福田 陸太郎(ふくだ りくたろう、1916年2月9日 - 2… 福田 陸太郎(ふくだ りくたろう、1916年2月9日 - 2006年2月4日)は、日本の英米文学者、比較文学者、詩人、東京教育大学名誉教授。紫綬褒章・勲三等旭日中綬章受章。追叙従四位。 1916年、石川県羽咋市生まれ。1940年、東京文理科大学英文科を卒業した。 卒業後は東京高等師範学校に勤務。太平洋戦争後の1947年、東京教育大学助教授に就任した。のち教授に昇任。1948年には、太田三郎、中島健蔵らと共に日本比較文学会を創立。1949年から3年間ソルボンヌ大学に研究留学。1961年からはフルブライト交換教授として1年間米国の諸大学に派遣された。1977年に東京教育大学を定年退官し、名誉教授となった。
長谷川 龍雄(はせがわ たつお、1916年2月8日 - 20… 長谷川 龍雄(はせがわ たつお、1916年2月8日 - 2008年4月29日)は、日本の技術者。 鳥取県鳥取市出身。1939年に東京帝国大学航空学科を卒業後、立川飛行機に入社。キ94の設計主務などを務める。キ94の翼型は「TH翼」という層流翼で、長谷川の研究の応用である(THは長谷川のイニシャル)。終戦に伴い、1946年にトヨタ自動車工業(現在のトヨタ自動車)に入社。初代トヨエースの主査を皮切りに、初代パブリカ、トヨタスポーツ800、初代カローラの主査を歴任した。1967年に取締役製品企画室副室長に就任、その傍ら初代セリカ・カリーナの開発主査を務める。またそういった量産車以外にもFRP製のスポーティな試作車23A(1956年)なども設計している。
中野 精紀(なかの きよのり、1916年 <大正5年> 2月… 中野 精紀(なかの きよのり、1916年 <大正5年> 2月6日 - 1986年 <昭和61年> 5月26日)は、日本の経営者。三井石油化学工業社長を務めた。位階は従四位。勲二等瑞宝章。 東京都出身。1940年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1955年12月に三井石油化学工業に転じ、1969年11月に取締役に就任し、1973年11月に常務、1977年6月に専務、1981年6月に副社長を経て、1982年12月には社長に就任した。 1982年11月に藍綬褒章を受章。 1986年5月26日、急性心不全のために死去。70歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲二等瑞宝章を追贈された。
飯田 景応(いいだ けいおう、1916年2月5日 - 196… 飯田 景応(いいだ けいおう、1916年2月5日 - 1967年1月3日)は、石川県金沢市出身の作曲家・編曲家。本名:丹羽景應。別名には、木村武彦、下村信夫、相馬喜久雄、田中晴夫、藤井すすむ などがある。また、「景応」は「かげたか」とも読む。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
塚原 美村(つかはら よしむら、1916年2月4日- 200… 塚原 美村(つかはら よしむら、1916年2月4日- 2009年)は、歴史家、小説家。 山梨県生まれ。東京府立第七中学校(現東京都立墨田川高等学校)卒、日本大学卒。山梨県立甲府第一高等学校教諭。 京都の部落問題研究所に所属。下層の人間の歴史を研究した。『金印惑伝』では漢委奴国王印の金印を江戸時代の製作と主張した。
多田 幸蔵(ただ こうぞう、1916年2月4日 - 2010… 多田 幸蔵(ただ こうぞう、1916年2月4日 - 2010年2月25日)は、日本の英文学者。東京大学名誉教授。 愛媛県生まれ。福岡高等学校を経て、1940年(昭和15年)東京帝国大学英文科卒。群馬県立高崎中学校教諭、1943年応召、満州で軍務につく。1946年福岡高校講師、1947年教授、1949年九州大学助教授、1950年東京大学教養学部助教授を経て教授、1976年定年退官し名誉教授、のち専修大学教授(1986年まで)。1989年勲三等旭日中綬章受章。2010年2月25日没 享年94。 受験生向けの英語参考書を多く執筆し、翻訳書が多くある。
佐竹 弘造(さたけ こうぞう、1916年2月3日 - 199… 佐竹 弘造(さたけ こうぞう、1916年2月3日 - 1993年2月1日)は、日本の政治家。石川県小松市長(2期)。 石川県出身。1941年慶應義塾大学法学部卒。読売新聞に入り、政治部記者となる。その後ジャパンタイムス政経部長、佐藤栄作国務大臣秘書官、同内閣総理大臣秘書官を経て、1967年小松市長選に立候補し、現職の藤田栄次を破って初当選した。1971年2回目の市長選でも当選した。市長在職中は小松空港の整備拡張、下水道事業などに取り組んだ。1972年7月、衆院選に立候補するために市長を辞職。12月の総選挙に石川1区から無所属で出馬したが落選した。1993年死去。
