スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
河合 逸治(かわい いつじ、1886年〈明治19年〉6月20… 河合 逸治(かわい いつじ、1886年〈明治19年〉6月20日 - 1964年〈昭和39年〉3月13日)は、大正 - 昭和期の英語学者、教育者。三大予備校の一つ、河合塾の創始者として知られる。第五高等学校、名古屋高等商業学校および名城大学・名古屋商科大学教授。 静岡県引佐郡細江町(現・浜松市浜名区)出身。第七高等学校造士館、東京帝大英文科卒後、大正3年に第五高等学校の教授となる。欧米留学からの帰国後は、名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)教授の職に就く。 1933年には名古屋市昭和区の名古屋市立名古屋商業学校(現在は向陽高等学校が立地)前にあった自宅に「河合英学塾」を開設。1937年になり、「河合塾」へと改称した。
西 久光(にし ひさみつ、1886年(明治19年)6月9日 … 西 久光(にし ひさみつ、1886年(明治19年)6月9日 - 1970年(昭和45年)7月3日)は、大正から昭和時代の日本の物理学者。 西豊吉郎の三男として石川県に生まれる。1910年(明治43年)東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)実験物理学科卒業。 1914年(大正3年)第五高等学校(現・熊本大学の前身)教授、1919年(大正8年)九州帝国大学助教授、同年から1922年(大正11年)まで欧米留学を経て、同大工学部教授となった。1933年(昭和8年)理学博士。1939年(昭和14年)同大理学部教授、翌年理学部長を経て、1946年(昭和21年)定年退官、名誉教授となる。ほか、1949年(昭和24年)新設の佐賀大学長、のち名誉教授。
隈部 以忠(くまべ いちゅう、1886年5月6日 - 195… 隈部 以忠(くまべ いちゅう、1886年5月6日 - 1957年12月23日)は、日本の教育者。 隈部忠記の長男として熊本県菊池郡隈府町(現・菊池市)に生まれる。1909年第五高等学校文科を経て、1913年東京帝国大学文科大学西洋史学科を卒業。 鹿児島県立志布志中学校校長、山梨県立日川中学校校長、山梨県立甲府中学校校長、1937年8月福岡県中学修猷館校長、1941年5月京都府立京都第一中学校校長を歴任する。1946年4月京都府立京都第一中学校校長を退任。 1947年4月、学制改革により新制甲南中学校が開校すると、その初代校長に就任。翌1948年4月、新制甲南高等学校が開校すると、その校長も兼務した。
左座 養傳(さざ ようでん、1886年2月 - 没年不詳)は… 左座 養傳(さざ ようでん、1886年2月 - 没年不詳)は、日本、関東州の裁判官。 漢方医左座泰貞の二男として福岡県早良郡原村(現・福岡市早良区原)に生まれる。1906年福岡県立中学修猷館、1911年7月第五高等学校英語法律科を経て、1916年7月東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。 卒業後、鉄道院に入るが、1917年5月司法官試補となり、神戸地方裁判所に勤務、1918年11月判事となり、1919年1月奈良地方裁判所に転じた。1920年9月関東庁高等法院兼地方法院判官に任じられ、高等法院覆審部兼上告部判官を務めた。 その後、1928年福山区裁判所監督判事、遠野区裁判所判事、1939年萩区裁判所判事を歴任した。
除野 康雄(よの やすお、1885年(明治18年)12月12… 除野 康雄(よの やすお、1885年(明治18年)12月12日 - 1969年(昭和44年)10月9日)は、日本の内務・警察官僚。官選滋賀県知事。 熊本県飽託郡健軍村(現在の熊本市東区)出身。除野正稔の二男として生まれる。第五高等学校を卒業。 1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、北海道庁理事官、茨城県理事官、鹿児島県警察部長、鳥取県書記官・内務部長、秋田県書記官・内務部長、新潟県書記官・内務部長などを歴任。 1931年1月20日、滋賀県知事に就任。同年12月18日、知事を休職となる(政友会の犬養内閣成立に伴う更迭)。
藤山 竹一(ふじやま たけいち、1885年(明治18年)12… 藤山 竹一(ふじやま たけいち、1885年(明治18年)12月 - 1930年(昭和5年)2月12日)は、佐賀県出身の日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事。板垣退助伯爵彰徳会(日光板垣会)初代名誉会長。 佐賀県出身。大地主・藤山ミスの三男として生まれた。第五高等学校を卒業。1910年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し富山県属となる。 1911年4月、富山県試補となる。以後、同事務官補、同教育課長、同警視・警察部警務課長、和歌山県理事官・学務課長、同視学官などを経て、1918年1月、福島県警察部長に就任。1919年6月に休職。
