小柴 保人(こしば やすと、安政6年1月2日(1859年2月… 小柴 保人(こしば やすと、安政6年1月2日(1859年2月4日) - 大正13年(1924年)5月9日)は日本の工学博士。第二高等中学校(現東北大学教養部)教授。旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て東京大学理学部(土木科)卒。土木学会会員。
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小柴 保人(こしば やすと、安政6年1月2日(1859年2月… 小柴 保人(こしば やすと、安政6年1月2日(1859年2月4日) - 大正13年(1924年)5月9日)は日本の工学博士。第二高等中学校(現東北大学教養部)教授。旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て東京大学理学部(土木科)卒。土木学会会員。
大森 与三次(おおもり よそじ、1859年2月4日(安政6年… 大森 与三次(おおもり よそじ、1859年2月4日(安政6年1月2日) - 1922年(大正11年)6月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 播磨国飾東郡、のちの兵庫県飾磨郡花田村(現姫路市)出身。漢学を学ぶ。姫路市会議員、同副議長、同議長、兵庫県会議員、姫路市米穀取引所理事、同理事長、姫路市倉庫会社取締役となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において姫路市選挙区から憲政会公認で立候補したが落選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙では立憲国民党公認で立候補して当選する。1915年の第12回衆議院議員総選挙は不出馬。1917年の第13回衆議院議員総選挙で再選。衆議院議員を2期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙では兵庫2区から立候補したが落選した。
山鹿 元次郎(やまが もとじろう、1859年2月2日〈安政5… 山鹿 元次郎(やまが もとじろう、1859年2月2日〈安政5年12月30日〉 - 1947年〈昭和22年〉12月31日)は、日本のメソジストの牧師、教育者。文筆家である。弘前教会牧師を長年務める。 津軽藩士の古田家の次男として江戸藩邸に生まれる。山鹿素行の後の津軽山鹿家の養子になり、別家を継いだ。帰郷し東奥義塾に入り、ジョン・イングと本多庸一の指導を受ける。1875年(明治8年)10月3日にイングより洗礼を受ける。 養家の山鹿家の都合で新聞社経営に参加し、記者の筆禍事件の責を負って禁錮7ヶ月判決を受けた。獄中で聖書を読んで、献身の召命を受ける。1882年に本多庸一の勧めで、弘前教会内の女学校(弘前学院)の校長になる。
寺尾 亨(てらお とおる、1859年2月1日(安政5年12月… 寺尾 亨(てらお とおる、1859年2月1日(安政5年12月19日)- 1925年(大正14年)9月15日)は、明治・大正期の法学者・アジア主義者。天文学者寺尾寿の弟。商工省官僚寺尾進、女優東山千栄子の養父。
大場 長平(おおば ちょうへい、1859年1月28日(安政5… 大場 長平(おおば ちょうへい、1859年1月28日(安政5年12月25日)- 1916年(大正5年)8月10日)は、明治から大正初期の実業家・政治家。衆議院議員、香川県会議長。 讃岐国山田郡、のちの香川県山田郡林村(木田郡林村を経て現高松市)で、大場吉次郎の二男として生まれる。漢学を修めた。1889年(明治22年)6月、家督を相続した。 1889年、讃岐鉄道取締役に就任。その他、讃岐農工銀行頭取、韓国実業監査役、東讃電気軌道(現高松琴平電気鉄道)社長などを務めた。 政界では、六条村戸長、林村会議員、木田郡四ケ池普通水利組合常設議員などを務めた。香川県会議員に選出され、1899年(明治32年)10月21日、同議長に就任し同月27日まで7日間在任した。
杉田 雄(すぎた いさお/ゆう、安政5年12月22日(185… 杉田 雄(すぎた いさお/ゆう、安政5年12月22日(1859年1月25日) - 1906年(明治39年)7月31日)は、明治時代の兵庫県神戸市の外科医。県立神戸医学校教諭・神戸病院副院長、私立杉田病院長、神戸市医師組合初代組長。脊髄炎で早世した。号は春嵐。杉田玄白4世孫。 安政5年12月22日(1859年1月25日)江戸浜町山伏井戸(東京都中央区日本橋浜町二丁目)に杉田玄端の四男として生まれた。幼名は英吉/英吉郎。7歳で木村二梅に習字、高須某に漢学を学んだ。 明治元年(1868年)10月、徳川宗家の転封に従い両親・弟杉田盛と共に沼津八幡町柳下知之旧宅に移り、沼津兵学校附属小学校に通いながら、相磯格堂にも漢籍を学んだ。
