小川 三千三(おがわ みちぞう、1863年3月29日(文久3… 小川 三千三(おがわ みちぞう、1863年3月29日(文久3年2月11日) - 1899年(明治32年)5月12日)は、日本の明治期の弁護士、政治家。東京市会議員、日本橋区会議長。 1863年3月29日(文久3年2月11日)、江戸日本橋馬喰町郡代に生まれる。海保竹渓に漢学を学び、1875年(明治8年)に東京外語学校(現・東京外国語大学)に入り、英語を修学、大学予備門を経て、1877年(明治10年)に東京大学医学部に入る。しかし、我医を以って名を成すに足らずと大学を退き、1880年(明治13年)に東京法学校(現・法政大学)に入り、フランス法学を修める。1882年(明治15年)に立憲改進党に入党し、1884年(明治17年)に代言人試験に合格する。
太田 松次郎(おおた まつじろう、1863年3月28日(文久… 太田 松次郎(おおた まつじろう、1863年3月28日(文久3年2月8日)- 1886年(明治19年)2月19日)は、明治時代の自由民権運動家である。 三河の幡豆郡一色村(現在の愛知県西尾市)に豪商の家系の子として生まれる。若くして自由民権運動に参加し、内藤魯一らと共に国会の開設に携わった。その後は自由党に入党し同党の本部で様々な活動の補佐に携わり、1880年(明治13年)には政治活動をまとめた著書である『政法論』を執筆する。 翌1881年(明治14年)には『自由権理論』の出版にも携わり、後に東京や横浜を中心に日本各地で演説活動や新聞および雑誌といったマスメディアに論説を発表することにも力を入れた。
今泉 定助(いまいずみ さだすけ、文久3年2月9日〈1863… 今泉 定助(いまいずみ さだすけ、文久3年2月9日〈1863年3月27日〉 - 昭和19年〈1944年〉9月11日)は、日本の神道家、思想家、国文学者。宮城県白石市出身。 神宮奉斎会会長。日本大学皇道学院院長。東洋文化研究所講師。前名は定介(さだすけ)、号は竹の屋主人。 東京大学古典講習科入学以来、明治時代は純粋な国文学者としての道を歩む。初代司法大臣山田顕義にかわいがられ、将来を嘱望され、皇典講究所の講師を依頼された。大正の初期に川面凡児の実践的神道論に影響を受けてより、本居宣長以来の国文学的神道論に加え、実践に基づく信仰的な神道論を加えて「皇道」と呼び、それを国民の指針として普及する活動に尽力する。
鈴木 宗言(すずき そうげん、1863年3月24日(文久3年… 鈴木 宗言(すずき そうげん、1863年3月24日(文久3年2月6日) - 1927年(昭和2年)2月24日)は、明治から大正時代の司法官僚。台湾総督府官僚。実業家。名古屋地方裁判所長。台湾総督府覆審法院長。大審院検事。位階は正三位。旧姓は柴野。 柴野宗八の弟、中村是公の兄として安芸国佐伯郡五日市村(五日市町を経て現広島県広島市佐伯区)に生まれ、1873年(明治6年)9月、鈴木正言の養子となったのち分家する。柴野家の墓は現在でも広島県佐伯区五日市の光禅寺にある。1888年(明治21年)7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業し、判事補となり1890年(明治23年)判事に進む。以来、横浜地方裁判所判事、同部長、東京控訴院判事、同部長、名古屋地方裁判所長、台湾総督府法院判官、覆審法院部長、同法院長などを歴任し、1907年(明治40年)8月、大審院検事に任じた。
武満 義雄(武滿、たけみつ よしお、1863年3月24日(文… 武満 義雄(武滿、たけみつ よしお、1863年3月24日(文久3年2月6日)- 1941年(昭和16年)6月19日)は、明治から昭和初期の漁業家・政治家。衆議院議員。旧姓・木原。 薩摩国薩摩郡隈之城郷、のちの鹿児島県薩摩郡隈之城村(川内町、川内市隈之城を経て現薩摩川内市)で、木原助左衛門の二男として生まれ、1876年(明治9年)武満貢の養子となり、1876年(明治9年)9月、家督を相続した。英漢学を修得。1880年(明治13年)に上京して岡千仭(岡鹿門)から漢学を学んだ。1883年(明治16年)鹿児島の三州義塾で中学程度の普通学を修め、そのほか私塾で学ぶ。1884年(明治17年)再度上京して東京法学院(英吉利法律学校、現中央大学)で学んだ。
臼井 哲夫(うすい てつお、1863年3月18日(文久3年1… 臼井 哲夫(うすい てつお、1863年3月18日(文久3年1月29日)- 1935年(昭和10年)6月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国高来郡島原村(現:長崎県島原市)で、臼井三平の長男として生まれる。島原学校、松風義塾、小叩塾などを経て慶應義塾で学ぶ。 1880年、同志と共に西海日報社を創立し、翌年まで同紙の記者を務めた。1888年、日本輸出米商社事務長に就任。以後、総武鉄道庶務課長、近江鉄道取締役、磯湊鉄道取締役、上野鉄道社長、吾妻川電力社長などを歴任した。 1883年、長崎県会議員に当選。1898年8月、第6回衆議院議員総選挙において長崎県第三区から出馬し当選。その後、第8回、第9回、第10回総選挙でも当選。