山田 時雄(やまだ ときお、1916年2月3日 - 2001… 山田 時雄(やまだ ときお、1916年2月3日 - 2001年5月20日)は、日本の経営者、銀行家。阪神相互銀行社長を務めた。兵庫県出身。 1939年に神戸商科大学を卒業し、同年に神戸銀行に入行。1945年に川西機械製作所を経て、1952年に阪神相互銀行に転じ、1962年5月に取締役に就任し、1967年5月に常務、1973年5月に専務を経て、1975年5月に社長に就任。1981年6月に会長、1983年6月に取締役相談役、1985年6月相談役を経て、同年12月には顧問に退いた。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1986年4月に勲四等瑞宝章を受章。 2001年5月20日肺炎のために死去。85歳没。
石田 忠(いしだ ただし、1916年2月3日 - 2011年… 石田 忠(いしだ ただし、1916年2月3日 - 2011年1月25日)は、日本の社会学者。一橋大学名誉教授。専門は社会調査。長崎被爆者調査を組織し、日本原水爆被害者団体協議会専門委員等を務めた。 島根県邑智郡吾郷村(現美郷町)大字奥山出身。旧制東京商科大学(現一橋大学)で山中篤太郎に師事。 1965年に厚生省による第1回原子爆弾被爆者実態調査に、隅谷三喜男や中鉢正美とともに参加。その後厚生省調査を批判し、独自に一橋大学に社会調査室を組織。伊東壮(元山梨大学学長)や、門下の濱谷正晴とともに長崎県の被爆者調査に従事。被爆者に生き残ったことに対する罪意識が存在することなどを明らかにした。 日本原水爆被害者団体協議会専門委員等を歴任し、日本被団協調査の企画分析を担当。
森 龍吉(森 竜吉、もり りゅうきち、1916年2月3日-1… 森 龍吉(森 竜吉、もり りゅうきち、1916年2月3日-1980年3月22日)は、仏教史学者。 三重県出身。龍谷大学文学部社会学科卒。夕刊京都新聞の記者をしていてレッドパージにあう。平安女学院大学助教授、龍谷大学経済学部教授。浄土真宗の歴史を研究した。
八木沼 健夫(やぎぬま たけお、1916年(大正5年)2月2… 八木沼 健夫(やぎぬま たけお、1916年(大正5年)2月2日 - 1995年(平成7年)4月5日)は、日本の生物学者。クモの研究(クモ学)を専門とし、日本蜘蛛学会の会長を務めた。 大阪市南区(現・浪速区)に生まれる。旧制大阪府立堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)から大阪府天王寺師範学校(現・大阪教育大学)に進み、本科第1部を卒業する。 1952年に東亜蜘蛛学会(現・日本蜘蛛学会)関西支部が設立されたときには、支部事務所は八木沼の自宅に置かれた。さらに、1954年には学会の本部が八木沼の在職していた追手門学院大学に移設される。 1961年、「蜘蛛の分類学的研究」により、北海道大学より理学博士の学位を取得した。
北森 嘉蔵(きたもり かぞう、1916年(大正5年)2月1日… 北森 嘉蔵(きたもり かぞう、1916年(大正5年)2月1日 - 1998年(平成10年)9月29日)は、日本の牧師、神学者。東京神学大学の教授。神の痛みの神学の提唱者。 熊本県熊本市に生まれる。旧制第五高等学校在学中にルーテル教会で盲目の牧師・石松量蔵により洗礼を受ける。卒業後、当時ルター研究の第一人者であった佐藤繁彦の元で学ぶために1935年(昭和10年)に日本ルーテル神学専門学校に進学したが佐藤は同年4月に死去している。 1938年(昭和13年)3月、同校を卒業後の4月に、前年8月12日支那事変に応召出征した先輩・乾一郎牧師の後任としてルーテル芦屋教会(伝道所)の牧師となる。乾一郎は板垣退助の孫で、一郎の姉の夫・川瀬徳太郎牧師は、ルーテル神学専門学校の第1期卒業生に当たる。
五十嵐 富夫(いがらし とみお、1916年〈大正5年〉1月3… 五十嵐 富夫(いがらし とみお、1916年〈大正5年〉1月31日 - 1998年〈平成10年〉12月16日)は、日本の歴史家、郷土史家、教員。文学博士。 1916年(大正5年)群馬県伊勢崎市生まれ。旧制渋川中学校(現・群馬県立渋川高等学校)を経て、1940年(昭和15年)東京高等師範学校研究科歴史科を修了。群馬県内の高等学校の教諭を歴任し、群馬県立吾妻高等学校、群馬県立館林高等学校、群馬県立太田女子高等学校の各校長を勤めた。1976年(昭和51年)3月に退職。 1970年(昭和50年)群馬女子短期大学講師となり、のち教授。 関東近世史研究会、交通史研究会、地方史研究協議会員。群馬県を中心とした近世の街道、女性史で業績があった。
