幸谷 秀巳(こうたに ひでみ、1963年5月7日 - )は、… 幸谷 秀巳(こうたに ひでみ、1963年5月7日 - )は、日本のサッカー指導者、および解説者。日本サッカー協会公認S級ライセンス保持者。岡山県出身。 岡山市立平井小学校、岡山市立香和中学校、関西高等学校を経て国士舘大学卒業。中学時代はサッカー部が無かったためテニス部に所属。大学でもサッカー部に所属していたが、怪我のため選手生活を断念した。大学の同期に宮澤ミシェルがいた。卒業後はスポーツ用品メーカーのモルテンに入社するが、6年で退社。一時、地元アパレルメーカーBOBSONに就職するも、サッカー指導者を志し、1992年5月にスペインへ渡った。 1993年、スペインサッカー連盟公認NIVEL I、翌1994年同NIVEL IIを取得。
望月 達也(もちづき たつや、1963年4月20日 - )は… 望月 達也(もちづき たつや、1963年4月20日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手・指導者。 清水東3年時の高校選手権、FW沢入重雄やMF反町康治らと共にエースとして活躍したが準優勝に終わる。 当時の高校選抜のメンバーとしてヨーロッパ遠征に参加した際、オランダサッカー協会コーチであったハンス・オフトに見初められる。卒業後の1982年6月にオランダに渡り、同年7月にエールディヴィジ(オランダ1部)のHFCハーレムにアマチュア契約で入団。第4節アウェイのフローニンゲン戦、69分から途中出場でデビューを果たすも、82-83シーズンは2試合(途中出場計37分)の出場に留まった。翌83-84シーズンは第10節ホームでのAZ戦で初先発を果たし70分までプレーしたが、以降エールディビジでの出場機会には恵まれなかった。
柏原 丈二(かしはら じょうじ、1963年4月19日 - )… 柏原 丈二(かしはら じょうじ、1963年4月19日 - )は、熊本県出身の元サッカー選手、元サッカー審判員(元国際審判員)、アジアサッカー連盟審判委員長。 名前より、一部のサポーターからは「ジョージ」とも呼ばれる。 神奈川県立寒川高等学校卒業後、東邦チタニウムサッカー部でプレー。1996年12月に1級審判に登録され、2003年にはスペシャルレフェリー(SR、現プロフェッショナルレフェリー:PR)となり、Jリーグの審判員として活動。しかし、他のPR同様、ジャッジの質や技量に対する批判が散見される。 問題点としては、以下が挙げられる。 愛用のホイッスルはバルキーンである。 2011年6月11日に行なわれた横浜F・マリノス対柏レイソル戦の主審が審判員としての最後の試合となった。
久高 友雄(くだか ともお、1963年3月14日 - 199… 久高 友雄(くだか ともお、1963年3月14日 - 1999年9月22日)は、大阪府出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィルダー。 松下電器産業サッカー部(現在のガンバ大阪)に長年在籍し中心選手として活躍した後、1993年末の選手大量解雇のあおりを受けて出場機会を求め、1994年にセレッソ大阪へ移籍、同年のJリーグ昇格に貢献した。 1995年シーズン終了後に現役を引退。その後はセレッソの下部組織のコーチを務めていたが1999年夏に腹部の痛みを訴えて入院。検査の結果、末期の胃ガンと判明された。その後は現場に復帰するも1999年9月22日午前9時41分、胃ガンのため36歳で死去した。
石井 知幸(いしい ともゆき、1963年2月28日 - )は… 石井 知幸(いしい ともゆき、1963年2月28日 - )は広島県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはDF。 1981年に日本ユース代表としてAFCユース選手権出場。1985年にユニバーシアード代表として神戸大会出場の経験を持つ。 大学卒業後にヤマハ発動機サッカー部(現、ジュビロ磐田)に入部し、主にサイドバックとして活躍した。 引退後は主にジュビロ磐田の下部組織の指導に携わっていたが、2007年と2008年はアルビレックス新潟のヘッドコーチを務めた。2009年からはジュビロ磐田に復帰している。ジュビロ磐田のスカウト時代には福西崇史らを獲得している。
