角田 寛(すみた ひろし、1921年 <大正10年> 2月2… 角田 寛(すみた ひろし、1921年 <大正10年> 2月25日 - 2001年 <平成13年> 5月22日)は、日本の実業家。京阪電気鉄道社長、会長などを務めた。位階は正四位。 大阪府出身。1943年9月京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。 第四陸軍航空技術研究所、鉄道省での勤務を経て、1947年10月、京阪神急行電鉄に入社。1949年の京阪神急行電鉄からの再分離で京阪電気鉄道に移籍。 1967年11月に取締役に就任し、1972年7月に常務、1977年6月に専務、1979年6月に副社長を経て、1985年3月には社長に就任。1989年6月に会長に就任し、1995年6月には取締役相談役に就任。 1981年11月に藍綬褒章を受章し、1993年11月に勲二等瑞宝章を受章。
内藤 一郎(ないとう いちろう、1921年2月24日 - )… 内藤 一郎(ないとう いちろう、1921年2月24日 - )は、日本の軍事航空評論家、翻訳家。筆名に嵯峨 浩一。 滋賀県伊香郡高月町(現長浜市)生まれ。1944年京都帝国大学工学部航空工学科卒。同年海軍技術中尉。 1951年事業用操縦士。1954年航空大学校教授。1959年防衛庁技術研究本部勤務、1981年定年退官。航空医学実験隊技術顧問、東海大学講師など。著述のほか翻訳も行う。
高木 貞男(たかぎ さだお、1921年2月24日 - 201… 高木 貞男(たかぎ さだお、1921年2月24日 - 2012年5月22日)は、日本の経営者。森永製菓会長を務めた。 東京都出身。1942年に早稲田大学文学部英文学科を卒業し、1946年5月に森永薬品に入社。 1955年4月に森永製菓に転じ、1974年5月に取締役に就任し、1980年12月に常務を経て、1981年6月に副社長に就任し、1985年6月には会長に昇格した。副社長在任時には、グリコ・森永脅迫事件の対応に当たった。1996年6月に相談役に就任し、1998年6月から参与を務めた。1991年6月から1998年6月までに森永乳業で監査役を務めた。 2012年5月22日、肺炎のために死去。91歳没。
田島 衛(たじま まもる、1921年(大正10年)2月23日… 田島 衛(たじま まもる、1921年(大正10年)2月23日 - 1988年(昭和63年)1月17日)は、日本の政治家。新自由クラブ衆議院議員(2期)。 東京府東京市(現東京都)江戸川区出身。府立三中(現都立両国高等学校)を経て早稲田大学法学部在学中、学徒出陣で海軍に入る。海軍特攻隊特殊潜航艇蛟龍艇長となり、海軍中尉で復員した。 その後、1951年(昭和26年)江戸川区議会議員に選出され4期在任。1969年(昭和44年)東京都議会議員となり2期務めた(自由民主党所属)。この間、都議会自民党副幹事長、同政調会長などを務めた。 1976年(昭和51年)第34回衆議院議員総選挙に東京都第10区から無所属で立候補して次点で落選。
後藤重郎(ごとう しげお、1921年2月23日 - 2006… 後藤重郎(ごとう しげお、1921年2月23日 - 2006年11月22日)は、日本の国文学者。文学博士(東京大学・論文博士・1967年)(学位論文「新古今和歌集成立史の基礎的研究」)。名古屋大学名誉教授。 愛知県出身。1943年東京帝国大学文学部国文学科卒業(半年繰上)。海軍第三期予備学生として応召。45年9月召集解除。50年東京大学大学院(旧制)国文学専攻課程入学。55年3月満期修了。1967年「新古今和歌集成立史の基礎的研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。1956年7月名古屋大学文学部専任講師、助教授をへて教授。84年定年退官、名誉教授、中京大学文学部教授を務め、91年定年退職。中世和歌、特に『新古今和歌集』が専門。
小島 健司(こじま けんじ、1921年2月23日 - )は、… 小島 健司(こじま けんじ、1921年2月23日 - )は、日本の労働運動家、日本福祉大学名誉教授。 横浜市生まれ。1943年日本大学経済学部卒業。44年荏原製作所入社。労働組合活動に参加し、49年総評調査副部長、1953年書記。60年同調査部長。1968年日本福祉大学教授。2002年定年退任、名誉教授。専攻は賃金論、日本産業史。時計産業史に関心をよせた。
