岩本 晴之(いわもと はるゆき、1834年1月25日(天保4… 岩本 晴之(いわもと はるゆき、1834年1月25日(天保4年12月16日)- 1913年(大正2年)11月21日)は、幕末の徳島藩士、明治期の政治家(衆議院議員)。通称は才二郎。 阿波国名東郡徳島城下富田浦町(現徳島県徳島市)で徳島藩士・香川周満の子として生まれ、のち岩本品蔵の養子となる。学問を新居水竹に学ぶ。明治維新後は徴士、三河県(現・愛知県)判事、白川県(現・熊本県)大参事、民政局検事助役、徳島藩権大属、名東県権大属、同大属、中属を経て、司法省に入り、少解部、権中解部、大区長兼学区取締となる。1875年(明治8年)に徳島に戻り自由民権運動に参加。その後、阿波郡長・麻植郡長・名東郡長、日本赤十字社徳島県委員長などを歴任する。
山田 十竹(やまだ じっちく、天保4年12月9日(1834年… 山田 十竹(やまだ じっちく、天保4年12月9日(1834年1月18日) - 明治34年(1901年)8月26日)は、江戸時代末期から明治時代の儒学者、漢学者、教育者。名は浩(ひろし)、字は養吉(ようきち)。号の「十竹」は広島城郭内の自宅に十数本の竹が植えられていたことによる。墓は広島市の比治山共同墓地(現・南区)。
依田 学海(よだ がっかい、旧字体:學海、天保4年11月24… 依田 学海(よだ がっかい、旧字体:學海、天保4年11月24日(1834年1月3日) - 明治42年(1909年)12月27日)は、日本の漢学者、文芸評論家、小説家、劇作家。幼名は幸造、信造。通称は七郎、右衛門次郎。諱は朝宗(ともむね)。初め字を百川(ひゃくせん)といったが後にこれを本名とした。学海は雅号で、柳蔭とも号した。
嘉悦 氏房(かえつ うじふさ、天保5年(1834年)1月 -… 嘉悦 氏房(かえつ うじふさ、天保5年(1834年)1月 - 明治41年(1908年)10月30日)は、日本の政治家。 熊本藩士の子として肥後国託麻郡本山村(現在の熊本県熊本市)に生まれ、横井小楠に師事した。その後、宮部鼎蔵に従って尊王運動に参加。たびたび上京して、橋本左内・坂本龍馬・西郷隆盛らと交わった。 明治維新後、熊本藩は新政府に反旗を翻そうとしているとの嫌疑をかけられたが、氏房が長崎に赴いて知事の澤宣嘉に釈明して事なきを得た。明治3年(1870年)5月、民部省に出仕し、7月に大蔵省に移った。9月に胆沢県大参事に就任し、その後、熊本県少参事、八代県権参事を歴任した。明治6年(1873年)、白川県権参事となるが、権令の安岡良亮と対立し、野に下った。
青江 秀(あおえ ひいず、1834年(天保5年) - 189… 青江 秀(あおえ ひいず、1834年(天保5年) - 1890年(明治23年))は、日本の官僚。阿波国(現在の徳島県阿南市)出身。 1834年(天保5年)に阿波国那賀郡西方村(現在の徳島県阿南市長生町)に生まれる。幼名は慎一。 1864年(元治元年)に何礼之が長崎の自邸で英語の私塾を開くと、巻退蔵(のち前島密)、林謙三(のち安保清康)、瓜生雷吉(のち瓜生震)らその他数十名とともに塾生として学ぶ。 1871年(明治4年)に友人で当時紙幣頭の芳川顕正の紹介で、紙幣寮へ就職。1873年(明治6年)の紙幣頭代理のときに「郵便葉書」の名称を発案した。また鹿児島県・大蔵省・内務省・海軍省・北海道庁で勤務した。
