大谷 喜久蔵(おおたに きくぞう、1856年2月4日〈安政2… 大谷 喜久蔵(おおたに きくぞう、1856年2月4日〈安政2年12月28日〉- 1923年〈大正12年〉11月26日)は、日本の陸軍軍人、華族。 教育総監・浦塩派遣軍司令官・軍事参議官・青島守備軍司令官等を歴任し、官位は陸軍大将従二位勲一等功一級男爵に至る。 小浜藩士で藩校「順造館」教授の漢学者、大谷正徳の七男として生まれる。明治4年(1871年)10月から召集を受け大阪鎮台彦根分営所に入営する。1875年(明治8年)12月から陸軍士官学校に入校し、同11年12月卒業する。翌年2月に陸軍歩兵少尉に任官される。士官生徒第2期の同期には第4師団長大迫尚道大将、朝鮮駐剳軍司令官井口省吾大将や、第11師団長の伊地知幸介中将、第13師団長の長岡外史中将がいる。
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井上 哲次郎(いのうえ てつじろう、1856年2月1日(安政… 井上 哲次郎(いのうえ てつじろう、1856年2月1日(安政2年12月25日) - 1944年(昭和19年)12月7日)は、明治時代の日本の哲学者・詩人。号は巽軒(そんけん)。通称「井の哲(イノテツ)」。 西洋哲学を日本に紹介し、東京大学で日本人初の哲学の教授となった。また東洋哲学研究の開拓者でもあり、保守派・体制派のイデオローグでもあり、新体詩運動の先駆者でもある。大東文化学院第2代総長、貴族院議員なども務めた。 旧姓・船越。筑前太宰府(現在の福岡県太宰府市)に医師船越俊達の三男として生まれる。少年時代、地元の儒者に四書五経を学ぶ。明治元年、博多に出て英語を学び、1871年に長崎の英学塾広運館に入学。
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志田 林三郎(しだ りんざぶろう、1856年2月1日(安政2… 志田 林三郎(しだ りんざぶろう、1856年2月1日(安政2年12月25日) - 1892年(明治25年)1月4日)は、日本の物理学者・電気工学者。佐賀県小城郡東多久村(現在の多久市、当時佐賀藩)生まれ。工学博士、電気学会創設者。 日本で初めて工学博士となった5人のうちの1人。他に古市公威、松本荘一郎、原口要、長谷川芳之助がいる。 饅頭屋の子として小城郡東多久村別府に生まれる。早くに父親を亡くし、母の手で育てられたが、神童の誉れ高く、佐賀藩家老多久氏の家臣に取り立てられる。幼少時から学問に優れ、特に数学が得意だった。藩費により1872年に工部省工学寮(後に工部大学校、現在は東京大学工学部)に入学し、ウイリアム・エアトン等の下で電信学を学んだ。
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吉田 謙次郎(よしだ けんじろう、安政2年12月16日(18… 吉田 謙次郎(よしだ けんじろう、安政2年12月16日(1856年1月23日) - 1928年(昭和3年))は戦前日本のドイツ語教師。金沢藩貢進生、第一高等学校教授、独逸学協会学校附属独逸語専修学校講師。 安政2年12月16日(1856年1月23日)武蔵国江戸下谷御徒町に加賀藩士吉田淳一郎の子として生まれた。幼名は幸太郎、後に謙之助、謙次郎。 明治3年(1870年)前田肇、桜井房次郎と共に金沢藩貢進生に選ばれ、大学南校に入学し、安東清人、保志虎吉、関澄蔵等とドイツ語を専攻した。 明治4年(1871年)9月28日外務省洋語学所に転じ、飯盛挺造等と独逸語学教授東条一郎に学んだ。1873年(明治6年)洋語学所は文部省外国語学所に改組し、6月12日独逸語学級長となった。
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龍岡 信熊(たつおか しんくま、安政2年12月16日〈185… 龍岡 信熊(たつおか しんくま、安政2年12月16日〈1856年1月23日〉 - 1940年〈昭和15年〉7月27日)は、日本の警察官、政治家。函館区長(第8代)、函館支庁長(初代)、小樽区長、小倉市長(第4代)などを務めた。 薩摩国薩摩郡平佐村(現薩摩川内市)に生まれる。明治8年、警察官(四等巡査)になり第五方面勤務となる。西南戦争では植木口警視が率いる一番小隊の伍長を任される。明治17年に28歳で那覇警察署長となると、さらに2年後の明治19年には沖縄県警察 トップの警部長(本部長)にまでに昇りつめ、以後、宮崎県警察部、岡山県警察部、滋賀県警察部、佐賀県警察部各部の警部長を歴任した。その後は石川県書記官及び石川県参事会員を経て台湾へ渡り、台北県書記官や台湾総督府法院の高等法院検察官などを務めた。
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長谷川 芳之助(はせがわ よしのすけ、1856年1月22日(… 長谷川 芳之助(はせがわ よしのすけ、1856年1月22日(安政2年12月15日)- 1912年(大正元年)8月12日)は、明治期の鉱山学者、実業家、政治家。衆議院議員、工学博士。 日本で初めて工学博士となった5人のうちの1人。他に古市公威、松本荘一郎、志田林三郎、原口要がいる。 肥前国松浦郡唐津城下(佐賀県東松浦郡唐津町を経て現唐津市)で、唐津藩士・長谷川久徴の長男として生まれた。長谷川家は代々同藩数学師範を務め、父は剣術にも優れていた。8歳で藩校に入り漢学を修めた。また父から数学を、佐藤与造から蘭学を学ぶ。父の大坂在勤に従い、1868年(明治元年)長崎通詞何礼之から英学を学び、大阪開成所(のち大阪英語学校)で英語を教えた。
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沢本 楠弥(さわもとくすや、正字体:澤本 楠彌、1856年1… 沢本 楠弥(さわもとくすや、正字体:澤本 楠彌、1856年1月22日(安政2年12月15日) - 1904年10月1日)は、高知県出身の日本の地方政治家、実業家。 高知県で自由民権運動や村政にかかわった後、北海道北見市の開拓に貢献した。土佐藩の沢本盛弥は同族。 土佐国長岡郡介良村良野(現・高知市)に生まれる。沢本家の祖は彦右衛門といい、大津城 (土佐国) 城主天竺孫四郎に仕えていたと伝わる。一族は長宗我部家が伸張するまで、介良の在地支配者であったとみられる[要出典]。のち武士から農家に転じ、土地を持つ豪農となった。家系図が残る。楠弥は長男(姉2人あり)で、家族で唯一の男児だった。1歳年下の従姉妹と結婚して19歳(満年齢か数え年かは不明)のときに長男をもうけている。
