柳町 魁耀(やなぎまち かいよう、2002年5月7日 - )… 柳町 魁耀(やなぎまち かいよう、2002年5月7日 - )は茨城県行方市出身のサッカー選手。J2リーグ・モンテディオ山形所属。ポジションはMF。 鹿島アントラーズのアカデミー出身。2018年のU-18プレミアリーグではイースト優勝を果たした。 2021年1月5日、2021年シーズンからの水戸ホーリーホック加入内定が発表された。 2024年2月8日、アスルクラロ沼津へ加入が発表された。6月8日のアウェイFC岐阜戦では自身のJリーグ初得点を記録した。 2025年12月14日、アスルクラロ沼津対レイラック滋賀のJ3/JFL入替戦第二戦において途中出場後の83分、滋賀の選手の脚に飛び蹴りをし悪質な乱暴行為と判定。
諸岡 世奈(もろおか せいな、1993年3月9日 - )は、… 諸岡 世奈(もろおか せいな、1993年3月9日 - )は、茨城県行方市出身の元ハンドボール選手。 東海大学時代は2013年の関東学生ハンドボール・春季リーグで特別賞を受賞し、全日本学生ハンドボール選手権大会(インカレ)では特別賞を受賞。 2014年は第22回世界学生選手権の日本代表U-24に選出。同年の秋季リーグでは優秀選手賞を受賞した。 2015年に日本ハンドボールリーグのソニーセミコンダクタへ加入。同年は第28回ユニバーシアード競技大会の日本代表に選出された。 2017-18年シーズン限りで現役を引退。
額賀 澪(ぬかが みお、1990年 - )は、日本の小説家。… 額賀 澪(ぬかが みお、1990年 - )は、日本の小説家。茨城県行方郡麻生町(現:行方市麻生)出身。東京都在住。 行方市立麻生第一中学校、清真学園高等学校、日本大学芸術学部文芸学科卒業。 はじめて小説を書いたのは10歳の頃。中学時代は吹奏楽部に所属していた。高校時代に第22回全国高等学校文芸コンクール小説部門で優秀賞を受賞。日本大学芸術学部在学中に「俺とマッ缶の行方」で第24回舟橋聖一顕彰青年文学賞を受賞する。 大学卒業後、広告代理店に勤務。会社員として働くかたわら、2015年に「ウインドノーツ」で第22回松本清張賞を、「ヒトリコ」で第16回小学館文庫小説賞を受賞。受賞作はそれぞれ『屋上のウインドノーツ』『ヒトリコ』として2015年6月26日に同時発売された。
信太 弘樹(しだ ひろき、1989年6月24日 - )は、茨… 信太 弘樹(しだ ひろき、1989年6月24日 - )は、茨城県行方市出身のハンドボール選手。日本ハンドボールリーグ(リーグH)のジークスター東京所属。 行方市立麻生中学校時代の2004年に第13回JOCジュニアオリンピックカップでオリンピック有望選手に選ばれた。 中学卒業後は茨城県立藤代紫水高等学校へ進学し、2005年に日本代表U-16に選出。 2006年は全国高等学校ハンドボール選抜大会で初優勝に貢献し、優秀選手賞を受賞。6月には第2回アジアユース選手権の日本代表U-19に選出され、8月には第10回アジア男子ジュニア選手権の日本代表U-21に選出。高校生での選出は信太と同じ藤代紫水高の1学年上である小室大地の2名だけだった。
小室 大地(こむろ だいち、1988年6月28日 - )は、… 小室 大地(こむろ だいち、1988年6月28日 - )は、茨城県行方市出身のハンドボール選手。日本ハンドボールリーグのジークスター東京所属。 2011年に日本ハンドボールリーグの大崎電気へ加入。 2014年の第19回ヒロシマ国際ハンドボール大会で日本代表に初選出された。 2014-15年シーズンはベストセブンに選ばれた。 2015年にはリオデジャネイロオリンピックアジア予選の日本代表に選出された。 2021年、ジークスター東京に移籍。
