大久保 徳二郎(おおくぼ とくじろう、1908年3月14日 … 大久保 徳二郎(おおくぼ とくじろう、1908年3月14日 - 1974年8月19日)は、日本の作曲家、編曲家、映画音楽家である。ジャズバンドのサックス奏者から転向、作詞家の島田磬也、歌手のディック・ミネとのチームで第二次世界大戦前のテイチクレコードのヒットメーカーだった。 1908年(明治41年)3月14日、東京市本所区(現在の墨田区本所)に生まれる。ジャズのサックス奏者として上海に渡る。帰国後、テイチクレコードに入社、専属バンドで演奏する。このころ結婚し、1936年(昭和11年)、のちに衆議院議員となる大久保直彦が生まれた。 1938年(昭和13年)、日活多摩川撮影所が製作したトーキー映画『指輪のワルツ』(監督吉村廉)の劇伴を作曲をし、映画音楽家としてデビューする。
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秋元 寿恵夫(秋元 壽惠夫、あきもと すえお、1908年3月… 秋元 寿恵夫(秋元 壽惠夫、あきもと すえお、1908年3月13日 - 1994年2月4日)は、医師、著作家。筆名室田 有。 長野県長野市生まれ。一家は旧諏訪藩士の家系。精神医学者秋元波留夫は実兄。旧制東京府立第五中学、旧制第一高等学校卒業後、東京帝国大学医学部医学科で血清学を専攻し、1938年卒業、1943年大学院博士課程修了、医学博士。同年満州国平房の関東軍防疫給水部本部(731部隊)に加わった。 戦後は東京民主医療機関連合会結成に参加。1949年、臨床検査法の確立と検査技師の教育・育成を目的とする秋元研究所(1952年より病体生理研究所)を開設。長尾研究所、神奈川保健所勤務を経て、1959年3月-1966年3月横浜市衛生研究所長、1966年4月-1984年5月病体生理研究所長、1967年1月新日本臨床検査技師学校長。
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吉田 法晴(よしだ ほうせい、本名:法晴(みちはる)、190… 吉田 法晴(よしだ ほうせい、本名:法晴(みちはる)、1908年〈明治41年〉3月13日 - 1981年〈昭和56年〉1月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)、参議院議員(3期)。初代北九州市長(1期)。 福岡県宗像郡河東村(現宗像市)出身。旧制福岡高校を経て1936年同志社大学法学部卒業後、日本炭鉱に入社。 1947年日本社会党から福岡県議会議員に初当選。 1950年の第1回参議院議員通常選挙福岡県地方区補選で日本社会党公認で立候補して当選。以来、参議院議員を3期務め、その間に参議院労働委員長となる。 参議院議員任期途中の1963年、北九州市の発足に伴い選出される市長選挙に立候補(告示日の同年2月28日付で公職選挙法の規定により参議院議員を退職(自動失職))。
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大橋 貞雄(おおはし さだお、1908年3月13日 - 20… 大橋 貞雄(おおはし さだお、1908年3月13日 - 2009年3月28日 )は、日本の経営者。共同印刷社長、会長を務めた。 東京都出身。1930年に東京商科大学を卒業し、同年に帝国教育会出版部に入社。1944年に国民図書刊行会に転じ、1947年に東京インキ社長に就任。1957年5月には共同印刷社長に就任。1977年8月に会長に就任し、1988年6月に取締役兼名誉会長に就任し、1990年6月から相談役兼名誉会長を務めた。 1968年10月に藍綬褒章を受章し、1978年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 2009年3月28日、老衰のために死去。101歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
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内藤 頼博(ないとう よりひろ、1908年3月12日 - 2… 内藤 頼博(ないとう よりひろ、1908年3月12日 - 2000年12月5日)は、東京府出身の裁判官、弁護士、教育家。子爵、正三位勲一等瑞宝章。 旧信州高遠藩主内藤子爵家の第15代当主として東京府豊多摩郡内藤新宿町に生まれる。内藤頼直、大河内輝声の孫、内藤頼輔の子。旧制学習院幼稚園・初等科・中等科・高等科を経て、1931年、東京帝国大学法学部卒業。東京家庭裁判所長、広島高等裁判所長官、名古屋高等裁判所長官を歴任。1973年に退官し、弁護士となる。 弁護士業の傍ら、1979年から1987年まで多摩美術大学学長、1975年から1991年まで多摩美術大学理事長、1987年から1993年まで第22代学習院院長を務めた。
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佐久間 妙子(さくま たえこ、1908年3月11日 - 不明… 佐久間 妙子(さくま たえこ、1908年3月11日 - 不明)は、日本の女優。本名、西島 静子。 映画監督の勝見正義は義兄(姉の夫)。夫は俳優の竹内良一。
