佐藤 智(さとう さとし、1957年(昭和32年)3月8日 … 佐藤 智(さとう さとし、1957年(昭和32年)3月8日 - )は、日本の政治家。宮城県栗原市長(2期)。 宮城県栗原郡築館町(現・栗原市築館)出身。1975年、宮城県築館高等学校卒業。同年築館町役場に勤務する。2005年築館町は合併により栗原市となったが、引き続き栗原市役所に勤務する。同市企画部行政管理課長、総務部人事課長、総務部財政課長、総務部次長兼財政課長、教育部長、総務部長を経て、2015年に副市長となる。 2017年の栗原市長選挙では勇退する佐藤勇の後継者として立候補したが、中学と高校の同級生だった元栗原市議の千葉健司に42票差で敗れた。4年後の2021年の市長選挙で再び立候補、前回と同じ現職の千葉との一騎打ちとなり、1484票差で雪辱を果たし初当選。
千葉 健司(ちば けんじ、1956年〈昭和31年〉9月25日… 千葉 健司(ちば けんじ、1956年〈昭和31年〉9月25日 - )は、日本の政治家。元宮城県栗原市長(1期)。元栗原市議会議員(1期)。 宮城県栗原郡築館町(現:栗原市築館)出身。祖父の千葉秋男も父の千葉徳穂もそれぞれ、築館町(2005年4月1日に9町村と合併し栗原市となる)長を務めた。築館町立築館中学校(現・栗原市立築館中学校)卒業。1975年(昭和50年)3月、宮城県築館高等学校卒業。1980年(昭和55年)3月、國學院大學法学部卒業。銀行に勤務。 2009年(平成21年)、栗原市議会議員に初当選。 2013年(平成25年)2月に市議を辞任。同年4月21日に行われた市長選挙に立候補するも、現職の佐藤勇に敗れる。
市川 一朗(いちかわ いちろう、1937年4月12日 - )… 市川 一朗(いちかわ いちろう、1937年4月12日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属。 参議院議員(3期)、農林水産副大臣(第1次小泉第2次改造内閣、第2次小泉内閣)などを歴任。 宮城県栗原郡鶯沢町(現在の栗原市鴬沢地区)出身。仙台第一高等学校卒業後、東京大学文科一類入学。1961年、東京大学法学部(私法コース)卒業と同時に建設省に入省する。国土庁防災局長、建設省都市局長、建設省総務審議官を経て、1993年に国土事務次官に就任し、翌1994年に退官。 1995年の第17回参議院議員通常選挙に無所属(新進党推薦)で宮城県選挙区から立候補し、初当選。当選後は新進党の参議院会派である平成会に所属したものの、最後まで新進党には入党しなかった。
長谷川 峻(はせがわ たかし、1912年4月1日 - 199… 長谷川 峻(はせがわ たかし、1912年4月1日 - 1992年10月19日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。自由民主党衆議院議員。宮城県栗原郡築館町(現在の栗原市)出身。 旧制宮城県築館中学校(現・宮城県築館高等学校)、早稲田大学専門部政経科卒業後、1933年に九州日報社(現 ・西日本新聞社)に入社。記者として活躍。この頃、緒方竹虎、中野正剛との知遇を得て、両雄の下で政治のイロハを学ぶ。1945年、緒方が東久邇宮内閣の国務大臣に就任すると、その秘書官を務めた。内閣では総理大臣の東久邇宮稔彦王の「国民諸君から直接手紙をいただきたい」との意向のもとで緒方のアイデアにより国民からの投書を募っていたが、稔彦王がすべての手紙を読むわけにもいかず、「平衡感覚を持った人」たる元記者の長谷川が手紙の整理役を務めた。
高橋 文五郎(たかはし ぶんごろう、1893年11月28日 … 高橋 文五郎(たかはし ぶんごろう、1893年11月28日 - 1978年3月19日)は、日本の実業家、政治家、参議院議員(2期、自由民主党)。 宮城県栗原郡若柳町(現・栗原市)出身。1915年早稲田大学商学部卒。卒業後は七十七銀行に入り、支店長となる。その後、家業の醸造業を継ぎ、のち栗原鉄道(株)を創立、社長に就任する。 若柳町長(1935.11.28-1943.8.15)を務めたが、戦時中に地元の大政翼賛会の役員をしていたため、戦後、公職追放となる。 宮城県議を5期務め、議長を2期務める。1965年、高橋進太郎の宮城県知事選出馬による参議院補欠選挙で当選。同年春の叙勲で勲四等瑞宝章受章。1968年の第8回参議院議員通常選挙で再選した。