阿部 武智雄(あべ たけちお、1863年3月17日(文久3年… 阿部 武智雄(あべ たけちお、1863年3月17日(文久3年1月28日) – 1931年(昭和6年)2月3日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。 陸奥国北津軽郡七和村(現在の青森県五所川原市)に阿部弥吉の長男として生まれる。青森県師範学校を卒業後、小学校訓導を務めていたが、政界に進出し、七和村会議員、北津軽郡会議員、同参事会員、同議長、青森県会議員、同参事会員、同副議長、同議長を歴任した。岩木川改修期成同盟会長として岩木川の治水に尽力し、また造林事業にも力を注いだ。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他に青森日報社専務取締役を務めた。
徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年… 徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年1月25日) - 1957年(昭和32年)11月2日)は、明治から昭和にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる。
近藤 喜兵衛(こんどう きへえ、1863年3月13日〈文久3… 近藤 喜兵衛(こんどう きへえ、1863年3月13日〈文久3年12月8日〉 - 1932年〈昭和7年〉)は、日本の実業家、資産家、鳥取県多額納税者。鉱山業、近藤本店店主。近藤家第6代。 伯耆国日野郡根雨宿(のち鳥取県日野郡根雨町、現日野町)出身。近藤喜八郎の長男。1883年、家督を相続する。製鉄業、商業を営む。 所謂伯耆鉄の品質を改良し、欧州大戦勃発以来専ら特殊銑鉄の供給に当たり、1ヶ年砂鉄採取額1万2千噸、製鉄産額3千噸、この価格45拾万円、1日平均2千人の労働者を使用し、国家の危急に応じたが、1919年以来外国鉄の輸入に圧せられ、事業を休止した。 製鉄業の休止による数千人の失業者救済は、最も腐心する所であって、その際一大英断をもって製炭事業を起し、職工全部をこの方面に転業させた。
林 小参(小參、はやし こさん、1863年3月9日(文久3年… 林 小参(小參、はやし こさん、1863年3月9日(文久3年1月20日)- 1921年(大正10年)11月21日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員。旧姓・小原。 尾張国春日井郡上条村(愛知県春日井郡和爾良村、東春日井郡和爾良村、鳥居松村を経て現春日井市上条町)で、小原藤三郎の長男として生まれ、皇漢学、英学、撃剣、柔術を学んだ。1881年(明治14年)先々代林金兵衛の養子となり、先代・亡養兄国太郎の家督を相続し農業を営む。 学務委員、勧業委員、東春日井郡書記、和爾良村会議員、連合村会議員、愛知県教育会商議員、愛知県育児院幹事、東春日井郡徴兵参事員、同郡会議員、同参事会員、愛知県会議員、大日本武徳会支部常置委員などを務めた。
初代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、文久3年1月20日… 初代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、文久3年1月20日〈1863年3月9日〉 - 1929年〈昭和4年〉6月6日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。群馬県前橋市長、第12代群馬県会議長、前橋市会議長、群馬中央銀行(現・群馬銀行)頭取。 坂本金十郎の三男として、武蔵国児玉郡児玉町(現・埼玉県本庄市)に生まれる。 前橋の江原都奈(つな)の養子となり、資産家・江原家の分家を継いだ。 1892年(明治25年)第1回前橋市会議員選挙に当選。以後1896年(明治29年)から翌年まで市会副議長、1898年(明治31年)から1903年(明治36年)まで市会議長を務める。1903年(明治36年)に群馬県会議員に当選、1905年(明治38年)県会議長となる。
東 良三郎(ひがし / あずま りょうざぶろう、文久3年1月… 東 良三郎(ひがし / あずま りょうざぶろう、文久3年1月18日(1863年3月7日) - 大正5年(1916年)1月24日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→憲政本党)。弁護士。 備中国川上郡松原村(現在の岡山県高梁市)出身。司法省法学校で法学を学んだ。1888年(明治21年)より松江、東京、大阪の各裁判所で判事を務めた。1893年(明治26年)に官を辞し、大阪で弁護士を開業した。 1894年(明治27年)、第3回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第6回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。
