吉井絵梨子(よしいえりこ、1989年8月3日 - )は、女性… 吉井絵梨子(よしいえりこ、1989年8月3日 - )は、女性起業家。ミス・グランド・ジャパン運営事務局代表。ミスター・ゲイ・ジャパンプロデューサー。 1989年8月3日、秋田県秋田市に生まれる。2児の母。 秋田県立秋田北高等学校卒業。アメリカのコミュニティカレッジで論理学と国際コミュニケーションを学ぶ。 2011年、 秋田モデルコンテスト 初代グランプリ。 2012年、ミス・ユニバース・ジャパン ファイナリスト。ミス・アジア・パシフィック・ワールド 日本代表。 2013年、ミス・グランド・インターナショナル 初代日本代表。 2014年、ミス・ワールド・ジャパン ファイナリスト。ミス・インターコンチネンタル 日本代表。
藤井 靖(ふじい やすし、1979年2月9日 - )は、日本… 藤井 靖(ふじい やすし、1979年2月9日 - )は、日本の心理学者。専門は臨床心理学。学位は、博士(人間科学)。明星大学教授。臨床心理士・公認心理師として、都道府県スクールカウンセラーや都内総合病院心療内科・精神科の心理カウンセラーも務める。秋田県秋田市生まれ。 学生時代は野村忍、助手時代は菅野純に師事し、臨床心理学を中核として心身医学、応用健康科学、臨床ストレス科学、学校カウンセリング学、脳科学、教育学など幅広い視点から研究・臨床を行う。認知行動療法を専門とし、高頻度な消化器心身症である過敏性腸症候群の治療プログラム開発のためのランダム化比較試験に取り組んでいる。また、摂食障害の研究や実践にも力を入れており、弁証法的行動療法の適用に関する効果検討を行なっている。
佐々木 文彦(ささき ふみひこ、1958年10月31日 - … 佐々木 文彦(ささき ふみひこ、1958年10月31日 - )は、日本の言語学者で、明海大学外国語学部日本語学科教授。 秋田県秋田市出身。専門学は日本語学。
赤根谷 達雄(あかねや たつお、1956年 - )は、日本の… 赤根谷 達雄(あかねや たつお、1956年 - )は、日本の政治学者。筑波大学大学院人文社会科学研究科国際公共政策専攻教授。専門は、国際政治経済学・安全保障論。 秋田県秋田市生まれ。東京大学教養学部卒業、同大学院社会学研究科修士課程国際関係論専攻修了、1990年オーストラリア国立大学で博士号取得。東京大学教養学部助手(1989-92年)、筑波大学社会工学系専任講師(1992-96年)、同助教授(1996-00年)、同教授(2000-01年)を経て、現在は筑波大学大学院人文社会科学研究科教授。 1993年、『日本のガット加入問題』でサントリー学芸賞を受賞。1995年から96年まで王立国際問題研究所客員研究員を務めた。
長谷川 晃(はせがわ こう、1954年 - )は、日本の法学… 長谷川 晃(はせがわ こう、1954年 - )は、日本の法学者。北海道大学名誉教授。専門は法哲学。秋田県秋田市生まれ 略歴は以下のとおり。 1983年、北海道大学法学部助教授(法哲学)。1986年から88年にかけ、カリフォルニア大学バークレー校法と社会研究センター及びニューヨーク大学ロー・スクール法・哲学・社会理論プログラム客員研究員。1991年、北海道大学法学部教授(法哲学)。1998年、オーストラリア国立大学社会科学研究院哲学プログラム・ビジター。2000年より北海道大学大学院法学研究科教授。 2002年、ウィスコンシン大学ロー・スクールJ・B・マクドナルド客員教授。2002年から03年にかけ、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ政治・法・社会研究セ ンター客員研究員。
