スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
久保田 正文(くぼた まさふみ、1912年9月28日 - 2… 久保田 正文(くぼた まさふみ、1912年9月28日 - 2001年6月6日)は、文芸評論家、小説家、文学博士。 長野県下伊那郡山本村(現飯田市)生まれ。旧制飯田中学(現長野県飯田高等学校)、松本高等学校文科甲類、東京帝国大学文学部美学科卒。福井県の旧制北陸中学(現北陸中学校・高等学校)に教師として赴任したが、『信州文学』に掲載した小説「残夢」が治安維持法違反に問われた。 日本大学藝術学部教授を経て、大正大学文学部教授。戦前から文学活動を始め、1946年、上京、短歌雑誌『八雲』を編集、1947年、新日本文学会に入会、『近代文学』に発表した「しづかな甍」でデビュー、以後、民主主義文学者として小説や評論を発表。
古島 敏雄(ふるしま としお、1912年4月14日 - 19… 古島 敏雄(ふるしま としお、1912年4月14日 - 1995年8月29日)は、日本の歴史学者。専門は日本経済史・農業史。東京大学名誉教授。 1912年、長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)で生まれた。飯田中学校を経て、1932年3月第八高等学校理科甲類を卒業し、東京帝国大学農学部農業経済学科に入学。1936年3月に同大学を卒業。 1939年10月、東京帝国大学農学部講師に就任。 1948年10月、東京大学農学部助教授となった。1949年、学位論文『元禄時代に於ける農学の発達とその地盤』を東京大学に提出して農学博士号を取得。 1959年、東京大学農学部教授に昇格。翌1960年から日本経済史講座の担当者が戦死したため空席になっていた一橋大学経済学部教授を併任し、永原慶二とともに中村政則、西田美昭ら多くの後継者を育てた。
田中 正明(たなか まさあき、明治44年(1911年)2月1… 田中 正明(たなか まさあき、明治44年(1911年)2月11日 - 平成18年(2006年)1月8日)は、日本の歴史研究家、政治思想家、近現代史評論家、著述家、新聞編集者。戦前・戦時中は松井石根の私設秘書としてアジア解放運動に従事した。 大亜細亜協会編集責任者、戦後は、拓殖大学講師、世界連邦建設同盟事務局長、財団法人国際平和協会専務理事を務めるほか、近現代史評論家として著述活動を活発に行った。 長野県下伊那郡喬木村出身。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)卒業。1933年、興亜学塾卒業。松井石根の元私設秘書、松井が設立発起人となった大亜細亜協会編集責任者となる。応召し、無錫で終戦を迎える[要出典]。
熊谷元一(くまがい もといち、1909年7月12日 - 20… 熊谷元一(くまがい もといち、1909年7月12日 - 2010年11月6日)は、日本の写真家、童画家。
松下 隆章(まつした たかあき、1909年3月31日 - 1… 松下 隆章(まつした たかあき、1909年3月31日 - 1980年9月15日)は、日本の美術史家。中世日本美術を主として扱った。
伊藤 郷平(いとう ごうへい、1906年10月6日 - 19… 伊藤 郷平(いとう ごうへい、1906年10月6日 - 1984年8月28日)は、日本の地理学者、理学博士。第4代愛知教育大学長。 愛知県地方計画委員会会長、矢作川流域開発研究会会長などを務め、地域開発計画の立案、推進に大きな業績を残した。 長野県伊賀良村(現・飯田市北方)に生まれた。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、1930年(昭和5年)東京高等師範学校を卒業。1936年(昭和11年)、東京文理科大学理学部地理学科を卒業。 東京府青山師範学校、東京女子師範学校、立正大学などで教鞭をとり、東京都視学官となる。戦後、長野県須坂高等学校長を務め、1951年(昭和26年)に愛知学芸大学(現・愛知教育大学)教授となる。
須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 -… 須山 計一(すやま けいいち、男性、1905年7月17日 - 1975年4月17日)は、漫画家、洋画家、美術評論家、漫画評論家、社会運動家。昭和初期のプロレタリア美術運動に参加。生前、日本における漫画評論の第一人者として知られた。生前は一水会、草炎会および日本美術会会員。別名義は宇野圭。 明治38年(1905年)、長野県下伊那郡鼎村(鼎町を経て、現・飯田市)に生まれる。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、昭和5年(1930年)、東京美術学校西洋画科卒業。『文章倶楽部』(新潮社)、『戦旗』(戦旗社)などに漫画を執筆。『無産者新聞』に漫画「アジ太プロ吉」を連載。 昭和6年、日本プロレタリア美術家同盟の中央委員および書記長に就任。