五十嵐 秀助(いがらし ひですけ、1859年1月25日(安政… 五十嵐 秀助(いがらし ひですけ、1859年1月25日(安政5年12月22日)- 1933年(昭和8年)2月11日)は、明治から大正時代の電信電話技術者。出羽米沢(山形県)出身。 安政5年(1858年)、旧米沢藩士・徳間久三郎の三男として生まれる。その後同藩士・五十嵐正和の養子となる。 1882年(明治15年)工部大学校電気科を卒業。工部省に入ったのち、逓信省技師に任ぜられる。1887年(明治20年)東京電信學校教授になり、1889年(明治22年)、電信電話事業視察のために私費で欧米各国を歴訪。 東京郵便電信局建築課長、東京電話交換局長、塞累逓信局工務部長などを歴任。東京、横浜等の電話工事の基礎を定める。
野坂 金治郎(のさか きんじろう、1859年1月24日〈安政… 野坂 金治郎(のさか きんじろう、1859年1月24日〈安政5年12月21日〉 - 1937年〈昭和12年〉2月2日)は、日本の醸造家、政治家。鳥取県会議員。鳥取県日野郡会議員。日野家畜、根雨銀行各取締役。中国貯蓄銀行監査役。日野酒造組合副組長。野坂家第9代。 伯耆国日野郡溝口宿(のち鳥取県日野郡溝口町、現伯耆町)出身。酒造業を営む。銘酒「玉の井」を醸造する。住所は日野郡溝口村大字溝口宿。 野坂家は天保年間から明治初年にかけて口日野郡の大庄屋、続いて区長・戸長などをつとめた。野坂金治郎の嗣子は野坂誠之。遺族は日野郡溝口町溝口の野坂和子。「野坂和子氏所蔵文書」は、大庄屋文書は藩からの到来書及び御用留、郡村役人同志との往復文書、構内各村からの嘆願書類がその主な内容である。
森本 駿(もりもと しゅん、1859年1月18日(安政5年1… 森本 駿(もりもと しゅん、1859年1月18日(安政5年12月15日)- 1944年(昭和19年)10月17日)は、明治から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員、兵庫県出石郡出石町長。旧姓は永井、桜井(櫻井)。 但馬国出石郡出石城下(兵庫県出石郡出石町を経て現豊岡市出石町)で、出石藩侍医・永井玄機(春嶽)の二男として生まれる。藩校弘道館で漢学を修めた。その後、東京に遊学し尺振八の塾で英学、経済学、財政学を修めた。のち森本家の養子となり、1898年(明治31年)1月に家督を相続した。 豊岡洋学校で助教を務めた。上京して桜井勉の書生となる。大蔵属に任じられ、科目条例取調委員、各庁営繕規則取調委員などを務めた。
小金井 良精(こがねい よしきよ、1859年1月17日(安政… 小金井 良精(こがねい よしきよ、1859年1月17日(安政5年12月14日) - 1944年(昭和19年)10月16日)は、明治から昭和にかけて活躍した解剖学者・人類学者。森鷗外の妹婿であり、星新一の祖父にあたる。陸軍軍医総監椰野巌は甥である。 越後長岡藩士で家老河井継之助に信任を得て郡奉行などの長岡藩要職を歴任した小金井儀兵衛の次男として、越後国古志郡長岡(現新潟県長岡市)の今朝白町に生まれた。母は新潟奉行小林又兵衛の長女幸子。長兄は自由民権運動家で衆議院議員を務めた小金井権三郎。母幸子の兄小林虎三郎は、吉田松陰と並び佐久間象山門下の二虎と称された。 1870年(明治3年)10月大学南校を経て、1872年(明治5年)10月第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)に入学、1880年(明治13年)7月に東京医学校(同年5月第一大学区医学校から改称)を卒業した。
坪井 九馬三(つぼい くめぞう、安政5年12月12日(185… 坪井 九馬三(つぼい くめぞう、安政5年12月12日(1859年1月15日) - 1936年1月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授。 1859年、摂津国西成郡九条村(現大阪府大阪市西区)に生まれる。 幼少時は僧侶の叔父に教育を受けた。14歳の時に父を失い、以後は親戚に引き取られ、大阪開成所と造幣寮の日進学社で学んだ。17歳の時に東京外国語学校に入学し翌年卒業。東京開成学校を受験し入学する。 1881年、東京大学文学部政治理財学科を卒業。1885年、同理学部応用化学科を卒業し、文学士と理学士という2つの学位を取得した。1886年に東京大学講師となる。その後、文学部と理学部の教員を兼務した後、史学に専念することとなる。
田中 源太郎(たなか げんたろう、1859年1月12日〈安政… 田中 源太郎(たなか げんたろう、1859年1月12日〈安政5年12月9日〉- 1923年〈大正12年〉2月9日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、大地主。埼玉県多額納税者。族籍は埼玉県平民。 武蔵国葛飾郡樋籠村(のち埼玉県北葛飾郡幸松村、現:春日部市)で、北葛飾郡有数の大地主であり、同郡随一の素封家・田中為次郎の長男として生まれる。家業の酒造業を継承した。 樋籠村戸長、八丁村連合戸長を歴任し、庄内古川改修などに尽力した。1911年(明治44年)、立憲政友会所属で埼玉県会議員に当選した。同年10月13日に就任した。1915年(大正4年)、県会議員に再選された。 1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられた。
