土谷 全次(つちや ぜんじ、安政2年5月10日(1855年6… 土谷 全次(つちや ぜんじ、安政2年5月10日(1855年6月23日) - 昭和10年(1935年)4月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。高崎市長。医師。 出羽国平鹿郡睦合村(現在の秋田県横手市)出身。秋田医学校を卒業した。高崎市に医院を開業し、高崎市医会会長を務めた。高崎市会議員、同参事会員、群馬郡会議員、同参事会員、県会議員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、1921年(大正10年)から高崎市長を務めた。
高津 雅雄(こうつ まさお、1855年6月19日(安政2年5… 高津 雅雄(こうつ まさお、1855年6月19日(安政2年5月6日) - 1933年(昭和8年)3月7日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 淡路国津名郡河上村(のち兵庫県津名郡鮎原村→五色町、現・洲本市)の大地主の家に生まれる。徳島藩立郷学校に入り、漢籍を学び、その後、上京し、英語と漢学を修める。小学校教員、学校世話掛、河上村戸長、学区取締、鮎原村長、同村会議員、津名郡連合会議員、同郡会議員、兵庫県会議員、同常置委員、徴兵参事員となる。また、北浜銀行取締役となり、ほか、由良町長、津名郡農会長、同教育会長、愛国銀行取締役頭取を務めた。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において兵庫10区から自由党公認で立候補して初当選。
横尾 輝吉(よこお てるきち、安政2年5月4日(1855年6… 横尾 輝吉(よこお てるきち、安政2年5月4日(1855年6月17日) - 大正8年(1919年)5月21日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。 下野国都賀郡鹿沼宿(現在の栃木県鹿沼市)に角田善平の子として生まれ、粟野村の先代横尾輝吉の養子となった。自由民権運動が活発になると、都賀演説会を興して会長となった。また東京専門学校(現在の早稲田大学)・立教学校(現在の立教大学)で学び、島田三郎の紹介で大隈重信の知遇を得、立憲改進党創設にあたって総務委員を務めた。1882年(明治15年)より栃木県会議員を務め、1892年(明治25年)には副議長に選出された。その後、1894年(明治27年)と1896年(明治29年)の2回、議長に選出された。
池上 幸操(いけがみ ゆきこと、1855年6月16日〈安政2… 池上 幸操(いけがみ ゆきこと、1855年6月16日〈安政2年5月3日〉 - 1926年〈大正15年〉8月14日)は、明治・大正時代の神奈川県会議員、自由民権運動家。武蔵国橘樹郡池上新田村(現在の神奈川県川崎市川崎区池上新町)出身。池上新田を開拓した池上幸豊の子孫。 1855年(安政2年)、武蔵国橘樹郡池上新田村の名主・池上家に生まれる。祖先の池上幸豊は大師河原村の名主だったが、宝暦年間に池上新田を開拓すると姉の子を養子にして大師河原村の名主を継がせ、自らは池上新田村の名主となった。 15歳のときに池上新田大島村新組名主役となる。神奈川県では1872年(明治5年)に名主・年寄に代えて戸長・副戸長を置くこととなり、17歳で戸長になる。
小里 頼永(おり よりなが、安政2年5月1日(1855年6月… 小里 頼永(おり よりなが、安政2年5月1日(1855年6月14日) - 昭和16年(1941年)7月3日)は、長野県松本市出身の政治家。衆議院議員(自由党)、北海道空知支庁長、初代松本市長。号は雪洲、市隠。 松本藩士小里新五兵衛頼命の長男として江戸呉服橋の松本藩邸(松平丹波守の上屋敷。現在跡地は東京駅構内)で生まれる。9歳の時に松本に帰り、藩校崇教館で漢学を学んだ。廃藩置県後は開智学校英学課に学び、1875年(明治8年)8月30日、筑摩県師範学校を卒業。卒業後は筑摩県、のちに山梨県で訓導(小学校教員)を務めた。1878年(明治11年)3月27日、教職を辞する。自由民権運動が盛んになると、1879年(明治12年)に「要新聞」を発刊して自由民権を説いた。
丸山 芳介(まるやま よしすけ、1855年6月12日(安政2… 丸山 芳介(まるやま よしすけ、1855年6月12日(安政2年4月28日) - 1922年(大正11年)10月11日)は、日本の武士(会津藩士)、実業家、政治家である。戊辰戦争を戦ったのち、土木請負業を営む実業家となり、姫路において各種事業に関わる。姫路市商業会会長、衆議院議員一期。 会津藩藩士の丸山家に次男として生まれる。父は丸山玄斎。日新館に学び、会津戦争では会津若松城に籠城して戦った。池上三郎や南清は戦友である。戦後に上京し南摩綱紀門下となったのち、北海道で開拓に従事する。ここで島田組幹部大三輪長兵衛に知られ、その帰郷に従って同社に入社したものの、ほどなく同社は倒産し、苦渋の時代が続いた。
