田中勇(たなか いさむ、1905年(明治38年)1月20日 … 田中勇(たなか いさむ、1905年(明治38年)1月20日 - 2000年(平成12年)2月12日)は、日本の実業家。東京急行電鉄副社長、伊豆急行社長、東亜国内航空社長。五島慶太・昇父子に仕え「東急グループの大番頭」の異名で呼ばれた。
水瓶座:10,752人
田中勇(たなか いさむ、1905年(明治38年)1月20日 … 田中勇(たなか いさむ、1905年(明治38年)1月20日 - 2000年(平成12年)2月12日)は、日本の実業家。東京急行電鉄副社長、伊豆急行社長、東亜国内航空社長。五島慶太・昇父子に仕え「東急グループの大番頭」の異名で呼ばれた。
畠山 久尚(はたけやま ひさなお、1905年1月20日 - … 畠山 久尚(はたけやま ひさなお、1905年1月20日 - 1994年2月11日)は、日本の地球物理学者。 新潟県北蒲原郡新発田町生まれ。1922年旧制東京府立第三中学校卒業。1925年旧制第一高等学校理科甲類卒業。1928年東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、中央気象台に入る。1949年気象研究所長、1958年東京管区気象台長、1963年気象庁長官。1965年退官、のち二松學舍大学教授、1975年名誉教授。 1938年10月に、地磁気湾形変化の研究を発表した。1940年「地磁気及び地電流の湾型変化並に脈動に関する研究」で理学博士の学位を取得。
佐藤 義美(さとう よしみ、男性、1905年1月20日 - … 佐藤 義美(さとう よしみ、男性、1905年1月20日 - 1968年12月16日)は、大分県竹田市出身の童謡作詞家、童話作家、詩人。代表曲に『犬のおまわりさん』など。ひらがな表記のさとう・よしみ名義の作品も存在する。 代表作の『犬のおまわりさん』は、2007年(平成19年)に日本の歌百選に選出されている。他に童謡の代表的な作品に、『グッドバイ』、『月の中』、『ともだちシンフォニー』、『おすもうくまちゃん』、『アイスクリームのうた』などがある。 また、童話集『あるいた雪だるま』は1954年(昭和29年)に第1回産経児童出版文化賞を、『佐藤義美全集』(全6巻)は1975年(昭和50年)に第5回赤い鳥文学賞を受賞している。
伊藤 秀五郎(いとう ひでごろう、1905年(明治38年)1… 伊藤 秀五郎(いとう ひでごろう、1905年(明治38年)1月20日 - 1976年(昭和51年)2月22日)は、日本の生物学者・登山家・アルピニスト・エスペランティスト。専門は、生物学・山岳文学論。元札幌静修短期大学学長。日本山岳会名誉会員。 神奈川県横浜市出身。北海道帝國大學予科卒。北海道帝國大學農学部卒。卒業後は、東京帝國大學医学部助手をしながら、日本各地の山々を登る。1935年(昭和10年)にはペンシルベニア大学にも生物学の研究のため留学。 1947年北海道学芸大学教育学部教授に就任。1958年北海道学芸大学退官。北海道教育庁教育長に就任。1965年教育庁停年退官。札幌医科大学教授。1972年札幌医科大学退官。
小林 正基(こばやし まさもと、1905年〈明治38年〉1月… 小林 正基(こばやし まさもと、1905年〈明治38年〉1月20日 - 1978年〈昭和53年〉10月27日)は、昭和時代の警察官・弁護士。 1905年1月、北海道空知郡中富良野村で小林権三郎の子として生まれる。1929年に高等試験行政科に合格。神奈川県巡査を拝命。1931年、明治大学法学部を卒業し、神奈川県警部補、神奈川県警部を経て1933年、高等試験司法科に合格。秦野警察署長、藤沢警察署長、神奈川県警察部保安課長、石川県警察部警務課長兼警防課長、福岡県警察部警務課長、海軍司政官、ボルネオ民政部に勤務。内務事務官、兵庫県警察部刑事課長、兵庫県警察部警務課長、青森県警察部長を歴任。1948年3月に横浜市警察局長に就任し、これをもって退官。
渡辺 浩太郎(わたなべ こうたろう、1904年(明治37年)… 渡辺 浩太郎(わたなべ こうたろう、1904年(明治37年)2月17日 - 1994年(平成6年)11月28日)は、日本の政治家。新潟市長、全国市長会会長。
吉村 正一郎(よしむら しょういちろう、1904年2月17日… 吉村 正一郎(よしむら しょういちろう、1904年2月17日 - 1977年12月9日)は、日本のフランス文学者・文芸評論家・翻訳家。 滋賀県甲賀郡水口町(現・甲賀市)に、のち広島市長の吉村平造(吉村胆南)の長男として生まれる。弟に映画監督の吉村公三郎がいる。1925年京都帝国大学文学部仏文科入学、1928年同卒業、朝日新聞社に入社、京都支局長、パリ特派員、論説委員を歴任し、「天声人語」を書く。生島遼一の妹悦子と結婚するが先立たれた。戦後1959年に京都市助役、1968年に奈良県教育委員長となる。1976年に帝塚山学園長となり、在職中にガン性腹膜炎のため自宅で死去した。 逝去時には、東大寺信徒総代、大仏奉讃会副理事長を務めていた。
