枡野 俊明(ますの しゅんみょう、1953年2月28日 - … 枡野 俊明(ますの しゅんみょう、1953年2月28日 - )は、日本の僧侶、庭園デザイナー(作庭家)。曹洞宗徳雄山建功寺住職、曹洞宗参禅道場主管。日本造園設計代表、多摩美術大学名誉教授、Beijing DeTao Masters Academy(北京徳稲教育機構)大師。神奈川県横浜市生まれ。 大使館、美術館、特殊施設等 ホテル、リゾート関連 指名コンペティション(コンペ)等
中根 史郎(なかね しろう、1950年 - )は、日本の造園… 中根 史郎(なかね しろう、1950年 - )は、日本の造園家、作庭家。中根庭園研究所代表取締役所長。技術士(建設部門)、樹木医、京都市立芸術大学非常勤講師。日本庭園協会理事/評議員。中根金作は父親[要出典]。 学習院大学文学部哲学科を卒業。1995年に株式会社中根造園研究所代表取締役所長就任。 作品は、神勝寺庭園賞心庭、京都公園 (キエフ) 、天台宗三千院庭園などがある。
岡田 憲久(おかだ のりひさ、1950年 - )は、日本の造… 岡田 憲久(おかだ のりひさ、1950年 - )は、日本の造園家、作庭家。名古屋造形大学名誉教授、景観設計室タブラ・ラサ主宰。大阪府生まれ。 1974年、信州大学農学部卒業。卒業後5年間は京都で庭師として修業。1989年、景観設計室タブラ・ラサ設立。1992年、名古屋造形芸術短期大学に赴任。名古屋造形大学助教授、教授を経て現在名古屋造形大学名誉教授 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
鈴木直衛(すずき・なおえ、1949年~2014年)は、日本の… 鈴木直衛(すずき・なおえ、1949年~2014年)は、日本の作庭家。玄庭園を主宰。静岡県生まれ。 山形大学卒業後の1972年、京都に赴いて1980年まで加勢造園に勤務。作庭について、実地に学ぶ。1980年から1年間、京都都園の茶庭師・山本耕三に師事した。 1985年、有限会社玄庭園設立。1990年から日本庭園協会評議員。1993年には第2回日本庭園協会賞受賞。 2000年以降にはカナダ、アメリカにて日本庭園の巡回指導をした。日本庭園協会理事・静岡県支部支部長、1997年からは学校法人中央工学校非常勤講師も歴任した。2003年ワールドデザインコンペティション代表。 代表作に沼津市若山牧水記念館、東野の庭、小原邸鳥谷の庭(沼津市鳥谷)伊豆島田の庭(裾野市)外原の庭(駿東郡清水町)湧水の庭熱海の庭(静岡県熱海市)大谷山荘別館 音信(山口県長門市)函南の庭(田方郡函南町)韮山の庭(田方郡韮山町)中伊豆の庭(田方郡中伊豆町)汀渚 ばさら邸(三重県志摩市)など多数。
北山 安夫(きたやま やすお、1949年 - )は、日本の造… 北山 安夫(きたやま やすお、1949年 - )は、日本の造園家・作庭家。造園業の北山造園 (京都市北区等持院中町)代表。 実家は、京都で有名な材料屋(庭園資材舗:しざいほ)である。実母は、愛媛県松山市の出身。京都にはほかに嵐山にも(株)北山造園があるため、等持院の北山造園と説明する場合もある。 私立平安高等学校を卒業後、1971年3月、京都産業大学経済学部を卒業した。卒業後、京都小宮山庭園創作所に入る。小宮山博康に師事。小宮山博康に評価される程、石組には秀でていた。京都小宮山庭園創作所で修行後、26歳で独立して、北山造園を設立した。 十数年前には、森蘊の友人の孫が、弟子入りしていた時期もある。
小口 基實(おぐち もとみ、1947年12月25日 - )は… 小口 基實(おぐち もとみ、1947年12月25日 - )は、長野県岡谷市出身の作庭家。 東京農業大学卒業後、日本庭園を学ぶとともに、東京・京都にて作庭家としての修行を積む。1973年帰郷、有限会社「小口庭園」を立ち上げ、1974年頃から日本庭園を中心とした作庭活動に入る。1976年から1993年にかけて、長野の庭園に関する調査結果を『信州の庭園』10巻にまとめて自費出版した。この功績により、第2回日本庭園協会賞を受賞した。
