スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
川﨑 成晃(かわさき なりあき、1986年3月30日 - )… 川﨑 成晃(かわさき なりあき、1986年3月30日 - )は、日本の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 鹿児島県垂水市出身。垂水中学校では軟式野球部に所属。鹿児島商高では3年夏に鹿児島大会で準優勝。高校通算20本塁打の強打で活躍する。 福岡大学では1年秋にDHで、2年秋に外野手で2度のベストナインを受賞。また2年秋は盗塁王も獲得した。3年時に大学選手権に出場。 卒業後は鮮ど市場に入社。青果部門の業務に携わりつつ、同社野球部の熊本ゴールデンラークスでプレー。 2008年の都市対抗野球では本塁打を放ち注目される。 2009年は沖縄電力の補強選手として都市対抗野球に出場。 2010年にはアジア大会日本代表に選出された。
川﨑 成晃(かわさき なりあき、1986年3月30日 - )… 川﨑 成晃(かわさき なりあき、1986年3月30日 - )は、鹿児島県垂水市出身のプロ野球選手(外野手)。
小野 幸一(おの こういち、1972年5月13日 - )は、… 小野 幸一(おの こういち、1972年5月13日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(投手)。 鹿児島商業高では井上一樹の1年後輩。3年春は県大会で優勝し、九州大会では初戦で佐賀学園の若林隆信と投げ合って完封すると準々決勝では夏の甲子園で準優勝することになる沖縄水産にも完投勝利してベスト4。1990年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープに2位指名され入団。 在籍4年間で一軍登板はなく、1994年に現役を引退した。長身で甘いマスクを活かして引退後はモデルに転身、その後はカード会社に就職した。
井上 一樹(いのうえ かずき、1971年7月25日 - )は… 井上 一樹(いのうえ かずき、1971年7月25日 - )は、鹿児島県姶良郡溝辺町(現:霧島市)出身の元プロ野球選手(外野手、左投左打)、プロ野球監督。現役時代は1990年から2009年まで20年間にわたり中日ドラゴンズ一筋でプレーした。2025年からは中日の監督を務める。 陵南小学校時代にソフトボールを始める。陵南中学校時代に軟式野球部に入部。鹿児島商業高校時代は、投手兼外野手として高校2年生のとき甲子園に1回出場。甲子園出場について井上本人が「行進のときに鳥肌が立ったことが忘れられない。これのために頑張ってきたんだと思った。」と語っている。甲子園での敗退後、甲子園の砂を集めていたら、同級生
小牧 雄一(こまき ゆういち、1967年5月2日 - )は、… 小牧 雄一(こまき ゆういち、1967年5月2日 - )は、鹿児島県日置市出身の元プロ野球選手(捕手・外野手、右投右打)・コーチ。1994年から2000年までの登録名は「小牧 優一」。 小学4年の時にボーイズリーグで野球を始め、中学2年の春に全国大会へ出場した。 鹿児島商業高では1学年上の川畑伸一郎とバッテリーを組んで2年夏に県大会ベスト4、2年秋は県大会準優勝。3年夏は県大会決勝で本塁打を放つも敗退、社会人野球の三菱自動車水島に進む。社会人野球時代から捕手登録ながら複数ポジションをこなし、1990年の都市対抗野球には外野手で出場した。 1990年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから5位指名を受け入団。
川畑 伸一郎(かわばた しんいちろう、1966年12月5日 … 川畑 伸一郎(かわばた しんいちろう、1966年12月5日 - )は日本の野球選手(外野手)。 鹿児島市立和田中学校、鹿児島商業高等学校卒業。鹿児島商業高校では投手として小牧雄一とバッテリーを組んで3年夏の県大会は準決勝で入来智も登板した鹿児島実に敗退。卒業後は住友金属に進む。5年目の1989年は日本選手権で指名打者として大会優秀選手に選ばれ、チームの優勝に貢献した。1991年は都市対抗で2本塁打を放って外野手として大会優秀選手に選ばれ、日本選手権も優勝して社会人ベストナインも受賞している。 1992年は日本生命の補強選手として都市対抗に出場。またバルセロナオリンピック野球日本代表に選ばれ、予選の対プエルトリコ、キューバ、イタリア戦の3試合で五番ないし六番・指名打者として先発出場。
