朝井観波(あさい かんぱ、1897年‐1985年)は、日本画… 朝井観波(あさい かんぱ、1897年‐1985年)は、日本画家。東京都本郷出身。 1897年、漢学者朝井国南の家に生まれる。はじめ川端玉章の川端画学校で、のち日本美術院研究所に学ぶ。1917年(大正6年)の再興第4回院展への最初の出品作が入選し、同作品が美術院の大物後継者、原三渓の目をひく。三渓の援助により、荒井寛方のインド旅行に観波も随行できることとなり、帰国後、インドでの研究成果を活かした制作に専念する。1918年(大正7年)と1920年(大正9年)の院展で入選した出品作はともにインドの伝統的絵画から着想を得て描いたものであった。1922年(大正11年)日本美術院を脱退。その後は荒木十畝に師事し読書会に所属、以後は平福百穂の画風に接近した作風で、帝展の入選を重ねる。
横田 嘉右衛門(よこた かえもん、1897年(明治30年) … 横田 嘉右衛門(よこた かえもん、1897年(明治30年) - 1981年(昭和56年)9月24日)は、日本の薬学者。製薬学(有機製造化学)を専門とした富山薬学専門学校校長、富山大学学長を歴任。学位は、薬学博士(東京帝国大学)、日本薬学会名誉会員。 福島県出身で、生家は薬屋、造り酒屋を営んでいた。会津中学、四高第二部薬学科を経て、1923年(大正12年)に東京帝国大学医学部薬学科を卒業。同年1年志願兵として入営(陸軍三等薬剤官)。1925年(大正14年)、東大医学部助手に任ぜられる。 慶松勝左衛門教授(薬品製造学教室)の助手として勤務し、慶松との共同論文を発表した。横田は制癌剤合成研究の先駆者の一人である。
文 時煥(ムン・シファン、朝鮮語: 문시환、1897年または… 文 時煥(ムン・シファン、朝鮮語: 문시환、1897年または1899年 - 1973年11月11日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、ジャーナリスト、官僚、政治家。東萊郡郡守、制憲韓国国会議員、慶尚南道知事。本貫は南平文氏(朝鮮語版)。 釜山蓮山洞(現・釜山広域市蓮堤区蓮山洞)または福泉洞出身。私立東萊東明学校、東京正則英語学校、モスクワ東方共産大学卒。満洲の安東で中国人貿易商会の書記を務めながら、秘密政治結社の花郎徒に参加した後、1920年に朝鮮共産党に入党した。1922年10月、ベルフネウジンスクで開催された高麗共産党連合大会に出席し、党中央委員会第3書記部(国内)委員となった。
稲塚 権次郎(いなづか ごんじろう、旧字:稻塚 權次郎、18… 稲塚 権次郎(いなづか ごんじろう、旧字:稻塚 權次郎、1897年(明治30年) - 1988年(昭和63年)12月7日)は、日本の農学者。 緑の革命以降、世界に流通することになった小麦品種「ゲインズ」の親品種である「小麦農林10号」(ノーリン・テン)の育成者として知られる。 2015年に稲塚権次郎の生涯を描く映画『NORIN TEN〜稲塚権次郎物語〜』(稲塚秀孝監督)が公開された。
高橋 貞一郎(たかはし ていいちろう、1897年〈明治30年… 高橋 貞一郎(たかはし ていいちろう、1897年〈明治30年〉 - 1955年〈昭和30年〉9月18日)は、長野県岡谷市出身の洋画家。諏訪地域の美術界の草創期を支え、美術教育にも力を注いだ人物である。 長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校。教師に西岡瑞穂がいた)を経て、長野師範学校(現・信州大学教育学部)を卒業。 1922年、岸田劉生に師事し、「夏牛」の雅号が贈られた。教員をしながら油絵を制作。母校である諏訪中学校で絵画部顧問を勤め、同部の教え子に矢崎博信がいる。 1937年、フランスへ留学しポール・セザンヌを研究。一水会会員、日展委嘱作家となった。
久野 源蔵(くの げんぞう、1897年(明治30年) - 1… 久野 源蔵(くの げんぞう、1897年(明治30年) - 1965年(昭和40年)4月16日)は、日本の政治家。愛知県三好村長、三好町長などを歴任。 愛知用水を引く運動に加わり、三好池の造成に尽力した。銅像がみよし市役所前に設置されている。 愛知県西加茂郡三好村(現・みよし市)に庄屋の子として生まれる。1917年3月、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。 1931年、三好村長(第11代)に就任。以後1945年まで就任。1952年、愛知用水土地改良区の理事に就任。1956年、三好村長(第16代)に就任。 1958年4月1日の三好村の町制施行により初代町長に就任。1960年、町長選挙で再選。