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山口 恒則(やまぐち つねのり、1908年3月11日 - 1… 山口 恒則(やまぐち つねのり、1908年3月11日 - 1994年8月12日)は、日本の経営者。四国電力社長、会長を務めた。愛媛県北宇和郡広見町(現在の鬼北町)出身。 1933年に京都帝国大学法学部を卒業し、1936年に伊予鉄道電気に入社。1942年、四国配電(現在の四国電力)に転じる。1961年、取締役に就任し、1964年に常務、1966年に副社長を経て、1974年、社長に就任。1981年、会長に就任し、1988年6月には相談役に就任。経済団体連合会常任理事、四国経済連合会会長、四国旅客鉄道取締役相談役なども歴任。 1994年8月12日心不全のために死去。86歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
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野網 和三郎(のあみ わさぶろう、1908年〈明治41年〉3… 野網 和三郎(のあみ わさぶろう、1908年〈明治41年〉3月11日 - 1969年〈昭和44年〉10月2日)は、日本の水産家。香川県引田町(現在の東かがわ市)出身。愛称は、「ワーサン」。日本で初めてブリ(ハマチ)の養殖(畜養)に成功したことで知られる。 野網和三郎は1908年3月11日に香川県大川郡引田の「まるさ」と呼ばれる網元の三男として生まれる。小学校に入学すると、祖父を亡くし、翌年には叔父をコレラで亡くしている。そのため、叔父の息子を野網家で預かることになり、和三郎は母の実家に二年間ほど預けられた。 その後、親に頼み込み島根県の水産学校に進み、後に三重県の志摩水産学校に転校して卒業した。
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大石 八治(おおいし はちじ、1908年〈明治41年〉3月… 大石 八治(おおいし はちじ、1908年〈明治41年〉3月10日 - 1976年〈昭和51年〉7月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期、自由民主党)。 1908年(明治41年)静岡県榛原郡吉田町に生まれる。1926年(大正15年)静岡県立榛原中学校を卒業。1929年(昭和3年)横浜高等商業学校を卒業。1934年(昭和9年)日本共産党に資金提供していたとして治安維持法違反の疑いで逮捕。 1951年(昭和26年) 静岡県議会議員に初当選。4期務め、静岡県議会議長も歴任。1960年(昭和35年)第29回衆議院議員総選挙に自由民主党から静岡1区へ立候補するも落選。 1963年(昭和38年)第30回衆議院議員総選挙静岡1区初当選。
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長谷山 行毅(はせやま こうき、1908年(明治41年)3月… 長谷山 行毅(はせやま こうき、1908年(明治41年)3月10日‐ 1977年(昭和52年)11月23日) は、昭和期の検察官、弁護士、政治家。参議院議員(1期)、秋田県雄勝郡田代村長。 秋田県雄勝郡田代村(現羽後町田代)で生まれた。1932年(昭和7年)慶應義塾大学法学部を卒業し、その後、同大学院を修了した。 1937年(昭和12年)検事に任官し、東京地方裁判所検事局、札幌地方裁判所検事局などで勤務した。戦後に帰郷して、1947年(昭和22年)田代村長に就任し、秋田県町村会副会長などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で秋田県地方区から自由党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
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清島 省三(きよしま せいぞう、1908年 <明治41年> … 清島 省三(きよしま せいぞう、1908年 <明治41年> 3月10日 - 1993年 <平成5年> 3月7日)は、日本の経営者、銀行家。位階は従四位。 熊本県出身。1933年に東京帝国大学法学部を卒業。満州国政府、大蔵省での勤務を経て、1955年に経済企画庁審議官に就任。 1956年3月に十八銀行頭取に就任し、1983年10月には会長に就任。1989年6月に取締役相談役を経て、1990年6月には相談役に退いた 1978年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1993年3月7日肺炎のために死去。84歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
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橋本 喜一(はしもと きいち、1908年(明治41年)3月1… 橋本 喜一(はしもと きいち、1908年(明治41年)3月10日 - 没年不明)は、日本の教育者・政治家。新潟県両津市(現・佐渡市)長(1期)。 新潟県出身。出生名は市橋喜一。佐渡トキ保護会会長で「トキ博士」の異名を持つ佐藤春雄は実弟。 1931年(昭和6年)に東洋大学文学部を卒業し、陸軍科学研究所に勤務した。橋本家に婿入りし、劇場の橋本座の経営者も務めた。相川町立相川高等女学校や組合立佐渡高等女学校で教諭を務めた。 1949年(昭和24年)2月には両津町加茂村組合立両津高等学校(現・新潟県立佐渡中等教育学校)の校長事務取扱を命じられ、同年6月には両津高校が新校地に移転した。 1950年(昭和25年)に両津町議会議員に当選すると、1952年(昭和27年)には議員選出の両津町教育長に就任し、両津高校の県立移管に尽力した。
