佐久間 国三郎(さくま くにざぶろう、1845年(弘化2年1… 佐久間 国三郎(さくま くにざぶろう、1845年(弘化2年10月) - 1915年(大正4年)4月8日)は、明治時代の政治家。衆議院議員。岐阜県会議長。 美濃国安八郡、のちの岐阜県安八郡蛇池村(海西郡蛇池村、海津郡蛇池村、海西村、平田町を経て現海津市)に生まれる。角田俊作に漢学を学ぶ。 海西村戸長を経て、1879年(明治12年)同村会議員に当選。ほか、水利土工会議員、同議長、所得税調査委員、組合村長を歴任した。 1882年(明治15年)2月、岐阜県会議員に当選し、同年10月、常置委員に推され、1885年(明治18年)3月、県会副議長、のち同議長を歴任した。 1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙では岐阜県第3区から出馬し当選。
秋山 儀四郎(あきやま ぎしろう、1845年(弘化2年) -… 秋山 儀四郎(あきやま ぎしろう、1845年(弘化2年) - 1915年(大正4年)10月27日)は、岡山県倉敷市出身の実業家。 1845年、備中国倉敷で秋山文三郎の二男として生まれた。生家である天城屋は、代々米問屋と味噌糀の製造を兼業していた。 14歳で家業を手伝い、後に伯母の繁井屋を継ぎ、米問屋を経営した。 1865年(慶応元年)大坂堂島で仲買を始める。明治維新の際に一旦岡山へ帰り、「繁儀」の商号で米穀仲買を営む。 1870年(明治3年)再び堂島で開業する。1884年(明治17年)堂島で売買両派の対立があった際、売派の頭取の五代友厚一派の不正を摘発し、注目された。 1892年(明治25年)堂島より引退する。
服部 嘉十郎(はっとり かじゅうろう、弘化2年(1845年)… 服部 嘉十郎(はっとり かじゅうろう、弘化2年(1845年) - 明治13年(1880年))は、越中国高岡(現在の富山県高岡市)の文化・教育などに功績のあった江戸時代・明治時代の町役人・政治家。高岡城址を公園として整備した「高岡古城公園」の創設者である。 高岡由緒町人天野屋の13代目として、弘化2年(1845年)8月9日に生まれる。父は高岡町藩政時代最後となる総町年寄、服部三郎左衛門元業、母は同じく由緒町人富田家(横町屋)8代善五郎の長女、民子である。名は元善、初め嘉十郎を通称とし、のちに伝兵衛、再び嘉十郎と改めた。姉に正子、妹に利久子がいたがいずれも夭折したため、嘉十郎は一人息子と同じように育った。
林 宗右衛門(はやし そうえもん、1845年(弘化元年12月… 林 宗右衛門(はやし そうえもん、1845年(弘化元年12月)- 1896年(明治29年)12月30日)は、明治期の地主、政治家。貴族院多額納税者議員。 伊勢国員弁郡で生まれる。のち奄芸郡林村(三重県河芸郡明村、安芸郡芸濃町を経て現津市)の代々久居藩の大里正を務めた林家の養子となる。 1868年(明治元年)養父の跡を継いで林組大庄屋(大里正)に就任。農業、酒造業を営む。その後、楠平尾・林・中縄3村戸長、学務委員などを務めた。道路、橋梁改築のため私費を投じ、また学校に教材を寄付するなど公共のための出費を惜しまなかった。 1880年(明治13年)2月に三重県会議員に奄芸郡選挙区から選出されたが同年10月に辞職した。
氏家 直綱(うじいえ なおつな、弘化2年(1845年) - … 氏家 直綱(うじいえ なおつな、弘化2年(1845年) - 明治44年(1911年))は、江戸時代から明治時代の人物。庄内藩士、官吏、初代西田川郡長。
浜野 定四郎(はまの さだしろう、1845年(弘化2年) -… 浜野 定四郎(はまの さだしろう、1845年(弘化2年) - 1909年(明治42年)11月14日)は、日本の教育者・英語学者・翻訳家。「慶應義塾仮憲法」制定後の初代慶應義塾長をつとめた。 1845年(弘化2年)、豊前中津藩士浜野覚三の子に生まれ、はじめは丑之助と称す。1864年(元治元年)、福澤諭吉帰郷の際、小幡篤次郎ら同藩の子弟五人とともに福澤に伴われて出府、同年6月に慶應義塾に入塾した。卒業後は教員となり、1874年(明治7年)から1878年(明治11年)までの間、中津市学校の校長として赴任した以外は一貫して慶應義塾に教鞭をとった。中津市学校の校長を辞してのち、再び義塾に戻って、1878年(明治11年)ごろから塾長の任についていたが、1881年(明治14年)1月「慶應義塾仮憲法」の制定により改めてそれにもとづいて初代慶應義塾長に選ばれた。
津田 嘉一郎(つだ かいちろう、1845年(弘化2年2月)-… 津田 嘉一郎(つだ かいちろう、1845年(弘化2年2月)- 1914年(大正3年)6月1日)は、明治から大正初期の実業家、政治家。衆議院議員。 能登国鹿島郡七尾町(石川県鹿島郡七尾町を経て現七尾市)で生まれた。物品依託販売業、倉庫業を営む。七尾銀行頭取、中島商業銀行頭取などを務めた。 1890年(明治23年)9月、石川県会議員に当選し、1891年(明治24年)10月まで在任した。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(石川県第3区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