横川 泉(よこかわ いずみ、1963年2月25日 - )とは… 横川 泉(よこかわ いずみ、1963年2月25日 - )とは、日本の元サッカー選手。選手時代のポジションはGK。高校選抜、ユース代表、全日本B代表、日本代表候補の経歴がある。 身体能力に恵まれたゴールキーパー で、フジタ工業での日本サッカーリーグ(112試合1部通算84試合/2部28試合)の経験を買われてJリーグ開幕を控えた1992年に横浜マリノスへ移籍した。 サッカーの盛んな山梨県韮崎市で生まれる。実家は畳屋を営み、三人兄弟の末っ子として育つ。小学校4年時に韮崎サッカースポーツ少年団が開団し、そこに入団。GKとしての基礎を学ぶ。 中学は韮崎西中学に進学、3年時に山梨中学総体で優勝。高校は名門の山梨県立韮崎高等学校へ進学し、1年次よりレギュラーとして活躍。
松永 英機(まつなが ひでき、1963年2月8日 - )は、… 松永 英機(まつなが ひでき、1963年2月8日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 大阪商業大学サッカー部時代は全日本大学選手権2連覇を果たした。卒業後は[要出典]松下電器産業サッカー部(現:ガンバ大阪)でプレー。 引退後は松下電器およびプロ化したG大阪や、ヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ1969)で指導者経験を積む。またこの間、日本サッカー協会の強化委員スタッフに加わり、アトランタ五輪ではスカウティングスタッフとして対戦相手チームを分析。マイアミの奇跡と呼ばれるブラジル戦での勝利に貢献した。 1999年にはV川崎で初めてJリーグチームの監督を務める(ただし実質的な指揮は総監督の李国秀が執っていた。
倉田 安治(くらた やすはる、1963年2月1日 - )は、… 倉田 安治(くらた やすはる、1963年2月1日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはディフェンダー。 藤枝東高校3年次の高校選手権(1979年度)に出場、優勝候補の一角と目されたが1回戦敗退に終わった。卒業後は筑波大学に進学。4年次の1985年にユニバーシアード代表 に選出され、同年8月の神戸大会に出場しベスト4進出に貢献した。 1986年に本田技研工業に入部。また同年に日本代表に選出され、1987年のソウル五輪アジア予選など国際Aマッチ6試合に出場。1989 FIFAフットサル世界選手権にフットサル日本代表として出場した。北澤豪共々読売サッカークラブ所属選手として日本リーグ最終シーズンを過ごした。
結城 治男(ゆうき はるお、1963年1月9日 - )は、広… 結城 治男(ゆうき はるお、1963年1月9日 - )は、広島県出身の元サッカー選手、及びサッカー指導者。 広島工業高等学校から東京農業大学を経て湘南ベルマーレの前身であるフジタサッカークラブでプレー。1992年の現役引退後はJリーグに昇格したベルマーレのJrユースコーチなどを経て1997年よりL・リーグ所属のフジタSCマーキュリーの監督に就任。チームが解散する1998年まで指揮(1998年は総監督として)をとっていた。マーキュリー解散後はベルマーレに戻りユースチームの指揮をとるなどしていた。1999年にJFA 公認S級コーチのライセンスを取得している。 2003年に選手時代から長年所属していたベルマーレを去り、Jリーグ所属のヴァンフォーレ甲府のコーチに就任。
大橋 昭好(おおはし あきよし、旧姓:菅藤、1962年12月… 大橋 昭好(おおはし あきよし、旧姓:菅藤、1962年12月11日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手、指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー。 藤枝東高校2年時に高校選手権に出場し、初戦敗退。 卒業後の1981年に日本サッカーリーグのヤマハ発動機(後のジュビロ磐田)に加入。2年目の1982年シーズンに出場機会を得ると、JSL2部優勝に貢献。天皇杯では決勝のフジタ工業戦を無失点に抑えてチームの初優勝に貢献した。 翌1983年、大学NO.1キーパーと称され、後に日本代表となる森下申一が加入すると、出場機会を失うようになった。「シュートに対する反応の早さ」が持ち味の森下に対して、1対1の強さに定評があったが、ヤマハではJSL1部通算12試合出場に留まった。
