馬場 菊太郎(ばば きくたろう、1905年 - 2001年1… 馬場 菊太郎(ばば きくたろう、1905年 - 2001年11月30日)は、日本の後鰓類学者。福岡県糸島郡波多江村(現・糸島市波多江)出身。
1905年(明治38年)生まれ:617人
馬場 菊太郎(ばば きくたろう、1905年 - 2001年1… 馬場 菊太郎(ばば きくたろう、1905年 - 2001年11月30日)は、日本の後鰓類学者。福岡県糸島郡波多江村(現・糸島市波多江)出身。
植田 重正(うえだ しげまさ、1905年(明治38年) - … 植田 重正(うえだ しげまさ、1905年(明治38年) - 1987年(昭和62年)4月8日)は、日本の法学者(刑事法学)。京都帝国大学法学部卒業後、関西大学法学部教授。京都府出身。 主著『共犯論上の諸問題』と『共犯の基本問題』で、今でいう純粋惹起説(間接正犯を認めず、「正犯なき共犯」を肯定する)を主張した。植田の共犯論は、佐伯千仭のそれとともに、関西の学者を中心に大きな影響を及ぼした。 弟子に中義勝や振津隆行(金沢大学教授)がいる(中の弟子が山中敬一)。今でも佐伯・中の共犯論を支持するのは、中山研一(京都大学名誉教授)と浅田和茂(大阪市立大学教授)ら。 「正犯なき共犯」を肯定する点は、共犯従属性説の放棄であるとして、関東共犯論の西田典之(東京大学)、山口厚(東京大学)、井田良(慶應義塾大学)らから、激しく非難されている。
井上 甚之助(いのうえ じんのすけ、1905年(明治38年)… 井上 甚之助(いのうえ じんのすけ、1905年(明治38年) - 1973年(昭和48年)3月19日)は、日本の演劇評論家、随筆家。京都府出身。 大丸創業一族の分家に生まれる。慶應義塾大学経済学部卒業後、京都大丸に勤務の傍ら、演劇評論家としても活動し、歌舞伎役者 七代目坂東三津五郎、京舞井上流の舞踊家 松本佐多の聞き書きを著した。自らも南座で素人歌舞伎の舞台に立つ粋人で、京都での暮らしを綴ったエッセイも残している。 文化部門の担当であった関係で画壇とも交流が深く、著作の装丁や挿絵は小野竹喬、堂本印象、川合玉堂、川端龍子、福田平八郎、上村松篁といった錚々たる大家が手掛けている。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
小関 紹夫(おぜき つぐお、1905年 - 1987年5月4… 小関 紹夫(おぜき つぐお、1905年 - 1987年5月4日)は、日本の官僚・法学者・弁護士。 佐賀県生まれ。第五高等学校卒、1929年東京帝国大学法学部卒。高等文官試験行政科合格。彦根高等商業学校(現滋賀大学)教授、文部省、厚生省、興亜院に勤務、衆議院内閣委員会専門員、国立国会図書館調査員、1959年「イギリスにおける近代行政の展開」で関西学院大学法学博士。弁護士、専修大学法学部教授、理事、法学部長。1976年定年、名誉教授。
曽我 直子(そが なおこ、1905年 - 1995年7月24… 曽我 直子(そが なおこ、1905年 - 1995年7月24日)は、昭和初期に活動した日本の歌手である。本名は岡田 田鶴(おかだ たづ)。別の芸名として浅香 つる江がある。蒲田行進曲を川崎豊とデュエットで歌ったことで知られる。 1905年、愛知県で生まれる。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)声楽科、帝国劇場歌劇部(のちの洋劇部。1912年-1916年)研究生を経て歌手となる。主にニッポノホン、コロムビア、ヒコーキ(3つとも現在はコロムビアミュージックエンタテインメント)等のレコードレーベルで多くの曲を歌い、ヒット歌手となった。1995年7月24日死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、歌手に関連した書きかけの項目です。
平松 義彦(ひらまつ よしひこ、1905年(明治38年)- … 平松 義彦(ひらまつ よしひこ、1905年(明治38年)- 1980年(昭和55年)1月22日)は、日本の建築家。昭和戦前期から戦後にかけて活動していた。 以下 <まちもり通信:二人の建築家の戦中戦後 建築家・小町和義氏インタビュー>や『追悼 平松義彦』(1980年、株式会社平松建築設計事務所 及 新建築家技術者集団 著)によると、東京市芝区下高輪町出身。1928年に東京美術学校卒業後、兄の英彦が勤めていた大林組に入社。また分離派建築会にも関わり、その後創宇社建築会メンバーとなる。 戦中期は劇團前進座の集合住宅などを手掛けるほか、大正期新興美術運動にも携わる。 戦後、創宇社建築会メンバーの仲間であった今泉善一、道明栄次らと共同経営で東京建築設計事務所を開設。
