林 朝子(はやし ともこ、1986年10月15日 - )は、… 林 朝子(はやし ともこ、1986年10月15日 - )は、元東北放送のアナウンサー・心理カウンセラー。 福島県相馬市出身。仙台育英学園高等学校、上智大学外国語学部英語学科を経て2009年に東北放送に入社した。同期は大久保悠。 身長152cm。3人兄弟で弟と妹がいる。 大学時代にアメリカ・オハイオ州のザビエル大学に留学しており、英語は得意である。ロジャー大葉のラジオな気分のパーソナリティーを担当していた際には「朝子のJust a moment」という簡単な英会話のコーナーを持っていた。 2018年4月ブログで結婚したことを発表した。2019年9月に長女出産。 2021年5月末をもって東北放送を退職。
松崎 伸吾(まつざき しんご、1983年9月17日 - )は… 松崎 伸吾(まつざき しんご、1983年9月17日 - )は、福島県相馬市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 小学生時代に実兄の影響で少年野球チームに入ると、中学生時代には軟式野球部で本格的に投手を始めた。 中学校からの卒業後に、青森県の光星学院高等学校へ進学した。2年時の夏まで打撃投手を務めながら、外野手としてレギュラーの座を獲得すると、3年夏の第83回全国高等学校野球選手権大会では4番打者に起用。投手兼右翼手として、チームの準々決勝進出に貢献した(詳細後述)。 高校からの卒業後に進学した東北福祉大学では、1年時の秋からベンチ入りを果たすと、サイドスローの右投手である福田聡志と並んでエースとして活躍。
武者 由幸(むしゃ よしゆき、1983年9月2日 - )は、… 武者 由幸(むしゃ よしゆき、1983年9月2日 - )は、福島県相馬市出身の日本の陸上競技選手、陸上競技指導者である。トヨタ自動車、室蘭大谷高等学校陸上部コーチ、日本大学陸上競技部長距離部門コーチを経て、2016年4月に日本大学陸上競技部駅伝監督に就任した。 福島県立田村高等学校を卒業した。高校時代、インターハイの3000mSCにて優勝を果たした。 2002年に日本大学へ入学し、同大文理学部を卒業した。前監督の小川聡の教え子である。大学においても3000mSCなどで活動した。1年次から箱根駅伝に出場し4年連続出走した。4年次にはキャプテンを務め、全日本大学駅伝では14年ぶり2度目の優勝を果たした。
佐藤 賢治(さとう けんじ、1978年10月16日 - )は… 佐藤 賢治(さとう けんじ、1978年10月16日 - )は、日本の元プロボクサー。福島県相馬市出身。三迫ボクシングジム所属。入場曲はB.P.2011「DANCEHALL GANGSTA」。 佐野日大付属高校を退学後に編入した西武台千葉高校からボクシングを始め、その時代の日本一の日本大学に推薦をもらい、進学。1年から活躍しだし、2年から4年まで関東大学リーグ戦に全出場し、19勝(15KO)1敗。大学2年時全日本選手権で準優勝。3年4年とライトミドル級、ミドル級優勝と2連覇を果たす。 2000年シドニーオリンピック日本代表に選出されるが、アジア予選にて敗退。 大学卒業後、三迫会長とトレーナーの三谷大和からの誘いでプロ転向。
鈴木 尚広(すずき たかひろ、1978年4月27日 - )は… 鈴木 尚広(すずき たかひろ、1978年4月27日 - )は、福島県相馬市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ、野球解説者・YouTuber。愛称は「タカ」。 NPBにおける代走での通算盗塁数の日本記録保持者であり、現役時代は「代走のスペシャリスト」などと評された。 5歳頃から野球を始める。野球のセンスは人並だったが小学生の時から足は速かったという。中学では陸上部を兼部し、主に中距離を走る。この頃毎日30km近く走ったことで足腰が鍛えられた。相馬高校では野球部に入り遊撃手や控え投手を務めるが、甲子園出場はなく目立った活躍もなかった。1996年のドラフトで読売ジャイアンツから4位指名を受けて入団。
阿部 勝弘(あべ かつひろ、1972年6月14日 - )は、… 阿部 勝弘(あべ かつひろ、1972年6月14日 - )は、日本の政治家。福島県相馬市長(1期)。 相馬市出身。1995年3月、福島大学経済学部経済学科を卒業し、同年4月、相馬市役所に入庁した。2017年4月に企画政策課長、2018年4月に総務課長兼地域防災対策室長、2020年4月に企画政策部長、2021年4月には相馬市副市長にそれぞれ就任した。 2025年9月、相馬市副市長を辞任した。同年10月、当時の相馬市長だった立谷秀清が次期市長選挙への不出馬を表明した。同年12月の相馬市長選挙では無投票で初当選を果たした。 2026年1月19日、相馬市長に正式就任し、相馬市役所に初登庁した。