星 松三郎(ほし まつさぶろう、1855年6月11日(安政2… 星 松三郎(ほし まつさぶろう、1855年6月11日(安政2年4月27日)- 1906年(明治39年)4月18日)は、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 宮城県登米郡、のちの佐沼町(迫町を経て現登米市迫町佐沼)で、商人・星松治郎の第七子(二男)として生まれた。村の儒者・中村竹徑に師事し、さらに英学を修めた。1875年(明治8年)から水害救民救恤係、勧業世話役、衛生委員、学校世話役などを務めた。 その後上京して商業を営むが不景気となり、1884年(明治17年)から1886年(明治19年)にかけて全国の民情視察を2回実施して、その報告書を作成して頒布した。1886年10月には欧米の政治経済の視察旅行を行った。
天野 藤三(あまの とうぞう、1855年6月7日(安政2年4… 天野 藤三(あまの とうぞう、1855年6月7日(安政2年4月23日) - 1928年(昭和3年)3月8日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。旧姓は井上。 八王子宿(現八王子市)の井上太郎兵衛の二男として生まれ、18歳の時に神奈川県津久井郡鳥屋村(津久井町を経て現相模原市緑区)の名主・天野三郎助の養子となる。上京し尾崎行雄と共に勉学に励んだのち、1885年(明治18年)養父の跡を継ぎ鳥屋村ほか2か村組合戸長となった。1889年(明治22年)初代鳥屋村長に就任し、治山治水に尽力した。1891年(明治24年)神奈川県会議員、1903年(明治36年)津久井郡会議員、同議長を歴任した。
中村 精男(なかむら きよお、1855年6月2日〈安政2年4… 中村 精男(なかむら きよお、1855年6月2日〈安政2年4月18日〉- 1930年〈昭和5年〉1月3日)は、明治・大正期の気象学者。第3代中央気象台台長。気象事業の整備や科学的な気象学の育成に尽力。日本の理科教育にも貢献した。 長州藩士の中村粂吉の長男として長門国萩で生まれる。少年の頃松下村塾に学ぶ。1871年(明治4年)に上京し、大学南校を経て1879年(明治12年)には東京大学物理学科を卒業、内務省地理局(国土地理院の前身の一つ)測量課に入る。 1886年(明治19年)から1889年(明治22年)にドイツに留学。ベルリン大学、ハンブルク海洋気象台で気象学を修める。1890年(明治23年)に中央気象台技師となる。
頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日(1855年5… 頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日(1855年5月27日) - 昭和19年(1944年)10月5日、幼名:乙次郎)は、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥でもある。号は立雲。
大石 正巳(おおいし まさみ、正しくは「まさき」、安政2年4… 大石 正巳(おおいし まさみ、正しくは「まさき」、安政2年4月11日(1855年5月26日)- 1935年(昭和10年)7月12日)は、日本の政治家。衆議院議員・農商務大臣などを務めた。土佐国(高知県)出身。 土佐国長岡郡池村東孕(高知県長岡郡三里村を経て現高知市大石谷)で、高知藩士・大石良則の二男として生まれる。戊辰戦争では迅衝隊鼓手として従軍し会津戦争に参戦した。 1874年(明治7年)に板垣退助の立志社に参加し、自由民権運動に従事。1881年(明治14年)自由党幹事。三菱商業学校(明治義塾)卒業。1882年(明治15年)板垣の洋行に反対して離党。1887年(明治20年)には後藤象二郎の大同団結運動に参加。
阿部 勇治(あべ ゆうじ、1855年5月26日(安政2年4月… 阿部 勇治(あべ ゆうじ、1855年5月26日(安政2年4月11日)- 1919年(大正8年)8月29日)は、明治から大正期の地主、政治家。衆議院議員。 陸奥国稗貫郡、のちの岩手県稗貫郡宮野目村(現花巻市)で、農業・大地主の家に生まれた。 1887年(明治20年)4月、村会議員に選出された。以後、岩手県会議員、稗貫郡会議員、同参事会員なども務めた。1901年(明治34年)10月、日本赤十字社特別社員となる。 1904年(明治37年)3月の第9回衆議院議員総選挙で岩手県郡部区から帝国党所属で出馬して初当選。その後、第11回総選挙(中央倶楽部所属)では落選したが、1915年(大正4年)3月の第12回総選挙で立憲同志会から出馬して再選され、その後憲政会に所属して衆議院議員に通算2期在任した。
福岡 精一(ふくおか せいいち、安政2年4月8日(1855年… 福岡 精一(ふくおか せいいち、安政2年4月8日(1855年5月23日) - 昭和17年(1942年)4月9日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 三河国加茂郡殿貝津村(現在の愛知県豊田市)に福岡新蔵の二男として生まれる。幼時は僧籍にあり、大沼枕山のもとで漢学を学び、旃檀林で原坦山について哲学を学んだ。その後僧職を捨て、法学を学んで弁護士となり、岡崎町に事務所を開いた。 1881年(明治14年)に自由党が結成されるとこれに加入し、以後自由党系政党の支部幹事を務め、愛知県会議員にも選出された。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第10回まで4回連続当選を果たした。