朝倉 外茂鉄(あさくら ともてつ、文久3年1月16日(186… 朝倉 外茂鉄(あさくら ともてつ、文久3年1月16日(1863年3月5日) - 昭和2年(1927年)6月14日)は、日本の衆議院議員、弁護士。 加賀国金沢出身。石川県専門学校、東京英和学校を経て、1885年(明治18年)に東京大学法学部選科に入学した。その後本科に移り、1889年(明治22年)に帝国大学法科大学英法科(東京大学から改称)を卒業した。渋沢栄一の知遇を得て第一銀行法律顧問となり、さらに浅野総一郎の法律顧問も務めた。また東京法学院、東京専門学校、東京商業学校、専修学校、日本法律学校などの講師に就任した。1890年(明治23年)に弁護士となり、1896年(明治29年)には日本弁護士協会の結成に参加した。
阪谷 芳郎(さかたに よしろう、1863年3月5日〈文久3年… 阪谷 芳郎(さかたに よしろう、1863年3月5日〈文久3年1月16日〉- 1941年〈昭和16年〉11月14日)は、日本の大蔵官僚、政治家。子爵、法学博士。大蔵大臣、東京市長、貴族院議員などを歴任した。父親は阪谷朗廬。曾孫の橋本久美子は首相を務めた橋本龍太郎の妻である。 後月郡西江原村(現:岡山県井原市)、幕末に開国派として活躍した漢学者、阪谷朗廬の四男として生まれる。1873年(明治6年)に父の友人である箕作秋坪の三叉学舍に入り、1876年(明治9年)には東京英語学校に入学、1880年(明治13年)には東京大学予備門を卒業。 1884年(明治17年)、東京大学文学部政治学科(現:法学部第3類)を卒業後、大蔵省に入省する。
五十嵐 佐市(いがらし さいち、文久3年1月14日(1863… 五十嵐 佐市(いがらし さいち、文久3年1月14日(1863年3月3日) - 昭和19年(1944年)8月7日)は、日本の実業家、政治家。北海道多額納税者。北海造営(株)監査役。札幌電気軌道監査役。金融業。地主。北海道士族。衆議院議員。 越前国足羽郡、のちの福井県足羽郡和田村(現福井市)出身。福井県士族五十嵐佐次平の長男。明治31年(1898年)家督を相続する。金融業を営む。衆議院議員に挙げられる。 五十嵐農場(東中)の土地売却をめぐっては、当時急激に増加しつつあった小作争議との関わりで社会の注目を集めることになった。この農場は明治40年(1907年)に中島農場から所有権が移動したもので、実質的な所有者は札幌の金貸し業・五十嵐であった。
河村 九淵(かわむら ちかすえ、1863年3月2日(文久3年… 河村 九淵(かわむら ちかすえ、1863年3月2日(文久3年1月12日) - 1934年4月9日)は、日本の教育者、農学者。熊本農業学校(現・熊本県立熊本農業高等学校)初代校長、立教学校(現・立教大学)化学教授、奈良英和学校校長、香川県高松尋常中学校校長。熊本県近代文化功労者。 1863年(文久3年)、津山藩士・河村浩一の長男として江戸に生まれる。岡山県出身。1876年(明治9年)に開校した日本最初の高等農業教育機関である札幌農学校(現・北海道大学)で4期生として学ぶ。 農学校卒業後、山形で農学校教諭、香川県高松尋常中学校校長を歴任。 1890年(明治23年)10月、立教大学校(現・立教大学)が改組されて第2次立教学校が発足すると、化学の教授に就任し、動物学、植物学、生理学を講じる。
佐藤 琢治(さとう たくじ、文久3年1月13日(1863年3… 佐藤 琢治(さとう たくじ、文久3年1月13日(1863年3月2日) - 1902年(明治35年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。号・養花生、浩毅。 陸奥国登米郡登米(現在の宮城県登米市)で、仙台藩陪臣・佐藤弥右衛門の二男として生まれる。明治法律学校(現在の明治大学)で学ぶ。自由党に入党したため、保安条例で追放された。『新愛知』、『仙台自由新聞』、『民報』、『自由党党報』で記者を務めた。1892年(明治25年)、宮城県会議員に選出。 1898年(明治31年)、第6回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
鎌田 三之助(かまた さんのすけ、1863年3月2日(文久3… 鎌田 三之助(かまた さんのすけ、1863年3月2日(文久3年1月13日) - 1950年(昭和25年)5月3日)は、日本の公共事業家、政治家。衆議院議員、宮城県鹿島台村(現在の大崎市鹿島台地域)村長。品井沼干拓事業に打ち込み「わらじ村長」の名で知られた。 1863年(文久3年)陸奥国志田郡木間塚村竹谷(現在の宮城県大崎市古川、旧・古川市)に鎌田三治の次男として生まれる。生家の鎌田家は、仙台藩士の流れを汲む家で鳴瀬川に沿った大地主の家柄であり、祖父玄光、父三治とも地元の治水事業に生涯を傾けた。1878年(明治11年)政治家を志し上京し、漢学塾や明治法律学校で学ぶ。郷里に戻り農業に従事しながら木間塚に青年教育の場として大成館を設立し夜学で教える。