中野 雄二(なかの ゆうじ、1962年10月17日 - )は… 中野 雄二(なかの ゆうじ、1962年10月17日 - )は、東京都目黒区出身の元サッカー選手、サッカー指導者、大学教授。現役時代のポジションはディフェンダー。日本サッカー協会指導者ライセンスのB級を保有している。 国立東京第二病院(現:国立病院機構東京医療センター、東京都目黒区)で生まれ、その後は東京都世田谷区の三軒茶屋で暮らしていたが、6歳の時に父の転勤により茨城県古河市へ転居した 。小学生(古河市立古河第三小学校)の時は野球が好きであった が、小学4年で地元の少年サッカーチームに入った時よりサッカーを始め 、古河市立古河第二中学校でもサッカー部に所属した。 1978年、茨城県立古河第一高校に入学してサッカー部に所属。
藤川 孝幸(ふじかわ たかゆき、1962年10月10日 - … 藤川 孝幸(ふじかわ たかゆき、1962年10月10日 - 2018年11月15日)は、神奈川県川崎市出身の元サッカー選手(GK)、サッカー指導者、経営者。 読売ユースを経て、1981年から読売クラブ、1992年からヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)でプレーした。PK戦の強さで一躍名を広めた。1995年に引退。現役晩節は実質的にGKコーチを兼任していたが、Jリーグでは現役選手のコーチ・監督兼任登録が認められていないため、登録上は選手専任だった。 引退後はV川崎で5年間、ヴィッセル神戸で4年間、ベガルタ仙台で1年間GKコーチを歴任し、2006年は甲南大学サッカー部監督として関西大学2部秋季リーグ初優勝。
小野 剛(おの たけし、1962年8月17日 - )は、千葉… 小野 剛(おの たけし、1962年8月17日 - )は、千葉県出身のサッカー指導者。 千葉県立船橋高等学校、筑波大学体育専門学群卒業。大学の2年先輩に松田浩、1年先輩に風間八宏・鈴木淳・望月一頼がいる。筑波大学蹴球部4年間をCかDチーム(3ないし4軍)で過ごし、大学4年時には蹴球部副キャプテンを務めた。 1988年、筑波大大学院体育研究科修士課程修了、1990年まで筑波大助手兼サッカー部コーチを務めた。1990年から1996年まで成城大学法学部専任講師を務め、その間成城大サッカー部コーチや東京都学生選抜および関東大学選抜コーチなどを経験した。1994年から1年間、リバプール・ジョン・ムーア大学客員研究員を経験している。
松永 成立(まつなが しげたつ、1962年8月12日 - )… 松永 成立(まつなが しげたつ、1962年8月12日 - )は、静岡県浜松市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー。元日本代表。 静岡県浜松市で運送業を営む家庭の三人兄弟の末っ子として生まれる[要出典]。当時の浜松地区はサッカーよりも野球の方が盛んであり、松永も浜松市立飯田小学校時代に入学すると野球チームに所属していた。しかし監督と対立して退部すると小学6年生からはサッカー少年団に加入し、本格的にサッカーへの道へと進んだ。なお、当時から長身であったこともあり、ゴールキーパーを務めるようになった。中学校は浜松市立東部中学校へ進学。ここでもゴールキーパーを務め3年次には静岡県大会決勝まで駒を進めたが、準優勝に終わった。
佐々木 雅尚(ささき まさなお、1962年6月19日 - )… 佐々木 雅尚(ささき まさなお、1962年6月19日 - )は、千葉県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 元々はFWとしてプレーし、本田技研工業時代は関塚隆とコンビを組んでいたが、1988年に日本代表監督に就任した横山兼三によってウイングバックへとコンバート。1989年のワールドカップ・イタリア大会予選を始め国際Aマッチ20試合に出場すると所属クラブでもウイングバックやサイドバックのポジションで活躍。引退後は保善高校サッカー部で監督を務めた。
池谷 友良(いけや ともよし、1962年6月17日 - )は… 池谷 友良(いけや ともよし、1962年6月17日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手、サッカー指導者、ロッソ熊本(現:ロアッソ熊本)の初代監督であり、ロアッソ熊本を運営する株式会社アスリートクラブ熊本の代表取締役社長も務めた。現在はFC今治のグローバル事業部スタッフとして所属している。 静岡県立浜名高校時代は全国大会の出場経験はないが、3年生の時に国体の静岡県選抜の一員として優勝。中央大学に進学し、卒業後日立製作所サッカー部(現在の柏レイソル)に入部。当時の日立製作所サッカー部は日本サッカーリーグの1部と2部の往復生活で、池谷もそれほど出場機会が多くないこともあり、選手としては全国区になれないまま29歳で引退した。