有村 連(ありむら むらじ、1855年5月23日(安政2年4… 有村 連(ありむら むらじ、1855年5月23日(安政2年4月8日)- 1931年(昭和6年)8月29日)は、明治から大正期の養蚕家・政治家。衆議院議員。 大隅国桑原郡粟野郷木場村(鹿児島県粟野郷木場村、栗野村、姶良郡粟野村、栗野町を経て現湧水町)で、蚕業を営む有村家に生まれた。漢学を修めた。薩摩藩兵小頭を務めた。私学校で学び西郷隆盛の薫陶を受け、西南戦争に従軍。 1885年(明治18年)粟野郷戸長に就任。鹿児島県会議員に選出され3期在任。その他、鹿児島県郷教教授、学務委員、鹿児島授産学校長などを務めた。 河島醇の辞職に伴い、1897年(明治30年)7月に実施された第4回衆議院議員総選挙鹿児島県第5区補欠選挙で初当選し、その後、第6回総選挙まで再選され、最後は立憲政友会に所属し、衆議院議員に連続3期在任した。
櫻井ちか(さくらい ちか、1855年5月19日(安政2年4月… 櫻井ちか(さくらい ちか、1855年5月19日(安政2年4月4日) - 1928年(昭和3年)12月19日)は、日本の教育者。櫻井女学校、櫻井女塾を設立して、日本における初期の女子教育を担った。なお、自著でちか子との表記も見られる。 1855年(安政2年)東京日本橋で生まれる。1872年(明治5年)海軍士官の櫻井昭悳(さくらいあきのり)と結婚。神田の芳英社、横浜の共立女学校で英語を学ぶ。洗礼を受け、キリスト教徒となる。その後、明悳もちかの影響を受けてキリスト教徒となる。 1876年(明治9年)日本人による初めてのキリスト教主義の女子学校として、桜井女学校を設立する。1879年(明治12年)同校は経営難に陥る一方で、ちかと昭悳夫婦は函館に赴任することとなった。
久保田 鼎(くぼた かなえ、安政2年3月27日(1855年5… 久保田 鼎(くぼた かなえ、安政2年3月27日(1855年5月13日) - 1940年1月10日)は近代日本の官僚。奈良および京都帝室博物館の館長、東京美術学校校長などを務めた。号は理道。 中津藩士久保田安兵衛の次男として江戸小石川で生まれ、理三郎と名付けられた。幼少期に両親を亡くした後、臼杵藩の江戸藩邸にいた叔父の白石照山に引き取られて漢書の句読などを受けている。明治維新の時期は収入の確保に苦労したが、1873年に東京府桜川学校で授業生の職を得て、さらに半年後には文部省の写字生となった。筆生や権少禄を経て1877年1月に九等属、同年12月に八等属へと昇進を重ねた。七等属に昇進した1880年には文部少輔の九鬼隆一の中国地方巡視に随行し、以後九鬼と接触する機会が増えた。
永野 万蔵(ながの まんぞう、1855年5月13日(安政2年… 永野 万蔵(ながの まんぞう、1855年5月13日(安政2年3月27日) - 1924年(大正13年)5月21日)は、カナダに移住したことが記録されている最初の日本人。 1855年(安政2年)、肥前国高来郡口之津村(現・長崎県南島原市)に生まれる。少年時には石炭運搬船で働いていたとも、大工の見習いをしていたともいう。のちにイギリス船に乗り組むようになった。 1877年(明治10年)5月、ブリティッシュコロンビア州ニューウェストミンスターで船を降り、カナダに入国。フレーザー川で鮭漁の漁師として働き、のちにはバンクーバーで木材を船に積み込む仕事をはじめた。1884年に日本へ一旦帰国したのち、アメリカ合衆国シアトルに渡ってタバコ屋と食堂を始めた。
墨 宇吉(すみ うきち、1855年5月7日(安政2年3月21… 墨 宇吉(すみ うきち、1855年5月7日(安政2年3月21日) - 1938年(昭和13年)5月14日)は、尾張国葉栗郡玉ノ井村(現・愛知県一宮市)出身の実業家。 幼少期は実兄とともに家業である艶屋(織物の艶出し業)を手伝う。1888年(明治21年)分家し、その翌年起、1891年(明治24年)には小信に居を移し、次第に業務を拡大した。 1911年(明治44年)に、墨合名会社を設立。 1924年(大正13年)、艶金興業を設立。 出生地である一宮市木曽川町玉ノ井にある念敬寺には、1963年(昭和38年)に銅像「墨宇吉像」が建立されている。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
栗原 亮一(くりはら りよういち、1855年5月6日(安政2… 栗原 亮一(くりはら りよういち、1855年5月6日(安政2年3月20日)- 1911年(明治44年)3月13日)は、明治期の日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員。旧姓は中村。 志摩国鳥羽藩士中村武市の三男として生まれ、同藩士・栗原亮休の養子となる。藩校で漢学を修める。明治の初めに上京し同人社で学んだ。 1876年、自主社を創立し『草莽雑誌』『莽草雑誌』を刊行して政府批判を行う。自由民権運動に加わり自由党の結党に参加。『自由新聞』の主筆を務め、1882年、板垣退助の渡欧に随行した。『東雲新聞』の主筆となり、大同団結運動に加わった。 1890年7月、第1回衆議院議員総選挙において三重県第一区から出馬し当選。
伊藤 新六郎(いとう しんろくろう、1855年(安政2年)5… 伊藤 新六郎(いとう しんろくろう、1855年(安政2年)5月 - 1923年(大正12年))は、日本の教育者。 水戸藩出身。1878年(明治11年)、東京大学理学部化学科に入った。卒業後、和歌山県御用掛・学務課出仕、和歌山中学校教諭・和歌山師範学校教諭を経て、1882年(明治15年)に三重県津中学校校長・三重県師範学校校長に就任した。1885年(明治18年)、東京職工学校御用掛・教諭となり、特許局を兼ねた。その後、東京工業学校教授を経て、1896年(明治29年)から大阪工業学校(のち大阪高等工業学校)校長を務めた。