鈴木 文治(すずき ぶんじ、男性、1885年(明治18年)9… 鈴木 文治(すずき ぶんじ、男性、1885年(明治18年)9月4日 - 1946年(昭和21年)3月12日)は、大正から昭和期の政治家、労働運動家。友愛会創始者。日本の労働運動の草分け的存在といわれる。 宮城県栗原郡金成村(現・栗原市)の旧家鈴木益治の長男として生まれる。10歳の頃に父親とともにキリスト教に入信。宮城県尋常中学校志田郡立分校(現・宮城県古川高等学校)を卒業後、旧制山口高等学校に入学。中学卒業前後に家業が傾き、高校時代苦学するなかで、在野のキリスト教伝道師本間俊平の影響により、社会問題に目覚めていく。東京帝国大学法科大学政治学科に入学後は、同郷の先輩である吉野作造とともに、海老名弾正率いる組合派の本郷教会に所属する。
後藤 房之助(ごとう ふさのすけ、1879年〈明治12年〉1… 後藤 房之助(ごとう ふさのすけ、1879年〈明治12年〉11月14日 - 1924年〈大正13年〉7月31日)は、宮城県栗原郡姫松村(現・栗原市)出身の政治家。 八甲田雪中行軍遭難事件での生存者の一人で、帰郷後に村会議員を務めた。 後藤房之助は小作の五男(三男とも言われる)として生まれた。 1899年(明治32年)12月に陸軍に徴集される。1902年(明治35年)1月、歩兵第5連隊の伍長として八甲田山の雪中行軍に加わる。1月23日に雪中行軍隊が出発したが、遭難した結果数日のうちに大半の兵士が凍死するという惨事となった。 ほとんどの兵士は倒れるか道を誤り、総指揮官の神成文吉歩兵大尉と2人だけの行軍となった。
佐藤 庄助(さとう しょうすけ、1876年(明治9年)10月… 佐藤 庄助(さとう しょうすけ、1876年(明治9年)10月4日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 水沢県栗原郡有馬村有壁(宮城県栗原郡萩野村、金成町を経て現栗原市金成有壁)で、旧有壁宿本陣の佐藤家に生まれた。札幌農学校を卒業し、さらに慶應義塾、養正塾、セントアンドリーチャーチ英語学校で学んだ。農業を営む。 1896年(明治29年)徴兵され陸軍騎兵少尉となり除隊。1903年(明治36年)9月、宮城県会議員に選出された。1904年(明治37年)6月に応召して県議を辞職し、満州軍に属して日露戦争に出征した。陸軍騎兵中尉に昇進して除隊。
沢 来太郎(さわ らいたろう、慶応元年12月15日(1866… 沢 来太郎(さわ らいたろう、慶応元年12月15日(1866年1月31日) - 大正11年(1922年)3月23日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲政友会)。 宮城県栗原郡沢辺村(現在の宮城県栗原市)出身。自由民権運動に加わり、1881年(明治14年)に公愛会という政社を結成した。1894年(明治27年)、県下の自由党員を糾合して血誠義団を組織し、その会長となった。さらに雑誌「新東北」や仙台新聞を発刊して自由党の勢力拡大に貢献したが、1897年(明治30年)に河野広中が自由党を離党すると、それに従い、東北同盟会を組織した。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
熱海 孫十郎(あずみ / あたみ まごじゅうろう、1848年… 熱海 孫十郎(あずみ / あたみ まごじゅうろう、1848年2月13日(嘉永元年1月12日)- 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。貴族院多額納税者議員。 陸奥国栗原郡文字村(栗駒町を経て現:栗原市)に千葉忠蔵の子として生まれる。のち、一迫の熱海多藏の養子になる。1879年宮城県会が発足するとその議員になる。その後、栗原、志田、玉造の各郡長となり、1890年の第1回衆議院議員総選挙に宮城県第4区(当時)から立候補して当選した。1892年の第2回衆議院議員総選挙で落選。1897年9月29日に貴族院議員に就任し、1900年8月29日まで在職した。 この他七十七銀行頭取や宮城県農会副会長なども歴任した。
