浅原 正基(あさはら せいき、1916年 - 1996年5月… 浅原 正基(あさはら せいき、1916年 - 1996年5月14日)は、元日本陸軍上等兵、ハルビン特務機関員。シベリア抑留の際、「自発的」に兵士、下士官などの労農プロレタリア階級から発生したとされる民主運動のリーダー。 東京都出身。旧制山形高等学校を経て東京帝国大学文学部社会学科卒業。帝大在学中には木村三郎・山口正之らと日本共産党の地下活動に関わっている。その後応召を受け中国戦線で従軍、満洲で終戦を迎えてソ連軍捕虜となりシベリアに抑留された。 シベリアでは共産党史研究に従事する一方で、抑留者向けの新聞『日本しんぶん』(日本新聞とも)の編集委員を務め自身も諸戸文夫(もろと ふみお)の筆名でたびたび寄稿。
新井 信之(あらい のぶゆき、1916年(大正5年) - 1… 新井 信之(あらい のぶゆき、1916年(大正5年) - 1944年(昭和19年)5月4日)は、国文学者。栃木県生まれ。池田亀鑑、横山重に師事し、中古文学、特に『竹取物語』の本文研究の礎を築いた。 新井は昭和13年(1938年)、東京帝国大学文学部国文科在学時に、卒業論文として竹取物語の本文研究を行うことを決意する。池田亀鑑や反町茂雄の協力のもと調査・研究を行い、翌14年(1939年)に卒業論文「竹取物語の研究」を提出。その翌15年(1940年)に国文学者・横山重と知り合う。横山や同じく国文学者である太田武夫、実業家で蔵書家でもあった戸川浜男らの協力を得て、全国に散在する竹取物語の諸本を調査し、勤務の傍ら、昭和17年(1942年)秋から調査資料の整理、および新井が重要だと判断した七本の翻刻を開始した。
勝田 高司(しょうだ・たかし、1916年-2010年11月1… 勝田 高司(しょうだ・たかし、1916年-2010年11月16日)は日本の建築工学者、空気調和衛生工学者。東京大学名誉教授。東京都出身。 1940 (昭15) 年東京帝国大学工学建築学科卒業。1942 (昭17)年、東京帝国大学工学部講師に就任、勝田研発足。1943年7月に東京帝国大学第二工学部(千葉市弥生町)助教授に就任。 1949年5月東京大学生産技術研究所へ移行。 1950 (昭25)年度 「自然換気に関する実験的研究」にて日本建築学会賞(論文)。1952 (昭27)年工学博士授与。 1961年4月、教授に就任。 1963 (昭38)年日本建築学会理事 (~64年)。1968 (昭43)年環境工学委員会委員長(~70年)。
中村 治兵衛(なかむら じへえ、1916年 - 1991年9… 中村 治兵衛(なかむら じへえ、1916年 - 1991年9月26日)は、日本の歴史学者。 大阪生まれ。1938年東京帝国大学文学部東洋史学科卒業, 1939~46年東亜研究所, 1947~52年農林省農業総合研究所, 1954年九州大学教養部教授。1974年中央大学文学部教授。1987年退職。
黒岩 大助(くろいわ だいすけ、1916年 - 1983年1… 黒岩 大助(くろいわ だいすけ、1916年 - 1983年10月28日)は、日本の気象学者。電子顕微鏡研究から気象学に転じた経歴を持つ。 高知県に生まれる。1940年に東京物理学校(現・東京理科大学)を卒業後、逓信省電気試験所(現・産業技術総合研究所)に入所し、電子顕微鏡の研究に従事する。1942年に電子顕微鏡の一般向け解説書である『電子顕微鏡』を刊行した。日本電子の設立者である風戸健二は、本書を読んで電子顕微鏡研究を志したという。 1943年、電子顕微鏡を雪の結晶や霧の核の研究に活用する目的で中谷宇吉郎に招かれ、北海道帝国大学低温科学研究所の助手に就任。根室・千島地方で採取した霧粒子の核を電子顕微鏡(日立製作所製)で撮影することに世界で初めて成功する。