田村 源太郎(たむら げんたろう、1855年4月30日〈安政… 田村 源太郎(たむら げんたろう、1855年4月30日〈安政2年3月14日〉 - 1926年〈大正15年〉4月28日)は、日本の商人(肥料商)、醸造家、政治家、地主。 鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)の人。芳太郎の長男。家業は肥料及び酒類醸造業で、屋号は田村屋。家業に努め奮励したため貨財を倍殖し、名望いよいよ起り、米子有数の豪商となる。1901年、東糀区区長に当選。 1913年、米子町会議員に当選する。終始一貫熱心精励町治の発展に尽瘁する。1926年、米子町功労者旌表規定により功労章を贈られる。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
亀井 万喜子(かめい まきこ、1855年4月22日(安政2年… 亀井 万喜子(かめい まきこ、1855年4月22日(安政2年3月6日) - 1927年3月24日)は、三省堂創業者。 江戸駿河台に生まれる。両親を幼くして亡くして明治維新となり、困窮を極めた。養子に亀井忠一を迎え、履物屋など、様々な商売を営んだが、1882年に神保町に移って始めた商売が古書店で、これが三省堂書店の礎となった。 当時、主に学生を相手に書籍を売り買いしていたが、ほとんどが洋書で、それはドイツ語や英語だった。万喜子も忠一もそれらを読むことができず、学生に騙され、高く買い、安く売ることが少なくなかった。そのため、万喜子はそれらを習うことにした。毎日、店を閉め、家事を終えてから出かけた。まず、ドイツ語、次に英語を身に付けた。
中川 源造(なかがわ げんぞう、安政2年3月4日(1855年… 中川 源造(なかがわ げんぞう、安政2年3月4日(1855年4月20日) - 明治40年(1907年)4月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(憲政本党)、新潟県高田町長。 越後国高田横春日町(現在の新潟県上越市)に中川源蔵の子として生まれる。東京に遊学の後、第8大区用掛を務めた。1880年(明治13年)、県会議員に当選し、また中頸城郡総町村組合会議員・議長となり、信越鉄道の建設に尽力した。1882年(明治15年)、室孝次郎とともに上越立憲改進党を結成し、翌年に高田新聞を創刊した。 1889年(明治22年)から翌年にかけて高田町長を務め、1893年(明治26年)に再選されて1896年(明治29年)まで在職した。
鬼ヶ谷 才治(おにがたに さいじ、1855年4月19日(安政… 鬼ヶ谷 才治(おにがたに さいじ、1855年4月19日(安政2年3月3日) - 1931年(昭和6年)2月2日)は、伊予国宇摩郡(現:愛媛県四国中央市)出身の元大相撲力士。本名は鈴木 才治(すずき さいじ)。 1855年4月19日(旧暦3月3日)に伊予国宇摩郡(現:愛媛県四国中央市)で生まれた。当初は時津風部屋(大坂相撲)に入門し、本場所に登場するまでの巡業では愛媛潟と名乗った。1886年に梅ヶ谷藤太郎 (初代)から勧誘されて東京相撲に加入することが決まると、東京相撲では雷部屋に所属し、同年1月場所に二段目(現:幕下)格付出で東京相撲の初土俵を踏んだ。1887年1月場所で新入幕を果たすと、際立った好成績を残すことは無かったが地道な努力を重ね、1891年5月場所で小結昇進、この場所を5勝3敗1分で勝ち越して翌場所も小結を務めた。
植場 平(うえば はかる、安政2年3月2日(1855年4月1… 植場 平(うえば はかる、安政2年3月2日(1855年4月18日) – 昭和4年(1929年)8月17日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)。 讃岐国香川郡、のちの香川県香川郡百相村(仏生山町を経て現高松市)出身。1882年(明治15年)、大阪府警部補に任じられた。1887年(明治20年)、島上・島下両郡連合会議員となり、淀川改良工事の請願に取り組んだ。1897年(明治30年)、自由党大阪支部幹事となり、大阪府会議員に当選した。その後、憲政党・立憲政友会の創設に参加し、幹事となった。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は8回を数えた。その間、高槻町長、大冠村長を務めた。
森本 善七(もりもと ぜんしち、1855年3月28日(安政2… 森本 善七(もりもと ぜんしち、1855年3月28日(安政2年2月11日)- 1928年(昭和3年)5月1日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 尾張国知多郡大野村(愛知県知多郡大野町を経て現常滑市)出身。萩原宗平の長男として生まれる。元治元年6月(1864年7月)2代善七の養子となり明治4年8月(1871年)家督を相続し、天明元年創業の小間物商笹屋3代目となる。1881年(明治14年)愛知県会議員に当選。ついで名古屋市会議員、同参事会員、名古屋商業会議所常議員、名古屋銀行頭取、名古屋株式取引所理事長、東海倉庫、日本車輌製造各社長、尾張紡績、帝国撚糸などの重役を歴任した。
