長 三洲(ちょう さんしゅう、天保4年9月23日(1833年… 長 三洲(ちょう さんしゅう、天保4年9月23日(1833年11月3日) - 明治28年(1895年)3月13日)は、豊後国生まれの勤皇の志士、官僚、漢学者、書家、漢詩人。諱は炗(ひかる)。幼名は富太郎、のち光太郎、太郎。字は世章。号は三洲(三州)のほか、蝶生、韻華、秋史、紅雪、楂客など。 勤皇の志士として倒幕運動に半生を捧げ、戊辰戦争を戦う。その後、山口藩の藩政改革に携わる。明治3年、上京し、太政官制度局の官僚となる。明治5年には文部官僚として、師の広瀬淡窓の咸宜園の学制を基礎に据え、日本の学制の礎を築いた。また、明治書家の第一人者で、近代学校制度の中に習字を位置づけた第一の功労者である。また漢学者、漢詩人としての名声高く、漢学の長三洲、洋学の福澤諭吉として明治前半期の教育界の双璧を成した。
多久 茂族(たく しげつぐ、1833年11月1日〈天保4年9… 多久 茂族(たく しげつぐ、1833年11月1日〈天保4年9月20日〉 - 1884年〈明治17年〉12月20日)は、江戸時代後期の武士、明治時代前期の政治家。肥前国佐賀藩重臣家の多久鍋島家(後多久氏)11代当主で、維新後は内政官僚となり、浜松県・伊万里県・佐賀県各権令を歴任。 松千代(幼名)、美族(よしつぐ)、茂尚、長門と称された。 10代多久邑主・多久茂澄の長男として誕生。天保7年12月24日(1837年1月30日)家督を相続。弘化4年5月1日(1847年6月13日)元服し名を茂族と改めた。 嘉永元年(1848年)長崎警備に従事。武具方・御小物成方頭人、長崎仕組頭人、弘道館頭人を歴任。安政2年(1855年)江戸桜田藩邸に入り翌年京都を経て帰国。
金井 之恭(かない ゆきやす、天保4年9月18日(1833年… 金井 之恭(かない ゆきやす、天保4年9月18日(1833年10月30日) - 明治40年(1907年)5月13日)は幕末期の志士、明治期の官僚、書家。通称は文八郎。字は子誠。号は金洞(きんどう)・錦鶏など。変名に金井五郎・桑原梧楼などがある。長女は弁護士で政治家の小川平吉に嫁ぐ。錦鶏間祗候。 1833年9月、上野国佐位郡島村(現在の群馬県伊勢崎市)に画家で勤皇家の父・烏洲の四男として生まれる。金井氏は新田氏支族岩松氏の流れを汲むとされる。幼少の頃から文学を好み、また書もよくした。1867年、新田義貞の末裔とされる新田満次郎を擁し倒幕の挙兵を企てるが、事が露顕して投獄される。1868年9月、東京府市政局に出仕。
石原 信樹(いしはら のぶき、1833年8月28日(天保4年… 石原 信樹(いしはら のぶき、1833年8月28日(天保4年7月14日)‐ 1892年(明治25年)1月6日) は、幕末の今治藩士・漢学者、明治期の公吏・政治家。衆議院議員。 伊予国越智郡今治(現愛媛県今治市) で、今治藩士・石原信順の三男として生まれた。藩校・克明館で刻苦精励して同校の助教に就任。嘉永5年(1852年)句読司となり、安政2年5月(1855年)江戸在勤となり学習館の句読司に就任。安政3年7月(1856年8月)帰藩して克明館句読司に復帰。安政4年(1857年)、学識の不足を感じ句読司を辞して京都・摂津に遊学した。安政6年3月(1859年)帰藩して句読司、素読指南、助教を歴任した。 明治元年5月25日(1868年7月14日)甲府警備の参謀に発令され同年12月まで派遣された。
木戸 孝允(きど たかよし/きど こういん、天保4年6月26… 木戸 孝允(きど たかよし/きど こういん、天保4年6月26日〈1833年8月11日〉- 明治10年〈1877年〉5月26日)は、日本の幕末の長州藩士、勤王志士、明治時代初期の政治家。雅号は松菊、木圭、広寒、猫堂、老梅書屋、竿鈴(干令)。明治維新の元勲として、大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる。幕末期には桂 小五郎(かつら こごろう)の名で活躍した。 長州藩出身。同藩藩医和田家の生まれだが、7歳で同藩藩士桂家の養子となる。1852年には江戸に留学して斎藤弥九郎の道場で剣術を学び、また洋式の砲術や兵術、造船術、蘭学などを学んだ。 1858年の安政の大獄以降、薩摩藩、水戸藩、越前藩、会津藩など諸藩の尊王攘夷の志士たちと広く交わるようになり、周布政之助・久坂玄瑞・高杉晋作らと結び、藩の尊王攘夷派における指導者的立場となった。
千葉 勝五郎(ちば かつごろう、1833年8月〈天保4年7月… 千葉 勝五郎(ちば かつごろう、1833年8月〈天保4年7月〉 - 1903年〈明治36年〉4月13日)は、日本の実業家、東京の金貸し。 信濃国伊那郡中沢村有賀(現・長野県駒ヶ根市)出身。貧家の生まれで、三人兄弟の内の次男である。12、3歳の頃に逃亡した実父を探しに故郷を飛び出す。江戸へ来る途中で路銀に尽き、宿屋のかまどの上に載った二朱銀一つをそっと袂へ入れ、それで芋を買ってかじりながら江戸へたどり着く。 父は両国広小路の自身番をあずかる番太郎を勤めていた。勝五郎は本町の町年寄北村市左衛門の玄関番となった。同家を出て、自立したけれど失敗をかさねて、吉原京町二丁目の姿海花屋の妓夫とまで零落したが、のちに古着の行商を行う。