大澤多門(おおさわ たもん、1834年(天保5年) - 19… 大澤多門(おおさわ たもん、1834年(天保5年) - 1906年(明治39年))は、八戸藩士、八戸町戸長。えんぶりの復興者でもある。 八戸藩士・根井沢悟の子として生まれる。幼名は信吾。嘉永3年(1850年)に家督を相続した。 明治元年(1868年)に野辺地戦争において八戸隊副隊長を務める。戊辰戦争後に「大澤多門」と名を改め、明治6年(1873年)に八戸町戸長となった。その後えんぶりの再興や八戸三社大祭の振興に寄与した。長者山新羅神社近くに於多福座という劇場も作っている。 晩年は階上村(現在の階上町)道仏で隠居生活を送ったと言われている。 最も多門の功績として知られているのが、えんぶりの再興である。
盤石 力勝(ばんじゃく りきかつ、1834年〈天保5年〉 -… 盤石 力勝(ばんじゃく りきかつ、1834年〈天保5年〉 - 1875年〈明治8年〉10月15日)は、木瀬部屋,錦戸部屋に所属した元力士。江戸時代最後の新入幕力士である。 本名は古茶とのみ伝わっている(姓か名かは不明)。上総国市原郡養老村(現在の千葉県市原市養老)出身。身長・体重は不明。 最高位は西前頭筆頭。 津藩のお抱え力士として、1857年11月場所で初土俵(二段目〈現在の幕下〉)を踏んだ。1863年7月場所で、西十両9枚目(十枚目格)に昇進。十両時代は5割程度の勝率だったこともあり、比較的ゆっくりと昇進を重ねていった。1867年6月場所で、新入幕を果たした(ちなみに前述の通り、江戸時代最後の新入幕力士となった)。
松浦 唯次郎(まつうら ただじろう、1834年(天保5年5月… 松浦 唯次郎(まつうら ただじろう、1834年(天保5年5月) - 1901年(明治34年)5月4日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 安芸国賀茂郡津江村(のち広島県賀茂郡下黒瀬村→黒瀬町、現・東広島市)生まれ。漢籍を学ぶ。豊田郡松江村(のち沼田西村、現・三原市)、下北方村(のち北方村、現・三原市)各庄屋、豊田郡戸長、広島県第九大区長、豊田郡長、学区取締、豊田郡徴兵事務官、検疫委員、日本赤十字社豊田郡委員長となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において広島5区から中央交渉会で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1894年の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。1901年に死去した。
阪谷 朗廬(さかたに ろうろ、1822年12月29日(文政5… 阪谷 朗廬(さかたに ろうろ、1822年12月29日(文政5年11月17日) - 1881年(明治14年)1月15日)は、日本の漢学者、儒学者。江戸時代末期は教育者として、明治維新後は官吏としても活動した。東京学士会院議員。
徳富 一敬(とくとみ かずたか、いっけい、文政5年9月24… 徳富 一敬(とくとみ かずたか、いっけい、文政5年9月24日(1822年11月7日) - 大正3年(1914年)5月26日)は、幕末から明治にかけての日本の儒学者(朱子学者)、官僚、教育者。徳富蘇峰、徳富蘆花の父。淇水(きすい)と号した。 肥後国葦北郡水俣郷(後の熊本県水俣市)に、惣庄屋の長男として生まれ、幼児には万熊、後には太多助、太多七などと称した。一敬の父は辛島塩井の高弟で、津奈木手永惣庄屋の徳富美信。美信は鶴眠と号し、肥後を訪れた頼山陽に会っている。 一敬は1837年から、近藤英助の私塾で教えを受けつつ藩校時習館に学ぶが、1842年に父の死去により惣庄屋の務めのため帰郷した。1845年に横井小楠の門下となった。
