伊東 祐賢(いとう すけかた、1836年5月11日(天保7年… 伊東 祐賢(いとう すけかた、1836年5月11日(天保7年3月26日)- 1902年(明治35年)5月27日)は、幕末の津藩士、明治期の公吏・政治家。衆議院議員、三重県初代旧津市長。幼名・元太郎、謹衛。号・松濠。 伊勢国安濃郡津西堀端(現三重県津市)で、津藩士・第7代伊東弥右衛門祐尚の長男として生まれる。藩校有造館で斎藤拙堂、土井聱牙に師事した。1851年(嘉永4年)藩主藤堂高猷の小姓役となる。有造館の句読師に抜擢された。戊辰戦争では小隊長として出征し、中隊令士に進んだ。版籍奉還後、津藩大属に就任。廃藩置県後、安濃津県庁(現三重県庁)に出仕し、三重県権中属、同警部、朝明郡長、安濃郡長などを歴任した。
三田 昇馬(みた こうま、1836年4月30日(天保7年3月… 三田 昇馬(みた こうま、1836年4月30日(天保7年3月15日)- 1901年(明治34年)5月20日)は、幕末から明治期の徳島藩家老稲田家重臣、裁判官、政治家。貴族院勅選議員。初名・直方、号・高陽間人。 淡路国津名郡洲本城下洲本紺屋町(現兵庫県洲本市)で、稲田家家臣・三田省輔の三男として生まれる。稲田家学問所・益習館で学んだ。内藤弥兵衛、立木兼善らと天誅組運動に加わり徳島藩から禁固処分を受けたが、朝廷の命により釈放された。明治元年2月(1868年)軍監役、糺問局頭取として有栖川宮 東征大総督の護衛として東征に従軍した。 明治2年6月17日(1869年7月25日)の版籍奉還で稲田家旧家臣が士族に編入されなかったため、七条弥三右衛門、内藤弥兵衛らと徳島藩からの分藩運動を起こした。
四海波 静太夫(しかいなみ せいだゆう、1836年4月16日… 四海波 静太夫(しかいなみ せいだゆう、1836年4月16日(天保7年3月1日) - 1883年(明治16年)11月1日)は、伊勢国員弁郡(現在の三重県いなべ市員弁町大泉)出身で境川部屋、宮城野部屋、再度境川部屋に所属した力士。本名は水谷 清八。2代鏡山。身長体重不明。最高位は東前頭2枚目。 1859年11月境川部屋に入門し、故郷の大泉を四股名にしたが、伊勢ノ濱大五郎に改名。期待をされて盛岡藩の抱えになった。1871年4月、34歳で入幕。宮城野部屋に転籍して荒馬大五郎に改める(宮城野の婿になった為)。その後巡業中の女性問題から破門、同時に離縁され、四海波に改名して古巣に復帰。幕内上位を保っていたが三役昇進はならず、1879年6月限りで引退し鏡山を襲名。
伊藤 謙吉(いとう けんきち、1836年4月9日(天保7年2… 伊藤 謙吉(いとう けんきち、1836年4月9日(天保7年2月24日) - 1917年(大正6年)2月24日)は、刈谷藩士、政治家(衆議院議員2期)、実業家。別名は伊藤 三弥(いとう さんや)。 天保7年2月24日(旧暦)(1836年)、三河国碧海郡の刈谷城内に生まれた。兵庫県出身、伊勢国出身とされることもある。父は伊藤庄兵衛保秀。刈谷藩の藩校である文礼館に学び、尾張国の儒学者である伊藤両村の私塾でも学んだ。17歳で京都に出ると、頼三樹三郎の私塾で学ぶ中で尊王思想が芽生えた。 安政6年(1859年)7月にはいとを妻に娶った。同年に父が死去すると、岩倉具視が洛北の岩倉村に蟄居していた際に岩倉邸に仕え、岩倉具視と志士との連絡役を担った。
本沢 竹雲(もとさわ ちくうん、1836年3月26日(天保7… 本沢 竹雲(もとさわ ちくうん、1836年3月26日(天保7年2月10日)- 1907年(明治40年)10月13日)は「チョンマゲ学校」として知られる山形県東村山郡所在の格知学舎を開いた浄土真宗の僧侶で漢学者。幼名は八郎、通称は俊丸(としまる)、本名は盛遜。竹雲は雅号であるが、他に老山、虎山、虚堂、寄嘱子の号があった。
小田切 盛徳(おだぎり せいとく、天保7年2月〈1836年3… 小田切 盛徳(おだぎり せいとく、天保7年2月〈1836年3月〉 - 1885年〈明治18年〉11月2日)は、日本の司法官僚、元老院少書記官。幼名は勇之進。出羽国米沢出身。