高畑 挺蔵(たかはた ていぞう、1859年1月(安政5年12… 高畑 挺蔵(たかはた ていぞう、1859年1月(安政5年12月) - 1910年(明治43年)8月31日)は、日本の明治期における耳鼻咽喉科医。長崎医学専門学校耳鼻咽喉科教授、現在の長崎大学医学部耳鼻咽喉科の基礎を築く。伊予国出身。 1859年1月((旧暦)安政5年12月)、伊予喜多郡内子村(現愛媛県大洲市)に大洲藩士の子として生まれ、初め挺助と称した後に挺蔵に改めた。1874年(明治7年)東京外国語学校に入学し、1879年(明治12年)東京大学医学部に入学し、東京大学が東京帝国大学となった1886年(明治19年)度に卒業し、大学同期には伊東重・岡田国太郎・桂秀馬・佐藤恒久・鈴木愛之助・三輪徳寛等がいた。
第11代齋藤 用之助(さいとう ようのすけ、1859年(安政… 第11代齋藤 用之助(さいとう ようのすけ、1859年(安政6年) - 1933年(昭和8年))は、沖縄県の行政官、実業家。中頭郡長、首里区長、島尻郡長、那覇区長を歴任した。 佐賀藩(現在の佐賀県佐賀市諸富町山領)で誕生し、1877年(明治10年)、佐賀で巡査となるが、明治政府による1872年(明治5年)から続いた琉球処分の結果、1879年(明治12年)に琉球が沖縄県となったため、初代県令に任命された鍋島直彬に随って沖縄に赴任した。その後、県行政職に転じ、46年間にわたって沖縄の近代化に大きく貢献した。
今田 虎次郎(いまだ とらじろう、1859年 - 1940年… 今田 虎次郎(いまだ とらじろう、1859年 - 1940年)、日本の警察官。大阪府曽根崎警察署長の後に、初代のハンセン病療養所外島保養院院長を1909年から1926年まで務め、患者の自治を認めた。 1859年、岡山県邑久郡本庄村(現:瀬戸内市)にて今田幸次郞の長男として出生。大阪にでて、警察官になる。数か所の警察署長を勤務。一時高知県にでる。大阪警察署のなかのNo.1である曽根崎警察署長から、1909年外島保養院の所長になる。当時、ハンセン病療養所所長は、九州療養所を除き、警察署長であった。浮浪患者が多く、警察署長が都合がよかった。事務系職員にも自分の部下であった職員を連れていった。一人は警察署長であった。
桜田 百衛(さくらだ ももえ、1859年〔安政6年〕 - 1… 桜田 百衛(さくらだ ももえ、1859年〔安政6年〕 - 1883年〔明治16年〕1月18日)は、岡山県出身で明治初期に活躍した自由民権派のジャーナリスト。政治小説の創始者の一人としても知られる。別号に百華園主人がある。 1859年(安政6年)、備前国(現在の岡山県備前市)に生まれた。1872年(明治5年)頃上京し、東京外国語学校でドイツ語を学んだが中退。竹内正志や栗原亮一らの影響でと自由民権運動に関わるようになり、1874年(明治7年)に愛国公党に参加した。しかし、病気のため1880年(明治13年)に一時帰郷した。 1881年(明治14年)再上京し、自由党の結党に参加。党の最初の機関紙だった『自由新聞』の記者となり、政治小説を連載するようになる。
野口 代治(のぐち だいじ、1859年(安政6年5月) - … 野口 代治(のぐち だいじ、1859年(安政6年5月) - 1911年(明治44年)12月2日)は、明治時代の政治家。実業家。衆議院議員。 美濃国中島郡大浦村(岐阜県中島郡大浦村、羽島郡大浦村、正木村を経て現羽島市)出身。岐阜中学校に学ぶ。 学務委員、所得調査委員、岐阜県会議員、同常置委員、徴兵参事員、地方衛生会員、大浦村外四ヶ村長、正木村会議員を歴任した。実業界では、三井物産会社社員、岐阜物産、岐阜倉庫各社長を務めた。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙では岐阜県第3区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
東条 喜惣治(東條、とうじょう きそうじ、1859年(安政5… 東条 喜惣治(東條、とうじょう きそうじ、1859年(安政5年12月) - 1932年(昭和7年)4月21日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 下総国市原郡(現・千葉県市原市)生まれ。和学と漢学を学ぶ。養老村(のち三和町、現・市原市)書記、同村長となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において千葉1区から進歩党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙は不出馬。1932年に死去した。
高橋 与市(與市、たかはし よいち、1859年(安政5年12… 高橋 与市(與市、たかはし よいち、1859年(安政5年12月) - 1931年(昭和6年)2月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 上総国望陀郡(のち千葉県君津郡、現・木更津市)に生まれる。馬来田村(のち富来田町、現・木更津市)長となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において千葉7区から弥生倶楽部所属で立候補して初当選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では自由党から立候補して復帰した。衆議院議員を2期務め、1896年に当選無効により衆議院議員を退職した。1931年死去。
