晴山 福一郎(はれやま ふくいちろう、1898年 - 198… 晴山 福一郎(はれやま ふくいちろう、1898年 - 1980年)は、教育者・柔道家。岩手県久慈市出身。 江戸時代から大正期まで久慈町の豪商として栄えた橘屋の下かまど(分家)に生まれる。岩手師範学校卒業後盛岡市内の小学校で教鞭を執り、大日本武徳会武道専門学校に入学。岩手県の許可が下りず退学し教職に戻った。岩手県久慈地域の小学校長を歴任し、1946年、戦中翼賛壮年団長だったことから公職追放となった。 追放解除後は整骨院を久慈市と岩泉町で経営する傍ら、久慈町消防団長、久慈市教育委員長、久慈市消防署長を始め、数多くの役職を歴任し、戦前・戦中・戦後を通し、旧久慈町、久慈市の指導的立場にあった。 特筆すべきは、1933年に南部桐を使った「晴山式新案骨格模型」を作成し、当時の石黒英彦岩手県知事から激賞された。
青田五良(あおたごろう、1898年-1935年)は、日本の染… 青田五良(あおたごろう、1898年-1935年)は、日本の染織家。兵庫県神戸市生まれ。 丹波下黒田村で染織を学び、同志社中学校の教諭を務めた。1927年、黒田辰秋等と上賀茂民芸協団を設立。民藝運動の工芸理論に基づく染織を目指す。1929年の上賀茂民芸協団解散後、1935年に結核で亡くなった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、布や繊維、それを素材とする製品に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:ファッション/P:技術と産業)。
榎本 千花俊(えのもと ちかとし、1898年‐1973年)は… 榎本 千花俊(えのもと ちかとし、1898年‐1973年)は、大正時代から昭和時代の日本画家。 鏑木清方の門人。1898年、東京赤坂に生まれる。本名は親智(ちかとし)。千花俊と号した。18歳の時、1916年から清方に師事している。この頃、清方は本郷龍岡町に住んでおり、先輩に1913年入門の寺島紫明、山川秀峰がいた。まず1918年6月に上野公園美術学校倶楽部にて開催された第4回郷土会展に「幻」を、1920年3月に上野松坂屋にて開催の第5回郷土会展に「おしろい」、「ウンスン加留多」を出品している。清方門下らによる郷土会展においては、この後、1923年3月の日本橋三越にて開催の第8回展に「戻駕籠の人形」、「梅川」を、1924年3月の第9回展(上野松坂屋)に「羽子板と羽根」、「京都所見(嵐山 稲荷山)」を、1925年5月の第10回展(銀座松坂屋)に「鬼童丸」、「求女二図」、「油壷」、「花札」、「おはじき」を、1926年5月の第11回展(日本橋三越)に「愛宕山風景」を、1927年5月の第12回展(日本橋三越)に「本牧所見」を、1928年5月の第13回展(日本橋三越)に「公園二題(公園二題・公園)」を、1929年5月の第14回展(上野松坂屋)に「スイングの練習(スイング)」を、1930年6月の第15回展(上野松坂屋)に「錦魚」を出品したことが知られている。
萱場 四郎(かやば しろう、1898年 - 1974年)は宮… 萱場 四郎(かやば しろう、1898年 - 1974年)は宮城県出身のエンジニアであり兵器開発者。萱場工業を創設した。後に萱場 資郎と改名。 宮城県宮城郡七郷村にて1898年(明治31年)4月1日、萱場富次郎の二男として生まれる。生家は平家の末裔と言われる素封家で、祖父の利兵衛は小学校長及び村長を務めた。四郎は東北学院中等部を1916年(大正5年)3月に卒業し、早稲田大学理工科に進学。1919年(大正8年)11月に萱場発明研究所を東京市芝区日之出町に開設する。同年大学を中退。1921年(大正10年)に海軍艦政本部の嘱託となる。1923年(大正12年)関東大震災で被災したため発明研究所を閉鎖したが、1927年(昭和2年)1月に芝区西応寺町で新たに萱場製作所を創業。
