きくち 英一(きくち えいいち、1942年8月21日 - )… きくち 英一(きくち えいいち、1942年8月21日 - )は、日本の俳優、スタントマン、殺陣師、司会者。本名および旧芸名:菊池 英一(読み同じ)。アイティ企画所属。東京都世田谷区経堂出身。育英工業高等学校、日本大学芸術学部演劇学科卒業。 父は牧師で、二人兄弟の次男。高校時代に役者を志すようになり、3年生当時に日活のニューフェイスを受験するが不合格となる。しかし、役者の夢を捨てきれず日本大学芸術学部演劇学科に進学すると、同校の「殺陣同志会」に入会して1962年の『脱線トリオ大江戸三人男』にアルバイトで出演し、これが映像関係での初仕事となる。大学4年生当時には、新橋演舞場で舞台『切腹』に出演した。
山田 忠男(やまだ ただお、1942年8月20日 - 199… 山田 忠男(やまだ ただお、1942年8月20日 - 1999年5月31日)は、宮崎県日南市油津出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。 日南高校では1960年夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、都城都島高に敗れ南九州大会へは進めなかった。1961年に大洋ホエールズへ入団。 大洋の捕手陣には土井淳、伊藤勲らがおり、活躍の場は少なかったが、1968年には伊藤に次ぐ二番手捕手として17試合に先発マスクを被る。1971年限りで引退した。 1999年5月31日に死去。享年56。
郡山 健次郎(こおりやま けんじろう、Paul Kenjir… 郡山 健次郎(こおりやま けんじろう、Paul Kenjiro Koriyama, 1942年8月20日-)は、日本のカトリック教会聖職者。カトリック鹿児島司教区名誉司教。洗礼名は「パウロ」。 鹿児島県大島郡竜郷町瀬留で郡山為業・セツ夫妻の7人兄弟の次男として生まれる。本人によれば、父は家に客があると手を頭の上に置き、「この子は司祭になる」と言っていた。名瀬の大島高等学校を卒業後、予備校に通っている間に司祭への召命を感じ、1964 年4月に鹿児島教区神学生として福岡サン・ スルピス大神学院へ入学。1972年3月20日、奄美大島名瀬の聖心教会で鹿児島教区糸永真一司教により司祭に叙階された。 33年間教区司祭として8小教区で働く以外に、教区青少年担当司祭、CLC(クリスチャンライフコミュニティー)、ME(マリッジエンカウンター)などを担当した。
松本 武夫(まつもと たけお、1942年8月20日 - 20… 松本 武夫(まつもと たけお、1942年8月20日 - 2005年9月26日)は、日本文学研究者。専門は日本近現代文学。 東京生まれ。攻玉社高等学校卒、1966年早稲田大学第一文学部露文科卒業。1968年立教大学大学院文学研究科日本文学専攻修士課程修了。1969年専修大学松戸高等学校教諭、1973年香蘭女学校教諭、1985年東海大学短期大学部助教授、1990年教授、1996年立正大学文学部助教授、10月教授。井伏鱒二を研究し本人とも親しかった。
二代目 松本 白鸚(にだいめ まつもと はくおう、1942年… 二代目 松本 白鸚(にだいめ まつもと はくおう、1942年〈昭和17年〉8月19日 - )は、日本の歌舞伎役者、日本舞踊家、俳優。屋号は高麗屋。定紋は四つ花菱、替紋は浮線蝶。歌舞伎名跡「松本白鸚」の当代。前名の九代目 松本 幸四郎(くだいめ まつもと こうしろう)としても知られる。俳名に錦升(きんしょう)がある。また舞台演出家としては九代 琴松(くだい きんしょう)の名を用いることがある。東京都出身。暁星中学校・高等学校卒業、早稲田大学第一文学部文学科演劇専修中退。本名は藤間 昭曉(ふじま てるあき)。 日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受賞者。 身長175cm、体重78kg、血液型B型。 歌舞伎では、お家の高麗屋の芸を継承するだけでなく、外祖父の播磨屋の重厚な演目も受け継いでおり、『勧進帳』の武蔵坊弁慶役は1200回という現役最多の出演記録を誇り、時代物の主人公役は高く評価される。
