柄本 明(えもと あきら、1948年11月3日 - )は、日… 柄本 明(えもと あきら、1948年11月3日 - )は、日本の俳優、演出家、タレント。愛称は、えもっちゃん、エモアキ。 ノックアウト所属。 東京都中央区銀座(旧:木挽町)出身。東京都立王子工業高等学校機械科卒業。妻は角替和枝、息子は柄本佑、柄本時生。義娘は安藤サクラ(佑の妻)、ほな・いこか(さとうほなみ、時生の妻)。 父親は殿山泰司の小学生時代の親友であった。母方の祖父は東京・銀座で箱屋(芸妓斡旋業)を経営していた。生家が歌舞伎座の裏手にあったこと、映画や演劇好きの両親・家族に囲まれて幼少期を過ごしたことが俳優を志すきっかけとなる。工業高校卒業後は商社に就職したが、俳優に憧れ金子信雄が主宰する劇団「マールイ」の演劇教室の生徒となり、同じ教室にいた松田優作と知り合う。
青島 幸男(あおしま ゆきお、1932年〈昭和7年〉7月17… 青島 幸男(あおしま ゆきお、1932年〈昭和7年〉7月17日 - 2006年〈平成18年〉12月20日)は、日本の政治家、小説家、作詞家、タレント、テレビ司会者、俳優、放送作家、映画監督、歌手。位階は正四位。 参議院議員(5期)、第二院クラブ代表(初代・第5代)、東京都知事(第13代)等を歴任した。 テレビ業界で当初は放送作家として成功し、高度成長期を歌った「スーダラ節」を作詞する。クレージーキャッツ主演の映画はもとより、『若大将シリーズ』などでも映画の主題歌を作詞した。主演したドラマ『いじわるばあさん』では国民的キャラクターとして定着し、小説を執筆すれば処女作『人間万事塞翁が丙午』が直木賞を受賞するなど、多才の人として知られ、「超マルチタレント」と呼ばれた。
鈴木 清順(すずき せいじゅん、1923年〈大正12年〉5月… 鈴木 清順(すずき せいじゅん、1923年〈大正12年〉5月24日 - 2017年〈平成29年〉2月13日)は、日本の映画監督・俳優。本名:鈴木 清太郎(すずき せいたろう)。弟に元NHKアナウンサーの鈴木健二がいる。 日活の専属監督として小林旭、高橋英樹、宍戸錠ら当時の日活の主力俳優の主演作品を多く手がけ、その「清順美学」と評される独特の映像表現で名を馳せた。特に宍戸錠主演の『殺しの烙印』は一般映画のみならずカルト映画としても世界的な評価が高い。一方でその実験的とも言える作風が当時の日活の経営陣の不興を買い会社を追われるなど、境遇は波乱に富んでおり、映画作家として約10年間の空白期間がある(「鈴木清順問題共闘会議」参照)。
桂 章太郎(かつら しょうたろう、1914年5月8日 - 1… 桂 章太郎(かつら しょうたろう、1914年5月8日 - 1935年5月13日)は、日本の俳優である。本名松田 秀雄(まつだ ひでお)。日本映画データベースにおける「柱章太郎」は、単純な誤記である。満18歳で映画主演して以降、サイレント末期の剣戟映画における青年スターであったが、満21歳で戦死した。 1914年(大正3年)5月8日、東京府東京市京橋区八丁堀(現在の東京都中央区八丁堀)に生まれる。 1926年(大正15年)3月、旧制小学校を卒業し、同年4月、旧制・日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)に進学したが、満15歳になる1929年(昭和4年)、同校を中途退学して京都に移り、等持院の東亜キネマ京都撮影所に入社する。
加賀 邦男(かが くにお、1913年2月9日 - 2002年… 加賀 邦男(かが くにお、1913年2月9日 - 2002年1月7日)は、日本の俳優。本名は亀山 邦雄(かめやま くにお)。 次男の亀山達也、三男の志賀勝も俳優として活動した。 東京府東京市日本橋区人形町(東京都中央区日本橋人形町)出身。慶應義塾普通部中退後、浅草の劇場・昭和座での役者修業を経て、1930年にスカウトで映画界入り。「舟波 邦之介」の芸名で新興キネマ京都撮影所『仇討太夫桜』でデビュー。時代劇の二枚目として活動した。「舟波 邦之佑」への改名を経て、1939年に「加賀 邦男」に改名。1940年に新興の東京撮影所に転籍し、現代劇を演じるようになる。後身の大映に所属したのち、終戦直前に退社。
岸井 明(きしい あきら、1910年10月13日 - 196… 岸井 明(きしい あきら、1910年10月13日 - 1965年7月3日)は日本のコメディアン、俳優、歌手。