高宮 元三郎(たかみや もとさぶろう、1885年3月 - 没… 高宮 元三郎(たかみや もとさぶろう、1885年3月 - 没年不詳)は、日本、中国、満洲、台湾の建築技術者、鉄道技術者。 高宮仁吉の三男として福岡市西堅粕村に生まれる。1904年福岡県立中学修猷館、1909年7月第五高等学校工科を経て、1913年7月東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。 1913年8月名古屋市の志水組(志水建築業店)に入社。1916年5月青島守備軍軍政署に転じ、1917年10月同民政部に移り、1919年同鉄道技手、1920年1月同技師兼鉄道技師、同年5月同鉄道技師、同年12月同技師を務めた後、1923年1月免官。 1923年3月南満洲鉄道(満鉄)に入社、同年4月参事として大連工務出張所所長を経て、1925年6月大連工務事務所所長に就任。
山下 謙一(やました けんいち、1885年1月14日 - 1… 山下 謙一(やました けんいち、1885年1月14日 - 1951年6月27日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 佐賀県出身。山下範左衛門の長男として生まれる。第五高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、内務省に入り千葉県属となる。 以後、千葉県印旛郡長、朝鮮総督府忠清北道事務官・内務部長、岡山県書記官・内務部長、徳島県書記官・内務部長、千葉県書記官・内務部長などを歴任。 1928年5月、徳島県知事に就任し、1929年7月まで在任。その後、1931年12月、熊本県知事に着任。1932年6月28日、知事を休職となる。
高武 公美(こうたけ まさよし、1884年(明治17年)12… 高武 公美(こうたけ まさよし、1884年(明治17年)12月5日 - 1943年(昭和18年)5月3日)は、朝鮮総督府官僚。福岡市助役。玄洋社社員。 福岡県宗像郡在自村(現在の福津市)出身。1904年(明治37年)、福岡県立中学修猷館、1906年(明治39年)、第五高等学校独法科を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、貴族院嘱託となった。1911年(明治44年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。奈良県属、朝鮮総督府試補、同事務官、全羅南道財務部長、平安南道財務部長、専売局事業課長、同庶務課長、平壌専売局長、大邱専売局長、中枢院書記官、忠清南道内務部長、江原道内務部長を歴任した。
菊池 英彦 (きくち ひでひこ、1884年11月23日 - … 菊池 英彦 (きくち ひでひこ、1884年11月23日 - 1972年11月)は、日本の土木工学者、土木技術者。 士族菊池矢直の長男として、大分県直入郡玉来村(現・竹田市)に生まれる。1904年福岡県立中学修猷館、1907年7月第五高等学校工科を経て、1910年7月東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 1910年7月、水力発電の起業促進に向け、全国的な河川調査を実施するために設立された、逓信省臨時発電水力調査局の技師となり、その後、1913年12月東京市技師、1916年4月岐阜県土木技師、1917年10月逓信局技師、1919年5月仙台逓信局水力課長などを経て、1923年逓信技師に任ぜられ、1924年逓信局技師を兼任し、1923年8月逓信省電気局水力課および東京逓信局に勤務する。
石橋 正彦(いしばし まさひこ、1884年〈明治17年〉9月… 石橋 正彦(いしばし まさひこ、1884年〈明治17年〉9月22日 - 没年不明)は、日本の政治家、会社役員、島根県多額納税者。島根県簸川郡平田町長。島根県会議員。 島根県楯縫郡平田町(のちの簸川郡平田町、平田市、現・出雲市)の人・石橋孫八の四男。1907年、第五高等学校第一部英法科を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。農業を営み、会社重役である。 1914年、農会長に推される。1915年、家督を相続する。1919年、簸川郡会議員に当選する。1921年、平田町会議員となる。1922年、島根県会議員に当選する。一畑電気鉄道監査役、産業組合中央会島根県支部長、島根県農会副会長をつとめる。
永野 清(ながの きよし、1884年〈明治17年〉8月29日… 永野 清(ながの きよし、1884年〈明治17年〉8月29日 - 1935年〈昭和10年〉9月8日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚。官選大分県知事、別府市長。 大分県西国東郡玉津村(現豊後高田市)出身。永野俊吉の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、朝鮮総督府警部に任官。 以後、朝鮮総督府試補、同警視、鍾路警察署長、朝鮮総督府事務官・咸鏡南道第三部長、同府税関長・仁川税関在勤、江原道内務部長などを歴任し、1924年5月に休職。1927年5月、鹿児島県書記官・警察部長に就任。熊本県書記官・警察部長に転じ、1929年7月に休職。