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浅野 順平(あさの じゅんぺい、1856年1月21日(安政2… 浅野 順平(あさの じゅんぺい、1856年1月21日(安政2年12月14日) – 1925年(大正14年)9月23日)は、日本の衆議院議員。 加賀国河北郡高松村(現在の石川県かほく市)に浅野平七の五男として生まれ、1880年(明治13年)より石川県会議員を6期務めた。1885年(明治18年)、第四高等中学校(のち第四高等学校、金沢大学の前身)の設置にあたって、北陸四県連合会議員に就任し、金沢への誘致を成功に導いた。 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は8回を数えた。 また、金沢電気株式会社取締役、北陸新聞社長などを兼ねた。
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賀古 鶴所(かこ つるど、1855年2月18日〈安政2年1月… 賀古 鶴所(かこ つるど、1855年2月18日〈安政2年1月2日〉 - 1931年〈昭和6年〉1月1日)は、明治期から昭和初期の医師。日本陸軍軍医で日本に耳鼻咽喉科学をもたらした。歌人として常磐会を開催する。遠江国の出身。恩賜財団済生会病院の発起人の一人。 1855年2月18日((旧暦)安政2年1月2日)、遠江浜松藩の藩医賀古公斎と母カネ子の間に5人兄弟の長男として生まれる。幼名を銀弥といい、松雲と号した。明治維新後の転封(鶴舞藩)に伴い千葉県市原に転居。1870年(明治3年)藩主井上正直の命により江戸に遊学し箕作秋坪の塾に学び、第一大学区医学校に入学。在籍中の1881年(明治14年)に25歳で結婚し、翌7月、陸軍依託生として同じ陸軍軍医になる菊池常三郎・森林太郎(鷗外)・小池正直等と東京大学医学部を卒業すると、直後に陸軍軍医に任官した。
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佐藤 運宜(さとう うんぎ、1855年2月17日(安政2年1… 佐藤 運宜(さとう うんぎ、1855年2月17日(安政2年1月1日)- 1904年(明治37年)10月25日)は、明治時代の政治家、弁護士。衆議院議員(1期)。幼名は大吉。 佐藤勇助の長男として陸奥仙台藩領桃生郡深谷前谷地村(宮城県桃生郡前谷地村、河南町を経て現石巻市)に生まれる。1863年(文久3年)8歳にして内馬場友之進の門に入り漢籍を修めたのち、1866年(慶応2年)内海真澄に学ぶ。ついで1869年(明治2年)前谷地村の真言宗龍石寺の住職早坂運穎の従弟となり、さらに1873年(明治6年)中教院に入り仏教を学んだ。その後、法律を志し、代言人遠藤温の門に入りこれを修め、1879年(明治12年)代言人となった。
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金光宅吉(こんこう いえよし、安政元年12月25日(1855… 金光宅吉(こんこう いえよし、安政元年12月25日(1855年2月11日) - 明治26年(1893年)12月20日)は、金光教の二代金光様。 今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。赤沢文治(金光大神)登勢(とせ)の5男。幼名は、宇之丞(うのじょう)、後に虎吉(とらよし)と改められる。金光四神(こんこうしじん)の神号を許され、金光大神の死後、広前の取次の座を主として守り、金光教の信奉者や布教者からは二代金光様あるいは四神様(しじんさま)と呼ばれている。神道本局傘下の神道金光教会で、金光教教監を務めた。諡号は「金光四神貫行君」(こんこうしじんつらゆきのきみ)。 妻 喜代(きよ:安部家より嫁す)との間に、4男4女をもうけた。
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錦織 竹香(にしこおり ちっこう、安政元年12月25日〈18… 錦織 竹香(にしこおり ちっこう、安政元年12月25日〈1855年2月11日〉 - 1945年〈昭和20年〉3月5日)は日本の教育者。本名は久美。 竹香は安政元年12月25日(1855年2月11日)、出雲国出雲郡神庭村に生まれた。父・錦織邦臣は神代神社の神官・小学校教師・医者であり、母・登喜は小学校で裁縫を教えていた。竹香は幼いころから手先の器用なことで知られており、とくに絵画は10歳から師に着いて竹の絵を好んで描いたため「竹香」の号を授けられた。 経歴としては1873年(明治6年)に出雲郡第三番小学習字世話係を申し付けられたのに始まり、翌1874年(明治7年)には第二十中学区神庭小学三等助教、さらに翌1875年(明治8年)には同小学兼荘原小学二等助教に就く。
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岡部 政太郎(おかべ まさたろう、1855年2月9日(安政元… 岡部 政太郎(おかべ まさたろう、1855年2月9日(安政元年12月23日)- 1934年(昭和9年)12月2日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国彼杵郡、現在の長崎県長崎市古町で、代々の呉服商の家に生まれた。明治の初め東浜町(現浜町)に転居し呉服商を営む。1910年(明治43年)に和仏法律学校(現法政大学)を卒業する 。1934年(昭和9年)岡政百貨店を開業した。その他、長崎市商業会議所特別議員、長崎市呉服商組合副取締などを務めた。 日露戦争時には、長崎市奉公会の設立に参画し会計監督となった。1905年(明治38年)所得税調査委員となり4期在任。1907年(明治40年)9月、長崎県会議員に選出された。