八木 徹雄(やぎ てつお、1916年(大正5年)1月31日 … 八木 徹雄(やぎ てつお、1916年(大正5年)1月31日 - 1971年(昭和46年)7月4日)は、自由民主党衆議院議員(5期)。 愛媛県越智郡乃万村延喜(現今治市延喜)生まれ。愛媛県立今治中学校卒業後上京し、砂田重政立憲政友会衆議院議員秘書。1937年、大倉高等商業学校卒業。1951年、保守党の最年少議員として、愛媛県議会議員に初当選。日本民主党愛媛県支部幹事長を経て、1958年2月、第27回衆議院議員総選挙愛媛2区補欠選挙に自由民主党で立候補するが、落選。同年5月の第28回衆議院議員総選挙愛媛県第2区に自由民主党から立候補し、初当選。以後、連続5期務める。1963年7月、第2次池田第3次改造内閣文部政務次官 。
下畑 卓(しもはた たく、1916年1月30日 - 1944… 下畑 卓(しもはた たく、1916年1月30日 - 1944年4月10日)は、日本の児童文学作家。
千代 國一(ちよ くにいち、1916年1月30日 - 201… 千代 國一(ちよ くにいち、1916年1月30日 - 2011年8月29日)は、日本の歌人。 新潟県生まれ。大倉高等商業学校(現・東京経済大学)卒。銀行員を経て企業人となり、戦後は大倉製絲の工場復活に尽力した。応召中の兄がくれた岩波文庫の正岡子規歌集を読んで短歌に興味を持ち、窪田空穂に特に感銘を受けて、彼が創刊した歌誌『国民文学』に入会。松村英一に師事し、1987年より編集発行人を担当。師の没後に主宰を継承した。 1952年、歌集『鳥の棲む樹』で第1回新歌人会賞。1966年、歌集『冷気湖』が第9回日本歌人クラブ推薦歌集(現・日本歌人クラブ賞)に選ばれる。1999年、歌集『水草の川』で第7回短歌新聞社賞。
竹田 聴洲(たけだ ちょうしゅう、1916年1月29日 - … 竹田 聴洲(たけだ ちょうしゅう、1916年1月29日 - 1980年9月6日)は、日本の宗教民俗学者、浄土宗の僧。号は大蓮社雄誉。 1916年、大阪市北区で生まれた。京都帝国大学文学部史学科で学び、1940年に卒業。卒業論文は『法然教攷』であった。戦後京都大学大学院文学研究科に進み、1954年に修了。 その後は同志社大学文学部講師に就いた。1955年に助教授、1960年に教授昇格。1971年、学位論文『常民仏教と祖先信仰』を京都大学に提出して文学博士号を取得。1978年、佛教大学教授となった。宗門では、京都の浄土宗寿仙院などの住職を務めた。 柳田国男に師事し、民間信仰や祖先崇拝を研究テーマとした。
山崎 俊雄(やまざき としお、1916年1月29日 - 19… 山崎 俊雄(やまざき としお、1916年1月29日 - 1994年4月16日)は、日本の技術史学者、東京工業大学名誉教授。 石川県松任町出身。東京工業大学卒業。日本科学協会の『科学知識』編集者。1967年東京工業大教授。1976年広島大学教授。1979年阪南大学教授。1987年退任。1987年明治村賞受賞。1989年から1993年にかけ日本科学史学会の会長。産業考古学会を創立。
野田 真吉(のだ しんきち、1916年1月28日 - 199… 野田 真吉(のだ しんきち、1916年1月28日 - 1993年11月22日)は、日本のドキュメンタリー映画監督・評論家、詩人。本名は、亘 真吉(わたり しんきち)。野田 眞吉表記もある。 息子に、映像民俗学者で駒沢女子大学教授の亘純吉、キャメラマン・映画プロデューサー・オフィスエムエイピー(野田の映像作品のビデオ等を販売している)代表の亘真幸(亘眞幸)。息子たちは、野田の制作映画にスタッフとして参加もしている。 父は南宗派の画家の野田青石。宇宙機エンジニアの野田篤司は青石の曾孫であり、遠縁にあたる。 1916年(大正5年)1月28日生まれ。愛媛県八幡浜市矢野町出身。 1937年、早稲田大学文学部仏文科卒業。
橋本 純次(はしもと じゅんじ、1916年(大正5年)1月2… 橋本 純次(はしもと じゅんじ、1916年(大正5年)1月27日 - 1983年(昭和58年)4月18日)は、日本の数学者。専門は一般代数学、束論(特に分配束)。神戸大学理学部長。勲五等瑞宝章。兵庫県明石市出身。一般には数学教育分野、特に参考書であるチャート式数学の著者として知られる。 1916年父橋本久一、母ぬいの長男として兵庫県明石市に生まれる。県立明石中学、東京高師、文理大を卒業後山梨県等で教職に携わった後、戦後神戸工専から神戸大学文理学部創設とともに同大学助教授、教授、理学部長。
