スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
村岡 隆明(むらおか たかあき、1962年〈昭和37年〉12… 村岡 隆明(むらおか たかあき、1962年〈昭和37年〉12月5日 - )は、日本の政治家。元宮崎県えびの市長(4期)、元えびの市議会議員(3期)。 鹿児島県姶良郡吉松町(現:湧水町)出身。鹿児島県立出水高等学校卒業。1985年(昭和60年)3月、近畿大学理工学部卒業。ビークルアドバタイジング社に入社。 1999年(平成11年)11月3日、えびの市議会議員に就任。以後市議を3期務める。 2009年(平成21年)6月20日、えびの市長の宮崎道公が、市の発注の土木事業で入札前に予定価格を地元業者に漏らしたとして、競売入札妨害容疑の疑いで逮捕された。宮崎は9月17日付で辞職。これに伴って10月12日に行われた市長選挙に出馬し、元市職員の候補者を破り初当選を果たした。
竹原 信一(たけはら しんいち、1959年〈昭和34年〉3月… 竹原 信一(たけはら しんいち、1959年〈昭和34年〉3月7日 - )は、日本の政治家、元航空自衛官。鹿児島県阿久根市議会議員(4期)。前阿久根市長(2期)。最終階級は2等空尉。 1977年、鹿児島県立出水高等学校を卒業。総理府防衛庁入庁(防衛大学校入校)、1983年卒業(第27期。同期に佐藤正久)。航空自衛隊に幹部候補生として任官するも、1988年に二等空尉で退官。帰郷して父親の経営する建設会社である株式会社三笠興産に就職する。一時期は同社の代表取締役を務めた。 2005年、阿久根市議会議員選挙に出馬し、初当選。 2008年8月31日投開票の阿久根市長選挙に、阿久根市議会議員を辞職して立候補して初当選。
佐潟 隆一(さがた りゅういち、1956年3月17日 - )… 佐潟 隆一(さがた りゅういち、1956年3月17日 - )は、日本のジャーナリスト、新聞経営者。南日本新聞社社長を務めた。 鹿児島県阿久根市生まれ。鹿児島県立出水高等学校を経て、1980年に鹿児島大学法文学部を卒業し、同年に南日本新聞社に入社した。2007年に取締役に就任し、2010年に常務を経て、2017年12月から2025年12月までに社長を務めた。
森枝卓士(もりえだ たかし、1955年4月7日 - )は、日… 森枝卓士(もりえだ たかし、1955年4月7日 - )は、日本の写真家、ジャーナリスト。熊本県水俣市出身。日本写真家協会会員。大正大学客員教授。 水俣病の取材に訪れたユージン・スミスの影響でジャーナリストを志す。 鹿児島県立出水高等学校卒業。国際基督教大学教養学部社会科学科卒業。東南アジアを中心に世界中で取材活動を行う。食文化にまつわる著作が多い。週刊ヤングジャンプにて連載されていた漫画『華麗なる食卓』の監修を務める。
桐野 作人(きりの さくじん、1954年 -)は、作家、歴史… 桐野 作人(きりの さくじん、1954年 -)は、作家、歴史研究家。武蔵野大学政治経済研究所客員研究員 鹿児島県出水市出身。鹿児島県立出水高等学校卒業。1979年立命館大学文学部東洋史学専攻卒業。歴史関係出版社の編集長を経て、編集プロダクションを設立。戦国史、主に薩摩島津氏の研究が多く、『真説 関ヶ原合戦』(学習研究社,2000年)、『真説 本能寺』(学習研究社2001年)などの実証的な書籍も執筆している。 在野の研究者ではあるものの、桐野の研究は歴史学界でも肯定的に評価されている。本能寺の変について朝廷黒幕説を唱えていることで知られていたが、後に明智光秀の単独犯行であるものとして黒幕説を否定するようになった。
外木場 義郎(そとこば よしろう、1945年6月1日 - )… 外木場 義郎(そとこば よしろう、1945年6月1日 - )は、鹿児島県出水市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 現役時代は、セントラル・リーグ(セ・リーグ)の広島カープでエースとして活躍、1975年には球団史上初のリーグ優勝に貢献した。2リーグ制以降のプロ野球で、3回のノーヒットノーラン(うち完全試合1試合)を達成した唯一の投手である。 旧薩摩郡東郷町(現・薩摩川内市)にて5人きょうだいの3番目として生まれた。父親がバス会社の事務職をしていていた為転勤族であった。現さつま町の盈進小学校時代に遊びでソフトボールを始める。出水市に転居し出水市立出水中学校に入学後、野球部監督の上垣侃から誘われ、この時に小学生の頃から好きだった野球を始めた。
先崎 一(まっさき はじめ、1944年〈昭和19年〉5月4日… 先崎 一(まっさき はじめ、1944年〈昭和19年〉5月4日 - )は、日本の元陸上自衛官。第29代陸上幕僚長、第26代統合幕僚会議議長、初代統合幕僚長。1等陸佐までの職種は普通科。 鹿児島県出水郡高尾野町(現在の出水市)出身。4人兄弟の長男で「親に金銭的な迷惑をかけたくないと考え」、防衛大学校に進学した。1968年(昭和43年)3月に防大を卒業し、陸上自衛隊に入隊。幹部候補生学校を卒業後は第3普通科連隊に配属。その後、第39普通科連隊長、第3師団長、北部方面総監を経て、2002年(平成14年)12月に第29代陸上幕僚長に就任。2004年(平成16年)8月、第26代統合幕僚会議議長に就任、2006年(平成18年)3月に陸海空3自衛隊の指揮・命令系統を一元化するために統合幕僚会議を廃止して新設された統合幕僚監部の初代統合幕僚長に就任した。