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薬袋 義一(みない ぎいち、1855年2月4日〈安政元年12… 薬袋 義一(みない ぎいち、1855年2月4日〈安政元年12月18日〉 - 1903年〈明治36年〉2月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(国民協会→立憲政友会)。位階は正七位。 甲斐国巨摩郡竜王村(現在の山梨県甲斐市)の丹沢家に生まれ、八代郡大塚村(現在の西八代郡市川三郷町)の薬袋義道の養子となった。1877年(明治10年)、区長となった。同年1月及び1880年(明治13年)6月から1883年(明治16年)7月まで山梨県会議員を務めた。 山梨県において県令・藤村紫朗の主導する県政に対して自由民権運動が展開される。薬袋は新聞社・峡中新報社を立ち上げ社長に就任し、『峡中新報』において反藤村県政を展開した。
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遠藤 良吉(えんどう りょうきち、1855年1月29日(安政… 遠藤 良吉(えんどう りょうきち、1855年1月29日(安政元年12月12日)- 1931年(昭和6年)12月12日)は、明治から大正期の日本の警察官、政治家。衆議院議員(5期)、宮城県桃生郡広淵村長。旧姓は村上、号は李楊。 陸奥国桃生郡赤井村(宮城県桃生郡深谷村、赤井村、矢本町を経て現東松島市赤井)で、仙台藩陪臣・村上東八郎の二男として生まれた。警部補、陸軍少尉試補兼小警部、伊豆七島巡視を歴任。 桃生郡北村湖崎(現石巻市北村)の遠藤温の門下に入り、その婿養子となる。1893年(明治26年)遠田郡と桃生郡・牡鹿郡の農民間で水利紛争(遠桃事件)が起こり、遠藤は桃生・牡鹿側の首謀者として入獄した。その後、初代広淵村長に推されて就任し、その他、石巻村会議員、同副議長、深谷村会議員、広淵村会議員、桃生郡会議員、同参事会員を務めた。
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関谷 清景(せきや きよかげ(後に せいけい)、安政元年12… 関谷 清景(せきや きよかげ(後に せいけい)、安政元年12月11日(1855年1月28日) - 明治29年(1896年)1月8日)は、日本人初の地震学者。世界初の地震学専任教授。 安政元年12月11日(1855年1月28日)、父は美濃大垣藩士・衣斐玄助(えびげんすけ)、家は代々戸田候に仕えた、母はユキの長男として歩行町(おかちまち 現・大垣市歩行町)に生まれる。兄妹に5歳下の弟(銘次郎・歩兵第34連隊長陸軍大佐、日露戦争で戦死)と妹(美志 泉法輪に嫁ぐ)がいる。幼名は鉉太郎(げんたろう)といった。父玄助(関谷家に養子に行った)の実兄衣斐精蔵が病死し、その子が幼いことから鉉太郎が出て後を継いだが、後、養家の子の成長後本姓の関谷に戻り名前も清景に改めた。
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西尾 伝蔵(にしお でんぞう、1855年1月27日(安政元年… 西尾 伝蔵(にしお でんぞう、1855年1月27日(安政元年12月10日)- 1895年(明治28年)7月16日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。幼名は道郎、諱は行信、通称は伝右衛門。 西尾雄一郎の子として、遠江国豊田郡友永村(三川村、静岡県磐田郡三川村、袋井町を経て現袋井市)に生まれる。地元の医師鈴木宗元が開いていた寺子屋で学んだところ、たちまち先輩を追い抜く才を示した。その後杉浦某に入門し漢学を、また馬杉雲外のもとで詩文を学んだ。1873年(明治6年)友永村戸長となり、1883年(明治16年)から磐田・山名・豊田郡長を務めた。「経世済民」を掲げ、1878年(明治11年)9月、遠江有志同盟会という政談社を組織し国会開設請願運動に傾倒した。
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桂 潜太郎(かつら せんたろう、1855年1月26日〈安政元… 桂 潜太郎(かつら せんたろう、1855年1月26日〈安政元年12月9日〉 - 1928年〈昭和3年〉11月21日)は、明治から昭和時代初期の官吏。宮中顧問官。旧姓は細迫。 長門国豊浦郡阿川村(豊北町を経て現下関市豊北町大字阿川)に生まれる。細迫礼介の長男。1884年(明治17年)5月、絶家桂庄左衛門の家を再興する。東京専門学校校外生となり、英法を学ぶ。宮内省華族局に出仕し、のち爵位局主事に就任。宮内書記官を兼ねたのち、東宮主事に転じ、東伏見宮別当を兼ね、東伏見宮別当泰宮御養育掛長兼宮中顧問官に就任した。墓所は多磨霊園。
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岩川 友太郎(いわかわ ともたろう、安政元年12月8日(18… 岩川 友太郎(いわかわ ともたろう、安政元年12月8日(1855年1月25日) - 昭和8年(1933年)5月2日)は日本の教育者、動物学者。分類学的手法に基づく貝類目録を、日本で初めて上梓したことでも知られる。東京帝国大学卒。。 陸奥国弘前(現青森県弘前市) にて、父豊吉、母いちの長男として生まれる。豊吉は貧しい表具師であったが、祖父は国文学者として津軽藩校で教鞭を執っていた。生活苦のため寺に小僧に出されたものの、叔父岩川藤兵衛の伝手を頼り、15歳で藩の海軍局へ入局、機関学を学ぶこととなる。 藩校で英語を学んだ後、当時新設されたばかりの東奥義塾(1872年11月27日創設)にて英語教師に就く。