玉川 敏雄(たまがわ としお、1916年1月26日 - 19… 玉川 敏雄(たまがわ としお、1916年1月26日 - 1994年9月13日)は、日本の経営者。東北電力社長、会長を務めた。山形県山形市出身。 1938年に早稲田大学専門部商科を卒業し、1944年に東北配電(のちの東北電力)に入社。1974年に取締役に就任し、1977年に常務、1979年に副社長を経て、1983年6月に社長に就任。1987年6月に会長に就任し、1993年には取締役相談役に就任。1983年から1993年までに東北経済連合会会長を務めた。 1984年に藍綬褒章を受章し、1991年に勲一等瑞宝章を受章。 1994年9月13日肺癌のために仙台市の病院で死去。78歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
香月 熊雄(かつき くまお、1916年1月25日 - 199… 香月 熊雄(かつき くまお、1916年1月25日 - 1995年6月18日)は日本の政治家。 佐賀県知事を務めた。 1916年1月25日、佐賀県杵島郡白石町で出生。鹿児島高等農林学校(現・鹿児島大学農学部)を卒業後、佐賀県庁に入庁。農林部長を15年務めた後、県農協中央会副会長となった。その後、副知事を経て、1979年の佐賀県知事選挙で初当選。1991年まで連続3期12年を務めた。在任中、広大な環濠集落が見つかった吉野ヶ里遺跡の保存を決めている。4選となる1991年の選挙への出馬にも意欲を示したが、前年に胆石手術で入院するなど健康上の問題があり、多選への批判もあった事から出馬を断念。副知事の井本勇が後継者となった。
髙田 景次(たかだ けいじ、1916年〈大正5年』1月23日… 髙田 景次(たかだ けいじ、1916年〈大正5年』1月23日 - 2003年〈平成15年〉3月16日)は、日本のジャーナリスト、政治家。秋田魁新報社監査役や秋田市長(第15代)を務めた。秋田県大仙市(旧中仙町豊岡)出身。 豊岡村立豊岡尋常小学校、秋田県立角館中学校、山形高等学校を経て、1940年(昭和15年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業。 戦後、1945年(昭和20年)秋田魁新報社に入り、政治経済部長、編集局長を経て、1959年(昭和34年)取締役となり、その後、監査役を務めた。 1973年(昭和48年)2月から1990年(平成2年)4月まで、連続5期秋田市長を務める。歴代市長の中で最長となる17年間の在任中、「公園都市秋田市をつくる条例」「秋田市文化振興条例」などの制定や市民の健康と体力づくり運動、秋田新都市の建設、広面や桜ニュータウンなどの東部、御野場・御所野の南部新拠点開発、仙台市道路愛称名にならった秋田市道路愛称名などの制定、都市景観賞など多方面にわたって功績を残すなど秋田市発展の基礎を築く。
安川 敬二(やすかわ けいじ、1916年(大正5年)1月22… 安川 敬二(やすかわ けいじ、1916年(大正5年)1月22日 - 2009年(平成21年)7月10日)は、日本の実業家。 安川電機の創設者安川第五郎の次男として福岡県北九州市に生まれる。1940年(昭和15年)、東京帝国大学を卒業後、安川電機に入社。 1972年(昭和47年)、いとこである安川寛(第五郎の兄・安川清三郎の子)の後を受け安川電機の4代目社長に就任し、産業用ロボットの開発を推進した。 1985年(昭和60年)、創業家以外で初となる、菊池功に社長を譲り、会長に就任。1988年(昭和63年)に会長を退き、特別顧問を務めた。 また、1982年(昭和57年)より翌年まで日本電機工業会会長を務めた。
小坂 徳三郎(こさか とくさぶろう、1916年1月20日 -… 小坂 徳三郎(こさか とくさぶろう、1916年1月20日 - 1996年2月23日)は、日本の実業家・政治家。信越化学工業社長・会長、信濃毎日新聞社長、衆議院議員、運輸大臣(53代)などを歴任した。 東京帝国大学卒業後、朝日新聞記者から、小坂財閥に戻り、信越化学工業社長に。財界活動も始め、財界の支援で1969年に政界入りした。将来の首相候補といわれ、一年生議員ながら、政策集団「新風政治研究会」を設立、当選2回で総理府総務長官で初入閣した。以降も経済企画庁長官や運輸大臣を歴任し、大平、中曽根康弘とともに「大中小」、安倍晋太郎、竹下とともに「安竹小」と総理総裁候補として目された。しかし、運輸大臣時代に国鉄改革をめぐって、土光敏夫や中曽根康弘首相など政財界の支持を失い、影響力が低下。