竹村 欽次郎(たけむら きんじろう、1863年3月1日(文久… 竹村 欽次郎(たけむら きんじろう、1863年3月1日(文久3年1月12日)- 1932年(昭和7年)4月16日)は、明治から昭和初期の大蔵官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・古瀬。 出羽国最上郡、のちの山形県最上郡新庄町(現新庄市)で、素封家、新庄藩士・古瀬鉄之助の第五子として生れ、同藩士・竹村勝行の養子となる。1888年(明治21年)7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 1888年11月24日、大蔵省試補に任官し出納局に配属。出納局配賦課事務取扱、大蔵主計官、預金局勤務、兼預金局収支課長、理財局国庫課長、青森県収税長、岡山県収税長、新潟税関長、司税官、新潟県税務管理局長、大蔵主計官などを歴任し、1898年(明治31年)10月27日に退官した。
中川 恒次郎(なかがわ つねじろう、1863年(文久3年)3… 中川 恒次郎(なかがわ つねじろう、1863年(文久3年)3月 - 1900年(明治33年)8月14日)は、明治時代の日本の外交官、経済学者。在タウンズビル日本帝国領事館や在シドニー日本帝国領事館の初代領事などを務めた。 1863年(文久3年)3月、江戸に生まれる。1884年(明治17年)、東京大学法理文学部政治学及理財学科を卒業し、文学士の学位を取得し、卒業後、大蔵省に入省した。 大蔵省勤務のかたわら、1886年(明治19年)から1887年(明治20年)にかけて『経済實學講義』二巻を著し、同書はドイツ歴史学派を日本で紹介した最初の導入書とされる。1887年(明治20年)の国家学会創立時には雑誌委員を務めた。
久保田 与四郎(くぼた よしろう、文久3年1月11日(186… 久保田 与四郎(くぼた よしろう、文久3年1月11日(1863年2月28日) - 大正8年(1919年)4月24日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 文久3年(1863年)、信濃国小県郡長瀬村(現長野県上田市)で出生。旧姓は高柳。 16歳にして長野師範学校を出て小学校教員となる。明治14年(1881年)1月辞して、翌年慶應義塾に入るが、2年にして帰郷。後に再度上京して明治法律学校に入学。代言人(弁護士)免許を得て、明治19年(1886年)卒業。 明治20年(1887年)1月、東京にて弁護士を開業。後にロンドンに留学して、法学、政治学を学ぶ。 英船ノルマントン号事件の名誉回復訴訟における原告代理人などを務めた。
村上 先(むらかみ すすむ、文久3年1月8日(1863年2月… 村上 先(むらかみ すすむ、文久3年1月8日(1863年2月25日) - 1925年(大正14年))は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。実業家。号は李門。 陸奥国気仙郡矢作村(現在の岩手県陸前高田市)出身。仙台藩士伊藤武左衛門の二男として生まれ、村上大蔵の養子となった。漢学・英学を学び、鳥取県東伯郡長、札幌支庁長を務めた後、台湾総督府に移り、台北県滬尾弁務署長、臨時土地調査局事務官、塩水港庁長、台南庁長を歴任した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、台湾証券交換所社長、日鮮鉱業社長、大正活映社長、帝国殖産興業社長、東洋美術興業社長、旭製炭顧問などを務めた。
河口 善之助(かわぐち ぜんのすけ、1863年2月24日(文… 河口 善之助(かわぐち ぜんのすけ、1863年2月24日(文久3年1月7日)- 1933年(昭和8年)11月13日)は、明治期から昭和初期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員、山梨県南都留郡谷村長、同谷村町長。 甲斐国都留郡、のちの谷村(山梨県南都留郡谷村、谷村町を経て現都留市)で、豪農・河口善兵衛の長男として生まれる。和漢学、数学を修めた。1877年(明治10年)1月、家督を相続し農業を営む。 1882年(明治15年)7月、巌村(現上野原市)の古家広泰らの鶴北自由党(のち峡中立憲党)に入党し自由民権運動に加わった。谷村長、谷村町長、南都留郡会議員、同参事会員、所得税調査員を務めた。1888年(明治21年)山梨県会議員に選出された。
坪井 正五郎(つぼい しょうごろう、文久3年1月5日(186… 坪井 正五郎(つぼい しょうごろう、文久3年1月5日(1863年2月22日) - 大正2年(1913年)5月26日)は、日本の自然人類学者。日本初の人類学者として、日本における考古学・人類学の普及と確立に尽力した。坪井信道の孫で、坪井信良の子。 蘭方医・坪井信道の孫として江戸の両国矢之倉(現・東日本橋)に生まれた(父は信道の女婿、幕府奥医師坪井信良である)。1877年大学予備門に入り、1886年帝国大学理科大学動物学科卒業。同年、東京人類学会を結成。帝国大学大学院に進学し人類学を専攻、修了後の1888年帝国大学理科大学助手。翌年より3年間イギリスに留学し、1892年10月帰国し帝国大学理科大学教授。