佐藤 昌蔵(さとう しょうぞう、1833年7月31日(天保4… 佐藤 昌蔵(さとう しょうぞう、1833年7月31日(天保4年6月25日)- 1915年(大正4年)11月30日)は、日本の政治家。衆議院議員。 1833年(天保4年)6月、岩手県盛岡市に生まれる。盛岡藩士となり、明治維新後は藩の公用人を務める。 廃藩置県後は青森県・岩手県・茨城県などの勧業課長や郡長を経て、1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙に岩手県第3区より立候補して当選。以後、第3回衆議院議員総選挙まで3回連続して当選する。当時の佐藤は政党には所属せず、第1回総選挙後は院内会派の大成会、第2回総選挙後は同じく院内会派の中央交渉会に所属したが、第3回総選挙時は、中央交渉会の後身に当たる国民協会を脱退して無所属であった。
福島 大順(ふくしま だいじゅん、天保4年5月29日〈183… 福島 大順(ふくしま だいじゅん、天保4年5月29日〈1833年7月16日〉 - 大正3年〈1914年〉2月22日)は、広島県出身の浄土真宗の僧侶、教育者。浄土真宗本願寺派明円寺11世住職。 広島市の『佐東町史』(1980年3月)[要ページ番号]によれば、天保4年(1833年)5月29日安芸国沼田郡中調子村(現在の広島市安佐南区川内)の浄土真宗本願寺派明円寺第10世住職福島大乗の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)5月、大順が16歳の時に旧豊田郡川尻町(現呉市)の光明寺の訶提の門に入り、嘉永4年(1851年)12月までの2年7か月間で仏学の基礎を学んだ。嘉永5年(1852年)2月に本願寺学林(京都、現龍谷大学)に入り、安政元年(1854年)7月まで学んだのちに帰郷した。
清瀬 善三(きよせ ぜんぞう、1833年6月26日(天保4年… 清瀬 善三(きよせ ぜんぞう、1833年6月26日(天保4年5月9日 )- 1912年(明治45年)7月4日)は、明治期の醸造家・銀行家・政治家・慈善家。貴族院多額納税者議員。幼名・秀吉。慈善事業にも資金を提供した。 豊前国宇佐郡四日市村(大分県宇佐郡四日市村、四日市町を経て現宇佐市四日市)で醸造業・清瀬亀助の六男として生まれた。敷田年治(吉松伊勢守)から読書算術習字などを学んだ。父からその優れた資質を見込まれ、1855年(安政2年6月)に家督を相続した。 1856年(安政3年)四日市の宿役に就任。その後、里掌、四日市村戸長を務め、1879年(明治12年)四日市村会議員に選出され、同町会議員、宇佐郡会議員なども務めた。
初代 相馬 哲平(そうま てっぺい、1833年6月22日〈天… 初代 相馬 哲平(そうま てっぺい、1833年6月22日〈天保4年5月5日〉 - 1921年〈大正10年〉6月6日)は、日本の政治家・貴族院議員・北海道多額納税者・資産家・実業家・慈善家。函館貯蓄銀行頭取。相馬合名代表社員。族籍は北海道平民。北海道屈指の豪商だった。多くの公共施設や神社仏閣、凶作救済資金などに多額の私財を寄付した。 越後国蒲原郡荒井浜(のち新潟県北蒲原郡乙村大字荒井浜、現胎内市)で、相馬熊次郎の二男として生まれる。生家は木造和船を一艘所有した回漕業と綿屋の兼業で生計を立てていた。家計が豊かでなかったので、少年時代から「何か腕に芸を覚えよう」と考えていた。 文久元年(1861年)、28歳で箱館に移り、岩船屋春蔵宅で奉公(住み込み労働)。
長谷川 直則(はせがわ なおのり、1833年6月22日(天保… 長谷川 直則(はせがわ なおのり、1833年6月22日(天保4年5月5日) - 1896年(明治29年)5月4日)は、幕末から明治時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 豪商・佐藤伊兵衛の四男として出羽国村山郡天童(山形県東村山郡天童町を経て現天童市)に生まれ、のち長谷川吉内の養子となる。山形藩主秋元家に仕えたのち、実業界に入り、1888年(明治21年)7月には第八十一国立銀行頭取に就任した。ついで翌年5月、山形市会議員に当選し、所得税調査委員、山形興業幹事を経て、1890年(明治23年)山形県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1895年(明治28年)12月7日まで在任した。
岸田 吟香(きしだ ぎんこう、天保4年4月28日〈1833年… 岸田 吟香(きしだ ぎんこう、天保4年4月28日〈1833年6月15日〉、一説に天保4年4月8日〈1833年5月26日〉 - 1905年〈明治38年〉6月7日)は、日本の新聞記者、実業家、教育家。美作国久米北条郡垪和村(現岡山県久米郡美咲町)出身。目薬「精錡水」を販売するなど、薬業界の大立者としても知られる。 幼名を辰大郎。名前は大郎、大郎左衛門、達蔵、称子麻呂、清原桜、作良(さくら)、さくら、まゝよ、銀次あるいは銀次郎などがある。また墨江岸国華、墨江桜、墨江岸桜、岸国華、岸吟香、岸大郎、岸桜、小林屋銀次、岸田銀治、岸田屋銀治、京屋銀治郎、桜井銀治郎などとも名乗った。号は吟香、東洋、桜草。筆名には吟道人がある。