平沼 専蔵(專藏、ひらぬま せんぞう、1836年2月18日(… 平沼 専蔵(專藏、ひらぬま せんぞう、1836年2月18日(天保7年1月2日)- 1913年(大正2年)4月6日)は、日本の相場師・実業家・政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。幕末明治に横浜での生糸取引や金融で財を成した。 武蔵国高麗郡飯能村(のち埼玉県入間郡飯能町、現飯能市)で、平沼安兵衛の三男として生まれる。7歳で足袋屋へ奉公に出る。安政6年(1859年)千住宿の材木商に移り、さらに横浜本町の海産物商明石屋平蔵商店に勤めた。 慶応元年(1865年)に独立し本町4丁目に羅紗・唐桟の取引商を始めた。1878年(明治11年)生糸売込問屋芝屋清五郎商店の業務を引き継いで、土地売買、株式投資にも事業を拡大した。
佐々木 喜太郎(ささき きたろう、1836年2月17日〈天保… 佐々木 喜太郎(ささき きたろう、1836年2月17日〈天保7年1月1日〉 - 1890年〈明治23年〉)は、日本の商人、実業家、青森県北津軽郡五所川原村の素封家。族籍は青森県平民。 五所川原生まれ。代々「布屋三之助」を名乗り、屋号を「布三」としたが、喜太郎の代に佐々木姓を名乗る。幼名を覚太郎と呼び、後喜太郎に改めた。父の代より酒造を業としたが、慶応当時に於ては田地僅に2町歩位を所有するに過ぎなかった。 酒造業を営み、米穀取引、小国(外が浜町蟹田)・今泉の鉄山経営などを手掛ける。土地投資にも乗り出す。直接国税総納額は、1890年出版の『帝国議会議員選挙者名鑑』によると「2262円2銭」である。住所は青森県北津軽郡五所川原村(現五所川原市)。
鶴田 皓(つるた あきら、天保6年12月26日(1836年2… 鶴田 皓(つるた あきら、天保6年12月26日(1836年2月12日) – 明治21年(1888年)4月15日)は、明治時代の法制官僚。元老院議官。字は玄縞、通称は弥太郎、号は斗南。佐賀藩多久邑出身。父は多久家家臣鶴田斌。東京帝国大学法学部講師。明治法律学校名誉校員。諸法典編纂に参加。正三位勲二等。実業家・炭鉱技術者の高取伊好は弟。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
大橋 佐平(おおはし さへい、1836年2月8日〈天保6年1… 大橋 佐平(おおはし さへい、1836年2月8日〈天保6年12月22日〉 - 1901年〈明治34年〉11月3日)は、明治時代の実業家で、博文館創業者。 妻の弟は東京堂創業者の高橋新一郎。三男(長男と次男は早逝)は博文館第2代館主の大橋新太郎、四男は東京堂第2代主人の大橋省吾。長女の婿は博文館支配人で小説家の大橋乙羽、三女の婿は共同印刷創業者の大橋光吉。 越後長岡の商家に生まれ、幼時より行動力と賢明さをそなえて期待された。また母の薫陶を受けて、仏教の信仰に厚く、僧にすることも親族の間で話し合われたという。 15歳のとき、真言宗の僧籍にある叔父を頼って上京し、九州から江戸を回る大旅行を経験して見聞を広め、長岡藩御用達の家業を守りつつ、幕末激動の時代を過ごした。
岡田 棣(おかだ なろう、天保6年12月21日(1836年2… 岡田 棣(おかだ なろう、天保6年12月21日(1836年2月7日) - 明治30年(1897年)8月17日)は、幕末期における加賀藩前田家の家臣である。幕末において藩の軍艦頭取を務め明治初年に参政に登用され参事・大参事を務めた。その後幕府の命によりアメリカ・ヨーロッパを視察した。帰国後前田家の家扶を務め晩年にかけて将棋に関する書籍を収集。没後、将棋に関する蔵書を遺言により帝国図書館、現在の国立国会図書館へ寄贈した。 天保6年(1835年)12月21日に金沢で生まれる。小松馬廻番頭兼小松町奉行の父、岡田正之と小幡藩士の娘の母との長子として誕生。初名は正忠、通称を雄次郎としたが後にこれを廃して名を棣(なろう)と改めた。