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松本 幸市(まつもと こういち、1908年3月10日 - 1… 松本 幸市(まつもと こういち、1908年3月10日 - 1978年1月7日)は、日本の経営者。 鳥取県境港市出身。1927年に山口高等商業学校を卒業し、同年に小野田セメントに入社。1960年に取締役に就任し、1963年に常務、1967年に専務、1969年に副社長を経て、1973年10月には社長に就任。 1976年6月16日心筋梗塞のために在任中に死去。68歳没。
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松田 文雄(まつだ ふみお、1908年3月9日 - 1971… 松田 文雄(まつだ ふみお、1908年3月9日 - 1971年7月9日)は、日本の洋画家。一水会会員。
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金東一(キム・ドンイル、1908年3月9日 - 1998年7… 金東一(キム・ドンイル、1908年3月9日 - 1998年7月20日)は、大韓民国の応用化学者。号は石泉(석천)。 1908年3月9日、平安南道江西郡に生まれる。教育熱心な父親の意向で幼い頃から漢文を学び、私立鳳儀学校、平壌上儒公立普通学校、平壌公立高等普通学校を経て、1926年に旧制佐賀高等学校理科甲類へ入学し、1929年卒業。翌年には東京帝国大学へ進み、1933年工学部応用化学科を卒業。当時、応用化学科の唯一の朝鮮人卒業生であった。 1年間指導教授のもとで助手を務めたのち、1934年に岩城硝子へ入社。同社では1939年まで研究科長を務め、酢酸セルロース関連技術により7つの特許を取得した。その後、鐘淵紡績に引き抜かれたが、1942年にはさらに京城紡織へ転じた。
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林 了(はやし りょう、1908年〈明治41年〉3月9日 –… 林 了(はやし りょう、1908年〈明治41年〉3月9日 – 1953年〈昭和28年〉12月20日)は、昭和期の歯科医師、政治家。参議院議員(1期)、日本大学歯学部教授。医学博士。 福井県福井市生まれ。1929年(昭和4年)日本大学歯科医学校(現日本大学歯学部)を卒業。同年、歯科医院を開業。1932年(昭和7年)日大歯科医学校附属医院に勤務。以後、城西病院歯科部長、日大歯科医学校長、日大歯学部教授を歴任。 その他、日本歯科医師会理事、同事務局長、同常務理事、同税制対策委員長、日本歯科医師政治連盟(現日本歯科医師連盟)理事長、臨時診療報酬調査会委員、臨時医療保険審議会委員、社会保険診療報酬支払基金理事、軽井沢会理事長、軽井沢国際観光協会顧問、八欧無線(株)顧問などを務めた。
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中田 孝(なかだ たかし、1908年3月8日 - 2000年… 中田 孝(なかだ たかし、1908年3月8日 - 2000年8月15日)は、日本の機械工学者。東京工業大学名誉教授。元日本機械学会会長。元計測自動制御学会会長。元日本学士院会員。日本学士院賞受賞。 東京府東京市浅草区生まれ。京華中学校卒業後、数学が得意だったため、入試に国語がなかった東京高等工業学校に進学し、関口八重吉に師事した。1928年東京高等工業学校機械科卒業。1932年一期生として東京工業大学工学部機械工学科卒業、東京工業大学機械工学科実験室助手。 1939年東京工業大学精密機械研究所助教授。1944年東京工業大学精密機械研究所教授、工学博士。1953年「歯車に関する研究」により成瀬政男東北大学教授、和栗明九州大学教授とともに日本学士院賞を受賞。
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桝 嘉一(ます かいち、1908年3月8日 - 1981年1… 桝 嘉一(ます かいち、1908年3月8日 - 1981年12月18日[要出典])は、京都府京都市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。 元はテニス選手で旧制同志社中学校、同志社高等商業学校を経て、明治大学に進む。東京六大学リーグ通算88試合出場、296打数70安打、打率.236、0本塁打、34打点。1936年に名古屋軍に入団。 1937年と1943年には監督 、1941年から1942年までは助監督も務めた(すべて選手兼任)。1944年は監督業を三宅大輔に譲って選手専任となるが、出場機会は無く、同年限りで現役引退。戦後、一時期審判員を務め、その後、社会人日本鋼管の野球部監督に就任(プロ野球人名事典1999)し、1981年12月18日、死去。
