赤松 貞明(あかまつ さだあき、1910年(明治43年)7月… 赤松 貞明(あかまつ さだあき、1910年(明治43年)7月30日 - 1980年(昭和55年)2月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中尉。日中戦争、太平洋戦争の撃墜王。 1910年(明治43年)7月30日高知県土佐郡秦村(現高知市)で測候所長の子として生まれる。中学海南学校を卒業し、1928年(昭和3年)6月佐世保海兵団に入隊、四等水兵。1929年(昭和4年)大村航空隊所属の柴田武雄中尉の従兵となる。柴田によれば、赤松は外出しては酔って暴れ、そのたびに柴田がもらい下げにいったという。1931年(昭和6年)6月、第17期操縦練習生。教官は源田実大尉。1932年(昭和7年)3月、同修了。その後、大村航空隊、空母「赤城」、「龍驤」、「加賀」に配属。
山下 知彦(やました ともひこ、1891年(明治24年)6月… 山下 知彦(やました ともひこ、1891年(明治24年)6月23日 - 1959年(昭和34年)5月2日)は、日本の海軍軍人、華族。山下源太郎の養嗣子で艦隊派の一員である海軍大佐、男爵である。 高知市に生まれる。米沢の医師、水野廉平の次男。山本五十六夫人の礼子は従妹。山下源太郎の長女、千鶴子と結婚し山下家の養嗣子となる。米沢中学を経て海軍兵学校40期を卒業。席次は144名中30番。山口多聞、大西滝治郎、宇垣纏らが同期生である。1913年(大正2年)12月に少尉任官。 第一次世界大戦では「周防」乗組みとして出征し、青島攻略戦で陸戦隊を指揮して功五級に叙せられた。山下は砲術学校高等科、および同校の教官養成課程である専攻科を修了した砲術専攻の士官で、同校教官や軽巡洋艦「球磨」砲術長などを務めた。
石本 貞直(いしもと さだなお、1888年(明治21年)2月… 石本 貞直(いしもと さだなお、1888年(明治21年)2月18日 - 1965年(昭和40年)8月30日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級 高知県土佐郡神田村(鴨田村大字神田を経て現高知市)で、石本正直、菊枝の長男として生まれた。陸軍士官学校第22期卒業。1937年(昭和12年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、9月に歩兵第1連隊留守隊長に就任した。1938年(昭和13年)に台湾歩兵第1連隊長を経て、1939年(昭和14年)8月に陸軍少将に進級し、留守第11師団司令部附となった。 同年10月に第40歩兵団長に転じ、日中戦争に出動。宜昌作戦に参加した。1940年(昭和15年)に第4歩兵団長に転じ、1941年(昭和16年)に第62独立歩兵団長を経て、1943年(昭和18年)に釜山要塞司令官兼釜山陸軍軍需輸送統制部長に就任した。
沢田 茂(さわだ しげる、1887年(明治20年)3月29日… 沢田 茂(さわだ しげる、1887年(明治20年)3月29日 - 1980年(昭和55年)12月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県高知郡鴨部村(現・高知市鴨部町)出身。農業・沢田栄之助の三男として生まれる。兄弟四人のうち、長男を除く三兄弟が陸軍将校となった。1899年(明治32年)4月に高知県立海南中学校に入校。同期は山下奉文で、永らく交友を結んだ。広島陸軍地方幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月15日、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月26日、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第16連隊付となる。野戦砲兵第22連隊付などを経て、1910年(明治43年)11月26日、陸軍砲工学校高等科を卒業。
浦 澄江(うら すみえ、1884年(明治17年)8月18日 … 浦 澄江(うら すみえ、1884年(明治17年)8月18日 - 1951年(昭和26年)1月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡、のちの三里村(現高知市)で生まれた。高知県尋常中学海南学校(現高知県立高知小津高等学校)を経て、陸軍士官学校第16期、陸軍大学校第29期卒業。1928年(昭和3年)6月7日に奉天軍に応聘され、8月10日に陸軍砲兵大佐に進級した。1929年(昭和4年)3月に山砲兵第9連隊長に転じ、1931年(昭和6年)8月に台湾軍参謀に就任した。 1933年(昭和8年)8月1日に陸軍少将進級と同時に佐世保要塞司令官に着任した。1934年(昭和9年)8月に第6師団司令部附となり、1936年(昭和11年)3月に由良要塞司令官に就任。
沖 直道(おき なおみち、1880年12月25日 - 193… 沖 直道(おき なおみち、1880年12月25日 - 1932年10月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1880年(明治13年)、高知県土佐郡小高坂村(現在の高知市)に生まれた。海南中学校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 平和条約実施委員、陸軍大学校兵学教官などを経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し参謀本部運輸課長に就任。1924年(大正13年)7月、歩兵第68連隊長となり、参謀本部運輸課長、陸軍省人事局補任課長を歴任。