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岩崎 安治郎(いわさき やすじろう、1855年1月24日(安… 岩崎 安治郎(いわさき やすじろう、1855年1月24日(安政2年12月17日)- 1919年(大正8年)4月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 河内国河内郡、のちの大阪府中河内郡大戸村(石切町、枚岡市を経て現東大阪市)出身。農業を営む。大戸村会議員、中河内郡会議員、同議長、大阪府会議員、中河内郡教育会副会長となる。 1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙において大阪府郡部から中央倶楽部公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1915年(大正4年)第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1919年に死去した。
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池田 謙三(いけだ けんぞう、1855年1月20日(安政元年… 池田 謙三(いけだ けんぞう、1855年1月20日(安政元年12月3日)- 1923年(大正12年)11月29日)は、日本の銀行家である。 現在の兵庫県豊岡市(旧・出石郡日高町宵田)に池田澄治の息子として生まれる。東京府庁勤務の傍ら漢学塾に通い内務省などを経て、1880年に生糸貿易に従事。1883年に原六郎に勧められ、第百銀行に入り取締役兼支配人に就任し、1912年に頭取となる。東京貯蔵銀行の頭取をかね、日本興業銀行、台湾銀行設立委員会、東京交換所委員長、第一生命保険、東京商業会議所特別委員、日進銀行各重役などを歴任した。墓所は品川区北品川の東海寺。 矢野恒太記念会は、池田の顕彰を目的とした「池田謙三翁記念奨学金」を1957年に設立し、出身地の出石にある兵庫県立出石高等学校の生徒10人を対象に支給している。
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沖野 忠雄(おきの ただお、嘉永7年1月21日(1854年2… 沖野 忠雄(おきの ただお、嘉永7年1月21日(1854年2月18日) - 大正10年(1921年)3月26日)は、日本の土木技師。工学博士、勲一等。 但馬国城崎郡大磯村(現・兵庫県豊岡市)で、豊岡藩士・沖野春水の次男として生まれる。1871年、豊岡藩の貢進生として大学南校に入学、大学在学中の1876年フランスに派遣され、エコール・サントラル・パリ(École centrale des arts et manufactures)に入学する。1881年帰国後、東京職工学校で工業教育を担当し、1883年より内務省土木局に所属して淀川・大阪港など各地の河川改修・港湾整備に従事する。フランス式の捷水路方式による治水を国内に浸透させた。
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石本 新六(いしもと しんろく、1854年2月17日〈嘉永7… 石本 新六(いしもと しんろく、1854年2月17日〈嘉永7年1月20日〉- 1912年〈明治45年〉4月2日)は、日本の武士(姫路藩士)、陸軍軍人。陸士旧1期。陸軍中将正三位勲一等功二級男爵。 姫路藩士・石本勝左衛門為延の六男として生まれる。1855年(安政2年)、安政江戸地震で父と祖母を失う。1869年(明治2年)、開成所姫路藩貢進生として上京し、大学南校で学ぶ。陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入学。西南戦争に従軍し、1877年(明治10年)7月、工兵少尉に任官。1878年(明治11年)12月、陸士(旧1期)を卒業した。 後、フランスに留学し、1881年(明治14年)8月、フォンテンブロー砲工校を卒業し翌年に帰国。
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川喜田 四郎兵衛(かわきた しろうべえ、嘉永7年1月12日〈… 川喜田 四郎兵衛(かわきた しろうべえ、嘉永7年1月12日〈1854年2月9日〉 - 1919年〈大正8年〉7月31日)は、明治から大正時代にかけて三重県津市を拠点に活動した日本の実業家・政治家である。「四郎兵衛」は当主が代々襲名した名跡であり、諱は政孝という。 家業として酒類・米穀・肥料などを扱う問屋を営みつつ地元財界に進出し、津商業会議所(現・津商工会議所)会頭と百五銀行頭取を約25年にわたり兼任。政界では1889年(明治22年)の市制施行以来30年にわたり津市会議員を務め、その間副議長・議長を歴任した。女婿に百五銀行頭取の職を継いだ川喜田久太夫(諱は政令、号は半泥子)がいる。 嘉永7年1月12日(=安政元年、新暦:1854年2月9日)、先代川喜田四郎兵衛(隠居号「岫斎」、1832年生)の長男として生まれた。
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竹井 懿貞(たけい よしさだ / いてい、安政元年1月11日… 竹井 懿貞(たけい よしさだ / いてい、安政元年1月11日〈1854年2月8日〉 - 1903年〈明治36年〉4月25日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 上野国邑楽郡赤岩村(のち群馬県邑楽郡永楽村→千代田村、現・千代田町)の塩田家に生まれる。国学、漢学を学び、大学南校で教育を受け、さらにアメリカに留学する。帰国後、武蔵忍藩領大里郡熊谷町(埼玉県大里郡熊谷町を経て現熊谷市)の竹井家の養子となる。熊谷宿戸長、埼玉県属、埼玉県会議員を経て、1880年(明治13年)4月27日に同2代目副議長に就任した。 1885年(明治18年)大蔵省に入省し、大蔵省総務局会計課長となると東京府麹町区に転居した。
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若宮 正音(わかみや しょうおん、1854年2月7日〈安政元… 若宮 正音(わかみや しょうおん、1854年2月7日〈安政元年1月10日〉 - 1924年〈大正13年〉4月5日)は、日本の実業家、官吏。農商務省商工局長。逓信省電務局長。電信協会会長。無線電信講習所初代所長。族籍は東京府平民。 兵庫県城崎郡豊岡滋茂町(現・兵庫県豊岡市元町)の人。若宮正海の長男。成長して興国寺に入り仏典を修める。また池田草庵に就き漢籍を学ぶ。自由党総理板垣退助に従い民権自由を唱道する。 明治の初め大阪師範学校に入り、卒業すると教員になる。辞して東京に出て1881年に初めて内務省に出仕する。工部省の官吏となり逓信省が新設されるとこれに転じる。1883年に駅逓局に転じ逓信省書記官に進み兼ねて秘書官となる。
