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宮辺 英夫(みやべ ひでお、1919年1月 - 1978年1… 宮辺 英夫(みやべ ひでお、1919年1月 - 1978年10月)は、日本の陸軍軍人、パイロット。 最終階級は陸軍少佐。加藤隼戦闘隊の最後の戦隊長として知られる。 熊本県に生まれる。1936年(昭和11年)に旧制玉名中(熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、1939年(昭和14年)に陸軍士官学校を52期で卒業。 陸軍士官学校卒業後、明野陸軍飛行学校へ進み、卒業後は飛行第5戦隊へ配属。その後、明野陸軍飛行学校教官となる。1943年(昭和18年)2月に飛行第六十四戦隊(いわゆる加藤隼戦闘隊)第2中隊長関二郎大尉が戦死したことに伴い、第2中隊長になる。 1945年(昭和20年)4月26日には飛行第六十四戦隊戦隊長となり、クラコール飛行場にて終戦を迎えた。
村田 勉(むらた つとむ、1909年6月3日 - 2000年… 村田 勉(むらた つとむ、1909年6月3日 - 2000年1月30日)は、日本の軍人(技術士官)、技術者、実業家。軍における最終階級は大日本帝国海軍技術少佐。 火薬の専門家として知られ、海軍では艦砲の火薬や固体燃料ロケットの研究をおこない、戦後は日本油脂に勤務し、糸川英夫のペンシルロケットに推進剤を提供した。のちに日本油脂の社長・会長を務める。 熊本県に生まれる。旧制玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)から第一高等学校を経て東京帝国大学に進む。旧制中学校時代に読んだ三上於菟吉の小説『春は蘇れり(地獄の彼方の天国)』に影響を受け、火薬に興味を持つ。東京帝国大学工学部卒業後、海軍技術士官となる。
池上 二男(いけがみ つぐお、1905年 - 没年月日不詳)… 池上 二男(いけがみ つぐお、1905年 - 没年月日不詳)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。熊本県出身。 大正9年、熊本県立玉名中学校(現熊本県立玉名高等学校・附属中学校)卒業、海軍兵学校入学(51期)。海兵卒業後、34期生として海軍大学校を卒業した。同級生には高松宮がいた。その後、昭和12年に海軍少佐で早くも連合艦隊参謀に任ぜられる。その後、支那方面艦隊参謀、海軍航空本部部員、軍務局局員などを経て、昭和19年に海軍大佐に進級。また、海軍T事件では大森仙太郎少将、直井俊夫大佐と共に調査員を務めた。その後、海軍航空本部総務部部員、大本営海軍参謀、軍令部部員、海軍技術会議議員などを経て、昭和20年6月に海軍航空本部第一課長に就任。
中川 州男(なかがわ くにお、1898年(明治31年)1月2… 中川 州男(なかがわ くにお、1898年(明治31年)1月23日 - 1944年(昭和19年)11月24日)は、日本の陸軍軍人。陸士30期。最終階級は陸軍中将。 太平洋戦争(大東亜戦争)のペリリューの戦いにおいて、歩兵第2連隊長としてペリリュー島守備隊(約1万2千名)を指揮し、同島を長くても3日で攻略できると楽観していたアメリカ海兵隊(約4万9千名)を相手に71日間に渡って組織的戦闘を続け、自軍の玉砕と引き換えにアメリカ海兵隊に多大な損害を与えたことで知られる。 熊本県出身。小学校校長・中川文次郎の三男として生まれる。玉名中学校を経て(同期生に広瀬藤蔵・海軍少将(海機27期・海大)、由布喜久雄・海軍法務少将(東大卒)、中川千代吉・陸軍大佐(陸士30期)、松島悌二・海軍大佐(海機27期・海大)が居る。
由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29… 由布 喜久雄(ゆふ きくお、1897年〈明治30年〉5月29日 - 1973年〈昭和48年〉2月6日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍法務少将。海軍省廃止時の海軍省法務局長。旧姓、岡村。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校、東京帝国大学法学部を卒業し、1922年に海軍法務官に任官する。海軍兵学校教官、海軍省法務局局員、東京高等軍法会議法務官、海軍司法事務官、大本営報道部附、海軍大学校教官などを歴任した。 1943年に連合艦隊法務長に就任した。1945年に海軍法務少将に昇進した。戦後は海軍省(のち、改組により第二復員省)法務局長となる。 第二復員省退官後は公職追放を経て、郷里である福岡県柳川市で弁護士業を営んだ。
