伊藤 道治(いとう みちはる、1925年6月7日 - 201… 伊藤 道治(いとう みちはる、1925年6月7日 - 2016年4月3日 )は、日本の中国古代史研究者。関西外国語大学名誉教授。 1925年、愛知県で生まれた。京都大学文学部史学科で学び、1949年に卒業。 卒業後は神戸大学文学部教授に就いた。1973年、学位論文『出土資料を中心とする殷周史の研究』を京都大学に提出して文学博士号を取得。関西外国語大学教授・同国際文化研究所所長を務めた。定年退職後に同大学名誉教授。2016年4月3日に死去。
稲田 浩二(いなだ こうじ、1925年6月7日 - 2008… 稲田 浩二(いなだ こうじ、1925年6月7日 - 2008年4月3日)は、日本の国文学・民俗学者、京都女子大学名誉教授。 岡山県出身。広島文理科大学文学部卒業。親和女子大学助教授、京都女子大学助教授、教授、1991年定年、名誉教授、梅花女子大学教授。昔話の調査、採集に携わり40数年、6万話にのぼる話を収集、『日本昔話通観』全31巻としてまとめられた。妻は絵本作家の稲田和子。 2008年4月3日、肺炎のため死去。
増井 悟朗(ますい ごろう、1925年6月7日 - 2015… 増井 悟朗(ますい ごろう、1925年6月7日 - 2015年8月7日)は、大阪市浪速区生まれの宗教家。浄土真宗華光会前代表、浄土真宗本願寺派布教使。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大滝 秀治(おおたき ひでじ、1925年〈大正14年〉6月6… 大滝 秀治(おおたき ひでじ、1925年〈大正14年〉6月6日 - 2012年〈平成24年〉10月2日)は、日本の俳優・ナレーター・実業家。昭和時代中期から平成時代中期にかけて活躍した。位階は正四位。勲等は旭日重光章。文化功労者。 株式会社劇団民藝代表取締役などを歴任した。 本名同じ。身長167cm、体重63kg[要出典]、血液型O型。母親が里帰りしたため出生地は新潟県現・上越市であるが、生まれてすぐ戻ったため出身地は東京・本郷。2011年(平成23年)に文化功労者として顕彰された。名優の一人として舞台・テレビドラマ・映画・テレビコマーシャルと60年以上にわたり幅広く活躍。劇団民藝に所属し、宇野重吉没後には奈良岡朋子と共に代表を担っていた。
及川 潤三(おいかわ じゅんぞう、1925年6月6日 - 2… 及川 潤三(おいかわ じゅんぞう、1925年6月6日 - 2011年6月1日 )は、日本の経営者。東北銀行頭取を務めた。 岩手県出身。1950年に東京大学法学部政治学科を卒業し、同年に大蔵省に入省。1978年7月に東北銀行常任顧問に就任し、同年12月に常務、1980年6月に専務を経て、1982年9月に頭取に就任。1992年6月に会長に就任し、1996年6月から相談役を務めた。 2000年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2011年6月1日急性硬膜下血腫のために死去。84歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
佐藤 進(さとう すすむ、1925年6月6日 - 2009年… 佐藤 進(さとう すすむ、1925年6月6日 - 2009年4月9日)は、日本の法学者。金沢大学教授を経て、日本女子大学・立正大学・新潟青陵大学名誉教授。専門は社会保障法、労働法、高齢総合社会政策。 新潟県生まれ。東京帝国大学法学部卒、同大学院を経て、1957年金沢大学法文学部助教授、1962年東京大学より法学博士の学位を取得、1967年教授、1971年日本女子大学文学部教授(社会福祉学科)、1992年立正大学法学部教授、1996年新潟青陵女子短期大学教授、2000年新潟青陵大学看護福祉心理学部教授・学長、2001年2月新潟県高齢者保健医療福祉計画協議会座長、2004年4月新潟青陵大学学長、2005年3月退任。
宮川 三郎(みやがわ さぶろう、1925年6月5日 - 19… 宮川 三郎(みやがわ さぶろう、1925年6月5日 - 1945年6月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。 1925年に、新潟県北魚沼郡城川村(現・小千谷市)で農業を営む宮川松太郎・マツの8人の子供の末っ子として誕生。非常に読書好きで算術と理科が得意だったことから、教育熱心な父に薦められて新潟県立工業学校(旧制 現・新潟県立長岡工業高等学校)へ進学すると、卒業するまで首席だった。高校時代は、クラスの学級長を松崎義勝と競い合うほどで、運動神経抜群・性格温厚・成績優秀と三拍子揃った美男子の三郎は、一躍村の人気者になった。 1941年に新潟県立工業学校を卒業すると、第三設計課に在籍中で高校の先輩だった大野敬三の誘いで立川飛行機へ入社する。
