小菅 淳一(こすげ じゅんいち、1952年2月28日 - )… 小菅 淳一(こすげ じゅんいち、1952年2月28日 - )は、日本の外交官、政治家。2011年(平成23年)4月からヨルダン駐箚特命全権大使。2014年(平成26年)10月からハンガリー駐箚特命全権大使。上越市長(1期)。 新潟県上越市出身。新潟県立高田高等学校を経て、東京大学法学部在学中の1975年(昭和50年)11月に外務公務員採用上級試験に合格。1976年(昭和51年)東大を卒業して外務省に入省した。経済協力開発機構(OECD)東京センター所長などを経て、2004年(平成16年)フランクフルト総領事。アフガニスタン大使を経て、2008年(平成20年)4月、ミュンヘン総領事。 2011年(平成23年)4月からヨルダン駐箚特命全権大使。
高沢 寅男(たかざわ とらお、1926年〈大正15年〉10月… 高沢 寅男(たかざわ とらお、1926年〈大正15年〉10月27日 - 1999年〈平成11年〉8月5日)は、日本の政治家。元日本社会党衆議院議員(7期)。 新潟県上越市出身。陸軍予科士官学校で久保亘、伊藤茂、奥田敬和らと同期。東京大学経済学部に入学。日本共産党国際派の活動家として学生運動に参加、都学連委員長などを務める。当時の同志に不破哲三、上田耕一郎、安東仁兵衛、武井昭夫らがいた。 1954年3月、東京大学経済学部を卒業。同年4月、日本社会党書記局に入る。1966年に非議員の中央執行委員に昇格し、教育宣伝局長、総務局長などを歴任する。 1972年12月の第33回衆議院議員総選挙に旧東京5区から社会党公認で立候補し初当選した。
板倉 治作(いたくら じさく、1907年(明治40年)7月4… 板倉 治作(いたくら じさく、1907年(明治40年)7月4日 - 1964年(昭和39年)9月14日)は、日本の教員、実業家、政治家。衆議院議員。 新潟県中頸城郡上杉村(現上越市)で生まれる。1927年、高田師範学校を卒業し、新潟市湊小学校、三島郡日越小学校の訓導を務めた。 その後上京して、日本橋で三京堂(カーボン卸製造業)を経営した。戦災を受けて帰郷し農業を経営した。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に新潟県第二区から日本自由党公認で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
佐藤 策次(さとう さくじ、1905年〈明治38年〉12月1… 佐藤 策次(さとう さくじ、1905年〈明治38年〉12月1日 - 1997年〈平成9年〉4月15日)は、日本の政治家。新潟県直江津市(現・上越市)長(3期)。 新潟県中頸城郡直江津町(のち直江津市、現・上越市)出身。東京高等師範学校臨時教員養成所卒。1925年(大正14年)北海道立室蘭中学校に赴任した。その後、旧制新潟県立高田中学校(現新潟県立高田高等学校)の教諭と教頭を務める。戦後、新制直江津町立直江津中学校(のち直江津市立直江津中学校、現上越市立直江津中学校)校長となる。1962年(昭和37年)直江津市長に当選。同年7月に就任した。高田市と合併するまで市長を3期務めた。在職中、高田市との合併が起こり、合併の方向で話を進め、1971年(昭和46年)に上越市が発足した。
塚田 十一郎(つかだ じゅういちろう、1904年〈明治37年… 塚田 十一郎(つかだ じゅういちろう、1904年〈明治37年〉2月9日 - 1997年〈平成9年〉5月23日)は、日本の弁護士、税理士、政治家。位階は正三位。 参議院議員(3期)、衆議院議員(8期)、郵政大臣(第5代)、新潟県知事(公選第5・6代)などを歴任。 新潟県中頸城郡春日村(現在の新潟県上越市)出身。農業・塚田亀之助の六男。旧制新潟県立高田中学校(現在の同県立高田高等学校)、大連中学校を経て1928年(昭和3年)、東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業。高等文官試験行政科、司法科に各合格。 昭和金融恐慌後の不況により就職活動は難航、やがて伝をたどって小橋一太(元文部大臣)の居候兼書生となる。