滋野 七郎(しげの しちろう、1836年2月5日(天保6年1… 滋野 七郎(しげの しちろう、1836年2月5日(天保6年12月19日)- 1886年(明治19年)3月16日)は、江戸時代の幕末から明治時代の尊攘運動家、僧侶、神職。 越後国糸魚川寺町に生まれる。18歳のとき、糸魚川藩の祈願所である持明院の院主となった。院は近郷近在の修験院の頭で、天津神社の祭りにはこの院主が先導しなければ巡行ができないほどの格があった。同郷の田村弥平や小川長秋、銀林綱男などと親交を結び、国学を修め、勤皇の大義を論じた。1868年、戊辰戦争が起こると院を捨て、親兵隊の方義隊を組織して官軍のために斥侯を務めた。また京都で暗殺された大村益次郎の襲撃犯を隠匿したとして投獄された。維新後は神職となり、筑波山神社を最初に、天津神社祭祠、弥彦神社の宮司、皇典講究所などを歴任した。
阿波加 脩造(あわか しゅうぞう、1836年1月30日(天保… 阿波加 脩造(あわか しゅうぞう、1836年1月30日(天保6年12月13日)- 1916年(大正5年)5月12日)は、幕末から明治期の医師、教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・佐渡、幼名・捨五郎、通称・正頴、字・士栗。号・酔夢、六無斎。衆議院議員としては野村脩造を名乗った。 越中国射水郡高岡(現富山県高岡市)で、漢方医・8代佐渡養順の息子として生まれる。魚津町(現魚津市)の漢方医・阿波加家の養子となる。春日寛平、緒方洪庵、華岡鹿城、山岡民部などに師事し、医学、蘭学を修めた。 1858年(安政5年)魚津で開業し、コレラの治療に従事した。1872年(明治5年)病院・好生舎を設立。1876年(明治9年)新川県新川郡医務取締に就任。
西園寺 公成(さいおんじ きんなる、天保6年12月7日(18… 西園寺 公成(さいおんじ きんなる、天保6年12月7日(1836年1月24日) - 明治37年(1904年)11月7日)は、伊予国宇和島藩出身の武士・官僚・実業家。通称は雪江、勇喜衛。幕末期に活躍、後に第一国立銀行をはじめ、近代日本の金融・産業界にも関与した。 天保6年(1835年)、宇和島藩士・松田覚之助公博の次男として生まれる。母は中井九郎右衛門の娘である。幼名は雪江。のち実兄・松田源八郎に養育された。 藩校明倫館で学び、嘉永6年(1853年)には文学出精を賞せられている。同年4月7日、儒学に秀でたため官費留学生として小松藩の儒者・近藤南海(近藤篤山の子)の塾に入門した。 安政3年(1856年)1月12日、明倫館塾長に就任。
井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年1… 井上 馨(いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年11月28日〉- 1915年〈大正4年〉9月1日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。 長州藩の藩主側近から尊王攘夷運動に参加し、イギリスへの密航をきっかけに開国論者となり、長州藩における倒幕運動の中心人物として活動した。太政官制時代に外務卿、参議などを歴任し、長州閥の重要人物となった。第1次伊藤内閣成立により外務卿改め外務大臣を務め、「鹿鳴館外交」を展開し不平等条約改正に臨み、黒田内閣で農商務大臣、第2次伊藤内閣で内務大臣、第3次伊藤内閣では大蔵大臣など要職を歴任、元老の一人として政財界に多大な影響を与えた。 幼名は勇吉、通称は初め文之輔だったが、長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)に改名した。
前田 謙祐(まえだ けんすけ、1836年(天保7年2月)- … 前田 謙祐(まえだ けんすけ、1836年(天保7年2月)- 1891年(明治24年)6月1日)は、明治期の地主、政治家。貴族院多額納税者議員。 紀伊国那賀郡 (和歌山県) 前田村(和歌山県那賀郡中貴志村、貴志川町を経て現紀の川市)で、屋号「一本木(いっぽんぎ)」豪農・前田若右衛門の長男として生まれる。家山角蔵に師事した。 1870年(明治3年)小倉組郷長に就任。1873年(明治6年)4月、小学校世話係となる。1874年(明治7年)前田・北山・尼寺3ヵ村戸長に就任し、以後、前田村戸長、上野山外10カ戸長を歴任した。 1876年(明治9年)地租改正の和歌山県案が紀北地方に不公平との不満から各地で騒動が頻発した際に、貴志地方の総代として農民側として解決に尽力した。