泉二 勝磨(もとじ かつま、1905年-1944年10月3日… 泉二 勝磨(もとじ かつま、1905年-1944年10月3日)は、昭和初期に活動した日本の彫刻家。 後に大審院院長となる泉二新熊の子として東京市に生まれる。東京美術学校を卒業後、1931年(昭和6年)にフランスにわたり、ジャン・デュナンに師事。1939年(昭和14年)に帰国後、二科展に彫塑を10点出品した。 続く1940年(昭和15年)の二科展に「朔雲童児」出品、さらに翌1941年(昭和16年)に「東郷大将バルチック艦隊を睨む」を出品して二科会員に推された。その後、多摩帝国美術学校にて講師を務め、1944年10月3日に死去。多磨霊園に墓所が存在する。
金 済能(キム・ジェヌン、朝鮮語: 김제능/金濟能、1905… 金 済能(キム・ジェヌン、朝鮮語: 김제능/金濟能、1905年 - 1960年9月23日)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 出生地不明。日本大学法文学部卒。在中国張家口朝鮮人会長、大同青年団、のちの大韓青年団において瑞山郡団長を務めた。1952年の第2代総選挙の補欠選挙に自由党の公認で瑞山郡甲選挙区から当選し、国会議員を1期務めた。1960年9月23日に瑞山郡にて心臓麻痺により55歳で死去した。
櫛部 喜男(くしべ よしお、1905年 - 1928年)は陸… 櫛部 喜男(くしべ よしお、1905年 - 1928年)は陸軍依託第3期操縦生の一等飛行機操縦士。明治神宮体育大会の飛行競技で一位を取るなどしたが、航空事故で早世した。 喜男は東京市小石川区戸崎町で旧会津藩士・吉田喜八郎と妻ヨシの二男として、1905年(明治38年)3月24日に出生。生後間もない七ヶ月の頃、静岡県沼津で弁護士をしていた櫛部荒熊と妻きくの養子となる。 1912年(明治45年)4月、東京市赤坂区の氷川尋常小学校に入学。1917年(大正6年)3月に同校を卒業した喜男は私立明治中学校に進学。1921年(大正10年)4月に明治大学英法学部予科に入学したが、翌年には陸軍依託第3期操縦生の試験に合格し、12月1日付けで所沢陸軍航空学校へ入校した。
大島 義夫(おおしま よしお、1905年 - 1992年8月… 大島 義夫(おおしま よしお、1905年 - 1992年8月30日)は、日本の言語学者、エスペラント学者。財団法人エスペラント学会理事。 東京生まれ。中学生時代にエスペラントと出会い、1924年に日本エスペラント学会入会。1929年、早稲田大学政治経済学部卒。 昭和初期から比嘉春潮・伊東三郎らとプロレタリア・エスペラント運動(プロ・エス)に従事。『プロレタリア・エスペラント講座』(鉄塔書院)全6巻の編集にあたり、運動の理論的指導者となる。また「高木弘」のペンネームでソ連のエスペランチスト、ドレーゼンの『世界語の歴史』を翻訳・出版。唯物論の立場から言語学にアプローチし、ソビエト言語学の紹介につとめる。
杜 運宇(と うんう、1905年 – 1960年10月27日… 杜 運宇(と うんう、1905年 – 1960年10月27日)は、中華民国・蒙古聯合自治政府(蒙古自治邦)の官僚。旧名は維俊。 1922年(民国11年)に京師公立第一中学を、1924年(民国13年)に上海滬江大学予科を、それぞれ卒業している。1926年(民国15年/大正15年)4月、日本へ留学して早稲田大学専門部政治経済学科に入学し、1929年(民国18年/昭和4年)に卒業した。 帰国後は山東省で任官し、交渉署日本科長、硝鉱総局総務科長、県長訓練班教授、第一県長考試委員会委員を歴任している。1934年(民国23年)、『済南日報』社主筆に転じた。1936年(民国25年)、察哈爾省(チャハル省)政府(主席:劉汝明)財政庁秘書となり、翌1937年(民国26年)、財政庁長兼財政委員会委員に昇進している。