古荘 四郎彦(ふるしょう しろひこ、1884年(明治17年)… 古荘 四郎彦(ふるしょう しろひこ、1884年(明治17年)7月18日 - 1967年(昭和42年)10月24日)は、日本の銀行家。初代千葉銀行頭取、千葉工業大学理事。千葉銀行レインボー事件で有罪となった。熊本県熊本市出身。陸軍大将の古荘幹郎はいとこ。 熊本藩士・古荘幹実の四男として生まれる。第五高等学校 (旧制)を経て、1912年(大正元年)東京帝国大学独法科を卒業、帝国商業銀行(後の富士銀行)に入行する。支配人まで昇進したのち、1923年(大正12年)に、帝大同窓の業界仲間で親しい友人の河合良成の紹介で、河合の弟の岳父川崎八右衛門 (2代目)が経営する川崎銀行の営業局長代理に転進。1925年(大正14年)には川崎系の房州銀行と安房銀行が合併して発足した安房合同銀行の常務に就任する。
細川 長平(ほそかわ ちょうへい、1884年(明治17年)5… 細川 長平(ほそかわ ちょうへい、1884年(明治17年)5月13日 - 1967年(昭和42年)1月13日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 愛媛県三木郡鹿伏村(香川県木田郡平井村大字鹿伏、平井町を経て現三木町鹿伏)出身。細川林造の三男として生まれる。第五高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し京都府属となる。 以後、岐阜県事務官、同理事官、徳島県警察部長、熊本県警察部長、長野県書記官・内務部長、宮城県書記官・内務部長、北海道庁部長・内務部長などを歴任。 1928年12月、沖縄県知事に就任。1929年2月、沖縄の社会科学研究会の関係者を検挙した。
釜瀬 富太(かませ とみた、1884年(明治17年)3月 -… 釜瀬 富太(かませ とみた、1884年(明治17年)3月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚、朝鮮総督府官僚。教育者。 福岡県出身。第五高等学校を経て、1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。1912年(大正元年)、高等文官試験に合格。佐賀県属、同警視、同理事官、神埼郡長、宮城県理事官、朝鮮総督府事務官、同税関長、咸鏡北道内務部長などを歴任した。 1928年(昭和3年)に退官し、1932年(昭和7年)に門司市助役に就任。その後、学校法人九州学園理事長、九州女子高等学校・中学校校長を務めた。
平井 三男(ひらい みつお、1884年(明治17年)1月26… 平井 三男(ひらい みつお、1884年(明治17年)1月26日 - 1945年(昭和20年)3月24日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚。民政党系官選県知事。 熊本市四軒町において士族・平井太郎八とシゲ(前田案山子の長女)の三男として生まれる。第五高等学校を首席で卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。朝鮮総督府に入り同府警部となる。 以後、総督府道事務官、全羅北道財務部長、総督府事務官、度司部司税局専売課長、仁川税関長、平安南道内務部長兼特殊財産管理局事務官、朝鮮総督府殖産局商工課長、同学務局学務課長兼鉄道局理事、京城法学専門学校校長などを歴任。
坪井 勧吉(つぼい かんきち、1884年(明治17年)1月8… 坪井 勧吉(つぼい かんきち、1884年(明治17年)1月8日 - 1970年(昭和45年)5月29日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、姫路市長。 愛知県出身。坪井政兵衛の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し神奈川県属となる。 以後、神奈川県警視、同理事官、秋田県警察部長、岡山県警察部長、香川県書記官・内務部長、山口県書記官・内務部長、山形県書記官・内務部長などを歴任。 1929年7月、香川県知事に就任。塩江温泉鉄道の開通に尽力。1931年6月、高知県知事に転任。同年12月18日に知事を依願免本官となり退官。
須之内 品吉(すのうち しなきち、1883年(明治16年)1… 須之内 品吉(すのうち しなきち、1883年(明治16年)11月24日 - 1965年(昭和40年)11月20日)は、日本の法学者、教育者、衆議院議員(立憲政友会)、実業家。立教大学経済学部教授・学監。弁護士。立教大学では20年以上に渡り商法の講義を講じたほか、学監や立教学院常務理事などの要職を務め、長く発展に寄与した。 愛媛県和気郡和気村(現在の松山市)出身。 1907年(明治40年)3月、旧制立教中学校卒業。1910年(明治43年)7月、旧制第五高等学校卒業。 1914年(大正3年)7月に東京帝国大学法科大学英法科を卒業。同年7月、東京市にて弁護士を開業。 1918年(大正7年)7月、東京帝国大学大学院で2カ年商法専攻を修了。
新庄 祐治郎(しんじょう ゆうじろう、1883年(明治16年… 新庄 祐治郎(しんじょう ゆうじろう、1883年(明治16年)11月16日 - 1951年(昭和26年)2月2日)は、日本の内務・朝鮮総督府官僚。政友会系官選県知事。 京都市上京区新烏丸通二条上ル出身。第五高等学校を卒業。1909年7月、京都帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年、内務省に入省し京都府警部となる。 以後、山口県厚狭郡長、同県玖珂郡長、山口県理事官、鹿児島県理事官、静岡県理事官、朝鮮総督府事務官、同慶尚北道第三部長、同道警察部長、総督府警務局高等警察課長、福岡県警察部長、和歌山県書記官・内務部長、広島県書記官・内務部長、愛知県書記官・内務部長、福島県書記官・内務部長などを歴任。