武島 務(たけしま つとむ、1863年2月20日(文久3年1… 武島 務(たけしま つとむ、1863年2月20日(文久3年1月3日) - 1890年(明治23年)5月17日)は、日本の明治期の陸軍軍医。森鷗外の短編小説『舞姫』に登場する主人公・太田豊太郎のモデルとされる。 1863年2月20日(文久3年1月3日)、武蔵国秩父郡太田村(現・埼玉県秩父市)に漢方医であった武島家三代目の父・有慶と母・きよの長男に生まれた。済生学舎(現日本医科大学)と東亜医学校にて医学を学ぶ。東亜医学校では森鴎外から生理学の講義を受ける。1882年(明治15年)に東京府医術開業試験に合格。内外科医術開業免許を受ける。 1884年(明治17年)3月、軍医学講習所(陸軍軍医学校の前身)に入所。
関根 萬司(せきね まんじ 、1863年2月17日(文久2年… 関根 萬司(せきね まんじ 、1863年2月17日(文久2年12月29日) - 1924年(大正13年)4月27日)は、日本の教育者。越後国刈羽郡北条村小島(現:新潟県柏崎市大字小島)出身。
飯田 壽作(いいだ じゅさく、1863年2月17日〈文久2年… 飯田 壽作(いいだ じゅさく、1863年2月17日〈文久2年12月29日〉 - 1930年〈昭和5年〉1月14日)は、日本の実業家。西宮銀行常務取締役。西宮酒造取締役・同監査役。西宮開運取締役。族籍は兵庫県平民。 兵庫県平民・飯田與作の長男。1874年、分かれて一家を創立する。住所は兵庫県武庫郡西宮町松原(現・西宮市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
鄭 永邦(てい えいほう、1863年2月16日〈文久2年12… 鄭 永邦(てい えいほう、1863年2月16日〈文久2年12月28日〉 - 1916年〈大正5年〉8月20日)は、明治時代の日本の外交官。 肥前国長崎生まれ。鄭家は鄭成功の末裔と称し、明朝滅亡後、その遺臣として日本に亡命し定着した。長崎では代々、唐人屋敷の清朝の役人の通訳を稼業とした(幕末の時期は勝海舟をはじめとした長崎海軍伝習所教習生とも交流)。父の鄭永寧、兄の鄭永昌も外交官である。義兄(父・永寧の養父・鄭幹輔の庶子で、永寧の長男として養子縁組した)鄭永慶は日本で初めて本格的なコーヒー店「可否茶館」を開いたことで知られる。 東京外国語学校(現在の東京外国語大学)卒業後、北京公使館員として北京に赴任。
岡倉 天心(おかくら てんしん、文久2年12月26日〈186… 岡倉 天心(おかくら てんしん、文久2年12月26日〈1863年2月14日〉 - 大正2年〈1913年〉9月2日)は、日本の思想家、文人。本名は岡倉 覚三(おかくら かくぞう)。幼名は岡倉 角蔵(読み同じ)。 横浜の本町5丁目(現在の同市中区本町1丁目、横浜開港記念会館付近)で生まれる。福井藩出身の武家で、1871年に家族で東京に移転。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の設立に大きく貢献し、後年に日本美術院を創設した。近代日本における美術史学研究の開拓者で、英文による著作での美術史家、美術評論家としての活動、美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長といった多岐に亘る啓発活動を行い、明治以降における日本美術概念の成立に寄与した。
池田 藤八郎(いけだ とうはちろう、1863年2月11日(文… 池田 藤八郎(いけだ とうはちろう、1863年2月11日(文久2年12月23日) - 1911年(明治44年)7月7日)は、明治時代の政治家、銀行家。衆議院議員(1期)。山形県飽海郡酒田町長。幼名は辰三郎、別名に光礼。 本間光貞の二男として出羽鶴岡藩領飽海郡、のちの酒井新田村天王下(山形県飽海郡西荒瀬村を経て現酒田市)に生まれる。1879年(明治12年)上京し同人社に入り碩学中村敬宇のもとで漢学や英学を修めたのち帰郷する。1882年(明治15年)飽海郡の中学校教員となり、1885年(明治18年)24歳の時、酒田本町の池田家の養子に入り名を藤八郎に改めた。1889年(明治22年)酒田町会議員に当選し、酒田町長、飽海郡会議員、同議長を経て、1902年(明治35年)山形県会議員に当選する。
押川 則吉(おしかわ のりきち、1863年2月7日〈文久2年… 押川 則吉(おしかわ のりきち、1863年2月7日〈文久2年12月19日〉 - 1918年〈大正7年〉2月18日)は、日本の農商務・内務官僚、政治家。官選県知事、製鉄所長官、貴族院議員。林野整理審査会長、日本大博覧会評議員、大礼準備委員なども務めた。位階および勲等は従三位・勲一等。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下加治屋町(現鹿児島県鹿児島市加治屋町)で、薩摩藩士・押川乙五郎の長男・千代太郎として生まれる。1880年6月、東京農林学校を卒業。1883年3月、農商務省御用掛として出仕。同年6月、農学士・農芸化学士の学位を取得。 1885年7月、新潟県御用掛に就任。1887年4月、農商務属として本省に復帰。