鬼頭 イツ子(きとう いつこ、1916年? - 1970年1… 鬼頭 イツ子(きとう いつこ、1916年? - 1970年12月19日)は英文学者。鶴見女子大学教授。 1960年代前半に、文化放送(JOQR) をキー局とするラジオ番組「百万人の英語」(提供:旺文社)で、講師を務めた。 顔写真は『百万人の英語』または改題後の『English Age』(ともに旺文社発行)で見られる。 1970年12月19日、54歳で死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
及川 完(おいかわ まさる/かん、1916年 – 1947年… 及川 完(おいかわ まさる/かん、1916年 – 1947年4月10日)は日本の歴史学者。専門は日本経済史。東京商科大学助教授、東亜経済研究所員。 岩手県江刺郡岩谷堂町(現:奥州市)出身。岩手県立盛岡中学校を卒業後、1930年、東京商科大学大学予科に入学。1933年に卒業し、大学学部に入学する。同期入学に大平正芳がいた。村松恒一郎のゼミで学び、1936年3月に学士試験合格。1937年から1939年まで京城高等商業学校助教授 。その後、日本工業倶楽部調査室勤務を経て、1941年に東京商科大学助手に任命される。同大学では、日本経済史担当の後継者として、川上多助の指導を受けていたが、1943年に応召。
脇坂 貞夫(わきざか さだお、1916年 - 1945年4月… 脇坂 貞夫(わきざか さだお、1916年 - 1945年4月19日)は、日本のフィールドホッケー選手。 滋賀県出身。東京商科大学(現在の一橋大学)在学中、1936年ベルリンオリンピックでホッケー競技に出場した。ポジションは右ウイング。 1939年に大学を卒業すると、満洲中央銀行に入行。まもなく日本帝国陸軍に召集され、第16師団(京都)に配属。 1944年4月、フィリピンのサマール島ネニタ (ceb:Nenita (lungsod sa Pilipinas)) 付近で死去(当時、歩兵第9連隊所属の陸軍大尉)。脇坂は病死であったとみられ、戦後に各種組織で行われた「戦没オリンピアン」の調査では、「戦没」の定義(あるいは「戦死」「戦病死」「病死」の定義)をめぐって、脇坂の名が挙げられている場合と挙げられていない場合がある。
岡見 如雪(おかみ なおゆき、1916年 - 2011年11… 岡見 如雪(おかみ なおゆき、1916年 - 2011年11月14日)は、日本の実業家、教育者。頌栄女子学院元理事長・校長、ウィンチェスター頌栄カレッジ創設者、三協日野ルノー代表取締役社長。 1916年(大正5年)、岡見敬一の長男として生まれる。祖父は頌栄女子学院創設者の岡見清致。(祖父清致の叔父は、慶應義塾の基礎を造った岡見清熙。) 1939年(昭和14年)、立教大学経済学部卒業。在学中は、スキー部に所属し、1937年(昭和12年)の創部にも携わった。 大学卒業後、三井物産勤務を経て、三協日野ルノー代表取締役社長を務めた。 1962年(昭和37年)、頌栄高等女学校の理事長に就任。 1964年(昭和39年)、校名を現在の「頌栄女子学院中学校」と「頌栄女子学院高等学校」に改称し、キリスト教学校教育同盟にも加盟。
高安 朝正(たかやす ちょうせい、大正5年(1916年)-昭… 高安 朝正(たかやす ちょうせい、大正5年(1916年)-昭和21年(1946年))は、琉球王国第二尚氏王統の分家士族である高安殿内の十四世。第二尚氏王朝 17代国王 尚灝の玄孫。筆頭格御殿あった伊江御殿十四世 伊江朝助(男爵)とは再従兄弟にあたる。早稲田大学の文学部を卒業後、朝日新聞社の記者として活躍するが、30歳の若さで早世した。妻の俊子は高嶺御殿十一世高嶺朝教の孫であり、神山政良、尚八重子(19代国王であった尚泰の王女)の姪にあたる。 1916年、首里市当蔵にて生まれる。後の妻 俊子とは当蔵にて幼馴染であった。 早稲田大学の文学部に在学の際には、東京都中野区上ノ原町にて、伊江朝忠、伊江朝顕、徳田安周らと下宿をしていた。