石山 宏一(いしやま こういち、1947年 - )は、日本の… 石山 宏一(いしやま こういち、1947年 - )は、日本のジャーナリスト、辞書編纂者、評論家、英語学者、桐蔭横浜大学客員教授。 秋田県秋田市生まれ。秋田県立秋田高等学校卒業。「グル-基金」(米国大学留学制度)奨学生選抜試験合格、渡米。1969年ミドルベリー大学教養学部政治学科卒業。 1970年タフツ大学フレッチャ-法律外交大学院修士課程修了。 1971年サイマル・インターナショナル会議通訳者、1972年東京大学研究生、1973年AP通信(米国)記者、1980年ザ・タイムズ(ロンドン)記者、1983年ストレーツタイムズ(シンガポール)記者、1988年ビジネスタイムズ(シンガポール)記者 (金融担当)、1992年駒沢女子短期大学英文科助教授、1999年桐蔭横浜大学法学部助教授、2004年同教授、2010年客員教授となり、時事英語、ビジネス英語、ジャーナリズム入門等を教えている。
熊田 亮介(くまた りょうすけ、1947年 - )は、日本の… 熊田 亮介(くまた りょうすけ、1947年 - )は、日本の歴史学者、秋田大学名誉教授。専門は日本古代史。 秋田県秋田市生まれ。1972年、東北大学大学院文学研究科修士課程修了。新潟大学教育学部助教授を経て、1993年、秋田大学教育学部(現:教育文化学部)教授。2002年に東北大学より博士(文学)の学位授与。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
吉村 昇(よしむら のぼる、1943年(昭和18年)- )は… 吉村 昇(よしむら のぼる、1943年(昭和18年)- )は、日本の工学者。工学博士。専門は基礎電気工学。秋田大学および東北公益文科大学で学長を務めた。 新潟県で生まれ秋田県秋田市で育つ。 秋田県立秋田高等学校を卒業後、秋田大学に進学。1969年3月同大学院鉱山学研究科修士課程電気工学専攻修了。1974年名古屋大学より工学博士(電子・電気材料工学)の学位を受く。 1969年4月秋大鉱山学部助手、1974年4月同講師、1975年同助教授に就き、一度は外国の大学で研究したいと考えていた時、米国ニューヨーク州にあるクラークソン工科大学客員研究員として招かれ、家族とともに渡米。約2年間滞在した。 帰国後の1983年4月、39歳で秋大鉱山学部教授に昇進。
吉本 高志(よしもと たかし、1942年〈昭和17年〉 - … 吉本 高志(よしもと たかし、1942年〈昭和17年〉 - )は、日本の医学者。元東北大学総長。東北大学名誉教授。医学博士。専門は脳神経外科学。秋田県秋田市土崎港出身。 1961年3月秋田県立秋田高等学校卒業(東京大学総長を務めた政治学者の佐々木毅は同期)。1968年3月東北大学医学部医学科卒業。1977年東北大学より医学博士の学位を取得。 1975年4月東北大学助手。1982年5月同助教授。1988年4月同教授。2002年11月から2006年11月まで東北大学総長。日本学術会議会員も務めた。 2007年4月独立行政法人大学入試センター理事長に就任。2013年まで務める。同年医療法人社団親和会西島病院名誉院長。
吹浦 忠正(ふきうら ただまさ、1941年3月17日 - )… 吹浦 忠正(ふきうら ただまさ、1941年3月17日 - )は、日本の旗章学者。 バングラデシュなどのアジア諸国、また、世界各国の国旗事情に詳しい。 秋田県秋田市出身。秋田県立秋田高等学校、早稲田大学第一政治経済学部卒業。早稲田大学大学院政治学研究科修了。 国際赤十字バングラデシュ・ベトナム各駐在代表、日本赤十字中央女子短期大学助教授、埼玉県立大学教授を経て、ユーラシア21研究所理事長、拓殖大学客員教授、難民を助ける会特別顧問、世界の国旗普及協会理事、日本国際フォーラム評議員などを歴任。 スポーツ関係の仕事も多く、第18回夏季オリンピック東京大会組織委員会国旗担当職員、第18回オリンピック冬季競技長野大会大会組織委員会式典担当顧問を務め、東京パラリンピック(1964年)では組織委員会のメンバーとして大会運営を担当している。