柴田 家門(しばた かもん、1863年2月6日〈文久2年12… 柴田 家門(しばた かもん、1863年2月6日〈文久2年12月18日〉- 1919年〈大正8年〉8月25日)は、文部大臣、貴族院議員などを務めた政治家。 萩城下平安古(現在の山口県萩市平安古東区)に柴田英佐(えいすけ)の長男として出生。同郷に田中義一、藤井幸槌がいる。 1882年(明治15年)に上京し、大学予備門(第一高等中学校、現在の東京大学教養学部)を経て、東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)に進学。1890年(明治23年)に同大学卒業後、内閣書記官、法制局参事官、行政裁判所評定官等を務める。 1898年(明治31年)、第2次山縣内閣の内務省地方局長を務める。1901年(明治34年)、第1次桂内閣の内閣書記官長に就任。
白勢 春三(しろせ しゅんぞう、1863年2月6日〈文久2年… 白勢 春三(しろせ しゅんぞう、1863年2月6日〈文久2年12月18日〉 - 1941年〈昭和16年〉5月25日)は、日本の政治家、新潟県多額納税者、資産家、地主、実業家。衆議院議員(新潟県新潟市選出、当選1回)、貴族院議員。新潟商工会議所顧問。族籍は新潟県平民。 越後国蒲原郡(のち新潟県北蒲原郡金塚村、現在の新発田市金塚)生まれ。白勢彦次郎の長男、白勢二朔の養兄である。新潟英語学校に学んだ。1888年、家督を相続した。 新潟市に於ける名望家であり、諸種の実業団体幹部役員及び新潟市会議員同参事会員、同市会議長、同商業会議所議員、同会頭、同特別議員等に挙げられ、衆議院議員に当選し、1905年、日露戦争の功により勲四等に叙せらる。
竹内 平太郎(たけのうち へいたろう、1863年2月6日(文… 竹内 平太郎(たけのうち へいたろう、1863年2月6日(文久2年12月18日) - 1933年(昭和8年)12月21日)は、島根県松江出身の海軍軍人。最終位階勲等は海軍少将。従四位勲三等功三級に至る。 竹内家初代は松江城天守の修復や、法華宗大雄寺の八角堂や堂宇を作った竹内有兵衛で、松江松平藩の初代藩主松平直政の大工頭であった名工竹内有兵衛(右兵衛、宇兵衛、たけのうち うへえ)の十代目の子孫。長男竹内和信は帝国陸軍航空総軍第53航空師団・第7航空通信連隊連隊長(終戦時大佐)。 1900年に主席駐在武官として駐仏公使館に着任した竹内大佐の主要な任務は、露仏同盟によりロシアと軍事的な関係を強化していたフランスにおいて、ロシアの軍事情報を収集することであったとされている。
横山 雅男(よこやま まさお、文久2年12月16日(1863… 横山 雅男(よこやま まさお、文久2年12月16日(1863年2月4日) - 1943年(昭和18年)2月12日)は、日本の統計学者。安芸国賀茂郡吉土実村(現・広島県東広島市)出身。 広島県師範学校(広島大学教育学部の前身)卒業。広島県内で小学校教員を務めた後上京。当時はまだ新奇な学問であった統計学の存在を知り、表記学社(1878年スタチスチック社、1892年統計学社と改名、1944年東京統計協会と合併し日本統計協会と改称)が1883年、杉亨二や岩崎弥太郎、渋沢栄一、世良太一らの尽力で設立した日本で最初で最後の統計専門学校「共立統計学校」の第一期生として入学。3年間、杉亨二の弟子として本格的に統計学を学ぶ。
17代 木村 庄之助(じゅうしちだい きむら しょうのすけ、… 17代 木村 庄之助(じゅうしちだい きむら しょうのすけ、文久2年12月11日〈1863年1月30日〉 - 1924年〈大正13年〉7月18日)は、大相撲の立行司。本名は浪花→酒井兵吉。出身地は徳島県徳島市。 徳島市に浪花徳丸の六男として生まれる。幼少時より行司好きで子供相撲で行司を務めていた。大阪相撲の藤見崎という力士が巡業中にこの様子を見て勧誘し、1869年大阪相撲の竹縄部屋に入門。最初は木村兵丸を名乗った。 1885年に東京相撲に移籍、15代庄之助に師事。1886年1月初代木村玉治郎から、1895年1月6代木村庄三郎を経て、1911年5月10代式守伊之助を襲名、翌1912年5月に17代木村庄之助を襲名した。
服部 綾雄(はっとり あやお、1863年1月30日(文久2年… 服部 綾雄(はっとり あやお、1863年1月30日(文久2年12月11日) - 1914年(大正3年)4月1日)は、日本の牧師、教育者、政治家である。 1863年(文久2年)駿河国沼津城下に生まれた。明治維新により、1868年(明治元年)沼津藩が上総国市原郡菊間に移封されたので、菊間に移住する。1873年(明治6年)、10歳の時に横浜で遊学し、J・C・ヘボンに書生として住み込み、ヘボン塾で英語を学んだ。 ヘボンより薫陶を受け、キリスト教信仰を持つ。1874年(明治7年)にヘンリー・ルーミス宣教師より洗礼を受ける。1880年(明治13年)築地大学校の創立時に転入する。1882年(明治19年)築地大学校卒業後に大学校の幹事になる。