シジマール・アントニオ・マルチンス(Sidmar Antôn… シジマール・アントニオ・マルチンス(Sidmar Antônio Martins、1962年6月13日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手・サッカー指導者。ポジションはゴールキーパー。
廣嶋 禎数(ひろしま よしかず、1962年5月22日 - )… 廣嶋 禎数(ひろしま よしかず、1962年5月22日 - )は、大阪府大阪市出身の元サッカー審判員。日本サッカー協会 (JFA) トップレフェリーインストラクター。 小学5年生のころからサッカーを始め、大阪府立藤井寺高等学校進学後に本格的にサッカーに取り組む(ポジションはMF)。その後大阪体育大学に進むが、選手としてではなく関西学生サッカー連盟の幹事長を務めるなど、学連での活動が主となった。並行して審判資格の取得を始め、大学2年・20歳の時に4級審判員の資格を取得。大学卒業後は大阪府立高校の保健体育科教諭となり、西浦高校、平野高校、長野高校で教鞭を執る。 1990年に1級審判員資格取得。1993年のJリーグ発足と同時に副審を務める。
内田 一夫(うちだ かずお、1962年4月18日 - )は、… 内田 一夫(うちだ かずお、1962年4月18日 - )は、日本の元サッカー選手で、サッカー指導者。 全国有数のサッカーの街である清水市(現・静岡市清水区)に生まれ育ち、高校は清水東高校に進学。この世代の清水東は全盛期が始まった頃であり、一学年上に大木武と望月一頼、一学年下に反町康治、沢入重雄、望月達也などのちにJリーグの選手や監督として活躍する人物がいた。内田本人も3年次に高校総体で優勝、選手権大会で準優勝、さらに国民体育大会では静岡県選抜チームに選ばれ優勝を経験。大学は駒澤大学へ進み、一学年下の佐久間悟とプレーした。社会人では清水市役所に勤務する傍ら、地元サッカークラブクラブでプレー。また、東京大学の研究生として浅見俊雄の下でフィジカルトレーニングの指導を2年間受けている。
草木 克洋(くさき かつひろ、1962年4月12日 - )は… 草木 克洋(くさき かつひろ、1962年4月12日 - )は、大阪府大阪市出身(京都府育ち)の元サッカー選手、サッカー指導者。 大阪府大阪市で生まれ3歳のときに京都市へ移る。洛南高校から1981年にヤンマーディーゼルに入団した。また、1988年1月27日のアラブ首長国連邦代表戦で日本代表として初出場。また、日本代表として国際Aマッチ2試合を含む19試合に出場した。 Jリーグ開幕を前にして1992年にガンバ大阪に移籍、1994年に京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)に移籍し、同年限りで引退した。 2003年、日本フットボールリーグの北陸電力サッカー部アローズ北陸の監督に就任。以前コーチを務めていた縁から元サガン鳥栖の選手らを呼び寄せるなどして守備力を大幅にアップさせ、年々順位を上げ、2005年は3位につけた。
浅岡 朝泰(あさおか ともやす、1962年4月6日 - 20… 浅岡 朝泰(あさおか ともやす、1962年4月6日 - 2021年10月6日)は、東京都出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはFW(右ウイング)、MF(右ウイングバック)、DF(右サイドバック)。 筑波大学卒業後、1985年より日本サッカーリーグ1部の日本鋼管サッカー部に入部。俊足を活かしたドリブル突破と正確なセンタリングが持味で、そのシーズンに新人ながらアシスト王を獲得した。 1985年から1987年シーズンまで3年連続リーグ戦2位、1986年度に天皇杯全日本サッカー選手権大会準優勝、1987年にJSLカップを制覇し、同サッカー部の上位進出に貢献した。また日本代表にも選出され、ソウルオリンピック予選など8試合に出場した。