出水 憲(いずみ けん、1943年3月2日 - )は、日本の… 出水 憲(いずみ けん、1943年3月2日 - )は、日本の俳優。旧芸名は出水 憲司。鹿児島県出身。身長172cm、体重72kg。血液型はA型。日本芸能センター所属。60年代後半から70年代にかけては、悪役での出演がとても多かった俳優である。 鹿児島県立出水高等学校卒業。高校時代、柔道で国体に出場。高校卒業後、富士製鐵入社。その後、俳優養成所を経て、映画デビュー。 テレビ・ドラマは、出水憲司として『仮面の忍者赤影』、『風』、『燃えよ剣』、『水戸黄門』、『大岡越前』、『暴れん坊将軍』、『必殺仕事人』など多数の時代劇などに出演。その後、出水憲司から出水憲に改名した。役どころは概ね悪役もしくはその配下の場合が多いが、21世紀になってからは善人役を演じることも多い。
小島 義雄(こじま よしお、1931年8月7日 - 1993… 小島 義雄(こじま よしお、1931年8月7日 - 1993年3月3日)は、日本の陸上競技選手。沖田芳夫後の日本のエースとして活躍[要出典]。元ハンマー投日本記録保持者、砲丸投日本記録保持者。ヘルシンキオリンピック日本代表。
山下 耕作(やました こうさく、1930年〈昭和5年〉1月1… 山下 耕作(やました こうさく、1930年〈昭和5年〉1月10日 - 1998年〈平成10年〉12月6日)は、日本の映画監督。時代劇・任侠映画を中心に、テレビ時代劇も演出してきた。愛称は同姓の軍人・山下奉文にちなんで「将軍」。両者に縁戚関係はない。長男は映画監督の山下耕一郎、次男はテレビドラマの監督でテレビ映画制作会社「京都組」代表取締役の山下智彦。 鹿児島県阿久根市出身。鹿児島県出水高等学校・京都大学法学部卒業。京都大学卒業後、東映の入社試験を受け成績トップ。しかし当時の東映に入社する社員は何らかの縁故がなければ入れず、しかも山下は全学連くずれであることから東映の重役連中は不採用にしようとした。
井上 吉夫(いのうえ きちお、1923年〈大正12年〉3月1… 井上 吉夫(いのうえ きちお、1923年〈大正12年〉3月1日 - 2003年〈平成15年〉10月24日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。参議院議員(5期)、国務大臣(北海道開発庁長官、沖縄開発庁長官、国土庁長官)、鹿児島県議会議員(3期)、自由民主党参議院議員会長等を歴任。 鹿児島県出水郡出水町(現在の出水市)出身。地主だが自作もおこなう豪農の家に生まれる。祖父の吉太郎は村会議員だった。旧制鹿児島県立出水中学校(現:鹿児島県立出水高等学校)を経て、1942年に旧制熊本高等工業学校(現:熊本大学工学部)採鉱冶金科を卒業。卒業と同時に日本鉱業に就職し、四国の白滝鉱山にて勤務するが、1年後に召集される。
執印テル(しゅういん てる、1915年(大正4年)3月10日… 執印テル(しゅういん てる、1915年(大正4年)3月10日 - 2007年(平成19年)9月25日)は、昭和時代の日本のジャーナリスト、政治家。出水市出身(旧高尾野町・執印氏9人兄弟の7番目・次女)。
尾崎 末吉(おざき すえきち、1894年〈明治27年〉4月5… 尾崎 末吉(おざき すえきち、1894年〈明治27年〉4月5日 - 1982年〈昭和57年〉8月23日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 鹿児島県出水郡阿久根村(後の阿久根町、阿久根市)出身。旧制鹿児島県立出水中学校(現:鹿児島県立出水高等学校)を経て、日本大学専門部法律科を1914年に中退。 その後、東京相愛女学校長、東京土地埋立常務取締役、大森乗合自動車社長、昭和鋼業専務取締役、朝日航空工業取締役、東光興業取締役、日本瓦斯開発社長などを務めた。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙おいて鹿児島県第2区で民主党から出馬して当選し、第26回総選挙まで連続四回の当選を果たした。この間、衆議院予算委員長、民主自由党政調会副会長を務めた。
大石 康(おおいし やすし)は、東京都出身の、日本の柔道家。… 大石 康(おおいし やすし)は、東京都出身の、日本の柔道家。 鹿児島県立出水高等学校、中部柔整専門学校卒業。 東京で生まれるが、10歳の時に鹿児島県出水市へ移り、そこで柔道を始めた。高校を卒業後に富士製鉄(現・日本製鉄)へ入社した。1964年の東京オリンピック柔道競技の無差別に同僚の神永昭夫が出場したが、決勝でオランダのアントン・ヘーシンクに敗れた際には「泣けて仕方がなかった」という。引退を決意した神永に「小さな時から基礎をしっかり鍛えなければ、日本は体格のいい外国勢に勝てなくなる」と言われたことをきっかけに、少年柔道の指導に取り組む決意をした。32歳の時には愛知県大府市に接骨院を開業するとともに、「基礎の徹底」と「柔道を長く続けたい気持ちにさせる」という指導方針を掲げて大石道場を設立した。