小林 晴夫(こばやしはるお、1921年2月23日 - 200… 小林 晴夫(こばやしはるお、1921年2月23日 - 2009年6月29日)は、日本の工学者・化学者。工学博士。元室蘭工業大学学長・同名誉教授。北海道大学名誉教授。東京都出身。 1944年(昭和19年)北海道帝国大学工学部卒業。北海道大学大学院工学研究科博士課程修了。1947年(昭和22年)北海道大学工学部講師。1948年(昭和23年)同工学部助教授。1960年(昭和35年)同工学部教授。1983年(昭和58年)北海道大学退官。同名誉教授。1983年(昭和58年)室蘭工業大学理事・室蘭工業大学8代学長に就任。1991年(平成3年)室蘭工業大学退官。北海道武蔵女子短期大学学長に就任。1998年(平成10年)同学長を退任し、終身理事。
三嶋 与四治(みしま よしはる、1921年2月23日 - 2… 三嶋 与四治(みしま よしはる、1921年2月23日 - 2002年5月18日)は、日本の映画プロデューサー。 福井県出身。1941年早稲田大学専門部政経学科卒業後、同年松竹に入社するが、1942年入営。終戦で南方より復員し、松竹に復職。演劇部、松竹歌劇団製作課長を経て松竹会館支配人、プロデューサー、映画宣伝部長、テレビ部長、映画製作本部次長兼企画部長などを歴任。1969年4月28日の松竹第97期定時株主総会で取締役に就任し、総会後の取締役会で映画製作のトップ・映画製作本部長兼企画部長に就任した。当時の松竹は映画部門が長年に渡り不振が続き、演劇など他部門の利益を食う状態。映画製作のトップに就任後、松本清張作品を次々映画化し、伝統的に強い喜劇、青春映画と合わせて松竹の映画部門を立て直した。
三宅 宅三(みやけ たくぞう、 1921年2月22日 - 2… 三宅 宅三(みやけ たくぞう、 1921年2月22日 - 2006年4月16日)は、岡山県倉敷市出身のプロ野球選手(一塁手、外野手)。 玉島中(現・玉島商)では砲丸投で全国優勝。明治大学を経て、倉敷工の監督となる。1949年にチームを甲子園大会出場に導いた。 1950年、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の創立と同時にテスト入団。開幕から一塁手、六番打者に抜擢される。同年の松竹ロビンスとの日本シリーズでは、一塁手、代打として2試合に出場。1951年は外野手も兼ね、5月から四番打者に起用されるなど打線の主軸として活躍、初の規定打席(16位、打率.281)に達する。1952年には自己最高の打率.294(12位)、18本塁打を記録。
山下 元利(やました がんり、1921年2月22日 - 19… 山下 元利(やました がんり、1921年2月22日 - 1994年3月14日)は、滋賀県出身の日本の政治家。衆議院議員、防衛庁長官を務めた。息子に元参議院議員の山下英利がいる。
川橋 猛(かわはし たけし、1921年(大正10年)2月21… 川橋 猛(かわはし たけし、1921年(大正10年)2月21日 - 2013年(平成25年)2月21日)は日本の実業家、元NEC副社長、元東洋通信機(現・宮崎エプソン)社長、元日本ロケット協会会長。長崎県出身。
本田 茂(ほんだ しげる、1921年2月20日 - 2009… 本田 茂(ほんだ しげる、1921年2月20日 - 2009年2月21日)は、日本の経営者。間組社長、会長を務めた。熊本県出身。 1941年に熊本高等工業学校土木工学科を卒業し、1946年に間組に入社。1975年11月に取締役に就任し、1977年12月に専務、1979年に副社長を経て、1981年8月に社長に就任。1989年12月に会長に就任し、1990年12月から1992年9月までには社長も兼任した。 2009年2月21日心不全のために死去。88歳没。