及川 浩二(おいかわ こうじ、1962年4月3日 - )は、… 及川 浩二(おいかわ こうじ、1962年4月3日 - )は、岩手県出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはMF。 岩手県立遠野高等学校から国士舘大学を経て、1985年、日本サッカーリーグの日本鋼管サッカー部に入る。即戦力の司令塔として、巧みなボールコントロールとスルーパスで期待に応え、リーグ3年連続の2位に大きく貢献。また、天皇杯準優勝(1986年度)やJSLカップ優勝(1987年)など、チーム躍進の中心選手として活躍した。
小松 晃(こまつ あきら、1962年4月3日 - )は、秋田… 小松 晃(こまつ あきら、1962年4月3日 - )は、秋田県由利町(現:由利本荘市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。S級コーチングライセンス保持者。 TDKサッカー部(現:ブラウブリッツ秋田)元監督の小松勉は弟に当たる。 1981年1月、秋田県立西目農業高校(現:秋田県立西目高校)3年時の第59回全国高等学校サッカー選手権大会で、キックオフ直後にセンターサークル付近から相手ゴール目掛けてロングシュートを蹴り込み、50メートル弾を決めた。同月に現役高校生ながら当時の日本代表監督の川渕三郎に招集され、1月30日のポーランド選抜戦でデビュー。国際Bマッチ1試合に出場。JFAによるナショナルトレセン制度を経験した初の代表選手となった。
上島 康夫(うえしま やすお、1962年4月2日 - )は、… 上島 康夫(うえしま やすお、1962年4月2日 - )は、東京都出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード。 12歳からサッカーを始め、16歳の頃より読売クラブのユースチームに所属。読売ユースでは戸塚哲也、都並敏史の一学年後輩に当たる。高校三年時の1980年にトップチームへ登録され、日本サッカーリーグ(JSL)デビューを果たす。得点感覚に優れたストライカーとして、JSL、JSLカップ、天皇杯と国内全てのタイトルで優勝を経験するなど、読売クラブ黄金時代に活躍した。 1981年、タイ・バンコクで行われた第22回アジアユース選手権の日本代表に選出。 JSL1部通算69試合出場16ゴール 4アシスト。
吉田 光範(よしだ みつのり、1962年3月8日 - )は、… 吉田 光範(よしだ みつのり、1962年3月8日 - )は、愛知県刈谷市出身の元サッカー選手、サッカー指導者・サッカー解説者。ポジションはMF、FW。 刈谷市立衣浦小学校、刈谷市立刈谷南中学校、愛知県立刈谷工業高校卒業。小学2年生の時に体育の授業で初めてサッカーボールに触れ、小学4年生の時に刈谷サッカースクールに入団した。中学校時代の1976年には刈谷サッカースクールの代表選手としてアメリカに遠征している。高校卒業後、杉山隆一が監督を務める日本サッカーリーグ(JSL)のヤマハ発動機サッカー部に入団。1981年シーズンは10位で2部降格となったが、ハンス・オフトが監督に就任した1982年シーズンには2部で優勝して1部昇格。
木村 浩嗣(きむら ひろつぐ、1962年2月22日- )は、… 木村 浩嗣(きむら ひろつぐ、1962年2月22日- )は、愛媛県松山市出身のサッカー指導者、スポーツライター、雑誌編集者。 愛媛県立松山東高等学校、中央大学法学部卒業後、編集プロダクションを経て、日経ホーム出版社(2008年、日経BPに合併)に編集者として勤務。1994年に退職し、スペインのサラマンカに渡る。語学学校に通い、スペイン語での指導資格を得る。1996年に教育省公認スペイン語検定上級合格。サッカー選手の経験は全くなかったが、1998年にスペインサッカー連盟公認のコーチライセンスNIVEL I、1999年には同NIVEL IIを取得し、8シーズンにわたり少年チームを指導。スペインサッカー連盟カスティーリャ・イ・レオン州監督委員会員も務めた。
佐々木 博和(ささき ひろかず、1962年2月16日 - )… 佐々木 博和(ささき ひろかず、1962年2月16日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはMF(攻撃的MF)、DF(サイドバック)。 枚方FCでサッカーを始め、近江達の指導を受ける。小学生時代から天才サッカー少年として名を馳せ、中学時代の1977年にはペレから直接指導を受け絶賛された。1978年には日本ユース代表。1980年には日本代表に選出されワールドカップ・スペイン大会アジア予選に参加したが出場機会はなかった。 高校卒業後、同年に設立したばかりの松下電器産業サッカー部(奈良県2部)へ加入すると中心選手として1984年に日本サッカーリーグ2部へ昇格。1985年に2部を制し、創部5年で1部昇格へと導いた。