近藤 良三(こんどう りょうぞう、1916年(大正5年)1月… 近藤 良三(こんどう りょうぞう、1916年(大正5年)1月20日 - 没年不詳)は、日本の作曲家。元徳島大学学芸学部教授。東京音楽学校卒業。香川県高松市出身。 香川県高松市出身。1943年(昭和18年)に東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)を卒業。作曲を下総皖一と田中規矩士に師事した 。 徳島大学学芸学部で教授を務める傍ら、徳島県内の小中学校で数多くの学校歌を手掛け、とりわけ保科千代次が作詞を務めることが多かった。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
倉石 隆(くらいし たかし、大正5年(1916年)1月20日… 倉石 隆(くらいし たかし、大正5年(1916年)1月20日 - 平成10年(1998年)11月19日)は、新潟県高田市(現上越市)に生まれた洋画家。 太平洋美術学校で学び、自由美術協会を経て昭和39年(1964年)、主体美術協会の創立会員となる。人物油彩画を中心に制作した。書籍や新聞雑誌の挿絵も多く手がけた。 昭和62年(1987年)、脳梗塞で倒れて右半身と言語機能を失うも左手で制作を続け「左手のデッサン帳」の出展を重ねた。平成10年(1998年)に82歳で死去。 上越市の樹下美術館に常設展示されている。 平成7年(1995年)9月から10月にかけて新潟市美術館で倉石隆展が開催された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
小倉 朗(おぐら ろう、1916年〈大正5年〉1月19日 -… 小倉 朗(おぐら ろう、1916年〈大正5年〉1月19日 - 1990年〈平成2年〉8月26日)は、日本の作曲家。本名:小倉 晋(すすむ) 、旧姓は小林。 鉄道技師小林源松の五男として福岡県門司市(現北九州市門司区)の鉄道官舎に生まれ、生後3ヶ月から東京市京橋区木挽町(現東京都中央区)の銅鉄商小倉家の養子として東京に育つ。6歳からピアノの手ほどきを受け、蓄音機やオルガン、ギター、マンドリンがある家で育つ。母から音楽家になるよう勧められ、声楽家下八川圭祐の紹介で深井史郎に師事する。易に凝っていた母から「朗」の字を贈られる。 1933年、早稲田第一高等学院仏文科にはいるが、下八川圭祐の主宰するコーラスで歌ったり、新交響楽団の打楽器の見習いなどをやり、学校は1学期で中退。
常陸海 光房(ひたちうみ みつふさ、1916年1月19日 -… 常陸海 光房(ひたちうみ みつふさ、1916年1月19日 - 没年不明)は、茨城県筑波郡谷和原村(現つくばみらい市)出身で時津風部屋(入門時は荒汐部屋)に所属した大相撲力士。本名は飯塚 光房。最高位は東前頭12枚目。身長171cm、体重90kg。 茨城県筑波郡谷和原村(現つくばみらい市)出身。荒汐部屋に入門し、1936年5月場所に初土俵を踏む。順調に昇進し、1941年5月に新十両、1943年1月には西十両2枚目で10勝5敗と入幕確実の星を挙げる。その場所限りで荒汐部屋は閉鎖され、力士たちは双葉山道場に引き取られることになった。そのため、新入幕の1943年5月場所から廃業まで双葉山道場→時津風部屋の所属となった。
御園生 崇男(みそのお たかお、1916年1月16日 - 1… 御園生 崇男(みそのお たかお、1916年1月16日 - 1965年7月10日)は、山口県防府市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 日本プロ野球史上2人目のシーズン無敗を達成した。 1916年1月16日に山口県防府市で生まれる。山口県立山口中学校在学時は1933年の第10回選抜中等学校野球大会に出場経験を持つ。進学先の関西大学体育会野球部では新人戦で完封勝利を記録するなど話題の投手となり1936年2月1日に設立されたばかりの大阪タイガースから誘われると僅か1年で大学を中退し、入団した。 入団当初から主戦投手として活躍し、同年5月27日の対阪急軍戦で初勝利を挙げると、1937年秋季には15試合に登板して11勝無敗、勝率1.000の大活躍でタイガースの初優勝に貢献した。
喜多 善平(きた ぜんぺい、1916年1月16日 - 198… 喜多 善平(きた ぜんぺい、1916年1月16日 - 1983年1月31日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1938年に神戸商業大学を卒業し、同年に塩野義製薬に入社。1963年に取締役に就任し、1970年5月に常務、1974年5月に専務を経て、1978年6月に副社長に就任し、1982年6月に社長に昇格した。 1983年1月31日膵臓癌のために在任中に死去。67歳没。