山中 静逸(やまなか せいいつ、文政5年9月2日(1822年… 山中 静逸(やまなか せいいつ、文政5年9月2日(1822年10月16日) - 明治18年(1885年)5月25日)は、三河国碧海郡棚尾村東浦(現在の愛知県碧南市)出身の書家・政治家である。山中 信天翁(やまなか しんてんおう)として知られる。 幼名は松寿。諱(いみな、生前の実名)は献(まつる)。号を信天翁、静逸と称した。 三河国碧海郡棚尾村の豪農(素封家)の家に次男として生まれる。父の山中七左右衛門(山中子敏、しびん)は京都で学び、日本各地を歩いて地理を探求し、東浦で子弟の教育を行っていた。 早いうちから大坂の篠崎小竹に入門したが、嘉永元年(1848年)に父が死去すると、家業を継いだうえで寺子屋を開いた。
由理 滴水(ゆり てきすい、文政5年4月8日〈1822年5月… 由理 滴水(ゆり てきすい、文政5年4月8日〈1822年5月28日〉 - 1899年〈明治32年〉1月20日)は日本の江戸末期から明治初期にかけての臨済宗の僧侶。宜牧は諱、号は滴水、無異室、雲母庵とも称する。姓は由利、由里とも。また滴水宜牧ともいう。 丹波国何鹿郡白道路村(現・京都府綾部市)に上田彦兵衛、母絹の三男として生まれる。父は文政8年(1825年)早くに没したので、親類の京都府加佐郡河守村の酒造家である由理清左衛門宅に引き取られ、養子となる。そして父の遺言に従い、9歳の時に出家をして、加佐郡行永村にあった龍勝寺の住職・大法和尚について出家得度する。この時僧名を宜牧と名づけられる。大和和尚は病身で経文祖録は進まず、もっぱら湯薬の世話に明け暮れた。
西丸 帯刀(さいまる たてわき、文政5年3月15日(1822… 西丸 帯刀(さいまる たてわき、文政5年3月15日(1822年5月6日) - 大正2年(1913年)12月31日)は、江戸時代後期(幕末)の尊皇志士。水戸藩郷士。位階は従五位。西丸氏は佐竹氏の庶流で、本姓は源氏である。幼名は義勝、諱は亮、号は松陰。 帯刀は常陸国北部磯原村(現・茨城県北茨城市)の旧族郷士野口氏の出身で、野口北溟の次男として生まれた後、大津村の郷士西丸勇五郎義則の養子となり、養父の女よしを妻としたという。 磯原村の野口氏は、徳川綱條の代に野口市蔵が郷士に取り立てられて以来続く家柄であり、西丸氏は旧常陸守護佐竹氏の庶家という家柄で大津村の旧族郷士という、ともに佐竹氏時代以来の名門であった。
寺田 彦太郎(てらだ ひこたろう、1822年3月26日(文政… 寺田 彦太郎(てらだ ひこたろう、1822年3月26日(文政5年2月4日) - 1903年(明治36年)10月6日)は、明治時代の政治家。実業家。国学者。衆議院議員(静岡県第5区選出、当選3回)。号は観海。族籍は静岡県平民。 遠江国山名郡福田村(静岡県山名郡福島村、磐田郡福田町を経て現磐田市福田)の庄屋寺田彦左衛門良賢の子として生まれる。 1836年(天保7年)、藩侯西尾隠岐守より庄屋を命ぜられる。1842年(天保13年)大庄屋となり、同じ西尾藩の庄屋八木美樹と交わり、その父美穂より国学思想を受け継ぎ、のち『国教のもとゐ』などを著した。 さらに国学思想に則り村政に励み、福田港口掘削、河川改修、海岸砂防堤築造、荒蕪地開拓に尽くす。