尼崎 博正(あまさき ひろまさ、1946年1月21日 - )… 尼崎 博正(あまさき ひろまさ、1946年1月21日 - )は、日本の造園学者、作庭家、京都造形芸術大学名誉教授。日本庭園研究センター所長。日本庭園・歴史遺産研究センター名誉教授。京都芸術短期大学学長、京都造形芸術大学副学長を歴任。学外では日本イコモス国内委員会理事、文化庁文化審議会文化財分科会第三専門調査会名勝委員会委員、文化庁史跡等における歴史的建造物の復元の取扱いに関する専門委員会(復元検討委員会)委員、文化財庭園保存技術者協議会評議会員、宮内庁御所離宮庭園特別整備技術指導委員、京都市美観風致審議会委員、京都市保育園連盟顧問、元離宮二条城保存整備懇談会副座長、並河靖之七宝記念館評議員、滋賀県文化財保護審議会副会長、大阪市文化財保護審議会委員、日本造園アカデミー会議副議長、日本造園学会評議員、茶の湯文化学会理事、日本造園修景協会評議員、史迹美術同攷会会長などを務める。
榊原 八朗(さかきばら はちろう、1944年 - )は、日本… 榊原 八朗(さかきばら はちろう、1944年 - )は、日本の作庭家。ランドスケープ・アーキテクト。元明星大学造形芸術(デザイン)学部教授。日比谷公園ガーデニングショーガーデン部門審査委員長。(株)ランドアート代表、(社)静岡県造園緑化協会技術顧問、京都造形芸術大学#通信教育部講師。榊原ランドスケープデザイン塾主宰。 富士宮市の農家に生まれ、 父の道楽である庭普請を遊び場に育つ。 出入りの植木屋情報に、 何となく興味を抱き東京農業大学造園学科へ進学。在学中入会した盆景同好会では、静山流家元の矢尾板静山に 「盆景」を、卒業時からは飯田十基が師事した盆栽家川本藤吉の子息、 外国人相手に盆栽栽景教室を主宰していた川本敏雄に「栽景」を学ぶ。
川名 孝一(かわな こういち Kawana Kohichi、… 川名 孝一(かわな こういち Kawana Kohichi、1930年 - 1990年)は、アメリカ合衆国で活動した造園家・作庭家・ランドスケープアーキテクト。カリフォルニア大学教授を務めるとともに、アメリカ合衆国各地に日本庭園を作庭した。『ナショナルジオグラフィック』誌は、死の直前1990年8月号で彼の作品を特集した。 北海道生まれ。1971年に米国に帰化している(日系アメリカ人)。 1951年、横浜市立大学卒業。1959年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で建築の、1964年には農学の修士課程修了。1979年、パシフィック・ウエスタン大学で博士号。その後24年間に渡り母校UCLAの講師・教授として教鞭を執り、日本の庭園芸術をベースにした庭園制作、環境デザインを実践する。
伊藤邦衛(いとう くにえ、1924年6月16日 - 2016… 伊藤邦衛(いとう くにえ、1924年6月16日 - 2016年9月29日)は、日本の造園家・作庭家・環境デザイナー。広島県出身。 1947年、東京農業大学農学部造園学科を卒業し、清水建設入社、設計部に配属。1963年に独立し、伊藤造園設計事務所創立。東京農業大学講師、日本造園修景協会常務理事、日本造園学会理事を歴任。 北の丸公園池他一連の造園設計で、日本造園学会賞計画設計作品部門受賞。1989年第11回日本公園緑地協会北村賞受賞。1994年園芸文化賞受賞。