川澄 農治(かわすみ のうじ、1896年(明治29年)1月2… 川澄 農治(かわすみ のうじ、1896年(明治29年)1月22日 - 1992年(平成4年)1月23日)は、日本の政治家。新潟県高田市長(2期)、直江津市長(1期)。 新潟県中頸城郡大倉村(のち和田村→高田市、現・上越市)大字石沢(旧石沢村)に生まれる。1914年、矢代川改修工事書記、1917年、和田村書記、1922年、西頸城郡書記、1924年、中頸城郡書記となったが、1926年の郡役所廃止により新潟県属となり、地方課勤務になる。1928年に退職し、高田市役所に入り、書記となった。1936年、庶務課長、1944年、助役となり、1946年、川上大造市長の辞職により5ヶ月間市長代理を務めた。 1947年、直江津町長選挙に立候補して当選、1951年に再選され、1954年の直江津市制施行に伴い、市長に就任した。
大竹 謙治(おおたけ けんじ、1878年〈明治11年〉11月… 大竹 謙治(おおたけ けんじ、1878年〈明治11年〉11月12日 - 1956年〈昭和31年〉12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県頸城郡(のちの中頸城郡)大瀁村(現・上越市頸城区)出身。東京高等商業学校で学ぶ。中頸城郡議、同参事会員、頸城鉄道、頸城倉庫各(株)社長、(財)高田病院理事長となる。 1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙において新潟12区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において新潟4区から立候補したが次点で落選した。1956年に死去した。
川合 直次(かわい なおじ、1874年(明治7年)2月21日… 川合 直次(かわい なおじ、1874年(明治7年)2月21日 - 1938年(昭和13年)8月4日)は、衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→立憲民政党)、新潟県高田市長。 新潟県頸城郡直江津町出身。1899年(明治32年)、中頸城郡会議員に選ばれ、1903年(明治36年)には新潟県会議員に選ばれた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第12回衆議院議員総選挙でも再選された。 1924年(大正13年)、高田市長に選出され、1936年(昭和11年)に辞職するまで3期務めた。在職中は上下水道の整備に尽力した。 市長退任後、第19回衆議院議員総選挙(新潟県第4区)に出馬し、当選。
鈴木 義隆(すずき よしたか、1869年7月2日(明治2年5… 鈴木 義隆(すずき よしたか、1869年7月2日(明治2年5月23日)- 1944年(昭和19年)12月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 越後国頸城郡、のちの新潟県中頸城郡代石村(大出口村、吉川村、吉川町代石を経て現上越市吉川区代石)で、政治家鈴木昌司の長男として生まれる。私塾で学ぶ。日清、日露の両戦役に参加。自由通信社取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において新潟12区から立憲政友会公認で立候補して初当選。1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補したが落選。1930年の第17回衆議院議員総選挙では新潟4区から立憲政友会公認で立候補したが落選。
丸山 豊治郎(まるやま とよじろう、慶応4年1月27日(18… 丸山 豊治郎(まるやま とよじろう、慶応4年1月27日(1868年2月20日) - 昭和8年(1933年)7月18日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。親戚は衆議院議員 大滝伝十郎、貴族院議員 大竹貫一。 越後国頸城郡武士村(現在の新潟県上越市)出身。慶應義塾に入学するが、徴兵により歩兵第16連隊に配属された。除隊後も日清戦争の際には補充員召集により従軍した。 その後、菅原村長、中頸城郡会議員、同参事会員を歴任した。また「高田日報」を創刊し、社長に就任した。 1912年、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で3期務めた。