衛藤 利夫(えとう としお、1883年11月14日 - 19… 衛藤 利夫(えとう としお、1883年11月14日 - 1953年7月7日)は、日本の満州文化史研究者、図書館員。 熊本県上益城郡飯野村(現益城町)出身。五男は衛藤瀋吉。1908年第五高等学校文科退学、東京帝国大学文学部選科に入る、1912年選科修了(大塚保治に師事)。1915年東京帝大司書。1919年満鉄大連図書館司書、1920年奉天簡易図書館主事。1922年満鉄奉天図書館長、1932年大同学院顧問。1941年奉天図書館長を辞任、日本図書館協会理事。1946年同理事長。
熊谷 巌(くまがい いわお、1883年〈明治16年〉9月17… 熊谷 巌(くまがい いわお、1883年〈明治16年〉9月17日 - 1933年〈昭和8年〉11月2日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。衆議院議員(4期)。疑獄事件で収監釈放されたのち、縊死した。 岩手県下閉伊郡宮古町(現在の宮古市)出身。旧制盛岡中学校、第五高等学校から東京帝国大学法科大学に進み、1909年7月卒業。在学中に文官高等試験司法科試験に合格し、1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 内務省に入り、東京府属、南葛飾、荏原両郡長、佐賀県警察部長、警視庁保安部長などを歴任した。1922年、東京市政疑獄(瓦斯疑獄)で東京地方裁判所より懲役4ヵ月の実刑判決、1923年に東京控訴院を経た後、同年大審院で確定した。
新開 渧観(しんかい ていかん、1883年(明治16年)8月… 新開 渧観(しんかい ていかん、1883年(明治16年)8月5日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。福岡県八幡市長。神奈川県小田原町長。茨城県日立市長。 熊本県熊本市出身。1900年(明治33年)に第五高等学校に入学し、1903年(明治36年)に卒業。その後、東京帝国大学法科大学に入学し、1908年(明治41年)に卒業し、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。群馬県警視、同事務官、栃木県理事官、宮崎県警察部長、岩手県警察部長、愛知県警察部長などを歴任。1921年(大正10年)からは石川県内務部長を務めた。 退官後の1926年(大正15年)には八幡市長に就任した。1935年(昭和10年)には小田原町長に選ばれ、さらに1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで日立市長を務めた。
中島 覚之(なかじま さだゆき、1882年(明治15年)10… 中島 覚之(なかじま さだゆき、1882年(明治15年)10月1日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚・台湾総督府官僚。旧名は秀太郎。 佐賀県藤津郡八本木村(現在の鹿島市)出身。第五高等学校を経て、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。司法官試補・釜山地方法院在勤、京城地方法院判事、税関監視官・事務官・仁川税関監視課長・税務課長、平安北道財務部長、仁川府尹、専売局事務官・大邱専売支局長、全州専売支局長などを歴任した。 1927年(昭和2年)、台湾総督府に転じ、専売局参事・煙草課長、高雄州内務部長、新竹州内務部長を務めた。
辛島 浅彦(からしま あさひこ、1882年(明治15年)7月… 辛島 浅彦(からしま あさひこ、1882年(明治15年)7月17日 - 1965年(昭和40年)10月15日)は、日本の実業家。東洋レーヨン会長や、人絹絹統制会会長を務めた。藍綬褒章受章。 大分県生まれ。1905年第五高等学校工学部(現熊本大学工学部)卒業、芝浦製作所入社。1910年三井物産ロンドン支店詰。三井物産名古屋支店長代理等を経て、1927年東洋レーヨン常務取締役滋賀工場長に就任。 1933年からは東洋レーヨン専務取締役として経営にあたり業績の急成長を実現した。1937年東洋レーヨン会長。1942年人絹絹統制会会長。 1944年国策パルプ工業社長。1946年山陽パルプ取締役。1949年日本貿易会長、山陽パルプ監査役、大日本印刷監査役。
伊東 喜八郎(いとう きはちろう、1882年(明治15年)7… 伊東 喜八郎(いとう きはちろう、1882年(明治15年)7月15日 - 1977年(昭和52年)3月30日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 大分県玖珠郡野上村(現在の九重町)出身。伊東孝市の二男として生まれる。第五高等学校を卒業。1907年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し埼玉県属となる。 以後、埼玉県警部、富山県事務官、福井県警察部長、宮崎県警察部長、静岡県警察部長、滋賀県内務部長などを経て、福岡県内務部長に就任。 1922年9月、信太時尚前知事の死去に伴い富山県知事に就任。伏木港第二期築港工事、東岩瀬港第一期改修工事、氷見漁港修築工事などを推進。