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浅羽 靖(あさば しづか、安政元年1月8日(1854年2月5… 浅羽 靖(あさば しづか、安政元年1月8日(1854年2月5日) - 大正3年(1914年)10月22日)は、政治家・官僚で北海英語学校創設者。北海学園の父とも称されている。 大坂に生まれる。大阪城定番与力の3男という。1875年大蔵省に入省後、根室県や、北海道理事官、1886年には札幌区長を経て、1887年現在の北海高等学校の前身にあたる夜間私立学校北海英語学校の校長に就任。1891年北海道庁会計主務官を最後に退官。札幌製糖社長となる。1893年からは同学校の校主も兼任している。校長在任中も、1901年の中学校令に伴い北海英語学校中等部を創設している。1904年の第9回衆議院議員総選挙にて札幌選挙区から出馬して当選、1914年まで衆議院議員(立憲同志会に所属)を務めた。
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伊地知 幸介(いぢち こうすけ、1854年2月3日〈安政元年… 伊地知 幸介(いぢち こうすけ、1854年2月3日〈安政元年1月6日〉- 1917年〈大正6年〉1月23日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争の旅順攻囲戦では乃木希典の下で第3軍参謀長を務めた。爵位は男爵、最終階級は陸軍中将。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下上之園通町(現:鹿児島県鹿児島市上之園町)で、薩摩藩士・伊地知直右衛門の長男として生まれる。御親兵(後の近衛兵)に選ばれて上京。陸軍幼年学校を経て、1875年(明治8年)12月に陸軍士官学校に入校。1877年(明治10年)4月から翌月まで西南戦争に出征した。1879年(明治12年)2月、砲兵少尉に任官し、同年12月、陸軍士官学校を卒業(旧2期)。陸士旧2期の同期生には井口省吾、大迫尚道、田村怡与造、豊島陽蔵、長岡外史らがいる。
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石黒 涵一郎(いしぐろ かんいちろう、嘉永7年1月3日(18… 石黒 涵一郎(いしぐろ かんいちろう、嘉永7年1月3日(1854年1月31日) - 大正6年(1917年)10月2日)は、日本の衆議院議員(憲政党→立憲政友会)、弁護士、教育者。 丹後国加佐郡舞鶴出身。丹後田辺藩士の家に生まれ、藩校明倫館に学んだ後、大阪兵学寮に入った。その後、法律を学び、1876年(明治9年)に代言規則が発布されると、免許を得て代言人となった。豊岡、大阪で開業した後、1879年(明治12年)に岡山に移住した。 1882年(明治15年)に山陽自由党を結成して自由民権を唱え、1885年(明治18年)には大阪事件の被告の弁護にあたった。その後、大同団結運動がおきると積極的に参加して、岡山に大同倶楽部を組織した。
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安藤 謙介(あんどう けんすけ、1854年1月29日(嘉永7… 安藤 謙介(あんどう けんすけ、1854年1月29日(嘉永7年1月1日)- 1924年(大正13年)7月30日)は、日本の検察官・官僚・政治家。政友会系官選県知事、衆議院議員、横浜市長、京都市長。 土佐藩士・安藤常三郎の長男として安芸郡羽根村(現室戸市)に生まれる。1873年に上京し、ニコライ塾に入り、その後、東京外国語学校に移りロシア語を学んだ。中江兆民からフランス語も学んだ。 1876年4月、勝海舟の推薦で外務省に出仕し、ロシア帝国サハリンのコルサコフ領事館書記一等見習となる。1878年、サンクトペテルブルク公使館書記生となり、サンクトペテルブルク大学で法学、行政法などを履修した。1882年から同大学の日本語教官となった。
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高平 小五郎(たかひら こごろう、1854年1月29日〈嘉永… 高平 小五郎(たかひら こごろう、1854年1月29日〈嘉永7年1月1日〉- 1926年〈大正15年〉11月28日)は、日本の外交官。男爵。貴族院議員等を務めた。日露講和会議で小村寿太郎とともに全権委員を務め、日露戦争後の日米関係を定めた高平・ルート協定を締結した。 現在の岩手県一関市の生まれ。陸奥国一関藩の藩士田崎三徹の三男であったが、同藩士高平真藤の養子となった。1868年の戊辰戦争には奥羽越列藩同盟側として従軍した。1870年(明治3年)貢進生として大学南校(現在の東京大学)に入学し、1873年(明治6年)には同校を卒業して工部省に出仕した。1876年(明治9年)以降は外務省に出仕し、1879年(明治12年)には在米国公使館在勤。
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野依 範治(のより はんじ、旧姓・朝吹、1854年1月29日… 野依 範治(のより はんじ、旧姓・朝吹、1854年1月29日(安政元年1月1日) - 1917年(大正6年)12月23日)は、日本の会社役員。多久鉱業、古賀山炭坑各取締役。族籍は福岡県平民。 豊前国下毛郡宮園村(現・大分県中津市耶馬溪町大字宮園)出身。朝吹泰蔵の三男。1864年に野依半七郎の養子となり、1877年に家督を相続する。会社の重役である。住所は佐賀市西田代町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
