吉村 角次郎(よしむら かくじろう、1844年10月19日(… 吉村 角次郎(よしむら かくじろう、1844年10月19日(弘化元年9月8日)- 1921年(大正10年)10月8日)は、幕末から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 紀伊国那賀郡山崎組畑毛村(和歌山県那賀郡山崎村、岩出町を経て現岩出市)で、吉村六右衛門の息子として生まれた。元治元年(1864年)以降、那賀郡畑毛村ほか3ヵ村庄屋、戸長を務めた。 1875年(明治8年)父の死去に伴い家督を相続した。1878年(明治11年)頃から津村重兵衛と協力して養蚕業の振興に尽力。1890年(明治23年)居谷平助と共同で岩出製糸工場を設置し、他に畑毛製糸を設立して経営したが、経済状況の悪化により、1895年(明治28年)に畑毛製糸が、翌年には岩出製糸工場が閉鎖を余儀なくされた。
五十川 基(いかがわ もとい、天保15年9月6日(1844年… 五十川 基(いかがわ もとい、天保15年9月6日(1844年10月17日) - 明治6年(1873年)2月22日)は、幕末・明治初期の備後福山藩士、医師。通称は基之丞、芳之丞。字は敬甫、号は米里。福山医学校兼病院(のちの同仁館病院)の設立に尽力した。 備後国に藩医・五十川周圭の嗣子として生まれる。五十川家は代々漢方医を業とし、周圭の代で蘭方に転じた。江木鰐水、寺地舟里の薫陶を受け、藩校・誠之館で学び、文久3年(1863年)10月17日に藩から洋学修業を命ぜられ、江戸の藩邸に寄留し、蕃書調所・医学所に通学修業。佐藤春海(尚中)の塾において、蘭学を修め、転じて慶応2年(1866年)に福沢諭吉の慶應義塾へ入塾(『慶應義塾入社帳』第一巻58頁,167頁)。
大沼 渉(おおぬま わたる、1844年10月7日(天保15年… 大沼 渉(おおぬま わたる、1844年10月7日(天保15年8月26日) - 1899年10月14日)は、幕末の黒羽藩士。明治期の陸軍軍人。陸軍少将。位階は従三位、勲等は勲二等、爵位は男爵。 黒羽藩士(家老)大沼泰英と母ちかの長男として弘化元年、廓内(旧黒羽町、現在の大田原市前田)に生まれた。幼名は統太郎。石高は350石であった。生来武人の気質があり、藩校の作新館(作新学院の前身)に入り、文武を修めた。17歳のとき初めて藩主である大関増式に仕え、近侍小姓となった。23歳で大目付、翌年には郡奉行となり、益子町の陣屋に代官として赴任した。戊辰戦争時には藩の軍監を勤め(参謀格で隊長の五月女三左衛門の麾下)として棚倉城、二本松城、会津若松城など東北各地で戦い、勇猛果敢、知略を駆使して大いに戦功があった。
7代 遠藤 嘉右衛門(えんどう かえもん、1844年10月2… 7代 遠藤 嘉右衛門(えんどう かえもん、1844年10月2日(弘化元年8月21日)- 1914年(大正3年)11月29日)は日本の地主、銀行家、政治家。貴族院多額納税者議員、遠藤嘉右衛門家7代当主、旧姓・神田。 のちの島根県で神田助左衛門の二男として生まれ、簸川郡今市町(現出雲市)の地主、6代・遠藤嘉右衛門の養子となる。後に家督を継承し嘉右衛門を襲名した。 1877年以降、島根県会議員、簸川郡会議員などを務め、補欠選挙で当選し1911年6月2日、貴族院多額納税者議員に任じられ、同年9月28日の任期満了まで一期在任した。その他、簸川銀行頭取などを務めた。 公益事業にも関心が高く、災害救援、貧民救済、公衆衛生・学校建設・道路修繕事業などに多額の寄付を行った
山川 二葉(やまかわ ふたば、弘化元年8月19日〈1844年… 山川 二葉(やまかわ ふたば、弘化元年8月19日〈1844年9月30日〉 - 明治42年〈1909年〉11月14日)は、日本の教育者 。 陸奥国会津藩若松城下(現在の福島県会津若松市)にて、国家老山川重固とえん(艶;会津藩士西郷近登之の娘)の長女として生まれる。弟妹は浩、三輪、操、健次郎、常磐、さき(捨松)。万延元年(1860年)に父が死去した当時、二葉は数え17歳で、16歳の浩が家督を継いだ。 明治維新以前、後に家老職に就く梶原平馬と婚姻したものの、短期間で離縁して復籍(離縁日時は不詳)、一子景清(慶応2年11月16日生)は二葉が養育した。 旧暦明治元年8月-9月(1868年10月-11月)の会津城籠城戦において、その家柄故に山川家の人々は相応の役割を果たし、婦女子は調理と配布、負傷者の看護、旧式銃弾の製造と補充などの業務に当たった。
陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日〈1844年8… 陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日〈1844年8月20日〉- 明治30年〈1897年〉8月24日)は、日本の幕末の武士。明治期の外交官、政治家。江戸時代までの通称は陽之助(ようのすけ)。家紋は仙台牡丹。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。「カミソリ大臣」とも呼ばれた。 版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正、議会の先駆けである元老院の設立に多大な影響を与え、第1次山縣有朋内閣では農商務大臣として第1回帝国議会を成功させる支柱となった。外務大臣としては幕末期以降に結ばれていた全15か国の不平等条約(領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部を回復)改正に成功した。日清戦争において陸奥外交と呼ばれる外交を行い、戦中・戦後処理に尽力し、三国干渉を日本の有利な形で収まるように立ち回った。