丸山 督(まるやま ただし、1859年(安政6年5月)- 1… 丸山 督(まるやま ただし、1859年(安政6年5月)- 1924年(大正13年)3月7日)は、明治時代の政治家。弁護士。衆議院議員(1期)。 新庄藩領最上郡新庄(山形県最上郡新庄町を経て現新庄市)出身。1885年(明治18年)代言人となり、山形市参事会員、山形県会議員、同議長を歴任した。1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では山形県第4区から出馬し当選。弥生倶楽部に所属し衆議院議員を1期務めた。墓所は多磨霊園。
6代 菅野 伝右衛門(すがの でんえもん、1859年(安政6… 6代 菅野 伝右衛門(すがの でんえもん、1859年(安政6年3月) - 1900年(明治33年)10月10日)は、明治時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。本名は友次郎。 のちの富山県高岡市木舟町に生まれる。1889年(明治22年)、正村五平と共に高岡銀行を設立。1893年(明治26年)には高岡紡績を創立した。さらに翌年、高岡経済会を組織し、1896年(明治29年)高岡商業会議所初代会頭に就任した。ほか、高岡市参事会員、同学務委員、富山県会議員などを歴任した。 1897年(明治30年)には富山県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1900年(明治33年)3月19日まで在任した。
島村 成達(嶋村、しまむら せいだつ、1859年(安政6年1… 島村 成達(嶋村、しまむら せいだつ、1859年(安政6年10月) - 1903年(明治36年)11月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 対馬国下県郡(のち長崎県下県郡、現・対馬市)生まれ。対馬藩校で学ぶ。小茂田村(のち佐須村→厳原町、現・対馬市)長となる。また、青年団を組織し、対馬の島政に力を尽くした。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において長崎6区から自由党所属で立候補したが1票差で落選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では自由党から立候補したが落選。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では自由党から立候補し34票を獲得、対立候補と同数だったが、島村が年長者のため当選者となった。
関口 長太郎(せきぐち ちょうたろう、1859年 - 189… 関口 長太郎(せきぐち ちょうたろう、1859年 - 1896年〈明治29年〉1月1日)は、明治時代の日本の教育者。日本統治下の台湾において初期の日本語教育に尽力し、芝山巌学堂の教師として赴任中に殉職した。台湾教育史において「六士先生」の一人として記憶されている。 関口長太郎は、三河国幡豆郡(現在の愛知県西尾市)出身。地元では西尾小学校の初代校長を務めた人物として知られている。1895年、日本が下関条約により台湾を領有したのち、文部省の伊沢修二の指導のもと、台湾初の日本語教育機関「芝山巌学堂」が設立され、関口はその教師として赴任した。 1896年1月1日、芝山巌学堂の教師6名と用務員1名は、元旦の拝賀式に向かう途中、抗日ゲリラに襲撃され全員が殺害された。
嵐山 捨吉(あらしやま すてきち、安政6年(1859年) -… 嵐山 捨吉(あらしやま すてきち、安政6年(1859年) - 明治43年(1910年)10月4日)は、越前国足羽郡(現福井県福井市)出身の元大相撲力士。本名は佐々木 捨吉(のち八太夫)。京都相撲(松ヶ枝部屋)から東京(藤嶋→伊勢ノ海→千賀ノ浦)を経て最終的には小野川部屋(大阪相撲)所属。最高位は東京では小結、大阪・京都では大関を務めた。 初め京都相撲の松ヶ枝政右衛門の弟子となり石火矢から隅田川と名乗り二段目まで進んだ。明治17年(1884年)1月東京相撲に加入。嵐山 捨吉を名乗って幕下中位に付け出されると19年(1886年)5月に入幕、21年5月小結に進んだ(張出小結の第1号)。しかし1場所で平幕に下がり23年(1890年)5月全休して東京を去った。
加藤 与次兵衛(與次兵衞、かとう よじへえ、1859年(安政… 加藤 与次兵衛(與次兵衞、かとう よじへえ、1859年(安政6年1月) - 1922年(大正11年)2月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。福井銀行重役。 越前国足羽郡(のち福井県足羽郡六条村→足羽村→足羽町、現・福井市)生まれ。1882年(明治15年)泊園書院に入塾し漢学を学ぶ。今立郡稲荷村外六ヶ村戸長、六条村長、福井県会議員、福井銀行取締役となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において福井1区から弥生倶楽部所属で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1894年3月の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では無所属で立候補したが得票数が1票で落選した。