重森 完途(しげもり かんと、1923年5月19日 - 19… 重森 完途(しげもり かんと、1923年5月19日 - 1992年12月31日)は日本の作庭家。造園家。造園史家。庭園研究家で京都林泉協会会長等を歴任。重森三玲の長男。名前はイマヌエル・カントに由来する。 京都府京都市出身。1943年に早稲田大学文学部国文科を卒業後、兵役を経て1945年に重森三玲研究所で庭園の研究を開始するが、1955年には重森完途庭園設計研究所を設立し、設計活動を開始する。1958年より芝浦工業大学講師を兼任する。1966年、外務省文化使節としてオセアニアに派遣される。京都工芸繊維大学講師で作庭家の重森千青は息子である。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
井上卓之(いのうえ たくし、1921年 - 1995年)は、… 井上卓之(いのうえ たくし、1921年 - 1995年)は、日本の造園家、作庭家。井上造園設計事務所を主宰し、日本庭園、公共造園や公園の作品を展開した。 代表作に、西村屋ホテル(招月庭)庭園 、大観荘庭園(静岡県、龍居松之助と)、修学院離宮庭園改修、左京区荒木・鈴木邸庭園、日本料理「鴨川」各店舗の庭園空間(高松武夫と)、花かごの庭(寺田邸)、西田邸、犬飼邸、立石邸、高松邸などがある。このほか紙屋川庭園(アマン京都)、美山町の庭、新千里北町パブリックアートなども手がけた。 作風は、きれいさび。 京都市左京区生まれ。1938年(昭和13年)、京都府立農林学校卒業。東京高等造園学校に進学し1941年(昭和16年)繰り上げ卒業。
荒木 芳邦(あらき よしくに、1921年 - 1997年)は… 荒木 芳邦(あらき よしくに、1921年 - 1997年)は、日本の造園家、作庭家。活動拠点は大阪。関西を中心とする日本およびドイツに多くの日本庭園、公共造園や公園作品を残した。 (日本国外の日本庭園) 作品は共通して大胆で直截的な景色作りが行われている。公園等、公共の空間で機能性を有しながら大胆な仕掛けを施すことで知られ、滝をダイナミックな階段状にする、自然風景式園に正円の園地を突如挿入する、外来種を積極的に用いたカラフルでボタニナルな植栽の庭園を構築など、従来の日本庭園作品にはみられない試みを実施。日本造園学会賞の大阪ロイヤルホテルでは、プラスティック製の擬木/擬石での庭づくりを行った。 東京における業務空間のデザインは、本人の持つ力量に対して、意外とおとなしい意匠でまとめている印象があるという[要出典]。
中根 金作(なかね きんさく、1917年8月28日 - 19… 中根 金作(なかね きんさく、1917年8月28日 - 1995年3月1日)は、「昭和の小堀遠州」と称えられた日本の造園家、作庭家。
中島 健(なかじま けん、1914年 - 2000年)は、日… 中島 健(なかじま けん、1914年 - 2000年)は、日本の造園家、作庭家。国内では法人から吉田茂をはじめ、田中角栄、河野一郎らの邸宅の庭園など、政財界の要人の邸宅の庭を設計施工のほか、世界各国で日本庭園を作庭。国内650ヶ所以上、海外20ヶ所以上の庭園を設計・施工管理したという。 暁星中学校(旧制)から早稲田大学附属第二早稲田高等学院を経て、1934年に東京高等造園学校(現・東京農業大学地域環境科学部造園科学科)に入学する。卒業後は京都にある歴史的庭園の実測調査に従事した後、東京・仙川の地で庭園設計事務所を設立、作家活動に入る。
小形 研三(おがた けんぞう、1912年2月3日 - 198… 小形 研三(おがた けんぞう、1912年2月3日 - 1988年2月13日)は、日本の造園家、作庭家。 作庭、公共造園の設計、海外への日本庭園文化の紹介、後進の教育、育成などなど、その生涯を造園分野の向上に捧ぐ。社団法人日本造園コンサルタント協会会長としては広く造園学の目的とする住環境の向上に貢献する。 自然観察から養われた作庭の発想から「自然写景式庭園」に多大の関心を持ち、飯田十基の門下となる。作庭にあたり創意工夫による岩、水、樹木などによる造景美には、伝統庭園技術の研さんを積みながら、新に現代の庭園のあり方を示され今後の指標となっていく。これらの新しい傾向の作庭活動は、後継者の養成にも貢献する。