清水 成之(しみず しげゆき、1921年2月20日 - 20… 清水 成之(しみず しげゆき、1921年2月20日 - 2002年2月9日)は、日本の元文部省管理局長、国士舘大学・国士舘短期大学学長、学校法人国士舘理事長。 三重県出身。昭和19年(1944年)東京帝国大学法学部政治学科卒業。昭和22年(1947年)高等文官試験行政科合格。昭和63年(1988年)学校法人国士舘理事長就任。 1992年、勲三等旭日中綬章を受章。2002年2月9日、呼吸不全のため死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大石 巌(おおいし いわお、1921年〈大正10年〉2月19… 大石 巌(おおいし いわお、1921年〈大正10年〉2月19日 - 2002年〈平成14年〉3月3日)は、日本の実業家、経営者、ジャーナリスト、証券アナリスト。新日本証券会長。毎日新聞社社友。静岡県出身。 静岡県立静岡中学校から、静岡高等学校 (旧制)に進み、1942年(昭和17年)東京帝国大学法学部卒業。同年、東京日日新聞社入社、経済部記者。日銀記者クラブのキャップなどを務めた。のちに、毎日オリオンズ出向、営業部長。1961年(昭和36年)、毎日新聞を離籍し大商証券に転じ、福岡支店長を経て、1964年(昭和39年)、取締役。1967年(昭和42年)、合併により新日本証券取締役。1975年(昭和50年)、同副社長。
目崎 徳衛(めざき とくえ、1921年2月19日 - 200… 目崎 徳衛(めざき とくえ、1921年2月19日 - 2000年6月13日)は、国文学者、王朝文化研究者、専攻は日本文化史、平安文学研究。 新潟県生まれ。1945年東京帝国大学文学部国史学科卒業、長岡工業高等専門学校助教授、文部省教科書調査官、聖心女子大学教授、のち同名誉教授。1980年に『西行の思想史的研究』で東京大学文学博士、第一回角川源義賞。1996年に『南城三余集私抄』で第三回(95年度)やまなし文学賞<研究評論部門>を受賞。また俳句同人誌「花守」を半世紀近く主宰し、若井新一などを輩出した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
西尾 邑次(にしお ゆうじ、1921年2月19日 - 201… 西尾 邑次(にしお ゆうじ、1921年2月19日 - 2013年7月23日)は、日本の政治家。鳥取県知事。東京高等農林学校(現東京農工大学)卒業。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
岡本 辰巳(おかもと たつみ、1921年2月19日 - 20… 岡本 辰巳(おかもと たつみ、1921年2月19日 - 2008年2月29日)は、日本の政治家。愛知県議会議員(7回、1971年-1999年)、愛知県議会議長(1984年-1985年)、刈谷市議会議員(4回、1955年-1971年)、自由民主党愛知県連幹事長(1985年-1989年)などを歴任。 1921年(大正10年)2月19日に愛知県碧海郡富士松村(現・刈谷市泉田町)に生まれた。富士松村立尋常高等小学校を卒業すると、1951年(昭和26年)4月に30歳で富士松村会議員に初当選した。1955年(昭和30年)4月に富士松村が刈谷市に合併された際には刈谷市議会特別委員となり、1955年(昭和30年)7月に刈谷市議会議員に初当選した。
市橋 保(いちはし たもつ、1921年 <大正10年> 2月… 市橋 保(いちはし たもつ、1921年 <大正10年> 2月18日 - 2005年 <平成17年> 9月17日)は、日本の銀行家。福井銀行頭取、会長を務めた。位階は正五位。 福井県福井市出身。1944年に慶應義塾大学工学部を卒業し、1945年11月に日本銀行に入行。1962年4月に福井銀行に転じ、1965年11月に取締役に就任し、1969年4月に常務、1972年11月に副頭取を経て、1982年10月に頭取には就任。1992年10月には会長に就任。 1987年11月に藍綬褒章を受章し、1992年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2005年9月17日心不全のために死去。84歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