島本 仲道(しまもと なかみち、天保4年4月18日(1833… 島本 仲道(しまもと なかみち、天保4年4月18日(1833年6月5日) - 明治26年(1893年)1月2日)は、明治時代の官僚、法律家である。通称は審次郎、号は北洲。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)で土佐藩士・島本卓次の二男として生まれた。土佐勤皇党に参加し終身刑の宣告を受けたが、戊辰戦争で伊予松山藩の征伐を命じられる。明治維新後、明治新政府で兵部省、司法省の官僚を歴任、江藤新平の右腕として近代日本国家の検察、警察、弁護士の機構制度の確立に尽力した。1873年、江藤の下野とともに司法省を退職し、東京と大阪に弁護士事務所を開く。 その後、自由民権運動に参加、1887年に保安条例で東京退去の処分を受けるも、明治憲法発布の恩赦で赦免された。
重城 保(じゅうじょう たもつ、天保4年4月17日(1833… 重城 保(じゅうじょう たもつ、天保4年4月17日(1833年6月4日) - 大正元年(1912年)9月13日)は、上総国高柳(現在の木更津市)の名主。後に千葉県の初代県会議長、衆議院議員を務める。幼名は安次郎。 代々名主の家に生まれ、若い頃に正木幽谷・大槻磐渓に学んだ後、故郷に戻り家業に励んだ。明治5年(1872年)、当時の木更津県の郡中地券係に任じられて、当時の県令柴原和の面識を得る。その後千葉県の成立で柴原がそのまま同県令に転じると、柴原が力を入れた育児政策を実施する育児取締頭取を務めた。明治9年(1876年)に千葉県会が設置されると、保は初代県会議長となった。 当時、自由民権運動が盛んになり、各地で県令と県会の衝突が起こったが、保は柴原県令と県会双方に自重を求めて対立の回避に努めた。
小野崎 通亮(おのざき みちすけ / みちあき、天保4年2月… 小野崎 通亮(おのざき みちすけ / みちあき、天保4年2月29日〈1833年4月18日〉 - 1903年〈明治36年〉7月21日)は、幕末から明治期の久保田藩士、国学者、神職、政治家。貴族院勅選議員。通称・鉄蔵。雅号・琴廼屋、烟水、九春軒。 出羽国秋田郡久保田城下亀ノ丁新町(現秋田県秋田市)で、久保田藩士、郡奉行・小野崎通孝の長男として生まれる。平田篤胤と親交があり神道家であった父通孝から神道を伝えられ、吉川忠行の惟神館で和魂洋才を学び、文久3年(1863年)同志と雷風義塾を設立して講師に就任。慶応4年1月(1868年)藩校明徳館教授兼砲術頭となる。戊辰戦争では吉川忠安らと勤皇を主張して藩論を導き、遊撃隊参謀として秋田戦争に従軍した。
石橋 八九郎(いしばし はちくろう、旧姓・阪本、幼名・甚七、… 石橋 八九郎(いしばし はちくろう、旧姓・阪本、幼名・甚七、1833年〈天保4年〉 - 没年不明)は、日本の商人・会社役員・慈善家。救恤を致す。 紀州の人。海草郡加太村(現・和歌山市)生まれ。阪本甚右衛門の子である。家は代々網綱を商とし、「十一屋」と称する。成長すると紀泉両州に行商し、網綱を販ぎ1日も懈怠せず、「十一屋」の名が大に揚がる。 安政5年、石橋家を嗣ぐ。当時石橋家の資産は富裕ではなく、僅かに米穀と肥物を商い唯数畝の菜園あるのみであったが、八九郎が励精刻苦、家事を見るとまもなく漸く富裕となった。紀州銀行取締役、南陽肥料取締役などをつとめる。 性格は慈善を好み、救恤を致し、官は褒賞を賜うことになったが、八九郎は固辞して受けなかった。
高橋 卯之助(たかはし うのすけ、男性、1833年(天保4年… 高橋 卯之助(たかはし うのすけ、男性、1833年(天保4年) - 1902年(明治35年)1月26日)は、日本の数学者。明治6年の太陰暦の廃止、太陽暦への改暦の準備を行った。通称は卯之助だが、後に卯と改めた。本名は高橋義泰。
高橋 勝政(たかはし かつまさ、天保4年(1833年) – … 高橋 勝政(たかはし かつまさ、天保4年(1833年) – 明治14年(1881年)1月20日)は、幕末から明治初期にかけて活動した日本の武士、陸軍軍人。陸軍大佐。従五位・勲四等旭日小綬章。幼名は熊太郎。号は重陰。 高橋勝政は、常陸国新治郡下青柳村(現・茨城県石岡市)に生まれた。高橋平衛門の長男。幼少時は手に負えぬ性格であったが、成長すると文武に優れたという。17歳頃に家督を姉に譲り、医師を志したが、幕末の動乱を目の当たりにして尊皇攘夷運動に身を投じることを決意した 当初は水戸藩に赴いたが、当時の藩内は内紛が激しく活動は困難であったため、同志とともに上京して長州藩の有志に加わった。熱意は来島又兵衛らに認められ、遊撃隊568人の一隊の隊長に抜擢される。
鈴木 定七(すずき さだしち、天保4年(1833年) - 明… 鈴木 定七(すずき さだしち、天保4年(1833年) - 明治39年7月13日(1906年7月13日))は、日本の武士。越前勝山藩の剣術師範。 出生地は現在の福井県勝山市である。弘化4年(1847年)、15歳のときに江戸へ出て、直心影流の男谷精一郎に入門した。修行すること3年、直心影流の皆伝の域に達した。20歳のとき江戸へ帰り、神道無念流の斎藤弥九郎に入門した。定七は弥九郎の信頼を得て塾頭も務めたこともあるという。23歳で勝山に帰り、藩の剣術師範になった。斎藤門下に鈴木定七ありといううわさが広まり、水戸藩から弘道館の剣術指南役に迎えたいと申し入れてきたが、定七は断った。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。