亀井 光政(かめい みつまさ、1882年(明治15年)1月1… 亀井 光政(かめい みつまさ、1882年(明治15年)1月14日 - 1946年(昭和21年)5月6日)は、明治末から大正期の内務官僚、警察官僚。官選沖縄県知事。旧姓は加村。 熊本県熊本区薬園町(現熊本市中央区薬園町)出身。加村照政の二男として生まれた。第五高等学校を首席で卒業。1906年(明治39年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1907年(明治40年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。1908年(明治41年)内務省に入省し山口県属となる。1909年(明治42年)6月7日、内務官僚亀井英三郎との養子縁組を届け出る。1911年(明治44年)8月30日に英三郎の長女、都留と結婚。 以後、長野県事務官、兵庫県事務官、青森県事務官・警察部長、鳥取県警察部長、茨城県警察部長、徳島県内務部長、福島県内務部長などを歴任。
生田 鹿之丞(いくた しかのじょう、1882年〈明治15年〉… 生田 鹿之丞(いくた しかのじょう、1882年〈明治15年〉1月10日 - 1955年〈昭和30年〉6月12日)は、日本の教育者。大阪府立大手前、府立清水谷、清友学園の高等女学校3校で校長を務めた。 1882年(明治15年)島根県松江市出身。岩佐湪一の子として生まれ、1886年(明治19年)生田厚の養子となった。第五高等学校 (旧制)(現・熊本大学)卒業。1910年(明治43年)4月15日、教諭として大分県立臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)に赴任。1914年(大正3年)6月8日、愛媛県立宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)の教諭。1917年1月18日、秋田県師範学校(現・秋田大学教育文化学部)の教諭となる。
馬場 一衛(ばば かずえ、1881年(明治14年)12月2日… 馬場 一衛(ばば かずえ、1881年(明治14年)12月2日 - 1944年(昭和19年)3月30日)は、日本の内務・警察官僚。官選青森県知事、門司市長。 現在の熊本市出身。第五高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年、内務省に入省し広島県属となる。 以後、広島県事務官補、警視庁方面監察官、福井県理事官、群馬県警察部長、群馬県内務部長、警視庁刑事部長、同警務部長などを歴任。 1923年10月、青森県知事に就任。農水産業の振興に尽力。1924年6月、休職となる。同年に退官した。その後、門司市長、侯爵細川護立家家扶を務めた。
橘 樸(たちばな しらき、1881年10月14日 - 194… 橘 樸(たちばな しらき、1881年10月14日 - 1945年10月25日)は、日本のジャーナリスト、評論家で、清末から日中戦争期にかけての中国で、『遼東新報』や『京津日日新聞』などに拠って活動した。 1881年、大分県臼杵の下級士族の家に長男として生まれた。中学時代は各地を転々とした後、第五高等学校に学んだが、退校処分となった。その後早稲田大学に入学したが、中退。 1905年に北海道に渡り、『北海タイムス』の新聞記者となった。しかし翌年の1906年に清末の大連へ渡り、『遼東新報』の記者となった。以降、記者として『京津日日新聞』『済南日報』といった新聞や、『日華公論』、『支那研究資料』、『月刊支那研究』、『調査時報』、『満蒙』、『新天地』、『読書会雑誌』、『満州評論』などの雑誌類に関わった。
後藤 朝太郎(ごとう あさたろう、1881年〈明治14年〉4… 後藤 朝太郎(ごとう あさたろう、1881年〈明治14年〉4月16日 - 1945年〈昭和20年〉8月9日)は、日本の明治時代後期から昭和時代前期の言語学者。東京帝国大学講師。日本大学教授。号は「石農」。「支那通」として知られた。 愛媛県に生まれた。広島県人・後藤榮太郎の二男。1903年(明治36年)、第五高等学校大学予科第一部(文科)を卒業。1907年(明治40年)、東京帝国大学文科大学言語学科を卒業。同年の卒業生には言語学者の金田一京助がいた。 著述業を営み、文部省、台湾総督府、朝鮮総督府嘱託。東京帝国大学、東京高等造園学校各講師、日本大学教授、日本庭園協会、東京家庭学院各理事、日本文明協会、東洋協会各評議員などをつとめた。
上田 万平(うえだ まんぺい、1880年(明治13年)10月… 上田 万平(うえだ まんぺい、1880年(明治13年)10月4日 - 1935年(昭和10年)7月8日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。 熊本県天草郡高浜村(現天草市)に上田稲穂の長男として生まれ、上田松彦の養子となる。江戸時代中期から後期に同村の名主を務め、国学者や陶芸家として活動した上田宜珍は先祖にあたる。第五高等学校を卒業。1906年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、北海道庁事務官、香川県事務官・警察部長、農商務参事官、同書記官、静岡県内務部長、京都府内務部長、大阪府内務部長などを歴任。 1921年5月、岐阜県知事に就任。