岡沢 精(おかざわ くわし、1844年8月20日〈弘化元年7… 岡沢 精(おかざわ くわし、1844年8月20日〈弘化元年7月7日〉- 1908年〈明治41年〉12月12日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、華族。正二位勲一等功二級子爵。 長州藩士岡沢甚内の子として萩に生まれる。1862年(文久2年)以降は江戸の長州藩邸に滞在しながら京都を往来し、文久の政変に巻き込まれたこともあった。大村益次郎の塾に学んだ後は尊皇攘夷運動に携わる。南国隊を組織し戊辰戦争に従軍した。 維新後は陸軍に進み、1870年(明治3年)10月に大坂第2教導隊に入営。1871年(明治4年)2月に四等軍曹、4月に御親兵大隊長、6月3日には陸軍准中尉となり、さらに同年中には中尉・大尉・少佐と昇任した。
堀内 利国(ほりうち としくに、1844年8月19日(天保1… 堀内 利国(ほりうち としくに、1844年8月19日(天保15年7月6日) - 1895年(明治28年)6月18日)は日本陸軍の軍医。明治前半に熊本や大阪鎮台病院長などを務めた。当時の日本は脚気の流行が問題になっていたが、堀内利国は大阪鎮台において兵食を白米から麦飯に変えることで兵士の脚気をほとんどゼロになるまで減らし、脚気が麦飯で予防できることを日本で初めて実験的に証明した。 明治3年(1870年)に日本で初めての陸軍病院が大阪に設置され、堀内利国は軍事病院医官となった。堀内は軍事病院の外人教師・オランダ人医師ブッケンから医学を学んだ。日本に徴兵制が敷かれて地方から大阪に集まってくる兵が増えるにつれて、軍隊の中で脚気患者が目に見えて増大するようになった。
嶌田川 儀兵衞(しまだがわ ぎへえ、1844年8月 - 19… 嶌田川 儀兵衞(しまだがわ ぎへえ、1844年8月 - 1922年2月15日)は、上野国邑楽郡(現在の群馬県館林市)出身で東関部屋に所属した大相撲力士。本名は東関 庄助(あずまぜき しょうすけ)、旧姓は濱野儀兵衛(はまの ぎへえ)。 最高位は東前頭9枚目。 1844年(天保15年)生まれ。1869年染手綱で序ノ口。三段目で嶌田川と改名し、1875年幕下二段目10枚目(十両格)。負け越しが多かったが十両を維持し、1880年5月36歳で新入幕。4場所在位したが5勝しかできず1882年5月十両陥落。1886年5月41歳で引退し年寄東関を襲名。長く在職し勧進元を3回務めた。1918年横綱太刀山に年寄名跡を譲り73歳で廃業、1922年77歳で死去。
五代目 尾上菊五郎(ごだいめ おのえ きくごろう、1844年… 五代目 尾上菊五郎(ごだいめ おのえ きくごろう、1844年7月18日(天保15年6月4日)- 1903年(明治36年)2月18日)は、明治時代に活躍した歌舞伎役者。本名は寺島 清(てらじま きよし)。 尾上菊五郎としての屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に梅幸。 市村羽左衛門としての屋号は菊屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に家橘。 九代目市川團十郎、初代市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」の黄金時代を築いた。 寺島清は十二代目市村羽左衛門を父に、三代目尾上菊五郎の次女を母に、江戸の芝居町猿若町二丁目に生まれた。嘉永2年(1849年)11月市村座で二代目市村九郎右衛門を襲名して初舞台。
佐治 儀助(さじ ぎすけ、弘化元年5月15日〈1844年6月… 佐治 儀助(さじ ぎすけ、弘化元年5月15日〈1844年6月30日〉- 1917年〈大正6年〉7月26日)は、明治から大正にかけて愛知県名古屋市で活動した実業家である。大須旭廓「寿楼(壽樓)」の営業主で、名古屋電灯の取締役や名古屋劇場常務取締役も務めた。 尾張国中島郡大里村(現在の愛知県稲沢市)の出身。弘化元年5月15日(1844年6月30日)、佐治儀右衛門の長男として生まれる。明治2年8月(1869年)に分家した。 佐治は名古屋市大須にあった旭廓(1923年に大須から移転し中村遊廓となる)の「寿楼」の営業主であった。その旭廓では、1892年(明治25年)3月、大須観音境内を火元とする大須大火に巻き込まれ、廓内を焼失するという事件があった。
海野 勝珉(うんの しょうみん、天保15年5月15日(184… 海野 勝珉(うんの しょうみん、天保15年5月15日(1844年6月30日) - 大正4年(1915年)10月6日)は、日本の彫金家。幼名・竹次郎。別号は東華斎、芳州。 常陸国・水戸にて、伝右衛門の四男として生まれる。叔父にあたり水戸藩士だった初代・海野美盛に金属彫刻を学ぶ。更に美盛の紹介で、当時水戸彫金界の泰斗だった同藩士・萩谷勝平から金属工芸の諸技術を収めて、基平と名乗った。「勝珉」の名は、師・萩谷勝平の「勝」と江戸時代の名彫金家・横谷宗珉の「珉」を合わせ後に名乗ったものと考えられる。また水戸時代には、安達梅渓に絵を、武庄次郎に漢籍も学び、高い教養も身につけている。 明治初年上京、明治9年(1876年)駒込千駄木町で開業した。