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中浜 一三(なかはま いちぞう、1908年3月8日 - 没年… 中浜 一三(なかはま いちぞう、1908年3月8日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。中濱 一三と表記されることもある。本名同じ。大正末期から昭和初期にかけて、松竹蒲田撮影所のB級作品に活躍した二枚目俳優である。 1908年(明治41年)3月8日、東京府東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座)に生まれる、とされている。『日本映画年鑑 大正13年・14年』(東京朝日新聞発行所)には、生年月日は「明治四十年九月十六日」(1907年9月16日)、生地は兵庫県神戸市兵庫区である旨が記されている。 1914年(大正3年)、6歳の時に市川壽藏の弟子となり、初舞台を踏む。その後、兵庫県立神戸第一中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)を中退。
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四元 義隆(よつもと よしたか、明治41年(1908年)3月… 四元 義隆(よつもと よしたか、明治41年(1908年)3月8日 - 平成16年(2004年)6月28日)は日本の右翼、実業家。元三幸建設工業社長・会長。政界の指南役。血盟団のメンバーの一人。別名「一匹狼の非利権右翼」。
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宮城 音弥(みやぎ おとや、1908年3月8日 - 2005… 宮城 音弥(みやぎ おとや、1908年3月8日 - 2005年11月26日)は、日本の心理学者。東京工業大学名誉教授。
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五来 重(五來 重、ごらい しげる、1908年〈明治41年〉… 五来 重(五來 重、ごらい しげる、1908年〈明治41年〉3月7日 - 1993年〈平成5年〉12月11日)は、日本の民俗学者。大谷大学名誉教授。専門は日本仏教史、仏教民俗学。 茨城県久慈郡久慈町(現:日立市)に生まれる。旧制茨城県立太田中学校(現:茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)、旧制水戸高等学校文科甲類を経て、1932年に東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業。高野山大学助手に就任するも、歴史学を修めるため京都帝国大学文学部史学科に再入学し、1939年に京都帝国大学文学部史学科国史学専攻を卒業。卒業論文は「中世に於ける神仏習合思想の変遷と元寇の影響」。 以後、京都師範学校教諭、高野山大学助教授、同教授を経て、1955年、大谷大学文学部教授に就任。
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伊地知 鉄男(いぢち てつお、1908年3月5日 - 199… 伊地知 鉄男(いぢち てつお、1908年3月5日 - 1998年3月23日)は、日本の国文学者、書誌学者。 鹿児島県鹿児島市で生まれる。早稲田大学文学部国文学科で学び、1932年に卒業。 卒業後は、光塩高等女学校に教員として勤務。1936年に宮内省図書寮に入省し、1966年に宮内庁書陵部を定年退職。その後は早稲田大学教授となり、1978年に定年退職。 1998年、肺炎のため死去。 専攻は国文学で、特に中世連歌を専門とした。また、書誌学に関連した研究も行っている。 連歌関係の資料1,122点が、1988年に早稲田大学図書館に寄贈され、「伊地知鉄男文庫」となっている。1992年には『伊地知鉄男文庫目録』が刊行されている。
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高田 一郎(たかだ いちろう、1908年(明治41年)3月4… 高田 一郎(たかだ いちろう、1908年(明治41年)3月4日 - 1992年(平成4年)2月11日)は、昭和期の政治家。刈谷市長(1959年7月20日~1967年7月19日)。 1908年(明治41年)3月4日、愛知県一宮市に生まれた。父親は公務員。1930年(昭和5年)に明治大学政治経済学科を卒業し、愛知県庁に就職した。土木課、農林課、経済課、食糧課を経て、海部地方事務所長、渥美地方事務所長、中島地方事務所長などを歴任した。 愛知県額田地方事務所長を務めていた1956年(昭和31年)12月、1955年(昭和30年)から刈谷市長を務めていた竹中七郎によって刈谷市助役に起用された。刈谷市と愛知県のパイプ役を期待された人選である。
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瀬木 三雄(せぎ みつお、1908年3月3日 - 1982年… 瀬木 三雄(せぎ みつお、1908年3月3日 - 1982年5月8日)は、日本の医学博士。 愛知県名古屋市生まれ。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)第14回生。東京帝国大学医学部卒業。旧厚生省の初代母子衛生課長として母子健康手帳を創設し、東北大学医学部にて公衆衛生学教室を主宰。癌統計学の第一人者として知られ、いわゆる「瀬木の帽子」(胎児の基底顆粒細胞集団)の発見者でもある。1971年に退官。瀬木学園(現 愛知みずほ大学等)理事長、学長、高校長を歴任。