九代目 松本幸四郎(くだいめ まつもと こうしろう、1942… 九代目 松本幸四郎(くだいめ まつもと こうしろう、1942年8月19日 - )は、日本の俳優、歌舞伎役者、舞踊家。日本藝術院会員。本名、藤間 昭暁(ふじま てるあき)。
長幡 忠夫(ながはた ただお、1942年8月18日 - )は… 長幡 忠夫(ながはた ただお、1942年8月18日 - )は兵庫県西宮市出身の元プロ野球選手(外野手)。
安井 善宏(やすい よしひろ、1942年8月18日 - 20… 安井 善宏(やすい よしひろ、1942年8月18日 - 2013年9月22日)は日本の実業家。愛知県出身。明治電機工業株式会社の元代表取締役社長。長男は実業家の安井淳一郎。
麻畠美代子(あさはた みよこ、1942年8月18日 - 19… 麻畠美代子(あさはた みよこ、1942年8月18日 - 1964年2月18日)は、日本のミスコン女王、客室乗務員。ミス京都、ミス・ワールド・ジャパン準優勝の肩書を持つ。 1964年2月18日、日東航空おやしお号墜落事故で殉職するが、これがきっかけとなり建立されたみよし観音は今も残る。 1942年8月18日、京都市に生まれる。5人兄弟姉妹の一人。少なくとも姉弟がそれぞれ一人いる。父は西陣織関連の仕事に従事。 幼少時より色白のかわいい子で、幼稚園の学芸会などでは人気者だった。1958年4月1日、精華女子高等学校商業科入学。在学中はバスケットボールの選手だった。1961年3月31日、同卒業。 高校卒業後は髙島屋京都店のエスカレーターガールになる。
岡野 忠雄(おかの ただお、1942年8月17日 - )は日… 岡野 忠雄(おかの ただお、1942年8月17日 - )は日本の実業家。日本貨物鉄道(JR貨物)元常務。飯田町紙流通センター元代表取締役社長。 石川県生まれ。大阪府立清水谷高等学校卒業。京都大学卒業[要出典]。 1967年(昭和42年)日本国有鉄道(国鉄)に入社。1985年国鉄貨物局調査役、1987年(昭和62年)4月、国鉄民営化後は、日本貨物鉄道(JR貨物)の関西支社広島支店長に就任。京葉臨海鉄道や日本国有鉄道清算事業団勤務を経て、1996年(平成8年)JR貨物取締役東北支社長、1998年常務取締役関東支社長。 2002年(平成14年)から飯田町紙流通センター社長を務めた。
野辺 修光(のべ おさみつ、1942年(昭和17年)8月17… 野辺 修光(のべ おさみつ、1942年(昭和17年)8月17日 - )は、日本の政治家。元宮崎県串間市長。 宮崎県出身。宮崎大学農学部卒。串間市農業委員などを経て、1979年、串間市議会議員に当選する。2期務め、副議長、議長も務めた。1987年に宮崎県議会議員に当選し、1期務める。1990年、串間市長に当選する。1992年、市役所への電算機導入をめぐる収賄事件で逮捕され、市長を辞職。後に有罪が確定した。2000年に市長に復帰するが、後援会長が公職選挙法違反(買収)で逮捕され、拡大連座制の適用を受け、市長を失職となる。その直後の県議会議員補欠選挙に立候補して県議に復帰する。翌年の選挙でも再選。2007年は無投票当選。
菊野 一雄(きくの かずお、1942年8月16日 - )は、… 菊野 一雄(きくの かずお、1942年8月16日 - )は、日本の経営学者。学位は、経済学博士(立教大学・論文博士・1988年)(学位論文「労務管理の基礎理論」)。立教大学名誉教授、山梨英和大学学長。 1942年台北生まれ。慶應義塾幼稚舎、札幌市立幌北小学校、札幌市立北辰中学校、杉並区立松渓中学校、慶應義塾高等学校を経て、1965年慶應義塾大学商学部卒業、1970年同大学院商学研究科博士課程単位取得満期退学、1988年「労務管理の基礎理論」で立教大学より経済学博士の学位を取得。 1970年武蔵大学経済学部専任講師、1972年同助教授、1977年立教大学経済学部助教授、1979年同教授、2005年退任、名誉教授、跡見学園女子大学教授、2017年山梨英和大学学長。
大橋 光博(おおはし みつひろ、1942年8月16日 - )… 大橋 光博(おおはし みつひろ、1942年8月16日 - )は、日本の経営者。西京銀行頭取を務めた。鳥取県出身。 1967年に京都大学経済学部を卒業し、同年に日本銀行に入行。1995年6月に西京銀行専務に就任し、1996年6月に副頭取を経て、1997年6月に頭取に就任。2010年6月には阪神高速道路会長兼社長に就任し、明治大学で非常勤講師も務めた。2003年に藍綬褒章を受章。。