和田 晋(わだ しん、1898年〈明治31年〉 - 1982… 和田 晋(わだ しん、1898年〈明治31年〉 - 1982年〈昭和57年〉9月17日)は、日本の剣道家。段位は範士九段(全日本剣道連盟)。一刀流溝口派剣術の継承者。 旧会津藩士・和田又四郎の子として福島県会津若松市に生まれる。祖父・井深宅右衛門は戊辰戦争の際、切腹前の萱野長修から箸で一刀流溝口派を伝授された。明治維新後、井深から又四郎に、又四郎から晋に受け継がれた。 1919年(大正7年)、東京高等師範学校に入学し、高野佐三郎に師事。卒業後、石川県師範学校、金沢第四高校、府立第七中学校、攻玉社中学校、若松商業高校、会津短期大学などで剣道を指導した。 晋は他言他見無用の掟を守り、一刀流溝口派を秘密にしていたが、自分が死去すれば貴重な形が失われてしまうため公開した。
海老原 敬吉(えびはら けいきち、1898年 - 1972年… 海老原 敬吉(えびはら けいきち、1898年 - 1972年6月8日)は、栃木県大田原市生まれ。理化学研究所・主任研究員、東京工業大学教授、第28期日本機械学会会長を歴任。工学博士でもある。 高性能なピストンリングを大量に製造する方法「ピン止め加工」を確立し、理化学興業、後の株式会社リケンの技術的基盤を作った。
金 鍾善(キム・ジョンソン、朝鮮語: 김종선、1898年また… 金 鍾善(キム・ジョンソン、朝鮮語: 김종선、1898年または1900年10月12日 - 1950年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 漢字表記は金鍾先とも。日本名は金田 国本(かねだ くにもと)。 現在のソウル特別市鐘路区または全羅南道求礼郡出身。求礼公立普通学校、東京正則英語学校中等科、日本大学政経科卒。1926年に新設の朝鮮殖産信託会社副社長となり、1930年代には現金80万ウォン以上を持つ資産家かつ全羅道の大地主であり、咸鏡南道の安辺郡に鉱山も所有していた。教育にも積極的に関与し、1927年から京城の往十里に旺新青年会で経営する旺新学院を支援し、1929年に私立旺新学院の院長を務め、大金を寄付して校舎を新築した。
加賀 一郎(かが いちろう、1898年(明治31年) - 1… 加賀 一郎(かが いちろう、1898年(明治31年) - 1946年(昭和21年)11月5日)は、日本の陸上競技選手(短距離走)、陸上競技指導者。 父は衆議院議員も務めた加賀卯之吉で、松竹常務を務めた加賀二郎は実弟、女優の加賀まりこは姪(弟の娘)にあたる。 加賀卯之吉の長男として生まれる。生母は大阪府人・山田ひさよで(庶子にあたる)、大阪府で生まれたとされる。 兵庫県立伊丹中学校の創立30周年記念誌(1932年)には「本校運動部の生める選手」とある。1923年の雑誌の読者質問欄への回答にも出身中学は「伊丹中」と記載されている。公式記録に残っていない旧制伊丹中学校野球部の選手を取り上げた神戸新聞の記事では、加賀は野球部での先輩だったと記された。
神田 清雄(かんだ きよお、1898年または1899年 - … 神田 清雄(かんだ きよお、1898年または1899年 - 1970年5月9日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。
田中 誠二(たなか せいじ、1898年 - 1994年)は、… 田中 誠二(たなか せいじ、1898年 - 1994年)は、日本の法学者。専門は商法。一橋大学名誉教授、法学博士。1981年12月12日から1994年まで日本学士院会員。