象ヶ鼻 平助(ぞうがはな へいすけ、1836年(天保7年) … 象ヶ鼻 平助(ぞうがはな へいすけ、1836年(天保7年) - 1890年(明治23年)3月18日)は、安房国館山(現・千葉県館山市)出身の大相撲力士。最高位は大関。身長171cm、体重103kg。所属部屋は谷川部屋→雷部屋→高砂改正組。幸運かつ異例なスピード出世で知られる。 元幕下二段目・鍬形の4代谷川の門人となり1859年(安政6年)11月鍬形 平次の名で幕下に付出される。1861年(万延2年)轟 平助と改め1866年(慶応2年)11月場所4日目より丸亀藩の抱えとなり象ヶ鼻 平助を名乗る。1868年(慶応4年)6月入幕。1870年(明治3年)4月小結を飛ばして関脇、翌1871年(明治4年)3月鬼面山谷五郎の引退を受けて大関に昇進。
境 二郎(さかい じろう、天保7年8月〈1836年〉 - 1… 境 二郎(さかい じろう、天保7年8月〈1836年〉 - 1900年〈明治33年〉2月9日)は、幕末の長州藩士、明治期の官僚。島根県令(現在の知事)。旧名・斎藤栄蔵。名・建直(たてなお)、字・子(士)彦。 長門国萩土原村(現・山口県萩市)の長州藩士の斎藤貞順の二男として生まれる。当時の名前は斎藤栄蔵、のち境与三兵衛の養子となり、明治初年に境二郎と改名。 15歳の嘉永3年(1850年)藩校明倫館で教授する吉田松陰の門人となる。18歳のとき江戸に遊学後いったん帰郷、21歳の安政3年(1856年)、松下村塾に入門して門下生になる。その後、塩谷宕陰にも師事した。文久3年(1863年)、明倫館文章掛等を歴任。
吉田 幸兵衛(よしだ こうべえ、1836年(天保7年) - … 吉田 幸兵衛(よしだ こうべえ、1836年(天保7年) - 1907年(明治40年)10月3日)は、幕末から明治にかけて活動した日本の実業家。横浜の代表的な生糸売込商人の一人である。 上野国山田郡大間々(現・群馬県みどり市)にて、地元の旧家であった吉田和五郎家の長男として生まれた。吉田家は新川村(群馬県勢多郡新里村を経て現・桐生市)の本家吉田権右衛門を中心とした有力な富農であり、吉田和五郎家はその分家である(権右衛門は和五郎の甥)。吉田家は農業のみならず商業、金融にも携わり、幸兵衛も10代の終わり頃より糸繭商をはじめ家業を手伝い商売を学んだ。家業の米や木炭の販売のため、江戸にもたびたび足を運んだ。
奥 並継(おく なみつぐ、文政7年(1824年)12月 - … 奥 並継(おく なみつぐ、文政7年(1824年)12月 - 明治27年(1894年)2月26日)は、幕末・明治期の志士、国学者、書家、明治期日本の大蔵官僚である。字は子紹、菱池(菱池は宇佐神宮境内の池名)と号す。 豊前国宇佐村(現大分県宇佐市)の藤波氏に生まれ、宇佐神宮祠官漆島姓の奥氏の養嗣子になる。12歳で広瀬淡窓の門に入り、後に帆足万里に学んだ。 嘉永5年(1852年)、宇佐神宮官人代に任じられ、従五位下対馬守に叙せられた。安政2年(1855年)、江戸に出て平田篤胤の門に入り国学を修めた。 文久3年(1863年)、飄然して京都に出遊して憂国の志士と交わり、国事疾走の生活が始まる。丁度三条実美卿らの七卿落ちとなり、勤王攘夷党の蹉跌をみるや、憤慨し直ちに宇佐に帰り、豊前国、豊後国の志士らと語らい勤王倒幕の先鞭をつけんとしてならず、弟の時枝重明と共に日田の獄舎に投じられ、3年を経て即位の大赦により出獄した。
福住 正兄(ふくずみ まさえ、文政7年8月21日(1824年… 福住 正兄(ふくずみ まさえ、文政7年8月21日(1824年9月13日) - 明治25年(1892年)5月20日)は、日本の農政家、実業家。報徳仕法の研究・実践者。 文政7年(1824年)、相模国大住郡片岡村(現在の神奈川県平塚市片岡)にて大澤市左衛門の五男として生まれる。幼名は「政吉」。 文政10年(1827年)、親類の大住郡南金目村(現在の平塚市南金目)の名主、森勝五郎の養子となるが、養父母の死により実家に帰る。 天保元年(1830年、7歳のとき儒学者千賀桐陰の教えを受ける。政吉は当初、天保の大飢饉で疲弊した貧しい農民を救うべく医術の道を志していたが、「人を病を治す医者になるよりも、国の病を治す医者になるべし。