根﨑 裕子(ねさき ゆうこ、1982年2月8日 - )は、茨… 根﨑 裕子(ねさき ゆうこ、1982年2月8日 - )は、茨城県行方市出身の日本の柔道家。57 kg級で活躍した。身長166 cm。主に寝姿勢の状態から帯取返で相手を回転させて、そこから抑込技で仕留めるいわゆる「根﨑返し」という寝技で名を馳せた選手でもあった。 柔道は玉造中学に入学してから始めた。この時、指導者の小森哲から最初に習ったのが帯取返だった。3年の時には全国中学校柔道大会の56 kg級で3位になった。一方で、柔道以外に陸上競技にも取り組んで、全国中学校駅伝大会にも出場した。千葉県の市立柏高校に進むと、菊川慶一の指導の下で寝技をさらに研鑽していった。2年の時には金鷲旗で大活躍してチームの2位に貢献した。
根﨑 裕子(ねさき ゆうこ、1982年2月8日 - )は茨城… 根﨑 裕子(ねさき ゆうこ、1982年2月8日 - )は茨城県行方市出身の日本の柔道家。現役時代は57kg級の選手。身長166cm。主に寝姿勢の状態から帯取り返しで相手を回転させて、そこから抑込技で仕留める所謂「根﨑返し」からの寝技で名を馳せた選手でもあった。
小澤 英明(おざわ ひであき、1974年3月17日 - )は… 小澤 英明(おざわ ひであき、1974年3月17日 - )は、茨城県行方市(旧・行方郡北浦町)出身の元プロサッカー選手。ポジションはゴールキーパー(GK)。 北浦中学校2年生の時に全国中学校体育大会に出場した。水戸短大附属高校卒業後は地元の鹿島アントラーズに入団。古川昌明の前に出場機会に恵まれなかったが、1994年11月にJリーグ出場初出場。無失点勝利に貢献した。アトランタオリンピックに臨むU-23日本代表で監督を務める西野朗からは体格の良さや向上心を買われ、同代表候補の川口能活とポジションを争っていたが、椎間板ヘルニアの悪化により代表を辞退した。 1997年、腰の手術を勧める鹿島のスタッフと対立しシーズン途中に自主退団。
鈴木 周也(すずき しゅうや、1971年(昭和46年)9月1… 鈴木 周也(すずき しゅうや、1971年(昭和46年)9月14日 - )は、日本の政治家、実業家。元茨城県行方市長(3期)。 茨城県行方郡玉造町(現:行方市玉造)出身。玉造町立玉川小学校、玉造町立玉造中学校、茨城県立鉾田第一高等学校卒業。 1994年、東京農業大学生物産業学部食品科学科卒業。同年4月、全国共済農業協同組合連合会茨城県本部に入会。その後、野菜などを加工する食品加工業を営む実業家となる。 2011年2月、全国共済農業協同組合連合会茨城県本部を退職。同年4月の行方市議会議員選挙に立候補し、初当選。 2013年9月8日に行われた行方市長選挙に無所属で立候補。公明党の推薦を受けた現職の伊藤孝一を破り、初当選を果たした。
大川 隆(おおかわ たかし、1967年8月2日 - )は、茨… 大川 隆(おおかわ たかし、1967年8月2日 - )は、茨城県行方郡麻生町(現:行方市)出身 の元プロ野球選手(外野手、内野手、投手)。本名は「大川 隆哉」(読み方は「おおかわ りゅうさい」)。 銚子商業高では、3年次の1985年に同期の片平哲也と投の二本柱を組み、同年の夏の選手権に出場する。千葉県大会の決勝では、先発を務め7回を無失点で片平に繋いで市立柏高に圧勝した。本大会の1回戦では、片平が先発を務め、自身は1番・中堅手として出場、途中から救援登板したがこの大会で準優勝した宇部商業高の田上昌徳(新日本製鐵光)に抑えられ敗退した。 1985年のプロ野球ドラフト会議で横浜大洋ホエールズから投手として3位指名を受け入団する。