高木 元右衛門(たかぎ もとえもん、天保4年(1833年) … 高木 元右衛門(たかぎ もとえもん、天保4年(1833年) - 元治元年7月19日(1864年8月20日))は、江戸時代後期から幕末にかけての肥後国菊池郡深川村(現熊本県菊池市深川)の肥後藩士。深川村の郷士・高木甚之助の次男。諱は直久。変名は深川策助。 武芸に優れ、成童の頃に父・甚之介の剣術仲間であった荒尾村の郷士・宮崎政賢の養子となる。宮部鼎蔵に山鹿流兵法を学び、地元の学者、高山蘭痴からも教えを受けた。宮崎家からは家督相続人として迎えられていたが、国事を志して宮崎家を飛び出し、武者修行の旅へ出る。 尊王攘夷派と親交を深め、肥後勤王党に加わる。文久2年(1862年)、肥後藩親兵隊として上洛。文久3年(1863年)、八月十八日の政変による七卿落ちの際には、七卿を護衛して長州に赴いた。
石川 鴻斎(いしかわ こうさい、1833年 - 1918年9… 石川 鴻斎(いしかわ こうさい、1833年 - 1918年9月13日)は、日本の詩文家、漢学者、画家。 本名は英。字は君華。通称は英助。芝山外史、雲泥居士などの号をもつ。 1833年5月20日(天保4年4月1日)、三河国吉田(豊橋)花園町の紙商大野屋石川平五郎の長男として生まれる。数学を彦坂菊作、漢学を西岡翠園、太田晴軒、曽我耐軒らに学んだ。 神奈川県傭史になったが、1877年(明治10年)東京に転居。同じ三河出身の和泉屋市兵衛が経営する書店に勤め、編集に携わる。また、1887年(明治20年)芝増上寺の浄土宗学校の開校に際し、漢学の教師に就任。 同年、清国の全権公使、副使、随員らが宿所として増上寺に滞在した際に、筆談をもって会談に加わり、後に贈答した詩中文より十数編を選んで1878年、東京文昇堂より詩文集『芝山一笑』を刊行。
鈴木 由哲(すずき ゆうてつ、1833年 - 1917年6月… 鈴木 由哲(すずき ゆうてつ、1833年 - 1917年6月21日)は、幕末の久世家関宿藩の藩士、代官、関宿町町長。旧姓は倉持(くらもち)[要出典]。通称は為之助もしくは為輔(ためのすけ)。 海軍大将・枢密院議長・内閣総理大臣の鈴木貫太郎、陸軍大将の鈴木孝雄の父。 下総国久世家関宿藩4万8千石の藩士であった由哲は身分の高い武士では無かったが、体も大柄で剣の腕も立った為久世広周が亡くなる1862年(文久2年)まで籠の警備をしていた。また、関宿藩に招聘されていた田口俊平に師事し西洋砲術を学び大筒頭取となる。 1864年(元治元年)、久世家関宿藩の和泉国大鳥郡および和泉郡の飛地(1万石)の代官に抜擢され35俵2人扶持で赴任した。
平村 ペンリウク(ひらむら ペンリウク、1833年 - 19… 平村 ペンリウク(ひらむら ペンリウク、1833年 - 1903年(明治36年)11月28日)は、明治期のアイヌ指導者の一人。平取コタンのコタンコロクル(首長)。 1833年(天保4年)、平取コタンにシュロクの長男として生まれ、松浦武四郎『左留日誌』のなかにも名前が記されている。幼年の頃から勇敢で知られ、成長してからは同胞の苦難を救うためにしばしば北蝦夷地(樺太)に渡った。 1876年(明治9年)、イギリス人宣教師のウォルター・デニングはペンリウクの家に来てアイヌ語を学んだという。1878年(明治11年)、ハインリヒ・フォン・シーボルト次いでイギリス人の旅行者イザベラ・バードを迎え、バードはその滞在の思い出を紀行文に残した。
荒尾 光政(あらお みつまさ、天保3年10月12日(1832… 荒尾 光政(あらお みつまさ、天保3年10月12日(1832年11月4日)-明治36年( 1903年)5月6日)は、幕末の剣豪。剣術の流派、鏡心流の創始者。 千葉の北辰一刀流、桃井春蔵の鏡心明智流、宝蔵院流高田派槍術等の諸武術流派をそれぞれ免許皆伝した上で鏡心流を創り出した。 鏡心流は幕末の混乱期を背景にあみだされた剣の奥義を極めた実戦本意の剣術。抜刀術等も含み、「心ヲ以テ鏡トナスベク 鏡ヲ以テ心トナスベシ」秘剣の術、と伝承されている。 関宿藩士(奥家老)大坪正邦と同藩大野か袮子の次男として天保3年10月12日(1832年11月4日)、関宿藩上屋敷の江戸箱崎邸で生まれる。幼名は次郎、のちに粛(すすむ)。
藤野 昌言(ふじの しょうげん、1832年11月4日〈天保3… 藤野 昌言(ふじの しょうげん、1832年11月4日〈天保3年10月12日〉 - 1879年〈明治12年〉10月6日)は、明治時代の医師。本名は守誠(もりのぶ)。備後国芦田郡府中市村(現広島県府中市)出身。 1832年(天保3年)、備後国芦田郡府中市村(現広島県府中市)で代々医業を行っていた藤野元英の長男として生まれた。大阪で医学を修め、父親の死により19歳で府中に帰って医業に専念した。貧しい時代に困窮していた人の治療費もとらず、生活の面倒を見ていたともいわれ、正に「医は仁術なり」を言葉通り実行した。1879年(明治12年)、府中市にコレラが猛威を振るったとき、多くの医者が恐れる中で敢然として患者の手当をして救い、遂に自身もコレラに感染し48歳で没した。
東 沢瀉(ひがし たくしゃ、天保3年10月9日〈1832年1… 東 沢瀉(ひがし たくしゃ、天保3年10月9日〈1832年11月1日〉 - 明治24年〈1891年〉3月28日)は、幕末の岩国藩士・儒学者(陽明学者)。諱は正純、通称は崇一郎、号は白沙、沢瀉。沢瀉の号は、明治になってから用いている。 天保3年(1832年)10月9日、周防国岩国錦見に生まれる。藩校養老館では、大草馨堂、南部五竹と並んで学内の三博士と称せられた。その後、江戸に出て佐藤一斎らに陽明学を学ぶ。文久3年(1863年)3月、養老館の助教に任用されるが、朱子学中心の学風と合わず、1年で辞任した。岩国藩の佐幕的姿勢に満足せず、尊王攘夷を唱えて必死組を組織し、栗栖天山や南部五竹らと共に兵制改革を進める。