飯島 亮(いいじま りょう、1908年〈明治41年〉4月20… 飯島 亮(いいじま りょう、1908年〈明治41年〉4月20日 - 1990年〈平成2年〉)は、日本の造園家、作庭家、庭園作家、造園研究者、造園指導者、造園教育者。元千葉大学園芸学部教授。農学博士。茨城県龍ケ崎市出身。
森 蘊(もり おさむ、1905年8月8日 - 1988年12… 森 蘊(もり おさむ、1905年8月8日 - 1988年12月14日)は、日本庭園の研究者、作庭家。庭園研究家。『作庭記』など古文献の研究と、桂離宮や修学院離宮など多くの日本庭園における実地測量や発掘調査を組み合わせて、研究や庭園の復元整備に取り組んだ。旧大乗院庭園にかかる朱塗りの反橋、日本最古の人工滝である法金剛院の青女瀧などは、森が時代考証や現地調査を経て復元した。法華寺「仔犬の庭」や慈光院の新書院庭園など、古風な作庭も自ら手掛けた。 東京府北多摩郡立川村(現・東京都立川市)生まれ。1932年に東京帝国大学農学部農学科を卒業。在学中は、田村剛の造園学の講義を聴き造園研究の道に進むことを決める。
イサム・ノグチ(Isamu Noguchi、1904年11月… イサム・ノグチ(Isamu Noguchi、1904年11月17日 - 1988年12月30日)は、アメリカ合衆国ロサンゼルス出身の彫刻家、造園家、作庭家、インテリアデザイナー、舞台芸術家。日系アメリカ人。日本名は野口 勇(のぐち いさむ)。ニューヨーク建築協会金賞、アメリカ国民芸術勲章、京都賞思想・芸術部門受賞など、アメリカと日本はもとより世界で愛された。北海道札幌市のモエレ沼公園は彼の遺作にして金字塔でもあった。 1904年、日本人詩人の野口米次郎とアメリカ人作家のレオニー・ギルモアとの間に生まれる。1907年、ノグチが3歳の時に母レオニーと来日し、米次郎と同居する。そして米次郎は武田まつ子と結婚し、ノグチは野口勇として森村学園付属幼稚園に通園する。
森脇 竜雄(もりわき たつお、1904年(明治37年)2月2… 森脇 竜雄(もりわき たつお、1904年(明治37年)2月22日 - 1973年(昭和48年)3月25日)は、日本の造園家、作庭家。東京都の公園行政に携わる。日本造園学会会長などを歴任している。シアトル日本庭園などの作庭にも関わった。生物学者の森脇大五郎は弟。
小野 勇(おの いさむ、1903年(明治36年)- 1972… 小野 勇(おの いさむ、1903年(明治36年)- 1972年(昭和47年)10月17日)は、日本の造園家、作庭家。 福島生まれ。1928年(昭和3年)、東京高等造園学校(現・東京農業大学造園科学科)卒業後、内匠寮庭園係勤務となり、1929年(昭和4年)まで霞ヶ関離宮庭園詰所勤務となる。 その後1933年(昭和8年)まで新宿御苑および朝香宮御殿庭園工事にたずさわる。同年宮内省匠生となり、赤坂離宮、新宿御苑庭園勤務となる。 1941年(昭和16年)宮内技手となり、1946年(昭和21年)退官後、通信建設工業株式会社勤務となる。 その後、1948年(昭和23年)より宮内府王殿寮庭園係に復職、1960年(昭和35年)庭園第二係長。
田中 泰阿弥(たなか たいあみ、1898年 - 1978年)… 田中 泰阿弥(たなか たいあみ、1898年 - 1978年)は、日本の作庭家、庭師。新潟県柏崎市出身。孤高の「庭匠」とよばれた。本名・田中泰治。 1929年、京都慈照寺(銀閣寺)「洗月泉」滝の石組を発見、新聞報道される。この発掘以来、慈照寺出入りの庭師となる。1931年には「相君泉」の石組、紅葉御殿及び西指庵に通ずる路の他、足利義政の築造とされるお茶井戸石組や約50坪の茶席跡と庭園を龍居松之助らと発掘。こうした慈照寺における一連の発掘修復活動によって、その名を知られるようになっていく。 茶道を長安院の住職・多田宗夢に師事。日本庭園協会新潟県支部に田中泰阿弥研究会がある。