小林 光恵(こばやし みつえ、1960年〈昭和35年〉 - … 小林 光恵(こばやし みつえ、1960年〈昭和35年〉 - )は、茨城県行方市出身の作家。元看護師。 茨城県立鉾田第一高等学校在学中は地学部やチアリーダーで活動をしていた。1982年に東京警察病院看護専門学校卒業後、看護師、編集者などの経験を経て、著述業となる。 漫画『おたんこナース』の原案者として一躍脚光を浴び、その原作を自ら小説化した『ぼけナース』を3巻まで出している。また『ナースマン 新米看護士物語』は、日本テレビ系のテレビドラマ『ナースマン』(2002年)の原作になった。 最近は、看護エッセイ、看護と医療現場の評論から、女性とその生き方をテーマに小説も含めた幅広い著述へと仕事の芸域を広げつつある。
香川 京子(かがわ きょうこ、1931年〈昭和6年〉12月5… 香川 京子(かがわ きょうこ、1931年〈昭和6年〉12月5日 - )は、日本の女優。本名は、牧野 香子()。茨城県行方郡麻生町(現行方市)生まれ。東京都立第十高等女学校卒業。身長162 cm、体重45 kg。 茨城県行方郡麻生町(現・行方市)で生まれる。生まれてすぐに父親の仕事の都合で兵庫県の芦屋へ移る。 小学校に入る1年前に東京に戻るも、女学校に上がった1944年に空襲を避けるため、茨城県の下館に疎開。間もなく母親が麻生町に疎開したため、自らも麻生町に戻る。 女学校時代は勤労奉仕ばかりで、勉強することはあまりなかった。 1945年に東京に移り住む。 1949年に東京都立第十高等女学校を卒業。
大久保 留次郎(おおくぼ とめじろう、1887年(明治20年… 大久保 留次郎(おおくぼ とめじろう、1887年(明治20年)5月12日 - 1966年(昭和41年)11月19日)は、日本の内務及び台湾総督府官僚、政治家。第18代東京市長。衆議院議員(4期)。 茨城県行方郡吉川村(津澄村、北浦村、北浦町を経て現行方市吉川)で大久保佐吉の次男として生まれる。生家は農家。1913年(大正2年)東京高等師範学校(筑波大学の前身)地歴科卒業。高等文官試験に合格し、内務省に入省、警察畑を歩む。新橋、牛込、神楽坂各警察署長、警視庁特高課長、刑事部長、官房主事、台湾総督府警務局長を歴任。この間、堺利彦、徳田球一らが検挙された第1次共産党事件(1923年)、約1600人が検挙された三・一五事件(1928年)など、共産党員の大量検挙事件の指揮にあたる。
高柳 淳之助(たかやなぎ じゅんのすけ、1882年〈明治15… 高柳 淳之助(たかやなぎ じゅんのすけ、1882年〈明治15年〉10月16日 - 1964年〈昭和39年〉11月17日)は、日本の実業家、政治家、著述家、詐欺師。筆名に高柳 曲水(-きょくすい)、翠崖(-すいがい)、鬼外(-きがい)などがある。 実業家としては「鉄道に賭けた男」、「通販史上に輝く巨星」、「今でいう企業再生ファンドのような・・・」などと、その創造力や先見性が注目された。その一方で、蓄財書を出版して投資家を集めるなか池上電気鉄道事業で詐欺・横領などの容疑で逮捕され、「貯金魔」「虚業家」などと呼ばれた。 1882年(明治15年)、茨城県行方郡要村(現在の行方市小幡)に生まれる。同村の旧制要小学校(後の行方市立要小学校)を卒業し、茨城県立尋常中学校(旧制茨城県立水戸中学校→茨城県立水戸第一高等学校)に入学。
石橋 茂(いしばし しげる、1882年(明治15年)5月1日… 石橋 茂(いしばし しげる、1882年(明治15年)5月1日 - 1946年(昭和21年)9月15日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)。弁護士。 茨城県行方郡要村(現:行方市小幡)出身。茨城県立水戸中学校、第一高等学校を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。卒業後は貴族院事務局に勤務し、立教大学講師を務めた。1912年(明治45年)、水戸市に弁護士事務所を開業。その後、水戸市議会議員を務めた。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1917年(大正6年)、台北市に事務所を移し、台北弁護士会副会長、同会会長を歴任した。