野口 源之助(のぐち げんのすけ、弘化元年5月2日(1844… 野口 源之助(のぐち げんのすけ、弘化元年5月2日(1844年6月17日) - 没年不詳)は明治時代の英語通詞。神奈川県訳官、開拓使御用掛、函館県職員、函館師範学校教諭、東京農林学校教授。ノグチゲラの名前の由来とする説がある。 弘化元年(1844年)5月2日肥前国彼杵郡長崎に小森蓮翁の次男として生まれた。実名は信一、本籍は大浦田町54番地。 慶応4年(1868年)井関盛艮と横浜に渡り、4月2日寺島宗則・井関配下で神奈川運上所通弁御用、閏4月20日神奈川裁判所通弁を務めた後、12月3日神奈川県直属の従事補通弁官となり、明治2年(1869年)11月判任史生、明治4年(1871年)2月14日権少属、10月7日四等訳官を歴任した。
銀林 綱男(ぎんばやし つなお、1844年5月6日〈弘化元年… 銀林 綱男(ぎんばやし つなお、1844年5月6日〈弘化元年3月19日〉 - 1905年〈明治38年〉9月20日)は、幕末の尊攘運動家、明治期の内務官僚・実業家。官選埼玉県知事。孫に数学者の銀林浩、曾孫に政治家の片山さつきがいる。同郷の前島密と親交があった。 越後国頸城郡青海村(後の新潟県西頸城郡青海町→糸魚川市)の青海神社の宮司銀林玄類の息子として生まれる。江戸で医学、詩文を学んだ。戊辰戦争では新政府側の居之隊に属して転戦した。 慶応4年(1868年)8月、新政府に出仕し民政方御用掛に就任。以後、新潟県少属、同一等警部を歴任。1876年、東京府に転じ、同大属、同戸籍掛長、同学務課長、同建築調査委員、同官報通信主任、同会計主務官代理などを務めた。
靑野 卯吉(あおの うきち、1844年4月30日〈旧暦弘化元… 靑野 卯吉(あおの うきち、1844年4月30日〈旧暦弘化元年3月13日〉 - 1907年〈明治40年〉4月18日)は、日本の銀行家、政治家。姓の「靑」は「青」の旧字体であるがJIS X 0208に収録されていないため、新字体で青野 卯吉(あおの うきち)とも表記される。 株式会社土方銀行頭取、静岡県小笠郡土方村長などを歴任した。 遠江国出身の銀行家である。土方銀行で頭取を務め、地域振興に努めた。また、土方村においては村長に選任されていた。村境にある風吹峠が交通の難所となっていたため、これを解消すべく風吹トンネルの開通に尽力した。 1844年4月30日(旧暦弘化元年3月13日)、遠江国城東郡入山瀬村にて生まれた。
近藤 坦平(こんどう たんぺい、弘化元年3月12日(1844… 近藤 坦平(こんどう たんぺい、弘化元年3月12日(1844年4月29日) - 昭和4年(1929年)1月27日)は、三河国碧海郡鷲塚村(現・愛知県碧南市)出身の医師。 西洋式診療所である洋々医館、東海地方初の西洋式医学校である蜜蜂義塾の創立者であり、三河地方における西洋医学の開祖とされる。 文化7年(1810年)9月5日、近藤賛斎の息子として近藤安中(こんどうあんちゅう)が生まれた。近藤家は京都から三河国に移った家であり、伯琴の字や鹿山の号を持っていた近藤賛斎から医師となった。文政13年(1830年)、安中は紀伊国那賀郡西野山村(現・和歌山県紀の川市)に赴き、華岡青洲の医塾である春林軒に入門した。
大村 和吉郎(おおむら わきちろう、1844年4月26日(弘… 大村 和吉郎(おおむら わきちろう、1844年4月26日(弘化元年3月9日) - 1915年(大正4年)12月11日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(3期)。 伊豆国君沢郡大場村(静岡県君沢郡中郷村、田方郡中郷村を経て現三島市)に生まれる。生家は代々清酒醸造を営んだ。名主役、区長、戸長、君沢・田方郡会議員、同参事会員を経て、静岡県会議員に当選し、同常置委員を務めた。ほか、静岡農工銀行取締役、海産株式会社監査役などを歴任した。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙では静岡県第7区から出馬し当選。第6回総選挙、第12回総選挙でも当選したが、3期目の在任中に死去した。
小柳津 要人(おやいづ かなめ、弘化元年2月15日(1844… 小柳津 要人(おやいづ かなめ、弘化元年2月15日(1844年4月2日) - 1922年(大正11年)6月21日)は、明治・大正期の実業家、武士(岡崎藩士)。丸善の専務取締役社長を務めた。 三河国岡崎にて岡崎藩士・小柳津宗和の長男として生まれる。幼少時は志賀重昂の父重職の下で学ぶ。岡崎藩主・本多忠民に仕え藩の要人となる。 1863年(文久3年)、西洋流大砲方の命を受けて江戸にのぼったが、英書を学ぶ必要を感じて大鳥圭介の塾縄武館に入る。また中浜万次郎に師事し、兵学・洋学の手ほどきを受けた。同年秋より開成所に転じ、英学得業士となる。 1868年(慶応4年)の戊辰戦争時には、志賀熊太に血判状を提出した後に脱藩して遊撃隊に加わる。