小那覇 舞天(おなは ぶーてん、1897年 - 1969年1… 小那覇 舞天(おなは ぶーてん、1897年 - 1969年1月25日)は沖縄県出身の演劇人、歯科医師である。本名・小那覇全孝。 国頭郡今帰仁間切(現在の今帰仁村)生まれ。旧制沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)から旧制日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)を経て嘉手納で歯科医院を開業するかたわら、沖縄の伝統芸能の保存、普及に努め、また大衆演劇人として弟子の照屋林助とともに、占領下の焦土と化した沖縄で大きな人気を博し、沖縄のチャップリンと呼ばれた。
常葉 隆興(ときわ たかおき、1897年 - 1977年9月… 常葉 隆興(ときわ たかおき、1897年 - 1977年9月20日)は、日本の牧師、神学者。日本キリスト改革派教会の創立者の一人。 山形県の新庄藩の士族の常葉作太郎とその妻常葉ノブの長男として生れる。父は上山小学校校長であった。1915年(大正4年)沖縄県立第一中学校を卒業。東京高等工業学校(現東京工業大学)に入学。 1918年(大正7年)に父が死去。叔父の常葉金太郎によってキリスト教信仰に導かれ、同年1918年、日本基督教会の指導者植村正久牧師より富士見町教会にて洗礼を受ける。 1920年(大正9年)、植村正久の創立した東京神学社に入学、1923年(大正12年)に卒業。同級生に熊野義孝。小野村林蔵牧師の司式で結婚する。
西 義雄(にし よしお、1897年 - 1993年3月29日… 西 義雄(にし よしお、1897年 - 1993年3月29日)は、臨済宗の僧、仏教学者。
金 載学(キム・ジェハク、朝鮮語: 김재학/金載學、1897… 金 載学(キム・ジェハク、朝鮮語: 김재학/金載學、1897年 - 1984年11月21日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の実業家、政治家。 号は白坡(ペクパ、백파)。 慶尚南道統営郡(現・統営市)出身。1912年に大阪工業専修学校(現・大阪大学)卒。茂朱郡茂豊鉱山を経営したほか、土木、建築業界で経営者として、また朝鮮土建協会(現・大韓建設協会)理事、朝鮮人土建共済組合長を務め、代表者としても活動した。そのほかに東亜日報統営支局長(1917年)、京畿道貨物自動車輸送協会理事長、ソウル市城東区中央市場協会理事長などを務めた。1948年の初代総選挙では韓国民主党所属で統営甲選挙区から出馬して当選、国会議員在任中は交通分科委員を務めた。
岩田 正俊(いわた まさとし、1897年(明治30年) - … 岩田 正俊(いわた まさとし、1897年(明治30年) - 1997年8月12日)は、日本の昆虫学者、寄生虫学者。近畿学校保健学会会長。 島根県荒島町(現:安来市)に生まれた。1923年に京都帝国大学理学部動物学科に入学、川村多実二に師事し、当時日本で全く研究が進んでいなかったトビケラの幼虫について研究を行った。鴨川や三井寺山内の細流などを調査のフィールドとし、1927年から1930年にかけて動物学雑誌に「日本産毛翅目研究 第1-5報」とした論文を発表、多くの新属新種を和名付きで記載した。また1927年には同大を卒業し、京都帝国大学附属の大津臨湖実験所に移って研究を続けた。 1930年に同研究所を離れて大阪医科大学(現:大阪大学医学部)に移り、吉田貞雄に師事して寄生虫の研究に従事した。
稲垣 仲静(いながき ちゅうせい、本名:稲垣 廣太郎(いなが… 稲垣 仲静(いながき ちゅうせい、本名:稲垣 廣太郎(いながき ひろたろう)、1897年(明治30年) - 1922年(大正11年)6月25日)は、大正時代の日本画家。京都市出身、 日本画家で工芸図案家の稲垣竹埠の長男に生まれ、克明な自然描写の中に官能性や凄みを表現する画家として、将来を期待されながらも早逝した。 弟は型絵染の人間国宝に認定された染織家の稲垣稔次郎。 1912年(明治45年)に京都市立美術工芸学校(美工)に入学し、京都派の基礎とも言える写生技術を身につけた。1917年(大正6年)京都市立絵画専門学校(絵専)に進学し、翌1918年(大正7年)に美工出身者の研究団体「密栗会」に参加した。