陸 鉞巌(りく えつがん、1855年3月25日 - 1937… 陸 鉞巌(りく えつがん、1855年3月25日 - 1937年2月24日)は、日本の僧侶。名古屋市円通寺第28世、両本山布教師、曹洞宗大学林総監などを歴任。別名、鉞巌沙門。号は仙雄。 安政2年2月8日、尾張国名古屋生まれ。1886年(明治19年)曹洞宗大学林(現: 駒澤大学)卒業。研究生に特選され、1887年から1890年まで哲学館に在学。1885年(明治18年)9月、曹洞宗大学林寮監。明治23年11月より曹洞宗東京中学林教授。曹洞宗台湾布教師。1900年(明治33年)9月、曹洞宗大学林総監。 著書に「修道用心偈六百首布皷」「正法眼蔵布皷」「永平正法眼蔵知津布皷」など。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。
田 健治郎(でん けんじろう、1855年3月25日〈安政2年… 田 健治郎(でん けんじろう、1855年3月25日〈安政2年2月8日〉- 1930年〈昭和5年〉11月16日)は、日本の官僚、政治家、華族(男爵)。幼名は梅之助、号は譲山。衆議院議員・貴族院議員(勅選)・逓信大臣・司法大臣・農商務大臣・台湾総督・枢密顧問官等を歴任。田艇吉(衆議院議員)は兄。田英夫(参議院議員)は孫。また先祖に元禄時代の女流俳人田捨女がいる。 丹波国氷上郡柏原藩領の下小倉村(現在の兵庫県丹波市柏原町下小倉)に田文平の子として生まれる。健治郎の家は代々大庄屋を務めた豪農であった。幼時には強健・腕白で、虚弱だった兄・艇吉がケンカに負けるとその仕返しに出向いたという逸話が残っている。 1874年(明治7年)に上京し、同郷の先輩の紹介で熊谷県の下級吏員に採用、翌年に愛知県に移り、名古屋裁判所安濃津支庁(現三重県津市)の糺問係に就いた。
小野田 又蔵(おのだ またぞう、安政2年2月8日(1855年… 小野田 又蔵(おのだ またぞう、安政2年2月8日(1855年3月25日) - 1939年(昭和14年)6月13日)は、三河国加茂郡明知村(現・愛知県みよし市明知町)出身の堂宮大工(棟梁)。 明治期から大正期にかけて、愛知県を中心に滋賀県も含めて60か所以上の寺院や神社の建築を手掛けた。温和で忍耐強い性格だった。 安政2年(1855年)2月8日、三河国加茂郡明知村(現・愛知県みよし市明知町)に生まれた。父は小野田菊蔵であり、又蔵は二男だった。 18歳だった1873年(明治6年)3月に棟梁の石川貞助(貞蔵)に弟子入りした。石川貞助は知多郡前山村(現・常滑市)出身の堂宮大工であり、三好の石川家に養子に入ったとされる。
菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日〈安政2年… 菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日〈安政2年1月29日〉- 1917年〈大正6年〉8月19日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の数学者、教育行政官。男爵、理学博士。 東京帝国大学(東京大学の前身)理科大学長・総長、文部次官・大臣、学習院長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、帝国学士院院長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 蘭学者の箕作秋坪とつね夫妻の次男として江戸天神下(現:新宿区喜久井町)の津山藩の下屋敷に生まれ、父の実家・菊池家の養嗣子となった。秋坪は蘭学者箕作阮甫の弟子で、つねはその阮甫の三女である。 蕃書調所(東京大学の前身)で英語を学び、1867年(慶応3年)に幕府派遣で、1870年(明治3年)に新政府派遣で、2度に渡り英国に留学した。
今立 吐酔(いまだて とすい、1855年3月14日〈安政2年… 今立 吐酔(いまだて とすい、1855年3月14日〈安政2年1月26日〉 - 1931年〈昭和6年〉)は、日本の教育者(理学士)・外交官。京都府京都中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)初代校長。 安政2年(1855年)、越前国今立郡松成村(現・福井県鯖江市松成町)の浄土真宗本願寺派の満願寺の第14世今立乗永の五男として生まれる。幼名は芳丸。神童と言われるほど幼い頃から優れた才能を現した。14、5才の時に吐酔と改名。 旧暦1871年(明治4年)、福井藩の藩校明新館(旧明道館)に入学、アメリカ人理化学者ウィリアム・グリフィスに学ぶ。1972年(明治5年)1月にグリフィスが大学南校(東京大学の前身の1つ)教授に転じて福井を去った後、武生進修小学校で1年間英語を教えた(教え子に松本源太郎・土肥慶蔵がいた)。