伊藤 博康(いとう ひろやす、1969年9月13日 - )は… 伊藤 博康(いとう ひろやす、1969年9月13日 - )は、福島県相馬市出身の元プロ野球選手(外野手)。 学法石川高時代は、2年夏、3年春の選抜と甲子園に出場。チームメイトに諸積兼司と作山和英がいた。 高校卒業後は、作山とともに東北福祉大学に進学。4年次は主将を務めて春に最多打点、最多本塁打、全日本大学野球選手権で初優勝する。秋はベストナイン。この年は日米大学野球でMVP。 1991年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから4位指名を受け入団。 ルーキーイヤーの1992年、緒方耕一、川相昌弘、ロイド・モスビー、原辰徳が故障によりスタメンから外れるという緊急事態に急遽一軍昇格で即1番ライトでスタメンに抜擢されると、5打席で二塁打2本2四球という鮮烈デビューを飾る。
作山 和英(さくやま かずひで、1969年6月4日 - )は… 作山 和英(さくやま かずひで、1969年6月4日 - )は、福島県相馬市出身の元プロ野球選手(投手)。 学法石川高では、2年生時の1986年に夏の甲子園に控え投手として出場。2回戦(初戦)で東洋大姫路高の長谷川滋利、島尾康史の継投に抑えられ敗退。この試合ではリリーフとして起用され甲子園初登板を果たす。翌1987年には春の選抜にも出場。1回戦で先発するが池田高に敗れる。高校同期に伊藤博康、諸積兼司がいた。 高校卒業後は、高校同期の伊藤とともに東北福祉大学に進学。仙台六大学野球リーグでは在学中7回優勝。1991年の全日本大学野球選手権大会では決勝で関大と対戦。延長17回の熱戦を制し優勝投手となる。
佐藤 深一郎(さとう しんいちろう、1965年3月25日 -… 佐藤 深一郎(さとう しんいちろう、1965年3月25日 - )は、日本の原子力技術者、プロジェクトマネージャ。日立GEニュークリア・エナジー代表取締役社長。 福島県相馬市出身。1987年茨城大学理学部物理学科卒業、日立製作所入社。専門はプロジェクトマネジメントで、原子力発電所の保守などに従事した。 2013年日立製作所原子力事業本部原子力予防保全技術部長。2015年日立製作所原子力事業本部担当本部長兼新規基準対応センタ長。2016年日立GEニュークリア・エナジーO&Mサービス技術本部長。2017年日立GEニュークリア・エナジーO&Mサービス技術本部長兼日立製作所原子力ビジネスユニットChief Lumada Officer。
龍授山 正男(りゅうじゅやま まさお、1961年6月12日 … 龍授山 正男(りゅうじゅやま まさお、1961年6月12日 - )は、福島県相馬市出身(生まれは神奈川県川崎市)で高砂部屋に所属した元大相撲力士。本名は渡辺 正男(わたなべ まさお)。182cm、145kg。最高位は東十両8枚目。得意技は右四つ、寄り。趣味はカメラ。 小学校5年生から東京都立砧工業高等学校まで柔道を習い、砧工業高校には飲食店でアルバイトをしながら通学していた。ある日、飲食店でアルバイトをしている時に、近所の相撲料理店を通じて訪ねて来た錦戸親方(元前頭・大田山)から勧誘されたので、高校を中途退学して高砂部屋へ入門した1979年5月場所に初土俵。幕下までは順調に出世したが、幕下ではなかなか幕下上位に進めず、十両に昇進するまで約7年の年月を要した。
荒 中(あら ただし、1954年4月21日 - )は、日本の… 荒 中(あら ただし、1954年4月21日 - )は、日本の弁護士。日本弁護士連合会会長、法務省検察官適格審査会委員。仙台弁護士会会長や、日本弁護士連合会副会長、日本弁護士連合会事務総長、最高検察庁参与等を歴任。 福島県相馬市生まれ。 1973年:福島県立相馬高等学校卒業。 1979年:東北大学法学部卒業。 1982年:弁護士登録、仙台弁護士会入会。 1995年:宮城県消費生活審議会委員。 1997年:仙台弁護士会副会長。 1999年:仙台市社会福祉協議会地域福祉権利擁護事業検討委員会委員長。 2000年:東北弁護士会連合会代表幹事。仙台市社会福祉協議会権利擁護相談センター連絡調整会議議長。 2001年:宮城県青少年問題協議会委員。