大川 寿賀(おおかわ すが、1879年(明治12年)12月2… 大川 寿賀(おおかわ すが、1879年(明治12年)12月28日 - 1970年(昭和45年)10月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1879年(明治12年)12月28日、高知県土佐郡小高坂村(現在の高知市)で生まれた。海南中学を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官。1929年(昭和4年)8月、歩兵第23連隊長(宮崎)に就任。1932年(昭和7年)4月、陸軍少将になる。 退役後は土佐在郷将校会副会長、帝国在郷軍人会高知市連合会長等を歴任。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。 1970年(昭和45年)10月、90歳で死去した。
大谷 一男(おおたに かずお、1879年(明治12年)12月… 大谷 一男(おおたに かずお、1879年(明治12年)12月7日 - 1949年(昭和24年)8月9日[要出典])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡五台山村(現在の高知市)に生まれた。1898年(明治31年)高知県尋常中学校卒を経て、1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業。 1922年(大正11年)11月、歩兵大佐に昇進し、陸士本科訓育部長に就任。近衛歩兵第2連隊長、第8師団参謀長を歴任。1927年(昭和2年)7月、陸軍少将に進級し歩兵第38旅団長となる。1930年(昭和5年)3月、近衛師団司令部付となり、1931年(昭和6年)10月、旅順要塞司令官に着任。
安藤 厳水(あんどう いずみ、1864年7月15日(元治元年… 安藤 厳水(あんどう いずみ、1864年7月15日(元治元年6月12日)- 1935年(昭和10年)1月28日)は、現在の高知県出身の武士、陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1864年(元治元年)土佐国土佐郡小高坂村(現高知県高知市)の武士、安藤厳技の長男に生まれる。[要出典] 1883年(明治16年)12月25日、陸軍士官学校(旧6期)を卒業し、同日、歩兵少尉に任じられた。1904年(明治37年)3月、皇族附武官(守正王附)に就任し、1905年(明治38年)10月、歩兵第49連隊長に転じ、1906年(明治39年)12月、歩兵大佐に進んだ。1910年(明治43年)11月、陸軍少将となり歩兵第5旅団長に就任。
奥宮 衛(おくみや まもる、1860年11月29日(万延元年… 奥宮 衛(おくみや まもる、1860年11月29日(万延元年10月17日)- 1933年(昭和8年)1月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。横須賀市長。 土佐国土佐郡潮江村(現・高知県高知市)で、土佐藩士・奥宮暁峰(正路)、亀江の二男として生まれる。1883年10月、海軍兵学校(10期)を卒業し、1886年4月、海軍少尉任官。 以後、「武蔵」分隊長、「海門」分隊長、海兵砲術教官兼生徒分隊長、「龍驤」分隊長兼教官、横須賀鎮守府海兵団分隊長などを歴任。日清戦争には「厳島」分隊長、「高雄」分隊長として参戦。1898年3月、「笠置」回航委員として米国へ出張し、1899年5月に帰国した。
大久保 徳明(おおくぼ のりあき、1860年9月29日(万延… 大久保 徳明(おおくぼ のりあき、1860年9月29日(万延元年8月15日) - 1917年(大正6年)4月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1860年(万延元年)、土佐国土佐郡小高坂村後町(現在の高知県高知市)居住の土佐藩士・大久保幸策の三男として生まれた。 1875年(明治8年)、陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校(旧3期)に進み1879年(明治12年)12月22日、工兵少尉に任官。1883年(明治16年)2月28日工兵中尉に、1886年(明治19年)10月4日工兵大尉に昇進。1888年(明治21年)11月17日、陸軍士官学校教官に補される。 1895年(明治28年)3月23日工兵少佐に昇進し、陸軍大学校教官、宇品運輸通信支部員などを経て、1898年(明治31年)10月1日、工兵中佐に昇進。
坂本 一(さかもと はじめ、1859年11月6日(安政6年1… 坂本 一(さかもと はじめ、1859年11月6日(安政6年10月12日) - 1948年(昭和23年)11月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)で、坂本速、熊の息子として生まれた。致道館、さらに上京して山内家邸内の東京海南私塾で学んだ。 1874年(明治7年)10月、海軍兵学寮(7期)に入学。1883年(明治16年)11月、海軍少尉に任官。1890年(明治23年)1月、「海門」分隊長となり、「比叡」「金剛」「赤城」の各分隊長、「浪速」航海長、海軍大学校副官。1894年 (明治27年) 6月、「厳島」航海長となり、日清戦争に出征した。その後「鎮遠」回航委員、「葛城」副長などを経て、1896年(明治29年)4月、海軍少佐に昇進し横須賀水雷団第2水雷艇隊司令に就任した。