伊達 文三(だて ぶんぞう、1844年3月26日(弘化元年2… 伊達 文三(だて ぶんぞう、1844年3月26日(弘化元年2月8日) - 1901年(明治34年)10月25日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。旧姓・羽田。 羽田家の三男として伊豆国君沢郡三津村(静岡県君沢郡内浦村、田方郡内浦村を経て現沼津市)に生まれ、20歳の時に富士郡神谷村(須津村、吉原市を経て現富士市)の伊達松翁の養子となる。土木請負業を営む傍ら静岡県会議員を務め、1881年(明治14年)岳南自由党に参加した。沼川石水門の工事に私財を投じ、伊達組を興して山陽本線の工事を請け負うなど公共のために尽くした。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙では静岡県第2区から出馬し当選。
関矢 孫左衛門(せきや まござえもん、1844年3月12日(… 関矢 孫左衛門(せきや まござえもん、1844年3月12日(弘化元年1月24日) - 1917年(大正6年)6月21日)は、明治時代の政治家、銀行家、実業家。衆議院議員(1期)。北海道開拓者。号・道菴、北海道人。 越後国刈羽郡新道村(新潟県刈羽郡日高村、高田村を経て、現柏崎市新道)出身。飯塚七十郎の子として生まれ、1858年(安政5年)魚沼郡並柳新田(新潟県北魚沼郡並柳村、下条村、広瀬村、広神村を経て現魚沼市)の関矢家の養子となった。戊辰戦争では居之隊に属して新政府軍とともに各地に転戦した。西南戦争にも従軍した。 1870年(明治3年)帰郷後、大区長に就任。のち三等警部、地租改正御用掛、北魚沼郡長兼南魚沼郡長を歴任する。
天川 三蔵(三藏、あまかわ さんぞう、1844年3月5日(弘… 天川 三蔵(三藏、あまかわ さんぞう、1844年3月5日(弘化元年1月17日) - 1916年(大正5年)12月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 摂津国、のちの大阪府大阪市北区中之島常安町(現中之島)で生まれた。 1883年(明治16年)西区仲之町会議員に当選。以後、連合町会議長、西区会議員、同区会議長を務めた。1894年(明治27年)日清戦争の澎湖列島占領の混成支隊に従軍した。 1895年(明治28年)大阪市会議員に当選。以後、大阪築港期成会委員、所得税調査委員長、憲政党大阪支部常議員、大阪築港商議員、大阪運河 (株) 顧問、大阪瓦斯顧問などに在任。1899年(明治32年)大阪府会議員に選出され、同参事会員も務めた。
香川松石(かがわ しょうせき、弘化元年1月15日(1844年… 香川松石(かがわ しょうせき、弘化元年1月15日(1844年3月3日) - 明治44年(1911年)9月28日)は、学校で用いられる書道の教科書を記した書道家。千葉師範学校(現在の千葉大学教育学部)教諭。通称、香川熊蔵。
内藤 伝右衛門(ないとう でんえもん、1844年3月2日(天… 内藤 伝右衛門(ないとう でんえもん、1844年3月2日(天保15年1月14日)- 1906年(明治39年)11月18日)は、日本の実業家。峡中新聞(現在の山梨日日新聞)創業者。 山梨県東山梨郡八幡北村(現山梨市)出身。幼名・猪之甫。実父は手塚仙一。養父は甲府で商家「藤屋」を営んでいた初代内藤伝右衛門、養母は女子教育の先駆者の内藤萬春。 10代半ばに初代伝右衛門が他界し家業を継ぎ2代目伝右衛門を襲名した。1862年(慶応2年)平田国学(篤胤)の殿堂気吹堂に入門する。1872年(明治5年)7月1日、 県令土肥実匡の指示、篤胤門下で初代中巨摩郡長の三枝七内の資金援助により峡中新聞(山梨日日新聞)を創刊した。
中村 博愛(なかむら ひろなり / ひろやす、天保14年12… 中村 博愛(なかむら ひろなり / ひろやす、天保14年12月29日〈1844年2月17日〉 - 1902年〈明治35年〉10月30日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の外交官・官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。旧名・宗見、変名・吉野清左衛門。 根占郷の麓集落(現鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北)生まれ。薩摩藩士の家に生まれる。長崎の長崎養生所でオランダ軍医・アントニウス・ボードウィンから医学を学ぶ。帰藩し開成所で英学を学ぶ。薩摩藩第一次英国留学生に選ばれ、元治2年3月22日(1865年4月17日)吉野清左衛門と変名して鹿児島から密出国し、イギリスで化学を学ぶ。慶応2年1月(1866年)シャルル・ド・モンブラン伯爵の勧めで田中静洲と共にフランスへ留学。
片岡 健吉(かたおか けんきち、1844年2月14日〈天保1… 片岡 健吉(かたおか けんきち、1844年2月14日〈天保14年12月26日〉- 1903年〈明治36年〉10月31日)は、日本の政治家。 ※日付は明治5年までは旧暦 天保14年12月26日(1844年2月14日)、土佐藩上士(馬廻格・250石)片岡篤光(俊平)の嫡男として高知城下中島町に生まれる。母は渋谷次兵衛篤輝の妹(幸)。嘉永2年(1849年)7月7日、藩主への御目見えを許される。 万延元年(1860年)8月18日、前年に乾退助らと相諮り南川原相撲場へ立ち入って不作法に及んだ事を咎められ謹慎処分を受けた。 文久元年(1861年)3月17日、御扈従に就任。文久2年(1862年)11月27日、御側小性を免じられ、御馬廻りへ転任。
