スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
石原 照夫(いしはら てるお、1929年11月28日 - 2… 石原 照夫(いしはら てるお、1929年11月28日 - 2006年3月16日)は、千葉県成田市出身のプロ野球選手(内野手)。 兄は戦前投手として、東京セネタースや翼軍、大洋軍、大和軍に所属した石原繁三。1960年代に東映フライヤーズ、1970年代にロッテオリオンズの球団代表を務めた石原春夫とは別人。 旧制成田中学校では、エースとして戦後初の開催となった1946年夏の大会では、球史に残る1回戦最初の試合で京都二中と対戦するが0-1で惜敗。 立教大学へ進学し、野手転向。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、リーグ通算86試合出場、338打数101安打、打率.299の成績を残す。 大学卒業後は、社会人野球の藤倉電線に入社。
井上 裕(いのうえ ゆたか、1927年〈昭和2年〉11月17… 井上 裕(いのうえ ゆたか、1927年〈昭和2年〉11月17日 - 2008年〈平成20年〉6月22日)は、日本の政治家。位階は従二位、勲等は勲一等、勲章は桐花大綬章。 参議院議長(第23・24代)、文部大臣(第115代)、参議院予算委員長、自由民主党参議院議員会長(第22代)、参議院議員(4期)、衆議院議員(1期)、千葉県議会議員(3期)等を歴任した。 千葉県成田市生まれ。旧制成田中学校(現成田高等学校)、旧制東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)を卒業して、六合村に歯科医院を開業する。1963年、千葉県議会議員選挙に出馬し、初当選した。以後、3期連続当選。 1972年、第33回衆議院議員総選挙に無所属で旧千葉2区(定数4)から立候補したが、次点で落選。
岡田 富美也(おかだ ふみや、1921年 - )は、日本の外… 岡田 富美也(おかだ ふみや、1921年 - )は、日本の外交官、国際公務員。駐ジョルダン(ヨルダン)特命全権大使、北海道派遣特命全権大使、駐ポルトガル特命全権大使等を歴任した。 千葉県出身。成田中学校、第一高等学校文科甲類を経て、1948年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省入省。1964年外務大臣官房書記官。1966年外務省国際連合局経済課長。1969年外務省経済局国際貿易課長。1970年外務省経済局外務参事官。 1971年在アメリカ合衆国日本国大使館参事官。1972年在インド日本国大使館参事官。1974年外務大臣官房調査部外務参事官兼経済協力局。同年在オーストラリア日本国大使館公使。1976年在トロント日本国総領事館総領事。
浅井 礼三(あさい れいぞう、1917年11月15日 - 1… 浅井 礼三(あさい れいぞう、1917年11月15日 - 1985年5月26日)は、千葉県印旛郡成田町成田(現在の成田市本町)出身の野球選手、実業家、馬主。早稲田大学在籍時には「100万ドルの名外野手」と謳われた。 旧制成田中学校を経て1935年に早稲田大学に入学した。全国中等学校優勝野球大会での実績がないなか同大学の野球部に入部し、中堅手としてレギュラーに選出された。1938年に早稲田大学専門部商科を卒業。1939年には現役の選手でありながら、唐津中学の監督に就任。これは、同校野球部の強化を望んでいた学校関係者が、同校卒業生で当時早大野球部に在籍していた下尾勝馬を通しての依頼であるという。当初は1週間ほどの予定であったが、指導に熱が入ったため、最終的には45日間にもわたる熱心な指導となった。
長谷川 録太郎(はせがわ ろくたろう、1914年〈大正3年〉… 長谷川 録太郎(はせがわ ろくたろう、1914年〈大正3年〉11月24日 – 2001年〈平成13年〉11月25日)は、千葉県の政治家・実業家。6-11代目成田市長、長谷川呉服店社長。成田市名誉市民。 江戸時代から続く成田山新勝寺門前町の呉服屋に生まれる。 私立成田中(現・成田高等学校)卒業後、浅草の「大丸呉服店」で丁稚奉公する。召集され、中国大陸を転戦。 1949年に新勝寺檀家総代に選出され、成田市商工会長を務めるなど、復員後は成田の政財界で活動するようになる。 病気で辞任した藤倉武男の後任として1971年(昭和46年)から6期24年にわたり成田市長を務め、成田空港問題を始めとする困難な市政の中、都市基盤整備に尽力し国際都市を目指すとともに、福祉施設の整備、空港の騒音対策等の住民福祉の増進に貢献した。