中村 常次郎(なかむら つねじろう、1907年 - 1980… 中村 常次郎(なかむら つねじろう、1907年 - 1980年7月16日)は、日本の経営学者。東京大学名誉教授。 秋田県秋田市出身。東京帝国大学経済学部卒、1954年「経営経済学の展開」で東京大学より経済学博士の学位を取得。福島高等商業学校教授を務め、1949-1951年福島大学の初代学長、東京大学経済学部教授となり、1968年定年退官、名誉教授、中央大学教授、創価大学教授を務めた。
木村 雄吉(きむら ゆうきち、1904年4月17日 - 19… 木村 雄吉(きむら ゆうきち、1904年4月17日 - 1989年10月10日)は、日本の生化学者・科学哲学者、東京大学名誉教授。木村謹治の弟。 秋田県秋田市生まれ。山形高等学校を経て、1928年東京帝国大学理学部動物学科卒。大学では五島清太郎に師事、求道学舎で近角常観に師事する。医学部生化学教室で柿内三郎に教えを受け、1933年理化学研究所入所、1937年第二高等学校教授、1946年東京医科歯科大学教養部設立に参与。1949年東京大学教養学部教授。1956年伝染病研究所細胞化学研究部長。1965年定年退官。1974年勲三等瑞宝章受章。1989年10月10日、肺癌のため死去。
今田 敬一(こんだ けいいち、1896年11月8日 - 19… 今田 敬一(こんだ けいいち、1896年11月8日 - 1981年5月5日)は、日本の画家、童話作家、美術史家、林学者。北海道大学名誉教授。北海道大学では森林気象学関連の研究の他、新島善直の森林美学を継承したと評されている。 画家としては「道展」に創立当時から関わり、1974年には北海道美術協会会長もつとめ、北海道美術界の発展に寄与した。 秋田市で第二子(上に姉があり、長男)として生まれる。父の今田佐吉は養蚕指導者で、父の仕事の都合により1900年から札幌に定住した。北海道師範学校付属小学校(現・北海道教育大学附属札幌小学校)に入学し、水彩画好きな教員の影響を受けて、4-5年生の頃には父に買ってもらった画材により絵を描き始めた。
武藤 鉄城(むとう てつじょう、1896年(明治29年)4月… 武藤 鉄城(むとう てつじょう、1896年(明治29年)4月20日 - 1956年(昭和31年)8月30日)は、秋田県出身の日本の考古学者、民俗学者、スポーツ指導者。 秋田県河辺郡豊岩村(現・秋田市豊岩)に武藤喜市郎、シケの四男として生まれた。本名のテツジョウにはテツシロという四番目の意味が込められている。 秋田県立秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)に入学し、中学5年生の時に新潟県高田市(現・上越市)で開催された第1回全国スキー大会において急斜面競技と長距離競技で4位と6位に入賞している。中学校を卒業した後、慶應義塾大学部に進み、理財科(経済学部)に籍を置いたが、在籍5年で退学し、1920年(大正9年)に帰郷して兄の一郎の四ツ小屋付近の発掘の助手をした。