佐原 亨(さはら とおる、1921年2月18日 - 1984… 佐原 亨(さはら とおる、1921年2月18日 - 1984年8月3日)は、日本の運輸官僚、経営者。愛知県出身。 1943年に東京帝国大学法学部を卒業し、高文行政科にも合格し、同年に逓信省に入省した。後に運輸省に転じ、1970年6月に船員局長、1972年に海運局長を経て、1973年8月から1974年6月までに海上保安庁長官を務めた。1974年6月に日本長期信用銀行顧問を経て、1976年6月にジャパンライン専務に就任し、1981年6月から1983年6月までに副社長を務めた。 1984年8月3日上咽頭腫瘍のために死去。63歳没。
水上 芳美(みずかみ よしみ、1921年2月17日 - 20… 水上 芳美(みずかみ よしみ、1921年2月17日 - 2006年3月20日)は、日本の経営者。長谷川工務店(現在の長谷工コーポレーション)社長、会長を務めた。 兵庫県出身。1944年に神戸商業大学 (旧制)(現・神戸大学)を卒業。1946年に長谷川工務店に入社。1949年1月には早くも取締役に就任し、1960年2月常務、1962年12月専務となり長谷工の業績拡大に合わせて昇進を重ねる。1966年2月副社長就任を経て、1969年7月に同社創業者長谷川武彦の後を受けて第2代社長に就任。1987年8月に会長に就任するまで18年間社長職にあった。1996年6月に取締役相談役に退き、1998年6月から翌年まで顧問も務めた。
清水 正徳(しみず まさのり、1921年2月17日 - 20… 清水 正徳(しみず まさのり、1921年2月17日 - 2004年3月7日)は、日本の哲学研究者。神戸大学名誉教授。 京都府京都市生まれ。東北帝国大学哲学科卒業。神戸大学助教授、教授、1984年定年退官、名誉教授、大阪学院大学教養部教授。マルクスの疎外論を研究。 1996年、勲三等旭日中綬章を受章。 2004年3月7日、病気のため京都市東山区の病院で死去。83歳没。
天津 敏(あまつ びん、1921年2月16日 - 1979年… 天津 敏(あまつ びん、1921年2月16日 - 1979年7月24日)は、日本の俳優。本名は天都 敏(あまつ とし、旧姓:佐藤)。身長182cmの体格、ドスの利いた声、鋭い眼光などを活かし、映画・テレビドラマで悪役・敵役スターとして活躍した。宮城県桃生郡河南町(現・石巻市)出身。 両親および兄弟はすべて教員という一家に育つ。歌と水泳が得意な少年だったという。宮城県師範学校を卒業後、教職に就く。戦時中は海兵団で少年兵の教官の職にあった。1944年に結婚、婿養子となり姓を天都(あまつ)とした。戦後は教職から離れ、鎌倉の夫人の実家の工場を手伝い、水道工事などの仕事をしていた。戦後、教職を離れたのは、戦前と正反対の教育をすることはできないという理由であった。
三鬼 彰(みき あきら、1921年2月16日 - 2000年… 三鬼 彰(みき あきら、1921年2月16日 - 2000年6月22日)は、日本の実業家。八幡製鐵の初代社長を務めた三鬼隆の長男で、後身会社である新日本製鐵の会長や、日本経済団体連合会副会長を務めた。また、タレントの出川哲朗の外従父に当たる。 岩手県釜石市出身。官立新潟高等学校、京都帝国大学法学部を経て、戦時中の1943年に日本製鐵へ入社。過度経済力集中排除法による日本製鐵解体後は富士製鐵で秘書室長、総務部長など主に管理畑を経験した。 新日本製鐵発足後は、父・隆が八幡製鐵社長だった人脈を通じて社内融和に尽力。専務、副社長就任以降はプラザ合意による円高不況対策などに努め、高炉休止など合理化を推進した。
平井 隆太郎(ひらい りゅうたろう、1921年2月15日 -… 平井 隆太郎(ひらい りゅうたろう、1921年2月15日 - 2015年12月9日)は、日本の心理学者、新聞学者。立教大学名誉教授。大阪府出身。 平井太郎(江戸川乱歩)の一人息子として大阪府北河内郡守口町(現在の守口市)に生まれる。東京府立第五中学校から1年浪人して第一高等学校に入学。このとき1級下に藤村正太がいた。1942年、東京帝国大学文学部心理学科に入学。1943年11月、同大学を仮卒業し(正式卒業は1944年9月)、1943年12月に学徒出陣で徴兵されて大日本帝国海軍に入団。千葉県の館山海軍砲術学校に配属され、高射砲を専修。予備学生として横須賀市武山の海兵団で過ごした後、海軍少尉として茨城県土浦市の航空隊に赴任。