池上 三郎(いけがみ さぶろう、1855年3月14日〈安政2… 池上 三郎(いけがみ さぶろう、1855年3月14日〈安政2年1月26日〉 - 1914年〈大正3年〉11月10日)は明治期の司法官、検事。函館控訴院検事長。従三位勲二等。族籍は福島県士族。実弟に、第6代大阪市長、第6代朝鮮総督府政務総監を務めた池上四郎がいる。 安政2年(1855年)1月26日、若松城下本三ノ丁に会津藩士の父池上武輔と母ウメの長男として生まれる。初め八三郎と称し後に三郎と名乗る。元治元年(1864年)藩校日新館に入学、抜群に優秀な成績を修めた。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、14歳で隊頭西郷寧太郎の率いる中軍護衛隊に加わり北出丸の篭城戦で敵を防いだ(会津戦争)。開城後の明治2年(1869年)、上窪村(現塩川町)の肝煎鈴木家に家族と寄寓。
安香 堯行(あこう たかゆき、1855年3月2日(安政2年1… 安香 堯行(あこう たかゆき、1855年3月2日(安政2年1月14日) - 1928年(昭和3年)1月5日)は、日本の薬学者。正五位勲四等。薬学博士。陸軍三等薬剤正。九州薬学専門学校(のち熊本薬学専門学校)長。族籍は静岡県士族。叔父に榎本武揚。 静岡県出身。1882年、東京大学医学部製薬学科を卒業して製薬士の称号を得た。大阪薬専、名古屋薬専の教授をつとめた。1913年5月、薬学博士の学位を授与された。1928年1月5日死去。遺族宅は東京市渋谷区渋谷。二男の愛二は厚生技師、衛生局勤務。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
寺原 長輝(てらはら おさてる / ながてる、1855年3月… 寺原 長輝(てらはら おさてる / ながてる、1855年3月2日(安政2年1月14日)- 1912年(大正元年)12月23日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。幼名・研輔。一時期、園田姓。 薩摩国伊佐郡大口郷(現:伊佐市)で、寺原用右衛門の三男として生まれる。園田家の養子となり一時期その姓を名乗るが、1878年から元の寺原に姓を戻した。 1874年8月、陸軍省十五等出仕となり、台湾出兵収拾のため渡清した大久保利通に随行。1875年3月、警視庁十四等出仕となる。以後、少警部、中警部と昇進。鹿児島で私学校生徒の暴発の危険性が伝えられ、1876年1月、同郷の同僚である高崎親章、中原尚雄ら20名と共に帰郷したが、私学校の生徒らに捕らえられ拷問を受けた。
前田 慧雲(恵雲、まえだ えうん、安政2年1月14日(185… 前田 慧雲(恵雲、まえだ えうん、安政2年1月14日(1855年3月2日) - 昭和5年(1930年)4月29日)は、伊勢国桑名(現・三重県桑名市)出身の浄土真宗本願寺派の学僧。第2代東洋大学長、龍谷大学学長。「含潤」、「止舟斎」とも号した。 1855年(安政2年)、桑名の西福寺に生まれた。漢文を大賀旭川、佐藤牧山の下で学び、また仏教学を西山教校、比叡山で修めた。松島善譲にも学んでいる。 1888年に上京して大内青巒と共に尊皇奉仏を唱え、新欲主学問所の主事となった。東京大学講師として教鞭を執り、1904年からは高輪仏教大学学長を務めた。1906年、井上円了の意志を継いで哲学館大学を東洋大学と改称し、第2代学長に就任(1914年に退任)。
工藤 精一(くどう せいいち、1855年3月 - 1906年… 工藤 精一(くどう せいいち、1855年3月 - 1906年12月)は、明治時代の教育者、化学者、地質学者。開拓使派遣留学生として米国留学し、帰国後に札幌農学校(現・北海道大学)教授(助教)、立教学校及び立教大学校(現・立教大学)教授、専修学校(現・専修大学)教授を務めた。札幌農学校教員時代には、演武場(現・札幌市時計台)の時計保守も担い、運用を開始した。開拓使官員、陸軍通訳官も務めたほか、英語学習書を出版するなど、明治期の英語教育の発展に尽くした。別名、精一郎。 東京生まれ。1872年3月26日(旧暦明治5年2月18日)、17歳の時、開拓使派遣留学生として横浜港から飛脚船「アメリカ号」で米国サンフランシスコへ向けて出航。
4代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、安政元年3月〈1854… 4代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、安政元年3月〈1854年〉 - 1896年〈明治29年〉10月7日)は、明治時代の大地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は勝太郎。雅号・富香。 3代桜井伊兵衛、なお子の長男としてのちの群馬県西群馬郡高崎本町(高崎町を経て現高崎市)に生まれる。絹太織問屋松屋を経営。1881年(明治14年)高崎町会議員に当選。1885年(明治18年)長野堰連合町村会議員を経て、1887年(明治20年)2月、西群馬、片岡両郡の所得税調査委員となった。日本鉄道創立の際にはその発起人に名を連ね、ほか多数の会社重役を歴任した。 1890年(明治23年)6月10日、群馬県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から務めたが、在任中に死去した。