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鈴木 俊雄(すずき としお、1908年(明治41年)3月3日… 鈴木 俊雄(すずき としお、1908年(明治41年)3月3日 - 2000年(平成12年)6月8日)は、日本の実業家。日本ガイシ取締役会長 や、中部経済連合会会長や中部経済同友会代表幹事等を歴任する。従四位勲二等瑞宝章。 1928年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科卒業、日本碍子入社。企画部長を経て、1948年取締役に昇格。1956年常務取締役。1959年専務取締役。1962年取締役副社長。1969年取締役会長。1970年東洋陶器取締役、日本陶器取締役、日本特殊陶業取締役。1971年中部経済同友会代表幹事、中部品質管理協会会長。1975年中部経済連合会会長。1977年日本碍子取締役相談役。
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大坪 十喜雄(おおつぼ ときお、1908年(明治41年)3月… 大坪 十喜雄(おおつぼ ときお、1908年(明治41年)3月3日 - 1993年(平成5年)1月9日)とは、シテ方宝生流能楽師である。宝生会常務理事、能楽協会東京支部理事長。 富山県南砺市福野出身。東京に生まれ、宝生流宗家十七世宝生九郎(重英)に入門。1965年(昭和40年)に日本能楽会に入会。1979年(昭和54年)勲五等双光旭日章を受章。 嗣子は大坪喜美雄(重要無形文化財各個認定保持者(人間国宝))。
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十代目 山村 新治郎(やまむら しんじろう、1908年〈明治… 十代目 山村 新治郎(やまむら しんじろう、1908年〈明治41年〉3月2日 - 1964年〈昭和39年〉10月2日)は、日本の政治家、実業家。位階は正三位。 元衆議院議員。予算委員長、議院運営委員長、自由民主党の国会対策委員長等の要職を歴任し、池田内閣において行政管理庁長官を務めた。他に佐原造船社長、山村産業社長、会長も務めた。 よど号ハイジャック事件で運輸政務次官として乗客の身代わりとなったことで知られる十一代目山村新治郎(旧名直義)の父。 千葉県佐原市(現香取市)出身。先代新治郎の長男。佐原中学卒業。肥料・米穀商を経営。 千葉県議を経て1946年(昭和21年)以来千葉県から衆議院議員当選9回。
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高橋 浩之(たかはし ひろゆき、1908年3月2日 - 19… 高橋 浩之(たかはし ひろゆき、1908年3月2日 - 1962年1月23日)は、日本の農林省官僚、農林技官。コシヒカリ生みの親。 広島県高田郡川根村(現在の安芸高田市)出身。旧制三次中学(現在の三次高校)、旧制広島高校卒業。三代続いた医者の息子で、医者になることを望まれたが解剖を嫌い九州大学農学部に進み育種学を専攻。中学時代は落第もしたが大学時代の成績は優秀で、1935年卒業時には九大からただ一人推薦されて農林省農事試験場に採用された。農林技官として関東東山農業試験場(現在の埼玉県鴻巣市)に赴任し小麦の品種改良などを研究。5年後の1940年、新潟県農事試験場に転勤し水稲新品種育成試験地の主任となる。
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今村 義孝(いまむら よしたか、1908年3月2日 - 20… 今村 義孝(いまむら よしたか、1908年3月2日 - 2006年10月18日)は、日本史学者。 熊本県飽託郡島崎村(現熊本市西区)生まれ。1930年東京高等師範学校文科卒業。高田師範学校教諭、熊本県立天草中学校(現熊本県立天草高等学校)教諭、秋田師範学校教諭、1949年秋田大学助教授、1952年教授、1973年定年退官、名誉教授。没後正四位。キリスト教徒。天草、秋田のキリシタン史などを研究した。
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若林 忠志(わかばやし ただし、本名:タダシ・ヘンリー・ワカ… 若林 忠志(わかばやし ただし、本名:タダシ・ヘンリー・ワカバヤシ(Tadashi Henry Wakabayashi)、1908年3月1日 - 1965年3月5日)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii、現:ハワイ州)生まれのプロ野球選手(投手)・監督。ハワイ移民の日系2世。 ジャズ・ミュージシャンの津上研太は孫。 1908年3月1日、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii、現:ハワイ州)・オアフ島ワヒアワで出生。五男四女の九人兄妹の五番目の三男。父親の代に広島県芦品郡戸手村(現:福山市)からハワイへ移民しており、父母ともに広島県芦品郡生まれの日本人。
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藤原 岩市(ふじわら いわいち、1908年(明治41年)3月… 藤原 岩市(ふじわら いわいち、1908年(明治41年)3月1日 - 1986年(昭和61年)2月24日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。 太平洋戦争においてF機関を指示し、チャンドラ・ボースらと共にインド国民軍の編成や戦後のインド独立に大きな役割を果たした。そのため、インド独立運動に携わり「インド独立の父」と呼ばれるマハトマ・ガンディーに対して、藤原はボースと並び「インド独立の母」とも呼ばれる。 藤原為蔵の二男として兵庫県多可郡(現在の西脇市黒田庄町喜多)に生まれる。柏原中学校を卒業し、陸軍予科士官学校を経て、1931年7月、陸軍士官学校(43期)を卒業、同年10月、陸軍少尉任官、歩兵第37連隊付となった。