松延 玹(まつのべ げん、1845年〈弘化2年1月〉 - 1… 松延 玹(まつのべ げん、1845年〈弘化2年1月〉 - 1921年〈大正10年〉9月20日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 水戸出身。弘道館に学ぶ。1871年(明治4年)藩命を受け諸国を遊歴したのち帰郷し、1874年(明治7年)の台湾出兵に際しては北京に渡った。1876年(明治9年)在北京公使館附学生となり、1878年(明治11年)書記生となった。翌年、上海領事館に転任。1882年(明治15年)朝鮮で壬午軍乱が勃発すると花房義質の随伴員として同地に赴いた。1884年(明治17年)帰朝し外務省一等属となるが、間もなく朝鮮で甲申政変が勃発すると井上馨に従い再び同地に赴いた。
立花 親信(たちばな ちかのぶ、1845年(弘化2年4月)-… 立花 親信(たちばな ちかのぶ、1845年(弘化2年4月)- 1916年(大正5年)9月29日)は、幕末の柳河藩士、明治期の公吏・実業家・政治家。衆議院議員、福岡県会議長。 筑後国山門郡柳川城下(柳河県、三潴県、福岡県山門郡城内村、柳川町を経て現柳川市)で、柳河藩で中老を務めた立花家(家禄350石)に生まれた。1863年(文久3年6月)家督を相続した。1868年(慶応4年)侍頭となる。藩の軍政改革で断隊が設けられ、同年4月17日(旧暦3月25日)後断隊の隊長に就任。戊辰戦争で断隊に東京警固が命ぜられ藩主立花鑑寛と共に同年7月31日(旧暦6月12日)大坂を出発し、1869年2月3日(慶応4年12月22日)に帰藩した。
大迫 尚敏(おおさこ なおとし/なおはる[要出典]、1844… 大迫 尚敏(おおさこ なおとし/なおはる[要出典]、1844年12月24日〈天保15年11月15日〉- 1927年〈昭和2年〉9月20日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人。学習院長、第7師団長等を務める。栄典は陸軍大将正二位勲一等功二級子爵。 薩摩国鹿児島郡薩摩藩冷水通町(現:鹿児島市冷水町)で、薩摩藩士・大迫新蔵の長男として生まれる。造士館生徒として学び、薩摩藩5番組として薩英戦争に従軍する。 戊辰戦争従軍の後、1871年(明治4年)3月、陸軍に入り御親兵に属す。同年少尉・中尉と進み1873年(明治6年)、陸軍省八等出仕、1874年(明治7年)には陸軍大尉を命ぜられる。 1877年(明治10年)、西南戦争に出征し、熊本城籠城戦に参加。
小澤 武雄(おざわ たけお、1844年12月19日(天保15… 小澤 武雄(おざわ たけお、1844年12月19日(天保15年11月10日) - 1926年1月29日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。幼名・直之丞。 小倉藩士・小澤義房の長男として生まれる。1866年、第二次長州征伐において軍議役兼陣場奉行を勤める。1868年、戊辰戦争に出征し越後・会津へ転戦した。明治政府の若松民生局に出仕し、軍務官筆生、兵部少録、兵部権大録、兵部大録、兵部権少丞、兵部省7等出仕を経て、1871年、陸軍少佐に任官。第二副官、陸軍省官房長、アメリカ出張、陸軍省第1局長代理などを歴任。1877年2月から10月まで西南戦争に征討総督本営参謀として出征。 1878年11月、陸軍少将に進級。
関戸 覚蔵(せきと かくぞう、1844年12月17日(弘化元… 関戸 覚蔵(せきと かくぞう、1844年12月17日(弘化元年11月8日)- 1916年(大正5年)5月9日)は、明治時代の政治家。立憲革新党所属の衆議院議員(当選3回)。『茨城新聞』創刊者。 常陸国行方郡潮来村(現在の潮来市)に生まれる。潮来は水運によって栄えており、関戸家も豊かであった。東京師範学校に入学するが病気のため中退。戸長、郡書記、茨城県勧業課長を務め、1881年第3回茨城県会議員選挙に当選し、茨城県会議員を1886年まで務めた。また、自由民権運動に加わり、1880年に民権結社の公益民会を磯山清兵衛らと設立したり、国会開設請願の署名1万人分を野手一郎らと集めてその代表になった。1891年には『いはらき』(現・『茨城新聞』)を創刊し、経営者となるが経営がうまくいかず、飯村丈三郎に茨城新聞社の経営を委ねた。
田中 新七(たなか しんしち、1844年12月10日〈弘化元… 田中 新七(たなか しんしち、1844年12月10日〈弘化元年11月1日〉 - 1922年〈大正11年〉2月2日)は、明治・大正時代の実業家、鉄道経営者である。横浜市で生糸商を営みつつ各地の鉄道事業に関係して関西鉄道社長などを務めた。愛知県出身。 弘化元年11月1日(新暦:1844年12月10日)、田中久兵衛の次男として生まれる。出身は尾張国(現・愛知県)の一宮地方。嘉永7年8月(1854年)に家を継ぎ、父の時代からの家業であった製糸業に従事。施設の改良を続けて増産や品質向上に努めて財を成した。さらに明治に入ると横浜にて生糸の商いを始める。田中商店では横浜の本店のほか京都・福井・金沢にも支店を構えた。