伊藤 滋(いとう しげる、1898年 - 1971年7月4日… 伊藤 滋(いとう しげる、1898年 - 1971年7月4日)は、日本の建築家。鉄道省に所属し大正から昭和にかけて鉄道関連の建築諸施設を手がける。旧国鉄の駅舎建築を主導、駅の近代化と民衆駅方式を提唱。鉄道省建築課長、日本建築学会会長を歴任。建築生産の近代化を推奨し建築経済分野の基礎を築く。工学博士。東京都出身。 戦後池袋駅をはじめ多くの民衆駅の企画·設計に関係し、最後に鉄道会館を創立して経営者としての業績でもよく知られ、まとめ役としての能力は特筆すべきものがあったという。戦時体制で伊藤を中心に大村巳代治らとが先ず最初の発起人となって「建築新体制促進同志会」なるものの結成を提唱した時、伊藤の説得力の結果この運動はまず各団体統合をめざすこととなり、建築学会、当時の日本建築士会,大阪の日本建築協会への働きかけとなり、会員は少なかったが堀越三郎会長をはじめ、新体制について熱心に研究していた士会の方々と頻繁に議論をたたかわす。
西尾 滋(にしお しげる、1898年 - 1980年7月6日… 西尾 滋(にしお しげる、1898年 - 1980年7月6日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。 旧制暁星中学校・第一高等学校を経て、1922年に東京帝国大学工学部鉱山学科を卒業、ただちに同学部講師に就任。同時に理学部地質学科大学院に2年間在籍し、教授の加藤武夫や助教授の坪井誠太郎の訓育を受け、また助手であった鈴木醇や坪谷幸六の知遇を得る。1924年に助教授に昇進し、鉱山学科において当時の教授であった平林武を補佐し,鉱物学・地質学・鉱山学などの実習を担当する。 1940年、東京帝国大学より工学博士の学位取得。博士論文の表題は「別子鉱山含銅黄鉄鉱ノ研究」。同年6月より、文部省在外研究員としてアメリカ合衆国のカリフォルニア大学に留学するも、1941年11月、日米関係の悪化により派遣された引き揚げ船である龍田丸に乗船して帰国。
山田 芳太郎(やまだ ほうたろう、1898年 - 1945年… 山田 芳太郎(やまだ ほうたろう、1898年 - 1945年4月1日)は、外務官僚。外務省調査局長などを務めた。 広島県出身。旧制修道中学校(現:修道中学校・高等学校)から東京帝国大学法学部に進み、1922年(大正11年)大学在学中に文官高等試験外交科に合格。翌年大学を退学し外務省に入省、広東官補に着任。その後在厦門領事、在アメリカ大使館一等書記官などを務めた。太平洋戦争末期の1945年、外務省調査局長として東南アジアへの救援物資配送の使節団(団長大東亜省次官竹内新平)に加わり、サイゴンで南方軍総司令官と、バンコクでタイのシンシナ外相、アパイウォン首相と会談。4月1日シンガポールから帰任の途中、台湾海峡において、病院船扱いの安導権をアメリカ政府によって保証されていた乗船阿波丸が米国潜水艦クイーンフィッシュによる国際法違反の雷撃によって沈没(阿波丸沈没事件)し在職中に逝去。
崔 昌燮(チェ・チャンソプ、朝鮮語: 최창섭、1898年また… 崔 昌燮(チェ・チャンソプ、朝鮮語: 최창섭、1898年または1899年4月29日 - 1979年11月30日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、政治家。制憲・第3・4代韓国国会議員。 慶尚南道陜川郡出身。釜山商業(高等)学校、日本大学社会学科卒。東亜日報・朝鮮日報で記者を8年間務めた後、治安維持会慶尚南道総本部治安部長、独促国民会陜川郡支部宣伝部長、自由党陜川郡党委員長・中央委員、第3代国会大邱毎日新聞テロ事件真相調査委員会委員長を務めた。 しかし、第4代国会議員のとき、隣の陜川郡甲選挙区選出の同じ自由党の兪鳳淳議員が滄浪号ハイジャック事件当時に拉北されて、その後また韓国に帰還したスパイだと誣告したため、2年の有期刑を言い渡されて投獄された。