横田 真之(よこた まさし、1962年11月26日 - )は… 横田 真之(よこた まさし、1962年11月26日 - )は、高知県南国市出身の元プロ野球選手(外野手)。 現役からの引退後は、鹿児島商業高校硬式野球部のコーチを経て、2019年12月から2023年3月まで監督を務めた。 長男の横田慎太郎も元プロ野球選手(外野手)。 本来は右利きだが、王貞治のファンだった実父の影響で、幼少期に王と同じく左打ちに転向した。南国市立香長中学校への進学後は、校内の軟式野球部に所属。3年時には「3番・三塁手」として高知県大会の決勝まで進んだが、中西清起を擁する宿毛市立小筑紫中学校に敗れた。その一方で、南国市の相撲大会で優勝している。 高知県内で創立されたばかりの明徳高等学校(現:明徳義塾高等学校)から入学を熱心に誘われていたため、中学校からの卒業を機に同校へ進学するとともに、硬式野球部へ所属。
堂園 喜義(どうぞの きよし、1956年6月10日- )は、… 堂園 喜義(どうぞの きよし、1956年6月10日- )は、鹿児島県志布志市(現役当時は、同県曽於郡志布志町)出身の元プロ野球選手。ポジションは投手で、アンダースロー投法であった。 鹿児島商業高等学校では1972年、1年生ながらエースとして夏の甲子園に出場。1回戦でこの大会に優勝した津久見高に9回逆転サヨナラ負けを喫する。1973年の夏は鹿児島県予選で決勝に進出するが、鹿児島実業に敗退。最上級生として臨んだ1974年は春の選抜に出場。これまた初戦で、この大会に優勝した報徳学園に敗れた。同年夏は、県予選決勝で定岡正二を擁する鹿児島実業に0-2で敗北。2度の甲子園出場で勝利を味わう事が叶わないまま、高校3年間を終える。
奥薗 満(おくぞの みつる、1951年7月26日 - )は、… 奥薗 満(おくぞの みつる、1951年7月26日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(捕手)。 鹿児島商業高では、2年生の時、同期のエース徳重次男(日立製作所)とバッテリーを組み、1968年夏の甲子園に出場。1回戦で千葉商に敗退。翌1969年も夏の甲子園に連続出場。1回戦は宇都宮学園に完封勝ちするが、2回戦でこの大会に優勝した松山商に敗退した。 1969年にドラフト外でアトムズに入団。当時のヤクルト捕手陣には大矢明彦、八重樫幸雄らがおり、1980年までの11年間、ブルペン捕手としてチームを支え続けたが、一軍公式戦に出場することなく引退。 引退後も1983年まではブルペン捕手として裏方に徹し、33歳にてスカウト転身。
秋葉 敬三(あきば けいぞう、1946年11月11日 - )… 秋葉 敬三(あきば けいぞう、1946年11月11日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(投手)。 鹿児島商業高校では1年生の時、1962年夏の甲子園に控え投手として出場。準々決勝に進出するが、林俊彦、木俣達彦のバッテリーを擁する中京商に敗退。この試合でエース浜崎正人をリリーフし甲子園初登板を果たす。チームメートに中原勝利、下須崎詔一がいた。 高校卒業後は、社会人野球のリッカーミシンに入団。その後、鹿児島鉄道管理局に移籍し1965年からエースとなる。1966年の都市対抗では1回戦で先発したが1失点で2回途中降板。1967年の全国鉄大会で、高崎鉄道管理局を相手に完全試合を達成し脚光を浴びた。同年の都市対抗には日本鉱業佐賀関の補強選手として出場。
浜崎 正人(はまさき まさと、1944年10月9日 - 20… 浜崎 正人(はまさき まさと、1944年10月9日 - 2003年5月1日)は鹿児島県出身の元プロ野球選手。 鹿児島商業では2年生でエースとなる。1961年の夏の甲子園県予選決勝に進出するが、東条文博のいた鹿児島実に敗れた。1年上のチームメートに遊撃手の篠原良昭がいる。翌1962年の夏の甲子園に出場。天理高、広陵高を連続完封し準々決勝に進出するが、中京商の林俊宏、三輪田勝利らの継投に抑えられ敗退した。同年の岡山国体でも準決勝に進むが、石川洵(立大-鐘紡)、村上公康のバッテリーを擁する西条高に惜敗。高校同期に三塁手の中原全敏、中堅手の下須崎詔一がいる。 1963年に阪急ブレーブスに入団、シュート主体の投球で貴重な左腕投手として期待される。
下須崎 詔一(しもすざき しょういち、1944年9月8日 -… 下須崎 詔一(しもすざき しょういち、1944年9月8日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 鹿児島商業高校では1962年、3年生の時に中堅手として第44回高校野球選手権に出場を決めるが、練習中に足を骨折し欠場を余儀なくされる。チームは同期の左腕エース浜崎正人の好投もあり準々決勝に進出するが、木俣達彦、林俊宏のいた中京商業高校に11-2で敗れた。他の高校同期に三塁手の中原勝利、2年下のチームメートに控え投手の秋葉敬三がいる。 1963年に西鉄ライオンズへ入団。1965年にはジュニアオールスターにも出場している。左打者の多い西鉄で貴重な右の代打として活躍、1968年には主に中堅手、左翼手として43試合に先発出場を果たしている。