高橋 徳右衛門(たかはし とくえもん、1845年6月20日(… 高橋 徳右衛門(たかはし とくえもん、1845年6月20日(弘化2年5月16日) - 1915年(大正4年)4月28日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家、大地主。貴族院多額納税者議員。幼名・幸治郎。 陸奥仙台藩領栗原郡若柳村(宮城県若柳町を経て現栗原市)に生まれる。1884年(明治17年)若柳村会議員に当選。ついで宮城県会議員、栗原郡会議員、同参事会員のほか、栗原郡岩ヶ崎製糸会社社長、塩釜水産、第八十八銀行各取締役、第七十七銀行監査役などを歴任した。ほか、仙台米穀取引所の設立に関与した。 1900年(明治33年)宮城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年11月29日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年… 千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年12月11日)- 1914年(大正3年)1月11日)は、明治期の公吏、農業経営者、政治家。衆議院議員。幼名・丹三郎。 陸奥国栗原郡文字村上葛峰(宮城県栗原郡文字村、栗駒町を経て現栗原市栗駒文字)で、素封家・千葉忠蔵の長男として生まれた。農業を営む。 1870年(明治3年)水沢県附属に就任し同年12月に辞職。1873年(明治6年)7月、水沢県第6大区学区取締掛に任じられ、1874年(明治7年)8月に廃職となる。 1877年(明治10年)県会の前身である共議会議員に就任。1879年(明治12年)1月、宮城県会議員に選出され1890年(明治23年)2月まで3期在任し、常置委員も3期務めた。
南条 文五郎(南條、なんじょう ぶんごろう、1842年11月… 南条 文五郎(南條、なんじょう ぶんごろう、1842年11月16日(天保13年10月14日)- 1905年(明治38年)4月4日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 陸奥国栗原郡太田村(宮城県栗原郡太沢村、玉沢村、築館町字太田を経て現栗原市築館太田)で、肝煎(庄屋)・南条彦作(親章)の二男として生まれた。普通学、武道を修めた。農業を営む。 1871年(明治4年)太田村副戸長に就任。1880年(明治13年)5月に宮城県会議員に選出され、1902年(明治35年)8月15日の辞職まで8期在任し、常置委員、参事会員、地方衛生会委員、徴兵参事員なども務めた。その他、太沢村会議員、玉沢村会議員、栗原郡会議員にも在任した。
大庭 長九郎(おおば ちょうくろう、1840年(天保11年6… 大庭 長九郎(おおば ちょうくろう、1840年(天保11年6月)- 1909年(明治42年)11月15日)は、明治期の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。諱・実次。 陸奥国栗原郡堀口村(宮城県栗原郡姫郷村、志波姫村字藤木、志波姫町を経て現栗原市)の農家に生まれる。金融業により一代で富を築いた。養蚕、製糸を奨励し地域の振興に尽力した。宮城商業銀行監査役、築館税務署営業税調査係顧問、日本赤十字社特別社員なども務めた。 1889年(明治22年)志波姫村長に就任。栗原郡会議員にも選出され、1890年(明治23年)宮城県会議員に就任した。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙に宮城県第四区から出馬して当選し、その後、第5回総選挙でも再選され衆議院議員を通算2期務めた。