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安松 京三(やすまつ けいぞう、1908年(明治41年)3月… 安松 京三(やすまつ けいぞう、1908年(明治41年)3月1日 - 1983年(昭和58年)1月25日)は、日本の昆虫学者。九州大学名誉教授。日本における天敵による害虫防除の草分け。
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海江田 譲二(かいえだ じょうじ、1908年3月1日 - 1… 海江田 譲二(かいえだ じょうじ、1908年3月1日 - 1986年4月11日)は、日本の俳優である。本名は上遠野 武史(かどの たけし)である。 1908年(明治41年)3月1日、秋田県北秋田郡大館町(現在の同県大館市)に上遠野武史として生まれる。 1930年(昭和5年)、同郷の映画監督・辻吉朗を頼って京都に移り、辻の所属する日活太秦撮影所に入社する。同年、辻監督による主演作『股旅しぐれ』で映画界にデビュー、つづいて大河内傳次郎が出演予定だった同監督の『大虚』の主演に急遽抜擢され、スターの道を歩み始める。1931年(昭和6年)、稲垣浩監督の『男達ばやり』で片岡千恵蔵と共演、翌1932年(昭和7年)には、辻監督の『沓掛時次郎』で主演する。
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マキノ 雅弘(マキノ まさひろ、1908年〈明治41年〉2月… マキノ 雅弘(マキノ まさひろ、1908年〈明治41年〉2月29日 - 1993年〈平成5年〉10月29日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、録音技師、俳優、実業家。本名:牧野 正唯(まきの まさただ)。 「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三の息子。父の死後マキノ・プロダクション撮影部長、松竹太秦撮影所長などを歴任、生涯に261本もの劇場映画を監督・製作し、日本映画の黄金時代を築いた。沖縄アクターズスクール開設者のマキノ正幸は実子。 甥の津川雅彦が映画監督を務めた際、マキノ雅彦の名義を用いた。 職業名の変遷は下記の通り。 1908年(明治41年)、牧野正唯は、父・省三が映画製作を始めた年の2月29日に京都府京都市上京区で生まれた。
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山川 惣治(やまかわ そうじ、1908年2月28日 - 19… 山川 惣治(やまかわ そうじ、1908年2月28日 - 1992年12月17日)は、主に昭和20年代(1945年から1954年)から昭和30年代(1955年から1964年)に活躍した絵物語作家。 福島県郡山市生まれ。戦前より紙芝居作家として、戦後は絵物語作家として多くの作品を発表した。 昭和6年より紙芝居作成を始め、昭和7年より書いた『少年タイガー』が爆発的にヒットし、当時、紙芝居界の絶対的トップ作品であった『黄金バット』を抜いたとされる。少年タイガーには敵役としてブラック・サタンなる怪人物が登場するが、大きな翼と全身黒ずくめのマスク姿といういでたちがバットマンに酷似していると指摘される事がある。
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鳥居 敏文(とりい としふみ、1908年2月26日 - 20… 鳥居 敏文(とりい としふみ、1908年2月26日 - 2006年8月15日)は、日本の画家。独立美術協会会員。 第9回独立展で独立美術協会賞、第13回独立展で岡田賞、第31回独立展で独立G賞を受賞。 社団法人日本美術家連盟委員、同連盟監事を歴任。「炭坑の家」(1956年)、「炭坑の町」(1959年)などがいわき市立美術館に所蔵されている。1992年2月〜3月の第45回日本アンデパンダン展(日本美術会主催)に出品された「迷路にて」は、日本共産党本部に所蔵されている。 2004年6月、窪島誠一郎、佐藤忠良、野見山暁治らとともに、『九条の会』アピールを広げる美術の会」(略称・九条美術の会)発起人となる。
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宮川 一夫(みやがわ かずお、1908年2月25日 - 19… 宮川 一夫(みやがわ かずお、1908年2月25日 - 1999年8月7日)は日本映画界を代表する映画カメラマンである。主に京都太秦、大映映画の時代劇における陰影ある斬新な撮影で稲垣浩、溝口健二や黒澤明らが監督する作品のカメラマンとして世界に知られる。本名:宮川 一雄。 京都市河原町御池生まれ。マキノ雅弘は小学校での同級生。 少年時代、墨絵を習っていて墨汁の白黒だけで色を使わせてもらえない事が不満だったと自伝で明かしているが、それが逆に白黒映画撮影時の表現に役立った。 京都商業学校(現・京都先端科学大学附属高等学校)を卒業後、18歳で日活京都へ現像部助手として入社。約3年程を見習いとして修行する。