山下 現有(やました げんゆう、天保3年8月28日(1832… 山下 現有(やました げんゆう、天保3年8月28日(1832年9月22日) - 昭和9年(1934年)4月11日)は、日本の浄土宗の僧。浄土宗管長、知恩院門跡。号は謙蓮社孝誉。近代日本仏教における代表的な高僧の一人である。一宗一派の枠を越え、広く仏教界全体の長老として仰がれ、「生き仏」と称された。 謙蓮社孝誉真善妙阿。字は葵堂。宗門功労者で、近代の代表的な高僧。現在の愛知県一宮市大赤見に山口安蔵の長男として生まれ、天保11年(1840年)三重県松阪市の樹敬寺にて梧雲のもとで出家得度し、俊敬と命名される。弘化元年(1844年)増上寺山下谷安祥室賢従の寮に入り修学、嘉永2年(1849年)増上寺において宗戒両脈を相承した。
青木 勝之助(あおき かつのすけ、1832年8月30日(天保… 青木 勝之助(あおき かつのすけ、1832年8月30日(天保3年8月5日) - 1905年(明治38年)4月10日)は明治時代の浪花節語り。生まれははっきりしないが、一説には武蔵国(現・神奈川県)生まれ。ヒラキから寄席に最初に進出した功労者。後に美弘舎東一(びこうしゃ とういち)と改名。玉川勝太郎から、今の玉川奈々福、玉川太福等に連なる玉川一派の開祖でもある。 本名は青柳勝三。色が黒いのであだ名が「くろ勝」。幕末から明治頭にかけて、横浜・本牧の盛り場に仮設したヒラキで評判を取るほど大入りを続けていた祭文語りの勝之助。その頃の得意演目は「野狐三次」「鬼神於松」「俊徳丸」などで、品格の良さから常に上流の客が集まった。
丸尾 文六(まるお ぶんろく、1832年8月26日〈天保3年… 丸尾 文六(まるお ぶんろく、1832年8月26日〈天保3年8月1日〉- 1896年〈明治29年〉5月1日)は、日本の実業家、政治家。族籍は静岡県平民。 浜松県民会議員、浜松県民会幹事、静岡県会議員、静岡県会副議長(第2代)、静岡県会議長(第2代)、衆議院議員などを歴任した。 遠江国出身の実業家、政治家である。大井川の渡船解禁により窮乏した川越人足らを救うため、牧ノ原台地への入植を推進した。その結果、牧ノ原台地を茶の一大産地となるまでに育て上げた。製茶業を営んだ。また、政界にも進出し、静岡県会議員や衆議院議員などを歴任した。 1832年8月26日(旧暦天保3年8月1日)、遠江国の城東郡池新田村にて生まれた。
松尾 与十郎(松尾 與十郎、まつお よじゅうろう、天保3年7… 松尾 与十郎(松尾 與十郎、まつお よじゅうろう、天保3年7月3日(1832年7月29日) — 1886年(明治19年)3月15日)は、日本の篤志家である。明治時代に五十嵐川の治水・築堤に尽力した。 越後国蒲原郡片口村の里正(庄屋)・松尾與右衛門の長男として出生した。松尾家には北越戦争の際、村山半牧を匿った。 明治5年8月1日(1872年9月3日)に、五十嵐川が氾濫し、片口村をはじめ五十嵐川左岸(嵐南)が浸水する八朔の洪水が発生した。与十郎はこの洪水被害を受けて、右岸(三条町側)より堤防が低い左岸にしっかりとした堤防の必要性を村々に訴え、新潟県令平松時厚の視察に際して陳情したが、左岸堤防の築堤は許可されなかった。
寺島 宗則(てらしま むねのり、1832年6月21日〈天保3… 寺島 宗則(てらしま むねのり、1832年6月21日〈天保3年5月23日〉- 1893年〈明治26年〉6月6日)は、日本の外交官・政治家。元は松木 弘安(まつき こうあん)、別字に弘菴、弘庵、洪庵。通称は寺島改姓後に陶蔵と名乗った。日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿として活躍した。 天保3年(1832年)、薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現:鹿児島県阿久根市脇本字槝之浦)の郷士・長野成宗の次男として生まれる(幼名徳太郎、後に藤太郎)。5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、長崎で蘭学を学ぶ。 弘化2年(1845年)、江戸に赴き伊東玄朴、川本幸民より蘭学を学び、安政2年(1855年)より中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講する。
塚本 正之(つかもと まさゆき、天保3年5月1日(1832年… 塚本 正之(つかもと まさゆき、天保3年5月1日(1832年5月30日) - 大正7年(1918年)2月28日)は、江戸時代後期から明治時代の近江商人、社会事業家。湖国治山の父とも呼ばれる。塚本家はツカモトコーポレーションの創業一族。 塚本正之は、天保3年(1832年)に近江神崎郡川並村(現滋賀県東近江市五個荘川並町)の豪商初代定右衛門(1789年-1860年)の次男として誕生し、通称粂右衛門と称した。兄塚本定次(1826年-1905年)は勝海舟も大物と称した商人で、正之は兄を助け家業に精励し、県会議員を務めると共に一生を通じて公共事業に尽くした。 明治6年(1873年)6月学校世話方に選ばれ故郷川並村における小学校創立に力を注ぎ、明治9年(1876年)以降戸長・副区長・村会議員・連合村会議員、明治15年(1882年)6月第二回滋賀県会議員選挙において当選し(同19年(1886年再選)、神崎・愛知郡衛生会議員、勧業諮問委員等を歴任した。