伊藤 彦造(いとう ひこぞう、1904年(明治37年)2月1… 伊藤 彦造(いとう ひこぞう、1904年(明治37年)2月17日 - 2004年(平成16年)9月9日)は、日本の画家、イラストレーター。大正から昭和にかけて活動、主に挿絵を描き細密なペン画で一世を風靡した。享年100歳。 大分県大分市出身。剣豪、伊藤一刀斉の末裔に生まれ、自らも剣の師範であった。朝日新聞東京本社で勤務中に同社の専属挿絵画家右田年英からイラストを学び、英明と号して改めて画家を目指した。その後、結核を患い帰省、日本画家の橋本関雪に師事する。 1925年(大正14年)に、『大阪朝日新聞』掲載の番匠谷英一作『黎明』の挿絵でデビュー、同年の行友李風の小説『修羅八荒』の挿絵で好評を得た。若くして時代ものの挿絵画家として第一人者となった。
原田 源三郎(はらだ げんざぶろう、1904年2月16日 -… 原田 源三郎(はらだ げんざぶろう、1904年2月16日 - 1995年11月2日)は、日本の工学者、実業家。日本磁力選鉱の創業者。 現在の福岡県北九州市出身。明治専門学校(現九州工業大学)工学部電気工学科卒業後、九州帝国大学(現九州大学)で冶金を専攻。 大学卒業後は特殊合金、大倉鉱業、満洲本渓湖特殊鋼等で鉄鉱石に関する研究活動に従事、原料鉱石等の処理技術を習得。さらに、昭和19年(1944年)原料処理に欠かせない「原田式交流磁選機」を開発。これらの業績により、戦後、八幡製鐵所の高炉ガス灰処理研究を製鐵所から依頼され、ガス灰処理技術での事業化の確信を得て、昭和24年(1949年)日本磁力選鉱を設立。
三浦 敬三(みうら けいぞう、1904年(明治37年)2月1… 三浦 敬三(みうら けいぞう、1904年(明治37年)2月15日 - 2006年(平成18年)1月5日)は、日本のプロスキーヤー。 青森県青森市生まれ。青森県立第三中学校(現 青森県立青森高等学校)、北海道帝国大学(北海道大学)農学部卒業。 北大在学中に八甲田山での山スキーに魅せられ、卒業後、青森営林局に勤務。八甲田のフィルム記録にスキー滑降で参加した。青森林友スキー部に所属し、選手、監督、部長を経験した。全日本スキー連盟の技術委員を務めたこともある。 1955年(昭和30年)、51歳で青森営林局を退職し、東京都練馬区に移住。この頃から海外の山々で多くのスキー滑降を行った。また、山岳カメラマンとしても、数々の実績を残し、イタリア山岳写真ビエンナーレ展において、ピトリオ・セラ賞とバダカップ賞を受賞する。
太田 淳昭(おおた じゅんしょう、諡・浄徳院、本名・太田淳照… 太田 淳昭(おおた じゅんしょう、諡・浄徳院、本名・太田淳照(あつてる)、旧姓・井上、幼名・淳麿、1904年2月15日-1985年8月4日)は、日本の宗教家、浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派総長、全日本仏教会理事長、日本宗教連盟理事長を歴任。光接寺(阿久根市)住職。 鹿児島県谷山町和田(現・鹿児島市内)の妙行寺の生まれ(次男)。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、第七高等学校造士館 (旧制)文科を1924年3月に卒業。1928年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1929年鹿児島県阿久根町の光接寺の養子となる。1950年から1974年まで宗会議員(7期)。浄土真宗本願寺派内局総務(1952年~1953年)、築地別院輪番(1956年~1960年)を経て、1962年~1965年と1969年~1974年に本願寺派総長。
中川 龍一(なかがわ りょういち、1904年2月15日 - … 中川 龍一(なかがわ りょういち、1904年2月15日 - 1990年8月6日)は、日本の英文学者、演劇評論家、翻訳家。 大阪外国語学校、関西学院大学卒。戦後、南山大学文学部教授。1973年、大妻女子大学教授。英語戯曲の翻訳、演劇評論で活動、ほか推理小説の翻訳もした。
福井 直俊(ふくい なおとし、1904年2月15日 - 20… 福井 直俊(ふくい なおとし、1904年2月15日 - 2001年4月2日)は、日本のピアニスト。富山県上市町出身。学校法人武蔵野音楽学園名誉学園長、元東京芸術大学学長。勲二等旭日重光章(1974年に受章)。 武蔵野音楽大学創立者・福井直秋の長男として生まれる。弟に武蔵野音楽大学学長を務めた福井直弘、妹にピアニストの若尾輝子がいる。 東京音楽学校研究科を卒業。萩原英一、レオニード・コハンスキに師事。1930年、ベルリンに渡りアルトゥル・シュナーベルに師事。帰国後、新交響楽団(現:NHK交響楽団)との共演や、「ベートーベン:ソナタ・アルバム」などの校訂に携わる。 武蔵野音楽大学教授を経て、東京芸術大学音楽学部の教授に就任。