小椋 伸二(おぐら しんじ、1962年1月19日 - )は、… 小椋 伸二(おぐら しんじ、1962年1月19日 - )は、大分県出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード。 大分工業高校3年時の1979年に高校総体で準優勝。 東海大学を経て、1984年に日本サッカーリーグ (JSL) 2部のトヨタ自動車工業サッカー部に加入。JSL1部では1987-88シーズン、1990-91シーズン、1991-92シーズンと3シーズンにわたってプレーし、通算58試合に出場し4得点6アシストを記録した。また、1985年の天皇杯では初戦の国士舘大学戦で2得点をあげるなど4試合に出場しベスト4進出に貢献。1991年のコニカカップでは優勝、1992年のゼロックス・チャンピオンズ・カップでは準優勝を経験したが、両大会とも交代出場という形で決勝戦のピッチに立っている。
中田 仁司(なかた ひとし、1962年1月17日 - )は、… 中田 仁司(なかた ひとし、1962年1月17日 - )は、大阪府出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 現役時代はフジタ工業/フジタSC(現・湘南ベルマーレ)、大塚製薬(現・徳島ヴォルティス)でプレー。 引退後は指導者として数クラブを渡り歩き、2004年から名古屋グランパスエイトのコーチに就任。ネルシーニョ監督の更迭に伴い2005年9月に監督代行、10月からは監督に就任してシーズン終了まで指揮を執った。 2015年から横浜FCの強化育成テクニカルダイレクターに就任。ミロシュ・ルス監督の体調不良に伴う辞任に伴い、同年9月15日に監督に就任して シーズン終了まで指揮を執った。2016年シーズンにルス監督復帰後は元に戻っていたが、同年6月にルス監督が体調不良により監督を辞任したことに伴い、再び監督に就任した。
池田 司信(いけだ しのぶ、1962年1月5日 - )は、静… 池田 司信(いけだ しのぶ、1962年1月5日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 選手時代には日産自動車で活躍し、のち松下電器でもプレー。引退後は日本体育協会公認A級コーチ、日本サッカー協会公認S級コーチの資格を取得。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するガンバ大阪やアビスパ福岡のコーチ、日本女子代表監督などを歴任。2007年から2008年までツエーゲン金沢の監督を務めた。
小谷 豊(こたに ゆたか、1962年 - )は、日本のサッカ… 小谷 豊(こたに ゆたか、1962年 - )は、日本のサッカー指導者。株式会社AS Japan代表取締役。 宮城県石巻市生まれ。主に学生サッカーの指導者として活動する。 スポーツ施設への人工芝の普及に取り組み、2000年に株式会社AS Japanを設立した。日本初のエアドーム施設やヨーロッパのスポーツパビリオン施設などの建設をてがける。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
吉川 亨(よしかわ とおる、1961年12月13日 - )は… 吉川 亨(よしかわ とおる、1961年12月13日 - )は、三重県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはMF。 日立製作所などに所属し、日本代表としても国際Aマッチ1試合に出場した。現在、少年少女にサッカーを指導。FCFLOSS コーチ吉川塾 ヘッドコーチ
足達 勇輔(あだち ゆうすけ、1961年12月5日 - )は… 足達 勇輔(あだち ゆうすけ、1961年12月5日 - )は、神奈川県出身のサッカー指導者、サッカー解説者。 玉川学園高等部、玉川大学農学部を卒業後、1984年から1988年まで西ドイツに留学。地元クラブでプレイしつつ、ケルン体育大学でコーチング理論を学ぶ。 帰国後の1988年にフジタサッカースクールのコーチに就任。フジタサッカークラブがベルマーレ平塚(現 湘南ベルマーレ)としてJリーグに参入するとベルマーレ平塚U-18の監督に就任する。以後、1998年までベルマーレの下部組織で指導し、セレッソ大阪U-18監督、JAPANサッカーカレッジ監督などを経て、2005年に横浜FCの監督に就任する。 チームは前年ピエール・リトバルスキーの下でチーム最高の8位の成績を残したが、2005年は開幕から下位に低迷した。