池田 秀雄(いけだ ひでお、1880年(明治13年)2月2日… 池田 秀雄(いけだ ひでお、1880年(明治13年)2月2日 - 1954年(昭和29年)1月20日)は、日本のジャーナリスト、内務官僚、政治家。衆議院議員。 佐賀県小城郡、のちの三日月村(三日月町を経て現小城市)出身。池田轍の三男として生まれる。第五高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格するが、朝日新聞社に入社。1910年、内閣拓殖局属となる。以後、拓殖局書記官、長野県理事官、広島県理事官、宮城県視学官、岐阜県警察部長、外務事務官兼内務書記官、広島県・宮城県の各内務部長などを歴任。 1924年6月、秋田県知事に就任。同年12月、朝鮮総督府へ転じ殖産局長となる。
野依 辰治(のより たつじ、1880年〈明治13年〉1月 -… 野依 辰治(のより たつじ、1880年〈明治13年〉1月 - 1940年〈昭和15年〉3月2日)は、日本の実業家。三井生命保険取締役会長。生命保険会社協会理事。族籍は福岡県平民。養子・金城の長男はノーベル化学賞を受賞した野依良治である。 福岡県人・野依範治の長男。1901年、第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業。1905年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。1917年、家督を相続する。 三井物産東京本店に入る。1910年、選ばれてドイツに出張を命ぜられ、未取引地方の開拓に努力する。同社金物部長、営業部長、大阪支店長、専務取締役を経て三井生命保険取締役会長兼常務取締役である。 宗教は真宗。趣味は読書、散歩。
池田 寅二郎(いけだ とらじろう、1879年(明治12年)1… 池田 寅二郎(いけだ とらじろう、1879年(明治12年)11月20日 - 1939年(昭和14年)2月9日)は、日本の判事(大審院長)、検事、司法官僚。 佐賀県出身。1899年第五高等学校卒業。1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。1905年(明治38年)、東京地方裁判所判事となり、東京地方裁判所部長、司法省参事官、東京地方裁判所検事、大審院検事、司法省民事局長を歴任した。その間の1918年(大正7年)に法学博士号を取得している。 1928年(昭和3年)、判事として大審院部長に任命された。1936年(昭和11年)には大審院長に就任した。
御厨 規三(みくりや のりぞう、1879年(明治12年)11… 御厨 規三(みくりや のりぞう、1879年(明治12年)11月3日 – 1941年(昭和16年)8月20日)は、津市長、佐世保市長。族籍は佐賀県士族。 佐賀県小城郡多久村(現在の多久市)に御厨利貞の長男として生まれる。1902年(明治35年)、第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。警視庁警部、台湾総督府警視、台湾総督府専売局煙草課長、南投庁長、高雄州内務部長を歴任した。 1922年(大正11年)、津市長に選出され、1925年(大正14年)まで在任した。翌年には東京市社会局長に就任し、1928年(昭和3年)まで在任した。1930年(昭和5年)に佐世保市長に選出され、1934年(昭和9年)まで務めた。
倉塚 良夫(くらつか よしお、1879年10月21日 - 1… 倉塚 良夫(くらつか よしお、1879年10月21日 - 1942年11月17日)は、日本の水道工学者。北海道帝国大学名誉教授。 福岡県に生まれる。1898年福岡県立尋常中学修猷館、1901年第五高等学校工科を経て、1904年東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業する。東大では「日本水道の開祖」といわれる中島鋭治の指導のもと水道工学、衛生工学を学んだ。 1904年陸軍省第1師団経理部に採用され、1905年満州軍倉庫雇員として出征。同年大連軍政署より大連経営の諸設計を嘱託され、関東州民政署技師となる。1906年関東都督府(のち関東庁)技師として民政部土木課大連出張所長となり、関東州における土木事業、主として大連および旅順の上下水道の事業に従事した。
岩田 衛(いわた まもる、1879年(明治12年)7月2日 … 岩田 衛(いわた まもる、1879年(明治12年)7月2日 - 1942年(昭和17年)6月9日)は、日本の内務官僚。官選県知事、長岡市長。 熊本県出身。岩田春耕の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1905年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し静岡県属となる。1906年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、茨城県事務官、岩手県事務官・警察部長、愛知県警察部長、奈良県内務部長、東京府内務部長などを歴任。 1920年9月、鳥取県知事に就任。災害復旧、結核予防、衛生思想普及などに尽力。1922年10月、福島県知事に転任。1923年10月に休職。1924年4月29日に退官した。
坂元 雪鳥(さかもと せっちょう、1879年4月25日 - … 坂元 雪鳥(さかもと せっちょう、1879年4月25日 - 1938年2月5日)は、日本の能楽評論家、国文学者。号・天邪鬼。能楽評論で活躍した。 福岡県柳川出身。旧姓は白仁、本名は三郎。坂元家の養子となる。父は柳川藩士で、幼少から喜多流の能を学ぶ。第五高等学校で夏目漱石に師事、以後漱石の弟子格となる。1907年東京帝国大学文科大学を首席で卒業、東京朝日新聞社に入社。独協中学校教諭、1928年日本大学教授。昭和13年2月5日没。墓所は青山霊園立山墓地。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