多田 等観(ただ とうかん、1890年(明治23年)7月1日… 多田 等観(ただ とうかん、1890年(明治23年)7月1日 - 1967年(昭和42年)2月18日)は、日本の僧侶、仏教学者。明治末から大正にかけてチベットに入り、チベット仏教を修行。日本への帰国に際して多数の仏典、文献を持ち帰り、斯界の学識経験者として活躍した。 南秋田郡土崎港町旭町(現在の秋田市土崎港)の西船寺の住職の3男として生まれる。家庭が6男2女の子だくさんであまり豊かではなかったため、小学校卒業時から檀家回りをして家計を助ける。秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)卒業後、勉学のため京都にのぼり西本願寺に入籍、法要を手伝うようになる。第二十二世法主の大谷光瑞にその才覚を認められ、ダライ・ラマ13世が派遣したチベットの高僧ら留学生3人の世話役と日本語教師を任される。
小場恒吉(おば つねきち、1878年〈明治11年〉1月25日… 小場恒吉(おば つねきち、1878年〈明治11年〉1月25日 - 1958年〈昭和33年〉5月29日)は、日本の紋様学者、美術史家、画家。東京美術学校および東京芸術大学で工芸史・紋様史を講じ、日本・中国・朝鮮の古美術に見られる紋様の比較研究と、高句麗古墳壁画や朝鮮古蹟の調査・模写に従事した。研究の一部をなす「日本紋様の研究」により、1950年(昭和25年)に恩賜賞を受賞した。 秋田藩主佐竹家の一族である小場家の分家にあたる小場新吾の長男として、秋田県秋田町亀ノ丁堀反町に生まれた。 13歳のとき、親戚の画人小室怡々斎(こむろ いいさい)に師事して狩野派の日本画を学んだ。上京後は、荒木寛畝に日本画を、岡本椿所に篆刻を学んだ。
小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1… 小田内 通敏(おだうち みちとし、1875年6月6日 - 1954年12月4日)は、日本の地理学者、教育者。 秋田県秋田市出身。1899年に高等師範学校の地理歴史科専修科を卒業し、早稲田中学校の教員となった。1914年に早稲田大学の講師に招かれ地理学を講義し、1925年には慶應義塾大学に招かれ地理学を講義した。戦後は国立音楽大学の教授となっている。 郷土会に参加し、1926年に人文地理学会を創設した。1930年には文部省の教育制度調査を嘱託され、尾高豊作らとともに郷土教育連盟を創設した。
井口 阿くり(いのくち あくり、1871年1月12日(明治3… 井口 阿くり(いのくち あくり、1871年1月12日(明治3年11月22日) - 1931年(昭和6年)3月26日)(通名:井口 あくり、本名:藤田 阿久利)は、日本の体育学者。女子体育の母・日本体育の母。 現在の秋田県秋田市南通亀の町出身。アメリカ留学後女子高等師範学校や日本体育会体操学校の教授を勤め、学校体育にスウェーデン体操を導入した。女子体育の先駆者で「日本女子体育の母」と呼ばれる。1911年(明治44年)藤田積造と結婚し藤田姓となる。 1871年1月12日(明治3年11月22日)、秋田久保田城下亀ノ町廓に住む父井口糺(タダス)、母ミヱの間に9人兄弟の四女として出生。糺は戊辰戦争において久保田藩を勤王に導いた傑士で、大正天皇即位のおり従五位を追贈されている。
小野崎 通亮(おのざき みちすけ / みちあき、天保4年2月… 小野崎 通亮(おのざき みちすけ / みちあき、天保4年2月29日〈1833年4月18日〉 - 1903年〈明治36年〉7月21日)は、幕末から明治期の久保田藩士、国学者、神職、政治家。貴族院勅選議員。通称・鉄蔵。雅号・琴廼屋、烟水、九春軒。 出羽国秋田郡久保田城下亀ノ丁新町(現秋田県秋田市)で、久保田藩士、郡奉行・小野崎通孝の長男として生まれる。平田篤胤と親交があり神道家であった父通孝から神道を伝えられ、吉川忠行の惟神館で和魂洋才を学び、文久3年(1863年)同志と雷風義塾を設立して講師に就任。慶応4年1月(1868年)藩校明徳館教授兼砲術頭となる。戊辰戦争では吉川忠安らと勤皇を主張して藩論を導き、遊撃隊参謀として秋田戦争に従軍した。