井狩 弥左衛門(いがり / いかり やざえもん、1844年1… 井狩 弥左衛門(いがり / いかり やざえもん、1844年11月27日(弘化元年10月18日) - 1901年(明治34年)5月23日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。9代井狩弥左衛門。 近江国野洲郡江頭村(北里村を経て、現在の近江八幡市)に生まれる。富豪として桑園や水田を拓き米質改良組合を組織するなど農業発展に尽力する。1873年(明治6年)以降、滋賀県野洲郡第五区副区長、同区長、同郡七十八箇村連合村会議員、滋賀県会議員、野洲郡所得税調査委員、滋賀県農工銀行設立委員などを歴任する。近江帆布会社の設立にも尽力した。 1897年(明治30年)9月、滋賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同月29日に就任したが、在任中に死去した。
平福 穂庵(ひらふく すいあん、1844年11月27日(天保… 平福 穂庵(ひらふく すいあん、1844年11月27日(天保15年10月18日) - 1890年(明治23年)12月11日)は、日本の幕末から明治時代前期に活動した日本画家。同じく画家の平福百穂の父。名は芸(うん)、通称は順蔵。別号に文池。 羽後国角館横町(現在の秋田県仙北市)で、父・平福太治右衛門(徳蔵)と母・キクの一人息子として生まれる。平福家は元々米や乾物を扱う商人だったが、父の代で染物屋に転向した。太治右衛門は文浪の画号を持つ郷土画家でもあり、祭りの人形や押絵なども手掛け、今も郷土にその作品が残っている。穂庵は初めは地元の絵師で父も入門していた武村文海に円山四条派の絵を学び、地元秋田の四条派絵師・長山孔寅の絵手本で自習する。
馬越 恭平(まこし きょうへい、1844年11月21日(天保… 馬越 恭平(まこし きょうへい、1844年11月21日(天保15年10月12日) - 1933年(昭和8年)4月20日)は、日本の実業家。三井物産に勤務し、大日本麦酒(日本麦酒、朝日麦酒、札幌麦酒の合併会社)の社長を務めた人物。大日本麦酒の大合同合併を画策し、「日本のビール王」「東洋のビール王」とよばれた。衆議院議員(1期)、貴族院勅選議員。茶人・馬越化生としても知られた。 1844年(弘化元年)、備中国後月郡木之子村(現・岡山県井原市)で父の元泉と母の古尾子の2男として生まれる。馬越家は医者を生業としており兄の元育が医学で親と対立し東京に出たため、次期当主として期待されていた。幼少期は「負けずの恭弥やん」と呼ばれていた。
佐久間 左馬太(さくま さまた、1844年11月19日〈天保… 佐久間 左馬太(さくま さまた、1844年11月19日〈天保15年10月10日〉- 1915年〈大正4年〉8月5日)は、明治期の日本の陸軍軍人。栄典は正二位勲一等伯爵。台湾総督・東京衛戍総督・近衛師団長等を歴任し、最終階級は陸軍大将に昇る。台湾・花蓮の佐久間神社(現在は廃社)の祭神。 長州藩士・岡村孫七の次男として生まれ、佐久間竹之丞の養子となる。奇兵隊に入隊し、大村益次郎の元で西洋兵学を学ぶ。 1866年(慶応2年)、第二次長州征伐の時には長州藩諸隊の亀山隊大隊長として芸州口に従軍した。戊辰戦争では棚倉、二本松、会津を転戦。維新後陸軍軍人となり、1872年(明治5年)には陸軍大尉・西海鎮台付に任命される。
山田 顕義(やまだ あきよし、旧字体: 山田 顯義、1844… 山田 顕義(やまだ あきよし、旧字体: 山田 顯義、1844年11月18日〈天保15年10月9日〉- 1892年〈明治25年〉11月11日)は、日本の政治家、陸軍軍人。諱は顕孝(あきたか)、のちに、顕義に改めた。通称は市之允(いちのじょう)。号に養浩斎、狂痴、韓峰山人、不抜、空斎など。別名は山田 空斎(やまだ くうさい)。陸軍中将。正二位勲一等伯爵。 明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典編纂に尽力したことから法典伯の異名を持つ。日本法律学校を創立するうえで評議員の一人として特に関わり、日本大学の学祖とされる。 吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後の門下生となる。
中村 良謙(なかむら よしかね / りょうけん、1844年1… 中村 良謙(なかむら よしかね / りょうけん、1844年11月17日〈弘化元年10月8日〉 - 1921年〈大正10年〉11月6日)は、明治から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、佐賀県藤津郡七浦村名誉職村長。幼名・與(与)一郎。 肥前国藤津郡音成村(佐賀県藤津郡七浦村音成を経て現鹿島市音成)で、鹿島藩士・中村良晴の息子として生まれる。12歳で鹿島藩校弘文館に入学。その後、諫早の蓮池良山、佐賀藩校弘道館で学んだ。天保13年(1842年)から鹿島藩の財産均等政策の影響を受けて家産に打撃を受けたが、業務に精励し質素倹約に努めた結果、家産の回復を果たした。 1889年(明治22年)6月、七浦村名誉村長に就任。