篠原 良昭(しのはら よしあき、1943年6月30日 - )… 篠原 良昭(しのはら よしあき、1943年6月30日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手。ポジションは二塁手、遊撃手。 鹿児島商業では2年生の時、1960年の春の選抜に三番打者、遊撃手として出場している。1回戦でエース渡辺泰輔を擁する慶應高に大敗。同年夏の甲子園県予選では準決勝で出水商に敗れる。翌年夏も2年生エース浜崎正人の好投で県予選決勝に進出するが、東条文博のいた鹿児島実に敗退、夏の選手権には出られなかった。 1962年に大毎オリオンズへ入団。俊足好守の内野手と期待され、1964年には一軍に定着する。控え選手の時期が長かったが、1966年に主に遊撃手として82試合に先発出場、石黒和弘とレギュラーを争う。
塩津 義雄(しおつ よしお、1939年11月25日 - )は… 塩津 義雄(しおつ よしお、1939年11月25日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。 鹿児島商業では強打の内野手として知られ、1957年夏の甲子園東九州大会準決勝に進むが、高鍋高に完封負けを喫する。 1958年に大毎オリオンズへ入団。同年は最終戦で三塁手として初先発出場を果たす。翌1959年は内野のユーティリティプレイヤーとして13試合に先発。10月17日の後楽園球場での西鉄ライオンズとの最終戦で田中喜八郎からプロ入り初本塁打を記録。1960年は外野手も兼ね、準レギュラーとしてリーグ優勝に貢献。大洋ホエールズとの日本シリーズでは、最終第4戦で右翼手、八番打者として起用されるが1三振1四球に終わった。
太田 敏行(おおた としゆき、1930年6月22日 - )は… 太田 敏行(おおた としゆき、1930年6月22日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(内野手)。 鹿島高校へ入学した当初は相撲部に所属しており、国体にも出場経験がある選手だった。そんな折に、同校野球部の創設を支援した元衆議院議員・愛野時一郎が「甲子園に出場し、暗い世相を吹き飛ばせ」と指示したことにより、同校在学生でスポーツが堪能な生徒を強制的に野球部に入部させるが、その中に太田がいた。この影響は大きく、同校は1948年夏の甲子園への出場を決めている。甲子園では2回戦で愛知・享栄商業に大敗を喫した。同級生には野田正樹(阪急)がいる。 その後社会人野球の杵島炭鉱を経て、1954年に中日ドラゴンズへ入団。
前川 忠男(まえがわ ただお、1929年1月28日 - )は… 前川 忠男(まえがわ ただお、1929年1月28日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(内野手)。 鹿児島商業から西日本鉄道、八幡製鐵所を経て1954年に南海ホークスへ入団。南海では控えだったが翌年に移籍したトンボユニオンズではショートのレギュラーを獲得し2番打者として定着した。しかし、1956年にチームが解散し、翌年は東映フライヤーズでプレー。8番ショートでレギュラーとして活躍。1958年オフに引退した。
増田 敏(ますだ とし、1923年10月7日 - 戦死)は、… 増田 敏(ますだ とし、1923年10月7日 - 戦死)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手、三塁手、遊撃手。 鹿児島商在学中は、1941年夏の甲子園の鹿児島大会で活躍し、決勝で延長13回の激闘の末鹿児島実に5-4でサヨナラ勝ち、県大会優勝を果たした(その後、本来なら開催されるはずの南九州大会や本大会が戦局の悪化により中止となった)。 1942年に南海軍へ入団。主力選手が次々と応召されていく中、内野のどこでも守れるユーティリティプレイヤーとしてチームを支えた。打撃は非力だが、守備には定評があった。打順は主に7~9番の下位を打っていた。 1943年シーズン中に応召され、戦死した(没年月日、死没場所は不明)。
白川 一(しらかわ はじめ、1922年5月25日 - 198… 白川 一(しらかわ はじめ、1922年5月25日 - 1982年3月15日)は、鹿児島県出身のプロ野球選手(外野手)。 鹿児島商業学校から社会人野球の星野組を経て、1950年に創設された毎日オリオンズへ入団。 1953年に現役を引退。1955年から1957年までコーチを務めた。
石田 政良(いしだ まさよし、1914年1月7日 - 没年不… 石田 政良(いしだ まさよし、1914年1月7日 - 没年不明)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 鹿児島商業では第15回全国中等学校優勝野球大会に出場。この大会では本塁打も記録している。卒業後は明治大学、門司鉄道局へ進み、1937年に名古屋軍へ入団。1938年春季リーグでリーグ3位となる打率.324を記録。俊足の選手であり、1940年の夏季シーズン途中に応召されるが、その時点で32盗塁を記録しており、そのまま追い抜かれることはなく盗塁王を獲得した。 1946年に復帰し、同年引退した。