曾我 祐準(そが すけのり、「すけゆき」とも、天保14年12… 曾我 祐準(そが すけのり、「すけゆき」とも、天保14年12月25日〈1844年2月13日〉- 昭和10年〈1935年〉11月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍中将勲一等子爵。憲仁親王妃久子は玄孫にあたる。 家禄は120石の柳河藩士・曾我祐興(七郎左衛門)の次男として生まれる。兄は曽我祐正。母は国学者の西原晁樹の次女の民子。元治2年(1865年)に長崎へ出て洋学を学ぶ。学問や武道を好み、長崎では砲術も学び、イギリス商人のトーマス・ブレーク・グラバーの援助で上海・香港・シンガポールを航海し、航海術を学んだ。また同じく長崎で、西坂にあった瓜生寅の仮塾や榎津町にあった柴田昌吉の柴田塾に学び、関沢明清らと懇意にした。
北原 雅長(きたはら まさなが、天保14年12月24日(18… 北原 雅長(きたはら まさなが、天保14年12月24日(1844年2月12日) - 大正2年(1913年)7月24日)は、初代長崎市長。 号は清華、歌仏庵。 会津藩家老神保内蔵助の次男として生まれる。通称、半助。兄に神保修理がいる。母方の実家の北原光吉の養子となる。京都守護職となった藩主松平容保とともに京に上り、藩主近くで機密事項を担当しながら、禁門の変にも参加した。慶応4年(1868年)、会津戦争では、母成峠の戦いで大鳥圭介や田中源之進らの隊の参謀役を務めたのち、藩主のもとで籠城戦を指揮し降伏するまで戦った。謹慎地の東京で戦争責任者となった家老萱野権兵衛の切腹に立ち会い、遺骸を芝白金の興禅寺に埋葬する。
三宮 義胤(さんのみや よしたね、1844年2月12日〈天保… 三宮 義胤(さんのみや よしたね、1844年2月12日〈天保14年12月24日〉- 1905年〈明治38年〉8月14日)は、幕末の尊王攘夷派活動家で、明治期の外務官僚・宮内官僚。華族(男爵)に列した。幕末期には「三上兵部」と名乗った。 近江国志賀郡真野浜村(現:滋賀県大津市)に、真宗正源寺住職・三上円海の長男として生まれる。 幕末の動乱期には尊王攘夷派活動家(志士)として国事に奔走。岩倉具視らと交流を持ち王政復古運動に参加した。1867年(慶応3年)には高野山で挙兵。戊辰戦争では各地に転戦し、功績があった。1869年(明治2年)には賞典禄として50石が与えられた。 兵部省に勤務したのち、1870年(明治3年)には東伏見宮彰仁親王(のちの小松宮)の英国留学に随行する。
井上 毅(いのうえ こわし、天保14年12月18日〈1844… 井上 毅(いのうえ こわし、天保14年12月18日〈1844年2月6日〉- 明治28年〈1895年〉3月17日)は、明治期の日本の官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人。栄典は正三位勲一等子爵。 肥後国熊本藩家老・長岡是容(監物)の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。必由堂、藩校時習館で学び、江戸や長崎へ遊学。明治維新後は大学南校で学び明治政府の司法省に仕官、1年かけた西欧視察におもむく。帰国後に大久保利通に登用され、その死後は岩倉具視に重用される。明治十四年の政変では岩倉具視、伊藤博文派に属する。 安定政権を作れる政府与党が出来る環境にない現在の日本で議院内閣制を導入することの不可を説いて、ドイツ式の国家体制樹立を説き、国学等にも通じ、伊藤と共に大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの起草に参加した。
赤星 研造(あかぼし けんぞう、1844年(弘化元年)2月5… 赤星 研造(あかぼし けんぞう、1844年(弘化元年)2月5日または25日 - 1904年(明治37年)1月6日)は明治時代の医師。 福岡藩オランダ留学生として渡欧し、ドイツハイデルベルク大学在学中、新政府に呼び戻された。台湾出兵に従軍し、東京医学校、東京大学教授を務めた後、仙台市県立宮城病院長に招かれた。一時久留米市整理堂病院教師を務め、仙台に戻り、七ヶ浜村赤星自治院を拠点に仙台や周辺各地で診療活動を行った。 1844年(弘化元年)2月5日または25日、筑前国鞍手郡金生村医師赤星見竜の長男として生まれた。 1857年(安政4年)父見竜の師武谷元立の子武谷椋亭に入門し、1865年(慶応元年)藩遊学生として長崎に派遣され、精得館でアントニウス・ボードウィンに語学を学んだ。
松江 安見(まつえ やすみ、弘化元年1月13日〈1844年2… 松江 安見(まつえ やすみ、弘化元年1月13日〈1844年2月1日〉 - 明治22年〈1889年〉3月4日)は、日本の医師。石川県白山市(旧松任市)出身。石川県で初めて篤志解剖を行った。 石川郡徳丸村(現白山市徳丸町)で父安右ェ門、母ヒナの長男として生まれる。松江家は徳丸村宮井甚平家の分家にあたる。宮井家は地方きっての豪農で、藩政中期より1870年(明治3年)まで村肝煎を勤めた家柄であった。甚平の二男が分家し松江安右エ門と名乗ったのが松江家の初代である。安右エ門には安見、安茂、陳好、甚作、兵二、安仁、嘉平、昇、意之の9人の子があった。 松江安見は若くして医学の道を志し、金沢医学所で、漢方医学を大益良吉に、西洋医学を石川孝恭に学んだ。