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藤巻 胤家(ふじまき たねいえ、嘉永6年12月30日(185… 藤巻 胤家(ふじまき たねいえ、嘉永6年12月30日(1854年1月28日) - 1901年(明治34年)12月1日)は、明治時代の陸軍軍人。官位は陸軍歩兵大尉従六位勲四等。山形県士族(1894年(明治27年)に分家後は千葉県士族)。 1877年(明治10年)の西南戦争に出征して戦功を挙げる。歩兵第18連隊中隊長等を歴任する。 1881年(明治14年)7月、養子縁組解消に伴い「石口」姓から「藤巻」姓へ復姓。 陸軍省大日記(西南戦役第二旅団戦闘履歴明治10年2月26日~11年8月6日)によると『歩兵第2連隊第1大隊第1中隊附 陸軍少尉石口胤家は今回戦役中4月9日より5月11日まで中隊長代理となり木留村にて戦役に服し7月10日六観音山迂回の節は一小隊を引率し、賊軍背後に進出して部下を配慮指揮して大いに奮戦する。
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天埜 伊左衛門(伊左衞門、あまの いざえもん、1854年1月… 天埜 伊左衛門(伊左衞門、あまの いざえもん、1854年1月27日(嘉永6年12月29日)- 1930年(昭和5年)8月28日)は、明治から大正期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員、愛知県知多郡亀崎町長。 尾張国知多郡乙川村(愛知県知多郡乙川村、亀崎町を経て現半田市亀崎町)で、先代・天埜伊左衛門の長男として生まれた。1869年(明治2年6月)家督を相続した。酒造業を営む。私塾を設け郷土の子弟の教育に尽くした。 乙川村戸長となる。1884年(明治17年)愛知県会議員に選出され1892年(明治25年)まで在任。1889年(明治22年)亀崎町長に就任。所得税調査委員、亀崎教育会長も務めた。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(愛知県第7区)で初当選し、その後、第4回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
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大島 寛爾(おおしま かんじ、1854年1月27日(嘉永6年… 大島 寛爾(おおしま かんじ、1854年1月27日(嘉永6年12月29日)- 1933年(昭和8年)4月24日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員、埼玉県北足立郡浦和町長。 肥前国高来郡堂崎村(のち長崎県南高来郡有家町、現:南島原市)で、佐々木龍潭の三男として生まれ、大島命の養嗣子となる。長南梁、村上仏山から漢籍を学ぶ。その後、長崎の瓊林館で英書を学んだが、学費の工面のため長崎本獄吏員となり、入獄中の丸山作楽とよしみを通じた。1875年、丸山の密書を持参して上京し、職を転々としながら丸山の動きに備えていた。 丸山の陰謀が止むと、東京の茂松法学舎で法律学を学び、1880年、代言人試験に合格して、1882年、浦和町に事務所を開設した。
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有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年… 有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年12月26日) - 1940年(昭和15年)8月12日)は、幕末の佐賀藩士、明治・大正期の内務官僚、政治家。県知事、津市長、錦鶏間祗候。 佐賀藩士・有田伝蔵の長男として佐賀城下水の江に生まれる。藩校・弘道館で学ぶ。戊辰戦争に従軍し、会津戦争に小隊副指令(嚮導)として参加。 1875年(明治8年)1月、内務省に入り地理寮雇となる。以後、栃木県師範学校副幹事、栃木県八等警部、島根県警部、福島県警部、青森県属・庶務課長、同県警部、青森県警部長、埼玉県警部長、福岡県警部長、山口県警部長、島根県・大分県・岡山県の各書記官などを歴任。 1900年(明治33年)4月、徳島県知事に登用された。
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西川 鉄次郎(にしかわ てつじろう、1854年1月22日(嘉… 西川 鉄次郎(にしかわ てつじろう、1854年1月22日(嘉永6年12月24日) - 1932年(昭和7年)6月1日)は、幕末の会津藩士。明治期の裁判官。白虎隊士として戊辰戦争を戦い、裁判官として大審院判事にいたる。中央大学の前身である英吉利法律学校の創立者の一人。 会津藩士の子として生まれる。父、西川俊治は、禄高6石5斗2人扶持、御書簡所物書勤めである。16歳で戊辰戦争を迎え、白虎寄合二番隊士として8月より越後方面で戦ったが、退却を余儀なくされ、9月6日より会津若松城に戻り三の丸警備にあたる。 戦後静岡藩に留学し、沼津兵学校附属小学校で学ぶ。1878年(明治11年)旧東京大学法学部を卒業。西川は旧東京大学法学部の最初の卒業生の一人であり、同期生6人には河上謹一などがいる。
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山口 半七(やまぐち はんしち、1853年2月14日(嘉永6… 山口 半七(やまぐち はんしち、1853年2月14日(嘉永6年1月7日)- 1932年(昭和7年)6月9日)は、明治期の実業家、政治家。初名は克己。 豊前国下毛郡中津(現大分県中津市)で、中津藩士・山口広江、デンの長男として生まれた。中津藩儒に学び、1869年(明治2年)慶應義塾に入る。 1873年(明治6年)朝吹英二らと慶應義塾出版局を設立。1874年(明治7年)出版局支店を山口県豊浦郡赤間関(現下関市)に設け、その他呉服店を経営した。1877年(明治10年)西南戦争勃発により戦火に巻き込まれることを恐れで帰郷した。同年、田舎新聞、鶴屋商会の経営に参画。1882年(明治15年)豊州立憲改進党の創立発起人となり、大分県会議員、同常置委員、県会議長を務めた。