田本 研造(たもと けんぞう、天保3年4月8日(1832年5… 田本 研造(たもと けんぞう、天保3年4月8日(1832年5月8日) - 大正元年(1912年)10月21日)は、現在の三重県熊野市神川町出身の写真家。別名は音無榕山(おとなしようざん)。 1832年(天保3年)4月8日に紀州牟婁郡神川村(現熊野市神川町)に生まれた。のちに別名音無榕山(おとなしようざん)と名乗っているが、「音無」は彼の郷里を流れる音無川(熊野川)にちなむものという。 医学を志して23歳の時に長崎に赴き、蘭方医吉雄圭斎(よしおけいさい)の門に入る。ここで医学や化学を学びつつ西洋科学の諸事情に触れ、1859年(安政6年)には長崎から箱館(函館)に移り住んだ。ところが、しばらくして右足に凍傷を負って脱疽となり、ロシア医師ゼレンスキーの手術により一命を取りとめるものの右足切断の悲運に遇う。
松本 暢(まつもと ちょう、1832年5月8日(天保3年4月… 松本 暢(まつもと ちょう、1832年5月8日(天保3年4月8日) - 1889年(明治22年))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての医師・尊王攘夷派の志士。のちに壬生藩御典医・石崎家の婿養子となり石崎 誠庵(省菴)を名乗った。明治維新後は中央政府に出仕し、刑法官判事、東京株式取引所理事長などを務めた。 天保3年4月8日、下都賀郡富山村富田(現栃木市)に生まれる。松本新右衛門の次男で、幼名は新作。一度松本又作の養子となるが、後に実子出生により生家へ戻る。学問は水代村の鍋山休文に始め、ついで瀧山西谷に従学、その後藤森弘菴に私淑し、さらに水戸の藩医・本間玄長に医業を学ぶ。この頃より号を「省菴」と称した。
正阿弥 勝義(しょうあみ かつよし、天保3年3月28日(18… 正阿弥 勝義(しょうあみ かつよし、天保3年3月28日(1832年4月28日) - 明治41年(1908年)12月19日)は、明治時代に活躍した金工家。 天保3年(1832年)津山二階町に住む津山藩お抱えの彫金師・中川五右衛門勝継の三男として生まれる。幼名は淳蔵、通称は淳蔵、勝義は工名。幼い頃から父に彫金を学ぶ。江戸出府の方便として津山藩先手鉄砲隊小山家の継嗣となり、江戸の彫金家に弟子入りしようとするが果たせず、江戸から帰郷後養子関係を解消。その後、18歳で岡山藩御抱え彫金職人の名家・正阿弥家の婿養子となって、正阿弥家の9代目を継ぐ。養子入り後は、江戸幕府お抱えの彫金家・後藤家の門人で、自身も江戸幕府及び朝廷の御用職人を務めていた実兄・中川一匠や、その師・後藤一乗から手紙で下絵や脂型、或いは相互に作品を遣り取りして指導を受ける。
大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日〈天保3年… 大木 喬任(おおき たかとう、1832年4月23日〈天保3年3月23日〉- 1899年〈明治32年〉9月26日)は、明治期の日本の官僚、政治家。通称を幡六[要説明]、民平[要説明]。 栄典は正二位勲一等伯爵。 肥前国佐賀藩の45石の藩士大木知喬の長男として赤松町(現在の佐賀市水ヶ江三丁目)に生まれる。天保13年(1842年)父、知喬が亡くなり、以降、母シカ子の手で育てられる。出身家の詳細については大木家を参照。 藩校の弘道館で学び、1850年(嘉永3年)副島種臣らと共に枝吉神陽の義祭同盟結成に参加。後に江藤新平や大隈重信らも加わり藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせなかった。万延元年(1860年)藩校弘道館から選ばれて江戸遊学の途に上る。
安部井 磐根(あべい いわね、天保3年3月17日(1832年… 安部井 磐根(あべい いわね、天保3年3月17日(1832年4月17日) - 大正5年(1916年)11月19日)は、日本の武士(二本松藩士)、自由民権運動家、政治家。衆議院議員(大成会→憲政本党)。 二本松藩士安部井又之丞の子として生まれる。戊辰戦争の際には、奥羽諸藩の衆議所詰となり仙台や白石などを奔走したが、二本松城陥落の際に又之丞は自刃した。 戊辰戦争終結後、若松県に出仕し、少参事、典事を歴任したが、まもなくして辞職した。1874年(明治7年)、板垣退助らによって自由民権運動がおこると、これに呼応して一政社という政社を組織した。1878年(明治11年)、福島県会議員となり、議長に互選された。