清水 宗徳(しみず・そうとく、天保14年12月11日(184… 清水 宗徳(しみず・そうとく、天保14年12月11日(1844年1月30日) - 明治42年(1909年)8月18日)は、明治時代の政治家、実業家。幼名は要治郎。諱は当初は宥三と称した。号は不朽軒義同。 衆議院議員を務めるとともに、地元である埼玉県入間郡地域の殖産興業に力を注いだ。川越鉄道創立委員、入間馬車鉄道第2代社長。 天保14年(1843年)12月11日(旧暦)、武蔵国高麗郡上広瀬村(のちに入間郡に編入され水富村、現在の埼玉県狭山市上広瀬)で、代々名主と広瀬神社の神官を務める清水家の長男として、父・寛一、母・勢津の間に生まれる。 生まれつき聡明で物心ついた頃から学問を志し、13歳で尊円流の大家・梅沢台陽に師事して書道と学問を学んだ。
沼間 守一(ぬま もりかず/ぬま しゅいち、1844年1月2… 沼間 守一(ぬま もりかず/ぬま しゅいち、1844年1月21日〈天保14年12月2日〉 - 1890年〈明治23年〉5月17日)は、幕末の幕臣。明治時代の政治家、ジャーナリスト。雅号は不二峰楼主人(ふじほうろうしゅじん)、弄花生(ろうかせい)。幕府軍に参加し戊辰戦争で捕縛されるも放免され、大蔵省・司法省出仕。岩倉使節団の一員であり、嚶鳴社を組織し自由民権運動を展開。立憲改進党の結党に参画し、東京府会議長も務めた。実業家としても『横浜毎日新聞』を買い取り、『東京横浜毎日新聞』を創刊した。 天保14年12月(1844年1月)、江戸牛込にて幕臣・高梨仙太夫の第2子として生まれる。幼名は慎次郎。兄に銀行家の須藤時一郎、弟に高梨哲四郎がいる。
荒虎 敬之助(あらとら けいのすけ、1844年(天保14年)… 荒虎 敬之助(あらとら けいのすけ、1844年(天保14年)1月4日(旧暦11月15日) - 1882年(明治15年)9月19日)は、武蔵国北埼玉郡(現:埼玉県加須市)出身の元大相撲力士。本名は小室 敬之助(こむろ けいのすけ)。 幼少期から相撲好きで身体も大きく、古川藩の二人の侍と喧嘩した際には相手を掴んで拍子木のように打ち合わせたと伝わる。若藤部屋に入門し、1865年2月場所で序ノ口から初土俵を踏むと1871年3月場所で新十両に昇進、1874年12月場所で新入幕を果たした。突っ張って動き回る取り口で幕内での勝率は5割前後で推移したが、精悍な容貌で人気があり、当時の力士としては珍しく読み書きができ、数理に明るかった。
佐野 助作(さの すけさく、1844年(弘化元年7月)- 1… 佐野 助作(さの すけさく、1844年(弘化元年7月)- 1910年(明治43年)9月21日)は、明治時代の政治家、実業家。自由民権運動家。衆議院議員(3期)。兵庫県津名郡洲本町長。 豪農・塩田猪助の七男として阿波徳島藩領津名郡、のちの兵庫県津名郡塩田村(津名町を経て現淡路市)に生まれ、13歳の時に同郡物部村(洲本町を経て現洲本市物部)の大庄屋・佐野又六の養嗣子となる。25歳の時、養父の死跡を相続し戸主となる。1871年(明治4年)津名郡第一区戸長となり、1873年(明治6年)津名郡区長に挙げられる。1875年(明治8年)職を辞し、一時民間に転じるが、1879年(明治12年)の府県会開設と共に兵庫県会議員に当選する。
立入 奇一(たていり きいち、1844年(弘化元年4月)- … 立入 奇一(たていり きいち、1844年(弘化元年4月)- 1895年(明治28年)2月5日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 伊賀国阿拝郡上野、現在の三重県伊賀市で生まれた。藤堂藩校崇広堂で学ぶ。江戸、京都に遊学した。地租改正掛、三重県出仕を経て、三重県会議員、同常置委員となる。伊賀街道隧道の計画立案、郡立中学校の設立、上野商工会の設立などに尽力した。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において三重6区から立憲改進党公認で立候補して当選する。1892年の第2回衆議院議員総選挙で再選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙で落選した。翌1895年に死去した。墓所は伊賀市大超寺。
藤田 孫平(ふじた まごへい、1844年(弘化元年10月)-… 藤田 孫平(ふじた まごへい、1844年(弘化元年10月)- 1920年(大正9年)2月6日)は、明治から大正時代前期の政治家。衆議院議員(2期)。京都府加佐郡新舞鶴町長。幼名・幸助。 若狭国遠敷郡羽賀村(福井県遠敷郡国富村を経て現小浜市)で、藤田孫左エ門の長男として生まれる。農業を営む傍ら、戸長、国富村会議員、遠敷郡会議員を歴任し、1880年(明治13年)3月、滋賀県会議員に当選する。同常置委員、副議長を務めたのち、1881年(明治14年)2月の福井県設置に伴う嶺南4郡の滋賀県復県運動に活躍した。1884年(明治17年)福井県属に転じ三方郡長を拝命する。1888年(明治21年)遠敷郡長となった。
桂 文左衛門(かつら ぶんざえもん、 1844年 - 191… 桂 文左衛門(かつら ぶんざえもん、 1844年 - 1916年5月16日)は、紀州粉河(現在の和歌山県紀の川市)生まれの上方噺家。本名: 渡辺 儀助。享年72。 最初初代桂萬光門下で初代桂南光を名乗る。明治2年に立川三光(3代目立川三光)門下で初代立川三木助の後、明治5年9月に初代桂文枝門下で初代桂文三、1881年12月に2代目桂文枝を経て、1904年に桂文左衛門を名乗る。同門の2代目桂文都(後の2代目月亭文都)、初代桂文之助、初代桂文團治と共に、当時の「四天王」と呼ばれる。 1874年4月3日、師匠の初代文枝が亡くなると、一門の桂文都との間で2代目襲名問題が起こり、勝利した文三が2代目文枝を名乗り、「桂派」の総領に就任。