秋月 悌次郎(あきづき ていじろう、文政7年7月2日(182… 秋月 悌次郎(あきづき ていじろう、文政7年7月2日(1824年7月27日) - 明治33年(1900年)1月5日)は、日本の武士(会津藩士)、教育者。名は胤栄、字は子錫、号は韋軒。明治維新後は、胤永(かずひさ)と名乗る。婿養子・胤継は、漢学者(文学博士、第六高等学校教頭、懐徳堂講師)。 下総国発祥千葉氏の末裔である会津藩士・丸山胤道(150石)の次男として若松城下に生まれる。丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称する。藩校・日新館に学び、南摩綱紀とともに藩内でも秀才として知られた。天保13年(1842年)に江戸に遊学し、私塾や昌平坂学問所などで学び、また薩摩・長州など諸国を渡る。
本木 昌造(もとき しょうぞう/もとぎ しょうぞう、文政7年… 本木 昌造(もとき しょうぞう/もとぎ しょうぞう、文政7年6月9日〈1824年7月5日〉 - 1875年〈明治8年〉9月3日)は江戸幕府のオランダ(蘭)通詞、教育者であり、日本における活版印刷の先駆者として知られる。諱は永久(ながひさ)、幼名作之助または元吉。異表記に昌三、笑三(あるいは号とも〈曲田(1894)〉)、咲三。 通詞の家系へ養子に入り、幕府の通詞をする傍ら、西洋への興味から操船、造船、製鉄、活字製造などに関わった。明治維新後、職をなくした武士への授産施設として私塾を開き、そこの一事業であった活字製造は、のちに独立して「新街活版所」となり、門下生らによって東京築地活版製造所などへとつながった。
高木 仙右衛門(たかぎ せんえもん、文政7年2月12日(18… 高木 仙右衛門(たかぎ せんえもん、文政7年2月12日(1824年3月12日) - 明治32年(1899年)4月13日)は江戸時代末期から明治時代における浦上キリシタンの中心人物。 肥前国西彼杵郡浦上山里村本原郷辻(現・長崎県長崎市辻町)に生まれた。慶応元年(1865年)の大浦における信徒発見後、自分の家を秘密聖堂(聖ヨゼフ堂)とし、浦上の伝道士を務めた。 慶応3年(1867年)の浦上四番崩れにおいて、信徒82人とともに捕縛され、投獄。拷問の末、仙右衛門を除き全員が転ぶことを誓った。浦上の庄屋の家に留め置かれた後、桜町の六番牢に入れられ、さらに小島の牢屋に移された。そして浦上や外海等に住む数千人の信徒が配流された際に、仙右衛門も津和野へ流された。
金成 喜蔵(かんなり きぞう、旧字体: 金成 喜藏、アイヌ名… 金成 喜蔵(かんなり きぞう、旧字体: 金成 喜藏、アイヌ名:カンナリキ、1824年2月18日〈文政7年1月19日〉 - 1912年〈明治45年〉1月1日)は、北海道幌別郡幌別村(現:登別市幌別)出身のアイヌ(父親は和人)。実業家。愛隣学校の創設者。 喜蔵は幌別で漁業、農業で成功し、宿屋を経営するなど多くの雇用を生む実業家であった。キリスト教を信仰し、正直者として徳望が高く、酒もタバコもやらない人物で、幌別にアイヌのための学校を作る活動をした。 1883年、東京・上野恩賜公園で開催された水産博覧会に投銛を出品し、褒状を授与された。 1888年9月、北海道幌別郡幌別村に愛隣学校を開設。 廃使置県、室蘭も含めて札幌県管轄になった年、1882年(明治15年)に札幌県に対して「幌別旧土人学校設立嘆願書」がカンナリキ他5名の署名で出されている。
足利 義山(あしかが ぎざん、文政7年(1824年) - 明… 足利 義山(あしかが ぎざん、文政7年(1824年) - 明治43年(1910年))は、備後国(現在の広島県東部)出身の江戸時代後期から明治時代にかけての浄土真宗僧侶(勧学)。広島県福山市勝願寺第23代住職。実子に京都女子大学創始者の甲斐和里子や龍谷大学学長を務めた足利瑞義。孫に同朋舎を創った足利浄円。 文政7年(1824年)、備後国の光圓寺(現在の福山市御幸町下岩成)に生まれる。嘉永2年(1849年)に神辺の勝願寺に入る。宗学は石泉学派の創始である石泉僧叡の弟子であった慧海や泰巌に学ぶ。大教校教授、備後博練教校教授、安芸進徳教校教授を経て、明治23年(1890年)に大学林教員、仏教大学講師となる。