福地 誠夫(ふくち のぶお、1904年(明治37年)2月14… 福地 誠夫(ふくち のぶお、1904年(明治37年)2月14日 - 2007年(平成19年)7月26日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。最終階級は日本海軍では海軍大佐、海上自衛隊では海将。退官後は記念艦「三笠」艦長を務めた。
唐木 順三(からき じゅんぞう、1904年(明治37年)2月… 唐木 順三(からき じゅんぞう、1904年(明治37年)2月13日 - 1980年(昭和55年)5月27日)は、日本の文芸評論家・哲学者・思想家。 京大で西田幾多郎に師事。『現代日本文学序説』(1962年)を書き、『鷗外の精神』(1943年)、『中世の文学』(1955年)と研究を進めた。反近代の思想を貫き『「科学者の社会的責任」についての覚え書』(1980年)を遺して死去した。 1904年(明治37年)、長野県上伊那郡宮田村に生まれる。旧制松本中学(現:長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校(現:信州大学)文科甲類を卒業後、1927年(昭和2年)に京都帝国大学文学部哲学科を卒業。西田幾多郎や田邊元から多大な影響を受けた。
大田 政作(おおた せいさく、1904年2月12日 - 19… 大田 政作(おおた せいさく、1904年2月12日 - 1999年8月18日)は、日本の官僚、琉球政府の政治家。元琉球政府行政主席(1959年10月21日 - 1964年11月1日)。
稲葉 蛟児(いなば こうじ、1904年2月11日 -1989… 稲葉 蛟児(いなば こうじ、1904年2月11日 -1989年9月2日)は、日本の映画監督、脚本家である。出生名稲葉 義信(いなば よしのぶ)、戸籍上は母姓の上田 義信(うえだ よしのぶ)であった。脚本家としては物部 晋太郎(もののべ しんたろう)等、監督としては一時稲葉 大三郎(いなば だいざぶろう)を名乗った。昭和初年のマキノ・プロダクションの新人監督であり、同社の解散後は永年インディペンデント畑を歩き、トーキー時代になってもサイレント映画の娯楽剣戟を手がけ続けた。 1904年(明治37年)2月11日、静岡県清水市に生まれる。旧制静岡県立静岡中学校(現在の静岡県立静岡高等学校)を卒業、ムービーカメラの研究を目指して東亜キネマ甲陽撮影所の現像部に入社した。
三木 龍喜(みき たつよし, 1904年2月11日 - 19… 三木 龍喜(みき たつよし, 1904年2月11日 - 1966年1月9日)は、香川県高松市出身の男子テニス選手。大阪高等商業学校(現大阪市立大学)卒業。 1934年のウィンブルドン混合ダブルス部門でドロシー・ラウンド(イギリス)とペアを組んで優勝し、日本人初のグランドスラム優勝者になった選手。また現在でもウィンブルドン男子・ウィンブルドン混合・4大大会男子混合の最後の日本人優勝者である。 英語文献では“Ryuki Miki”(リュウキ・ミキ)という表記で掲載されることも多い。海外の同僚選手たちからは「ミッキー」と呼ばれることも多かった。 通信省官吏・三木喜次郎の子として高松市に生まれる。祖父の三木伊平は最後の讃岐松平藩主松平頼聡に仕えた土族で、三木家は明治維新により武士から官吏に転じた典型的な家系で、家は裕福だった。
松平 忠久(まつだいら ただひさ、1904年〈明治37年〉2… 松平 忠久(まつだいら ただひさ、1904年〈明治37年〉2月11日 - 1991年〈平成3年〉10月27日)は、日本の外交官、政治家、実業家。衆議院議員。 長野県小県郡(現・上田市)出身。1925年(大正14年)、東京外国語学校(現・東京外国語大学)中国語科を卒業し、1930年(昭和5年)、広東嶺南大学(現・中山大学)を卒業。さらに、北京大学、ミシガン大学で学んだ。1930年(昭和5年)、外務省に入省し広東書記生に任官。1934年(昭和9年)10月、高等試験外交科試験に合格。以後、上海大使館報道部長、広東領事、南京領事などを歴任。 1951年(昭和26年)、長野県副知事に就任。1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙で旧長野2区に右派社会党から出馬し当選。
李 甲植(イ・ガプシク、朝鮮語: 이갑식、1904年2月10… 李 甲植(イ・ガプシク、朝鮮語: 이갑식、1904年2月10日 - 1972年7月8日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の実業家、政治家。第3・4代韓国国会議員。本貫は全州李氏。儒教の信者。 漢城府(現・ソウル特別市)または全羅南道求礼郡出身。釜山商校を経て1928年神戸高等商業学校(神戸商業大学を経て神戸大学)卒。朝鮮殖産銀行、株式取引所での勤務を経て、上海で酒精工場、三客商社を経営した。解放後に帰国し、中央庁財政部職員、朝鮮機械技術協会顧問、朝鮮機械製作所理事長、韓国機械工作連合会理事長、大韓伸鉄工業会理事長、韓国軍需産業促進会理事、自由党全羅南道党委員長・中央委員・選挙対策委員長・企画委員、第3代国会米穀輸出特別対策委員会委員長・商工分科委員長、第4代国会財政経済分科委員長を務めた。