内海 善雄(うつみ よしお、1942年〈昭和17年〉8月14… 内海 善雄(うつみ よしお、1942年〈昭和17年〉8月14日 - )は、日本の郵政官僚。郵政審議官、国際電気通信連合事務総局長を歴任した。 郵政省時代 通信の自由化の際の担当課長、第2種通信事業自由化の実現 ITU事務総局長時代 IP電話に対する国際合意の実現 国連情報社会サミット(WSIS) の開催 インターネット管理(ICANN)の国際化
北原 健雄(きたはら たけお、1942年8月14日 - 20… 北原 健雄(きたはら たけお、1942年8月14日 - 2013年9月16日)は、日本のアニメーター。東京ムービーや日本アニメーションに所属していた。長崎県平戸市出身。 「北原 匠」「きたはら たてお」と表記されることもある。本名は「きたはら たけかつ」。 『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』ではキャラクターデザインや作画監督を務めた。その後も『シティーハンター』で名を残す。 長崎県立猶興館高等学校卒業後は絵の世界に入りたいと上京し、多摩美術大学油絵科を受験するも不合格、そのうち画家で生活していくのは「夢のまた夢」と認識するようになり、グラフィックデザイナーを目指そうと方向転換、東京ムービーにアルバイトで入社する傍らでデザインスクールにも通う。
久代 義明(くしろ よしあき、1942年8月14日 - )は… 久代 義明(くしろ よしあき、1942年8月14日 - )は、兵庫県三田市出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手、一塁手、外野手。
室田泰弘(むろた やすひろ、1942年8月14日- )は、日… 室田泰弘(むろた やすひろ、1942年8月14日- )は、日本のエネルギー工学者。 東京生まれ。1965年東京大学工学部卒、1967年同大学経済学部卒。1969年米国ペンシルベニア大学大学院修士課程修了(M.A.)。1972年日本経済研究センター主任研究員、1979年埼玉大学教養学部助教授を経て、1989年湘南エコノメトリクスを設立、同代表。
青木 章泰(あおき あきひろ、1942年8月13日 - )… 青木 章泰(あおき あきひろ、1942年8月13日 - )は、日本の経営者。四国銀行頭取を務めた。 高知県出身。1965年に中央大学商学部を卒業し、同年4月に四国銀行に入行した。1997年6月に取締役に就任し、2000年6月に常務、2002年6月に専務を経て、2004年6月には頭取に就任。2010年6月に会長に就任。 2021年11月に旭日中綬章を受章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
船本 幸路(ふなもと こうじ、1942年8月12日 - )は… 船本 幸路(ふなもと こうじ、1942年8月12日 - )は、広島県広島市草津出身の元サッカー日本代表選手(GK)・指導者。 広大付属高校2年の時、ゴールキーパーとして桑田隆幸や野村尊敬、同級の小城得達、桑原楽之、溝手顕正らと全国高校サッカー選手権大会に出場して準優勝、国体も準優勝、3年時はベスト8。 高校を卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社、東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)へ入団。同チームの監督となった下村幸男の後を受け正ゴールキーパーとなる。石井義信、小沢通宏、今西和男、丹羽洋介、桑原弘之、大野毅、川野淳次、国枝強らとゴールを守り、日本サッカーリーグ(JSL)4連覇と3度の天皇杯制覇に貢献した。
増田 昌三(ますだ しょうぞう、1942年(昭和17年)8月… 増田 昌三(ますだ しょうぞう、1942年(昭和17年)8月12日 - )は、日本の政治家、地方公務員。1995年から2007年までの3期12年にわたり高松市長を務めた。 香川県高松市出身。1965年早稲田大学法学部卒。在学中は港区三田にある香川県の県人寮・香川育英会東京学生寮から通学した。同年高松市役所に入る。市図書館長、市教育委員会文化部長などを歴任。1992年に市助役に就任。 1995年の市長選挙では高松市長脇信男の後継者として全国では異例の自民・共産2党の推薦で立候補して、新進・社会・さきがけの3党が推薦する元県議の候補らを破って初当選した。1999年(無投票)と2003年の選挙でも再選した。