椋 鳩十(むく はとじゅう、1905年1月22日 - 198… 椋 鳩十(むく はとじゅう、1905年1月22日 - 1987年12月27日)は、日本の小説家、児童文学作家、鹿児島県立図書館長、教員。本名は久保田 彦穂(くぼた ひこほ)。日本における動物文学の代表的人物である。 1947年から19年間務めた鹿児島県立図書館長時代には、第二次世界大戦で崩壊した図書館機能の再建のため、市町村図書館と共同運営を行い、市町村図書館を設置できない市町村には図書館を設置して県立図書館が支援するという、のちの図書館ネットワークの原型となる、図書館学において「鹿児島方式」と呼ばれるものを構築した。 1905年1月長野県下伊那郡喬木村阿島北にて、父(金太郎)、母(たき)の次男として誕生。
宮下 正美(みやした まさみ、1901年5月15日 - 19… 宮下 正美(みやした まさみ、1901年5月15日 - 1982年12月17日)は、日本の教育評論家、児童文学作家。男性。 長野県下伊那郡市田村(現高森町)生まれ。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、慶應義塾大学文学部心理学科卒。同幼稚舎教師を経て、戦後は小原國芳の湘南学園設立に参加し初代園長、杉野女子大学短期大学部教授。 自ら児童読物を多く書いたほか、教育指南書を著し、旧文部省の「幼稚園指導要綱」作成委員なども歴任した。 子に演劇評論家・「朝日ジャーナル」編集長の宮下展夫、ドイツ文学者・慶應義塾大学名誉教授の宮下啓三。
代田 稔(しろた みのる、1899年〈明治32年〉4月23日… 代田 稔(しろた みのる、1899年〈明治32年〉4月23日 - 1982年〈昭和57年〉3月10日)は、日本の医学博士、実業家。ヤクルトの開発者で実質的な創業者。長野県下伊那郡竜丘村(現:飯田市)出身。 貧しい人でも健康を手に入れられるよう「ハガキ1枚煙草1本の値段で買えるヤクルト」を経営標語とし、「健腸長寿」を理念とした。 「ヤクルトの父 代田稔物語」という伝記漫画が2004年の小学館『小学三年生』四月号に掲載され、2015年4月からはヤクルト80周年記念サイトにて配信されている(原案:久保田千太郎 漫画:ながいのりあき) 正五位、勲三等瑞宝章を受章。
野溝 勝(のみぞ まさる、1898年(明治31年)11月15… 野溝 勝(のみぞ まさる、1898年(明治31年)11月15日 - 1978年(昭和53年)8月22日)は、日本の政治家、農民運動家。衆議院議員、参議院議員、左派社会党書記長、芦田内閣の地方財政委員会委員長。正三位勲一等瑞宝章。 長野県上伊那郡赤穂村(現在の駒ヶ根市)に馬車屋の子として生まれる。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、1917年(大正6年)青森農業学校畜産獣医科を卒業する。同年法政大学に入学するが、すぐに中退し、獣医師となり、長野県警察部で防疫官、衛生助手として勤務する。しかし思想的に問題があるとみなされて、長野県下伊那郡富草警察署(現・阿南警察署)に配置換えとなる。しかし、ここでも署長と衝突し、1922年(大正11年)に退職した。
北原 名田造(きたはら なだぞう、1894年(明治27年)4… 北原 名田造(きたはら なだぞう、1894年(明治27年)4月1日 - 1990年(平成2年)10月29日)は、大正から昭和期の政治家、篤農家。長野県駒ヶ根市長。号は竹雲山人。 長野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)で、北原久次郎、やす の三男として生まれた。旧制飯田中学(現長野県飯田高等学校)を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学農科大学の農地実地見習を修了、同附属果樹園主任となり、1920年(大正9年)桔梗ヶ原に北原農場を開設し、果樹野菜栽培や畜産の先駆となる。 1947年(昭和22年)長野県議会議員となり、同副議長も務めた。1951年(昭和26年)欧米各国を視察し、1952年(昭和27年)長野県人事委員会委員長、長野県総合開発審議会会長などを歴任。
香山 小鳥(かやま ことり、1892年(明治25年)2月 -… 香山 小鳥(かやま ことり、1892年(明治25年)2月 - 1913年(大正2年)6月)は、長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)出身の版画家、詩人。本名は香山 藤禄(かやま ふじろく)。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)生まれ。1911年(明治44年)に長野県飯田中学校を卒業し、一家で東京の深川に移り住んだ。1912年(明治45年)には竹久夢二と出会い、そのつてで恩地孝四郎(小鳥より1年早い1891年生)や田中恭吉(小鳥と同じ1892年生)と出会った。同年4月には東京美術学校予備科に入学し、本科の彫刻科塑像部を志望するが、選抜に落第して7月には東京美術学校を退学し、木版彫師の伊上凡骨の下で木版画の勉強に励んだ。