岩波 一寛(いわなみ かずひろ、1925年6月5日 - 没年… 岩波 一寛(いわなみ かずひろ、1925年6月5日 - 没年不詳)は、日本の経済学者。 長野県岡谷市出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、陸軍士官学校、中央大学経済学部卒業。1950年立正大学助手、のち助教授を経て、1963年中央大学経済学部助教授、1966年教授。同大学多摩キャンパス移転時に経済学部長を務めていた。法政大学や武蔵大学の講師を兼任した。定年退官後、同大学名誉教授。門下生に緒方俊雄中央大学名誉教授がいる。
古川 薫(ふるかわ かおる、1925年6月5日 - 2018… 古川 薫(ふるかわ かおる、1925年6月5日 - 2018年5月5日)は、日本の小説家。妻は歌人の森重香代子。 山口県下関市出身、18歳で航空機製造会社に入社し、1945年に召集され、兵庫県・丹波篠山の航空通信連隊で教育期間中、終戦を迎えた。 復員し宇部市立高等学校(現:山口県立宇部中央高等学校)定時制に編入学、1953年に山口大学教育学部を卒業。中学教師を経て山口新聞社に入り、記者や編集局長を務める。1970年に退社し作家専業となった。 郷土作家として、作品の大多数は、戦国期の毛利家、幕末期の長州藩、明治維新後の山口県(周防国・長門国)の関連人物を取り挙げた歴史小説・随筆であった。 古川は、芥川賞受賞作家の火野葦平の講演を2度聴いている。
湯浅 泰雄(ゆあさ やすお、1925年(大正14年)6月5日… 湯浅 泰雄(ゆあさ やすお、1925年(大正14年)6月5日 - 2005年(平成17年)11月9日)は、日本の哲学者。桜美林大学名誉教授。 福岡県出身。東京大学文学部倫理学科、同大学経済学部卒、同大学院修士課程修了。1973年「近代日本の哲学と実存思想」で東大文学博士。山梨大学助教授、教授、1975年大阪大学に新設された日本学の教授、1981年筑波大学教授、1989年に定年退官し桜美林大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
坂井 豊司(さかい とよじ、1925年6月3日 - 2016… 坂井 豊司(さかい とよじ、1925年6月3日 - 2016年4月)は日本の野球選手。ポジションは内野手。
熊谷 文雄(くまがい ふみお、1925年6月3日 - 198… 熊谷 文雄(くまがい ふみお、1925年6月3日 - 1984年3月)は日本の大蔵官僚。印刷局長を務めた。 大阪府出身。第1回国家公務員六級職試験を合格。東京大学法学部政治学科卒業。1949年 大蔵省入省。主計局配属。1953年10月 粉河税務署長。1965年7月 福岡国税局総務部長。同年10月23日 大臣官房文書課広報室長。1966年12月5日 大臣官房専門調査官兼大臣官房文書課広報室長。1967年8月 経済企画庁長官官房調査官。同年8月 経済企画庁調整局財政金融課長。1969年8月 大阪国税局総務部長。1971年6月 証券局証券業務課長。1972年5月1日 証券局業務課長。同年6月 国税庁長官官房総務課長。
黒柳 恒男(くろやなぎ つねお、1925年6月2日 - 20… 黒柳 恒男(くろやなぎ つねお、1925年6月2日 - 2014年8月30日)は、日本のペルシャ語学者・ペルシャ文学者、翻訳家。日本国におけるペルシア語・ペルシア文学研究の礎を築き、普及に努めた。アラビア語・ペルシア語・ウルドゥー語の辞書を編纂した。 東京外事専門学校卒。東京外国語大学助教授、教授、1989年定年退官、名誉教授、大東文化大学教授。
根岸 謙之助(ねぎし けんのすけ、1925年〈大正14年〉6… 根岸 謙之助(ねぎし けんのすけ、1925年〈大正14年〉6月1日 - 1995年〈平成7年〉3月15日)は、日本の国文学者・民俗学者。 群馬県利根郡糸之瀬村(現・昭和村)出身。旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)を経て、國學院大學文学部を卒業。折口信夫に師事する。 群馬県立前橋工業高等学校教諭、群馬県立高崎工業高等学校教諭、群馬県立前橋高等学校教諭をへて、群馬大学医療技術短期大学部教授。 1991年に定年退官、名誉教授、上武大学教授。 1991年に『医療民俗論』で柳田賞受賞。1992年に「医療民俗学論」で國學院大學民俗学博士となる。群馬県史編纂調査委員、群馬県文学賞選考委員も務めた。日本民俗学会会員。
各務 章(かがみ あきら、1925年6月1日 - 2012年… 各務 章(かがみ あきら、1925年6月1日 - 2012年2月7日)は、日本の詩人。教育者。 福岡市に生まれる。1943年福岡県中学修猷館を卒業。1944年召集されて満洲へ出征するが、翌年肺結核のため帰国。1945年旧制福岡高等学校を経て、1948年九州大学法文学部法科を卒業。 胸部外科手術を受けた後、1952年福岡県立鞍手高等学校教諭となり、福岡県立教育研究所(福岡県教育センターの前身)研究員、福岡県立修猷館高等学校教頭、福岡県立福岡高等学校教頭、福岡県教育庁主任指導主事、福岡県立筑紫中央高等学校校長、福岡県立筑紫丘高等学校校長、九州女子高等学校(現・福岡大学附属若葉高等学校)校長を歴任。 学生時代の1944年に、湯川達典、田中小実昌らと回覧誌『止里加比(とりかひ)』を出版。