中尾 彬(なかお あきら、1942年〈昭和17年〉8月11日… 中尾 彬(なかお あきら、1942年〈昭和17年〉8月11日 - 2024年〈令和6年〉5月16日)は、日本の俳優、声優、タレント、コメンテーター。千葉県木更津市出身。最終所属は古舘プロジェクト。 中尾彬は、木更津市にあった実家は酒屋を営んでおり、長男として生まれた。1958年に千葉県立木更津第一高等学校へ入学するとバレーボール部で主将を務め、1960年に油彩画「石の花」が千葉県美術展に入選し、1961年に武蔵野美術大学油絵学科へ入学する。 1961年に日活ニューフェイスの第5期に合格して(正規ではなく編入)「青い芽の素顔」と「どじょっこの歌」にノンクレジットでテスト出演した後に、「真昼の誘拐」で正式にデビューする。
福田 督(ふくだ ただし、1942年8月11日 - 2019… 福田 督(ふくだ ただし、1942年8月11日 - 2019年8月11日)は、日本の実業家。中国電力相談役。 2006年に同社としては初めて社長職を経ずに会長職に就任した。中国電力入社同期に山下隆(中国電力会長)等。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
奈月ひろ子(なづき ひろこ、1942年8月10日 - )は、… 奈月ひろ子(なづき ひろこ、1942年8月10日 - )は、日本の女優。かつてフジサンケイグループを支配した鹿内一族の出身である。 当初の芸名には、「若柳菊」、「菊ひろ子」などの名前で活動。 鹿内信隆の長女として東京都中野区に生まれる。弟は鹿内春雄。鹿内宏明は義弟(妹・厚子の夫)。娘はフジテレビプロデューサーの鹿内植。 4歳の頃から若柳流の日本舞踊を習い、11歳で名取、22歳で師範。森村学園初等科・中等科、慶應義塾女子高等学校を経て、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、舞台女優の道に進む。父・信隆はそれに必ずしも賛成したわけではなかったが、娘の意思が固かったため、フジテレビの株主として関係の深い松竹の役員に後押しを頼んだりした。
小林 紘二郎(こばやし こうじろう、1942年8月10日 -… 小林 紘二郎(こばやし こうじろう、1942年8月10日 - )は、日本の工学者。大阪大学名誉教授。専門は、材料プロセシング、材料科学。 工学博士(京都大学、1976年)(学位論文「アルミニウム-けい素合金の共晶凝固現象に関する研究」)。
疋田 拓(ひきだ たく、ひきだ ひらく、1942年8月10日… 疋田 拓(ひきだ たく、ひきだ ひらく、1942年8月10日 - 2025年10月15日または10月16日)は、日本のテレビプロデューサー、テレビディレクター。プロデュース&ディレクション(P&D)代表取締役。 本名は漢字表記は同じで「ひきだ ひらく」と読む。宮崎県日向市出身。日本大学芸術学部放送学科卒業。フジテレビ、テレビ朝日でプロデューサーを務めた。 1968年、日本大学芸術学部放送学科卒業後、NHKに契約職員として入局。その後フジテレビへ中途入社。フジテレビ入社直後に始まった歌謡番組『夜のヒットスタジオ』(『夜ヒット』)に技術担当のADとして参加[要出典]。1973年からはディレクター[要出典]、1976年から1987年6月までプロデューサーとして約20年もの長きにわたって構成作家の塚田茂とともに番組製作の中枢を担い続けた。
加藤 功(かとう いさお、昭和17年(1942年)8月9日 … 加藤 功(かとう いさお、昭和17年(1942年)8月9日 - )は日本の実業家。元厚生省職員、環境庁職員。元米子商工会議所青年部代表理事。 元加藤商事会長加藤章の四男。元三井銀総合研究所社長加藤裕は長兄。 鳥取県米子市出身。家業は建設資材卸売業。 昭和40年(1965年)東京農業大学農学部造園科卒業、同年厚生省国立公園局入省。昭和48年(1973年)徳島県に出向。 昭和53年(1978年)環境庁退職後、加藤商事勤務。米子に帰った当初は家業の仕事を覚えること、父が病気がちであったことから父の秘書役をすることで一生懸命であった。 昭和59年(1984年)加藤ホームサービス代表取締役、昭和61年(1986年)加藤商事専務取締役に就任。