東関 庄助(あずまぜき しょうすけ、1824年 - 1885… 東関 庄助(あずまぜき しょうすけ、1824年 - 1885年7月10日)は、現在の栃木県足利市(下野国安蘇郡)出身で東関部屋に所属した力士。本名は東関 庄助(旧名は不明)。5代東関。身長、体重不明。最高位は東関脇。 東関部屋に入門し、1846年11月初土俵を踏む。当時は4代目東関であったが、3代東関は本人と同じく下野国安蘇郡(現在の佐野市)出身の元前頭・東関勝五郎であった。1862年11月に入幕を果たし、以来17場所幕内を務める。1868年には小結に、1870年4月に関脇に昇進、11月は二枚鑑札の関脇であったが、この場所限りで力士を引退した。不動明王のような顔付きをしていたという。また、二枚鑑札前の四股名は嶌田川又吉で、のちに弟子で6代東関の嶌田川儀兵衞が名乗った。
菊池 金吾(きくち きんご、1812年10月12日(文化9年… 菊池 金吾(きくち きんご、1812年10月12日(文化9年9月9日) - 1893年(明治26年)5月4日)は、江戸時代から明治時代の武士(盛岡藩士)、実業家。明治期に盛岡一の大富豪となった。 陸奥国稗貫郡亀ヶ森村(現在の岩手県花巻市大迫町)にて盛岡藩上級武士の藤枝宮内家臣(藩主から見れば陪臣)菊池弥兵衛、セキの三男として生まれた。父弥兵衛は金吾を医者にしようと、紫波郡郡山駅(現在の紫波町日詰と二日町の上町・下町を合わせた通称地名)に住む木村某という医師に預けたが、数日で脱走し実家に帰った。 1826年(文政9年)、盛岡に出て藩の重臣である加判役の花輪伊豆守に仕えた。後に同藩士大石貫一郎家に養子として入り、大石金吾と名乗る。
小南 五郎(こみなみ ごろう、文化9年(1812年)10月 … 小南 五郎(こみなみ ごろう、文化9年(1812年)10月 - 明治15年(1882年)2月22日)は、幕末の土佐藩士。名は良和。通称は五郎、五郎右衛門。迅衝隊士。 土佐国土佐藩下土佐郡大川筋(現高知県高知市大川筋2丁目)に生まれる。 大目付をつとめ、1853年に山内容堂より側用役として抜擢される。 安政の大獄時には、井伊直弼の容堂に対する追及をかわす為に、小南などの重臣が身代わりとなって幽閉処分を受ける。のちに復帰し大目付に就任するが、尊皇攘夷主義の土佐勤皇党に協力的だったため、勤皇党弾圧時には任を解かれ、失脚。勤皇党盟主武市瑞山をはじめ、平井収二郎、間崎哲馬ら同志が相次いで切腹に追い込まれる中、小南も武士の位を剥奪され、町人と同じ位に落とされるという屈辱的な処罰を受ける。
岡田 佐平治(おかだ さへいじ、文化9年7月10日(1812… 岡田 佐平治(おかだ さへいじ、文化9年7月10日(1812年8月16日) - 明治11年(1878年)3月3日)は、幕末-明治時代の農業指導者、報徳運動家。名は清忠。字は至誠。号は無息軒。 遠江国佐野郡倉真村(現:静岡県掛川市)の豪農。15歳で家を継ぐ。二宮尊徳の報徳思想を安居院庄七から学び感銘し、嘉永元年(1848年)居村に牛岡組報徳社を結社。長男良一郎と共に領内の荒地開墾、窮民救済に尽力した。明治8年(1875年)遠江国報徳社を設立し、社長となる。 大正7年(1918年)、従五位を追贈された。
大原 其戎(おおはら きじゅう、四時園其戎、文化9年5月18… 大原 其戎(おおはら きじゅう、四時園其戎、文化9年5月18日(1812年6月26日) - 明治22年(1889年)3月31日)は、伊予松山の俳人。通称は熊太郎、沢右衛門。 青年期の正岡子規が俳句の指導を受けた人物である。 伊予国(現・愛媛県)の三津浜に生まれた。父親は綿・麻織物を扱う太物商で俳人の其沢である。万延元年(1860年)、京都に出て七世桜井梅室に入門し、二条家から宗匠の免許を受けた。その後、故郷に戻り俳諧結社の明栄社を興し、明治13年(1880年)に月刊俳誌『真砂の志良辺』を創刊した。同誌に投稿した俳人は800人に達した。 上京後、俳句に興味を持った正岡子規が、明治20年(1887年)の2度目の帰郷の際、友人の勝田主計の勧めで其戎のもとを訪ね、句稿を見せて批評を仰いだ。