立谷 秀淸(たちや ひできよ、1951年(昭和26年)6月9… 立谷 秀淸(たちや ひできよ、1951年(昭和26年)6月9日 - )は、日本の医師、政治家。元福島県相馬市長(6期)。全国市長会会長(第30代)。元福島県議会議員(1期)。医療法人社団茶畑会 相馬中央病院理事長。 福島県相馬郡中村町(現・相馬市)出身。生家は味噌醤油醸造業を営んでいる。父は、相馬市議会議長を務めた立谷純一。高校は宮城県の宮城県仙台第一高等学校へ進み、福島県立医科大学に進学して内科学を学ぶ。 1977年に福島県立医科大学を卒業する際に医師免許を取得。公立気仙沼総合病院で初期研修を行い、東北大学医学部附属病院、公立相馬病院にて、内科の内勤医師として患者の診療に当たる。 1983年、相馬へ戻ると同時に立谷内科医院(有床診療所)を開業。
佐藤 哲夫(さとう てつお、1949年3月12日 - 202… 佐藤 哲夫(さとう てつお、1949年3月12日 - 2025年6月11日)は、日本の元男子バレーボール選手。1972年ミュンヘンオリンピックバレーボール男子金メダリスト。 福島県相馬市出身。現役当時は富士フイルムに所属していた。 息子は元・日本代表、元Bリーグプロバスケットボール選手の佐藤浩貴。 2025年6月11日に死去。76歳没。
河内 明夫(かわうち あきお、1948年10月6日[要出典]… 河内 明夫(かわうち あきお、1948年10月6日[要出典] - )は、日本の数学者。 大阪市立大学名誉教授。大阪市立大学(現大阪公立大学)数学研究所名誉所長。専門は位相幾何学で、特に結び目理論の研究者である。理学博士(大阪市立大学)(1977年)。福島県相馬市生まれ[要出典]。日本数学会。 相馬市立桜丘小学校、市立中村第一中学校を経て、1967年福島県立相馬高等学校を卒業し[要出典]、大学、大学院(修士課程、博士課程)の学歴は次のようになっている。1972年3月 上智大学理工学部数学科卒業、 1974年3月 神戸大学大学院理学研究科数学専攻修士課程修了、1977年3月 大阪市立大学大学院理学研究科数学専攻博士課程修了。
栃東 知頼(とちあずま ともより、1944年9月3日 - )… 栃東 知頼(とちあずま ともより、1944年9月3日 - )は、福島県相馬郡日立木村(現在の相馬市)出身(出生地は茨城県筑波郡)で春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は志賀 駿男(しが はやお)。最高位は東関脇(1970年3月場所)。現役時代の体格は178cm、115kg。得意手は左四つ、上手出し投げ、右四つ、寄り。 引退後は年寄・玉ノ井(13代)を襲名し、春日野部屋付きを経て玉ノ井部屋を創設した。次男・太祐は四股名栃東を譲り受けて大関まで昇進。現役引退後は年寄・栃東を襲名して父の下で部屋付き親方となった後、部屋を継承した。なお、日本相撲協会を定年退職した後は、玉ノ井部屋の師範代となった。 中学時代から野球部で活動し、原町工業高校進学後も野球部に在籍していたが、相撲部の顧問を兼任していた野球部の顧問に相撲の大会に助っ人として出場するように言われ、その大会で優勝すると、1960年秋に春日野部屋からスカウトされて高校を中退し入門する。
荒 憲一(あら けんいち、1939年1月3日 - 2020年… 荒 憲一(あら けんいち、1939年1月3日 - 2020年6月6日)は、日本出身のピアノ奏者。 福島県相馬市出身。東京芸術大学付属高校を経て東京芸術大学に進学し、田村宏と永井進にピアノを師事。1954年に全日本学生音楽コンクールの高校の部で第1位を獲得。 1963年、東京交響楽団との協演でデビュー。また、東京でデビューリサイタルの後に渡独し、国立ベルリン芸術大学に学びヘルムート・ロロフに師事。1966年にベルリン放送交響楽団と協演しドイツデビューを行ない、その成功によりベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との協演、ベルリン・フィルハーモニーホールにおけるリサイタルが続き、これらの演奏会はドイツの高名な批評家ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミットに認められ、高い評価を得て国際ピアニストとしての地位を確立した。