奥村 亀三郎(おくむら かめさぶろう、龜三郎、1844年(弘… 奥村 亀三郎(おくむら かめさぶろう、龜三郎、1844年(弘化元年2月)- 1901年(明治34年)11月3日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、茨城県会議長。 下野国安蘇郡天明町(栃木県安蘇郡天明町、佐野町を経て現佐野市)で生まれた。茨城県結城郡結城町(現結城市結城町)の奥村清八の養嗣子となる。漢学を修め、商業を営む。結城藩土地開拓掛を務めた。結城銀行を設立した。 自由民権運動に加わり、結城町会議員を務めた。1886年(明治19年)茨城県会議員に選出され、1898年(明治31年)まで在任し、同常置委員、第12代県会議長も務めた。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙(茨城県第4区、山下倶楽部)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
佐藤 兵八(さとう ひょうはち、1844年(弘化元年11月)… 佐藤 兵八(さとう ひょうはち、1844年(弘化元年11月)- 1900年(明治33年)6月22日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 備中国上房郡有漢村(岡山県上房郡有漢町を経て現高梁市有漢町有漢)で、酒造業の家に生まれる。幼少期は綱島某(名不詳)から漢学を学び、その後、進鴻渓に十余年師事し塾頭を務めた。 農業を営み、家業の酒造業に従事し、その後、醤油醸造業にも事業を拡大した。その他、高梁銀行頭取も務めた。公共のために私財を投じ、道路改修、官衙学校の建設、低所得者の救済に尽くした。 1890年(明治23年)岡山県会議員に選出され、学務委員、所得税調査委員、徴兵参事員なども務めた。
秋山 恒太郎(あきやま つねたろう / こうたろう、1844… 秋山 恒太郎(あきやま つねたろう / こうたろう、1844年(弘化元年6月)? - 1911年(明治44年)6月7日)は明治時代の日本の教育者、文部官僚。号は不羈斎(ふきさい)。 官立長崎師範学校、官立東京師範学校(筑波大学の前身の1つ)をはじめ、各地の県立師範学校・中学校校長を歴任した。 越後国長岡に生まれる。長岡藩校崇徳館初代都講秋山景山の嗣子・四郎左衛門の孫にあたり、四郎左衛門の婿養子・左内の養子となって秋山家を継いだ。安政初年(1855年頃)、幕府の老中を務めていた藩主牧野忠雅の命により小林見義、藤野善蔵、武謙斎の3名と江戸に遊学。儒学者・安井息軒の門に学んだ。また慶応2年(1866年)頃、帰郷していた長岡藩出身の幕臣・鵜殿団次郎(春風)と親しく交際。
荒尾 光政(あらお みつまさ、天保3年10月12日(1832… 荒尾 光政(あらお みつまさ、天保3年10月12日(1832年11月4日)-明治36年( 1903年)5月6日)は、幕末の剣豪。剣術の流派、鏡心流の創始者。 千葉の北辰一刀流、桃井春蔵の鏡心明智流、宝蔵院流高田派槍術等の諸武術流派をそれぞれ免許皆伝した上で鏡心流を創り出した。 鏡心流は幕末の混乱期を背景にあみだされた剣の奥義を極めた実戦本意の剣術。抜刀術等も含み、「心ヲ以テ鏡トナスベク 鏡ヲ以テ心トナスベシ」秘剣の術、と伝承されている。 関宿藩士(奥家老)大坪正邦と同藩大野か袮子の次男として天保3年10月12日(1832年11月4日)、関宿藩上屋敷の江戸箱崎邸で生まれる。幼名は次郎、のちに粛(すすむ)。
藤野 昌言(ふじの しょうげん、1832年11月4日〈天保3… 藤野 昌言(ふじの しょうげん、1832年11月4日〈天保3年10月12日〉 - 1879年〈明治12年〉10月6日)は、明治時代の医師。本名は守誠(もりのぶ)。備後国芦田郡府中市村(現広島県府中市)出身。 1832年(天保3年)、備後国芦田郡府中市村(現広島県府中市)で代々医業を行っていた藤野元英の長男として生まれた。大阪で医学を修め、父親の死により19歳で府中に帰って医業に専念した。貧しい時代に困窮していた人の治療費もとらず、生活の面倒を見ていたともいわれ、正に「医は仁術なり」を言葉通り実行した。1879年(明治12年)、府中市にコレラが猛威を振るったとき、多くの医者が恐れる中で敢然として患者の手当をして救い、遂に自身もコレラに感染し48歳で没した。
東 沢瀉(ひがし たくしゃ、天保3年10月9日〈1832年1… 東 沢瀉(ひがし たくしゃ、天保3年10月9日〈1832年11月1日〉 - 明治24年〈1891年〉3月28日)は、幕末の岩国藩士・儒学者(陽明学者)。諱は正純、通称は崇一郎、号は白沙、沢瀉。沢瀉の号は、明治になってから用いている。 天保3年(1832年)10月9日、周防国岩国錦見に生まれる。藩校養老館では、大草馨堂、南部五竹と並んで学内の三博士と称せられた。その後、江戸に出て佐藤一斎らに陽明学を学ぶ。文久3年(1863年)3月、養老館の助教に任用されるが、朱子学中心の学風と合わず、1年で辞任した。岩国藩の佐幕的姿勢に満足せず、尊王攘夷を唱えて必死組を組織し、栗栖天山や南部五竹らと共に兵制改革を進める。