木村 彦右衛門(きむら ひこえもん、1879年(明治12年)… 木村 彦右衛門(きむら ひこえもん、1879年(明治12年)2月5日 - 1933年(昭和8年)3月31日)は、日本の商人(薬種商)、成見屋薬局経営者、薬学者。 正七位勲六等。薬学博士。大阪薬学専門学校校長。大阪府薬剤師会長。日本薬剤師会副会長。族籍は大阪府平民。 大阪府出身。先代・木村彦右衛門の長男。幼くして父母を喪う。博聞強記で、4歳の頃には百人一首の全部を暗誦した。1883年1月、家督を相続し先代を襲名する。1893年、大阪共立薬学校に入り専ら薬学を修めた。 1899年、第五高等学校医学部薬学科(現・長崎大学薬学部)を卒業。1年志願兵として入営。東京帝国大学医科大学に入り薬学を研究した。長井博士に就いて薬化学を研究すること5年に及んだ。
中井 励作(なかい れいさく、1879年(明治12年)1月3… 中井 励作(なかい れいさく、1879年(明治12年)1月3日 – 1968年(昭和43年)2月18日)は、農商務官僚、商工官僚、実業家。 熊本県出身。第五高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。翌年より農商務試補、山林局事務官、水産局書記官、広島大林区署長、高知大林区署長、東京大林区署長、大臣官房文書課長、会計課長、特許局長、山林局長を歴任した。1924年(大正13年)、農商務次官に就任し同年末に製鉄所長官に転じた。1934年(昭和9年)、製鉄所が日本製鉄株式会社に改組されると初代社長に就任し、1939年(昭和14年)まで在任した。
久留 義郷(ひさとめ よしさと、1878年(明治11年)11… 久留 義郷(ひさとめ よしさと、1878年(明治11年)11月30日 - 1957年(昭和32年)8月18日)は、日本の政治家、鉄道官僚、弁護士。衆議院議員(2期)。仙台鉄道局長等を歴任。 鹿児島県徳之島亀津(現在の大島郡徳之島町)生まれ、出身。鹿児島高等中学造士館補充科、予科を経て、学校制度の変更により鹿児島県立尋常中学造士館を1897年(明治30年)に卒業。熊本の第五高等学校を1900年(明治33年)に卒業して、東京帝国大学法科大学へ進学。泉二新熊は高等中学予科、高等学校、大学での先輩で、第五高等学校時代には熊本の丹後寺に同宿した。また、法科大学では、泉二に相談して助言を受け、独法科を選んだ。
乗杉 嘉壽(のりすぎ よしひさ、「乘杉」とも表記、1878年… 乗杉 嘉壽(のりすぎ よしひさ、「乘杉」とも表記、1878年11月19日 - 1947年2月1日)は、明治から昭和期の文部官僚・教育者。日本に社会教育を体系的に紹介した人物とされている。 富山県出身(出生地は東京)。礪波市出町眞壽寺壽貞の次男。兄は乗杉教存である。 1904年に東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、同大大学院に進学して実践哲学を研究するが、同年秋より文部省に招かれて普通学務局に配される。 1909年に第五高等学校教授に就任する。 1913年に文部省に復帰して督学官に就任、1917年には教育と教授法研究のためにアメリカ・イギリスに1年半留学、更にフランス・イタリアの教育事情を視察して帰国した。
岸原 重治(きしはら しげはる、1878年9月 - 没年不詳… 岸原 重治(きしはら しげはる、1878年9月 - 没年不詳)は、日本の電気技術者・実業家。官営八幡製鐵所の草創期から電気技師を務め、鉄鋼電気技術の基礎を築いた。 福岡県士族岸原義路の長男として生まれる。1896年福岡県立尋常中学修猷館、1899年7月第五高等学校工科を経て、1903年7月京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業。 1905年、創立間もない官営八幡製鐵所の電気工事嘱託となり、1909年技師に任ぜられる。1910年に開設された、青少年未経験工の技術教育を行う「製鉄所幼年職工養成所」の教科書編纂委員を命ぜられ、「電気学大意」を作成した。その後、工務部電気科長を経て、1923年動力部長に就任。
中根 貞彦(なかね さだひこ、1878年(明治11年)2月4… 中根 貞彦(なかね さだひこ、1878年(明治11年)2月4日 - 1964年(昭和39年)1月24日)は、日本の実業家、政治家、歌人。三和銀行頭取、貴族院勅選議員。旧姓・片切、号・九峯。 大分県海部郡二王座村(のち北海部郡臼杵町を経て現臼杵市)に生まれた。大分士族・片切八三郎の三男。幼くして両親と死別し、佐伯の中根祚胤(百九銀行頭取)の養子となる。1901年(明治34年)第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業した。1905年(明治38年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 日本銀行に入行する。以後、同行ロンドン代理店監督役、同国庫局長、同大阪支店長、同理事などを歴任。1933年(昭和8年)に三十四銀行・山口銀行・鴻池銀行の3行が合併して三和銀行が創立され初代頭取に就任し、1945年(昭和20年)まで在任した。