望月 一頼(もちづき かずより、1961年11月20日 - … 望月 一頼(もちづき かずより、1961年11月20日 - )は、静岡県静岡市出身の元サッカー選手 (GK)、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。筑波大学卒業。 清水東高出身。同期に大木武、二年先輩に内山篤、一年後輩に内田一夫、二年後輩に反町康治や望月達也・沢入重雄らがいる。1977年高1時、高校では控え選手だったが偶然松本育夫日本ユース代表監督の目にとまり、地元開催の1979 FIFAワールドユース選手権に出場するユース日本代表に選出されるも、最終的には本選出場選手に選ばれなかった。 高校卒業後、筑波大学に進学した。一年先輩に松田浩、同期に風間八宏・鈴木淳、一年後輩に小野剛がいる。4年時にはキャプテンも務めた。
名取 篤(なとり あつし、1961年11月12日 - )は、… 名取 篤(なとり あつし、1961年11月12日 - )は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 浦和市立木崎小学校時代にサッカーを始め、浦和市立木崎中学校時代は県大会ベスト4の経験を持つ。 1977年に東京都の帝京高等学校へ進学。1年次の7月に行われた西ドイツ遠征メンバーに選出されると、冬の高校選手権ではスーパーサブとして優勝に貢献。2年次の秋にはU-20サッカー日本代表に選出され、翌1979年には清水市商高の風間八宏、仙台向山高の鈴木淳とともに1979 FIFAワールドユース選手権メンバーに選出され高校生トリオとして名前を馳せたが、名取には出場機会はなかった。 3年次の高校選手権では川添孝一らと共に2年ぶり3度目の優勝に貢献、この活躍により名取は一躍脚光を浴び、少年ファンや女性ファンから支持を得た。
松田 岳夫(まつだ たけお、1961年10月13日 - )は… 松田 岳夫(まつだ たけお、1961年10月13日 - )は、東京都出身の元サッカー選手、サッカー指導者。JFA 公認S級コーチ。 指導者としては、読売ベレーザ監督時代にL・リーグ前期準優勝。L・リーグカップ1999優勝、第11回後期優勝に導いた。また、ベレーザではリーグ・リーグ杯・選手権の3冠に導いた。 2007年にJFA公認S級ライセンスを取得。 2009年に東京ヴェルディユースの監督に就任、同年10月に東京Vのトップチーム監督に就任。 2010年2月1日より、帰省中の交通事故による負傷の癒えないヴィタヤ・ラオハクルの後を引き継いでガイナーレ鳥取監督に就任。同年ガイナーレ鳥取をJFL優勝・J2昇格に導いたが、2011年12月1日に鳥取から来期の契約を更新しない旨が発表された。
中村 和哉(なかむら かずや、1961年9月28日 - )は… 中村 和哉(なかむら かずや、1961年9月28日 - )は、大阪府出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションは、ゴールキーパー(GK)。 1983年に読売クラブへ入団。この年の読売は、前年度まで所属していた二人のGK(高田喜善、中山良夫)が揃って退団し、新人GKのみという異例の事態にあったが、中村はリーグ戦全試合にフル出場して読売の日本サッカーリーグ(JSL)初優勝に貢献し、新守護神としての座を確固たるものとした。翌1984年は監督のルディ・グーテンドルフがユーゴスラビアから招聘したGKヴィエラン・シムニッチとのポジション争いになったが、シムニッチの出場は開幕戦の1試合に留まり、中村は残る17試合全てでゴールマウスを守ってリーグ戦二連覇を果たした。