広瀬 藤蔵(ひろせ とうぞう、1895年 - 1950年)は… 広瀬 藤蔵(ひろせ とうぞう、1895年 - 1950年)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1895年に熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校を1915年に卒業(同級生に中川州男)後、海軍機関学校に進む(第27期)。 海軍機関少尉に任官後は特別演習審判官、海軍艦製本部部員、海軍省教育局局員、海軍大学校教官、海軍技術会議議員などを歴任した。この間、海軍大学校機関学科を卒業している。 1943年に第六艦隊の機関長となり、1945年5月に海軍少将に昇進した。最終ポストは佐世保軍需部長だった。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。1950年に54歳で死去。
福田 良三(ふくだ りょうぞう、1889年(明治22年)11… 福田 良三(ふくだ りょうぞう、1889年(明治22年)11月1日 - 1980年(昭和55年)3月26日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 熊本県玉名市出身。旧制熊本県立玉名中学校より海軍兵学校第38期入校。入校時成績順位は150名中第122位、卒業成績順位は149名中第50位。 福田は海軍大学校甲種課程修了後も艦船乗組ばかりで、本省勤務や在外公館駐在勤務の類が全く無く、特に目立った経歴は見出せない。海軍中佐に任官した頃から中国方面の勤務が多くなる。昭和14年に海南島根拠地隊司令官に就任した際に、同島の治安状態が極めて悪く、高級士官が狙い撃ちされ作戦遂行への懸念から、周囲が猛反対する中で指揮官先頭の精神を自ら発揮して渡名喜守定参謀長と共に匪賊討伐に当る。
富田 義信(とみた よしのぶ)は日本の軍人。最終階級は陸軍大… 富田 義信(とみた よしのぶ)は日本の軍人。最終階級は陸軍大佐。熊本県生まれ。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)を経て、陸軍士官学校(31期)を大正8年に卒業した。 その後、陸軍歩兵少尉に任官した。 累進して陸軍中佐となり、太平洋戦争が始まると、新たに編成された南海支隊の参謀附副官となった。 小田健作少将の下で軍務(ポートモレスビー作戦)に従事した。 南海支隊幹部が撤退に失敗すると、小田健作少将と共に自決した。 死後、陸軍中佐から陸軍大佐に昇任した。
坂東 正明(ばんどう まさあき)は日本の海軍軍人。最終階級は… 坂東 正明(ばんどう まさあき)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐。 熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)を経て、海軍兵学校を卒業した。(海兵56期) その後、海軍少尉、海軍中佐となり、海軍航海学校を卒業した。 開戦時は第二艦隊の気象長。 その後、新たに編成された第七六二海軍航空隊の気象長を経て、海軍航海学校教官などを歴任し、終戦を迎えた。 終戦後は、海軍省軍務局に勤務し、戦後処理に従事した。
松浦 九州男(まつうら くすお、? - 1950年)は、日本… 松浦 九州男(まつうら くすお、? - 1950年)は、日本の軍人。最終階級は陸軍少佐。熊本県出身。 熊本県立玉名中学校、陸軍士官学校卒業。陸士卒業後、終戦時は関東軍暗号課長だった。満洲に侵攻して来たソビエト軍の捕虜となった。 1946年にA級戦犯を裁く東京裁判のソビエト側の証人として、満州国総務長官・武部六蔵、瀬島龍三陸軍中佐と共に証言台に立たされた。主に日本軍の人体実験についての証言であった。 1950年に死去(自殺)した。
田中 三雄(たなか みつお)は大日本帝国海軍軍人、航空自衛隊… 田中 三雄(たなか みつお)は大日本帝国海軍軍人、航空自衛隊員。戦前の海軍時代の姓は田中だが、戦後の航空自衛隊時代の姓は大谷だった。 熊本県立旧制玉名中学校を経て海軍機関学校(第36期)に進む。海軍機関学校を卒業後、霞ヶ浦海軍航空隊教官などを経て、海軍機関大尉に昇進する。その後、海軍大学校機関学科を卒業した。 卒業後は軍令部部員(第3部第5課)兼大本営海軍参謀、南東方面艦隊参謀などを歴任した。 1945年2月には海軍省人事局局員となり、海軍中佐で終戦を迎え、退役した。 その後、1952年に航空自衛隊に入隊し、整備学校(現・航空自衛隊第1術科学校)初代校長や北部航空方面隊司令や補給本部長などを歴任した。
両角 昂(もろずみ のぼる)は、海軍軍人。最終階級は海軍主計… 両角 昂(もろずみ のぼる)は、海軍軍人。最終階級は海軍主計大佐。 熊本県に生まれる。大正6年に熊本県立玉名中学校(同期生に坂口主税や弘好文)を卒業した。 その後、海軍経理学校に進学し、11期生として1922年6月に海軍経理学校を卒業した。 海軍主計少尉候補生に任官後は、1927年に海軍主計大尉となり、第29駆逐隊主計長や、第12駆逐隊主計長などを歴任した。 1935年11月には海軍主計少佐となり、佐世保防備隊の主計長や横須賀海軍経理部部員などを歴任した。 1941年に海軍主計中佐、1944年に海軍主計大佐となり、大湊警備府の札幌支部長で終戦を迎えた。 終戦直後に大湊警備府主計長に任命され、戦後処理に尽力した。