天野 勝(あまの まさる、1942年8月9日 - 2006年… 天野 勝(あまの まさる、1942年8月9日 - 2006年7月28日)は、広島県広島市出身のプロゴルファー。 学生時代は東京で卓球の個人チャンピオンになり、広島修道大学を2年で中退した後は珠算一級・簿記二級の資格を生かして沖電気工業とウテナの経理課に勤務し、全日本実業団選手権(軟式)団体2位の戦績を持つ。 1968年には「もっと給料が欲しい」と思って退社し、職業安定所から帰る途中にたまたま寄ったゴルフ練習場で初めてクラブを握ったのがきっかけとなり、26歳からゴルフを始める。 ゴルフを始めた時には2番アイアン1本で練習していたが、後にアイアンは全て打てるようになり、始めて僅か4ヶ月でハンディ4となって練習場の先生に採用されると、5年目の1972年春に30歳でプロテストに合格。
和晃 敏郎(かつひかり としお、1942年8月9日 - 20… 和晃 敏郎(かつひかり としお、1942年8月9日 - 2018年1月1日)は、愛知県蒲郡市神ノ郷町出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は荒磯部屋)に所属した大相撲力士。本名は杉浦 敏朗(すぎうら としお)。現役時代の体格は186cm、113kg。最高位は東前頭筆頭(1970年9月場所)。得意手は左四つ、寄り、上手投げ。 蒲郡市立蒲郡中学校では後の横綱・玉の海の1年先輩に当たり、相撲部で主将を務めていた。その後進学した愛知県立蒲郡高等学校を1年生途中で中退し、荒磯部屋(後、1961年1月より伊勢ヶ濱部屋に改称)へ入門。1958年11月場所で初土俵を踏んだ。初土俵の同期には、後の前頭・栃王山らがいる。 以来、着実に番付を上げてゆき、1965年5月場所で十両へ昇進した。
森中小三郎(もりなか こさぶろう、1942年〈昭和17年〉8… 森中小三郎(もりなか こさぶろう、1942年〈昭和17年〉8月8日 - 2020年〈令和2年〉12月27日)は、日本の実業家。元住友商事副社長。元成田国際空港株式会社社長(のち相談役)。滋賀県出身。 2007年5月、日本国政府がめざす航空自由化に反対の立場だとして運輸事務次官経験者の黒野匡彦前社長を更迭した首相官邸(第1次安倍内閣)サイドにより、成田国際空港株式会社(NAA)2代目社長に抜擢された。民営化前の新東京国際空港公団時代も含め成田空港トップに民間人を起用したのは初めて。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大石 昭忠(おおいし あきただ、1942年(昭和17年)8月… 大石 昭忠(おおいし あきただ、1942年(昭和17年)8月8日 - )は、日本の元政治家。大分県日田市の第7代市長を務めた。 日田市出身。横浜国立大学経済学部卒業後、30年間にわたり安宅産業や伊藤萬などの商社で勤務。主に食品畑を歩み、その間西ドイツの駐在員や、居酒屋チェーン副社長も務めた。1991年よりシダックス取締役。1995年に日田市長に初当選。3期にわたり日田市長を務めたが、4選を目指した2007年7月29日の市長選挙で新人の佐藤陽一に大差で敗れ落選した。 2010年6月から、国際協力機構(JICA)のシニア海外ボランティアとしてアルゼンチン南部のパタゴニアに赴任した。 就任後、職員を100人削減して440人にするなど、行政改革を推進した。
マサ斎藤(マサさいとう / Masa Saito、本名:斎藤… マサ斎藤(マサさいとう / Masa Saito、本名:斎藤 昌典 / さいとう まさのり、1942年8月7日 - 2018年7月14日)は、日本のプロレスラー。東京都中野区出身。 日本プロレスや東京プロレスを経て、フリーランサーとなって新日本プロレスを主戦場に活躍。アメリカにおいても、NWA、AWA、WWFなど各団体で実績を残している。第一線を退いてからは新日本プロレスのブッカーおよびコメンテーターとして活動した。信条は「Go for broke」(当たって砕けろ)。 明治大学在学中の1964年、レスリング全日本選手権にて、97kg超級フリースタイル・グレコローマンの両部門で優勝(グレコローマン部門決勝の相手はのちのサンダー杉山こと杉山恒治。