河竹 繁俊(かわたけ しげとし、1889年(明治22年)6月… 河竹 繁俊(かわたけ しげとし、1889年(明治22年)6月9日 - 1967年(昭和42年)11月15日)は、日本の演劇学者。位階は従四位。学位は文学博士。文化功労者。旧姓は市村(いちむら)。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館館長を務め、歌舞伎史、比較演劇を中心に演劇史を研究した。 1889年、長野県下伊那郡山本村(現・飯田市)に市村保三郎の三男として生まれる。旧制飯田中学まで毎日10キロ程徒歩で通学。1911年、早稲田大学英文科卒業。在学中、坪内逍遥の文芸協会演劇研究所に入り、俳優・演出助手を務める。 同年、逍遥の推薦で河竹黙阿弥の娘・糸女の養子となる。1920年、帝国劇場文芸部に嘱託として勤務し、のちに技芸学校主事を務める。
中原 謹司(なかはら きんじ、1889年2月7日 - 195… 中原 謹司(なかはら きんじ、1889年2月7日 - 1951年3月1日)は日本の政治家。長野県の在郷軍人有志で結成された政治結社信州郷軍同志会の理論的指導者であり、大政翼賛会では中央協力会議部副部長として新体制運動を担った。号は起雲子。 下伊那郡竜江村(現飯田市)の地方名望家中原治部衛門の次男として生まれ、旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を卒業後に早稲田大学文科予科に進学した。1912年に坪内逍遙が主催した文芸協会演劇研究所の第1期生として入所し、俳優を目指した。同期には、河竹繁俊、松井須磨子らがいる。俳優を目指していた中原であったが、長男である兄が死去したことを受けて、俳優の夢を断念して1913年、大学予科修了後に帰郷した。
松井 卓治(まつい たくじ、1888年(明治21年)6月6日… 松井 卓治(まつい たくじ、1888年(明治21年)6月6日 - 1978年(昭和53年)11月12日)は、大正から昭和期の医師、政治家。長野県飯田市長。位階は正六位。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)で、松井敦、光子の息子として生まれた。旧制飯田中学(現長野県飯田高等学校)を経て、1926年(大正元年)10月、旧制千葉医学専門学校を卒業。同年、一年志願兵として歩兵第60連隊に入隊し、2年後に陸軍三等軍医として除隊。東京江東病院小児科医局に勤務する。1916年(大正5年)飯田に戻って兄が経営する医院に小児科医として勤め、1930年(昭和5年)兄の死去により医院を承継し、内科小児科医院を経営した。
吉川 亮夫(よしかわ あきお、1886年(明治19年)9月7… 吉川 亮夫(よしかわ あきお、1886年(明治19年)9月7日 - 1954年(昭和29年)11月1日)は、日本の政治家。衆議院議員、号は半石。 長野県下伊那郡松尾村(現飯田市)に生まれる。酒造業・吉川芳太郎の長男。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、早稲田大学政治経済学科卒業。松尾村会議員を経て、1927年(昭和2年)、長野県会議員となる。同4年(1929年)松尾村長に推挙され、昭和恐慌による農村経済の危機を、救農資金の貸し付けで切り抜け、公共土木事業を起こして失業者を救い、道路改修、河川治水、橋梁架け替えなど村内各地の社会基盤整備に奔走した。 松川入森林組合長、全国町村会会長代理、長野県砂防会長、同県町村会長などを歴任し、同17年(1942年)第21回衆議院議員総選挙において長野3区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を得て、当選。
赤羽 一雄(あかはね かずお、1886年4月17日 - 19… 赤羽 一雄(あかはね かずお、1886年4月17日 - 1981年5月21日)は、日本の教育者。号は王郎。 王郎の正確な来歴については、正否の判定が難しい部分が多い。履歴書が流浪先で適当に書かれたものであり、来歴に関する具体的な口述が少ないこと、晩年は事実と本人の願望が錯綜したことを述べていたためである。 長野県上伊那郡東春近村(現伊那市)生まれ。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)を経て、東京美術学校学校図案課を卒業後、長野県学務課に勤務。1910年に自殺未遂を起こし、翌年、更級郡中津尋常高等小学校の代用教員となり、諏訪郡玉川小学校に転任。この頃、来県した武者小路実篤に出会い、白樺派同人と交流を深め、以後長野県における白樺派教育の先導者となり、人道主義の思潮と芸術運動を盛り上げた。