寺岡雅之(てらおか まさゆき、1925年6月1日 - 199… 寺岡雅之(てらおか まさゆき、1925年6月1日 - 1990年11月24日)は日本の大蔵官僚。南九州財務局長、中国財務局長などを務めた。 大分県出身。旧制第一高等学校、東京大学法学部法律学科卒業。東大法学部在学中の1950年1月に国家公務員六級職試験を合格。1950年4月 大蔵省に入省。主計局総務課に配属。1969年8月 関東財務局理財部長。1970年7月 国税庁徴収部徴収課長。1971年6月 国税庁徴収部管理課長。1972年6月27日 南九州財務局長。1973年1月16日 中国財務局長。1974年7月10日 大臣官房付。同年7月 退官。同年10月 日本定航保全専務取締役。1981年6月3日 中小企業退職金共済事業団理事(〜1985年7月12日)。
桑原 亮三(くわはら りょうぞう、1925年6月 - )は、… 桑原 亮三(くわはら りょうぞう、1925年6月 - )は、日本の仏教学者、僧侶。米国ライス大学研究員、太平寺住職。 駒澤大学仏教学部卒業。大本山永平寺安居。1956年京都大学大学院修士課程宗教学専攻修了(題目「宗教的真理の問題について-キルケゴールを中心として-」)。同博士課程単位修得退学。 京都大学に新制の大学院ができた年に出願。西谷啓治教授のもとで10年ほど哲学を学ぶ。米国ライス大学研究員を経て、太平寺住職。大阪国際宗教同志会会員。 主な著作に「現代に生きる世界の宗教」A・Jバーン(Archie J Bham)著(翻訳)、「道元とキエルケゴール」など。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
山内 登美雄(やまのうち とみお、1925年6月 - 200… 山内 登美雄(やまのうち とみお、1925年6月 - 2000年6月2日)は、日本の演劇学者。 石川県金沢市生まれ。東京大学文学部哲学科卒。明治大学文学部教授を務めた。1994年定年退任。2000年6月2日、肺炎のため死去。 演劇理論、ギリシア悲劇などが専門。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
水井 康雄(みずい やすお、1925年(大正14年)5月30… 水井 康雄(みずい やすお、1925年(大正14年)5月30日 - 2008年(平成20年)9月3日)は、パリを拠点とし国際的に活躍した、日本の石の彫刻家。主に、抽象的な形を志向し、公共の場に設置される大規模な作品を得意とした。 京都市に生まれる。父親は、当時外車を所有し運転するハイカラな人物であった。幼少の時から絵が好きでデッサン等に秀でていたが、当時時代の最先端であった機械工業に日本の未来を夢みて1944年(昭和19年)神戸工業専門学校(現・神戸大学工学部)機械学科に入学する。第二次世界大戦中は、川崎車両(現川崎重工業車両カンパニー)に学徒動員され鋳造を學ぶ。戦後を明石の川崎航空動員中に迎えた。
山崎 富治(やまざき とみじ、1925年5月30日 - 20… 山崎 富治(やまざき とみじ、1925年5月30日 - 2014年4月16日)は日本の実業家。山種証券(現SMBCフレンド証券)社長、会長、日本青年会議所会頭、山種美術館館長を歴任。「報告」「連絡」「相談」を重視する「ほうれんそう(報・連・相)経営」を提唱したことでも知られる。
鄭 輝東(チョン・フィドン、朝鮮語: 정휘동、1925年5月… 鄭 輝東(チョン・フィドン、朝鮮語: 정휘동、1925年5月30日 - 2012年7月5日)は、大韓民国の政治家、実業家。第10・11・12代韓国国会議員。本貫は東萊鄭氏(朝鮮語版)。 日本統治時代の慶尚北道尚州郡に生まれた。尚州国民学校(現・尚州初等学校)、大阪高等商業学校卒。一燈園農事研究所専門課程、成均館大学校経営行政大学院、嶺南大学校経営大学院修了。在日本居留民団京都本部副団長、京都韓国人商工会副会長、在日韓国人体育会副会長を歴任した。 第10代総選挙に無所属で立候補して初当選した。国会議員3期務めたほか、大韓消防協会顧問、社団法人尚州セマウル教育院設立者、社団法人尚州文化院長、学校法人尚州南山学院理事長、尚州薬酒株式会社代表理事、韓日合資株式会社パシフィックホテル代表理事、民主正義党中央委員会農林畜産分科委員長、前現職国会議員民友会会長を務めた。