金 益俊(キム・イクチュン、朝鮮語: 김익준/金益俊、191… 金 益俊(キム・イクチュン、朝鮮語: 김익준/金益俊、1916年1月16日 - 1984年6月18日)は、大韓民国の警察官僚、ジャーナリスト、大学教授、政治家。江原道警察局長、第7・9代韓国国会議員を歴任した。 日本統治時代の平安北道宣川郡出身。培材中学校(朝鮮語版)を経て、1943年東洋大学専門部拓殖経済科卒。日本メートン(ペートン)・カレッジにて政治学博士取得。学徒義勇軍を組織し、隊長として出戦した。高麗大学校法科大学助教授・教授、ソウル大学校法科大学助教授・教授、治安局教育課長、警察専門学校校長、第8代江原道警察局長(1950年8月12日~1951年7月27日)、漢城日報論説委員、国家再建最高会議企画委員、培材中高校後援会長、東萊中央傷痍軍人静養院長、大韓陸上競技連盟理事長、世界大学奉仕会(英語版)韓国委員会理事、民主共和党中央常任委員・中央常任委員会宣伝分科委員長・ソウル市龍山区党委員長(1963年より)・院内副総務、亜細亜放送局理事、学生陸上競技連盟会長、極東放送理事、国際青少年指導委員会韓国東部理事長を務めた。
井上 泉(いのうえ いずみ、 1916年1月16日 - 20… 井上 泉(いのうえ いずみ、 1916年1月16日 - 2003年5月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 現在の高知県南国市出身。高等小学校卒業、1947年高知県稲生村(現南国市)村長、1951年高知県議会議員を経て、1967年の第31回衆議院議員総選挙に高知県全県区で日本社会党より立候補し初当選。以降、7期務める。1990年の第39回衆議院議員総選挙には立候補せず政界から引退した。 同年11月の秋の叙勲で勲二等に叙され。旭日重光章を受章する。 2003年5月18日、呼吸不全のため、高知県高知市の病院で死去した。87歳没。死没日をもって正四位に叙された。 新東京国際空港(現成田国際空港)の一坪共有地の名義人の1人であった。
河田 敬義(かわだ ゆきよし、1916年1月15日 - 19… 河田 敬義(かわだ ゆきよし、1916年1月15日 - 1993年10月28日)は、日本の数学者。東京大学名誉教授。第6代統計数理研究所所長。 1916年生まれ。 東京高等学校理科乙類で学び、1935年3月に卒業。同年4月、東京帝国大学理学部数学科に入学。1938年(昭和13年)3月に卒業し、4月より東京帝国大学大学院に進んだ。1938年4月、東京帝国大学理学部副手に採用される。1939年7月、同大学理学部助手に昇進。1939年7月、東京帝国大学大学院を退学した。1941年3月、 東京文理科大学講師に就いた。同年10月、助教授昇任。 太平洋戦争終結後の1945年12月、東京大学に学位論文を提出して理学博士の学位を取得。
木下 忠良(きのした ただよし、1916年〈大正5年〉1月1… 木下 忠良(きのした ただよし、1916年〈大正5年〉1月15日 - 1991年〈平成3年〉8月17日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。兵庫県姫路市出身。 1934年(昭和9年)旧制姫路高等学校文科乙類卒業[要出典]。1937年(昭和12年)東京帝国大学法科を卒業。同年に司法官試補。裁判官生活は浦和、福岡、水戸、東京、大阪と各地に及び、大阪高裁判事、旭川地・家裁所長を経て、1970年(昭和45年)に大阪地裁所長に就任。その後、1975年(昭和50年)10月に仙台高裁長官、1977年(昭和52年)9月に大阪高裁長官に就任。 1979年(昭和54年)3月1日に最高裁判所判事に就任。裁判官出身の最高裁判事としては珍しく最高裁事務総局勤務が無かった。
吉田 昇(よしだ のぼる、1916年1月15日 - 1979… 吉田 昇(よしだ のぼる、1916年1月15日 - 1979年1月22日)は、日本の教育学者。祖父は井上哲次郎。 東京の生まれ。1939年に東京帝国大学文学部教育学科を卒業後、東京帝国大学大学院に入学する。1942年に卒業後は教育方法学や社会教育学を専門に研究し、1958年にはお茶の水女子大学教授となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