富永 孝太郎(とみなが こうたろう、1867年1月18日(慶… 富永 孝太郎(とみなが こうたろう、1867年1月18日(慶応2年12月13日)- 1945年(昭和20年)10月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 越後国頸城郡、のちの新潟県中頸城郡美守村(三和村を経て現上越市)出身。東京英和学校で学ぶ。アメリカに渡り、イリノイ大学で学ぶ。帰国後、新潟地方森林会議員、中頸城郡農会長、新潟県農友会長、美守村議、同村長、産業組合中央会監事、同新潟支会長、至誠信用組合長、県信用組合連合会会長、百三十九銀行、新潟貯蓄銀行各取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において新潟12区から立憲国民党公認で立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙では革新倶楽部公認で立候補して再選した。
大滝 伝十郎(旧字体: 大瀧 傳十郞、おおたき でんじゅうろ… 大滝 伝十郎(旧字体: 大瀧 傳十郞、おおたき でんじゅうろう、1861年8月1日(文久元年6月25日)- 1944年(昭和19年)11月15日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県会議長。長男の岳母は衆議院議員 牧口義矩姉。四男は衆議院議員 丸山豊治郎 弟笠原謙治郞養子。 越後国頸城郡梶村(新潟県中頸城郡梶村、旭村、吉川町梶を経て現上越市吉川区梶)で、素封家・大滝甚十郎の二男として生まれた。儒者に師事して漢学を修めた。1883年(明治16年)12月、家督を相続した。 1886年(明治19年)梶村外23カ村戸長に就任。1889年(明治22年)町村制施行により旭村会議員に就任した。
高橋 文質(たかはし ぶんしち、1859年4月9日(安政6年… 高橋 文質(たかはし ぶんしち、1859年4月9日(安政6年3月7日) - 1915年(大正4年)5月29日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党)。 越後国頸城郡板倉村(現在の新潟県上越市)出身。板倉村会議員、中頸城郡会議員、新潟県会議員、同参事会員を歴任した。1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、立憲改進党系の高田新聞社社長を務め、上越電気株式会社取締役に選ばれた。
倉石 源造(くらいし げんぞう、1856年4月6日〈安政3年… 倉石 源造(くらいし げんぞう、1856年4月6日〈安政3年3月2日〉 - 1921年〈大正10年〉5月13日)は、日本の政治家。新潟県高田市長。 越後国頸城郡高田城下中小町に生まれる。漢学を修め、柏崎県立学校に入学したが、父の死により退学した。のち神奈川県の小学校の教員となったが、短期間で辞め、逓信属となった。その後、帰郷し洋品店を開き、1895年に家督を相続、同年行われた高田町会議員選挙に立候補して当選する。翌1896年に高田町長に就任、1908年まで務めた。この間、高田町外七ヶ村組合立高等小学校組合長、高田町尚武会長、高田町外四ヶ村組合立高田高等小学校組合長を歴任し、師範学校(高田師範学校)の設置、第十三師団に誘致に尽力した。
中川 源造(なかがわ げんぞう、安政2年3月4日(1855年… 中川 源造(なかがわ げんぞう、安政2年3月4日(1855年4月20日) - 明治40年(1907年)4月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(憲政本党)、新潟県高田町長。 越後国高田横春日町(現在の新潟県上越市)に中川源蔵の子として生まれる。東京に遊学の後、第8大区用掛を務めた。1880年(明治13年)、県会議員に当選し、また中頸城郡総町村組合会議員・議長となり、信越鉄道の建設に尽力した。1882年(明治15年)、室孝次郎とともに上越立憲改進党を結成し、翌年に高田新聞を創刊した。 1889年(明治22年)から翌年にかけて高田町長を務め、1893年(明治26年)に再選されて1896年(明治29年)まで在職した。
本山 健治(もとやま けんじ、1848年(嘉永元年3月) -… 本山 健治(もとやま けんじ、1848年(嘉永元年3月) - 1919年(大正8年)3月14日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(2期)。旧姓・野口。 越後国頸城郡、のちの新潟県中頸城郡津有村の野口家に生まれ、幼くして東頸城郡菖蒲村(元保倉村、大島村字菖蒲を経て現上越市)の本山家の養子となる。十一大区副長、村会議員を経て、1879年(明治12年)新潟県会議員に当選。1882年(明治15年)病を理由に議員を辞すが、1884年(明治17年)県議に返り咲く。翌年再び県議を辞し実業界に入り、新潟農工銀行監査役などを務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では新潟県第7区から出馬し当選。
