山根 楓(やまね かえで、1996年8月1日 - )は、広島… 山根 楓(やまね かえで、1996年8月1日 - )は、広島県安芸高田市出身の元ハンドボール選手。 四天王寺高等学校時代は2014年に全国高等学校ハンドボール選抜大会で優秀選手に選出。 高校卒業後は東京女子体育大学へ進学。2018年の全日本学生ハンドボール選手権大会(インカレ)では特別賞を受賞した。 2019年1月に日本ハンドボールリーグの広島メイプルレッズへ加入。背番号は「4」。 2019-20年シーズンから背番号を「26」へ変更。 2021-22年シーズン限りで現役を引退。
川﨑 真澄(かわさき ますみ、1986年5月14日 - )は… 川﨑 真澄(かわさき ますみ、1986年5月14日 - )は、日本の鍼灸師。学士(鍼灸学)を有し、医薬品登録販売者、温活指導士としても活動している。 グラン治療院東京院長を務める。一般社団法人日本鍼灸協会代表理事、一般社団法人日本温活協会本部指導員。 東洋医学や温活に関する指導を行い、メディア出演や講演活動を通じてその普及に取り組んでいる。 広島県安芸高田市出身。小学生の頃より柔道を始め、広陵高等学校 (広島県)在学中に腰椎椎間板ヘルニアを発症。手術後のリハビリとして鍼灸治療を受けたことを契機に、鍼灸の道を志す。 関西鍼灸大学(現・関西医療大学)に進学。在学中は中医美容研究会の部長、関西中医学ネットワーク(KANSAI TCMN)の実行委員長を務め、東洋医学および美容鍼灸分野に関心を深めた。
津田 雄一(つだ ゆういち、1975年6月26日 - )は、… 津田 雄一(つだ ゆういち、1975年6月26日 - )は、日本の宇宙科学者。専門は、誘導航法制御、太陽系探査、宇宙機システムに関する研究。学位は、博士(工学)(東京大学、2003年3月)。 宇宙航空研究開発機構(JAXA)教授、総合研究大学院大学物理科学研究科宇宙科学専攻教授、東京大学大学院工学系研究科教授。 小惑星探査機はやぶさ2プロジェクトチームのプロジェクトマネージャとして知られるほか、宇宙ヨットIKAROSのサブチームリーダーを務めた。 他にもM-Vロケットの開発や小惑星探査機はやぶさの運用などにも携わった。 広島県安芸高田市生まれ。神奈川県相模原市育ち(在住)。相模原市立相模台小学校、相模原市立相模台中学校を経て、1994年に桐朋高校を卒業後、東京大学理科一類に進学。
児玉 浩(こだま ひろし、1963年(昭和38年)4月12日… 児玉 浩(こだま ひろし、1963年(昭和38年)4月12日 - )は、日本の政治家。第3代広島県安芸高田市長(1期)、元広島県議会議員(6期)、第109代広島県議会副議長。 広島県安芸高田市生まれ。父親は、高宮町長や初代安芸高田市長などを務めた児玉更太郎。広島県立吉田高等学校、中京大学法学部卒業。高田郡農協(後に広島北部農協→JAひろしま広島北部地区)に勤務。 1999年(平成11年)4月の広島県議会議員選挙に高田郡選挙区(定数1)から無所属で立候補。自民党現職で72歳の木山千之、甲田町議を辞して臨んだ51歳の吉田修らに対し、35歳の児玉は若さをアピール、初当選。 2003年(平成15年)の県議選は自民党公認で立候補し、無投票で再選。
児玉 克哉(こだま かつや、1959年3月30日-)は、日本… 児玉 克哉(こだま かつや、1959年3月30日-)は、日本の社会学者。社会貢献推進国際機構理事長、リンカーン・フォーラム理事、事務局長および公開討論会相談室長。 専門は、社会学、平和研究、地域社会学、市民社会論、NGO論、国際平和論、情報社会論など。マーケティング調査にも携わり、ビジネスモデルの研究に取り組んでいる。「ヒロシマ・ナガサキプロセス」や「志産志消」などを提唱し、国際・地域活動を行っている。 広島県安芸高田市生まれ。広島大学教育学部教科教育学科卒業。広島大学大学院地域研究研究科修士課程修了。1990年にスウェーデン・ルンド大学社会学部にて博士課程を修了し、市民社会論研究で社会学博士号を取得。
中島 敏文(なかじま としふみ、1950年7月29日 - )… 中島 敏文(なかじま としふみ、1950年7月29日 - )は、広島県高田郡吉田町(現・安芸高田市)の元騎手・元調教師である。 実父・中島時一も元騎手、中島啓之は実兄。 父・時一は戦前の騎手・調教師で、牝馬のヒサトモで1937年の東京優駿をレコードタイムで制覇している。父母の疎開先の広島で生まれ、時一のダービー優勝時には啓之と敏文はまだ生まれていなかった。 1968年に京都・上田武司厩舎の騎手候補生となり、1969年3月にデビュー。同期には田村正光、上野(伊藤)清章、須貝四郎、楠孝志、内田国夫、西浦勝一がいる。同1日の京都第5競走障害5歳以上未勝利・フェアダッシュで初騎乗を果たすが、落馬で競走中止というほろ苦いデビューとなった。