中村 賢二郎(なかむら けんじろう、1925年5月30日 -… 中村 賢二郎(なかむら けんじろう、1925年5月30日 - )は、日本の西洋史学者、京都大学人文科学研究所名誉教授。宗教改革を専門とした。 1925年、兵庫県神戸市で生まれた。京都帝国大学文学部史学科で学び、1948年に卒業。 1950年、神戸大学文理学部助手に採用された。1958年、立命館大学文学部助教授に就いた。1965年に京都大学人文科学研究所助教授に転じ、1977年に教授昇格。1990年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった。 CiNii Books 著者 - 中村賢二郎
岡田 利春(おかだ としはる、1925年5月28日 - 20… 岡田 利春(おかだ としはる、1925年5月28日 - 2014年10月11日)は、日本の政治家。日本社会党所属。元社会党副委員長。 北海道音別町(現釧路市)出身。雄別の尺別炭鉱に生まれた。釧路工業学校(現北海道釧路工業高等学校)採鉱科卒業後、1942年に太平洋炭鉱に入社。同社労働組合委員長、道炭労委員長を務め、1960年の第29回衆議院議員総選挙に旧北海道5区から立候補し当選。1993年の第40回衆議院議員総選挙で落選し政界引退するまでに当選9回。土井たか子が委員長に就任した86年から90年まで副委員長を務めた。1995年、勲一等瑞宝章受章。 本来の支持基盤であった炭鉱産業が衰退した後も、漁業関連票に食い込むことで強力な地盤を有していた。
谷口 謙(たにぐち けん、1925年5月28日 - 2022… 谷口 謙(たにぐち けん、1925年5月28日 - 2022年10月3日)は、京都府中郡口大野村(現・京丹後市大宮町口大野)出身の医師・詩人。京丹後市名誉市民。 1925年(大正14年)5月28日、京都府中郡口大野村(現・京丹後市大宮町口大野)に生まれた。父は開業医の谷口海山、母はしん。父方の曽祖父は峰山藩士の儒医であり、母方の曽祖父は姫路藩勘定奉行、母方の祖父は姫路町収入役だった。夭逝した兄、2人の姉がいた。2歳だった1927年(昭和2年)3月7日に北丹後地震を経験したが、幼少だったため地震の記憶はないという。 1932年4月(昭和7年)に口大野尋常高等小学校に入学し、1938年(昭和13年)3月に卒業した。
平田 嘉三(ひらた かぞう、1925年5月28日 - 200… 平田 嘉三(ひらた かぞう、1925年5月28日 - 2008年12月23日)は、日本の西洋史学者・教育学者。広島大学名誉教授。歴史教育学を提唱した。 広島県尾道市生まれ。1949年広島文理科大学西洋史学科卒。1953年京都大学大学院博士課程満期退学、広島大学助手、広島女学院大学講師、文部省初等中等教育局教科書調査官。1971年広島大学教育学部助教授、教授。広島大学附属小学校校長。1986-89年全国社会科教育学会会長。89年広島大を定年退官、名誉教授、広島工業大学教授、広島女学院理事、広島女子商短期大学長、同理事長。93年広島県教育委員会委員長。 2004年4月瑞宝中綬章受章。
高田 淳(たかた あつし、1925年5月28日 - 2010… 高田 淳(たかた あつし、1925年5月28日 - 2010年4月9日)は、日本の中国文学者・中国思想学者。学習院大学名誉教授。 1925年、朝鮮京城に生まれる。父は大分県出身で中国思想学者の高田眞治、母方の祖父は英文学者の皆川正禧。1945年、第一高等学校休学中に入営、満州で敗戦を迎え、1947年、帰国。1952年、東京大学中国文学科を卒業し、同大大学院へ進学するも中退。1953年、大倉山学院給費生。 1955年、学習院高等科国語講師。1957年、学習院高等科国語教諭。1964年より東京女子大学専任講師、助教授。1972年より東京大学文学部中国文学科助教授、1974年、東京大学文学部中国文学科を退職し学習院大学文学部史学科教授となり、1996年に定年退職。
牧野 邦夫(まきの くにお、1925年〈大正14年〉5月27… 牧野 邦夫(まきの くにお、1925年〈大正14年〉5月27日 - 1986年〈昭和61年〉10月1日)は、東京都渋谷区幡ヶ谷生まれの画家。 牧野邦夫は、大正14年に渋谷区幡ヶ谷で生まれ、幼少期を小田原で過ごす。父母を早く亡くし、母代わりの姉たちに育てられる。従兄の幻想小説家牧野信一から、「芸術家にだけはなるな、君は一高、東大へ行け」と諭されていたが、画家への想いは止まらずゴッホやレンブラントに魅かれ17歳で画家を志す。川端画学校をへて東京美術学校油画科に学ぶ。伊原宇三郎、安井曾太郎に師事し画家の道を進む。1945年学徒出陣し九州・都城で終戦。戦後の1948年、東京美術学校を卒業。美術団体等に所属せずにひたすら自己の信ずる絵画世界を追求する創作活動を貫き、写実的高密度の作品で知られるようになる。