伊藤 久秋(いとう ひさあき、1897年 - 1980年10… 伊藤 久秋(いとう ひさあき、1897年 - 1980年10月27日)は、日本の経済学者。青山学院大学経済学部名誉教授。立地論が専門。 長崎県出身。長崎高等商業学校卒、1944年「地域の経済理論」で京都帝国大学より経済学博士の学位を取得。長崎高等商業学校教授、1926年までドイツ・フライブルクに学び、のち青山学院大学経済学部教授。1968年定年、名誉教授、大東文化大学教授。
春日 俊吉(かすが しゅんきち、1897年 - 1975年7… 春日 俊吉(かすが しゅんきち、1897年 - 1975年7月7日)は、大正・昭和期の登山家・ノンフィクション作家。本名は伊藤照雄。 現在の千葉県山武市(旧松尾町)出身。1920年に早稲田大学英文科卒業後に読売新聞社に入り、新聞記者をする傍ら、登山家・作家活動を行う。 学生時代に木曽駒ヶ岳大量遭難事故を知って山岳遭難事故に関心を抱くようになり、遭難事故に関する多くの著作を著した。『中央公論』及び『山と渓谷』両誌に掲載されたものを纏めた『日本山岳遭難史』(三省堂、1933年)は、日本の山岳遭難記の先鞭と言える。しかし、参考文献の欠如や感傷的で興味本意の文章が多いとする批判もある。 主な著作に『日本山岳遭難史』、『登山遭難の実相と対策』、『山岳遭難記』(全6巻)、『山と雪の墓標 松本深志高校生徒落雷遭難の記録』、『山の遭難譜』などがある。
具 中会(ク・ジュンフェ、朝鮮語: 구중회/具中會、1897… 具 中会(ク・ジュンフェ、朝鮮語: 구중회/具中會、1897年または1898年4月21日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の教育者、独立運動家、大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の政治家。号は蓮波(ヨンパ、연파)。天道教徒。 同じく独立運動家の具南会は弟。 慶尚南道昌寧郡霊山面出身。霊山公立普通学校(現・霊山初等学校)、普成中学校卒。己未独立運動での投獄を経て、しばらく周時経の下で韓国語文を学んだ後、早稲田大学高等師範学校英文科(現・早稲田大学教育学部)に留学し1926年に卒業した。大卒後は密陽郡北面私立精進学校設立校長、馬山中学校校長、木浦女子高等学校校長を歴任し、天道教の宣教活動にも従事した。
清水 清(しみず きよし、明治30年(1897年)- 昭和7… 清水 清(しみず きよし、明治30年(1897年)- 昭和7年(1932年)1月27日)は、日本の陸軍軍人。満州事変のハルビン占領前に陸軍砲兵大尉で戦死、特進して少佐。 山口県長府町大字門峠の出身。1921年(大正10年)7月27日、陸軍士官学校33期卒業。1931年8月、砲兵大尉となる。 小倉野戦重砲兵隊所属であった1932年1月27日、ハルビン飛行場を偵察中、搭乗した八八式偵察機570号が反吉林軍からの対空砲火により被弾し、ハルビン郊外に不時着した。操縦士の福井中尉が陸軍特務機関に報告と来援を請いに向かった間、反吉林軍騎兵に包囲され、射殺された。
両角 守一(もろずみ しゅいち、1897年 - 1936年2… 両角 守一(もろずみ しゅいち、1897年 - 1936年2月4日)は、日本の銀行家、考古学者。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。父は教育者の両角新治。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を卒業した。長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)にあった小口(おぐち)銀行(現・八十二銀行)に勤務。旧制諏訪中学の同級生に彫刻家清水多嘉示がおり、生涯にわたって親交があった。1923年清水が絵画修行のために渡仏した際には、両角と立木茂が中心となり「渡欧後援画会」を組織し、フランス滞在時の清水の芸術を支えた。また、渡仏滞在費用は清水の父親と渡欧後援画会で支えた。その後、清水を通じて彫刻家アントワーヌ・ブールデルと交流があった。
黒田 泰治(くろだ やすじ、1897年(明治30年) - 1… 黒田 泰治(くろだ やすじ、1897年(明治30年) - 1976年(昭和51年)12月10日)は、日本の武術家。号は鉄心斎。身長165cm。黒田家に代々伝わってきた武術である民弥流居合術、駒川改心流剣術、四心多久間流柔術、椿木小天狗流棒術、誠玉小栗流殺活術を引き継ぐ振武館の道場主。父は黒田正郡。振武館の技は泰治の子の黒田繁樹、そして孫の黒田鉄山へと継承された。古武術の高度な理合を昭和の時代に体現することのできた達人であったと評される。 ※以上は孫の黒田鉄山が祖父から伝え聞いた話として著書等で語ったものである。