山下 現有(やました げんゆう、天保3年8月28日(1832… 山下 現有(やました げんゆう、天保3年8月28日(1832年9月22日) - 昭和9年(1934年)4月11日)は、日本の浄土宗の僧。浄土宗管長、知恩院門跡。号は謙蓮社孝誉。近代日本仏教における代表的な高僧の一人である。一宗一派の枠を越え、広く仏教界全体の長老として仰がれ、「生き仏」と称された。 謙蓮社孝誉真善妙阿。字は葵堂。宗門功労者で、近代の代表的な高僧。現在の愛知県一宮市大赤見に山口安蔵の長男として生まれ、天保11年(1840年)三重県松阪市の樹敬寺にて梧雲のもとで出家得度し、俊敬と命名される。弘化元年(1844年)増上寺山下谷安祥室賢従の寮に入り修学、嘉永2年(1849年)増上寺において宗戒両脈を相承した。
青木 勝之助(あおき かつのすけ、1832年8月30日(天保… 青木 勝之助(あおき かつのすけ、1832年8月30日(天保3年8月5日) - 1905年(明治38年)4月10日)は明治時代の浪花節語り。生まれははっきりしないが、一説には武蔵国(現・神奈川県)生まれ。ヒラキから寄席に最初に進出した功労者。後に美弘舎東一(びこうしゃ とういち)と改名。玉川勝太郎から、今の玉川奈々福、玉川太福等に連なる玉川一派の開祖でもある。 本名は青柳勝三。色が黒いのであだ名が「くろ勝」。幕末から明治頭にかけて、横浜・本牧の盛り場に仮設したヒラキで評判を取るほど大入りを続けていた祭文語りの勝之助。その頃の得意演目は「野狐三次」「鬼神於松」「俊徳丸」などで、品格の良さから常に上流の客が集まった。
丸尾 文六(まるお ぶんろく、1832年8月26日〈天保3年… 丸尾 文六(まるお ぶんろく、1832年8月26日〈天保3年8月1日〉- 1896年〈明治29年〉5月1日)は、日本の実業家、政治家。族籍は静岡県平民。 浜松県民会議員、浜松県民会幹事、静岡県会議員、静岡県会副議長(第2代)、静岡県会議長(第2代)、衆議院議員などを歴任した。 遠江国出身の実業家、政治家である。大井川の渡船解禁により窮乏した川越人足らを救うため、牧ノ原台地への入植を推進した。その結果、牧ノ原台地を茶の一大産地となるまでに育て上げた。製茶業を営んだ。また、政界にも進出し、静岡県会議員や衆議院議員などを歴任した。 1832年8月26日(旧暦天保3年8月1日)、遠江国の城東郡池新田村にて生まれた。
松尾 与十郎(松尾 與十郎、まつお よじゅうろう、天保3年7… 松尾 与十郎(松尾 與十郎、まつお よじゅうろう、天保3年7月3日(1832年7月29日) — 1886年(明治19年)3月15日)は、日本の篤志家である。明治時代に五十嵐川の治水・築堤に尽力した。 越後国蒲原郡片口村の里正(庄屋)・松尾與右衛門の長男として出生した。松尾家には北越戦争の際、村山半牧を匿った。 明治5年8月1日(1872年9月3日)に、五十嵐川が氾濫し、片口村をはじめ五十嵐川左岸(嵐南)が浸水する八朔の洪水が発生した。与十郎はこの洪水被害を受けて、右岸(三条町側)より堤防が低い左岸にしっかりとした堤防の必要性を村々に訴え、新潟県令平松時厚の視察に際して陳情したが、左岸堤防の築堤は許可されなかった。
寺島 宗則(てらしま むねのり、1832年6月21日〈天保3… 寺島 宗則(てらしま むねのり、1832年6月21日〈天保3年5月23日〉- 1893年〈明治26年〉6月6日)は、日本の外交官・政治家。元は松木 弘安(まつき こうあん)、別字に弘菴、弘庵、洪庵。通称は寺島改姓後に陶蔵と名乗った。日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿として活躍した。 天保3年(1832年)、薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現:鹿児島県阿久根市脇本字槝之浦)の郷士・長野成宗の次男として生まれる(幼名徳太郎、後に藤太郎)。5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、長崎で蘭学を学ぶ。 弘化2年(1845年)、江戸に赴き伊東玄朴、川本幸民より蘭学を学び、安政2年(1855年)より中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講する。
塚本 正之(つかもと まさゆき、天保3年5月1日(1832年… 塚本 正之(つかもと まさゆき、天保3年5月1日(1832年5月30日) - 大正7年(1918年)2月28日)は、江戸時代後期から明治時代の近江商人、社会事業家。湖国治山の父とも呼ばれる。塚本家はツカモトコーポレーションの創業一族。 塚本正之は、天保3年(1832年)に近江神崎郡川並村(現滋賀県東近江市五個荘川並町)の豪商初代定右衛門(1789年-1860年)の次男として誕生し、通称粂右衛門と称した。兄塚本定次(1826年-1905年)は勝海舟も大物と称した商人で、正之は兄を助け家業に精励し、県会議員を務めると共に一生を通じて公共事業に尽くした。 明治6年(1873年)6月学校世話方に選ばれ故郷川並村における小学校創立に力を注ぎ、明治9年(1876年)以降戸長・副区長・村会議員・連合村会議員、明治15年(1882年)6月第二回滋賀県会議員選挙において当選し(同19年(1886年再選)、神崎・愛知郡衛生会議員、勧業諮問委員等を歴任した。