平野 眞一(ひらの しんいち、1942年8月7日 - )は、… 平野 眞一(ひらの しんいち、1942年8月7日 - )は、日本の工学者。第12代名古屋大学総長。専門は無機材料化学、結晶成長学、材料評価学。セラミックス分野の大家。工学博士(名古屋大学、1970年)。
高池 勝彦(たかいけ かつひこ、1942年8月7日 - )は… 高池 勝彦(たかいけ かつひこ、1942年8月7日 - )は、日本の弁護士・政治活動家。新しい歴史教科書をつくる会会長、富士社会教育センター理事。 早稲田大学法学部卒業。1972年(昭和47年)、29歳で司法試験に合格し、司法修習27期を経て1975年に弁護士登録(東京弁護士会、登録番号14830)。 新しい歴史教科書をつくる会会長、國語問題協議會会員(監事)、国家基本問題研究所理事、南京事件の真実を検証する会委員、維新政党・新風講師、映画『南京の真実』の賛同者。東史郎の南京大虐殺関連の書籍に関する名誉棄損訴訟の原告弁護人、百人斬り訴訟の原告側弁護団長、夏淑琴裁判の被告(=松村俊夫、展転社)側代理人。
益子 峰行(ましこ みねゆき、1942年8月6日 - )は、… 益子 峰行(ましこ みねゆき、1942年8月6日 - )は、北海道出身の元スキージャンプ選手。 札幌商業高等学校-駒澤大学-北海道拓殖銀行 札幌オリンピックでは代表に選ばれ、開会式で旗手を務めたものの競技では出番はなく、チームマネージャー的な役割を果たした。1974年ノルディックスキー世界選手権代表となり70m級31位だった。 札幌オリンピックで補欠に決まった後、笠谷幸生のサポートに徹して、殺到するカメラマンとの距離を作り金メダルの陰の立役者となった。笠谷とは青森での大会で日本酒とメザシを肴に打ち解け、以来「あの笠谷さんが唯一いうことを聞いた人」と呼ばれた。
串田 和美(くしだ かずよし、1942年8月6日 - )は、… 串田 和美(くしだ かずよし、1942年8月6日 - )は、日本の俳優、演出家。日本大学芸術学部特任教授。佐々木高行は高祖父にあたる。所属事務所は鈍牛倶楽部。 東京都小金井市出身。成蹊小学校、成蹊中学校・高等学校卒業。日本大学芸術学部演劇学科中退。 父は哲学者・詩人の串田孫一。弟はグラフィックデザイナーの串田光弘。祖父は三菱銀行初代会長を務めた串田万蔵。母方の祖父は國學院大學理事長・学長を務めた侯爵の佐佐木行忠。行忠の祖父が佐々木高行。 1965年俳優座養成所を卒業し劇団文学座入団。 1966年佐藤信、斎藤憐、吉田日出子らと共に自由劇場を結成。六本木の「アンダーグラウンド自由劇場」を本拠地とする。
丘 あつし(おか あつし、1942年8月6日 - 2002年… 丘 あつし(おか あつし、1942年8月6日 - 2002年3月30日)は、日本の漫画家。兵庫県神戸市長田区出身。本名:高岡胖。 兵庫県立長田高等学校卒業。神戸市役所勤務の後、漫画家に転身。代表作に『釣野キチゾー氏とタエ子夫人』(週刊釣りサンデー連載)。長田区で阪神・淡路大震災に被災し、その後月刊神戸センター編集室発行の阪神大震災特別寄稿へ「地震だ!! : 長田区レポート」として寄稿した。2002年3月30日、食道癌のため死去。59歳没。
山本 公士(やまもと こうし、1942年8月6日 - )は、… 山本 公士(やまもと こうし、1942年8月6日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手(外野手)。
辻 彰(つじ あきら、1942年8月6日 - 2016年5月… 辻 彰(つじ あきら、1942年8月6日 - 2016年5月18日)は、日本の薬剤学者、金沢大学大学院自然科学研究科薬学系名誉教授。一般社団法人医薬品開発支援機構代表理事。細胞膜における物質輸送担体(トランスポーター)研究の第一人者として国際的に高い評価を得ている。 1942年8月6日、石川県金沢市生まれ。 金沢大学に学び、山名月中に師事した。1966年金沢大学薬学部卒業。1968年金沢大学大学院薬学研究科修士課程修了とともに同大学助手に就任した。1976年に博士号を取得。論文名は 「β-ラクタム環抗生物質の分解反応に関する速度論的研究」。 同年、助教授就任。1980年に金沢大学薬学部教授に就任した。