斎藤 利行(さいとう としゆき、1822年2月2日〈文政5年… 斎藤 利行(さいとう としゆき、1822年2月2日〈文政5年1月11日〉- 1881年〈明治14年〉5月26日)、旧名渡辺 弥久馬(わたなべ やくま)は、幕末の土佐藩家老。漢学者。明治政府に出仕して刑部大輔・参議・元老院議官を務めた。同藩士・斎藤利成の子。長子は将棋棋士の斎藤雅雄八段。カーデザイナーの齋藤利明は玄孫。 若くして藩主山内豊煕の御側物頭として仕えるが、おこぜ組に加わったことから1843年(天保14年)に反対派によって失脚させられる。後に吉田東洋の命によって復職し、近習目付、上士銃隊総練教授などを歴任後、慶応年間には仕置役・家老となる。1867年(慶応3年)に長崎で起きた土佐藩士によるイギリス水兵殺害事件では、後藤象二郎とともにイギリス公使ハリー・パークスと交渉して補償問題を解決した他、佐々木高行とともに坂本龍馬とも結んで武器調達に活躍した。
錦木 塚右エ門(にしきぎ つかえもん、1822年〈文政5年〉… 錦木 塚右エ門(にしきぎ つかえもん、1822年〈文政5年〉 - 1861年12月27日〈文久元年11月26日〉)は、現在の岩手県北上市(旧・陸奥国和賀郡)出身で二所ノ関部屋に所属した力士。本名は工藤とのみ伝わっている。身長、体重ともに不明。最高位は西前頭筆頭。南部藩の抱えであった。 最初は南部相撲で相撲人生をスタートさせた。1845年3月に初土俵(二段目〈現在の幕下〉)を踏んだ。1852年11月西二段目8枚目にあがり、現在でいう十枚目昇進を果たす。この場所、6勝3敗1預の優勝次点という好成績を挙げた。1856年11月場所で新入幕を果たした。幕内では目立った成績を残せず、勝ち越しも一度きり(西前頭4枚目だった1859年11月場所)と芳しくなかった。
長谷川 鉄之進(はせがわ てつのしん、1822年(文政5年)… 長谷川 鉄之進(はせがわ てつのしん、1822年(文政5年) - 1871年12月14日(明治4年11月3日))は、幕末の勤皇家、志士。名は世傑、字は公輿、号は強庵。1907年(明治40年)贈従四位。 越後長岡藩粟生津村出身。家は代々庄屋であった。15歳のとき私塾長善館に入門。26歳で江戸に遊学し、朝川善庵に師事する。ペリー来航後は尊皇攘夷を唱え志士活動に身を投じ、各地を巡る。讃岐では小橋安蔵や日柳燕石と親交を結ぶ。攘夷実行の動きに呼応して京都に上るが、文久3年(1863年)の七卿落ちに伴い長州藩へ向かう。「忠正公勤王事績」によると、長谷川と大楽源太郎が佐久間象山の殺害を久坂玄瑞に提案したところ却下されたことが長谷川の日記に書かれているという。
関東綱五郎(かんとうつなごろう、1822年 - 1886年1… 関東綱五郎(かんとうつなごろう、1822年 - 1886年11月)は、日本の侠客である。村上元三の小説『次郎長三国志』に同名で登場、清水次郎長配下の「清水二十八人衆」に数えられる大瀬の半五郎(おおせのはんごろう)と同一人物であるとされる。本名は鈴木 綱五郎(すずき つなごろう)、出生名は鈴木 綱之助(すずき つなのすけ)。関東の綱五郎(かんとうのつなごろう)とも。 1822年(文政5年)、武蔵国多摩郡上椚田村字落合(現在の東京都八王子市高尾町1915番地)に八王子千人同心を務める鈴木惣七の息子、つまり鈴木家の6代目・綱之助として生まれる。先祖は甲斐国にあったが、甲州征伐による1582年4月3日(天正10年3月11日)の武田氏滅亡に際して、同地に移住したとされる。
加藤 千浪(かとう ちなみ、1810年12月15日(文化7年… 加藤 千浪(かとう ちなみ、1810年12月15日(文化7年11月19日) - 1877年(明治10年)11月18日)は、幕末から明治時代の国学者・歌人。通称は弥三郎または弥助。号は萩園。 陸奥国白河(現在の福島県白河市)にて加藤美方と母緑川氏の子として生まれる。幼少より勉学を好み、後に江戸に出て、岸本由豆流に国学を学ぶ。歌道や書に長けていたという。 明治維新後、歌人としての名声が高く、多くの門人を抱えた。この中には伊東祐命や中島歌子などがいる。1877年(明治10年)11月18日逝去。享年68歳。墓所は深川の臨川寺。妻は三宅氏で、子供はなく養子を関氏よりとった。 顕彰碑が向島区の牛嶋神社に建立された。
