十字社終身社員に推薦された。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において兵庫9区から進歩党公認で立候補して初当選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党から出馬して再選を果たした。1902年の第7回衆議院議員総選挙では兵庫県郡部で憲政本党から立候補したが落選した。
稲田 邦植(いなだ くにたね、1855年12月26日(安政2… 稲田 邦植(いなだ くにたね、1855年12月26日(安政2年11月18日) - 1931年(昭和6年)5月28日)は稲田家16代当主。稲田家は代々徳島藩の筆頭家老であり、かつ淡路国洲本城主(現在の兵庫県洲本市)だった。維新後は男爵。 安政2年(1855年)11月18日、14代当主稲田植乗の長男として生まれた。母は禎寿院。幼名は小八郎。 父が早く亡くなり、15代当主稲田植誠の養子となった。1865年(慶応元年)12月、11歳で家督を継ぎ、九郎兵衛を名乗った。徳島藩は佐幕であったのに対して、尊皇攘夷派であったため早々に新政府軍に帰順した。1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いでは日の御門を守衛し、摂津国西宮への出兵や高松藩の征討、有栖川宮熾仁親王の護衛などの任を務めた。
福留 清四郎(ふくとめ せいしろう、1855年12月26日(… 福留 清四郎(ふくとめ せいしろう、1855年12月26日(安政2年11月18日) - 1921年(大正10年)2月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。勲等は勲四等。 伯耆国生まれ(現・鳥取県西伯郡大山町)。農業を営む。1895年(明治28年)2月から同年5月まで、同年6月8日から1897年(明治30年)4月まで、1899年(明治32年)9月21日から1903年(明治36年)9月20日まで、同月21日から1904年(明治37年)3月3日までの4期に渡って帝国党所属鳥取県会議員を務めた。 同年の第9回衆議院議員総選挙において鳥取県郡部から帝国党公認で立候補して初当選。続く1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙では大同倶楽部公認で立候補して再選。
田中 穂積(たなか ほづみ、1855年12月22日(安政2年… 田中 穂積(たなか ほづみ、1855年12月22日(安政2年 旧暦11月14日) - 1904年(明治37年)12月31日)は、現在の山口県岩国市出身の作曲家、海軍軍人。 代表作である『美しき天然』(1902年(明治35年))は日本初のワルツとされている。大正、昭和期にはサーカスやチンドン屋などが客の呼び込みで演奏する曲として全国に広まった。同曲は長崎県立佐世保北高等学校と長崎県立佐世保南高等学校の前身の1つである私立佐世保女学校(佐世保市立成徳高等女学校)で田中が音楽指導する際に、教材として作曲したものと伝えられている。『美しき天然』の歌碑が佐世保市の烏帽子岳に、田中穂積の銅像が佐世保市の展海峰に建立されており、佐世保市民の愛唱歌として親しまれている。
佐々木 政吉(ささき まさきち、安政2年11月11日(185… 佐々木 政吉(ささき まさきち、安政2年11月11日(1855年12月19日) - 昭和14年(1939年7月11日))は、日本の医学者。 1855年(安政2年)、江戸・本所で生まれた。1865年(慶応元年)、蘭方医・佐々木東洋の養嗣子となった。 1871年、大学東校予備門に入学。1879年に大学東校(現・東京大学医科)を卒業。1880年、内科学研鑽のために自費でドイツに留学。 1884年に帰国し、大学東校講師に就いた。1885年、33歳で帝国大学医科教授に就任。これは日本人として初めての大学東校教授であった。1888年、医学博士号を取得。これは日本人として第2号であった。1891年4月、コッホのツベルクリン療法調査研究のためドイツに出張。
鈴木 仙太郎(すずき せんたろう、1855年12月18日(安… 鈴木 仙太郎(すずき せんたろう、1855年12月18日(安政2年11月10日) - 1936年(昭和11年)10月28日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲改進党→憲政本党→立憲国民党)、愛知県会議員などを務めた。 尾張国海東郡佐屋村(現在の愛知県愛西市)出身。1883年(明治16年)、代言人となる。1894年(明治27年)、第4回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。1903年(明治36年)、愛知県会議員に選ばれ、議長を務めた。その後、1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙で再選された。
桐原 捨三(きりはら すてぞう、1855年12月17日(安政… 桐原 捨三(きりはら すてぞう、1855年12月17日(安政2年11月9日) - 1926年(大正15年)8月25日)は、明治期の教育者、ジャーナリスト。大阪商業講習所所長。旧姓・河野(こうの)。桐原式と呼ばれる新聞販売法で業績を残した。 武蔵国足立郡糠田村(現・埼玉県鴻巣市)に河野家の四男として生まれ、桐原家に養子に入る。浦和中学に学び、1874年(明治7年)慶應義塾に入り、1878年(明治11年)の卒業後に駅逓局に入る。 1880年(明治13年)三菱商業学校を卒業し、福澤諭吉の紹介で大阪商業会議所の五代友厚に聘せられ大阪商業講習所所長となる。府立になると共に大阪高等商業学校に改編。次いで大阪新報に入り、神戸新報、改進新聞を経る。
平田 箴(ひらた ただし、1855年12月17日(安政2年1… 平田 箴(ひらた ただし、1855年12月17日(安政2年11月9日)- 1925年(大正14年)8月15日)は、明治から大正期の弁護士、政治家。衆議院議員、岩手県会議長。 陸奥国磐井郡、のちの岩手県西磐井郡一関町(現一関市)で、一関藩士の家に生まれた。藩校教成館で文武の課程を修めた。 警察官を志願し、盛岡警察署(現盛岡東警察署)詰巡査となる。その後退職して自由党に加わり、代言人(弁護士)の業務に従事。その清潔公平な働きで信頼を得て、村会議員、一関町会議員に選出された。その後、岩手県会議員となり、同副議長、同議長を務めた。その他、所得税調査委員、郡徴兵参事員、破産管財人なども務めた。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(岩手県第5区、自由党)で初当選し、第4回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
西郷 吉義(さいごう よしみち、1855年12月15日(安政… 西郷 吉義(さいごう よしみち、1855年12月15日(安政2年11月7日) - 1927年(昭和2年)9月3日)は、明治期から大正期の医師、医学博士、陸軍軍医学校長、宮内省侍医・宮中顧問官を歴任する。正三位勲一等功四級。 信濃国松本城下に松本藩士・西郷眞諒の次男として生まれ幼名を早苗と称し、後に叔父の西郷元善の養子となる。祖先は松平康長に仕えた三河西郷氏。1882年(明治15年)東京大学医学部を卒業し、同期には青山胤通・猪子止戈之助・田代正等がいる。 卒業後、医学部准助教授(内科学)となった後、日本陸軍軍医となり陸軍一等軍医に任官し軍医学校教官(内科学担当)となった。1896年(明治29年)12月16日『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』編纂委員に任命され、また陸軍衛生会議議員に選ばれた。