中﨑 久雄(なかさき ひさお、1942年8月6日 - )は、… 中﨑 久雄(なかさき ひさお、1942年8月6日 - )は、日本の政治家、医師。元神奈川県大磯町長(3期)。 富山県高岡市出身。1968年(昭和43年)3月、神戸大学医学部医学科卒業。1970年(昭和45年)3月、国立がんセンター病院外科レジデントになる。1980年(昭和55年)12月、東京大学より医学博士を授与。 2003年(平成15年)4月、東海大学医学部付属大磯病院長に就任。2007年(平成19年)4月、同大学健康推進センター所長に就任。2008年(平成20年)8月、大船中央病院長に就任。 2010年(平成22年)11月28日に行われた大磯町長選挙に無所属で出馬。現職の三好正則、元町議の渡辺順子、元町議の柴崎茂ら3名の候補者を相手に接戦を制し、初当選。
小野 誠之(おの のぶゆき、1942年(昭和17年)8月6日… 小野 誠之(おの のぶゆき、1942年(昭和17年)8月6日 - )は、日本の弁護士である。 東京都出身。東京大学卒業後、日本を離れアメリカ合衆国のダートマス大学に留学する。帰国後は京都で法律事務所を開業し、1970年(昭和45年)には岩国基地で反戦を主張したアメリカ陸軍の兵士だったノーマン・ユーイングの弁護人を務める。 これによって在日アメリカ軍の軍事法廷や在日朝鮮人の指紋押捺問題等を担当し、連続ピストル射殺事件を起こしたことで知られる永山則夫の弁護人も務めた。また日本の国歌である「君が代」および浮島丸事件の訴訟や難民問題の弁護人も務め、自由人権協会の京都代表理事や日本弁護士連合会の国際人権問題の委員を歴任した。
林野 宏(りんの ひろし、1942年(昭和17年)8月5日 … 林野 宏(りんの ひろし、1942年(昭和17年)8月5日 - )は、株式会社クレディセゾン代表取締役会長CEO。埼玉大学フェロー。元経済同友会副代表幹事。 京都府出身。埼玉県立浦和西高等学校を経て埼玉大学文理学部卒業後、西武百貨店入社。セゾングループ創業者堤清二のお別れの会では、ドナルド・キーンと共に実行委員長を務めた。 1982年、西武百貨店から西武クレジットに転籍。クレジット事業を主業とするための企画立案を担当する。社長就任後にはポイントに有効期限のない「永久不滅ポイント」のサービスや、Visa、マスターカード、アメリカン・エキスプレスと提携するなどした。
湯浅 富士郎(ゆあさ ふじろう、1942年8月5日 - )は… 湯浅 富士郎(ゆあさ ふじろう、1942年8月5日 - )は日本の声楽家、バス、オペラ歌手。都山流尺八竹琳軒大師範、浄土宗僧侶、関西芸術振興会評議員、奈良メサイアの会会長、あすか邦楽アンサンブル代表、株式会社TAKUTO代表取締役。本名は湯浅順信(-よりのぶ)、僧侶になった際にこちらを本名に改名した。尺八を演奏する際の芸名は湯浅富士山(-ふじざん)。妻はソプラノ歌手の湯浅契。大阪府立清水谷高等学校、東京芸術大学。西ドイツ・ケルン音楽大学卒業。
賀陽 健憲(かや たけのり、1942年〈昭和17年〉8月5日… 賀陽 健憲(かや たけのり、1942年〈昭和17年〉8月5日 - 2017年〈平成29年〉7月20日)は、日本旧皇族。皇籍離脱前の名は健憲王(たけのりおう)。賀陽宮恒憲王の第6王子。母は恒憲王妃敏子。1947年(昭和22年)10月14日、11宮家の皇籍離脱が行われた際、王も皇籍を離脱。学習院大学卒業後、日本交通公社に勤務した。2017年7月20日、東京都杉並区で逝去。
林 康夫(はやし やすお、1942年8月5日 - )は、日本… 林 康夫(はやし やすお、1942年8月5日 - )は、日本の官僚、実業家。 神奈川県出身。東京大学法学部を経て、1966年 通商産業省入省。1969年、人事院留学制度により江田五月、黒田東彦らとオックスフォード大学留学。 同期の広瀬勝貞らと共に最後まで次官候補に挙がり、林は石油・通商政策のエキスパートとして長く、通商政策局長を経て通商産業審議官に落ち着くことが内内定していた。時の橋本龍太郎首相が同窓であったことも後押しして、広瀬が次官となったが、熊谷弘が通産大臣在任時に次官候補筆頭であった産政局長・内藤正久(1961年入省)の解任にまで発展した所謂「通産省4人組事件」の後遺症もあり人事が流動化したため、同期の荒井寿光が通産審議官に座ることとなった。