城多 董(きた ただす、天保3年2月22日〈1832年3月2… 城多 董(きた ただす、天保3年2月22日〈1832年3月24日〉 - 1891年〈明治24年〉10月3日)は、幕末の尊王攘夷派志士として水口藩を尊王に導いた。多くの志士が明治維新後切り捨てられる中、草莽の志士の一人として活動し、元老院少書記などを歴任。 城多董は天保3年2月22日(1832年3月24日)に近江国甲賀郡牛飼村(現滋賀県甲賀市水口町牛飼)で農業の傍ら肥料商を営む木田平三郎の三男として誕生。幼名を木田市太郎と言い、長じて善兵衛と称し諱は士威と言った。後に図書、耐軒とも号すると共に、姓を木田から城多に改めた。尚、董の読みを「ただす(ス)」とする書籍も。木田家は六角氏一族の末と言われ、父平三郎は杉谷村(現甲賀市甲南町杉谷)の西浦家より入婿したが、平三郎の実父で董の祖父に当たる西浦九兵衛は近江天保一揆指導者の一人として、天保14年(1843年)董数え12歳の時に獄中死。
熊谷 孫六郎(くまがい まごろくろう、1832年3月22日(… 熊谷 孫六郎(くまがい まごろくろう、1832年3月22日(天保3年2月20日) - 1902年(明治35年)8月3日)は、明治時代の政治家。実業家。養蚕家。衆議院議員。官選初代岐阜市長。岐阜県会議長。 美濃国恵那郡付知村(岐阜県恵那郡付知村、付知町を経て現中津川市付知町)で、製糸業・熊谷孫六の息子として生まれた。和漢学を学ぶ。 岐阜県会議員、同常置委員、同副議長、同議長を歴任した。また、近隣町村と合併して人口不足を解消し私財を投じるなどして岐阜市の市制を実現し、同市の初代市長に就任した。 実業家としては資金貸与、濃南各会社社長、岐阜米糸取引所理事長、東京硝子、日本運輸各取締役を務めた。ほか、蚕業試験場を設立し蚕糸改良に尽力した。
海江田 信義(かいえだ のぶよし、1832年3月13日〈天保… 海江田 信義(かいえだ のぶよし、1832年3月13日〈天保3年2月11日〉 - 1906年〈明治39年〉10月27日)は、日本の政治家、官僚。通称は武次(たけじ)。幕末期は有村俊斎の名で活動した。雅号は黙声、静山、孤松。 天保3年(1832年)、薩摩藩士・有村仁左衛門の長男として高麗町に生まれた。幼名は太郎熊。11歳の時、島津斉興の茶頭に出仕して茶坊主となり、俊斎と称した。 はじめ東郷実明に示現流剣術を学び、次いで薬丸兼義に薬丸自顕流剣術を学んだ。薬丸自顕流の伝承では道場破りに来たものの大山綱良に敗れて入門したとなっているが、俊斎は当時わずか15歳であり、史実かどうかは不明。 嘉永2年(1849年)、薩摩藩の内紛(お由羅騒動)に巻き込まれた有村父子は一時藩を追われ家は貧困の極みに陥るが、嘉永4年(1851年)、新藩主・島津斉彬によって藩に復帰、このとき俊斉は西郷吉之助(のち西郷隆盛)、大久保正助(のち大久保利通)、伊地知龍右衛門(のち伊地知正治)、税所喜三左衛門(のち税所篤)、吉井仁左衛門(のち吉井友実)長沼嘉兵衛(早世)らと『近思録』を輪読する会、いわゆる「精忠組」を結成、幕政改革や日本の近代化を考えるようになった。
柴原 和(しばはら やわら、天保3年2月7日(1832年3月… 柴原 和(しばはら やわら、天保3年2月7日(1832年3月9日)- 明治38年(1905年)11月29日)は、幕末期播磨国龍野藩出身の志士。明治維新後は新政府に出仕して、初代の千葉県令や貴族院勅選議員などを務める。字は士節。幼名は宗吉、後に順治。雅号は靖盧・此木山。養子(甥)に翻訳家・弁護士の柴原亀二がいる。大槻磐渓、安井息軒、梁川星巌などに学ぶ。 龍野藩の下級武士柴原左五七の三男(6人兄弟)として生まれる。幼い頃に同藩士の梅原松之助の養子となるが、少壮気鋭の性格が養父の機嫌を損ねて離縁された。しかし、藩首脳はその才能を評価し、遊学を許されて江戸で大槻磐渓・安井息軒、京都で梁川星巌、大坂で落合雙石・後藤松陰、大和国で森田節斎に学んだ。
津田 出(つだ いずる、天保3年2月1日(1832年3月3日… 津田 出(つだ いずる、天保3年2月1日(1832年3月3日) - 明治38年(1905年)6月2日)は、幕末期から明治前期にかけて活躍した武士・官僚、陸軍軍人。官位は錦鶏間祗候陸軍少将従二位勲一等。通称は又太郎。号は芝山。 弟は初代和歌山県知事の正臣。 紀州藩士(300石)の津田信徳(三郎右衛門)の長男として現在の和歌山県和歌山市に生まれる。津田家は河内国交野郡津田城主楠木正儀の後裔であり、戦国期に紀州に移り、藩祖入国以前からの住人として、代々紀州藩に仕えていた。山林を多数所有する豪家でもあった。 蘭学・徂徠学を学び、藩の小姓業奥右筆組頭を勤めたが、幕末の藩内抗争に関係して幽閉される。 明治維新後に藩主徳川茂承より小姓頭・井田民男を介して和歌山藩大参事へと大抜擢される。
大岡 利右衛門(おおおか りえもん、天保3年1月4日(183… 大岡 利右衛門(おおおか りえもん、天保3年1月4日(1832年2月5日) - 大正元年(1912年))は、明治時代の農業家。米の品種改良を独力で行い、また苗の正条植えを普及させ、滋賀県の農業育成に努めた。緑綬褒章受章者。 大岡利右衛門は、天保3年1月4日(1832年2月5日)に近江国野洲郡比留田村(後の中里村、現滋賀県野洲市比留田)で大工を営む傍ら農業を行う、大岡宇八と妻浪の第三子として誕生した。利右衛門が育った近江湖南地域では少年時に近江天保一揆が起こり、米作りに生きる村人約4万人が自分達の生活を守るために命がけで立ちあがった。利右衛門は近江天保一揆で農民が立ち上がったことに、深く感動していたことが伝えられている。