渡辺 秀(わたなべ しゅう、1916年(大正5年)1月15日… 渡辺 秀(わたなべ しゅう、1916年(大正5年)1月15日 - 2000年(平成12年)1月31日)は、日本の倫理学、哲学者。 東京生まれ。1939年東京帝国大学文学部倫理学科卒、上智大学文学部助教授、教授。1987年定年、名誉教授。 2000年1月31日、肺炎のため死去。
真篠将(ましの すすむ、しょう、1916年1月14日 - 2… 真篠将(ましの すすむ、しょう、1916年1月14日 - 2014年9月24日)は、日本の文部官僚・音楽教育学者。 山形県出身。1941年東京音楽学校甲種師範科卒、愛知第一師範学校教授、東京市永田町国民学校教諭、東京音楽学校講師、1948年東京文理科大学教育学科卒。文部省へ入り、教育行政に携わる。1975年岡山大学教授。1980年兵庫教育大学教授。86年定年退官、名誉教授。没後、従四位。
来栖 良夫(くるす よしお、1916年(大正5年)1月14日… 来栖 良夫(くるす よしお、1916年(大正5年)1月14日 - 2001年(平成13年)6月6日)は、日本の児童文学作家。旧姓は木村。 進歩的な史観と鍛えられた文章による巧みな物語構成に特色を持ち、歴史取材を主とした作品を多く遺した。 茨城県稲敷郡高田村(江戸崎町高田を経て、現在の稲敷市高田)に生まれる。江戸崎農学校を卒業後、茨城県内で多田公之助らと共に綴方教育運動等の新興教育運動に参画し、文集『工程』などを発行した。教育科学研究会にも参加した。 1941年、綴方教師弾圧(生活図画事件)により逮捕される。釈放後、山東省青島市即墨区で陸軍駐屯地勤務を含む3年間の従軍を経て、1946年に帰郷した。
景山 二郎(かげやま じろう、1916年〈大正5年〉1月13… 景山 二郎(かげやま じろう、1916年〈大正5年〉1月13日 - 1999年〈平成11年〉6月26日)は、日本の警察官僚、剣道家。位階は正四位。景山民夫の父。 広島県三次市で生まれ、小学生の時に祖母の実家である広島市内の景山家の養子となる。旧制武蔵高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省する。 1942年に警部補を拝命し、原爆投下時には徳島県で警察官をしていた。特高に席を置いていたため、敗戦後公職追放となる。 警視庁神田警察署長、刑事部鑑識課長、総務課長、第五方面部長、第一方面部長を務め、山梨県警察、秋田県警察、熊本県警察、埼玉県警察、神奈川県警察の各本部長を歴任。関東管区警察局長を最後に退官した。
宮下 義雄(みやした よしお、1916年1月13日 - 19… 宮下 義雄(みやした よしお、1916年1月13日 - 1984年6月16日)は、東京都出身のプロ野球選手、プロ野球審判員。
足立 龍雄(あだち たつお、大正5年(1916年)1月12日… 足立 龍雄(あだち たつお、大正5年(1916年)1月12日 - 2000年(平成12年)3月15日)は日本の実業家。中村屋社長・会長。東京商科大学(現一橋大学)卒業。 王子製紙社長、日本商工会議所会頭などを歴任した足立正の次男である。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岡 晴夫(おか はるお、1916年〈大正5年〉1月12日 -… 岡 晴夫(おか はるお、1916年〈大正5年〉1月12日 - 1970年〈昭和45年〉5月19日)は戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。本名は佐々木 辰夫(ささき たつお)。愛称は「オカッパル」「オカッパレ」 千葉県木更津市に生まれる。幼い頃に両親を亡くし、祖父の手で育てられる。小学校時代は唱歌の授業が嫌いで、成績はいつも「丙」だったという。6年生の時に音楽の先生から人前で歌を歌うことを勧められ、歌うことに興味を持ったという。16歳の時に上京し、万年筆屋の店員をしながら坂田音楽塾に通う。その一年後には上野松坂屋に勤める。 1934年(昭和9年)に、上原げんとと出会い、その後に妻となる奥田清子とも出会う。
小柴 幹治(こしば かんじ、1916年1月12日 - 没年不… 小柴 幹治(こしば かんじ、1916年1月12日 - 没年不明)は、北海道函館市出身の日本の俳優。 本名は蓮見章。別名・旧芸名に三条雅也、三條雅也、美浦平八郎、小柴完二を持つ。 1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』では、存命人物として大阪府守口市の連絡先が示されているが、既に引退しており、以後の消息は不明である。