河野 正義(こうの まさよし、1879年(明治12年)7月1… 河野 正義(こうの まさよし、1879年(明治12年)7月12日 - 1944年(昭和19年)11月18日)は、明治から昭和前期の著述家、実業家、政治家。衆議院議員、大日本国民中学会創立者。 茨城県行方郡、のちの武田村(北浦村、北浦町を経て現行方市)で、農業・河野清次の二男として生れた。小学校卒業後、家庭の事情で進学できず独学で学んだが、当時は適当な講義録がなかったため相当な困難を覚えていた。 1900(明治33年)に上京して出版社に勤務。商用で長野県から東北地方に向かい、秋田県のある寒村で一夜を酒屋で過ごした際に、隣の部屋で高等小学校卒の少年たちが中学講義録で独習をしていたが「此の講義録は非常に六ケ敷くて到底自分等には解しかねる。
高崎 三重郎(たかさき さんじゅうろう、1877年〈明治10… 高崎 三重郎(たかさき さんじゅうろう、1877年〈明治10年〉9月4日 - 1958年〈昭和33年〉11月11日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 茨城県行方郡、のちの麻生町(現行方市)出身。高崎新蔵の長男として生まれ、1894年(明治27年)7月に祖父三郎右衛門の後を受け家督を相続する。農業を営む。 麻生町会議員、行方郡会議員、同郡教育会副会長、麻生町労務委員、茨城県農工銀行監査役、佐原興業銀行取締役を歴任した。 1911年(明治44年)には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで1期務めた。
五十野 譲(讓、いその ゆずる、1864年5月15日(元治元… 五十野 譲(讓、いその ゆずる、1864年5月15日(元治元年4月10日)- 1912年(明治45年)1月1日)は、明治期の酒造家・政治家。衆議院議員。 常陸国行方郡次木村(新治県行方郡次木村、茨城県行方郡次木村、武田村次木、北浦村次木、北浦町を経て現行方市次木)で酒造家の家に生まれた。漢学を修めた。幼くして父を失い家業を継承した。 武田村会議員に就任。1892年(明治25年)自由党に所属して茨城県会議員に選出され、1895年(明治28年)まで在任した。 1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(茨城県第1区、憲政党)で当選し、衆議院議員に1期在任。1904年(明治37年)3月、第9回総選挙(茨城県郡部、立憲政友会)では落選した
佐藤 志津(さとう しづ、1852年1月7日(嘉永4年12月… 佐藤 志津(さとう しづ、1852年1月7日(嘉永4年12月16日) - 1919年(大正8年)3月17日)は、私立女子美術学校(現女子美術大学)第2代校長。 志津は1851年(嘉永4年)、常陸国行方郡麻生(現茨城県行方市)の医師山口舜海の長女として誕生した。1853年(嘉永6年)父舜海が佐倉藩御典医で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」堂主佐藤泰然の養子となり佐藤尚中と名を改めると、志津を含め一家全員も佐藤家に入った。志津は義叔父(養祖父泰然の子)董(ただす、後に林家の養子になる)と1歳違いであったことから、董と共に漢籍を佐倉藩儒者岡本道庵に、国学を浜野末束に学んだ。 1859年(安政6年)、母方の叔母の嫁ぎ先である水戸の商家(酒造)藤枝富右衛門の家に預けられ、水戸藩武術指南役より穴沢流薙刀を習い、点茶・琴・手芸・礼儀作法を修めた。