石坂 周造(いしざか しゅうぞう、天保3年1月1日〈1832… 石坂 周造(いしざか しゅうぞう、天保3年1月1日〈1832年2月2日〉 - 明治36年〈1903年〉5月22日)は、幕末の志士。尊皇攘夷論者。明治期には石油産業の祖として知られる。幼名は源造、号は宗順(そうじゅん)。江戸では彦根藩脱藩浪士を自称していた。 信濃国水内郡桑名川村(現・長野県飯山市)に渡辺彦右衛門の次男として生まれとしている資料が多い。ただし、碑文には「両国生まれ」と記載されており。また、生前に出版された自伝「石坂翁小伝」には他のほとんどの資料と矛盾する以下の記述がある。 上記、石坂翁小伝の記述が正しければ複雑な出生と養子縁組を繰り返している事となる。一般的な資料には6歳で飯山の英岩寺に入門し、11歳で高源院に移り、その後江戸に出て石坂宗哲の養子となったとある。
橋岡 忠三郎(はしおか ちゅうざぶろう、1832年1月17日… 橋岡 忠三郎(はしおか ちゅうざぶろう、1832年1月17日(天保2年12月15日) - 1910年(明治43年)3月15日)は観世流シテ方の能役者にして橋岡家六世。名は雅茂、號は雅雪(がせつ)。岐阜県の出身。 美濃国近ノ島村で医師・藤井平兵衛(元徳)の二男として1831年(天保2年12月15日)に生まれ、20歳頃に能役者・橋岡泰次郎の養子となる。江戸時代の能役者は若年寄り配下として幕府の保護を受けていたが、維新後はその地位が失われ職を転じる者多数。忠三郎も代書屋をして生計を立てた。 観世清孝(1837-1888年)の時代、宗家困窮のため「観世流本面」が海外に流出しかけたところ、忠三郎が神戸で買い留め流派の面目を保つ。
狩野 旭峰(かのう きょくほう、1832年(天保3年) - … 狩野 旭峰(かのう きょくほう、1832年(天保3年) - 1925年(大正14年))は、日本の漢学者・漢詩人・ジャーナリスト。 出羽国秋田郡大館町に狩野与十郎長安の子として生まれた。本名は良貴、通称は徳蔵。狩野氏は、山形を本拠地とする最上氏が江戸幕府によって改易されたのち、久保田藩(本城は久保田城)の支城のあった大館の佐竹西家に仕えた。1849年(嘉永2年)、18歳で江戸に出て、塩谷宕陰に学び、以降5年のあいだ、古賀謹一郎、藤森弘庵、田口江村らに学んだ。のち、久保田藩江戸邸の学問所「日知館」の教授を務めた。 内務省に入った兄狩野良知の推挙で、明治7年(1874年)、遐邇新聞(現在の秋田魁新報)の創刊にかかわり、その編集長(のち主幹)となって明治初年の秋田言論界をリードした。
湖城 以正(こぐすく いせい、1832年 - 1891年)は… 湖城 以正(こぐすく いせい、1832年 - 1891年)は、主に琉球王国時代に活躍した、湖城流の唐手(現・空手)家である。通称は、湖城小(グヮー)。 湖城以正は、1832年(天保3年)、那覇の久米村に生まれた。蔡氏湖城家は代々唐手の大家を出す久米村の名門士族である。湖城家によれば、湖城以正は16歳の時、父・蔡昌偉とともに中国へ渡り、儒学の他、中国兵法も習得したとされる。以正は、とりわけ中国槍術、弓術を得意としたとされる。 中国武術は、イワァー(北京王宮の武官とも、冊封使付き侍従武官とも伝わる)に師事し、イワァーが城中勤務に忙殺されていたので、師に代わって師範代を務めたため帰国が遅れ、36歳の時帰国したという。
長尾 無墨(ながお むぼく、天保3年(1832年) - 明治… 長尾 無墨(ながお むぼく、天保3年(1832年) - 明治27年(1894年)11月3日)は、日本の南画家、教育者である。幼名は佐伝次、諱は冀北、通称は平右衛門、別号に天雁、張天梅、千里などがある。 『説諭要略』や『善光寺繁昌記』を書いたことでも有名。明治時代、中央で活動したにもかかわらず、写真や肖像画はこれまでに見つかっていない。 信濃国伊那郡高遠藩の藩士・宇夫形豊久の長男として高遠城下(現・長野県伊那市)に生まれる。高遠藩は学問が盛んだったことで知られているが、その高遠藩が育てた人材の一人である。学問を父と中村元恒に学び、詩文に長じ、特に絵画を得意とした。万延元年(1860年)に藩校・進徳館が開講すると、27歳でその大助教に迎えられた。
常世 長胤(とこよ ながたね、天保3年〈1832年〉 - 1… 常世 長胤(とこよ ながたね、天保3年〈1832年〉 - 1886年〈明治19年〉3月19日)は江戸末期の国学者・明治期の神祇官。平田門に学ぶ。『神教組織物語』などの著作がある。 上総国木更津に生まれたというが、異説もある。その後、下野国壬生に住む。1866年(慶応2年)、平田鐵胤の没後門人となる。1872年(明治5年)5月、宣教使十二等出仕から東京都港区芝大門鎮座の芝大神宮祠官に異動。1872年(明治5年)11月、芝大神宮祠官から教部省十等出仕に異動。その後は、神宮教山形県本部長となるが、管長の田中頼庸と対立し辞職、1875年(明治8年)、静岡県権中属(明治11年に辞官)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
桂川 甫策(かつらがわ ほさく、天保3年(1832年) - … 桂川 甫策(かつらがわ ほさく、天保3年(1832年) - 明治23年(1890年)10月19日)は、幕末から明治の洋学者・医師・化学者。 桂川甫賢の次男で、蘭学の家として知られる桂川家の8代目。幼名辰次郎(達次郎)後に甫策。本姓は中原、諱は国幹(くにもと)。字は和春。号は淳斎。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。