戸村 一作(とむら いっさく、1909年(明治42年)5月2… 戸村 一作(とむら いっさく、1909年(明治42年)5月29日 - 1979年(昭和54年)11月2日)は、市民運動・農民運動活動家、政治家(元成田市議会議員)。特に三里塚芝山連合空港反対同盟委員長を務めた三里塚闘争(成田闘争)での活動で知られ、画家・彫刻家でもあった。 1909年5月29日、千葉県印旛郡遠山村(現・成田市)三里塚に生まれる。 1925年に私立成田中学校に入学し、教員であった中野好夫や中山義秀の薫陶を受けた。 成田中学卒業後、父が三里塚で営んでいた鍬・鋤・鎌などの販売店「戸村農機」で働き、25歳の時に結婚した。夫人が健康を害して北海道に帰郷すると、戸村もその後を追って北海道で暮らした。
圓城寺 次郎(えんじょうじ じろう、1907年(明治40年)… 圓城寺 次郎(えんじょうじ じろう、1907年(明治40年)4月3日 - 1994年(平成6年)3月14日)は日本のジャーナリスト、実業家。日本経済新聞社社長。 千葉県印旛郡公津村下方(現:成田市下方)の農家の次男として生まれる。農家とは言っても圓城寺家は成田の近郷にその名を知られた旧家だった。旧制成田中学(現:成田高等学校)四年の時、虫垂炎を患い、更に心臓も病むようになる。健康状態が思わしくない状態が続き、圓城寺本人は東京の大学へ進むつもりでいたが、千葉医専(現:千葉大学医学部)で診察を受けると「こんな体で東京に行くなんて死に行くようなもんだ」と医者におどかされてしまう。このため、いったん進学をあきらて、自宅で無為徒食の生活を三年続けた。
伊藤 公平(いとう こうへい、1901年7月28日 - 19… 伊藤 公平(いとう こうへい、1901年7月28日 - 1984年3月9日)は、日本の歌人、随筆家、小説家、教員。千葉県印旛郡八生村押畑生まれ。吉植庄亮に師事。千葉県歌人クラブでは創設以来、事務所代表を長年務めた。また、出身地である成田市をはじめ、各地で短歌教室を開き指導を続け、後進に大きな影響を与えたと評価される。 1901年、千葉県印旛郡八生村押畑(現・成田市押畑)に父総平、母よねの長男として生まれる。父の総平も歌人であった。少年時代より体が弱く、文学や絵画に親しむようになる。1919年、成田中学校(現・成田高等学校)を卒業して、國學院大學に進学。大学で佐佐木信綱、折口信夫、武田祐吉らの講義を受けて文学的素養を深めたが、同時期に絵画に傾倒し、川端画学校で油絵を学ぶ。
三橋 鷹女(みつはし たかじょ、1899年12月24日 - … 三橋 鷹女(みつはし たかじょ、1899年12月24日 - 1972年4月7日)は、千葉県出身の俳人。本名・たか子。幼名・文子。旧号・東文恵。原石鼎、小野蕪子に師事。戦後、新興俳句系の「俳句評論」等に関わる。口語を駆使した奔放な作風を開拓し、昭和期に活躍した代表的な女性俳人として中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに四Tと呼ばれた。 成田町(現成田市)に、助役として町の発展に貢献した三橋重郎兵衛の末子として生まれる。江戸時代後期の歌人神山魚貫と姻戚関係にある三橋家は代々和歌を嗜んでおり、鷹女は色紙や短冊や扇面などが貼り並べられた屏風を眺めながら育った。 1916年、成田高等女学校(現・成田高等学校)を卒業後、上京して次兄・慶次郎の元に寄寓。
加納 金助(かのう きんすけ、1883年〈明治16年〉9月4… 加納 金助(かのう きんすけ、1883年〈明治16年〉9月4日 - 1953年〈昭和28年〉12月5日)は、日本の政治家、教育者、日本大学常任理事、日本大学副会頭、日本大学第一学園初代理事長。千葉市長(第5、9、10代)、参議院議員(1期)。 1883年、千葉県下埴生郡小菅村(印旛郡遠山村を経て現成田市小菅)の農家 藤崎家の三男として誕生。1898年、成田英漢義塾(同年10月にに私立成田中学校として認可)に入学。1903年卒業。國學院大學高等師範部に入学するも、同年9月に日本大学高等師範部(現在の文理学部)へ転入学。1906年同校を卒業すると、日本大学専門部法律科入学。在学中の1908年11月30日、加納家の長女由香と結婚し、加納家の養子となる。
小倉 良則(おぐら よしのり / りょうそく、1848年10… 小倉 良則(おぐら よしのり / りょうそく、1848年10月13日(嘉永元年9月17日)- 1920年(大正9年)10月9日)は、明治期の実業家、教育者、政治家。衆議院議員、千葉県会議長。 下総国埴生郡土室村(千葉県下埴生郡土室村、印旛郡久住村土室を経て現成田市土室)で、小倉源之助の息子として生まれる。武本右京に師事し漢学を修め、中村一心斎に武術を学んだ。東京に遊学したが、郷里で地租改正の測量地図作成者がおらず、そのため帰郷して地図作成を担当。事業終了後に上京し、依田菫、今井芳洲に師事し漢学を修めた。 1882年(明治15年)に帰郷し1883年(明治16年)北総英漢義塾(現成田高等学校・付属中学校)を設けて郷土の子弟の教育を行った。