森 輝見(もり きけん、1859年(安政6年10月) - 1… 森 輝見(もり きけん、1859年(安政6年10月) - 1923年(大正12年)12月17日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。年に改名。 讃岐国三野郡比地大村(のち香川県三豊郡豊中村→豊中町、現・三豊市)生まれ。皇学、漢学と英語を学ぶ。香川県会議員、同常置委員、三野郡連合会議員となる。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において香川5区から自由党公認で立候補して当選した。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で再選。衆議院議員を2期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1923年に死去した。
天春 文衛(あまがす ぶんえい、1847年12月16日(弘化… 天春 文衛(あまがす ぶんえい、1847年12月16日(弘化4年11月9日) - 1927年(昭和2年)8月24日)は、日本の政治家、実業家。帝国議会において、衆議院議員(政友本党所属)や貴族院多額納税者議員を務めた。朝明郡の大地主・天春家の当主。伊勢国三重郡保々村出身(現在の三重県四日市市保々地区出身)。 明治時代から大正時代にかけての政治家で、農事改良や地価改良運動に取り組んだ。 天春文衛は、朝明郡中野村の名門地主の天春家の跡継ぎとして弘化年間に誕生した。朝明郡の中野村は以下の変遷の地方自治体となる。 東京に上京して、島田元林の塾に入塾して学業を積み政治家となった。三重郡保々村の大地主であった。
岡本 則錄(おかもと のりふみ、おかもと のりぶみ、1847… 岡本 則錄(おかもと のりふみ、おかもと のりぶみ、1847年12月7日(弘化4年10月30日) - 1931年(昭和6年)2月17日)は、日本の数学教育者、和算家、陸軍教授。和算から西洋数学へ転向し、文科省に横書きの教科書を刊行するよう建議した。日本数学会の前身である東京数学会社の設立に携わった。 海軍の中川勝行と荒川重平の訳語統一を支援し、「公理」「単位」「数学」などの語を発案した。 金融業を営む後藤誠作と後藤くにの間に長男として生まれ、最初は後藤を名乗った。父誠作の没後に岡本備中守にあやかり姓を岡本とした。和算家としては長谷川弘に師事した。花柳流に通っていたため貧しくなり、弟子の松岡文太郎に助けられて生活していた。
石川 柳城(いしかわ りゅうじょう、弘化4年10月26日(1… 石川 柳城(いしかわ りゅうじょう、弘化4年10月26日(1847年12月3日) - 昭和2年(1927年)11月17日)は、明治-大正時代の南画家。尾張国海部郡佐屋村(現:愛知県愛西市佐屋町)出身。 名は戈足。字は子淵、通称金三郎のち孝蔵。雅号は柳城。本姓は伊東。吉田稼雪の門。京都に出て日根野対山・中西耕石らと交わり、また台湾や中国に歴遊して研鑽をつみ、南画の泰斗としてその名を知られた。 弘化4年10月26日(1847年12月3日)、尾張国海部郡佐屋村(現:愛知県愛西市佐屋町)の旧尾張藩史、伊藤耕斎の第三子(伊藤金三郎)として生まれる。文久元年(1861年)、14歳で吉川家の養子となり「考蔵」と改名。
馬屋原 二郎(うまやばら / うまやはら / まやはら じろ… 馬屋原 二郎(うまやばら / うまやはら / まやはら じろう、弘化4年10月17日〈1847年11月24日〉 - 1915年〈大正4年〉11月3日)は、幕末の長州藩士、明治・大正期の裁判官・政治家。貴族院勅選議員。別名、小倉衛門介、小倉右衛門介・衛門太。 長門国阿武郡萩江向村(現山口県萩市)で長州藩士・馬屋原良蔵の二男として生まれる。同志と干城隊、御楯隊を組織して、馬関、三田尻に屯営し、下関戦争、第二次長州征討の小瀬川口の戦いなどに従軍し軍功を挙げた。 明治2年(1869年)留学願を提出し、明治3年(1870年)周布金槌(周布公平)、光田三郎(光妙寺三郎)と共に長州藩費留学生としてフランスに派遣され、ベルギーの大学で法学を学んだ。
渋沢 市郎(しぶさわ いちろう、弘化4年10月15日〈184… 渋沢 市郎(しぶさわ いちろう、弘化4年10月15日〈1847年11月22日〉 - 1917年〈大正6年〉1月19日)は、日本の政治家、実業家、養蚕家、篤農家。深谷銀行取締役。族籍は埼玉県平民。幼名は須永才三郎。子爵・渋沢栄一の妹婿で従弟。 幕領上野国新田郡成塚村(後・群馬県新田郡強戸村、現・太田市)に生まれた。須永惣次郎の二男。母は渋沢宗助(2代目)の娘で渋沢市郎右衛門(先代の市郎)の妹。兄は須永伝蔵。渋沢栄一が東京に移り、別に一家を創立したため、その妹婿となり渋沢市郎右衛門家(中ノ家)を承継した。1892年、選ばれて八基村会議員となり1899年、名誉村長に推薦された。1905年、職を辞し県会議員に当選した。