足羽 章兮(あしわ しょうけい、1863年1月27日〈文久2… 足羽 章兮(あしわ しょうけい、1863年1月27日〈文久2年12月8日〉 - 1934年〈昭和9年〉9月4日)は、日本の医師、政治家。鳥取県医師会長。鳥取県会議長。日野郡是製糸取締役。足羽家8代目。族籍は鳥取県士族。 伯耆国日野郡二部村(のち鳥取県日野郡溝口町二部、現・伯耆町)出身。足羽家は代々医を業とする。足羽純亭の五男。教を郷校に受け、小学の課程を卒え、毛利八弥に就き漢籍を修める。 1884年、松江医学校を卒業。東京に出て済生学舎に入り、医術を修める。帰郷し、二部宿で父祖の医業を継ぐ。1890年に日野郡医師会創設。日野郡医師会長となる。 1904年から1917年村会議員。1908年から1910年鳥取県医師会長。
頭本 元貞(ずもと もとさだ、1863年1月23日〈文久2年… 頭本 元貞(ずもと もとさだ、1863年1月23日〈文久2年12月4日〉- 1943年〈昭和18年〉2月15日)は、日本のジャーナリスト、衆議院議員(1期)。英語力に秀で、伊藤博文や渋沢栄一といった実力者に重用され、長年にわたって国際的舞台で活躍するジャーナリストとなったほか、英語教育教材の開発者、代議士としても活動した。右翼的国家主義者と評されることが多い。 伯耆国(後の鳥取県日野郡黒坂村、黒坂町を経て現日野町)出身。鳥取県と愛知県の中学校に在籍した後、東京大学予備門を経て、1880年に札幌農学校に入学し、武信由太郎や志賀重昂らとともに4期生として学んだ。在学中にジュゼッペ・マッツィーニの文章に触れ、日本の国情を海外へ紹介することを自らの使命と決意したとされる。
牧野 謙次郎(まきの けんじろう、文久2年11月30日〈18… 牧野 謙次郎(まきの けんじろう、文久2年11月30日〈1863年1月19日〉 - 昭和12年〈1937年〉3月24日)は、日本の漢学者。早稲田大学教授、東洋文化学会理事、斯文会常議員、大東文化学院(現・大東文化大学)教務管理。字は君益。号は藻洲、寧静斎、愛古田舎主人。香川県出身。 牧野松村の第2子として、讃岐国高松に生まれた。祖父牧野黙庵(高松藩江戸邸の教授)、父松村(藩校教授)の家学を受け、明治15年(1882年)には藤沢南岳の泊園書院(現・ 関西大学)に学んだ。 明治26年に国華社で筆をとってより、雑誌『曙』を創刊し(明治30年)、『日本新聞』の週報に筆をとり(明治34年)、藻洲の名を高くした。
堀 鉞之丞(ほり えつのじょう、1863年1月17日(文久2… 堀 鉞之丞(ほり えつのじょう、1863年1月17日(文久2年11月28日) - 没年不明)は、愛知英語学校出身の理学士。儒学者・堀杏庵の子孫にあたる。 1885年(明治18年)東京大学理学部卒業。1891年(明治24年)、衛生試験所技師。第一高等学校教授。1908年10月30日から1914年4月30日まで尾張徳川家の御相談人、1914年9月から同家の家令を務め、1917年に明倫中学校と附属博物館を愛知県に譲渡し、名古屋の同家所有地の整理・処分を進めるなど、家政改革を推し進めた。 1914年(大正3年)5月に尾張徳川家の家令となると、前年に東京麻布区富士見町に新居を構えていた同家第19代当主・徳川義親の意を受けて、名古屋市大曽根から東京への拠点移転に向けて、家政改革を進めた。
河野 常吉(こうの つねきち、1863年1月11日(文久2年… 河野 常吉(こうの つねきち、1863年1月11日(文久2年11月22日) - 1930年(昭和5年)9月3日)は、明治大正期の北海道史研究者。河野齢蔵は実弟、アイヌ研究者として名高い河野広道は子、また二女の道子は動物学者犬飼哲夫に嫁ぎ、河野本道は孫に当たる。 信濃国安曇郡犬飼新田村(現・長野県松本市)に河野通重の次男として生まれる。長野県師範学校松本支校を卒業後、1881年に上京し慶應義塾(現・慶應義塾大学)で2年間学んだ後、秋田県の小真木鉱山の分析主任となる。 郷里へもどって養蚕業に従事、『信陽日報』客員として活動、またこのころ自由民権運動にも関係していたといわれる。その後、長野県庁や東京中央気象台に勤務、この間の学歴・職歴のなかで、人文・自然科学の広範な教養を身につけている。
愛甲 兼達(あいこう かねさと、1863年1月8日(文久2年… 愛甲 兼達(あいこう かねさと、1863年1月8日(文久2年11月19日) - 1928年(昭和3年)10月17日)は、明治から大正の実業家。 薩摩藩士津曲伝助の長男として鹿児島加治屋町に生まれ、のち愛甲家の養子となる。鹿児島銀行の前身である勤倹貯蓄銀行や鹿児島電気軌道、日本水電などの取締役のほかに十五銀行の頭取を歴任した。