降旗 三七男(ふりはた みちお、1904年2月10日 - 1… 降旗 三七男(ふりはた みちお、1904年2月10日 - 1965年8月27日)は、日本の経営者。東亜燃料工業社長を務めた。 長野県出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校理科を経て、1927年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業。小倉石油での勤務を経て、1939年に東亜燃料工業取締役に就任し、1944年に常務、1952年2月に副社長を経て、1962年2月には社長に就任した。 1965年8月27日、心不全のために在任中に死去。61歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
塚田 十一郎(つかだ じゅういちろう、1904年〈明治37年… 塚田 十一郎(つかだ じゅういちろう、1904年〈明治37年〉2月9日 - 1997年〈平成9年〉5月23日)は、日本の弁護士、税理士、政治家。位階は正三位。 参議院議員(3期)、衆議院議員(8期)、郵政大臣(第5代)、新潟県知事(公選第5・6代)などを歴任。 新潟県中頸城郡春日村(現在の新潟県上越市)出身。農業・塚田亀之助の六男。旧制新潟県立高田中学校(現在の同県立高田高等学校)、大連中学校を経て1928年(昭和3年)、東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業。高等文官試験行政科、司法科に各合格。 昭和金融恐慌後の不況により就職活動は難航、やがて伝をたどって小橋一太(元文部大臣)の居候兼書生となる。
岩倉 具栄(いわくら ともひで、1904年〈明治37年〉2月… 岩倉 具栄(いわくら ともひで、1904年〈明治37年〉2月8日 - 1978年〈昭和53年〉11月2日)は、日本の英文学者、華族、政治家。東京府出身。貴族院議員。法政大学教授。D・H・ローレンスの研究者。岩倉家第18代当主。勲等は勲三等。その他の栄典は藍綬褒章。爵位は公爵(華族制度廃止まで)。 公爵岩倉具張の長男として、東京府荏原郡上目黒の西郷従徳邸に誕生。当時、父は東京帝国大学の学生だった。父方の曾祖父は岩倉具視で母方の祖父は西郷従道。東京府東京市麹町区に育つ。 父具張が投機に失敗して多額の負債を作ったため、責任を取って官職を辞し、1914年(大正3年)8月29日に隠居。このため、1914年(大正3年)9月5日、学習院初等科5年在学中の具栄が公爵の爵位を継承。
塩塚 忠美(しおづか ただみ、1904年(明治37年)2月8… 塩塚 忠美(しおづか ただみ、1904年(明治37年)2月8日 - 没年不詳)は、日本の実業家。ニチボー第8代社長、ユニチカ第2代会長。 長崎県出身。1926年(大正15年)大阪高等工業学校機械科(現大阪大学)を卒業し、大日本紡績入社。1956年(昭和31年)取締役。1959年(昭和34年)常務取締役。 ブラジル現地の事情に精通していた原乙彦らによって大日本紡績のブラジル進出の準備が進められていた中、1960年8月9日、工場建設の先遣隊として、塩塚(常務)は、市居誠一(ニチボーブラジル初代社長)らと現地に向かった。ちょうどこの年の10月、第3回世界バレーボール大会(女子)がブラジルで開催され、日本代表チーム(東洋の魔女が主力メンバー)のコーチとなった大松博文と選手たちが、アメリカーナ (英語) に先遣隊を訪ね、互いに励ましあった。
森崎 隆(もりさき たかし、1904年〈明治37年〉2月8日… 森崎 隆(もりさき たかし、1904年〈明治37年〉2月8日 – 1961年〈昭和36年〉7月6日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。 香川県綾歌郡土器村(現丸亀市土器町)で生まれる。1929年(昭和4年)京都帝国大学文学部を卒業した。 同年、香川県女子師範学校教諭に就任。以後、同県立坂出高等女学校(現香川県立坂出高等学校)教諭、同県高松第一中学校(現高松第一高等学校)教諭、同校長事務取扱、高松市立高等女学校長、高松第二高等学校長、高松市教育部長を歴任した。1947年(昭和22年)香川県教職員組合中央執行委員長に就任し1年間在任した。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に香川県地方区から日本社会党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