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大町 文夫(おおまち ふみお、1908年2月25日 - 19… 大町 文夫(おおまち ふみお、1908年2月25日 - 1982年4月14日)は日本の俳優。本名は瀬戸口文夫。 1908年(明治41年)2月25日、熊本県熊本市に生まれる。長崎高等商業学校卒業後、雑誌・新聞記者、専売局勤務を経て、1934年(昭和9年)に村山知義らの新協劇団の結成に参加し、新劇俳優となる。戦後の1947年(昭和22年)、民衆芸術劇場(後の劇団民藝)に入る。戦中から映画にも出演し、独立プロ作品や日活作品に多く出演した。1957年(昭和32年)頃からはテレビドラマにも出演した。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
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湯川 盛夫(ゆかわ もりお、1908年2月23日 - 198… 湯川 盛夫(ゆかわ もりお、1908年2月23日 - 1988年3月16日)は、日本の外交官。 石川県出身。湯川宗理の子。 旧制室蘭中学、第一高等学校を経て、1933年(昭和8年)3月、東京帝国大学法学部卒業。大学在学中の1932年(昭和7年)10月、高等試験外交科及び行政科試験に合格。 1933年(昭和8年)外務省に入省、英国、スイス在勤を経て帰国後に通商局へ配属される。戦前から経済畑が長く、商工省、企画院、経済安定本部等への出向も経験している。なお、第二次世界大戦中には、海軍司政官、条約局第一課長の経験がある。 1951年(昭和26年)には国際経済局長(のち改組により経済局長)、1952年(昭和27年)在フランス日本国大使館参事官を経て、1954年(昭和29年)に帰国し国際協力局長を務め、及び1955年(昭和30年)には再び経済局長に就いた。
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山田 晟(やまだ あきら、1908年2月23日 - 2003… 山田 晟(やまだ あきら、1908年2月23日 - 2003年10月12日)は、日本の法学者(ドイツ法)。東京大学名誉教授、成蹊大学名誉教授、元愛知学院大学客員教授。岩手県一関市出身。三潴信吾と三潴信邦は義弟(妻の弟)。 三潴信三の創めた日本におけるドイツ法研究をさらに発展させた。比較法学会理事長、日独法学会理事長、法制審議会民法部会委員、学術奨励審議会委員、最高裁判所図書館委員会委員、民事行政審議会委員、矯正審議会委員などを歴任。
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久住 忠男(くすみ ただお、1908年2月23日 - 199… 久住 忠男(くすみ ただお、1908年2月23日 - 1993年12月21日)は、日本の軍事評論家、海軍軍人。 海軍兵学校〔1928年〕・海軍大学校〔1944年〕を卒業した。海軍中佐となり、大本営参謀兼南方軍参謀として終戦を迎える。 戦後、1953年より軍事評論家として活躍。1968年には沖縄基地問題研究会の座長を務め、沖縄返還の基本政策の提言に関わった。 著書に『戦後世界軍事史』『核時代の軍縮問題』『平和問題の理解』『戦争・平和・ベトコン』など多数。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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竹林 松二(たけばやし まつじ、1908年〈明治41年〉2月… 竹林 松二(たけばやし まつじ、1908年〈明治41年〉2月22日 - 1994年〈平成6年〉6月27日)は、日本の化学者、化学史家。理学博士。大阪大学名誉教授。専門は有機化学。 新潟県新潟市礎町通一ノ町(現 新潟市中央区礎町通一ノ町)の製材業・竹林松次郎の次男として出生。 1925年(大正14年)3月に新潟中学校を卒業、1929年(昭和4年)3月に新潟高等学校を卒業、1932年(昭和7年)3月に東京帝国大学理学部化学科を卒業、4月に資生堂研究部に入社。 1933年(昭和8年)2月に資生堂を退職、東京帝国大学理学部大学院に入学、有機化学を研究、1935年(昭和10年)3月に大学院を退学、4月に東京開成中学校講師に就任、教壇に立つ傍ら、東京帝国大学理学部化学教室で研究に従事。
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宇佐美 敏夫(うさみ としお、1908年(明治41年)2月2… 宇佐美 敏夫(うさみ としお、1908年(明治41年)2月22日 - 1991年(平成3年)6月1日)は、愛知県出身のフィールドホッケー選手。 1931年(昭和6年)東京商科大学本科を卒業。 1932年にロサンゼルスオリンピックに日本代表として選出され、出場した3チーム中2位で銀メダルを獲得した。フォワードとして2試合に出場した。 戦後、日本ホッケー協会名誉副会長、鳴海陶器会長を務めた。 浅川増幸 | 猪原淳三 | 宇佐美敏夫 | 小西健一 | 小林定義 | 今治彦 | 酒井義雄 | 柴田勝見 | 左右田秋雄 | 永田寛 | 中村英一 | 浜田駿吉 | 三浦四郎 | 監督: 広瀬藤四郎