中田 直慈(なかた なおしげ、1847年11月22日(弘化4… 中田 直慈(なかた なおしげ、1847年11月22日(弘化4年10月15日) - 1902年2月22日)は、日本の宮内官僚。大正天皇が皇太子時代の東宮主事や、内大臣秘書官、宮内書記官等を歴任した。位階および勲等は正五位・勲四等。 羽後亀田藩士中田曾平、母栗原佐登の長男として、亀田城下徒士町(秋田県由利郡亀田町→岩城町→現在は由利本荘市岩城亀田)に生まれた[要出典]。幼名は長吉。のちに久米蔵と改めた。幼より学を好み、史籍に通暁していた。学問に優れ、長じて藩校長善館の教授となり、後、学監として子弟の教育にあたった。戊辰戦争時は17歳で、藩の斥候として活躍し、槍の名手として名を馳せた。 1870年(明治3年)の数え年25歳時、鳥海弘毅、久野謙次郎らとともに貢士に抜擢され、[要出典]藩命で上京した。
最上 広胖(もがみ こうはん/ひろみ、1847年11月16日… 最上 広胖(もがみ こうはん/ひろみ、1847年11月16日(弘化4年10月9日) - 1930年(昭和5年)3月17日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 出羽国平鹿郡角間川村(角間川町、大曲市を経て現大仙市)(現秋田県)で地主・角間川六人衆の最上久右衛門の長男として生まれる。福島県中村の二宮漢学塾で学んだ。1880年(明治13年)腐れ米追放のための資金融資を目的とした秋田改良社を設立し、支配人となる。1894年(明治27年)平鹿銀行と改称し、同頭取に就任した。 1897年(明治30年)秋田県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
曾根 俊虎(そね としとら、1847年11月13日〈弘化4年… 曾根 俊虎(そね としとら、1847年11月13日〈弘化4年10月6日〉 - 1910年〈明治43年〉5月30日)は、幕末期の武士(米沢藩士)、大日本帝国海軍大尉、号は暗雲、中国名は曾嘯雲。幼名は小太郎。近代日本史におけるアジア主義の中の最重要人物とされ、興亜会の創立者としてよく知られている。 米沢藩の儒者・曽根敬一郎の子。曽根家は明治元年まで代々上杉家の家臣(馬廻組)を勤め、戊辰戦争後に父・魯庵を失った後、俊虎は百五十石を賜っている。藩校興譲館で漢学を学び、雲井龍雄の感化を受けた。戊辰戦争で父を失った後、米沢で渡辺洪基に英学を学び、さらに江戸に出て慶應義塾に入り、福澤諭吉・吉田賢輔に洋学を学んだ。
法橋 善作(ほっきょう ぜんさく、1847年11月12日〈弘… 法橋 善作(ほっきょう ぜんさく、1847年11月12日〈弘化4年9月28日〉 - 1923年〈大正12年〉2月19日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(鳥取県郡部選出、当選1回)。大阪商業会議所副会頭。族籍は大阪府平民。 鳥取県日野郡阿毘縁村(現日南町)に生まれる。法橋助作の二男。漢学を学ぶ。明治初年郷里を出て、大阪に来る。後に東京に遊ぶ。この間翻訳書を読んで略世界の事情に通じ、官民の間に多くの交友を有する。 1882年頃洋銀相場に手を出して一敗地に塗れ、ほとんど起つことができなくなる。しかしようやくにして失敗を挽回し1887年頃より、小泉清左衛門、森作太郎、播本孝良等と共に公共事業に奔走する。
小渕 志ち(おぶち しち、1847年11月9日(弘化4年10… 小渕 志ち(おぶち しち、1847年11月9日(弘化4年10月2日) - 1929年(昭和4年)3月16日)は、上野国勢多郡石井村(現・群馬県前橋市)出身の女性実業家(製糸家)。愛知県東三河地方の玉糸製糸業の先覚者とされ、特に豊橋市では「玉糸製糸の祖」として顕彰されている。 座操器による玉糸の操糸法を確立させ、玉繭という屑繭から高品質の生糸を繰ることに成功した。1885年(明治18年)に渥美郡二川町に製糸工場(後の糸徳製糸)を建設した。糸徳製糸の経営の傍ら、東三河地方で同業組合の結成を促進するなど、製糸業の発展に大きな功績をあげた。 弘化4年(1847年)10月2日、上野国勢多郡石井村(現・群馬県前橋市富士見町石井芝110番地)に生まれた。
荘田 平五郎(しょうだ へいごろう、1847年11月8日(弘… 荘田 平五郎(しょうだ へいごろう、1847年11月8日(弘化4年10月1日) - 1922年(大正11年)4月30日)は、豊後国臼杵藩出身の明治・大正期の三菱財閥の実業家・教育者。 長崎造船所第2代所長、三菱造船所支配人等を経て、三菱合資会社理事長、日本郵船社長、会長、東京海上火災保険会社会長等三菱の要職を歴任して大番頭といわれた。海員掖済会や日本勧業銀行、満鉄等の創立にも携わり、三菱商業学校(明治義塾)校長、三菱工業予備学校所長として三菱社員の教育にあたった。勲四等旭日小綬章、賜・銀杯一組。 弘化4年(1847年)、豊後国臼杵(現・大分県臼杵市)に、百石の世禄を食む臼杵藩士の儒者・荘田雅太郎允命の長男として生まれる。