大竹 平八郎(おおたけ へいはちろう、1904年〈明治37年… 大竹 平八郎(おおたけ へいはちろう、1904年〈明治37年〉2月8日 - 1985年〈昭和60年〉5月17日) は、大正から昭和期のジャーナリスト、政治家。参議院議員。 群馬県群馬郡渋川町(北群馬郡渋川町を経て現渋川市下之町)で、呉服商・大竹直四郎(なおしろう)、タミ夫妻の四男として生まれた。1918年(大正7年)渋川尋常高等小学校高等科(8年制)を卒業し、上京して 独学。 1926年(大正15年)帝国通信社に入社し無産政党、労働問題の担当記者となる。その後、同社政治部長、大阪帝国通信社東京支社長などを歴任。1934年(昭和9年)文部省嘱託に転じた。長江産業貿易開発協会(のち日華経済協会)を成立し常任理事に就任し、1945年(昭和20年)理事長となる。
小池 辰雄(こいけ たつお、1904年2月7日 - 1996… 小池 辰雄(こいけ たつお、1904年2月7日 - 1996年8月29日)は、日本のドイツ文学者、詩人、キリスト教徒。獨協大学名誉教授。第14代獨協中学校・高等学校校長。 東京生まれ。水戸高校、東京帝国大学文学部ドイツ文学科卒業。東京大学教養学部教授。定年退官後、1965年、獨協大学教授。1970年から1979年にかけて獨協中学・高等学校校長。1980年、ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章。 学生時代から無教会の内村鑑三、藤井武、塚本虎二の聖書集会に参加、1940年から武蔵野市に武蔵野幕屋を設け日曜聖書講筵を行う。1950年、阿蘇山で聖霊にうたれ開眼し、使徒的次元の原始キリスト道を唱道し、独自の神学をうちたてたとされる。
溝口 周次(みぞぐち しゅうじ、1904年2月7日 - 1… 溝口 周次(みぞぐち しゅうじ、1904年2月7日 - 1986年3月13日)は、日本の経営者。住友海上火災保険社長、会長を務めた。 東京都出身。1928年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に住友海上火災保険に入社。1949年6月に取締役に就任し、1951年1月に常務、1958年6月に専務を経て、1962年6月には社長に就任。1969年6月に会長を経て、1972年6月には相談役に就任。 1968年9月に藍綬褒章を受章し、1974年5月に勲三等瑞宝章を受章。 1986年3月13日、心不全のために死去。82歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
駒形 作次(こまがた さくじ、1904年2月6日 - 197… 駒形 作次(こまがた さくじ、1904年2月6日 - 1970年7月11日)は、昭和の電気工学研究者、半導体研究者。原子力研究者。 逓信省電気試験所所長。通商産業省工業技術院長。日本原子力研究所理事長。原子力委員。三菱原子力工業顧問。 界面動電現象や東北帝国大学渡辺寧とともに日本で最初に半導体(トランジスタ)の研究を行いその後、原子力開発に携わった。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡中学校卒業(旧制)。旧制新潟高校卒業。東京帝国大学電気工学科卒。1937年(昭和12年)工学博士。 1927年(昭和2年)逓信省電気試験所に入所。1952年(昭和27年)通商産業省工業技術院長となる。1948年アメリカのベル研究所でショックレー、ブラッタン、バーディーンによって半導体であるゲルマニウムを用いたトランジスタが発明され、GHQからもたらされたトランジスタの論文を翻訳し「トランジスタ勉強会」を発足させる。
田村 松平(たむら まつへい、1904年2月6日 - 199… 田村 松平(たむら まつへい、1904年2月6日 - 1994年9月24日)は日本の物理学者。 愛知県出身。京都帝国大学理学部物理学科卒業。京都大学理学部教授。1968年定年退官、名誉教授。スコラ哲学を経て誕生した物理学に詳しい。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
小川 二郎(おがわ じろう、1904年〈明治37年〉2月6日… 小川 二郎(おがわ じろう、1904年〈明治37年〉2月6日 - 1981年〈昭和56年〉5月22日)は、日本の英文学者。文学博士。広島大学名誉教授。ノートルダム清心女子短期大学教授。龍谷大学教授。 大阪府大阪市出身。甚之丞の二男。1926年、広島高等師範学校卒業。和歌山県立海草中学校教諭となる。1934年、広島文理科大学英文科卒業。1942年、広島文理科大学助教授となる。1950年、ウィリアム・ブレイク「無心と経験の歌」研究で広島大学文学博士。1951年、広島大学教授に就任。1967年、定年退官する。 英国ロマン派の詩が専門。宗教は仏教。趣味は随筆、油絵、詩歌。住所は広島県安佐郡安古市町相田(現・広島市安佐南区相田)、広島市牛田本町。
美濃部 亮吉(みのべ りょうきち、1904年〈明治37年〉2… 美濃部 亮吉(みのべ りょうきち、1904年〈明治37年〉2月5日 - 1984年〈昭和59年〉12月24日)は、日本のマルクス経済学者、政治家。東京都知事(第6・7・8代)、参議院議員(全国区)も歴任した。