井上 清治(いのうえ せいじ / きよはる[要出典]、184… 井上 清治(いのうえ せいじ / きよはる[要出典]、1844年11月5日〈弘化元年9月25日〉 - 1913年〈大正2年〉1月12日)は、明治から大正初期の大地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。号・松龍、勲等は勲四等。 越中国婦負郡御門村(富山県婦負郡速星村、婦中町を経て現富山市婦中町速星)で、井上清六の二男として生まれ、豪農の井上家26代・井上清治の養子となり、家督を相続して清治を襲名し27代当主となる。 1884年(明治17年)婦負郡中名村ほか37ヵ村戸長に就任し、以後、同郡学務委員、速星村会議員、婦負郡会議員などを務めた。 1903年(明治36年)補欠選挙で貴族院多額納税者議員に選出され、同年5月5日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
大谷 靖(おおたに / おおや やすし、弘化元年9月14日〈… 大谷 靖(おおたに / おおや やすし、弘化元年9月14日〈1844年10月25日〉 - 1930年〈昭和5年〉3月6日)は、明治から昭和初期の内務官僚、政治家。貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。位階および勲等は正三位、勲二等。 周防国玖珂郡岩国城下錦見(山口県玖珂郡岩国町を経て現岩国市)で、岩国藩士・大谷権左衛門の長男として生まれる。文武を修め、1871年(明治4年)福岡県に出仕。福岡県権典事、大蔵権少丞、太政官少書記官、大蔵少書記官、大蔵権大書記官、内務権大書記官、内務省会計局長、同庶務局長、社寺局長心得、内務書記官・造神宮副使などを歴任した。 1914年(大正3年)に退官後は済生会理事長を務めた。
神 辰太郎(じん たつたろう、1844年10月23日〈弘化元… 神 辰太郎(じん たつたろう、1844年10月23日〈弘化元年9月12日〉- 1925年〈大正14年〉12月16日)は、幕末の弘前藩士、明治期の海軍軍人。のちに機関長を歴任した。最終階級は海軍機関少監(機関少佐相当官)。本名・手塚冝道(のりみち)、宜道の表記あり。 陸奥国津軽郡弘前城下瓦ケ町(現青森県弘前市)で弘前藩の手塚家の生まれ。幕末に活躍した同藩士・神東太郎がいるが関係は不詳。 神家を継いで、慶応元年(1865年)に江戸に出て鉄砲洲慶應義塾に入学。明治2年(1869年)に兵部省「飛龍丸」二等士官、明治4年(1871年)に海軍少尉に任官。以後20年以上を機関関係の海軍士官として活躍し、「龍驤艦」機関長、「天城艦」機関長などを経て、1888年(明治21年)海軍機関少監に進み「金剛」機関長となる。
宍野 半(ししの なかば、弘化元年9月9日〈1844年10月… 宍野 半(ししの なかば、弘化元年9月9日〈1844年10月20日〉 - 1884年〈明治17年〉5月13日)は、富士講諸派を結集した教派神道の一派である扶桑教の初代管長で、扶桑教の設立に尽くした日本の宗教家、国学者。 薩摩国隈之城(現鹿児島県薩摩川内市隈之城町)の薩摩藩の郷士の家に生まれた。25歳で平田鐵胤に国学を学ぶ。 教部省に勤める。後に大教院の大講義も務めた。駿河国富士郡(現・富士宮市)の浅間神社(現在の富士山本宮浅間大社)の官選初代宮司、山梨県北口の浅間神社(現在の北口本宮冨士浅間神社)の社司を兼務。富士講諸派を結集し扶桑教を設立。1879年(明治12年)には神道事務局会計課長。 皇典講究所創立にも尽力し、「皇典講究所創設告文」を連名で著した。
吉村 角次郎(よしむら かくじろう、1844年10月19日(… 吉村 角次郎(よしむら かくじろう、1844年10月19日(弘化元年9月8日)- 1921年(大正10年)10月8日)は、幕末から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 紀伊国那賀郡山崎組畑毛村(和歌山県那賀郡山崎村、岩出町を経て現岩出市)で、吉村六右衛門の息子として生まれた。元治元年(1864年)以降、那賀郡畑毛村ほか3ヵ村庄屋、戸長を務めた。 1875年(明治8年)父の死去に伴い家督を相続した。1878年(明治11年)頃から津村重兵衛と協力して養蚕業の振興に尽力。1890年(明治23年)居谷平助と共同で岩出製糸工場を設置し、他に畑毛製糸を設立して経営したが、経済状況の悪化により、1895年(明治28年)に畑毛製糸が、翌年には岩出製糸工場が閉鎖を余儀なくされた。
五十川 基(いかがわ もとい、天保15年9月6日(1844年… 五十川 基(いかがわ もとい、天保15年9月6日(1844年10月17日) - 明治6年(1873年)2月22日)は、幕末・明治初期の備後福山藩士、医師。通称は基之丞、芳之丞。字は敬甫、号は米里。福山医学校兼病院(のちの同仁館病院)の設立に尽力した。 備後国に藩医・五十川周圭の嗣子として生まれる。五十川家は代々漢方医を業とし、周圭の代で蘭方に転じた。江木鰐水、寺地舟里の薫陶を受け、藩校・誠之館で学び、文久3年(1863年)10月17日に藩から洋学修業を命ぜられ、江戸の藩邸に寄留し、蕃書調所・医学所に通学修業。佐藤春海(尚中)の塾において、蘭学を修め、転じて慶応2年(1866年)に福沢諭吉の慶應義塾へ入塾(『慶應義塾入社帳』第一巻58頁,167頁)。