井上 操(いのうえ みさお、弘化4年9月20日(1847年1… 井上 操(いのうえ みさお、弘化4年9月20日(1847年10月28日) - 明治38年(1905年)2月23日)は、日本の法律家。 信濃国松代城下(現・長野県長野市)に松代藩士・井上五郎左衛門の子として生まれる。藩の兵制士官学校で武田斐三郎について学び、司法省法学校に入学。在学中に山縣有朋の知遇を得る。1876年卒業。1882年から明治法律学校で治罪法(刑事訴訟法)の講義を担当。1886年、東京帝国大学教授に任じられるが、判事に転じて大阪控訴院評定官となり、その後、大井憲太郎らによる大阪事件の裁判のため、大阪重罪裁判所裁判長となった。関西法律学校が開校すると刑法などの講義を担当する。1890年大阪控訴院部長に進むが、1895年病気のため帰郷。
菊池 九郎(きくち くろう、1847年10月26日(弘化4年… 菊池 九郎(きくち くろう、1847年10月26日(弘化4年9月18日) - 1926年(大正15年)1月1日)は、日本の武士(弘前藩士)、教育者、官吏、政治家。東奥義塾創立者。新聞『東奥日報』創刊者。東津軽郡郡長、初代・第7代弘前市長、山形県知事、農商務省農務局長、衆議院全院委員長等を歴任。諱は武行。 「東奥の西郷隆盛」と言われ絶賛された。正五位勲四等旭日小綬章。 弘前藩(津軽藩士)・菊池新太郎の長男として弘前城下に生まれる。幼名は喜代太郎。 藩校・稽古館に学び、皇漢の学を修め、1864年(元治元年)より藩の勤務。藩校・稽古館で司監を務める。戊辰戦争に際して藩論が新政府支待に傾くと脱藩して庄内藩に向かう。
不知火 光五郎(しらぬい こうごろう、1847年10月15日… 不知火 光五郎(しらぬい こうごろう、1847年10月15日〈弘化4年9月7日〉 - 1882年〈明治15年〉7月11日)は、大坂相撲で活躍した元力士。湊部屋(大阪相撲)に所属していた。 本名は佐藤 幸五郎(後に佐藤 光五郎に改名)。身長,体重は不明。出身地は筑前国嘉麻郡下山田(現在の福岡県嘉麻市下山田)。 最高位は大関(大阪相撲)。横綱を締めた錦絵が残るが、図柄は他力士の流用であり、土俵入りを行った記録はない。「山響改 不知火光右衛門」とあり改名の記念品との見方もある。 筑前国嘉麻郡下山田で佐藤利平の次男として出生。幼少の頃から力持ちとの評判で、巡業で訪れた、同じ筑前国出身の梅ヶ谷藤太郎(後の第15代横綱)に見初められ、相撲界に入門。
窪 全亮(くぼ ぜんりょう、1847年9月28日(弘化4年8… 窪 全亮(くぼ ぜんりょう、1847年9月28日(弘化4年8月19日)- 1913年5月11日)は、日本の教育者。明治および大正時代に、現在の東京都稲城市で活動した。号は「素堂」。「稲城」の地名の命名者という説がある。 1847年に長沼村(現稲城市)に生まれる。若い頃江戸に出て、大沼枕山に学ぶ。 1871年に郷里の長沼村に作られた東長沼郷学校「博文学舎」の教員となる。翌年、学制が発布されると尋常小学校の教員に就任した。 1880年(明治13年)に私塾「奚疑塾」(けいぎじゅく)を自宅に開いた。この塾は尋常小学校卒業者を対象とし、広く生徒が集まった。奚疑塾の名は、帰去来辞の「樂夫天命復奚疑」に由来する。
小林 清親(こばやし きよちか、1847年9月10日(弘化4… 小林 清親(こばやし きよちか、1847年9月10日(弘化4年8月1日)- 1915年(大正4年)11月28日 )は、明治時代の浮世絵師。明治10年(1877年)ごろに、江戸から移り変わる東京の様子を版画で表現した。 江戸本所にて幕臣で本所御蔵小揚頭取を務める小林茂兵衛の子として生まれる。母は浅草御蔵方小揚頭を務めた松井安之助の長女ちか。9人兄弟の末子で、幼名は勝之助。小林家は足軽級の軽輩であったが、蔵米を扱う職務上、番方の同心より裕福であり、家には剣客の居候がおり、また出入りの医師もいるほどであった。 1862年(文久2年)、15歳の時に父が亡くなった為、勝之助が元服し、清親を名乗り、家督を継ぐ。
古川 黄一(黃一、ふるかわ きいち、1847年8月21日(弘… 古川 黄一(黃一、ふるかわ きいち、1847年8月21日(弘化4年7月11日)- 1914年(大正3年)11月3日)は、幕末の平戸藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国松浦郡平戸村(長崎県北松浦郡平戸村、平戸町を経て現平戸市)で、平戸藩士・吉川右衛門兵衛の長男として生まれる。藩儒の平田貞次郎、楠本瑞山らから漢学を学んだ。慶応2年(1866年)藩校維新館学員に就任。王政復古の際には藩主松浦詮に従って京都に滞在し、明治2年(1869年)藩主の近侍職となった。 廃藩置県後は実業界に転じた。1885年(明治18年)平戸士族授産生産社副社長に就任し、その後同社長に就任。1887年(明治20年)第九十九銀行(現十八親和銀行)取締役頭取に就任し、1902年(明治35年)7月、同頭取を退任。