今野 大力(こんの だいりき、1904年2月5日 - 193… 今野 大力(こんの だいりき、1904年2月5日 - 1935年6月19日)は、日本の詩人。 宮城県伊具郡丸森町生まれ。幼時に北海道旭川市に移る。小学校卒業後、新聞社給仕を経て、旭川郵便局に勤務。この頃から詩作を始め、1927年に小熊秀雄らと詩誌『円筒帽』を発刊。その後上京し、『婦人戦旗』などの編集にたずさわる。1931年日本プロレタリア文化連盟(コップ)の結成に参加し、『プロレタリア文学』などに反戦詩を発表。1932年3月、駒込署に検挙され、その時の拷問がもとで入院。人事不省に陥り、生死の境をさまよう。回復後の1933年、日本共産党に入党。病気に苦しみながら創作を続けるが、1935年結核で死去。
床次 徳二(床次 德二、とこなみ とくじ、1904年(明治3… 床次 徳二(床次 德二、とこなみ とくじ、1904年(明治37年)2月4日 - 1980年(昭和55年)2月22日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(10期)、総理府総務長官を歴任した。また目白学園理事長及び目白学園女子短期大学(現・目白大学短期大学部)学長も務めた。 鹿児島県鹿児島市新照院町出身(東京都港区生まれ)。床次竹二郎の二男または三男。父の竹二郎が官選徳島県知事に就任して間もない頃に生まれたことにちなんで徳二と命名された。 旧制麻布中学校に入り、2年次に東京府立第四中学校(現:東京都立戸山高等学校)へ転校。1923年3月第一高等学校文科乙類、1926年東京帝国大学法学部政治科を卒業。
武藤 重勝(むとう しげかつ、1904年2月4日 - 199… 武藤 重勝(むとう しげかつ、1904年2月4日 - 1990年6月19日)は、日本の詩人、図書館情報学者。 1904年(明治37年)、日本統治下の台湾に生まれる。幼少期を父の郷里である宮崎県児湯郡高鍋町で過ごし、東京府の旧制第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)を経て旧制宮崎中学校(現在の宮崎県立宮崎大宮高等学校)へ移る。旧制宮崎中5年生の時には武者小路実篤が児湯郡木城町に開いていた「新しき村」を友人らと訪問し、実篤の薫陶を受けている。 旧制宮崎中を卒業後、立教大学文学部哲学科に進学。1930年(昭和5年)に卒業した後、そのまま大学図書館の職員となる。1938年(昭和13年)、神戸市が募集していた『神戸市歌』(初代、1951年廃止)の歌詞募集において応募作が一等入選で採用された。
船越 義房(ふなこし よしふさ、1904年〈明治37年〉2月… 船越 義房(ふなこし よしふさ、1904年〈明治37年〉2月4日 - 没年不明)は、日本の会社役員、工学博士。熊谷組顧問。旧姓・北垣。 島根県能義郡大塚村(現・安来市)出身。北垣仁之助の三男。1925年、松江高等学校理科卒業、同年に鳥取県米子市紺屋町、船越作一郎の養子となる。1929年、東京帝国大学工学部建築学科卒業。同大学院にて建築音響学を専攻する。 日本大学講師、教授。藤原工業大学、東京府立高校、成蹊高校各講師、厚生科学研究所員、三星産業技術部長。1952年、日建設計工務常務取締役。1969年、熊谷組入社、同社専務取締役、のちに同社顧問。 宗教は仏教。趣味は写真、庭球、ゴルフ。住所は東京都杉並区上荻2丁目。
目加田 誠(めかだ まこと、1904年〈明治37年〉2月3日… 目加田 誠(めかだ まこと、1904年〈明治37年〉2月3日 - 1994年〈平成6年〉4月30日)は、古典中国文学者、九州大学名誉教授、日本学士院会員。 1904年、山口県岩国市で生まれた。。父母が相次いで早世し、中学生にして一家の長としての責任を負うことになった。水戸高等学校を経て、東京帝国大学支那文学科に入学。1929年に東京帝国大学を卒業。 卒業後は、1930年に第三高等学校教授となった。1931年に結婚。1933年、九州帝国大学助教授に任じられ、そのまま文部省在外研究員として北平に研究留学(1933年10月から1935年10月まで)。この留学期間中の記録として『北平日記』8冊を記していた。
佐々木 達(ささき たつ、1904年2月2日 - 1986年… 佐々木 達(ささき たつ、1904年2月2日 - 1986年4月10日)は、日本の英語学者、東京外国語大学名誉教授。神奈川県出身。東京帝国大学英語英文学科卒業。卒業論文で第1回シェークスピアメダル受賞。1949年、東京外国語大学教授。1966年、定年退官、名誉教授。英語文体論が専門で、『コンサイス英和辞典』の編者として知られる。