鈴木 重胤(すずき しげたね、文化9年5月5日(1812年6… 鈴木 重胤(すずき しげたね、文化9年5月5日(1812年6月13日) - 文久3年8月15日(1863年9月27日))は、江戸時代後期の皇学者である。 1812年(文化9年)、淡路国津名郡仁井村(現:兵庫県淡路市仁井)の庄屋・穂積重威の5男として生まれる。幼名は雄三郎、通称は勝左衛門、橿廼家・厳橿本・府生・柱州と号し、諱は重胤。 1825年(文政8年)ころ、大坂鴻池家に商業見習いに住み、父の遺訓で国学を志望し、大坂や神戸で奉公のかたわら学問に励んだ。1832年(天保3年)、江戸在住の平田篤胤に書信で教えを受けるが、面会できないうちに篤胤は亡くなる。1834年(天保5年)ころ大国隆正に入門。 嘉永・安政にかけて『延喜式祝詞講義』『日本書紀伝』の著述に努めたが、1857年(安政4年)、篤胤の養子・銕胤らと不和が生じ、1858年(安政5年)には破門される。
村上 忠順(むらかみ ただまさ、1812年5月11日〈文化9… 村上 忠順(むらかみ ただまさ、1812年5月11日〈文化9年4月1日〉 - 1884年〈明治17年〉11月22日)は、三河国碧海郡堤村(現・愛知県豊田市高岡町新馬場)出身の国学者・刈谷藩御典医。忠順の蔵書は「村上文庫」として刈谷市中央図書館が所蔵している。幼名は賢次、字は承郷、号は蓬盧。 忠順は医業を「生活の方便」と割り切っており、国学の奥義を極めることに心血を注いだ。三河地方の国学者としては吉田藩の羽田野敬雄と並び称され、「東の羽田野、西の村上」として知られた。 祖父は村上忠直、父は村上忠幹(ただもと)、母は美志子。文化9年(1812年)4月1日、三河国碧海郡堤村(現・愛知県豊田市高岡町)の新馬場(しまんば)に生まれた(次男)。
葛原 勾当(くずはら こうとう、文化9年3月15日(1812… 葛原 勾当(くずはら こうとう、文化9年3月15日(1812年4月26日)- 明治15年(1882年)9月8日)は、日本の地歌箏曲家、作曲家。盲人ながら江戸後期から明治期に生き、自作の木活字を用いて『葛原勾当日記』を長年つけたことで知られる。孫は童謡作家葛原しげる。 出身は備後国安那郡八尋村(広島県深安郡神辺町、のち福山市)。庄屋矢田重知の長子として生まれた。本姓矢田、幼名柳三、諱は重美。名は琴の一、のち美濃一。雅号一泉、俳号似月。3歳で痘を病み、両眼とも失明。9歳で琴を始め、11歳で京都の松野勾当(のち検校)に師事し、生田流箏曲を修めた。14歳で座頭になり、その翌年帰郷し、備後・備中両国を中心に広く琴を教授するかたわら、たびたび上洛してはその技を磨いた。
白石 正一郎(しらいし しょういちろう、文化9年3月7日(1… 白石 正一郎(しらいし しょういちろう、文化9年3月7日(1812年4月18日)- 明治13年(1880年)8月31日)は、奇兵隊のスポンサー、長府藩の支藩である清末藩の御用商人。名は資風。通称は駒吉。または熊之助。号は橘円。商人の自由を求めて、家が破滅するまで奇兵隊へ財政支援し明治維新をバックアップした。明治政府より感謝を込めて正五位を贈られた。 文化9年(1812年)、長門国赤間関竹崎に萬問屋(荷受問屋)小倉屋を営んでいた白石卯兵衛・艶子の長男(8代目)として生まれた。米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱い、ほかに質屋を営み酒もつくった。もともと下関は西国交通の要衝であったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富であった。
山田 千疇(やまだ ちうね、1812年 - 1876年)は、… 山田 千疇(やまだ ちうね、1812年 - 1876年)は、尾張国中島郡中野村(のちの稲沢市)出身の国学者。 尾張国中島郡中野村において、松平数馬に仕えた数右衛門の子金次郎として出生。歌は木村千斎に師事する。また、国学は植松茂岳に学ぶ。尾張藩に仕え、明倫堂の国学助教見習および神祇改役見習を歴任する。廃藩置県により、失職したのち教導職へと転じ、私塾を開いた。旧蔵書および自筆稿本を中心に260点が名古屋市蓬左文庫に寄託されている。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