三国 大学(みくに だいがく、文化7年10月1日(1810年… 三国 大学(みくに だいがく、文化7年10月1日(1810年10月28日) - 明治29年(1896年)5月31日)は、幕末の商人、儒学者。豪商三国鶴叟の三男。諱は直準。字は士繩。別称・与吉郎。鷹巣、碌々山人と号、出家後は幽眠と称した。 越前国坂井郡三国の生まれ。当初は彦根藩士中村漁村に徂徠学を学んだ。同門で机を並べていたのが、当時は彦根藩主の息子ながら先の定まらぬ捨扶持の部屋住みの身分であり、しかしのちに幕府大老として安政の大獄を主導する井伊直弼であった。 天保3年(1832年)上洛して折衷学派を学んで梁川星巌や森田節斎らと交流する。天保7年(1836年)には私塾を開き、また『孝経傍訓』を著すなどした。
菅野 八郎(かんの はちろう、文化7年8月5日〈1810年9… 菅野 八郎(かんの はちろう、文化7年8月5日〈1810年9月3日〉 - 明治21年〈1888年〉1月2日)は、岩代国梁川代官所管内の金原田村および八丈島を拠点に活動した百姓、民衆思想家。通称は金原田 八老、また単に八老とも。
勝元 鈍穴(かつもと どんけつ、文化7年6月15日(1810… 勝元 鈍穴(かつもと どんけつ、文化7年6月15日(1810年7月16日) - 明治22年(1889年)4月9日)は、幕末から明治前期の作庭家。近江国出身。 文化7年(1810年)近江坂田郡勝村(現滋賀県長浜市勝町)に生まれ、字は子接、通称は源吾と称した。勝村は勝海舟の勝家発祥の地とされる。茶道遠州流中興の立役者と言われる坂田郡国友村の辻宗範の門人となり、茶道・南画・和歌・築庭などを学んだ。茶道では宗益、南画では蘭谷または蘭岳、築庭では鈍穴と号し、茶道・南画・俳句・和歌・狂歌・華道・礼法・築庭から医術に至るまで諸道に通じ、人格高潔で、また芸術的天才の面を大いに発揮したと伝えられている。中でも、特に築庭に才を発揮した。
嚴嶋 関右エ門(いつくしま せきえもん、1810年 - 18… 嚴嶋 関右エ門(いつくしま せきえもん、1810年 - 1854年5月9日(旧暦4月13日))は、香川県丸亀市出身の元大相撲力士。本名は不明。 1810年に香川県丸亀市で生まれる。1834年11月場所において雷部屋から丸亀藩の抱え力士として初土俵を踏む。1844年10月場所で新十両昇進を果たした。現役中の1854年2月場所で二枚鑑札によって2代・稲川を襲名したが、2月場所終了から間もない同年4月13日(旧暦)に入水自殺を遂げた。45歳没。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
羽田野 敬雄(はだの/はたの たかお、1798年3月30日〈… 羽田野 敬雄(はだの/はたの たかお、1798年3月30日〈寛政10年2月14日〉 - 1882年〈明治15年〉6月1日)は、三河国宝飯郡西方村(現・愛知県豊川市御津町西方)出身の国学者・神職。旧姓は山本。通称として常陸(ひたち)や栄木(さかき)などがある。 平田篤胤門下の皇学者であり、なおかつ神職だった。明治政府の神仏分離令によって生じた廃仏毀釈運動の推進者であり、神職の地位向上に貢献した。近代的図書館活動の先駆者でもあり、自らの蔵書を元に設立した「羽田八幡宮文庫」を一般市民に広く公開した。 寛政10年(1798年)2月14日、三河国宝飯郡西方村(現・愛知県豊川市御津町西方)の上層農家の四男として生まれた。