山下 博章(やました ひろあき、1898年 ‐ 1943年1… 山下 博章(やました ひろあき、1898年 ‐ 1943年12月5日)は、弁護士、法学者。日本大学教授を務めた。岡山県生まれ。1918年日本大学法律科卒。1921年から1924年までドイツ留学し、その後日本大学教授。息子は中国哲学者・山下龍二。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
氏家 寿子(うじいえ ひさこ、1898年 - 1985年)は… 氏家 寿子(うじいえ ひさこ、1898年 - 1985年)は東京出身の教育者であり家政学者。日本女子大学教授や日本家政学会会長を務めた。勲三等瑞宝章。 旧尾張藩士の家系。寿子は野呂景武の娘として、1898年(明治31年)2月7日に東京の深川区木場で生まれる。三姉妹の長女。小学一年生の途中で青山高樹町に越した為、明治小学校から青山師範学校附属小学校へ試験を受け編入。東京府立第三高等女学校を経て日本女子大学師範家政科に入学し、井上秀の教えを受けた。1919年(大正8年)に卒業するとそのまま同大で教職に就き、1966年(昭和31年)に定年退職するまでに家政学部教授、家政学部長、評議員などを歴任した。その間、氏家隆武と結婚。
牧野 政信(まきの まさのぶ、1898年 - 1948年3月… 牧野 政信(まきの まさのぶ、1898年 - 1948年3月9日)は日本の柔道家(講道館8段)、政治家。 秋田県山本郡浜口村の出身で講道館入門は1913年。1924年に明治大学政治経済科を卒業すると、設立されたばかりの旧制弘前高等学校(現・弘前大学)にて講師を約1年ほど務めた。 その後東京に戻ってからは職らしい職には就かず、柔道の稽古に明け暮れる毎日に。1930年に第1回全日本選士権大会が開催されると牧野は一般壮年後期の部に第2区(東京)代表で出場し、福岡の島井安之助5段に次ぐ準優勝という成績を残した。1931年に母校・明治大学の選手を引率して渡米しカリフォルニア州とハワイ州で柔道を紹介し、1937年の満州遠征には理事を務める東京学生連合会の監督として参加。
久志 卓真(くし たくしん、1898年 - 1973年11月… 久志 卓真(くし たくしん、1898年 - 1973年11月1日)は、日本の音楽家・音楽評論家、書画骨董の研究者、鑑識家。 1898年(明治31年)、北海道旭川市の智山派寺院に生まれ、智山勧学院に入学、平田元吉や西田幾太郎の講義から影響を受けた。6歳から仏典・漢籍を父に仕込まれた為、12歳にして伝法灌頂を授かる。中学1年生からはヴァイオリンを習い、川島栄三郎より本格的に稽古を受けてヴァイオリニスト・作曲家としての知名度を上げ、京都基督教青年会音楽学校のヴァイオリン科主任教師となる。 1923年(大正12年)夏に過労から喀血して演奏・作曲の一線から身を引き、門下育成・執筆活動へと転向する。京都帝国大学内京都文学会発行の『芸文』へ「ベートーヴェンとスザンヌ」「未来派及び表現派の絵画の陥れる本質的誤謬を指摘して絵画の本質に及ぶ」の発表を契機に、『音楽新潮』へ音楽の批評・解説を執筆する。
田中 良三(たなか りょうぞう、1898年 - 1985年1… 田中 良三(たなか りょうぞう、1898年 - 1985年10月9日)は、日本の柔道家。 明治31年群馬県安中市生まれ。日本柔道選士権大会 第六回3位。第八回準優勝、講道館6段(財団法人講道館 記録資料より)。県立高崎高等学校など、広く後進の育成にあたり、篠原秀吉らと共に群馬県柔道界を牽引した。最終段位は講道館8段。 赤川徳次郎(六段/東京)− 田中良三(六段/群馬) この項目は、柔道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P柔道/PJ柔道)。