美馬 君田(みま くんでん、1812年(文化9年)- 187… 美馬 君田(みま くんでん、1812年(文化9年)- 1874年)は、幕末の尊攘運動家。 君田本姓は鎌田氏、名は諧、字は和南といい、通称援造・三嶺、号は君田、俳号は土仏・桜水と称した。 文化9年、阿波国美馬郡重清村字谷口(現徳島県美馬市)にて出生。願勝寺44代の住職である。諸国をまわり、のち讃岐(香川県)琴平で日柳燕石や植田有年ら同志とともに尊攘をとなえた。天保14年(1843)病気のため還俗して讃岐の琴平に住んだ。 君田は博学達識の人で和歌・俳句などに優れていたが、とくに知られているのは琴平在住の勤王の志士桂小五郎・高杉晋作・坂本竜馬と交流があり、特に日柳燕石とは「燕石ある処には必ず君田あり、君田の影には常に燕石あり」と言われるほどであった。
神野 金平(じんの きんぺい、1812年〈文化8年12月〉 … 神野 金平(じんの きんぺい、1812年〈文化8年12月〉 - 1905年〈明治38年〉12月)は、尾張国海西郡江西村の庄屋役を務める家に生まれる。父の名も金平で、家督相続して7代目神野金平となった。 神野家は大和国神野(現奈良県五條市西吉野町神野)出身との伝えから「神野」を名乗ったものと思われる。 室町時代に美濃国に移住し、戦国時代末期に尾張国海西郡江西村へ移り、以後、代々木曽川の水難に堪えて、田畑の開墾、農事に励んできた。 子は小吉(後の3代富田重助)、実太郎、三甫吉、三代吉、岸郎(後の神野金之助)と長女の栄。 なお諸説あるが、神野家は「じんの」から「かみの」に大正12年(1923年)に改称したと神野新田資料館のパネルに記載されているので、ここでは「じんの」金平とする。
石川 喜平(いしかわ きへい、1788年(天明8年) - 1… 石川 喜平(いしかわ きへい、1788年(天明8年) - 1862年(文久2年))は、日本の和算家。都筑弥厚の明治用水計画を測量・設計の面で支援した人物として知られる。 1788年(天明8年)高棚村(現・愛知県安城市)に生まれる。1807年(文化4年)、関孝和の直流にあたる和算家清水幸三郎の弟子となり、1812年(文化9年)に師範免許を授かる。 都筑弥厚の明治用水計画に賛同して、1822年(文政5年)から明治用水に関わる測量を開始し、農民の反対運動をかいくぐりながら、1826年(文政9年)に測量を完了する。この測量成果をもとに、岡本兵松と伊与田与八郎によって、1880年(明治18年)に明治用水が開通した。
風間 閑斎(かざま かんさい、享保元年(1716年) - 寛… 風間 閑斎(かざま かんさい、享保元年(1716年) - 寛政11年10月29日(1799年11月26日))は、日本の医師、開業医、酒田風間氏宗家第三代当主(三代目 風間彦惣)。号は臥牛山人。 1716年(享保元年)、酒田風間氏宗家・初代:風間彦惣(彦次郎)の次男として出羽国飽海郡(現在の酒田市)に生まれる。 村上風間氏に婿入りし五代目・宮川屋を継ぐ予定だったが、酒田に戻って姉・「はる」の夫である二代目:風間彦惣(彦助)の後を受けて三代目:風間彦惣となる。 晩年になってから家業を長男:仁助(四代目:風間彦惣)に譲り、医学を学んで名前を閑斎と改め、次男の医師・風間東美と共に大工町で開業する。 1799年(寛政11年)、死去。
小島 宣夫(こじま のぶお、生年月日不明 - 2016年(平… 小島 宣夫(こじま のぶお、生年月日不明 - 2016年(平成28年)2月4日)は、日本の実業家。 産業経済新聞社取締役副社長、日本工業新聞社代表取締役会長、東北文化学園大学客員教授。 1941年に旧制城北中学校(現:城北高等学校)に一期生として入学、1944年11月に陸軍経理学校入校。その後東京大学を卒業。 1953年に産業経済新聞社に入社し、 販売企画部長、常務取締役、専務取締役などを経て、1989年に取締役副社長および社会福祉法人産経新聞厚生文化事業団理事長に就任した。 1992年からは日本工業新聞社代表取締役会長も務めた。また就任時期は不明だが東北文化学園大学客員教授も務めている。 2016年2月4日、肺炎のため死去。