坂井 虎山(さかい こざん、寛政10年(1798年) - 嘉… 坂井 虎山(さかい こざん、寛政10年(1798年) - 嘉永3年9月6日〈1850年10月11日〉)は、江戸時代末期の儒学者。名は華、字は公実、通称は百太郎。号は虎山または臥虎山人。門人たちによる諡は、文成先生である。墓は広島の本照寺。
柏戸 村右衛門(かしわど むらえもん、元文3年(1738年)… 柏戸 村右衛門(かしわど むらえもん、元文3年(1738年) - 寛政8年(1796年))は、武蔵国(現在の埼玉県)出身の元大相撲力士。 現在の埼玉県加須市北川辺町出身。 初代伊勢ノ海(幕内・伊勢ノ海五太夫)が開いた伊勢ノ海部屋に入門。宝暦9年(1759年)3月場所の五段目(現在の序ノ口に相当)が番付初見。大半は二段(現在の幕下に相当)の地位にあり、途中備前藩主池田家の抱えとなり、三千ノ川強右衛門を名乗ったこともある。初代没後の安永5年(1776年)1月場所に38歳にして新入幕を果たした。 安永9年(1780年)10月場所以降は既に二枚鑑札となっており、天明元年(1781年)には現役のまま勧進元をつとめる等、初代、2代伊勢ノ海(関ノ戸億右エ門)と同様、興業的手腕や事務的能力を発揮。
大黒 清勝(おおぐろ きよかつ、1726年〈享保11年〉 -… 大黒 清勝(おおぐろ きよかつ、1726年〈享保11年〉 - 1790年3月28日〈寛政2年2月13日〉)は、土佐藩士、日本の武道師範。無双直伝英信流居合術第11代宗家。字は「元右衛門」。長曾我部氏の支流で、本姓は秦氏。 享保11年(1726年)、土佐藩士(馬廻役・300石)・大黒好勝(文之丞)の三男として土佐国高知城下(現・高知県高知市)に生まれる。 武士の嗜みとして、無双直伝英信流居合を、林安太夫政詡より習う。 明和2年(1765年)、父好勝の跡目相続。 安永6年(1777年)、馬廻組頭、天明2年(1782年)大目付(大監察)切支丹改役、翌年(1783年)、軍備御用兼帯となる。 長谷川英信流居合の伝書を林安太夫政詡から受け、第11代宗家となる。
寺田 臨川(てらだ りんせん、延宝6年7月8日(1678年8… 寺田 臨川(てらだ りんせん、延宝6年7月8日(1678年8月24日) - 延享元年11月24日(1744年12月27日))は江戸時代中期の儒学者。本姓は源氏、通称は立革、半蔵、諱は高通、字は鳳翼、士豹。
服部 嵐雪(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - … 服部 嵐雪(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - 宝永4年10月13日(1707年11月6日))は、江戸時代前期の俳諧師。幼名は久馬之助または久米之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、寒蓼庵、玄峯堂、黄落庵など。松尾芭蕉の高弟。雪門の祖。 服部家は淡路出身の武家で、父服部喜太夫高治も常陸麻生藩主・新庄直時などに仕えた下級武士であった。嵐雪の生れについては、江戸湯島とする説と、淡路国三原郡小榎並村(現:兵庫県南あわじ市榎列小榎列)とする説がある。これについて潁原退蔵は、実家が淡路、嵐雪自身は江戸の生れであったため両説が伝えられたのではないかと考察している。