西ノ海 嘉治郎(にしのうみ かじろう、1855年2月19日(… 西ノ海 嘉治郎(にしのうみ かじろう、1855年2月19日(安政2年1月3日) - 1908年(明治41年)11月30日)は、薩摩国高城郡(現:鹿児島県薩摩川内市)出身で高砂部屋(入門時は京都相撲の鯨波部屋)に所属した大相撲力士。第16代横綱。本名は小園 嘉次郎(おぞの かじろう)。 1855年に薩摩国高城郡高城郷麓村(現在の鹿児島県薩摩川内市高城町)で農業を営む家に長男として生まれる。子供の時から土地相撲で活躍。 京都に上り、京都相撲の鯨波部屋に入門、1873年8月だった。 西ノ海嘉治郎を名乗り、1874年7月(興行は延期し9月、三都合併相撲)西三段目に出る。1876年入幕、小結まで昇進した。
賀古 鶴所(かこ つるど、1855年2月18日〈安政2年1月… 賀古 鶴所(かこ つるど、1855年2月18日〈安政2年1月2日〉 - 1931年〈昭和6年〉1月1日)は、明治期から昭和初期の医師。日本陸軍軍医で日本に耳鼻咽喉科学をもたらした。歌人として常磐会を開催する。遠江国の出身。恩賜財団済生会病院の発起人の一人。 1855年2月18日((旧暦)安政2年1月2日)、遠江浜松藩の藩医賀古公斎と母カネ子の間に5人兄弟の長男として生まれる。幼名を銀弥といい、松雲と号した。明治維新後の転封(鶴舞藩)に伴い千葉県市原に転居。1870年(明治3年)藩主井上正直の命により江戸に遊学し箕作秋坪の塾に学び、第一大学区医学校に入学。在籍中の1881年(明治14年)に25歳で結婚し、翌7月、陸軍依託生として同じ陸軍軍医になる菊池常三郎・森林太郎(鷗外)・小池正直等と東京大学医学部を卒業すると、直後に陸軍軍医に任官した。
佐藤 運宜(さとう うんぎ、1855年2月17日(安政2年1… 佐藤 運宜(さとう うんぎ、1855年2月17日(安政2年1月1日)- 1904年(明治37年)10月25日)は、明治時代の政治家、弁護士。衆議院議員(1期)。幼名は大吉。 佐藤勇助の長男として陸奥仙台藩領桃生郡深谷前谷地村(宮城県桃生郡前谷地村、河南町を経て現石巻市)に生まれる。1863年(文久3年)8歳にして内馬場友之進の門に入り漢籍を修めたのち、1866年(慶応2年)内海真澄に学ぶ。ついで1869年(明治2年)前谷地村の真言宗龍石寺の住職早坂運穎の従弟となり、さらに1873年(明治6年)中教院に入り仏教を学んだ。その後、法律を志し、代言人遠藤温の門に入りこれを修め、1879年(明治12年)代言人となった。
金光宅吉(こんこう いえよし、安政元年12月25日(1855… 金光宅吉(こんこう いえよし、安政元年12月25日(1855年2月11日) - 明治26年(1893年)12月20日)は、金光教の二代金光様。 今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。赤沢文治(金光大神)登勢(とせ)の5男。幼名は、宇之丞(うのじょう)、後に虎吉(とらよし)と改められる。金光四神(こんこうしじん)の神号を許され、金光大神の死後、広前の取次の座を主として守り、金光教の信奉者や布教者からは二代金光様あるいは四神様(しじんさま)と呼ばれている。神道本局傘下の神道金光教会で、金光教教監を務めた。諡号は「金光四神貫行君」(こんこうしじんつらゆきのきみ)。 妻 喜代(きよ:安部家より嫁す)との間に、4男4女をもうけた。
錦織 竹香(にしこおり ちっこう、安政元年12月25日〈18… 錦織 竹香(にしこおり ちっこう、安政元年12月25日〈1855年2月11日〉 - 1945年〈昭和20年〉3月5日)は日本の教育者。本名は久美。 竹香は安政元年12月25日(1855年2月11日)、出雲国出雲郡神庭村に生まれた。父・錦織邦臣は神代神社の神官・小学校教師・医者であり、母・登喜は小学校で裁縫を教えていた。竹香は幼いころから手先の器用なことで知られており、とくに絵画は10歳から師に着いて竹の絵を好んで描いたため「竹香」の号を授けられた。 経歴としては1873年(明治6年)に出雲郡第三番小学習字世話係を申し付けられたのに始まり、翌1874年(明治7年)には第二十中学区神庭小学三等助教、さらに翌1875年(明治8年)には同小学兼荘原小学二等助教に就く。
岡部 政太郎(おかべ まさたろう、1855年2月9日(安政元… 岡部 政太郎(おかべ まさたろう、1855年2月9日(安政元年12月23日)- 1934年(昭和9年)12月2日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国彼杵郡、現在の長崎県長崎市古町で、代々の呉服商の家に生まれた。明治の初め東浜町(現浜町)に転居し呉服商を営む。1910年(明治43年)に和仏法律学校(現法政大学)を卒業する 。1934年(昭和9年)岡政百貨店を開業した。その他、長崎市商業会議所特別議員、長崎市呉服商組合副取締などを務めた。 日露戦争時には、長崎市奉公会の設立に参画し会計監督となった。1905年(明治38年)所得税調査委員となり4期在任。1907年(明治40年)9月、長崎県会議員に選出された。
薬袋 義一(みない ぎいち、1855年2月4日〈安政元年12… 薬袋 義一(みない ぎいち、1855年2月4日〈安政元年12月18日〉 - 1903年〈明治36年〉2月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(国民協会→立憲政友会)。位階は正七位。 甲斐国巨摩郡竜王村(現在の山梨県甲斐市)の丹沢家に生まれ、八代郡大塚村(現在の西八代郡市川三郷町)の薬袋義道の養子となった。1877年(明治10年)、区長となった。同年1月及び1880年(明治13年)6月から1883年(明治16年)7月まで山梨県会議員を務めた。 山梨県において県令・藤村紫朗の主導する県政に対して自由民権運動が展開される。薬袋は新聞社・峡中新報社を立ち上げ社長に就任し、『峡中新報』において反藤村県政を展開した。