岩本 泰英(いわもと やすひで、1942年8月4日 - )は… 岩本 泰英(いわもと やすひで、1942年8月4日 - )は、長崎県出身の元プロ野球選手。 長崎県西彼杵郡の香焼中三年のとき投手をやりはじめる。でかい体の投手がいるという話から当時の長崎南山高監督が目をつけ、同校野球部に入れた。入学後暫くは投手としては後に西鉄でプレーした杉町攻の陰に隠れて目立たず、二年次に準決勝まで進んだ第31回選抜高等学校野球大会でも八番・一塁手として出場。しかし秋の新人戦から同校のエースとして公式戦43試合のうち23試合に登板、二年秋の九州大会は準々決勝で鹿児島商に0-6、三年夏の西九州大会は準決勝で鹿島高に0-2で何れも敗れ再度の甲子園出場は逃すも通算19勝4敗の成績をあげた。
一龍斎 貞心(いちりゅうさい ていしん、1942年8月4日 … 一龍斎 貞心(いちりゅうさい ていしん、1942年8月4日 - )は、講談協会に所属する講談師。講談協会常任理事。本名∶大友 良雄。 東京都豊島区出身。駒澤大学文学部中退。 1970年2月に六代目一龍斎貞丈に入門。「一龍斎貞司」を名乗る。 1974年4月、二ツ目昇進。 1980年4月、真打昇進。「一龍斎貞心」と改名。 1981年に文化庁芸術祭優秀賞を、2000年に文化庁芸術祭優秀賞を受賞。
山下八洲夫(やました やすお、1942年(昭和17年)8月3… 山下八洲夫(やました やすお、1942年(昭和17年)8月3日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、参議院議員(2期)、立憲民主党岐阜県総支部連合会常任顧問を務めた。正式な名前のほか、「八州夫」の表記も用いる。 外交官の三男として中華民国湖北省で生まれ、岐阜県中津川市及び広島県で育つ。広陵高等学校を卒業し、中央大学法学部に進学するも中退。同大学ではその後、「推薦学員卒」と認定している。 1966年5月、高校3年の時、日本社会党に入党。党参議院議員秘書を8年、国労出身の衆議院議員楯兼次郎の秘書を10年務める。 1983年の第37回衆議院議員総選挙に、楯の後継として、日本社会党公認で旧岐阜2区から立候補し、初当選した。
大塚功(おおつか いさお、1942年8月3日 - 2006年… 大塚功(おおつか いさお、1942年8月3日 - 2006年6月26日)は、日本の大蔵官僚。血液型はA型。 香川県仲多度郡満濃町出身。香川県立丸亀高等学校、東京大学法学部卒業。東大法学部在学中に国家公務員上級甲種試験(法律)を合格。1965年 大蔵省入省(主計局総務課)。1970年7月 酒田税務署長。1989年6月23日 北海道財務局長。1990年6月29日 大臣官房審議官(大臣官房担当)。1991年6月11日 大臣官房付。同年6月17日 外務省在イギリス日本国大使館公使。1994年7月1日 外務省在ニューオリンズ総領事館領事。1997年7月15日 大臣官房付・退官。同年7月29日 海外経済協力基金理事。
白保 台一(しらほ たいいち、1942年8月3日 - 201… 白保 台一(しらほ たいいち、1942年8月3日 - 2013年2月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。沖縄県議会議員(3期)。
竹中 省吾(たけなか しょうご、1942年8月2日 - 20… 竹中 省吾(たけなか しょうご、1942年8月2日 - 2006年12月3日)は、日本の裁判官。広島家庭裁判所所長、大阪高等裁判所部総括判事などを歴任した。住基ネット判決3日後の2006年12月3日、自宅にて死亡。遺書等は存在していなかったが警察は当初から「自殺」とみて捜査を行った。[要出典] 2006年11月30日、「住基ネットは個人情報保護対策に欠陥があり、拒否する人への運用はプライバシー権を著しく侵害し憲法13条に違反する」として箕面市、守口市、吹田市に原告の住民票コードの削除を命じる原告勝訴判決を言い渡した。 この判決にあたり、判決の期日は4回も延長されており、違憲判決を下すことは悩んだ末の決断だったのではないかとする見解がある。