大沼 渉(おおぬま わたる、1844年10月7日(天保15年… 大沼 渉(おおぬま わたる、1844年10月7日(天保15年8月26日) - 1899年10月14日)は、幕末の黒羽藩士。明治期の陸軍軍人。陸軍少将。位階は従三位、勲等は勲二等、爵位は男爵。 黒羽藩士(家老)大沼泰英と母ちかの長男として弘化元年、廓内(旧黒羽町、現在の大田原市前田)に生まれた。幼名は統太郎。石高は350石であった。生来武人の気質があり、藩校の作新館(作新学院の前身)に入り、文武を修めた。17歳のとき初めて藩主である大関増式に仕え、近侍小姓となった。23歳で大目付、翌年には郡奉行となり、益子町の陣屋に代官として赴任した。戊辰戦争時には藩の軍監を勤め(参謀格で隊長の五月女三左衛門の麾下)として棚倉城、二本松城、会津若松城など東北各地で戦い、勇猛果敢、知略を駆使して大いに戦功があった。
7代 遠藤 嘉右衛門(えんどう かえもん、1844年10月2… 7代 遠藤 嘉右衛門(えんどう かえもん、1844年10月2日(弘化元年8月21日)- 1914年(大正3年)11月29日)は日本の地主、銀行家、政治家。貴族院多額納税者議員、遠藤嘉右衛門家7代当主、旧姓・神田。 のちの島根県で神田助左衛門の二男として生まれ、簸川郡今市町(現出雲市)の地主、6代・遠藤嘉右衛門の養子となる。後に家督を継承し嘉右衛門を襲名した。 1877年以降、島根県会議員、簸川郡会議員などを務め、補欠選挙で当選し1911年6月2日、貴族院多額納税者議員に任じられ、同年9月28日の任期満了まで一期在任した。その他、簸川銀行頭取などを務めた。 公益事業にも関心が高く、災害救援、貧民救済、公衆衛生・学校建設・道路修繕事業などに多額の寄付を行った
山川 二葉(やまかわ ふたば、弘化元年8月19日〈1844年… 山川 二葉(やまかわ ふたば、弘化元年8月19日〈1844年9月30日〉 - 明治42年〈1909年〉11月14日)は、日本の教育者 。 陸奥国会津藩若松城下(現在の福島県会津若松市)にて、国家老山川重固とえん(艶;会津藩士西郷近登之の娘)の長女として生まれる。弟妹は浩、三輪、操、健次郎、常磐、さき(捨松)。万延元年(1860年)に父が死去した当時、二葉は数え17歳で、16歳の浩が家督を継いだ。 明治維新以前、後に家老職に就く梶原平馬と婚姻したものの、短期間で離縁して復籍(離縁日時は不詳)、一子景清(慶応2年11月16日生)は二葉が養育した。 旧暦明治元年8月-9月(1868年10月-11月)の会津城籠城戦において、その家柄故に山川家の人々は相応の役割を果たし、婦女子は調理と配布、負傷者の看護、旧式銃弾の製造と補充などの業務に当たった。
陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日〈1844年8… 陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日〈1844年8月20日〉- 明治30年〈1897年〉8月24日)は、日本の幕末の武士。明治期の外交官、政治家。江戸時代までの通称は陽之助(ようのすけ)。家紋は仙台牡丹。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。「カミソリ大臣」とも呼ばれた。 版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正、議会の先駆けである元老院の設立に多大な影響を与え、第1次山縣有朋内閣では農商務大臣として第1回帝国議会を成功させる支柱となった。外務大臣としては幕末期以降に結ばれていた全15か国の不平等条約(領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部を回復)改正に成功した。日清戦争において陸奥外交と呼ばれる外交を行い、戦中・戦後処理に尽力し、三国干渉を日本の有利な形で収まるように立ち回った。
岡沢 精(おかざわ くわし、1844年8月20日〈弘化元年7… 岡沢 精(おかざわ くわし、1844年8月20日〈弘化元年7月7日〉- 1908年〈明治41年〉12月12日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、華族。正二位勲一等功二級子爵。 長州藩士岡沢甚内の子として萩に生まれる。1862年(文久2年)以降は江戸の長州藩邸に滞在しながら京都を往来し、文久の政変に巻き込まれたこともあった。大村益次郎の塾に学んだ後は尊皇攘夷運動に携わる。南国隊を組織し戊辰戦争に従軍した。 維新後は陸軍に進み、1870年(明治3年)10月に大坂第2教導隊に入営。1871年(明治4年)2月に四等軍曹、4月に御親兵大隊長、6月3日には陸軍准中尉となり、さらに同年中には中尉・大尉・少佐と昇任した。
堀内 利国(ほりうち としくに、1844年8月19日(天保1… 堀内 利国(ほりうち としくに、1844年8月19日(天保15年7月6日) - 1895年(明治28年)6月18日)は日本陸軍の軍医。明治前半に熊本や大阪鎮台病院長などを務めた。当時の日本は脚気の流行が問題になっていたが、堀内利国は大阪鎮台において兵食を白米から麦飯に変えることで兵士の脚気をほとんどゼロになるまで減らし、脚気が麦飯で予防できることを日本で初めて実験的に証明した。 明治3年(1870年)に日本で初めての陸軍病院が大阪に設置され、堀内利国は軍事病院医官となった。堀内は軍事病院の外人教師・オランダ人医師ブッケンから医学を学んだ。日本に徴兵制が敷かれて地方から大阪に集まってくる兵が増えるにつれて、軍隊の中で脚気患者が目に見えて増大するようになった。