北 竜二(きた りゅうじ、1905年1月1日 - 1972年… 北 竜二(きた りゅうじ、1905年1月1日 - 1972年4月16日)は、日本の俳優、脚本家。本名:山田 東吾 。東京府東京市京橋区出身。 東京市京橋区生まれ。三光尋常小學校卒業。1922年、早稲田大学文学部に入学するも2年で中退。日活封切館・新宿帝都座の次席弁士として無声映画末期の説明界で存在感を示した。弁士時代の名前は山田無声。その後、松竹大船撮影所脚本部に所属したのち、1937年に日活多摩川撮影所に俳優として入社。 1937年の映画『限りなき前進』でデビューするや、注目され始め、助演俳優として活躍 。1942年に統合で大映東京に移籍。1948年にフリーとなって、1950年に松竹大船に所属、重厚な雰囲気から、主に校長や重役、父親役で数多くの映画に出演。
石川 秀道(いしかわ しゅうどう、1902年〈明治35年〉2… 石川 秀道(いしかわ しゅうどう、1902年〈明治35年〉2月17日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。芸名の読みは「いしかわ ひでみち」と表記されることもある。本名は石川 秀道(いしかわ ひでみち)。新派の井上正夫門下を経て映画界に転向、島津保次郎の撮影助手および助監督を経て俳優となり、東亜キネマ甲陽・等持院撮影所の現代劇で主役を張り、トーキー以降は時代劇に転じた。 1902年(明治35年)2月17日、東京市日本橋区久松町(現在の東京都中央区日本橋久松町)の米穀商「三州屋」の三男として生まれる。1909年(明治42年)に家業が思わしくなく養子に出されるが、その後養子先を逃亡、1918年(大正7年)、16歳のときに映画界の道を志して井上正夫門下に入る。
小川 隆(おがわ たかし、1891年10月21日 - 没年不… 小川 隆(おがわ たかし、1891年10月21日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名小川 義照(おがわ よしてる)、戦後の一時期、老川 健(おいかわ けん)とも名乗った。 1891年(明治24年)10月21日、東京府東京市日本橋区馬喰町(現在の東京都中央区日本橋馬喰町)に生まれる。 獣医学校に進学、同学を卒業したが、琵琶の教師になる。島村抱月による芸術演劇学校に入学、抱月らが1913年(大正2年)に設立した「第一次芸術座」に入団して創立メンバーとなり、同年、帝国劇場で上演された『サロメ』で初舞台を踏んだ。1917年(大正6年)に同劇団を脱退した澤田正二郎らが結成した「新国劇」、中田正造の「新声劇」を経て、自らの名を冠した「小川隆一座」を結成した。
梅島 昇(うめじま のぼる、1887年5月5日 - 1943… 梅島 昇(うめじま のぼる、1887年5月5日 - 1943年9月24日)は明治から昭和初期に活躍した、新派劇の二枚目俳優。本名、福島 卯三郎(ふくしま うさぶろう)。代表的な当たり役として「婦系図」早瀬主税、「金色夜叉」間貫一、「不如帰」川島武男、「滝の白糸」村越欣弥がある。 1887年、東京市日本橋区本船町に生まれる。慶応義塾普通部3年を経て東京薬学専門学校に入学するも中退。1910年、菊池武成門下で新派俳優となる。翌1911年、川上音二郎に師事し御伽芝居「浮かれ胡弓」で初舞台。同年、川上が死去し、最後の弟子となる。1912年に高田実の門下となる。さらに水野好美一座に移り、梅島昇を名のり二枚目として認められる。
河合武雄(かわい たけお、1877年(明治10年)3月13日… 河合武雄(かわい たけお、1877年(明治10年)3月13日 - 1942年(昭和17年)3月21日)は、明治中期から昭和初期にかけて活躍した、新派の女形俳優。大正期には、伊井蓉峰・喜多村緑郎とともに、三頭目と言われた。 本名は河合武次郎。歌舞伎役者三代目大谷馬十の次男として、東京府京橋(現・東京都中央区京橋)に生まれた。 下積み役者の苦労を知る馬十は武次郎が俳優になりたがるのを嫌い奉公に出したが、子は1893年(明治26年)、父に隠れて山口定雄一座の横浜蔦座で初舞台を踏み、四代目沢村源之助のもとで歌舞伎も修めた。容貌と声柄に恵まれ、1897年には山口の相手役に進んだ。 山口座長も元は歌舞伎の女形で、従って河合は、自由民権の壮士芝居とは違う、歌舞伎風の演技をした。
伊井 蓉峰(いい ようほう、本名・伊井 申三郎、明治4年8月… 伊井 蓉峰(いい ようほう、本名・伊井 申三郎、明治4年8月16日(1871年9月30日) - 昭和7年(1932年)8月15日)は、発足間もない新派劇で活躍した俳優。 東京日本橋呉服町(現・中央区)に写真家の北庭筑波の息子として生れる。実家は呉服町の油問屋で、父の北庭は浅草花屋敷で写真館を開いていた。祖父は浄瑠璃宮薗節の2代目宮薗千寿ともいわれる。医学予備校独逸協会などに学び、父の没後は神戸の三井銀行に勤務した。 当時、川上音二郎の「書生芝居」が人気を得ていることに興味を持ち、明治24年(1891年)、「川上一座」に俳優として参加した。間もなく、傲慢だった川上と袂を分かち、芸術的写実的な演劇を目指し、11月、依田学海の援助で浅草の吾妻座を本拠に男女合同改良演劇「済美館」を興した。