渋谷 武(しぶや たけし、1925年(大正14年)5月27日… 渋谷 武(しぶや たけし、1925年(大正14年)5月27日 - 2016年(平成28年)11月26日)は、日本の政治学者。新潟大学名誉教授、新潟薬科大学名誉教授、中華人民共和国黒龍江省社会科学院名誉教授、北東アジア学会初代会長・名誉会員。 長野県長野市に出生、新潟県上越市に転居、新潟市(現 新潟市中央区)に転居。 1943年(昭和18年)3月に新潟中学校を卒業、4月に新潟高等学校に入学、1944年(昭和19年)8月に三重海軍航空隊に入隊、1945年(昭和20年)3月に新潟高等学校を卒業、1948年(昭和23年)3月に東京大学法学部政治学科を卒業。 1948年(昭和23年)4月に新潟第一師範学校講師に就任、1951年(昭和26年)3月に新潟大学人文学部助手に就任、1952年(昭和27年)1月に新潟大学人文学部講師に就任、1959年(昭和34年)5月に新潟大学人文学部助教授に就任、1964年(昭和39年)4月に新潟大学教養部助教授に就任、1965年(昭和40年)4月に新潟大学教養部教授に就任、1969年(昭和44年)7月に新潟大学教養部長事務取扱に就任、8月に新潟大学教養部長に就任、1975年(昭和50年)4月から新潟大学大学院法学研究科を担当、1982年(昭和57年)4月に新潟大学法学部教授に就任、1984年(昭和59年)4月に新潟大学法学部長・大学院法学研究科長に就任、1991年(平成3年)3月に新潟大学を定年退官、新潟大学名誉教授の称号を受称、4月に新潟薬科大学教授に就任、1994年(平成6年)3月に新潟薬科大学を退職、新潟薬科大学名誉教授の称号を受称。
萩原 哲晶(はぎわら ひろあき、本名:南沢 哲晶、1925年… 萩原 哲晶(はぎわら ひろあき、本名:南沢 哲晶、1925年(大正14年)5月26日 - 1984年(昭和59年)1月13日)は、日本の作曲家。 北海道岩見沢市で病院長の家庭に生まれる。弟の萩原秀樹はジャズピアニスト。旧制北海中学を経て、1942年(昭和17年)、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)器楽科に入学(クラリネット専攻)。同級に岩井直溥や早川博二がいた。戦時中は團伊玖磨、芥川也寸志、斎藤高順、梶原完たちと陸軍戸山学校軍楽隊に入隊。素人の養成機関の軍楽隊に音楽学校の生徒が入る背景には、乗杉嘉壽から山口常光(戸山軍楽隊)、山口から阿南惟幾へ話の持ち込みがあり、全く便宜を計る必要がない音楽学校の生徒である彼等は特例中の特例で、いわゆる徴兵から逃げた。
竹本 吉夫(たけもと よしお、1925年〈大正14年〉5月2… 竹本 吉夫(たけもと よしお、1925年〈大正14年〉5月26日 - 2002年〈平成14年〉11月2日)は、日本の内科学者、内科医。医学博士。日本赤十字秋田短期大学初代学長。秋田赤十字病院名誉院長。元日本病院会副会長・顧問。 北海道稚内市で生まれ、新潟県新潟市で育つ。 1943年(昭和18年)3月に新潟中学校を卒業、1945年(昭和20年)3月に新潟高等学校を1年繰り上げ卒業、1949年(昭和24年)3月に新潟医科大学を卒業。 1950年(昭和25年)6月から新潟県長岡市旭町1丁目の坂井医院に勤務、新潟市流作場2439番地(現 新潟市中央区万代2丁目1番1号)の新潟トヨタ診療所に勤務。 1952年(昭和27年)10月に新潟大学医学部第一内科に入局、1958年(昭和33年)3月に新潟大学から医学博士の学位を取得、7月に医局長に就任、講師を経て、1965年(昭和40年)10月に助教授に就任。
明間 輝行(あけま てるゆき、1925年(大正14年)5月2… 明間 輝行(あけま てるゆき、1925年(大正14年)5月26日 - 2005年(平成17年)9月3日)は、日本の実業家。東北電力取締役社長や、同社取締役会長、東北経済連合会会長を務めた。 宮城県仙台市出身。1951年東北大学法学部卒業。津本陽は同期生。 東北電力取締役社長や、同社取締役会長、日本原子力発電取締役を務めた。1993年東北経済連合会会長。 1995年仙台フィルハーモニー管弦楽団理事長。1997年、勲一等瑞宝章受章。2001年東北電力相談役。2005年肺炎のため仙台市内の病院で死去。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
藤芳 誠一(ふじよし せいいち、1925年5月26日 - 2… 藤芳 誠一(ふじよし せいいち、1925年5月26日 - 2012年2月19日)は、日本の経営学者。経営学博士(論文博士・1971年)。明治大学名誉教授。 熊本県出身。1949年明治大学商学部卒、1971年「経営管理の体系的研究」で経営学博士の学位を取得。 1949年明大商学部助手、1953年経営学部専任講師、1956年助教授、1962年教授となり、1971年 - 1979年経営学部長を務める。1966年千葉経済短期大学教授を兼任した。1995年明大を定年退任、名誉教授、東亜大学教授・副学長となる。 子に経営学者・高千穂大学教授の藤芳明人(1957年 - )がいる。