嶌田川 儀兵衞(しまだがわ ぎへえ、1844年8月 - 19… 嶌田川 儀兵衞(しまだがわ ぎへえ、1844年8月 - 1922年2月15日)は、上野国邑楽郡(現在の群馬県館林市)出身で東関部屋に所属した大相撲力士。本名は東関 庄助(あずまぜき しょうすけ)、旧姓は濱野儀兵衛(はまの ぎへえ)。 最高位は東前頭9枚目。 1844年(天保15年)生まれ。1869年染手綱で序ノ口。三段目で嶌田川と改名し、1875年幕下二段目10枚目(十両格)。負け越しが多かったが十両を維持し、1880年5月36歳で新入幕。4場所在位したが5勝しかできず1882年5月十両陥落。1886年5月41歳で引退し年寄東関を襲名。長く在職し勧進元を3回務めた。1918年横綱太刀山に年寄名跡を譲り73歳で廃業、1922年77歳で死去。
五代目 尾上菊五郎(ごだいめ おのえ きくごろう、1844年… 五代目 尾上菊五郎(ごだいめ おのえ きくごろう、1844年7月18日(天保15年6月4日)- 1903年(明治36年)2月18日)は、明治時代に活躍した歌舞伎役者。本名は寺島 清(てらじま きよし)。 尾上菊五郎としての屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に梅幸。 市村羽左衛門としての屋号は菊屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に家橘。 九代目市川團十郎、初代市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」の黄金時代を築いた。 寺島清は十二代目市村羽左衛門を父に、三代目尾上菊五郎の次女を母に、江戸の芝居町猿若町二丁目に生まれた。嘉永2年(1849年)11月市村座で二代目市村九郎右衛門を襲名して初舞台。
佐治 儀助(さじ ぎすけ、弘化元年5月15日〈1844年6月… 佐治 儀助(さじ ぎすけ、弘化元年5月15日〈1844年6月30日〉- 1917年〈大正6年〉7月26日)は、明治から大正にかけて愛知県名古屋市で活動した実業家である。大須旭廓「寿楼(壽樓)」の営業主で、名古屋電灯の取締役や名古屋劇場常務取締役も務めた。 尾張国中島郡大里村(現在の愛知県稲沢市)の出身。弘化元年5月15日(1844年6月30日)、佐治儀右衛門の長男として生まれる。明治2年8月(1869年)に分家した。 佐治は名古屋市大須にあった旭廓(1923年に大須から移転し中村遊廓となる)の「寿楼」の営業主であった。その旭廓では、1892年(明治25年)3月、大須観音境内を火元とする大須大火に巻き込まれ、廓内を焼失するという事件があった。
海野 勝珉(うんの しょうみん、天保15年5月15日(184… 海野 勝珉(うんの しょうみん、天保15年5月15日(1844年6月30日) - 大正4年(1915年)10月6日)は、日本の彫金家。幼名・竹次郎。別号は東華斎、芳州。 常陸国・水戸にて、伝右衛門の四男として生まれる。叔父にあたり水戸藩士だった初代・海野美盛に金属彫刻を学ぶ。更に美盛の紹介で、当時水戸彫金界の泰斗だった同藩士・萩谷勝平から金属工芸の諸技術を収めて、基平と名乗った。「勝珉」の名は、師・萩谷勝平の「勝」と江戸時代の名彫金家・横谷宗珉の「珉」を合わせ後に名乗ったものと考えられる。また水戸時代には、安達梅渓に絵を、武庄次郎に漢籍も学び、高い教養も身につけている。 明治初年上京、明治9年(1876年)駒込千駄木町で開業した。
野口 源之助(のぐち げんのすけ、弘化元年5月2日(1844… 野口 源之助(のぐち げんのすけ、弘化元年5月2日(1844年6月17日) - 没年不詳)は明治時代の英語通詞。神奈川県訳官、開拓使御用掛、函館県職員、函館師範学校教諭、東京農林学校教授。ノグチゲラの名前の由来とする説がある。 弘化元年(1844年)5月2日肥前国彼杵郡長崎に小森蓮翁の次男として生まれた。実名は信一、本籍は大浦田町54番地。 慶応4年(1868年)井関盛艮と横浜に渡り、4月2日寺島宗則・井関配下で神奈川運上所通弁御用、閏4月20日神奈川裁判所通弁を務めた後、12月3日神奈川県直属の従事補通弁官となり、明治2年(1869年)11月判任史生、明治4年(1871年)2月14日権少属、10月7日四等訳官を歴任した。
銀林 綱男(ぎんばやし つなお、1844年5月6日〈弘化元年… 銀林 綱男(ぎんばやし つなお、1844年5月6日〈弘化元年3月19日〉 - 1905年〈明治38年〉9月20日)は、幕末の尊攘運動家、明治期の内務官僚・実業家。官選埼玉県知事。孫に数学者の銀林浩、曾孫に政治家の片山さつきがいる。同郷の前島密と親交があった。 越後国頸城郡青海村(後の新潟県西頸城郡青海町→糸魚川市)の青海神社の宮司銀林玄類の息子として生まれる。江戸で医学、詩文を学んだ。戊辰戦争では新政府側の居之隊に属して転戦した。 慶応4年(1868年)8月、新政府に出仕し民政方御用掛に就任。以後、新潟県少属、同一等警部を歴任。1876年、東京府に転じ、同大属、同戸籍掛長、同学務課長、同建築調査委員、同官報通信主任、同会計主務官代理などを務めた。