門馬 忠雄(もんま ただお、1938年6月27日 - )は日… 門馬 忠雄(もんま ただお、1938年6月27日 - )は日本のジャーナリスト、プロレス評論家。ニックネームは「ぼやき評論の第一人者」。 福島県相馬市出身。日本大学藝術学部卒業後の1962年、東京スポーツ新聞社に入社(「新日本プロレス12人の怪人」著者紹介より)。以降、プロレス記者として現場に関わり続け、記者時代には取材よりも取材先での飲み歩きに没頭していたことから「ドサ回りのモン」と呼ばれ、多い時には年間約200日も出張取材を行っていた。国際プロレスを主に担当し、国際プロレス所属レスラーやスタッフから「モンちゃん」のあだ名で親しまれた。1970年代には国際プロレス中継「国際プロレスアワー」の、また1980年代には「世界のプロレス」(ともにテレビ東京にて放映)の解説者も務めた。
南部 松夫(なんぶ まつお、1917年11月19日 - 20… 南部 松夫(なんぶ まつお、1917年11月19日 - 2009年8月21日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学・鉱物学。福島県相馬市生まれ。 1947年、東北帝国大学理学部岩石鉱物鉱床教室を卒業し、同大学選鉱精錬研究所(現、素材工学研究所)助手となる。1949年に講師、1953年に助教授、1955年 に東北大学理学博士 「Mineralogical study of limonite from Japan(日本産褐鉄鉱の鉱物学的研究) 」。 1962年に教授へと昇任し、1981年に停年退職。この間、1971年から1976年に同研究所所長。東北大学退職後は、東京理科大学の専任教授や監事にも就任した。
齋藤 邦吉(さいとう くにきち、1909年6月26日 - 1… 齋藤 邦吉(さいとう くにきち、1909年6月26日 - 1992年6月18日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。衆議院議員(12期)。 自民党内では宏池会に所属し、伊東正義、佐々木義武とともに「大平派三羽烏」と呼ばれた。また、厚生族の重鎮としても知られた。 福島県相馬郡中村町(現・相馬市)出身。相馬中学、一高、東京帝国大学法学部法律学科卒。内務省に入省。神奈川県属。その後は労働省に移り、労働事務次官等を務める。 1957年、福島県知事選に立候補するが落選する。1958年、第28回衆議院議員総選挙に旧福島3区から鈴木直人の後継者として立候補し、初当選(当選同期に竹下登・金丸信・安倍晋太郎・倉成正・谷川和穂など)。
柴田 武雄(しばた たけお、1904年(明治37年)2月20… 柴田 武雄(しばた たけお、1904年(明治37年)2月20日 - 1994年(平成6年)8月11日)は、日本の海軍軍人、宗教家。福島県相馬郡出身。海兵52期。最終階級は海軍大佐。 福島県相馬郡松ヶ枝原釜(現相馬市原釜)に生まれる。子供のころはひ弱で言語障害をもっていた。少年時代から作文と弁論は苦手であったという。小学校を6年と父の意思で高等科を2年経た後、相馬中学に100人中14番の成績で入学。柴田によれば中学時代は数学の神様と呼ばれ、中学1年の時に催眠術を覚え、中学4年の時に的中率100%の数理的占い法を発明したという。中学5年の1学期に予言的占師ドウシタイと1週間寝食を共にし奥義を伝授されたという。
鈴木 直人(すずき なおと、1900年(明治33年)5月19… 鈴木 直人(すずき なおと、1900年(明治33年)5月19日 - 1957年(昭和32年)9月20日)は、日本の内務官僚、政治家。熊本県知事(官選第35代)、参議院議員(1期)、衆議院議員(2期)。 福島県相馬郡磯部村(現相馬市蒲庭)で鈴木佳衛の二男として生まれた。 旧制相馬中学、水戸高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進み、1926年(大正15年)に同政治学科を卒業し、同年12月、高等試験行政科試験に合格した。東京市役所に入り、その後、内務省に転じ、警視庁警部、沖縄県特高課長、さらに山梨県、広島県の特高課長を歴任した。 その後、埼玉県、東京府の経済課長を経て、1939年(昭和14年)に石川県経済部長に昇進した。