斎藤 眞(さいとう まこと、1921年〈大正10年〉2月15… 斎藤 眞(さいとう まこと、1921年〈大正10年〉2月15日 - 2008年〈平成20年〉1月16日)は、日本の政治学者(アメリカ政治外交史)。勲等は文化勲章。東京大学名誉教授、日本学士院会員、文化功労者。名の「眞」は「真」の旧字体のため、新字体で斎藤 真(さいとう まこと)とも表記される。 東京大学法学部教授、国際基督教大学教授、国際基督教大学平和研究所所長などを歴任した。 斎藤勇(英文学者、文化功労者、東京大学名誉教授)の次男として東京都に生まれる。アメリカ文学者の斎藤光は実兄。 1927年、成城学園小学校入学。1937年に受洗。同年、成城高等学校文科乙類入学。1940年に同校を卒業。高木八尺に師事し、1942年東京大学法学部政治学科卒業。
宮川 知彰(みやがわ ともあき、1921年2月15日 - 2… 宮川 知彰(みやがわ ともあき、1921年2月15日 - 2007年12月21日)は、日本の教育学者。 福井県出身。東京帝国大学文学部教育学科卒。東北大学教育学部助教授、教授、1979年「青年における生活条件と語の認知閾との関係に関する実験的考察」で東京大学教育学博士。1984年東北大を定年退官、名誉教授、放送大学教授。 1995年、勲二等瑞宝章を受章。2007年12月21日、心不全のため死去。
石井 多加三(いしい たかぞう、1921年(大正10年)2月… 石井 多加三(いしい たかぞう、1921年(大正10年)2月14日 - 2014年(平成26年)6月15日)は、日本の実業家、元国際電信電話(現・KDDI)社長、元郵政事務次官。岡山県岡山市出身。長男の石井健一郎は名古屋大学名誉教授、次男の石井洋二郎は東京大学名誉教授で元東京大学大学院総合文化研究科長・教養学部長。 旧制岡山県第一岡山中学校、旧制第六高等学校文科甲類卒業。
横山 亮次(よこやま りょうじ、1921年2月14日 - 2… 横山 亮次(よこやま りょうじ、1921年2月14日 - 2017年9月24日)は、日本の経営者、工学博士。日立化成工業(日立化成、昭和電工マテリアルズを経て、現在のレゾナック)社長を務めた。茨城県出身。 1944年に東京工業大学応用化学科を卒業し、同年に日立製作所に入社した。1971年2月に日立化成工業に転じ、1972年11月に取締役に就任し、1973年11月に常務、1977年6月に専務を経て、1981年6月には社長に就任した。1991年6月、会長に就任し、1995年6月から相談役を務めた。 1984年11月に藍綬褒章を受章した。 2017年9月24日に老衰のため死去した。96歳没。
足立原 茂徳(あだちはら しげのり、1921年〈大正10年〉… 足立原 茂徳(あだちはら しげのり、1921年〈大正10年〉2月12日 - 2002年〈平成14年〉3月16日)は、昭和から平成時代の政治家。神奈川県厚木市長。位階は従五位。 厚木市出身。旧制厚木中学校(現神奈川県立厚木高等学校)第32回卒業。1949年(昭和24年)東京文理科大学文学部東洋史学科を卒業し、母校の厚木高等学校教諭となる。その後、青少年センター館長、県教育副参事、社会教育課長などを歴任し、1973年(昭和48年)厚木市助役に就任。 1979年(昭和54年)以来、厚木市長に4選した。1992年(平成4年)厚木テレコムタウンの推進母体である厚木テレコムパークの初代社長に就任。1995年(平成7年)引退した。
大松 博文(だいまつ ひろふみ、1921年2月12日 - 1… 大松 博文(だいまつ ひろふみ、1921年2月12日 - 1978年11月24日)は、日本のバレーボール指導者、政治家。参議院議員(1期)。香川県綾歌郡宇多津町出身。 ニチボー貝塚監督時代は、自ら育て上げた東洋の魔女を率いて、辞任までに175連勝を記録。1962年(昭和37年)、第4回女子世界選手権でソ連を破り優勝。国民的英雄として迎えられる。1964年東京オリンピックでは全日本女子を監督として金メダルに導く。「回転レシーブ」などを考案、その過酷な練習で「鬼の大松」ともいわれた。情報誌『imidas2001』(集英社)の「20世紀を創った人々550」では、バレーボールの分野で前田豊、猫田勝敏と並んで3人のうちの1人に数えられた。