堀野 哲仙(ほりの てっせん、1904年〈明治37年〉2月2… 堀野 哲仙(ほりの てっせん、1904年〈明治37年〉2月2日 - 1995年〈平成7年〉)は、日本の書道家。堀野書道学校初代校長。日本書法芸術院名誉会長。本名は 幸(こう)。祖先の堀川家祐筆だった松島幸右衛門の頭字「幸」の一字に由来する。 明治37年2月2日に生まれる。体の弱かった母から未熟児として生まれたので長生きはできないだろうと判断され、幸の後にもう一字付ける予定だったが、そのまま名を「幸」として役場に届けられる。その後命を落とすことはなかったが、栄養失調のため明治39年から明治42年まで、一時的に視力を失う。虚弱体質で体が小さかったことから、学校でいじめを受け続け、ついに小学校4年生の時に落第させられた。
米倉 大謙(よねくら たいけん、1904年〈明治37年〉2月… 米倉 大謙(よねくら たいけん、1904年〈明治37年〉2月1日 - 1994年〈平成6年〉10月22日)は、日本の書道家。元群馬大学教授。群馬県沼田市(旧利根郡白沢村)生まれ。白沢村名誉村民。 1904年(明治37年)、群馬県利根郡白沢村平出(現・沼田市白沢町平出)に生まれる。父は正眼寺住職・米倉謙龍。幼名・文二。 旧制沼田中学(現・群馬県立沼田高等学校)を経て東洋大学倫理学東洋文学科卒。長野原小学校や川場小学校への勤務を経て、旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)教諭となる。1940年(昭和15年)群馬師範学校兼女子師範学校教諭となり、1949年(昭和24年)より群馬大学助教授。 書道は鈴木翠軒に師事。
三田 庸子(みた つねこ、明治37年〈1904年〉2月1日‐… 三田 庸子(みた つねこ、明治37年〈1904年〉2月1日‐ 平成元年〈1989年〉4月21日)は、日本ではじめて女性刑務所長を務め、女性服役者の待遇改善と更生に取り組んだ。 1904年(明治37年)に神奈川県横浜市で生まれた。父はいくつかの地方裁判所長を歴任していた。母はアメリカ育ちであり、姉や兄に英語を教えていたが病弱で、物心ついたころには床についていたため、庸子はあまり教えてはもらえなかった。兄弟は兄と2人の姉、弟の5人兄弟であった。父の転勤によりたびたび居を変えていた。 1920年に熊谷高等女学校を卒業すると、父の強い意志で、日本女子大学校(現、日本女子大学)家政学科へ入学した。入学後は暁星寮に入寮し、日本女子大学校の教授であり寮監のミス・フィリップ(1872-1965)からキリスト教の信仰を学び、聖公会で洗礼を受けた。
大坪 砂男(おおつぼ すなお、1904年2月1日 - 196… 大坪 砂男(おおつぼ すなお、1904年2月1日 - 1965年1月12日)は、日本の探偵小説作家。本名和田 六郎。筆名はE・T・A・ホフマンの「砂男」に由来する。1951年に大坪 沙男と改名したが、53年に再び砂男に戻した。 江戸川乱歩が「戦後派五人男」と呼んだ探偵作家5人のうちの1人。作品はすべて短篇である。 日本における鉱物学の先駆者である和田維四郎(東京帝国大学教授、八幡製鉄所長官、貴族院議員)の三男(姉妹を含めて六番目の子)。 東京市牛込区(現在の東京都新宿区)市谷薬王寺町に生まれる。東京府立第四中学校から東京薬学専門学校(現在の東京薬科大学)を卒業。このときの同級生に映画評論家の岩崎昶がいた。
青柳 優(あおやぎ ゆたか、1904年2月1日 - 1944… 青柳 優(あおやぎ ゆたか、1904年2月1日 - 1944年7月30日)は日本の詩人、文芸評論家。 長野県南安曇郡烏川村(現・安曇野市)に医師の三男として生まれる。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)では同級に唐木順三がいた。早稲田大学英文科在学中からアナーキズム文学雑誌『世紀文学』を創刊する。その後、文芸雑誌『黒色戦線』を創刊し、「丹沢明」の筆名で、同人誌にダダイズム的な評論や詩を発表した。1930年(昭和5年)『黒色戦線』を廃刊し、『黒戦』1932年『アナーキズム文学』を創刊する。1931年(昭和6年)京都帝国大学の青柳栄司の世話で、四条畷女子学校の英語教師となるが、2ヶ月ほどで退職し、千住税務署に勤務しながら文芸評論を続ける。
下川 儀太郎(しもかわ ぎたろう、1904年(明治37年)2… 下川 儀太郎(しもかわ ぎたろう、1904年(明治37年)2月1日 - 1961年(昭和36年)2月6日)は、大正から昭和期の詩人、社会事業家、政治家。衆議院議員。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 静岡県静岡市太田町(現:静岡市葵区太田町)出身。1918年(大正7年)静岡商業学校(現静岡県立静岡商業高等学校)を卒業し、日本大学芸術科を中退した。 1924年(大正13年)に労働詩を発表。日本プロレタリア作家同盟(中央委員)、全日本無産者芸術団体協議会に加わり、詩、評論などを発表。戦前、戦中の静岡県プロレタリア文化運動の中心人物として活動し、反戦容疑などで2回投獄された。また、社会事業にも参画し母子ホーム託児所の建設、運営を行った。