島 欽一(しま きんいち、1877年(明治10年)10月28… 島 欽一(しま きんいち、1877年(明治10年)10月28日 - 1941年(昭和16年)10月28日)は、日本の実業家、グラフィックデザイナー。日本初の図案社とされる島丹誠堂図案社の創業者。 三代続く画人の家系に生まれたが、本格的な美術を捨て広告図案という商業美術の分野に専念し、当時珍しかった「石埭流」の文字を扱い、戦前における多くの新聞広告や図案を考案した。 石埭流は書家・永坂石埭(1845年 - 1924年)の書体だが、欽一が使用した書体はそれに創意工夫を加えたものだった。 欽一は、1934年にいすゞ自動車の初代社章(通称、さざなみマーク)を考案したことでも知られる。社章を考案した当初は自動車工業(いすゞ自動車の前身)の車の商標を制作したに過ぎなかったが、1949年にいすゞ自動車が設立された際に初代社章として採用された。
大江 礒吉(おおえ ぎきち、慶応4年5月22日(1868年7… 大江 礒吉(おおえ ぎきち、慶応4年5月22日(1868年7月11日) - 明治35年(1902年)9月6日)は日本の教育者。出生名は大江磯吉(いそきち)。 1868年、信濃国伊那郡下殿岡村(現・長野県飯田市下殿岡)に生まれた。父および祖父は、殿岡、名古熊、毛賀の3カ村の警備「下役」に従事し、江戸時代は「番太」とされていた家系である。 地域最初の小学校で一年生から教育を受ける。開校された下伊那中学校の第一期生として入学する。1885年7月、改名され長野県立中学校飯田支校の第一期卒業生となる。1886年9月、長野県師範学校高等師範科第2級に編入となり、翌年7月卒業する。 1886年9月2日に、長野県諏訪郡平野小学校の訓導として赴任するが、同僚教師の間で排斥する動きとなり、7日後に辞職を余儀なくされる。
ポータル 文学
羽場 仁志(はば ひとし)は、日本の作曲家、作詞家。長野県飯… 羽場 仁志(はば ひとし)は、日本の作曲家、作詞家。長野県飯田市出身。帝京大学経済学部卒業。K・S・P所属。
北原 ゆき(きたはら ゆき) は、日本の放送作家。長野県下伊… 北原 ゆき(きたはら ゆき) は、日本の放送作家。長野県下伊那郡鼎町(現・飯田市)出身。青山学院大学卒業。 長野県飯田高等学校在学中の高校生時代、部活はソフトボール班に所属。高校生時代は映画監督を志し、東宝や松竹に質問の電話をして「映画の専門学校に行くよりも、人生経験をすることが大事」との返事をもらったことがあるという。そこから、大学進学を目指すようになる。 1度目の大学受験に失敗し、高校卒業後に上京し、立川市の河合塾の寮に入り寮生活を始める。そこで出会った、かねてからラジオDJになるのが夢だったという松永並子(現・FM島田ディレクター)に誘われる形で、二人のトークを録音し、1992年にオールナイトニッポン放送開始25周年を記念して雑誌「宝島」とのコラボレーションで開催された『全日本パーソナリティ選手権』に応募、総数約2万通と言われた応募者の中を勝ち抜いて優勝、賞品としてオールナイトニッポンのレギュラーパーソナリティ担当の権利を与えられ、1992年10月21日深夜からスタートした『松永並子と北原ゆきのオールナイトニッポン』にレギュラー出演した。
古池 常泰(こいけ つねやす)は、山形県を拠点に活動している… 古池 常泰(こいけ つねやす)は、山形県を拠点に活動している日本のフリーアナウンサー。 長野県飯田市出身。長野県飯田高等学校、東洋大学卒業。 1966年に山形放送に入社し、同局のアナウンサーになる。局アナ時代には音楽番組や報道番組などを担当した。 2003年に山形放送を定年退職。フリーに転じ、以後は山形放送以外の番組にも出演している。また、やまがたアナウンススクールの校長も務めている。
杉本 麻樹(すぎもと まき)は、日本の情報工学者。慶應義塾大… 杉本 麻樹(すぎもと まき)は、日本の情報工学者。慶應義塾大学理工学部情報工学科教授。博士(工学)。 長野県飯田市出身。1996年長野県飯田高等学校卒業。2000年千葉工業大学工学部電子工学科卒業(指導教員:小林幸雄 教授)。2002年千葉工業大学大学院工学研究科情報工学専攻修士課程修了(指導教員:三井田惇郎 教授)、東京大学大学院情報学環研究補佐員(情報理工学系研究科舘暲・前田太郎・川上直樹研究室)、NTTコミュニケーション科学基礎研究所人間情報研究部客員研究員。2004年日本学術振興会特別研究員(DC1)。2005年マサチューセッツ工科大学コンピュータ科学・人工知能研究所客員研究員。2006年電気通信大学大学院電気通信学研究科機械制御工学専攻博士課程修了(指導教員:稲見昌彦 教授,松野文俊 教授)。