飛鳥 高(あすか たかし、1921年2月12日 - )は、日… 飛鳥 高(あすか たかし、1921年2月12日 - )は、日本の小説家、推理作家。
巷野 悟郎(こうの ごろう、1921年2月12日 - 201… 巷野 悟郎(こうの ごろう、1921年2月12日 - 2017年2月2日)は、日本の小児科医。 栃木県足利市生まれ。1944年東京帝国大学医学部卒業。1953年「乳児ヒポプラジーの研究」で東京大学より医学博士の学位を取得。東京大学医学部小児科、厚生省児童局母子衛生課技官、東京都立八王子乳児院長、市立札幌病院小児科医長、東京都立駒込病院小児科医長、副院長、東京都立府中病院長、東京家政大学教授。聖徳大学児童学科教授、こどもの城・小児保健クリニック院長。日本保育園保健協議会会長。日本母性保護協会先天異常調査委員会。全国ベビーシッター協会会長。 NHKラジオでの電話による育児相談でも知られる。筋拘縮症は乱注射による医原病であると報告した。
樋渡 宏一(ひわたし こういち、1921年2月11日 - 2… 樋渡 宏一(ひわたし こういち、1921年2月11日 - 2009年3月7日) は、日本の細胞生物学者、遺伝学者。東北大学名誉教授。元日本学士院会員。日本における、ゾウリムシを用いた生物学研究の先駆者とされる。 宮城県仙台市生まれ。旧制盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を経て、東北帝国大学理学部を卒業後、東北帝国大学大学院特別研究生となる。 山形大学講師に赴任後、東北大学教育学部で教授に就任、宮城教育大学教授を経て、1968年に東北大学理学部教授となる。東北大学理学部教授時の1971年に日本動物学会賞を受賞した。 1984年に定年退職し、東北大学名誉教授となる。
西村 正俊(にしむら まさとし、1921年〈大正10年〉2月… 西村 正俊(にしむら まさとし、1921年〈大正10年〉2月11日 - 2011年〈平成23年〉6月20日)は、日本の政治家。佐賀県佐賀市長(3期)。 佐賀県出身。1939年、旧制佐賀県立佐賀中学校卒業。翌年南満洲鉄道に入る。1946年、佐賀県国民健康保険組合連合会主事になる。1948年、佐賀県庁に入る。国民健康保険課長、厚生部参事を経て、1970年に伊万里市助役に就任、1980年に佐賀市助役に就任する。1987年の佐賀市長選挙に立候補し当選、1999年まで3期務めた。2011年6月20日午前7時43分、多発性骨髄腫のため佐賀市の佐賀県立病院好生館で死去、90歳。死没日をもって従七位から従五位に叙される。
中田 金一(なかた きんいち、1921年2月11日 - 20… 中田 金一(なかた きんいち、1921年2月11日 - 2008年12月13日)は大阪府出身のプロ野球選手・審判員。
松島 与三(まつしま よぞう、1921年2月11日 - 19… 松島 与三(まつしま よぞう、1921年2月11日 - 1983年4月9日)は、日本の数学者。大阪府堺市出身。旧制浪速高等学校を経て、大阪大学理学部卒。 名古屋大学、米ノートルダム大学、大阪大学教授。フランスCNRS所員、プリンストン高等研究所員、グルノーブル大学客員教授を歴任。朝日賞受賞。 主な実績にアインシュタイン-ケーラー空間の正則自己同型群の決定、コンパクト規約対称エルミート空間の1次元ベッチ数の消滅定理、松島-村上同型などがある。 この項目は、数学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
石川 源晃(いしかわ げんこう、1921年2月11日 - 2… 石川 源晃(いしかわ げんこう、1921年2月11日 - 2006年6月13日)は、日本の占星学者、技術士。帝国海軍大尉。東京工業大学卒業。 世界の占星学史に残る数々の業績を残した。占星学(Astrology)を勉学するだけでなく自ら新しい手法を発明し、日本の占星学(西洋占星学ともいう)の水準を飛躍的に高めた。全ての知識を原書で得るという知識量、そして論理的理解力、科学的・数学的素養をバックボーンとする。一切のオカルト、神霊的な要素や、癒やしのような曖昧な概念を全て排した、厳密で精緻な分析は、日本占術界において研究者としての彼をむしろ孤高の地位へと追いやった。石源と略称されることもある。 源氏の末裔。