イザベラ・ブラックモーア(またはブラックモア)(Isabel… イザベラ・ブラックモーア(またはブラックモア)(Isabella S Blackmore,1863年1月7日 - 1942年1月2日)は、カナダ・メソジスト教会婦人伝道会の宣教師である。 東洋英和女学校校長、山梨英和女学校校長、静岡英和女学校理事、東京女子大学理事長等を歴任した教育者。それらの功績により文部大臣から表彰を受けている。 カナダ・メソジスト婦人伝道会日本総理を務める。また、多くの社会事業に携わり、永坂孤女院を設立して運営したり、日本基督婦人矯風会理事を務めたりした。 1863年(文久2年)1月7日 カナダのノバスコシア州のオンズロー(Onslow)で父リチャード・ブラックモーア(Richard)、母マリンダ・ブラックモーア(Malinda)の娘として生まれる。
山本 忠秀(やまもと ただひで、1863年1月6日(文久2年… 山本 忠秀(やまもと ただひで、1863年1月6日(文久2年11月17日)– 1936年(昭和11年)10月9日)は、明治から昭和初期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。板垣伯銅像記念碑建設同志会理事。 土佐国香美郡岩村郷金地村(高知県香美郡金地村、岩村を経て現・南国市金地)で、豪農、譲受郷士の賢一郎の長男として生まれた。漢学を修め、明治法律学校(現明治大学)法律科で学んだが中退した。 帰郷して政治運動に身を投じ、自由民権運動を推進した。1890年(明治23年)1月、第1回衆議院議員総選挙に対応するため岩村倶楽部を結成し部長に就任。1893年(明治26年)3月、楠目玄の失格に伴う高知県会議員補欠選挙で当選し、同年8月の半数改選でも再選された。
武田 秀雄(たけだ ひでお、1863年1月5日(文久2年11… 武田 秀雄(たけだ ひでお、1863年1月5日(文久2年11月16日) - 1942年(昭和17年)2月16日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍機関中将。 文久2年(1863年)11月、土佐国香美郡野市村(現:香南市)に生まれる。土佐藩家老の武田秀友の長男。 大阪英語学校を経て上京。当時満15歳であったが、同郷の海軍中秘史楠目正幹の斡旋により辛うじて証明を得て1878年(明治11年)8月、海軍兵学校機関科に入校 。1883年(明治16年)10月、海軍機関学校(旧2)を卒業。1886年(明治19年)4月、海軍少機関士(少尉相当官)に任官した。 1890年(明治23年)7月から1894年(明治27年)6月までフランスに留学。
棚橋 一郎(たなはし いちろう、文久2年11月12日(186… 棚橋 一郎(たなはし いちろう、文久2年11月12日(1863年1月1日) - 昭和17年(1942年)2月7日)は、岐阜県出身の教育者、漢学者(今でいう倫理学者)。衆議院議員、東京市会議員。
大蛇潟 大五郎(おろちがた だいごろう、1863年1月(文久… 大蛇潟 大五郎(おろちがた だいごろう、1863年1月(文久2年12月) - 1916年1月9日)は、現在の千葉県市川市鬼越出身で宮城野部屋、錦戸部屋、錦島部屋に所属した力士。本名は錦嶋 七太郎(旧姓岡田)。7代錦島。身長178cm、体重101kg。最高位は西前頭筆頭。 1885年5月に二枚目格付出で初土俵。1889年5月十両昇進した。1892年6月に新入幕、以後1907年1月に44歳で引退するまで連続で幕内に在位。また錦島部屋では二枚鑑札。引退後は親方業に専念したが、1916年に没した。享年55。 上の名前は番付上の表記揺れを考えなければ改名歴なし。下の名前は1890年5月場所まで「七五郎」、1891年1月場所から「大五郎」。
山口 俊太郎(やまぐち しゅんたろう、1863年〈文久3年〉… 山口 俊太郎(やまぐち しゅんたろう、1863年〈文久3年〉- 1923年〈大正12年〉)は、明治・大正期の鉄道技術者。岩倉使節団の副使であった山口尚芳の長男であり、使節団に尚芳の従者として同行した。使節団帰国後も引き続きイギリスに滞在する。1887年に帝国大学工科大学を卒業し、アメリカ合衆国に再留学の後、鉄道作業局に入局する。その後九州鉄道、三井鉱山、三井物産で鉄道関係の業務を担当した。
木内 信(きうち しん、文久3年(1863年) - 大正15… 木内 信(きうち しん、文久3年(1863年) - 大正15年(1926年)8月18日)は、日本の政治家。衆議院議員。号は澄堂、晩翠。 信濃国佐久郡岸野村(現長野県佐久市)生まれ。長野県師範学校卒業後、明治10年(1877年)同郡八幡村の彰蔵学校教員となり、自由民権運動家として活動する。同18年(1885年)には早川権弥、立川雲平らと東信友誼会を結成し、同20年(1887年)に上京して条約改正反対、地租軽減、言論集会の自由を求めた三大建白書を元老院に提出した。 同22年(1889年)に岸野村会議員から長野県会議員に当選、同26年(1893年)には岸野村長に就任。翌年(1874年)第3回衆議院議員総選挙に初当選し、予算委員を務める。