山川 久明(やまかわ ひさあき、1925年5月25日 - 2… 山川 久明(やまかわ ひさあき、1925年5月25日 - 2005年1月7日)は、日本の実業家で、学校経営者だった人物。元学校法人旭川大学理事長。新潟県出身。 この他、公職として長らく旭川建設業協会監事に就任。また、旭川の文化人団体会長も務めた。 建設人では異色の文筆好きで、文化人であった為、長らく学校法人旭川大学理事長を務め上げた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
滝沢 幸助(たきざわ こうすけ、1925年(大正14年)5月… 滝沢 幸助(たきざわ こうすけ、1925年(大正14年)5月24日 - )は、日本の政治家。元衆議院議員(2期)。 現在の福島県大沼郡金山町出身。1945年(昭和20年)横田青年学校を卒業。福島県立川口高等学校中退後、地元で農業を営む傍ら、民社党に入党し政治活動に携わる。党内では福島県連委員長や本部統制委員長などの要職を歴任した。また、金山町教育委員会委員長、福島県議会議員(4期)なども務めた。 1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙から1993年(平成5年)の第40回総選挙まで、7回連続で旧福島2区から民社党の公認を得て出馬。うち1983年(昭和58年)の第37回総選挙と1986年(昭和61年)の第38回総選挙で当選、衆議院議員を2期6年務めた。
上野 一郎(うえの いちろう、1925年5月24日 - 20… 上野 一郎(うえの いちろう、1925年5月24日 - 2015年12月27日)は、日本の教育者・経営学者で学校法人産業能率大学理事長および産能大学・産能短期大学の学長、学校法人産業能率大学最高顧問を務めた。「能率の父」と呼ばれる上野陽一の長男。また、日本における最初期の写真家で、「日本写真の開祖」として知られる上野彦馬は大伯父に当たる(一郎の祖父・幸馬の実兄が彦馬)。
小川 隆司(おがわ たかし、1925年5月24日 - 200… 小川 隆司(おがわ たかし、1925年5月24日 - 2007年7月10日)は、日本の実業家。トンボ鉛筆元代表取締役社長、元会長、取締役名誉会長、日本鉛筆工業協同組合元理事長。通産大臣表彰(現・経済産業大臣表彰)受賞者。 1925年、トンボ鉛筆の創業者小川春之助と妻・小川とわの三男として生まれる。 1948年3月 立教大学経済学部経営学科(現・経営学部)卒業。同年4月、トンボ鉛筆製作所(現・株式会社トンボ鉛筆)入社。1951年、トンボ鉛筆製作所取締役に就任。同社常務、専務を歴任後、1963年、同社副社長に就任。 1964年、株式会社トンボ鉛筆製作所から株式会社トンボ鉛筆へ社名変更される。 1980年には、工業標準化功労者として通産大臣表彰(現・経済産業大臣表彰)を受賞。
丸山 二三雄(まるやま ふみお、1925年5月23日 -20… 丸山 二三雄(まるやま ふみお、1925年5月23日 -2006年)は、大阪府出身の元プロ野球選手、社会人野球選手。ポジションは投手。 京阪商業から1943年に南海軍へ入団。1945年に召集され、復帰した1946年に25勝を挙げ、1947年も10勝を挙げている。1949年に中日ドラゴンズへ移籍。1951年は大洋ホエールズに移籍し、この年に引退した。カーブ、シュートボールを武器とするが、制球難の為、崩れやすい特徴があった。 プロを引退した翌年の1952年から、尼崎中央商店街にあったキャバレー春美の野球部にて社会人野球で現役を続行、1952年の第2回日本産業対抗野球大会(サンベツ)で春美が「百貨店・商業部門」代表として出場した。
酒井 修(さかい おさむ、1925年5月23日 - 2021… 酒井 修(さかい おさむ、1925年5月23日 - 2021年2月18日)は、日本の哲学者、京都大学名誉教授。西洋近世・現代哲学および哲学史、ヘーゲルをはじめとするドイツ観念論を専攻。京都ヘーゲル読書会の初代世話人、名誉顧問。 1950年京都大学文学部卒、同大学院文学研究科特別研究生、1955年助手、1958年国際基督教大学専任講師(哲学)、1961年助教授、1966年準教授、1968年京都大学教養部助教授(哲学・論理学)、1972年教授、1975年文学部教授、1989年定年退官。1990年名誉教授、1991年川崎医療福祉大学教授、1996年退職、立命館大学文学部非常勤講師。2021年2月18日、心不全のため死去。