村井 貞允(むらい さだまさ、1921年〈大正10年〉2月1… 村井 貞允(むらい さだまさ、1921年〈大正10年〉2月10日 - 2007年〈平成19年〉10月1日)は、日本の地質学者、理学博士、岩手大学名誉教授。
小池 久雄(こいけ ひさお、1921年2月9日 - 1998… 小池 久雄(こいけ ひさお、1921年2月9日 - 1998年8月30日)は、日本の経営者。ヤマハ発動機社長を務めた。 静岡県出身。1938年に袋井商業学校を卒業し、1941年に日本楽器製造(現在のヤマハ)に入社した。1962年にヤマハ発動機に転じ、取締役に就任し、1964年に常務、1966年に専務を経て、1974年8月に社長に就任し、1983年4月までに務めた。 1998年8月30日心不全のために死去。77歳没。
庄野 潤三(しょうの じゅんぞう、1921年(大正10年)2… 庄野 潤三(しょうの じゅんぞう、1921年(大正10年)2月9日 - 2009年(平成21年)9月21日)は、日本の小説家。位階は従四位。 大阪府生まれ。庄野英二の弟。九州大学東洋史学科卒。『愛撫』で認められ、『プールサイド小景』で芥川賞受賞。「第三の新人」の一人と目され、『静物』『夕べの雲』など、都市生活者の不安定な日常を、穏やかな描写と叙述で深く彫り上げた作品を多く発表した。晩年は、老夫婦の生活や孫とのふれあいをテーマに連作を書き継いだ。日本芸術院会員。 大阪府東成郡住吉村(現・大阪市)出身。帝塚山学院小学校・大阪府立住吉中学校を経て、1941年(昭和16年)12月に大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)英語科を卒業。
高良 和武(こうら かずたけ、1921年2月9日 - 201… 高良 和武(こうら かずたけ、1921年2月9日 - 2019年1月30日)は、放射光科学を専門とする日本の物理学者。鹿児島市出身。東京大学及び高エネルギー加速器研究機構名誉教授。動力学X線回折理論の研究により、放射光科学と結晶学の発展に貢献した。また後年は、産学連携や高等教育におけるインターンシップ制度の推進にも尽力した。 フォトン・ファクトリー施設長、日本結晶学会会長、日本放射光学会会長、学校法人筑波研究学園理事長、総合科学研究機構理事長、日本インターンシップ学会会長を歴任した。 高良大社の宮司の家に生まれる。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校、旧制第七高等学校造士館、九州帝国大学理学部物理学科卒業。
入江節次郎(いりえ せつじろう、1921年2月9日- )は、… 入江節次郎(いりえ せつじろう、1921年2月9日- )は、日本の経済学者、同志社大学名誉教授。 岡山市生まれ。1944年東京帝国大学法学部卒。1980年「帝国主義論への道」で大阪市立大学経済学博士。同志社大学経済学部助教授、教授、92年定年退任、名誉教授。
菊池 宣次(きくち せんじ、1921年〈大正10年〉2月9日… 菊池 宣次(きくち せんじ、1921年〈大正10年〉2月9日 - 2001年〈平成13年〉7月17日)は、群馬県出身の元競輪選手。 日本競輪選手養成所(旧日本競輪学校)が設立される前に選手登録された期前選手で、選手登録番号は268。 群馬県伊勢崎市南千木町出身。 1949年(昭和24年)に川崎競輪場で行われた、第2回全国争覇競輪・乙規格部門で決勝進出(9着)。 1950年(昭和25年)登録選手全国代表者会議議長、1951年(昭和26年)日本プロフェッショナルサイクリスト連合会理事長就任。 1952年(昭和27年)9月から1957年(昭和32年)3月まで、日本競輪選手会の初代理事長を務めた(なお、日本競輪選手会ホームページでは、2代目とされる横田隆雄が初代理事長とされている)。