井黒 四郎(いぐろ しろう、1916年(大正5年) – 19… 井黒 四郎(いぐろ しろう、1916年(大正5年) – 1985年(昭和60年)4月24日)は、日本の洋画家。元一水会、一陽会会員。 現在の富山県滑川市に生まれる。1936年(昭和11年)第13回白日展で入選。1940年(昭和15年)第10回独立展で入選、同年佐藤洋らと北越美術協会設立。1948年(昭和23年)に棟方志功、佐藤洋、手塚義三郎らと北潮会結成。1949年(昭和24年)在野系の作家集団として佐藤洋、前田常作、玉井忠一らと一軌会結成。1967年(昭和42年)2月、富山青木画廊で「郷土作家二人展シリーズ(2)井黒四郎・大島修三展」を開催した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
大野木 浜市(おおのぎ はまいち、1916年 - 2004年… 大野木 浜市(おおのぎ はまいち、1916年 - 2004年7月5日)は、日本の元アマチュア野球選手。高校野球にて活躍した。静岡県出身。ポジションは外野手(主に右翼手)。 1916年に浜松市にて生まれた。1929年に尋常小学校卒業後、当時少年野球の強豪校と知られていた、浜松高等尋常小学校(現・浜松市立元城小学校)へ進み、1930年、高等尋常小2年の時には、戸塚球場で開かれた第11回全国少年野球優勝大会で優勝投手となった。元城小時代のチームメイトに、大友一明(元プロ野球選手。大東京軍、ゴールドスター等でプレー。)がいた。 1931年、中京商業学校に入学。甲子園には5回出場(春4回〈1932年~1935年〉。
土持 則正(つちもち のりまさ、1916年 - 1994年1… 土持 則正(つちもち のりまさ、1916年 - 1994年12月13日)は、日本の陸軍軍人、スパイ、陸上自衛官。 太平洋戦争においてF機関工作員としてタイに潜伏、インド国民軍の編成や戦後のインド独立に影響を与えた藤原岩市の指揮でマレー作戦、ビルマ作戦に従事。 1916年、宮崎県都城市出身。陸士49期。1937年、歩兵第四十五聯隊第一中隊所属、小隊長見習士官。日中戦争に少尉として従軍、正定城攻略戦では日本刀を手に白兵戦を敢行する。機関銃や迫撃砲攻撃の最中、手榴弾を投げる敵に太刀をふるった(証言者の福田清造伍長も銃剣で二人倒す程であった)。固安城の攻撃では第九十一師五百四十五団の敵歩兵2,200人を相手に突撃した。
田形 竹尾(たがた たけお、1916年〈大正5年)- 200… 田形 竹尾(たがた たけお、1916年〈大正5年)- 2008年〈平成20年〉3月10日)は、日本陸軍航空隊の戦闘機操縦者(パイロット)。「日本革命菊旗同志会」幹部。晩年に日本文化チャンネル桜設立発起人、設立後顧問。「誇りある日本をつくる会」初代会長。 飛行教官として特攻要員を育成、多くの未来ある若者を死地に送り出した経験から、戦後は一貫して特攻戦死者に対する正しい理解を広めるため活動した。 特攻隊員たちの遺した「あとを頼みます、日本を良い国にして下さい」という言葉に従い、「誇りある日本をつくる会」を設立、また歴史小説の第一人者である山岡荘八の指導を受け、特攻にまつわる著作を刊行した。その際、自身も多くの特攻を見送った経験のある山岡から「特攻は崇高すぎて、私には書けない、君が一生かかっても書くべきだ」と言われた。