大納川 憲治(だいながわ けんじ、1949年5月17日 - … 大納川 憲治(だいながわ けんじ、1949年5月17日 - )は、広島県吉田町出身で木瀬部屋所属の元大相撲力士。本名は長本 憲治(ながもと けんじ)。最高位は幕下11枚目。力士時代の体格は身長180cm、体重120kg。得意手は右四つ、寄り。 1965年5月場所初土俵(同期には元大関貴ノ花)。1969年3月場所三段目優勝。 昭和40年代半ばより甚句を唄い始める。 昭和50年代は、相撲甚句のトリを務める。巡業中などは彼の甚句を聴きたいがために親方衆、関取衆がわざわざ出向いて聴き惚れたと云う伝説を持つ。 最終場所は1980年9月場所。現役時代より歌唱力の高さを評価され数社よりレコードを発売する。 現在は、全国大納川相撲甚句会の総師範として活躍中。
森 進伍(もり しんご、1947年5月22日 - )は、日本… 森 進伍(もり しんご、1947年5月22日 - )は、日本のものまねタレント、歌手。本名は胡濱 勲(えびすはま いさお)。広島県高田郡甲立(現・安芸高田市)出身。森進一のモノマネで知られている。 1967年、17歳のとき、広島の生家から家出。東京・本郷の旅館の下働きをしながら歌の勉強を続ける。その後、ミシンや雑誌のセールスマンの傍ら、新宿で流しをする。 1970年に作曲家の勧めで、讀賣テレビ放送『全日本歌謡選手権』に出場、初代10週連続勝ち抜きグランドチャンピオンとなり、胡浜 三郎(えびすはま さぶろう)の芸名で歌手デビュー。東芝レコードより「女のまごころ」をリリースし、40万枚のヒットとなる。
中島 啓之(なかじま ひろゆき、1943年6月7日 - 19… 中島 啓之(なかじま ひろゆき、1943年6月7日 - 1985年6月11日)は、昭和後半期の日本の競馬騎手。日本中央競馬会の所属であった。 1974年の東京優駿(日本ダービー)優勝など八大競走を4勝、1970年代から1980年代にかけて関東を代表する騎手であったが、1985年に病死した。通算729勝は当時歴代9位の記録。 父・中島時一は戦前の騎手・調教師で、牝馬のヒサトモで1937年の東京優駿をレコードタイムで制覇している。また、弟の中島敏文も元騎手で、引退後にJRA調教師となった。 夫人の父(義父)は同じくJRA調教師であった高松三太。 1943年、父の転戦先、東京都府中市に生まれる。太平洋戦争激化により競馬が休止となり、これを受けて競馬界から引退した父時一の故郷・広島県高田郡吉田町(現・安芸高田市)に、生後間もなく移り住む。
柿本 幸造(かきもと こうぞう、1915年11月30日 - … 柿本 幸造(かきもと こうぞう、1915年11月30日 - 1998年12月)は広島県(安芸高田市吉田町)出身の童画家。 「どんくまさん」シリーズ(蔵冨千鶴子作)の挿絵画家として知られる。1959年小学館児童文化賞受賞。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
児玉 希望(こだま きぼう、1898年 <明治31年> 7月… 児玉 希望(こだま きぼう、1898年 <明治31年> 7月5日 - 1971年 <昭和46年> 5月2日)は、日本画家、日本芸術院会員。位階は従四位。 広島県高田郡来原村原田(現・安芸高田市高宮町原田)出身。本名・省三。尾竹竹坡門下を経て、1918年に川合玉堂の門に入る。「希望」の号は竹坡がつけたもの。帝展に出品し、1921年「夏の山」で初入選。1928年帝展では洋画の手法を取り入れた「盛秋」で特選となる。以後、新文展、日展に出品。1950年日展運営会参事、伊東深水門下の白鳥映雪らとともに日月社を結成。1952年の作品「室内」により日本芸術院賞を受賞。1958年日展評議員、1959年日本芸術院会員。
神岡 一亨(かみおか いっこう、1879年〈明治12年〉1月… 神岡 一亨(かみおか いっこう、1879年〈明治12年〉1月10日 - 1924年〈大正13年〉11月21日)は、日本の医師、軍医。李王家御典医。広島県高田郡長田村(現在の安芸高田市)出身。最終階級は陸軍三等軍医正(少佐相当官)。
赤川 霊巌(あかがわ れいがん、1853年(嘉永6年1月)-… 赤川 霊巌(あかがわ れいがん、1853年(嘉永6年1月)- 1925年(大正14年)5月18日)は、明治時代の政治家。浄土真宗本願寺派の僧侶。衆議院議員(1期)。 安芸広島藩領高田郡、のちの可愛村(広島県高田郡吉田村、吉田町を経て現安芸高田市)出身。慶應義塾に学ぶ。私財を投じて私立学校洗心館を設立し、館長兼講師となった。のち還俗し、1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では広島県第4区から出馬し当選。大成会に所属し衆議院議員を1期務めた。