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須田 辰次郎(すだ たつじろう、1853年2月13日(嘉永6… 須田 辰次郎(すだ たつじろう、1853年2月13日(嘉永6年1月6日) - 1928年(昭和3年)6月23日)は、明治期の教育者。師範学校校長を歴任。 豊前国中津生まれ。藩校進脩館で学び塾長になり、慶應義塾に入り五等に進級する。1876年(明治9年)に東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)中学師範学科の嘱託教授、1879年(明治12年)より1881年(明治14年)まで同校訓導を嘱された。1882年(明治15年)時事新報に入社。1884年(明治17年)より福岡県の中学校一等教諭として豊津中学校在勤、1885年(明治18年)に福岡師範学校校長兼教諭に任じられた。翌年の学制改革に伴い、1887年(明治20年)に師範学校教育科の教員免許を正式に授与され、一時的に文部省雇として学務局兼編輯局詰を経て、1888年(明治21年)に神奈川県尋常師範学校教諭に任じられた。
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村松 亀一郎(むらまつ かめいちろう、嘉永6年1月5日(18… 村松 亀一郎(むらまつ かめいちろう、嘉永6年1月5日(1853年2月12日) - 昭和3年(1928年)9月22日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党)、弁護士。従兄弟に村松山寿がいる。 陸奥国登米郡西郡村(現在の宮城県登米市)出身。漢学を学び、江戸に出ようとするも、明治維新の混乱で引き返し、仙台で藩医の大槻氏のもとで学んだ。その後、1872年(明治5年)に東京に出て、元田直の法律学舎で学んだ。1876年(明治9年)、代言人の試験に合格し、松本・上田で業務を行った。1878年(明治11年)、大井憲太郎が創設した明法学舎が第一分舎を仙台に置くことになると、その主幹に任命された。
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雄倉 茂次郎(おぐら しげじろう、1853年2月12日(嘉永… 雄倉 茂次郎(おぐら しげじろう、1853年2月12日(嘉永6年1月5日)- 1911年(明治44年)1月2日)は、明治期の政治家、教育者。衆議院議員、山形県山形市長(第2代)。 出羽国村山郡、現在の山形県山形市で山形藩士の家に生まれる。漢学、英学を修めた。 小学校教員、南村山郡学務委員、戸長などを歴任。山形市助役に就任。濱村勘太郎初代市長の辞職に伴い、1894年(明治27年)12月10日、第2代山形市長に就任し、1901年(明治34年)11月9日まで在任した。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙で山形県山形市選挙区より立憲政友会所属で立候補したが次点で落選。1903年(明治36年)3月の第8回総選挙では無所属で出馬して初当選。
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田中 源太郎(たなか げんたろう、嘉永6年1月3日(1853… 田中 源太郎(たなか げんたろう、嘉永6年1月3日(1853年2月10日) - 大正11年(1922年)4月3日)は、京都府旧桑田郡亀山北町生まれの政治家、実業家。1869年亀岡陸運を創業、のちに京都株式取引所、京都商工銀行、亀岡銀行の各頭取などを務めた。衆議院議員当選3回(1、2、3回総選挙)、貴族院多額納税者議員。 丹波国桑田郡亀山北町(現在の京都府亀岡市)に、田中蔵一の次男として生まれたが、兄が早くに亡くなったため田中家の家督を継ぐべく英才教育を受けて育った。北村龍象の私塾学半堂や横井忠直、山本覚馬らにも師事し、儒学、政治経済など幅広い分野を成績優秀で修めたとされる。田中家は代々亀山藩の御用商人として取り立てられた商家として栄え、父・蔵一は櫓奉行格に取り立てられ、会計方として亀山藩に仕えていた人物であったため、源太郎も経済界で活躍することを期待されて育った。
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石橋 絢彦(いしばし あやひこ、嘉永5年12月27日(185… 石橋 絢彦(いしばし あやひこ、嘉永5年12月27日(1853年2月5日) - 昭和7年(1932年)11月25日)は、日本の武士(幕臣)、土木技術者。工学博士。位階および勲等は従四位・勲二等。 幕臣与力の中井国蔵長親・中井ふくの五男として嘉永5年12月27日、江戸浅草新堀端に生まれる。元治元年、幕臣石橋和三郎福庵の養子となったが、義父福庵は明治元年4月2日失踪した。明治12年(1879年)工部大学校(現在の東京大学工学部)卒業。同年、下谷区仲御徒町に住する幕臣青山安保(義父福庵の異母兄)の長女の菊(文久3年6月28日生)と結婚。逓信省に出仕。イギリスに留学し灯台工事、その他の海上工事を研究する。
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大橋 利左衛門 (おおはし りざえもん、1853年2月3日(… 大橋 利左衛門 (おおはし りざえもん、1853年2月3日(嘉永5年12月25日) - 1888年(明治21年)1月2日) は植林家・政治家。 1853年2月3日(嘉永5年12月25日)に近江国犬上郡(後の日夏村、現・滋賀県彦根市日夏町)に生まれる。1878年に日夏村の戸長となり、1881年には県会議員も務めた。1887年には日夏村から東海道本線が開通していた河瀬村南川瀬の区間に日夏街道を開通させるなど地域の交通面の整備を手がけた。 1872年当時の日夏村民たちは生活苦のために、荒神山の樹木を伐採し売却して生計を維持していた。乱伐のために荒神山はわずかな年月の間にはげ山となり治水機能が低下して土砂崩れがしばしば発生していた。