守屋 光春(もりや みつはる、明治37年〈1904年〉2月1… 守屋 光春(もりや みつはる、明治37年〈1904年〉2月1日 - 昭和63年〈1988年〉1月26日)は、日本の政治家、神職。歌人としては花醉(かすい)と号した。 政治家として神奈川県三浦郡葉山町の町議会議員を2期、町長を3期務めたほか、神職としては四條畷神社宮司、森戸大明神宮司、伏見稲荷大社宮司を歴任し、伏見稲荷大社名誉宮司となった。息子は、のちに同じく葉山町長を務めた守屋大光。 明治37年(1904年)2月1日、守屋喜代太郎・ヒデ夫妻の長男として、神奈川県に生まれた。守屋家は森戸大明神の累代の社家である。 地元の旧制中学校を卒業後、大正12年(1923年)國學院大學高等師範部に入学。在学中は折口信夫・武田祐吉らに古典を学び、特に短歌に秀でていた。
浅沼 享子(あさぬま きょうこ、1904年2月1日 - 19… 浅沼 享子(あさぬま きょうこ、1904年2月1日 - 1981年3月10日)は、昭和時代の政治家。衆議院議員(1期)を務めた。浅沼稲次郎の妻。旧姓は武田 享子(たけだ きょうこ)。 1904年(明治37年)大分県日田市生まれ。父は歯科医の武田恒市。 17歳で結婚したが、婚家の封建的な家風になじめず離婚。東京へ上京し、洋裁学校に通うために喫茶店で働きながら生計を立てる。そこで客として頻繁に訪れていた社会主義者の浅沼稲次郎(のち日本社会党委員長)と出会い、1928年(昭和3年)秋に結婚した。 1945年(昭和20年)、日本社会党に入党し、婦人問題研究会常任理事となる。しかし1960年(昭和35年)10月12日、夫の浅沼稲次郎が日比谷公会堂での演説中に山口二矢に刺殺された。
島本 融(しまもと とおる、1904年(明治37年)1月31… 島本 融(しまもと とおる、1904年(明治37年)1月31日 - 1976年(昭和51年)5月5日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。北海道銀行初代頭取のほか、公正取引委員会委員や日本銀行政策委員会委員等の要職を歴任。また公益財団法人札幌交響楽団の前身である札幌市民交響楽団の設立に尽力するなど北海道の芸術文化の向上にも貢献した。 京都府綴喜郡青谷村に生まれる。生家は酒造や宇治茶の販売を手掛ける素封家で、父は島本の生誕年に島本銀行を開業した。 三高を経て、京都帝国大学経済学部に入学する。在学中から将来は金融界に進もうと思い、また周囲からも島本銀行の跡取りとして期待されるも、金融恐慌の煽りを受け同行は経営破綻してしまう。
岩本 清(いわもと きよし、1904年1月31日 - 197… 岩本 清(いわもと きよし、1904年1月31日 - 1976年10月5日)は、日本の実業家。共同通信社元専務理事。東京都出身。 1926年に東京帝国大学法学部を卒業し、国際通信社に入社した。 共同通信社渉外部長、編成局長などを経て、1959年12月から1966年3月までに専務理事を務めた。 電通取締役なども歴任した。1976年に勲一等瑞宝章を受章した。 1976年10月6日急性心不全のために死去。72歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
長沖 一(ながおき まこと、1904年1月30日 - 197… 長沖 一(ながおき まこと、1904年1月30日 - 1976年8月5日)は、日本の漫才作家、演出家、放送作家。 大阪府島之内出身。御津小学校、天王寺中学校、旧制大阪高校を経て、東京帝国大学文学部美術史学科卒。 実子は、元NHK大阪放送局所属の演出家・長沖渉。祖父は加賀藩士で、明治維新後に大阪に出てきて商売を始める。 大阪高校在学中に左翼運動を始める一方、1925年に武田麟太郎、秋田實、藤沢桓夫と共に文学同人誌『辻馬車』を創刊。大学在学中に新人会に参加。 1929年3月、東大を卒業。 1930年、徴兵検査で歩兵第一連隊に入隊。甲種幹部候補生で10ヶ月ほど過ごし除隊後、作家に復帰。『中央公論』に「肉体交響楽」を寄稿するも軍批判とみなされ発表を見送られる。
市村 三男三(いちむら みおぞう、1904年〈明治37年〉1… 市村 三男三(いちむら みおぞう、1904年〈明治37年〉1月29日 - 1990年〈平成2年〉2月16日)は、日本の洋画家、プロレタリア画家。 新潟県中蒲原郡横越村大字横越(現 新潟市江南区横越中央)の素封家・市村俊蔵の三男として出生。 1922年(大正11年)3月に新潟中学校を卒業、1925年(大正14年)3月に横浜高等工業学校応用化学科を卒業、画家を志して川端画学校で学ぶ。 兄・彦馬の友人で新潟新聞社東京支局長の坂口献吉(坂口安吾の兄)に洋画家の矢部友衛を紹介され、1928年(昭和3年)9月に造型美術家協会に入会、1929年(昭和4年)4月に日本プロレタリア美術家同盟の結成に参加。 1930年(昭和5年)3月に日本プロレタリア美術家同盟中央委員・組織部長・青年婦人部長に就任、1932年(昭和7年)2月に京都で結婚、東京に戻って日本プロレタリア美術家同盟本部組織部長に就任。