遠藤 良吉(えんどう りょうきち、1855年1月29日(安政… 遠藤 良吉(えんどう りょうきち、1855年1月29日(安政元年12月12日)- 1931年(昭和6年)12月12日)は、明治から大正期の日本の警察官、政治家。衆議院議員(5期)、宮城県桃生郡広淵村長。旧姓は村上、号は李楊。 陸奥国桃生郡赤井村(宮城県桃生郡深谷村、赤井村、矢本町を経て現東松島市赤井)で、仙台藩陪臣・村上東八郎の二男として生まれた。警部補、陸軍少尉試補兼小警部、伊豆七島巡視を歴任。 桃生郡北村湖崎(現石巻市北村)の遠藤温の門下に入り、その婿養子となる。1893年(明治26年)遠田郡と桃生郡・牡鹿郡の農民間で水利紛争(遠桃事件)が起こり、遠藤は桃生・牡鹿側の首謀者として入獄した。その後、初代広淵村長に推されて就任し、その他、石巻村会議員、同副議長、深谷村会議員、広淵村会議員、桃生郡会議員、同参事会員を務めた。
関谷 清景(せきや きよかげ(後に せいけい)、安政元年12… 関谷 清景(せきや きよかげ(後に せいけい)、安政元年12月11日(1855年1月28日) - 明治29年(1896年)1月8日)は、日本人初の地震学者。世界初の地震学専任教授。 安政元年12月11日(1855年1月28日)、父は美濃大垣藩士・衣斐玄助(えびげんすけ)、家は代々戸田候に仕えた、母はユキの長男として歩行町(おかちまち 現・大垣市歩行町)に生まれる。兄妹に5歳下の弟(銘次郎・歩兵第34連隊長陸軍大佐、日露戦争で戦死)と妹(美志 泉法輪に嫁ぐ)がいる。幼名は鉉太郎(げんたろう)といった。父玄助(関谷家に養子に行った)の実兄衣斐精蔵が病死し、その子が幼いことから鉉太郎が出て後を継いだが、後、養家の子の成長後本姓の関谷に戻り名前も清景に改めた。
西尾 伝蔵(にしお でんぞう、1855年1月27日(安政元年… 西尾 伝蔵(にしお でんぞう、1855年1月27日(安政元年12月10日)- 1895年(明治28年)7月16日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。幼名は道郎、諱は行信、通称は伝右衛門。 西尾雄一郎の子として、遠江国豊田郡友永村(三川村、静岡県磐田郡三川村、袋井町を経て現袋井市)に生まれる。地元の医師鈴木宗元が開いていた寺子屋で学んだところ、たちまち先輩を追い抜く才を示した。その後杉浦某に入門し漢学を、また馬杉雲外のもとで詩文を学んだ。1873年(明治6年)友永村戸長となり、1883年(明治16年)から磐田・山名・豊田郡長を務めた。「経世済民」を掲げ、1878年(明治11年)9月、遠江有志同盟会という政談社を組織し国会開設請願運動に傾倒した。
桂 潜太郎(かつら せんたろう、1855年1月26日〈安政元… 桂 潜太郎(かつら せんたろう、1855年1月26日〈安政元年12月9日〉 - 1928年〈昭和3年〉11月21日)は、明治から昭和時代初期の官吏。宮中顧問官。旧姓は細迫。 長門国豊浦郡阿川村(豊北町を経て現下関市豊北町大字阿川)に生まれる。細迫礼介の長男。1884年(明治17年)5月、絶家桂庄左衛門の家を再興する。東京専門学校校外生となり、英法を学ぶ。宮内省華族局に出仕し、のち爵位局主事に就任。宮内書記官を兼ねたのち、東宮主事に転じ、東伏見宮別当を兼ね、東伏見宮別当泰宮御養育掛長兼宮中顧問官に就任した。墓所は多磨霊園。
岩川 友太郎(いわかわ ともたろう、安政元年12月8日(18… 岩川 友太郎(いわかわ ともたろう、安政元年12月8日(1855年1月25日) - 昭和8年(1933年)5月2日)は日本の教育者、動物学者。分類学的手法に基づく貝類目録を、日本で初めて上梓したことでも知られる。東京帝国大学卒。。 陸奥国弘前(現青森県弘前市) にて、父豊吉、母いちの長男として生まれる。豊吉は貧しい表具師であったが、祖父は国文学者として津軽藩校で教鞭を執っていた。生活苦のため寺に小僧に出されたものの、叔父岩川藤兵衛の伝手を頼り、15歳で藩の海軍局へ入局、機関学を学ぶこととなる。 藩校で英語を学んだ後、当時新設されたばかりの東奥義塾(1872年11月27日創設)にて英語教師に就く。
岩崎 安治郎(いわさき やすじろう、1855年1月24日(安… 岩崎 安治郎(いわさき やすじろう、1855年1月24日(安政2年12月17日)- 1919年(大正8年)4月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 河内国河内郡、のちの大阪府中河内郡大戸村(石切町、枚岡市を経て現東大阪市)出身。農業を営む。大戸村会議員、中河内郡会議員、同議長、大阪府会議員、中河内郡教育会副会長となる。 1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙において大阪府郡部から中央倶楽部公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1915年(大正4年)第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1919年に死去した。