重森 三玲(しげもり みれい、1896年8月20日 - 19… 重森 三玲(しげもり みれい、1896年8月20日 - 1975年3月12日)は、昭和期の日本の作庭家・日本庭園史の研究家。出生名は重森 計夫(しげもり かずお)。 岡山県上房郡吉川村(現・加賀郡吉備中央町吉川)の生まれ。当地には豪渓(ごうけい)と呼ばれる水墨山水画の世界を思わせる渓谷地帯がある。日本美術学校で日本画を学び、華道と茶道を習い稽古に励む。日本美術学校卒業後には東洋大学文学部に学ぶ。 大正6年(1917年)に画家の道を志し上京するが、全国から集まる才能に意気消沈する。昭和4年(1929年)京都へ移り住むと、翌年には勅使河原蒼風らと「新興いけばな宣言」を起草(当時は未発表)、いけばなの革新を世に提唱した。
桜井 長雄(さくらい ながお、Sakurai Nagao、1… 桜井 長雄(さくらい ながお、Sakurai Nagao、1896年 - 1973年7月)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の造園家、作庭家。戦前期は旧宮内省技師などとして、戦後はアメリカ合衆国に渡り、主に西海岸で活躍した。 1896年(明治29年)山梨県生まれ。1920年(大正9年)、東京帝国大学農学部実科林学科を卒業。同学科造林学第二講座に発足した造園学教室で田村剛に最初からランドスケープアーキテクトとしての教育を受けた最初の人物となる。 学校卒業後は宮内省に入省。宮内技手として1年間、諸陵寮勤務。桃山御陵造園植栽などを手がけている。翌年から内匠寮勤務。東京の皇居を中心に庭師のチーフとして携わり、以降、名の知られた造園家となる。
森 歓之助(もり かんのすけ、1894年 - 1960年)は… 森 歓之助(もり かんのすけ、1894年 - 1960年)は、日本の造園家、作庭家、造園教育者。 造園指導者として人材育成にあたる傍ら、多くの造園作品を残す。大別して住宅庭園や公園緑地(遊園地等)庭園、学校庭園等が多いが、設計のほか施工監督指導等になるものも含めると作品数は多数に及ぶ。 佐賀県唐津市生まれ。 1914年(大正3年)、千葉県立園芸専門学校(現・千葉大学園芸学部)卒業ののち、一時、当時宮内省出入の植木師として名のあった東京府下戸塚の小川重次郎方に徒弟として造園実務にたずさわった。1915年、恩師本郷高徳の推挙で大阪府吏員となり、大屋霊城と共に府営住吉公園改良工事に従事することとなる。
戸野 琢磨(との たくま、1891年 - 1985年5月10… 戸野 琢磨(との たくま、1891年 - 1985年5月10日)は、日本の造園家、作庭家、ランドスケープアーキテクト。造園分野では日本人で初めてアメリカの大学で学位を取得し、帰国後日本ではじめての造園設計事務所・ランドスケープコンサルタントを設立して設計活動した。 戦後はアメリカで日本庭園の作庭活動や講演などをとおして日米間のランドスケープアーキテクチェア分野での国際交流にも貢献した。 1959年に造園家アメリカ協会 (ASLA) メンバー・名誉会員に推挙され、米国の庭園デザイン界でも広く名を知られていた。米国大使館などの外国大使館庭園の作品も多く、日本とアメリカ両国でかなりの数の作品を残している。