佐藤 玄々(さとう げんげん、1888年〈明治21年〉8月1… 佐藤 玄々(さとう げんげん、1888年〈明治21年〉8月18日 - 1963年〈昭和38年〉9月14日)は、20世紀の日本で活躍した彫刻家。 福島県相馬郡中村町(現相馬市)出身、本名・清蔵。1888年宮彫り師の家に生まる。幼い頃から木彫の技術を学ぶ。1905年、17歳で「われ世界第一の彫刻家たらんと祈りき」と上京。翌年山崎朝雲に師事、1913年に朝山の号を貰い独立。30歳で結婚。大森にアトリエを構える。1914年日本美術院同人。院展に出品を続けた後、1922年(大正13年)官費留学により2年間フランスに渡り、アントワーヌ・ブールデルに師事する。 1935年(昭和10年)、帝国美術院の改革が行われると会員に選出されるが、翌1936年(昭和11年)年に示された平生改革案に反対して横山大観ら日本芸術院メンバーなどとともに会員を辞任する。
大須賀 乙字(おおすが おつじ、1881年7月29日 - 1… 大須賀 乙字(おおすが おつじ、1881年7月29日 - 1920年1月20日)は、日本の俳人・俳論家。福島県相馬郡中村町(現在の相馬市)生まれ。本名・績(いさお)。 祖父は儒学者の神林復所で父は漢学者で漢詩人の大須賀筠軒。福島尋常中学校(現在の福島県立安積高等学校)、宮城県第一中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)から第二高等学校(現在の東北大学)を経て東京帝国大学文科大学国文科卒業。卒業後は教員として中学、高等女学校で教えたのち、若くして東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の教授に就任した。東大卒で学者一族の家系という毛並みの良さと文才を評価され、早くから新傾向俳句の旗手として嘱望された。『海紅』の河東碧梧桐に師事、同じ旧制二高出身(ただし碧梧桐は中退)で才能も評価された乙字に対し碧梧桐の期待は高かったが、海紅堂事件に端を発する海紅同人同士の内部対立により1915年5月に離脱。
室原 重福(むろはら じゅうふく、1855年1月3日(安政元… 室原 重福(むろはら じゅうふく、1855年1月3日(安政元年11月15日)- 1934年(昭和9年)2月7日)は、明治期の日本の教員、翻訳家、政治家。衆議院議員。 陸奥国宇多郡中村(福島県相馬郡中村町を経て現相馬市)で生まれる。尺振八の塾(共立学舎)に入り英書を学び、同塾教師となる。同人社に転じ英学教員に就任。27歳で外務省翻訳局御用掛に転じ、条約改正事務を担った。1887年(明治20年)長崎県尋常中学校長に転出した。 1890年(明治23年)9月、立憲自由党に入党し、1897年(明治30年)河野広中の福島県下自由党の分党活動に反対し、目黒重真県会議長らと県下自由党組織の維持に貢献した。1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(福島県郡部、立憲政友会)で初当選し、1903年(明治36年)3月の第8回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
門馬 尚経(もんま たかつね、1851年(嘉永4年4月) -… 門馬 尚経(もんま たかつね、1851年(嘉永4年4月) - 1915年(大正4年)7月23日)は、明治から大正時代の政治家。実業家。自由民権運動家。衆議院議員。 陸奥国宇多郡玉野村(現相馬市)に生まれる。 1878年(明治11年)福島県第21区戸長兼学区取締在職中に公同社を創立し民権運動に関わる。翌年、県学務課に転任し、文部属普通学務局勤務を経て、1881年(明治14年)官職を辞した。 1888年(明治21年)東京専門学校卒業。在学中の1886年(明治19年)10月、福島県会議員補欠選挙に当選した。 学校卒業後直ちに両潤社員(国後硫黄礦事務長)となり、ついで佐賀県私立中学鎔造館教師兼幹事、同評議員を務めた。
陸奥守 吉行(むつのかみ よしゆき、1650年 - 1710… 陸奥守 吉行(むつのかみ よしゆき、1650年 - 1710年)は、陸奥国中村(現:福島県相馬市中村)、または摂津国住吉(現:大阪府大阪市住吉区)出身の刀工。本名は森下平助。土佐に移住したことから土佐吉行とも呼ばれる。 同じく刀工である播磨守吉成の次男で、上野守吉国の弟。山岡家の養子となり、のち父兄ともに大坂の刀工・初代大和守吉道に入門し、作刀を修行する。土佐藩の山岡家の養子となった際に山岡姓を名乗る。吉行は元禄年間に土佐藩に招聘され、同藩の鍛冶奉行となった。後に受領名として陸奥守を受領する。大坂にてその生涯を終えたとされている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。