古田 東朔(ふるた とうさく、1925年5月23日 - 20… 古田 東朔(ふるた とうさく、1925年5月23日 - 2013年8月1日)は、日本の国語学者。東京大学教養学部教授を経て、東京大学名誉教授。放送大学・鶴見大学教授も務めた。 1925年、愛媛県生まれ。東京大学文学部国文学科で学び、1950年に卒業した。 1954年、福岡女子大学助教授に就いた。1963年からは星美学園短期大学教授となった。1964年、東京大学教養学部助教授に転じた。1971年に教授昇格。1986年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は同年から放送大学教授。1991年から1997年まで鶴見大学文学部教授も務めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
山本 丈晴(やまもと たけはる、1925年5月22日 - 2… 山本 丈晴(やまもと たけはる、1925年5月22日 - 2011年9月7日)は、日本の作曲家、ギタリスト。 山梨県南都留郡河口村(後の河口湖町、現在の富士河口湖町)出身。出生名は古屋 武治(1925年 - 1945年)。作曲家の古賀政男に師事し、ギター演奏により古賀メロディの普及に貢献。作曲作品は、美空ひばりに代表される流行歌・歌謡曲・演歌から映画・テレビ・舞台音楽、社歌・校歌と数多く幅広い。第48回日本レコード大賞功労賞受賞。 音楽活動を始めた当初は古屋 雅章(1946年 - 1948年)の筆名を名乗っていたが、その後に古賀の正式な養子となった際、本名の「武治」を「丈晴」にして古賀 丈晴(1948年 - 1958年)に改名。
山田 宗睦(やまだ むねむつ、1925年5月21日 - 20… 山田 宗睦(やまだ むねむつ、1925年5月21日 - 2024年6月17日)は、日本の評論家・哲学者。 1925年、山口県下関市生まれ。幼少期を下関、稚内、金沢、函館で過ごした。水戸高等学校で学び、1946年に京都帝国大学文学部哲学科に入学した。 卒業後は北海道第二師範学校助教授となった。東京大学出版会編集者などを務め、1959年より評論活動に入る。1962年「思想の科学」編集長。1965年には『危険な思想家』を出版。桃山学院大学教授を経て、1977年から1995年まで関東学院大学教授を務めた。1977年には作家の中山千夏らと革新自由連合を結成した。 1989年頃には神奈川県藤沢市辻堂に住んだ。
佐々木 本道(ささき もとみち、1925年5月21日 - 1… 佐々木 本道(ささき もとみち、1925年5月21日 - 1995年6月7日 )は、日本の細胞遺伝学者、専門は動物染色体。北海道大学名誉教授。 東京生まれ。1954年、北海道大学理学部生物学科卒業。1959年、北海道大学理学博士。「吉田肉腫における四亜系の染色体構成及び亜系分岐の発生に関する細胞学的ならびに移植遺伝学的研究」。 1962年、米国カリフォルニア大学ロスアンジェルス校医学部放射線科に留学。1969年、北海道大学理学部附属動物染色体研究施設教授就任・施設長兼任。1990年、佐々木研究所所長就任。北海道大学名誉教授。勲三等瑞宝章授与。日本人類遺伝学会(理事)、財団法人染色体学会(理事)、日本癌学会(評議員)、日本遺伝学会(評議員)などで活動。
坂本 慶一(さかもと けいいち、1925年5月20日 -20… 坂本 慶一(さかもと けいいち、1925年5月20日 -2017年3月24日)は日本の経済学者。京都大学名誉教授。農業経済学を専門とし、農政問題について活発に発言した。またフランスの初期社会主義研究でも知られる。農学博士(京都大学、1965年)。青森県生まれ。
朽木 寒三(くちき かんぞう、1925年5月20日 - 20… 朽木 寒三(くちき かんぞう、1925年5月20日 - 2019年5月22日)は、日本の作家。 北海道生まれ。本名・水口安典。東京農林専門学校(現:東京農工大学)卒。在学中に召集され、中国戦線に従軍。「馬」を扱う兵士の苦しみを体験したことが、馬賊物の傑作「馬賊戦記」を生む下地になった。
堀田 一郎(ほった いちろう、1925年〈大正14年〉5月2… 堀田 一郎(ほった いちろう、1925年〈大正14年〉5月20日 - 2009年〈平成21年〉1月2日)は、日本の新聞記者、実業家。愛知県名古屋市昭和区出身。 1979年(昭和54年)2月から1985年(昭和60年)6月まで中日ドラゴンズの3代目球団社長を務めた。また中日新聞社副社長、中部日本ビルディング取締役相談役も務めた。 1925年(大正14年)5月20日生まれ。本籍地は愛知県名古屋市昭和区天神町。 1949年(昭和24年)3月に東京商科大学(現:一橋大学)を卒業、同年4月に中部日本新聞社に入社。卒業後は東京で就職したかったが、父親から「名古屋へ帰ってこい」と言われたため、中部日本新聞社へ入社したものの、入社から約2年後には東京支社へ転勤させられており、1977年時点では東京生活の方が長くなっていたという。