靑野 卯吉(あおの うきち、1844年4月30日〈旧暦弘化元… 靑野 卯吉(あおの うきち、1844年4月30日〈旧暦弘化元年3月13日〉 - 1907年〈明治40年〉4月18日)は、日本の銀行家、政治家。姓の「靑」は「青」の旧字体であるがJIS X 0208に収録されていないため、新字体で青野 卯吉(あおの うきち)とも表記される。 株式会社土方銀行頭取、静岡県小笠郡土方村長などを歴任した。 遠江国出身の銀行家である。土方銀行で頭取を務め、地域振興に努めた。また、土方村においては村長に選任されていた。村境にある風吹峠が交通の難所となっていたため、これを解消すべく風吹トンネルの開通に尽力した。 1844年4月30日(旧暦弘化元年3月13日)、遠江国城東郡入山瀬村にて生まれた。
近藤 坦平(こんどう たんぺい、弘化元年3月12日(1844… 近藤 坦平(こんどう たんぺい、弘化元年3月12日(1844年4月29日) - 昭和4年(1929年)1月27日)は、三河国碧海郡鷲塚村(現・愛知県碧南市)出身の医師。 西洋式診療所である洋々医館、東海地方初の西洋式医学校である蜜蜂義塾の創立者であり、三河地方における西洋医学の開祖とされる。 文化7年(1810年)9月5日、近藤賛斎の息子として近藤安中(こんどうあんちゅう)が生まれた。近藤家は京都から三河国に移った家であり、伯琴の字や鹿山の号を持っていた近藤賛斎から医師となった。文政13年(1830年)、安中は紀伊国那賀郡西野山村(現・和歌山県紀の川市)に赴き、華岡青洲の医塾である春林軒に入門した。
大村 和吉郎(おおむら わきちろう、1844年4月26日(弘… 大村 和吉郎(おおむら わきちろう、1844年4月26日(弘化元年3月9日) - 1915年(大正4年)12月11日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(3期)。 伊豆国君沢郡大場村(静岡県君沢郡中郷村、田方郡中郷村を経て現三島市)に生まれる。生家は代々清酒醸造を営んだ。名主役、区長、戸長、君沢・田方郡会議員、同参事会員を経て、静岡県会議員に当選し、同常置委員を務めた。ほか、静岡農工銀行取締役、海産株式会社監査役などを歴任した。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙では静岡県第7区から出馬し当選。第6回総選挙、第12回総選挙でも当選したが、3期目の在任中に死去した。
小柳津 要人(おやいづ かなめ、弘化元年2月15日(1844… 小柳津 要人(おやいづ かなめ、弘化元年2月15日(1844年4月2日) - 1922年(大正11年)6月21日)は、明治・大正期の実業家、武士(岡崎藩士)。丸善の専務取締役社長を務めた。 三河国岡崎にて岡崎藩士・小柳津宗和の長男として生まれる。幼少時は志賀重昂の父重職の下で学ぶ。岡崎藩主・本多忠民に仕え藩の要人となる。 1863年(文久3年)、西洋流大砲方の命を受けて江戸にのぼったが、英書を学ぶ必要を感じて大鳥圭介の塾縄武館に入る。また中浜万次郎に師事し、兵学・洋学の手ほどきを受けた。同年秋より開成所に転じ、英学得業士となる。 1868年(慶応4年)の戊辰戦争時には、志賀熊太に血判状を提出した後に脱藩して遊撃隊に加わる。
伊達 文三(だて ぶんぞう、1844年3月26日(弘化元年2… 伊達 文三(だて ぶんぞう、1844年3月26日(弘化元年2月8日) - 1901年(明治34年)10月25日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。旧姓・羽田。 羽田家の三男として伊豆国君沢郡三津村(静岡県君沢郡内浦村、田方郡内浦村を経て現沼津市)に生まれ、20歳の時に富士郡神谷村(須津村、吉原市を経て現富士市)の伊達松翁の養子となる。土木請負業を営む傍ら静岡県会議員を務め、1881年(明治14年)岳南自由党に参加した。沼川石水門の工事に私財を投じ、伊達組を興して山陽本線の工事を請け負うなど公共のために尽くした。 1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙では静岡県第2区から出馬し当選。
関矢 孫左衛門(せきや まござえもん、1844年3月12日(… 関矢 孫左衛門(せきや まござえもん、1844年3月12日(弘化元年1月24日) - 1917年(大正6年)6月21日)は、明治時代の政治家、銀行家、実業家。衆議院議員(1期)。北海道開拓者。号・道菴、北海道人。 越後国刈羽郡新道村(新潟県刈羽郡日高村、高田村を経て、現柏崎市新道)出身。飯塚七十郎の子として生まれ、1858年(安政5年)魚沼郡並柳新田(新潟県北魚沼郡並柳村、下条村、広瀬村、広神村を経て現魚沼市)の関矢家の養子となった。戊辰戦争では居之隊に属して新政府軍とともに各地に転戦した。西南戦争にも従軍した。 1870年(明治3年)帰郷後、大区長に就任。のち三等警部、地租改正御用掛、北魚沼郡長兼南魚沼郡長を歴任する。