野間 真綱(のま まさつな、1878年〈明治11年〉1月25… 野間 真綱(のま まさつな、1878年〈明治11年〉1月25日 - 1945年〈昭和20年〉9月3日)は、日本の英語教師。陸軍士官学校英語教官、明治学院講師。夏目漱石の弟子として知られ、漱石の日記や随筆等に度々登場する。 1897年(明治30年)鹿児島県尋常中学造士館卒業後、第五高等学校文科一に進学した。1900年(明治33年)、東京帝国大学英文学科に入学した。小泉八雲や夏目漱石の教えを受ける。同級生に皆川正禧がいて親友となる。卒業後、1904年(明治37年)2月から東京日比谷中学校講師、陸軍士官学校英語教官、明治学院講師を経た後、漱石の斡旋で、1908年(明治41年)6月、郷里鹿児島の第七高等学校造士館教授に就任した。
国友 鼎(くにとも かなえ、1877年(明治10年)1月23… 国友 鼎(くにとも かなえ、1877年(明治10年)1月23日 - 1957年(昭和32年)1月14日)は、日本の医学者。 1877年(明治10年)1月23日 大分県大野郡川登村(現・臼杵市)に生まれる。 1900年(明治33年)11月 第五高等学校医学部卒業。 1904年(明治37年)7月 長崎医学専門学校教授就任。 1913年(大正2年)10月 高等官三等に叙任。 1923年(大正12年) 長崎医専の大学昇格と共に長崎医科大学教授に就任。 1931年(昭和6年) 日本解剖学会理事長に就任。 1940年(昭和15年) 長崎市会議長に就任。 1941年(昭和16年) 県立長崎博物館長に就任。 解剖学の1分野である発生学、とりわけ日本人の胎児の研究を生涯のテーマとして、国内はもとより海外においても第一人者として知られる。
納富 陳平(のうとみ ちんぺい、1876年(明治9年)12月… 納富 陳平(のうとみ ちんぺい、1876年(明治9年)12月26日 - 1934年(昭和9年)3月1日)は、日本の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員。北浜銀行取締役兼支配人、福岡銀行取締役などを歴任。 福岡県怡土郡神在村(糸島郡加布里村大字神在、前原町、前原市を経て現糸島市神在)で、納富義雄の二男として生まれる。1896年(明治29年)福岡県立尋常中学修猷館、1899年(明治32年)第五高等学校法科、1903年(明治36年)京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年8月、北浜銀行に入行。陸軍三等主計となる。 その後、北浜銀行取締役兼支配人となり、1919年(大正8年)12月、同行破綻の整理を行い退職。
津末 良介(つのすえ りょうすけ、1876年(明治9年)12… 津末 良介(つのすえ りょうすけ、1876年(明治9年)12月11日 - 1949年(昭和24年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会→新政会)。弁護士。 大分県大分郡滝尾村(現在の大分市)出身。第五高等学校を経て、1904年(明治37年)に京都帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補となり大分地方裁判所に勤務したが、辞して1905年(明治38年)に同地に弁護士事務所を開いた。1908年(明治41年)に大分弁護士会長に選ばれ、1911年(明治44年)には大分市参事会員に選ばれた。 1912年(明治44年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第13回に至るまで連続3回当選を果たした。
友枝 高彦(ともえだ たかひこ、1876年11月4日 – 1… 友枝 高彦(ともえだ たかひこ、1876年11月4日 – 1957年7月7日)は、日本の倫理学者。 1876年、福岡県上毛郡大村(現豊前市大村)の大庄屋の家に生まれた。豊津中学校、第五高等学校を経て、1901年東京帝国大学文科大学哲学科に進んだ。学部卒業の後、同大学大学院に進んだ。 1908年、京都帝国大学助教授に任ぜられる。研究のため、英国、米国、ドイツで学ぶ。1914年に帰国し、東京高等師範学校教授となった。1916年からは東京帝国大学教授を兼ねた。1929年、東京文理科大学教授となり、日本女子大学教授を兼任した。1949年に退任し、東京教育大学名誉教授となった。 戦後の1955年、山梨県立臨時教員養成所を母体に都留市立都留文科短期大学(都留短期大学)が設立されると、初代学長となった。
秋吉 音治(あきよし おとじ、1876年(明治9年)10月 … 秋吉 音治(あきよし おとじ、1876年(明治9年)10月 - 1937年(昭和12年)7月1日)は、日本の教育者。 福岡県出身。中村芳平の四男に生まれ、秋吉格平の養子となった。第五高等学校を経て、1901年(明治34年)、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。真宗京都中学校教諭、島根県立第三中学校教諭、福岡県立中学明善校教諭、福岡県立朝倉中学校校長、大阪府立市岡中学校校長、台湾総督府高等女学校校長、鹿児島県立第一中学校校長を歴任し、1921年(大正10年)から福岡高等学校校長を務めた。現職のまま死去。1937年(昭和12年)7月1日、死去。死去に際し、天皇より祭資を下賜された。同年7月7日の葬送には勅使として福岡県知事が邸宅を訪問、幣帛の下賜を受けた。