鈴木 昌司(すずき しょうじ、1841年11月1日(天保12… 鈴木 昌司(すずき しょうじ、1841年11月1日(天保12年9月18日)- 1895年(明治28年)4月30日)は、明治期の政治家。衆議院議員、新潟県会議長。幼名・保逸郎(ほいちろう)、号・竹外。 越後国頸城郡、のちの新潟県中頸城郡代石村(大出口村、吉川村代石、吉川町代石を経て現上越市吉川区代石)で、庄屋・鈴木三郎右衛門の長男として生まれる。同村の高島道隆に師事し漢学を修めた。 父の死去により家督を相続し戸長、副大区長を務めた。地租改正反対運動に加わった。1877年(明治10年)八木原繁祉らと高田町(現上越市)士族らを中心に新潟県初の民権結社・明十社を結成した。1879年(明治12年)府県会規則による新潟県会が開設され、初の県会議員に当選。
室 孝次郎(むろ こうじろう、天保10年9月14日(1839… 室 孝次郎(むろ こうじろう、天保10年9月14日(1839年10月20日) - 明治36年(1903年)6月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党)、愛媛県知事。名は方義、字は子成、号は桜蔭。 越後国高田本誓寺町(現在の新潟県上越市)の商人市郎右衛門の長男として生まれる。倉石侗窩の私塾・文武済美堂に学ぶ。塾生には前島密がいた。慶応2年(1866年)、京都に上って勤王の志士たちと交わった。戊辰戦争中の明治元年(1868年)7月、新政府軍が高田城下に入ると、新政府軍に入り北陸道官軍御用掛を務め、さらに親兵隊の方義隊(後に居之隊)を組織し戦闘に参加した。 明治3年(1870年)には高田藩の民政属吏聴訟断獄掛、ついで藩校修道館助教授を務めた。
笠原 克太郎(かさはら こくたろう、1838年(天保9年11… 笠原 克太郎(かさはら こくたろう、1838年(天保9年11月) - 1898年(明治31年)11月7日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 越後国頸城郡潟町村(のち新潟県中頸城郡潟町村→大潟町、現・上越市)生まれ。農業を営み、郷長、第七大区長、新潟県会議員、第百三十九国立銀行取締役となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において新潟8区から立憲自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙で憲政党から立候補して落選した。落選から間もない11月に死去した。
前島 密(まえじま ひそか、1835年2月4日〈天保6年1月… 前島 密(まえじま ひそか、1835年2月4日〈天保6年1月7日〉- 1919年〈大正8年〉4月27日)は、日本の官僚、政治家、教育者。位階勲等爵位は正二位勲二等男爵。本姓は上野。幼名は房吾郎。名(諱)は巻退蔵、密。通称は来輔。号は如々山翁鴻爪。 越後国出身。日本の近代郵便制度の主要な創設者の一人であり「日本近代郵便の父」と呼ばれ、大蔵省駅逓頭(後の郵政大臣・現総務大臣)、逓信省次官を務めた。今も使われる「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めたほか、1円切手の肖像で知られる。また、東京専門学校及び早稲田大学の建学に深く関わり、早稲田大学第2代校長を務め、校賓の名誉を受けている。早稲田大学正門横にある「早稲田大学教旨」の碑文は、前島密が1915年(大正4年)に揮毫した自筆が元であり、原本は大学に保存されている。
北岡 文兵衛(きたおか ぶんべえ、天保14年1月1日/グレゴ… 北岡 文兵衛(きたおか ぶんべえ、天保14年1月1日/グレゴリオ暦 1843年1月30日 - 1923年4月3日)は、日本の実業家、政治家である。士族。日本銀行監事、鐘淵紡績会社取締役、日本運輸取締役会長、総武鉄道取締役、千代田銀行頭取、天然色活動写真監査役、旭証券頭取、衆議院議員(1期)を歴任。勝海舟と交流があったことで知られる。 1843年1月30日(天保14年1月1日)、越後高田藩(現在の新潟県上越市)に同藩士・平山彦右衛門の次男として生まれる。1870年(明治3年)、北岡よし子の養子に入り、北岡姓を名乗り、三井八郎右衛門の名代だった先代「文兵衛」の名を継いで家督を相続、自らも三井家に勤めるようになり、才覚を認められる。