天川 三蔵(三藏、あまかわ さんぞう、1844年3月5日(弘… 天川 三蔵(三藏、あまかわ さんぞう、1844年3月5日(弘化元年1月17日) - 1916年(大正5年)12月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 摂津国、のちの大阪府大阪市北区中之島常安町(現中之島)で生まれた。 1883年(明治16年)西区仲之町会議員に当選。以後、連合町会議長、西区会議員、同区会議長を務めた。1894年(明治27年)日清戦争の澎湖列島占領の混成支隊に従軍した。 1895年(明治28年)大阪市会議員に当選。以後、大阪築港期成会委員、所得税調査委員長、憲政党大阪支部常議員、大阪築港商議員、大阪運河 (株) 顧問、大阪瓦斯顧問などに在任。1899年(明治32年)大阪府会議員に選出され、同参事会員も務めた。
香川松石(かがわ しょうせき、弘化元年1月15日(1844年… 香川松石(かがわ しょうせき、弘化元年1月15日(1844年3月3日) - 明治44年(1911年)9月28日)は、学校で用いられる書道の教科書を記した書道家。千葉師範学校(現在の千葉大学教育学部)教諭。通称、香川熊蔵。
内藤 伝右衛門(ないとう でんえもん、1844年3月2日(天… 内藤 伝右衛門(ないとう でんえもん、1844年3月2日(天保15年1月14日)- 1906年(明治39年)11月18日)は、日本の実業家。峡中新聞(現在の山梨日日新聞)創業者。 山梨県東山梨郡八幡北村(現山梨市)出身。幼名・猪之甫。実父は手塚仙一。養父は甲府で商家「藤屋」を営んでいた初代内藤伝右衛門、養母は女子教育の先駆者の内藤萬春。 10代半ばに初代伝右衛門が他界し家業を継ぎ2代目伝右衛門を襲名した。1862年(慶応2年)平田国学(篤胤)の殿堂気吹堂に入門する。1872年(明治5年)7月1日、 県令土肥実匡の指示、篤胤門下で初代中巨摩郡長の三枝七内の資金援助により峡中新聞(山梨日日新聞)を創刊した。
中村 博愛(なかむら ひろなり / ひろやす、天保14年12… 中村 博愛(なかむら ひろなり / ひろやす、天保14年12月29日〈1844年2月17日〉 - 1902年〈明治35年〉10月30日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の外交官・官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。旧名・宗見、変名・吉野清左衛門。 根占郷の麓集落(現鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北)生まれ。薩摩藩士の家に生まれる。長崎の長崎養生所でオランダ軍医・アントニウス・ボードウィンから医学を学ぶ。帰藩し開成所で英学を学ぶ。薩摩藩第一次英国留学生に選ばれ、元治2年3月22日(1865年4月17日)吉野清左衛門と変名して鹿児島から密出国し、イギリスで化学を学ぶ。慶応2年1月(1866年)シャルル・ド・モンブラン伯爵の勧めで田中静洲と共にフランスへ留学。
片岡 健吉(かたおか けんきち、1844年2月14日〈天保1… 片岡 健吉(かたおか けんきち、1844年2月14日〈天保14年12月26日〉- 1903年〈明治36年〉10月31日)は、日本の政治家。 ※日付は明治5年までは旧暦 天保14年12月26日(1844年2月14日)、土佐藩上士(馬廻格・250石)片岡篤光(俊平)の嫡男として高知城下中島町に生まれる。母は渋谷次兵衛篤輝の妹(幸)。嘉永2年(1849年)7月7日、藩主への御目見えを許される。 万延元年(1860年)8月18日、前年に乾退助らと相諮り南川原相撲場へ立ち入って不作法に及んだ事を咎められ謹慎処分を受けた。 文久元年(1861年)3月17日、御扈従に就任。文久2年(1862年)11月27日、御側小性を免じられ、御馬廻りへ転任。
曾我 祐準(そが すけのり、「すけゆき」とも、天保14年12… 曾我 祐準(そが すけのり、「すけゆき」とも、天保14年12月25日〈1844年2月13日〉- 昭和10年〈1935年〉11月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸軍中将勲一等子爵。憲仁親王妃久子は玄孫にあたる。 家禄は120石の柳河藩士・曾我祐興(七郎左衛門)の次男として生まれる。兄は曽我祐正。母は国学者の西原晁樹の次女の民子。元治2年(1865年)に長崎へ出て洋学を学ぶ。学問や武道を好み、長崎では砲術も学び、イギリス商人のトーマス・ブレーク・グラバーの援助で上海・香港・シンガポールを航海し、航海術を学んだ。また同じく長崎で、西坂にあった瓜生寅の仮塾や榎津町にあった柴田昌吉の柴田塾に学び、関沢明清らと懇意にした。
北原 雅長(きたはら まさなが、天保14年12月24日(18… 北原 雅長(きたはら まさなが、天保14年12月24日(1844年2月12日) - 大正2年(1913年)7月24日)は、初代長崎市長。 号は清華、歌仏庵。 会津藩家老神保内蔵助の次男として生まれる。通称、半助。兄に神保修理がいる。母方の実家の北原光吉の養子となる。京都守護職となった藩主松平容保とともに京に上り、藩主近くで機密事項を担当しながら、禁門の変にも参加した。慶応4年(1868年)、会津戦争では、母成峠の戦いで大鳥圭介や田中源之進らの隊の参謀役を務めたのち、藩主のもとで籠城戦を指揮し降伏するまで戦った。謹慎地の東京で戦争責任者となった家老萱野権兵衛の切腹に立ち会い、遺骸を芝白金の興禅寺に埋葬する。