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鈴木 文三郎(すずき ぶんざぶろう、1853年1月30日(嘉… 鈴木 文三郎(すずき ぶんざぶろう、1853年1月30日(嘉永5年12月21日)- 1926年(大正15年)11月9日)は、明治から大正期の公吏、実業家、政治家。衆議院議員、岩手県東磐井郡生母村長。 陸奥国磐井郡赤生津村(岩手県岩井郡赤生津村、東磐井郡生母村大字赤生津、前沢町を経て現奥州市前沢生母)で肝入・鈴木兵之助の長男として生まれた。漢学を修めた。1886年(明治19年)3月、家督を相続した。 1873年(明治6年)水沢県地租改正掛勤務となる。1876年(明治9年)2月、磐井県15等出仕となり同年4月まで在任。同年8月、岩手県等外1等出仕となり、同県17等出仕、同10等警部を経て、1879年(明治12年)7月、新潟県9等属に転じ、1880年(明治13年)9月に退官した。
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北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、嘉永5年12月20日〈… 北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、嘉永5年12月20日〈1853年1月29日〉- 昭和6年〈1931年〉6月13日)は、日本の微生物学者、教育者。位階勲等は、従二位勲一等男爵。 貴族院議員、私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現在の東京大学医科学研究所附属病院)創立者兼運営者、私立北里研究所、北里研究所病院(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長・北里大学学祖、慶應義塾大学部医学科学長(1920年から慶應義塾大学医学部初代学部長)、慶應医学会初代会長、慶應義塾大学病院初代院長。 「近代日本医学の父」として知られる。1889年(明治22年)に破傷風菌の純粋培養に成功、翌1890年(明治23年)に血清療法を開発、さらに、1894年(明治27年)にペスト菌を発見し、「感染症学の巨星」と呼ばれる。
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武谷 水城(たけや みずき、1853年1月25日(嘉永5年1… 武谷 水城(たけや みずき、1853年1月25日(嘉永5年12月16日) - 1939年(昭和14年)8月15日)は、日本の陸軍軍医、郷土史研究家。 福岡藩士尾石信一(惣平)の二男尾石豊として、筑前国御笠郡水城村(現・福岡県太宰府市)に生まれる。藩校修猷館および文武館に学んだ後、1872年に金沢医学校(医学館)に入学し、オランダ人医学者スロイスに医学を学ぶ。1874年福岡藩医武谷祐之の養嫡子となり、1876年祐之の三女仲と結婚する。祐之は福岡藩主黒田長溥の侍医であり、九州大学の源流とされる藩医学校賛生館の創立に尽くしている。祐之の父は長崎でシーボルトに西洋医学を学んだ福岡藩御目見医武谷元立である。
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神崎 修三(こうざき しゅうぞう、1853年1月25日(嘉永… 神崎 修三(こうざき しゅうぞう、1853年1月25日(嘉永5年12月16日)– 1917年(大正6年)5月4日)は、明治・大正期の地主、政治家、実業家。衆議院議員。旧姓・堀内。 紀伊国名草郡神前村(和歌山県名草郡岡崎村、海草郡岡崎村を経て現和歌山市)で堀内伊兵衛の長男として生まれ、豪農・神前吉次郎の養子となる。漢学を修めた。 1888年(明治21年)1月、補欠選挙で和歌山県会議員に当選。1889年(明治22年)、1894年(明治27年)、1898年(明治31年)に再選され、1899年(明治32年)9月に退任。1901年(明治34年)5月に補欠選挙で当選し、1902年(明治35年)8月に衆議院議員に当選のため辞職した。
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硲 俊聡(俊聰、はざま しゅんそう、1853年1月24日(嘉… 硲 俊聡(俊聰、はざま しゅんそう、1853年1月24日(嘉永5年12月15日) - 1931年(昭和6年)8月30日)は、明治から昭和初期の教育者、政治家。衆議院議員、第5代・10代山口県会議長、山口県玖珂郡伊陸村長、同郡神代村長。旧姓・村岡、旧名・米村平之進。 周防国玖珂郡神代村原(山口県玖珂郡神代村、由宇町を経て現岩国市)で、村岡伝左衛門の三男として生まれる。兄に村岡柳太郎。 米村家の養子となるが、その後、伊陸村の硲家の養子となる。幼くして学問を好み、藩儒の東沢瀉に学び、和漢学を修めた。戊辰戦争では精義隊に入隊し中央隊長として奥羽に出征した。 大阪開成所(のち大阪英語学校)で仏蘭西学を学び、1878年(明治11年)官立大阪師範学校を卒業した。
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石田 平吉(いしだ へいきち、1853年1月24日(嘉永5年… 石田 平吉(いしだ へいきち、1853年1月24日(嘉永5年12月15日)- 1929年(昭和4年)11月18日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・元満。 筑前国福岡城下(現福岡市)で、福岡藩陪臣・元満元二の長男として生まれる。漢学を修めた。 維新後に商売を営むが成功せず、1874年(明治7年)博多に移転し回漕業を営む。郵便汽船三菱会社の岩崎弥太郎と面談して同社保有船の博多寄港の約束を取り付けた。1877年(明治10年)10月、先代石田平吉の養子となり家督を相続し旅人宿業を営む。西南戦争では陸軍物資の輸送に従事。1889年(明治22年)九州鉄道の敷設に際して建築資材の運搬を担った。
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