吉田 悟郎(よしだ ごろう、1921年2月8日 - 2018… 吉田 悟郎(よしだ ごろう、1921年2月8日 - 2018年5月21日[信頼性要検証])は、日本の歴史学者。 金沢市に技術者・吉田恵一の子として生まれる。東京府立第五中学校(現東京都立小石川高等学校)卒、成城高等学校卒、1942年東京帝国大学文学部西洋史学科を学徒出陣で繰り上げ卒業、1945年敗戦で復員し、GHQで検閲の仕事をしたのち日本評論社の編集者となる。1952年東京都立広尾高等学校教諭、81年退職。大学非常勤講師として世界史を教える。歴史教育者協議会会員。
吉水 幸夫(よしみず ゆきお、1921年2月8日 - )は、… 吉水 幸夫(よしみず ゆきお、1921年2月8日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手(捕手、一塁手、外野手)。
合崎 堅二(あいざき けんじ、1921年2月7日 - 199… 合崎 堅二(あいざき けんじ、1921年2月7日 - 1998年)は日本の会計学者。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
申 秉鉉(シン ビョンヒョン、1921年2月7日 - 199… 申 秉鉉(シン ビョンヒョン、1921年2月7日 - 1999年4月4日)は、大韓民国の政治家。本貫は平山申氏。日本名平山 榮次郞。 黄海道長淵郡にて誕生。日本内地の福島高等商業学校を卒業。1943年に朝鮮銀行に入り、1956年に韓国銀行調査部長に就任。駐米大使館参事官(1961年)を経て、国際復興開発銀行交換取締役兼顧問(1970年-1975年)を務めた。米国のアメリカン大学卒業および同大学院を修了し、1959年にコロンビア大学大学院で経済学博士号を取得。 1975年、大統領府経済担当特別補佐官に起用され、政界中枢とのコネクションを発展。韓国銀行総裁(1978年)、商工部長官(1980年)、副総理兼経済企画院長官(1980年-1982年、1983年-1986年)を歴任。
伊藤 亘行(いとう のぶゆき、1921年(大正10年)2月6… 伊藤 亘行(いとう のぶゆき、1921年(大正10年)2月6日 - 2002年(平成14年)11月10日)は日本の声楽家(バリトン)、オペラ歌手、音楽教育者、作曲家。 三重県四日市市京町生まれ。伊藤家はタイル業、万古焼業を営み父が仕事中にヴァイオリンを弾くのを聞いて、叔母の家でオルガンを弾いたりして幼少年時代を過ごす。旧制富田中学校(現在の三重県立四日市高等学校)卒業。父や親戚を説得して東京音楽学校声楽科(現在の東京芸術大学)へ進学し、木下保や中山悌一に師事して1941年(昭和16年)に卒業。大東亜戦争中で音楽関係の仕事がないことから、郷里の東海地方に帰り現在の愛知県立旭丘高等学校や愛知県立明和高等学校の音楽担当の教師となり音楽を教えた。
九里 茂三(くのり しげぞう、1921年2月6日 - 201… 九里 茂三(くのり しげぞう、1921年2月6日 - 2017年12月2日)は、日本の教育者。学校法人九里学園理事長・学園長などを歴任し、日本私立中学高等学校連合会副会長として私学助成運動などにも貢献した。 山形県米沢市に生まれ育つ。養母の九里とみは、1901年に九里裁縫女学校を創設し、その経営にあたっていた。 1940年に山形県師範学校本科一部を卒業し、翌1941年には同専攻科を卒業して、東京高等師範学校に進んだ。 1944年9月には、東京高等師範学校を卒要し、海軍予備学生として土浦海軍航空隊へ入隊、1945年6月には海軍少尉に任官、直ちに召集され8月まで針尾にあった海軍兵学校分校の教官を務めた。
菅原 努(すがはら つとむ、1921年2月5日 - 2010… 菅原 努(すがはら つとむ、1921年2月5日 - 2010年10月1日)は、日本の医学者・医師。京都大学名誉教授。専門は放射線基礎医学。 旧制浪速高等学校を経て、1944年京都帝国大学医学部卒業。1950年大阪大学理学部卒業。三重大学医学部助教授、1960年国立遺伝学研究所変異遺伝部副部長、1961年放射線医学総合研究所室長、京都大学医学部放射能基礎医学教室初代教授。同放射線生物研究センター長、医学部長、1985年定年退官、名誉教授、国立京都病院院長。財団法人慢性疾患・リハビリテイション研究振興財団理事長。 1995年、勲二等瑞宝章を受章。2010年10月1日、慢性腎不全のため死去。