月形 潔(つきがた きよし、弘化4年6月27日(1847年8… 月形 潔(つきがた きよし、弘化4年6月27日(1847年8月7日) - 明治27年(1894年)1月8日)は、江戸時代末期の福岡藩士、明治時代の官僚。北海道樺戸集治監典獄、樺戸・雨竜・上川三郡郡長として北海道開拓に携わる。樺戸郡月形町の町名は彼の姓に由来している。 弘化4年(1847年)、筑前国遠賀郡中底井野村(現福岡県中間市中底井野)で旭迎堂を開いていた儒学者でもある福岡藩士月形健(春耕)と伊藤常足の門人の宮崎省庵の娘の竹との間に生まれ、直吉と名付けられる。 嘉永3年(1850年)鞍手郡植木村(現福岡県直方市)に伯父(父の長兄)の月形深蔵(漪嵐)が隠居して教授所を開き、直吉は深蔵の元に足しげく通い、朱子学や剣術を学ぶ。
飯田 俊徳(いいだ としのり、弘化4年6月25日〈1847年… 飯田 俊徳(いいだ としのり、弘化4年6月25日〈1847年8月5日〉 - 1923年〈大正12年〉8月27日)は、日本の鉄道の父といわれる井上勝らと共に、日本の鉄道敷設に努めた明治時代の官僚、技術者である。山口県萩市出身。元長州藩士。 萩藩大組飯田家の子として生まれた。はじめは吉次郎といった。 藩校明倫館に学んだ後、吉田松陰・大村益次郎らに師事する。1864年、高杉晋作率いる奇兵隊にも所属していた。 1867年(慶応3年)12月、藩命で長崎・米国・オランダへ留学した(この時飯田と共に派遣されたのが、松下村塾時代の同期生でもあった渡辺蒿蔵)。帰国後、工部省鉄道局に入局。 1877年(明治10年)、大阪停車場(現大阪駅)構内にて日本最初の鉄道技術者養成機関として設立された工技生養成所で教鞭を執り、多くの日本人技術者らを育て上げる。
市川 文吉(いちかわ ぶんきち、1847年8月3日(弘化4年… 市川 文吉(いちかわ ぶんきち、1847年8月3日(弘化4年6月23日) - 1927年(昭和2年)7月30日)は、明治時代のロシア語通訳、外交官、教育家。幼名は秀太郎。 1847年、広島藩士・市川兼恭の長男として江戸神田新白銀町で生まれる。1860年(安政7年)、蕃書調所の仏学稽古人となり、1864年(元治元年)、開成所の仏学科教授手伝並に任ぜられた。 かねてより駐日ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチは幕府にロシアへ留学生を送ることを提案していた。1865年(慶応元年)、幕府は提案を採り上げ、遣露留学生を送ることを決定。当時開成所教授で、ロシアとロシア語に関心を持っていた父の推薦で留学生に選ばれた。
10代 佐藤 助九郎(さとう すけくろう、1847年7月29… 10代 佐藤 助九郎(さとう すけくろう、1847年7月29日(弘化4年6月18日)- 1904年(明治37年)10月20日)は、日本の実業家・慈善家。総合建設会社(ゼネコン)の佐藤工業株式会社創業者。富山県砺波郡柳瀬(現砺波市)生まれ。多くの橋の架設に私費を投じ、又、本願寺富山別院が焼失した際、2ヵ月後に「蓮如上人400回忌法要」という大行事を控えていた本願寺の為に結果的に無償で昼夜突貫で再建した。 1500年代の佐藤家の祖佐藤助左衛門から数えて9代目佐藤助九郎の子で、名は10代目貞次であるが、佐藤工業の創業者、初代助九郎と称している。 貞次は近郷に並ぶ者のない豪力と胆力の優れた父の資質を受け継ぎ、相撲・盤持ちなどを得意とし“力持ち貞次”といわれた。
物集 高見(もずめ たかみ、弘化4年5月28日(1847年7… 物集 高見(もずめ たかみ、弘化4年5月28日(1847年7月10日) - 昭和3年(1928年)6月23日)は、明治から大正に活動した国学者。 豊後国速見郡杵築(現・大分県杵築市)に生まれる。父は国学者の物集高世で、高見はその二男三女の長男であった。幼名素太郎、後に善五郎と改める。鶯谷・菫園または埋書居士と号する。 少年時代、故郷で漢学と国学を修める。慶応元年(1866年)、長崎に出て蘭学を修める。慶応2年(1867年)に京都へ出て、玉松操に師事して国書を修める。 明治2年(1869年)に父と上京。明治3年(1870年)5月、平田銕胤の門に入り国学を修めたほか、神祇官職員の東条琴台に師事して漢学を修める。
知花 朝章 (ちばな ちょうしょう、1847年7月9日(尚育… 知花 朝章 (ちばな ちょうしょう、1847年7月9日(尚育13年5月27日) - 1929年(昭和4年)5月18日)は、琉球王国時代から大正にかけての沖縄県の唐手家、実業家、政治家。 琉球藩時代は砂糖奉行等を務め、廃藩後は尚家経営の沖縄広運(株)社長。1908年には初の民選首里区長に選ばれた。 唐手は松村宗棍に師事した。 1847年、首里当蔵町(しゅりとうのくら)に生まれる。知花家は尚質王の第五王子、東風平王子朝春(こちんだあんじちょうしゅん)を始祖とする勝連御殿(かちれんうどぅん)から分家した首里士族であり、琉球王国時代は知花殿内(ちばなどぅんち)と呼ばれた名家であった。小林流開祖の知花朝信は甥に当たる。
武部 小四郎(たけべ こしろう、弘化3年7月(1846年) … 武部 小四郎(たけべ こしろう、弘化3年7月(1846年) - 明治10年(1877年)5月3日)は、幕末の福岡藩士、勤皇家、自由民権運動家。名は(建部)自成。通称は小四郎、燕之允。父は建部武彦、伯父に黒田一葦(母の兄)、従兄弟に加藤堅武(父の妹の子)が居る。