奈良原牛之助(ならはらうしのすけ、Ushinosuke Na… 奈良原牛之助(ならはらうしのすけ、Ushinosuke Narahara、1888年1月15日 - ?)は、明治にアメリカ合衆国に渡り現地で日本庭園作庭に活躍した作庭家。造園家。博物館学芸員。 1920年からはアメリカ自然史博物館の展示部門の職員も務め、特にアジア、北アメリカ、アフリカの哺乳類動物園のモデルであるホイットニー記念館ホール展示の仕事で有名。AMNHライブラリーに、奈良原らによって行われたNeanderthalミニチュアグループ背景画が幾つか所収されている。 夢野久作(杉山泰道)の父である国家主義者、杉山茂丸が起こした玄洋社の社員で、玄洋社の殺人鬼といわれた奈良原到の長男。久作の親友で、幼少期は父に似て乱暴者だったという。
長岡 安平(ながおか やすへい、1842年8月10日(天保1… 長岡 安平(ながおか やすへい、1842年8月10日(天保13年7月5日) - 1925年(大正14年)12月20日)は、日本の造園家、作庭家。また茶人で、「祖庭」と号した。日本人初の公園デザイナー。 明治初期から大正にかけて東京府の公園係長などとして活躍。数々の名園を生み出した。明治年代から大正初期に至る間の造園技術の第一人者、また公園行政官のパイオニア。日本の近代公園の先駆者。 1842年(天保13年)肥前大村藩士として大村城下に生まれる。小さい頃から病弱だったため、藩士の子息に課された武芸等は嗜まず、そのためもっぱら動植物を好み、飼育や栽培等といった方面に才を見出していたという。 1870年(明治3年)郷土の先輩である楠本正隆に従って上京、1872年(明治5年)楠本が新潟県令に就任すると彼に従って新潟に赴く。
勝元 鈍穴(かつもと どんけつ、文化7年6月15日(1810… 勝元 鈍穴(かつもと どんけつ、文化7年6月15日(1810年7月16日) - 明治22年(1889年)4月9日)は、幕末から明治前期の作庭家。近江国出身。 文化7年(1810年)近江坂田郡勝村(現滋賀県長浜市勝町)に生まれ、字は子接、通称は源吾と称した。勝村は勝海舟の勝家発祥の地とされる。茶道遠州流中興の立役者と言われる坂田郡国友村の辻宗範の門人となり、茶道・南画・和歌・築庭などを学んだ。茶道では宗益、南画では蘭谷または蘭岳、築庭では鈍穴と号し、茶道・南画・俳句・和歌・狂歌・華道・礼法・築庭から医術に至るまで諸道に通じ、人格高潔で、また芸術的天才の面を大いに発揮したと伝えられている。中でも、特に築庭に才を発揮した。
阿部貞著(あべ さだあき)は、日本の作庭家。 福島県生まれ。… 阿部貞著(あべ さだあき)は、日本の作庭家。 福島県生まれ。旧制相馬中学校、旧制第二高等学校、東京帝国大学農学部農学科に進学し、原煕に学ぶ。1917年(大正6年)に大学を卒業。卒業論文は「日本庭園ニ於ケル水流及池瀑」で、同期に太田謙吉、坂田静夫、丹羽鼎三、野間守人、森一雄、山本喜誉司らがいる。 卒業後は台湾に渡り、農業研究所に勤める。帰国してからは東京府中に開講した東京高等農林学校(現在の東京農工大学農学部)教員の職に就くが、学生時代から魅せられていた造園家としての道に入る。 建築家の遠藤新とは、旧制中学校から大学までの同期生である。阿部は、遠藤が設計した笹屋ホテル・『乾荘』の庭園『豊年虫』の作庭を担当した。
久恒秀治 (ひさつね しゅうじ、1911年 - 1982年)… 久恒秀治 (ひさつね しゅうじ、1911年 - 1982年)は、日本の日本庭園研究家・造園家・作庭家・庭園評論家。 1936年(昭和11年)より京都において、風致復興会の業務と古典や書道、荼の湯を学ぶ傍ら古名園の実測を独力で開始。当時の京都にのこる名園の荒廃を憂い、後の修復工事に役立つため五十分の一という詳細な測図を逐次作製。1941年(昭和16年)ごろまでに御所関係以外は完成させている。 1953年から1956年にかけて、雑誌『芸術新潮』にいくつか日本庭園に関する論考を発表。著書に『桂御所』(昭37, 新潮社刊)『京都名園記』〈上巻・中巻・下巻〉 (1967年-1969年、誠文堂新光社) 『作庭記秘抄』 (1979年、誠文堂新光社)などがある。