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駒井 玲子(こまい れいこ、1908年〈明治41年〉2月22… 駒井 玲子(こまい れいこ、1908年〈明治41年〉2月22日 - 1942年〈昭和17年〉1月20日)は、日本の美容家。昭和初期のマネキンの代表的な人物の1人であり、当時のマネキンたちの中でも特に人気を集め、マネキンガールを職業として確立した人物である。「マネキンの元祖」「マネキンガール第1号」ともいわれる。また、美容法の宣伝に注力していた資生堂において近代的な美粧法を提唱し、近代美容の向上に大きく貢献した。本名は浅沼清子、または浅沼キヨ。旧姓は長谷川。鳥取県鳥取市出身。 1920年に鳥取市片原で誕生した。1920年(大正9年)に鳥取高等女学校に入学。頭脳明晰の上に、国際語のエスペラント語を学ぶなど、進んで物事に取り組む性格で、学内では一目置かれていた。
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里井 達三良(さとい たつさぶろう、1908年(明治41年)… 里井 達三良(さとい たつさぶろう、1908年(明治41年)2月21日 - 1998年(平成10年)12月21日)は、昭和期の経営者である。 大阪府泉佐野市出身。九州大学経済学部卒業。大阪商工会議所の勤務を経て、関西国際空港ビルディング株式会社社長、大阪商工会議所副会頭など歴任し、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会、1974年(昭和49年)には中国展覧会の運営に中枢的役割を果たす。 また、インターグループ株式会社設立時の顧問、大阪ロータリークラブ会長、文楽協会の評議員、大阪府「なにわ塾」創始時の委員など、多くの文化団体の役員や委員として大阪の文化の振興発展に精力的に活躍する。1984年(昭和59年)、大阪文化賞を受賞。
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小山 龍三(こやま りゅうぞう、1908年2月20日 - 1… 小山 龍三(こやま りゅうぞう、1908年2月20日 - 1984年7月26日)は、日本の実業家。中日新聞社社主。 養父は中日新聞の前身の1紙である名古屋新聞を経営した元衆議院議長の小山松寿。氏名に関しては「小山 竜三」表記もみられる。 1908年(明治41年)に判事・平井出嘉久松の五男として長野県北佐久郡小諸町(現在の小諸市)で出生。実父の転勤により中国地方で育ち、旧制浜田中学、旧制松江高等学校を経て1932年(昭和7年)に東京帝国大学法学部英法学科を卒業する。電通を経て1934年(昭和9年)に同郷の小山松寿が経営する名古屋新聞社に入社、経理・販売部門に在職し、婿養子として小山家に迎えられた。
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京極 杞陽(きょうごく きよう、1908年2月20日 - 1… 京極 杞陽(きょうごく きよう、1908年2月20日 - 1981年11月8日)は、東京市出身の俳人。高浜虚子に師事、「木兎」(もくと)主宰。本名は高光(たかみつ)。豊岡京極家13代当主で、少年期から壮年期までは子爵の爵位を持つ華族であった。靖国神社元宮司の京極高晴は次男である。また、五男の高幸は京極高鋭の養子となり峰山京極家を継いでいる。 1908年(明治41年)、父・京極高義、母・鉚の長男として東京府東京市本所区本所亀沢町二丁目6番地(現在の東京都墨田区亀沢一丁目)で生まれる。父・高義の家系は京極家のうち旧但馬豊岡藩主家の系統であり、父や祖父・京極高厚はともに貴族院議員を務めた子爵であった。
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瀧 潤次郎(たき じゅんじろう、1908年(明治41年)2月… 瀧 潤次郎(たき じゅんじろう、1908年(明治41年)2月20日 - 2002年(平成14年)5月4日)は、日本の愛知県名古屋市出身の実業家。瀧定株式会社で社長を務めた。 1908年(明治41年)2月20日、父・瀧廣三郎と母・まつのの次男として愛知県名古屋市に生まれる。 東京帝国大学経済学部卒業後、瀧定合名会社に入社。 1933年、大阪支店に勤務。代表社員を経て、1940年に副社長へ就任。1943年からは社長を務めた。 1959年2月10日、名古屋商工会議所副会頭に就任。 1970年、代表を退任し、会長に就く。1980年、相談役に就任。 2002年5月4日、死去。享年94。
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李 炳瑾または李 炳瓘(イ・ビョングァン、朝鮮語: 이병관、… 李 炳瑾または李 炳瓘(イ・ビョングァン、朝鮮語: 이병관、1908年2月20日 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家。元金泉市長、初代(制憲)韓国国会議員。 李 炳瑾では、読みはイ・ビョングン(이병근)となる。また、李 秉瓘、李 柄瑾、李 丙瓘という表記も見られる。 現在の慶尚北道金泉市出身。1933年に東京農業大学専門部農科卒業後、師範学校、中学校、専門女学校農業科の教員免許を取得。1939年に朝鮮総督府に入り、穀物検査の助手、技手などを務めたほか、穀物検査所釜山密陽出張所にも勤務した。 光復直後は鳳山面長を務めた。1948年の制憲国会議員選挙で金泉乙区に無所属で出馬し、無投票当選となったが、1950年の第2代総選挙では落選した。
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