大黒 繁男(おおぐろ しげお、1925年(大正14年)5月2… 大黒 繁男(おおぐろ しげお、1925年(大正14年)5月20日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本海軍の戦闘機パイロット。初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」に五番機として参加し、死後「敷島隊五軍神」の1人として顕彰された。このときの敷島隊の攻撃でアメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈した。 小学校の頃は何度も級長を務め、成績は一番であった。だが彼は、学業成績のことを両親には絶対言わず、通信簿も隠していた。貧しくて兄弟姉妹も多い家庭のため、進学は経済的に厳しく、両親を悩ませたくなかったからだという。教師の説得と父親の配慮で1年だけ新居浜工業学校に通い、住友機械工業に就職した。
菊池 福治郎(きくち ふくじろう、1925年5月18日 - … 菊池 福治郎(きくち ふくじろう、1925年5月18日 - 2004年2月5日)は、日本の政治家。元衆議院議員(7期)。 宮城県気仙沼市生まれ。1950年(昭和25年)に早稲田大学政経学部政治学科を卒業。その後、国会議員・保利茂の秘書を務めた。 1963年(昭和38年)、衆院選旧宮城2区に立候補するも、落選。その後も負けても負けても立候補を繰り返し、4回目の落選後は「登米郡の票の伸びが芳しくなかった」と、登米郡の街頭に1年365日毎日立って手を振り、人呼んで「人間地蔵」と評されるまでになった。 挑戦5回目の1976年(昭和51年)、新自由クラブの公認を得て初当選。その後、離党した同党幹事長・西岡武夫の後を追って離党、自由民主党に移籍し鈴木派に所属した。
石光 亨(いしみつ とおる、1925年5月17日 - 201… 石光 亨(いしみつ とおる、1925年5月17日 - 2013年6月15日)は、日本の地理学者(経済地理学)。神戸大学名誉教授。 1925年にメキシコのベラクルス州にて出生。1943年に麻布中学校、1945年に都立高等学校理科三類を卒業し、東京大学へ進学する。1949年に東京大学理学部地理学科を経て大学院へ進学し、1952年に後期課程を修了した。1952年にフルブライト交換留学生として渡米。1953年にミシガン大学天然資源学部大学院を修了する。同年にイェール大学天然資源学部招聘学生となり、1954年まで大学院で学んだ。 イェール大学大学院退学後に総理府資源調査会事務局へ就職し、1956年から科学技術庁資源局資源統計課で働く。
河渕 務(かわぶち つとむ、1925年5月16日 - 201… 河渕 務(かわぶち つとむ、1925年5月16日 - 2014年1月19日)は、日本のアイスホッケー選手、指導者。 日本女子アイスホッケーの父と呼ばれた。 北海道苫小牧市出身。1938年に旧制苫小牧中学校(現北海道苫小牧東高等学校)に入学してからアイスホッケーを始めた。立教大学に進学した後、1945年に中退し応召されて樺太に行った。復員した後、1947年に岩倉組に入社、アイスホッケー部の選手として、1954年の第7回国体、1957年の全日本アイスホッケー選手権で優勝、1959年に監督に就任した。 アイスホッケー日本代表の監督を務め、1960年の世界選手権Bプールで優勝、1964年インスブルックオリンピックの監督も務めた。
中山 沃(なかやま そそぐ、旧姓:蒲原、法名:沃観、1925… 中山 沃(なかやま そそぐ、旧姓:蒲原、法名:沃観、1925年〈大正14年〉5月16日 - 2012年〈平成24年〉5月24日)は、日本の生理学者、医史学者、医師、浄土真宗本願寺派僧侶。医学博士。岡山大学名誉教授。名塩御坊教行寺第15世住職。 新潟県新潟市西堀通10番町(現 新潟市中央区西堀通10番町)の浄土真宗本願寺派・蒲原浄光寺の第25世住職・蒲原霊英の次男として出生。 1943年(昭和18年)3月に新潟中学校を卒業、1945年(昭和20年)3月に新潟高等学校を1年繰り上げ卒業、1949年(昭和24年)3月に新潟医科大学を卒業。 1949年(昭和24年)3月に米子医科大学生理学教室(担任:福原武教授)助手に就任、1951年(昭和26年)4月に鳥取大学医学部生理学教室(担任:福原武教授)助手に就任、1953年(昭和28年)6月に鳥取大学医学部生理学教室生理学第一講座(担任:福原武教授)講師に就任、1954年(昭和29年)7月に医学博士号を取得、11月に鳥取大学医学部生理学教室生理学第二講座(担任:西田勇教授)助教授に就任、1957年(昭和32年)1月に岡山大学医学部生理学教室生理学第二講座(担任:福原武教授)助教授に就任、1962年(昭和37年)11月から1964年(昭和39年)5月まで文部省在外研究員として西ドイツのゲッティンゲン大学生理学教室に留学、1970年(昭和45年)4月に岡山大学医学部生理学教室生理学第二講座第2代教授に就任、1986年(昭和61年)4月に中国吉林省延辺医学院名誉教授(第1号)の称号を受称、1991年(平成3年)3月に岡山大学を定年退官、4月に岡山大学名誉教授の称号を受称。