景山 春樹(かげやまはるき、1916年1月9日-1985年7… 景山 春樹(かげやまはるき、1916年1月9日-1985年7月22日)は、日本の神道・仏教美術学者。 1916年、滋賀県大津市で生まれた。景山家は比叡山公人の家系であった。國學院大学文学部国史学科で学び、1939年に卒業。 1939年5月、京都市教育局学務課に入職。1941年1月、恩賜京都博物館鑑査員となった。1944年に応召し、1946年に復員。 1947年に文部技官となり、京都国立博物館考古室長兼普及室長を務めた。1964年、学位論文『神道美術の研究』を國學院大學に提出して文学博士の学位を取得。1970年に京都国立博物館学芸課長となり、1976年に退官。 1976年4月からは帝塚山大学教授として教鞭をとった。
木戸口 久治(きどぐち ひさはる、1916年1月9日 - 2… 木戸口 久治(きどぐち ひさはる、1916年1月9日 - 2005年1月7日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。石川県出身。 1942年(昭和17年)9月に中央大学法学部を卒業。同年10月に司法官試補となったが、陸軍に召集されてベトナムに出征。復員後に5日間だけ検事になったが、「同期より遅く任官しても将来どうなるか」と考え、1948年(昭和23年)1月に弁護士登録をした。 第二東京弁護士会に所属。十条製紙の顧問弁護士を務め、立木の所有権や境界などの紛争があるたびに出かけ、北海道から九州まで全国の山を歩いた。製紙工場の公害問題も地方の人たちと丁寧に話し合い、訴訟に持ち込まれないで解決した。 中央大学理事や第二東京弁護士会会長を務めた。
今井 文男(いまい ふみお、1916年1月9日 - 1995… 今井 文男(いまい ふみお、1916年1月9日 - 1995年12月16日)は、国文学者。専門は俳諧、文学表現。 1916年、愛知県犬山市に生まれる。1935年、青山師範学校本科二部を卒業。1936年、東京高等師範学校文科第二部(国語・漢文専攻)入学、諸橋轍次・垣内松三・能勢朝次の教えを受ける。1939年、東京高等師範学校を3年で修了し、東京文理科大学文学部国語学国文学専攻に入学。 1941年、東京文理科大学を卒業。1950年、金沢大学金沢高等師範学校教授、1952年、東海大学助教授、1954年、金城学院大学助教授、1956年、東京教育大学講師、1958年、金城学院大学教授を歴任。1975年、愛知淑徳大学設立に伴って同大学へ移籍、教授兼文学部長。
田口 正治(たぐち まさはる、1916年(大正5年)1月9日… 田口 正治(たぐち まさはる、1916年(大正5年)1月9日 - 1982年(昭和57年)6月29日)は、日本の水泳選手。専門は自由形。1936年ベルリンオリンピック800mフリーリレー金メダリスト。 1916年(大正5年)1月9日、京都府出身。同志社大学在学時の昭和8年度第7回明治神宮体育大会水上競技大会の新人競技の部・男子100m自由形に出場して1分1秒6のタイムで優勝し、注目を集める。 同志社大学から立教大学へ転じて、立教大学在学中の1936年(昭和11年)日本選手権水泳競技大会の競泳男子200m自由形で2分14秒8のタイムで優勝。その年のベルリンオリンピック日本代表選手に選出される。 ベルリンオリンピックでは100メートル自由形で4位入賞を果たし、男子800メートルリレーで、遊佐正憲・杉浦重雄・新井茂雄と共に金メダルを獲得。
加藤 東一(かとう とういち、1916年(大正5年)1月6日… 加藤 東一(かとう とういち、1916年(大正5年)1月6日 - 1996年(平成8年)12月31日 )は、日本画家、日展理事長。岐阜県岐阜市出身。
赤根谷 飛雄太郎(あかねや ひゅうたろう、1916年1月5日… 赤根谷 飛雄太郎(あかねや ひゅうたろう、1916年1月5日 - 1969年8月22日)は、秋田県秋田市出身のプロ野球選手(投手)、野球指導者(秋田市立秋田商業高等学校硬式野球部監督)。プロ野球史上、最も漢字名の長い(7文字)選手として知られる。 なお、「ヒユウタロウ」は誤読である。巨人の星の星飛雄馬風に「ヒュウタロウ」である。 秋田商業を経て、法政大学に進学すると、東京六大学野球で活躍を見せる。その後、社会人野球の秋田コンマーシャルクラブ・帝国石油でプレー。 1948年に32歳にして急映フライヤーズに入団。新人ながら加藤正二(35歳)に次ぐ高齢の選手だった。1年目は二軍の急映チックフライヤーズの監督を兼任しながらドロップを武器に一軍で12試合に登板し2勝を挙げるが、9月28日に行われた対金星戦(後楽園球場)で坪内道則に史上初の1000本安打を打たれてしまう。