楠瀬 幸彦(くすのせ ゆきひこ、旧字体: 楠瀨幸彥、1858… 楠瀬 幸彦(くすのせ ゆきひこ、旧字体: 楠瀨幸彥、1858年4月28日〈安政5年3月15日〉- 1927年〈昭和2年〉10月13日)は、日本陸軍の軍人、陸軍大臣。最終階級は陸軍中将。 土佐国土佐郡高知城下南奉公人町(現:高知県高知市)で、土佐藩士楠瀬正志の長男として生まれる。 東京海南私塾、陸軍幼年学校を経て、1880年(明治13年)12月、陸軍士官学校(旧3期)を卒業。フランス留学、陸士教官、近衛砲兵連隊中隊長、参謀本部第1局員、参謀本部副官、ロシア公使館付などを歴任。 1894年(明治27年)11月、臨時京城公使館付(韓国政府軍部顧問)となり、三浦梧楼公使らと共に、1895年(明治28年)10月8日に発生した閔妃暗殺事件(乙未事変)に係わったとして、同年10月から翌年1月まで入獄したが、1896年(明治29年)1月14日、第5師管軍法会議において無罪判決を受け釈放された。
島村 干雄(しまむら たてお、1856年8月2日(安政3年7… 島村 干雄(しまむら たてお、1856年8月2日(安政3年7月2日) - 1910年(明治43年)11月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1856年(安政3年)、土佐国土佐郡久万村(現在の高知県高知市)に島村重吉の次男として生まれる。1873年(明治6年)上京し陸軍幼年学校に入学するが、放縦の故退学になる。1874年(明治7年)3月、熊本に行き谷干城の兵士になる。佐賀の乱や台湾征伐で武功をあげ、1877年(明治10年)6月、歩兵少尉に任官。1879年(明治12年)から1882年(明治15年)までと、1884年(明治17年)から翌年、渡清し諜報任務に従う。 1896年(明治29年)9月、歩兵第33連隊長に就任。
内田 正敏(うちだ まさとし、1851年4月16日(嘉永4年… 内田 正敏(うちだ まさとし、1851年4月16日(嘉永4年3月15日)- 1922年(大正11年)5月11日)は、明治・大正期の日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍中将。爵位は男爵。貴族院男爵議員。 1851年(嘉永4年)高知城下築屋敷(現在の高知市)で内田茂助の子に生まれた。若くして東京遊学。1868年(明治元年)[西暦年要検証]北村重頼の砲隊に属し東征軍に従う。1871年(明治4年)8月、海軍兵学寮入学。1876年(明治9年)9月、海軍少尉補任官。「雷電丸」「金剛」乗組を経て、1878年(明治11年)7月、海軍少尉に任官。1881年(明治14年)11月、海軍兵学校(3期)を卒業した。
阪井 重季(さかい しげすえ/しげき、1847年1月10日(… 阪井 重季(さかい しげすえ/しげき、1847年1月10日(弘化3年11月24日) - 1922年(大正11年)3月1日)は、明治から大正期の日本陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。旧名・元助(二川元助、二川元助重遠)。家紋は四つ星。 土佐国土佐郡(高知藩)高知城下の高知中島町において、土佐藩士(馬廻役、300石。)・二川周五郎の長男として生まれ、後に阪井に改姓した。生家の中島町は板垣退助、片岡健吉の出身地であり、家が近所であった。 戊辰戦争に従軍し、1870年、大坂兵営予備生徒となる。翌年、御親兵として上京、陸軍大尉に任官し8番大隊副官となる。近衛6番大隊副官、広島鎮台地方司令官心得などを経て、1874年2月から翌月にかけて佐賀の乱に出征。
楠目 正幹(くすめ まさみき、天保8年(1837年)9月1日… 楠目 正幹(くすめ まさみき、天保8年(1837年)9月1日 – 明治17年(1884年)9月3日)は、土佐藩出身の武士、明治政府の官僚・海軍法務官。通称は民五郎。土佐勤王党の血盟同志の一人である。官職は東京海軍軍法会議主理・海軍権大書記官。正六位・勲五等。また海軍中佐。 土佐郡潮江村(現在の高知市)に楠目民助の長男として生まれる。楠目藤盛(清馬)の実兄にあたる。土佐藩政下では小南五郎配下の役人として活動した。 文久元年(1861年)、武市半平太を主領とする土佐勤王党の誓書に署名し、血盟連盟した勤王志士の一人であった。この時期、尊王攘夷運動に深く関与していたことが知られる。 明治3年(1870年)、小栗義宣らとともに兵部省糺問権少佑に任じられ、同年中に兵部大録へ転じた。
沢本 盛弥(さわもと もりや、旧字体: 澤本 盛彌、生没年不… 沢本 盛弥(さわもと もりや、旧字体: 澤本 盛彌、生没年不詳)は、江戸時代末期の武士、日本の陸軍軍人。 盛弥は仮名(通称)、諱(実名)は幸則「ゆきのり」。土佐藩士。 迅衝隊士六番隊銃手として戊辰戦争に従軍。後に大日本帝国陸軍軍人となる。文献によっては沢本守也と表記。北光社の沢本楠弥は同族。 沢本氏(澤本氏)の祖は彦右衛門といい、戦国時代に大津城 (土佐国) 城主天竺孫四郎に仕えていたが、細川氏の庶流天竺氏は長宗我部国親に滅亡させられた。江戸時代になり、4代目藩主山内豊昌から土佐藩に仕えた一族と伝わる。それ以外の一族末裔は全国に拡散した。 土佐国長岡郡介良村出身。 会津戦争の二本松陣営にて、沢本盛弥(以下沢本)を含めた新政府軍の兵士三人が民家で飲酒をしてしまい、軍法違反となった。