李 周衡(イ・ジュヒョン、朝鮮語: 이주형、1905年または… 李 周衡(イ・ジュヒョン、朝鮮語: 이주형、1905年または1906年1月6日 - 1951年8月)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚南道密陽郡出身。徽文高等普通学校(現・徽文高等学校)、京城帝国大学予科・法文学部史学科卒。普成中学校教員、木浦高等女学校校長、馬山中学校校長、密陽中学校校長を経て、私立正進学校を経営したが、戦中に廃校された。光復後は慶尚南道米軍政顧問、独促国民会密陽郡支部長、過政立法議院議員、密陽中学校創設者・校長、国会議員を務めた。朝鮮戦争の際北朝鮮に拉致された。 1962年4月28日の東亜日報の連載によると、1951年6月の原因不明の伝染病にかかった後、同年8月下旬ごろに平壌付近で死去した。
黒田 元一(くろだ もといち、1905年 - ?)は、兵庫県… 黒田 元一(くろだ もといち、1905年 - ?)は、兵庫県赤穂市出身の柔術家である。 1905年2月4日(明治38年)兵庫県赤穂市上仮屋で生まれた。 黒田家は赤穂藩で学ばれていた高木流体術を家伝として伝えており、黒田元一は高木流体術の13代目師範であった。 1924年(大正13年)講道館柔道に入門し、1949年(昭和24年)に講道館柔道六段となった。 赤穂町塩屋青年会館柔道指導員、赤穂町翼賛壮年団柔道教師、赤穂警察署の柔道教師、兵庫県立上郡高等学校柔道講師、兵庫県立桐生産業高校柔道講師などを務めた。
木村 殖(きむら しげる、1905年 - 1974年12月2… 木村 殖(きむら しげる、1905年 - 1974年12月22日)は、日本の登山家、山岳ガイド、山小屋経営者。北アルプス山中の上高地に永く定住し、山小屋の経営などにあたるかたわら、第二次世界大戦の前後を通して千数百件におよぶ山岳遭難救助活動を行なった。 1905年当時の長野県南安曇郡三田村田多井(現在の安曇野市堀金三田田多井)に生まれる。 1925年、志願兵として陸軍第19師団歩兵第75連隊に入り、会寧の国境守備大隊に配置された。入営後1年半ほどしてから、選抜されて陸軍歩兵学校に学んだ。 兵役を終えた後、外交官を志し、普通文官試験の受験勉強に取り組むべく、1927年に父親が管理人をしていた上高地の温泉ホテルに住み込む。
福崎 日精(ふくざき にっしょう、1905年 - 1969年… 福崎 日精(ふくざき にっしょう、1905年 - 1969年3月11日)は、日本のコンクリート仏師。埼玉県秩父市の護国観音像は弟であり助師である福崎秀雲との共作である。 千葉県勝浦市出身で元々は左官であった。奈良県信貴山で修行した。のちに滋賀県醒井町地蔵院の僧となった。 松久朋琳は著書の中で「お惣菜には梅干しと塩昆布のほかは喰わないという、まるで仙人みたいな変わり者で、自分にも他人にも厳しい人でした」と語っている 。また、日精が仕事で倒れ亡くなった事に関しては梅干しや昆布では体がもたなかったと評している。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
白沢 ナベ(しらさわ ナベ、1905年〈明治38年〉 - 1… 白沢 ナベ(しらさわ ナベ、1905年〈明治38年〉 - 1993年〈平成5年〉10月21日)は、日本のアイヌ口承文芸伝承者。ユカㇻ(アイヌの口承文芸)の北海道千歳市における第一人者とされる。アイヌの古老の女性に対する敬称「フチ」をつけて「白沢ナベフチ」の名でも呼ばれる。 北海道のウサクマイ村(後の千歳市蘭越)で誕生した。ユカㇻの名人を父に持ち、幼少時よりユカㇻを聞かされて育った。17歳で結婚したが、23歳のとき夫と死別し、幼い子供2人を抱えて懸命に働いた。やがて父が死去し、死に際に「アイヌ民族の言葉を必ず伝えてくれ」と繰り返し言われたことが、後年に影響を及ぼすこととなった。 植林作業などで働いていたが、70歳で膝を傷めたことを機に仕事を辞め、ユカㇻの伝承に打ち込んだ。
菅沼 五郎 (すがぬま ごろう、1905年 - 1999年4… 菅沼 五郎 (すがぬま ごろう、1905年 - 1999年4月19日)は、愛知県出身の日本の彫刻家である。 菅沼五郎は、1905年、愛知県豊橋市の銀行家の家庭に生まれ、上京して東京美術学校で朝倉文夫に彫刻を学んだ。池袋モンパルナスの一画にあった貸しアトリエ「桜ヶ丘パルテノン」を仕事場にする。1941年、『婦』で第4回新文展の特選を受賞。 1950年、彫刻部を新設した二紀会に加盟し、翌年には彫刻部新委員を引き受けている。1952年、池袋モンパルナスで交流の深かった童画家黒崎義介が藤沢市鵠沼海岸が転居した後を追うように自らも鵠沼に転居した。土地は父親が金鵄勲章受章記念に購入してあった別荘地だという。