勝矢 寿延(かつや としのぶ、1961年9月2日 - )は、… 勝矢 寿延(かつや としのぶ、1961年9月2日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはDF。元サッカー日本代表。元フットサル日本代表。 島原商業高校時代は全国高等学校サッカー選手権大会に出場している。大阪商業大学を経て、本田技研工業に入社。センターバックとして活躍すると、1985年に開催された1986 FIFAワールドカップ・アジア予選、香港戦でAマッチ初出場。アジア地区最終予選の韓国戦の第2戦にも出場したが、0-1と破れワールドカップ出場はならなかった。1987年にはソウル五輪のアジア地区最終予選まで進出したが、最終戦で中国に敗れ敗退。以降は代表を遠ざかったが、1991年に日産自動車へ移籍し存在感を発揮すると、新たに代表監督に就任したハンス・オフトによって代表に復帰。
池内 豊(いけうち ゆたか、1961年8月25日 - )は、… 池内 豊(いけうち ゆたか、1961年8月25日 - )は、愛知県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 現役時代はフジタ工業クラブサッカー部などに所属し、ハードなタックルを得意とするフルバックとして1981年日本サッカーリーグ1部で新人王を獲得。日本代表としてもワールドカップメキシコ大会予選など、国際Aマッチ8試合に出場した。1993年のジャパンフットボールリーグ(旧J1)優勝とともに引退し、故郷名古屋の名古屋グランパスエイトユースで指導者の道に。モノリスFC総監督を経て、2007年にU-15日本代表監督に就任し、2009年のFIFA U-17ワールドカップでも指揮を執った。
小門 洋一(こかど よういち、1961年8月19日 - )は… 小門 洋一(こかど よういち、1961年8月19日 - )は、元競輪選手、元サッカー選手。埼玉県浦和市(現さいたま市)出身。日本競輪学校第49期卒業。競輪選手現役時は日本競輪選手会神奈川支部所属。師匠は、伯父の小門道夫。ホームバンクは平塚競輪場(元は小田原競輪場)。息子の小門勇太はフットサル選手。 帝京高等学校サッカー部出身で2学年上に早稲田一男、宮内聡、金子久、同学年には現サッカー解説者の川添孝一、元サッカー日本代表の名取篤、とんねるずの木梨憲武、1学年下に辻谷浩幸らがいる。高校3年時(1979年)にはFWとして夏の高校総体ではベスト4、東京都選抜として国体優勝。冬の高校選手権では優勝に貢献。
鈴木 淳(すずき じゅん、1961年8月17日 - )は、宮… 鈴木 淳(すずき じゅん、1961年8月17日 - )は、宮城県亘理町出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
都並 敏史(つなみ さとし、1961年8月14日 - )は、… 都並 敏史(つなみ さとし、1961年8月14日 - )は、東京都世田谷区出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはディフェンダー(左サイドバック)。元日本代表。東京都立深沢高等学校卒業。 1980年代から90年代初頭を代表するプレーヤー。彼を題材にしたノンフィクション作品(関連書籍参照)から「狂気の左サイドバック」と呼ばれる。少年時代からの愛称は「びんじ」。兄は東京機械製作所社長で、トランペッター・音楽評論家(元ビブラストーン)の都並清史。長男はサッカー選手の都並智也。次男はサッカー選手の都並優太。 10歳の頃よりサッカーを始め、小学6年生から読売サッカークラブの下部組織で育ち(戸塚哲也は同期生)、東京都立深沢高等学校卒業後トップチームに昇格する。
神戸 清雄(かんべ すがお、1961年8月2日 - )は、静… 神戸 清雄(かんべ すがお、1961年8月2日 - )は、静岡県出身のサッカー選手、サッカー指導者。 選手時代は本田技研サッカー部(現・Honda FC)でプレー。引退後は本田技研サッカースクールコーチを経て、1991年から2001年までジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)で各年代コーチを歴任。2000年と2001年には監督代行も経験した。 2002年からは日本サッカー協会強化スタッフとしてフィリピン、グアムに派遣されて代表監督を務める。 2005年からは名古屋グランパスエイトでユース年代の指導にあたり、2008年からはトップチームのコーチに就任し、シーズン終了後退団。 2009年、日本サッカー協会から北マリアナ諸島へサッカー代表監督として派遣される。
貴志 俊治(きし しゅんじ、1961年7月25日 - )は、… 貴志 俊治(きし しゅんじ、1961年7月25日 - )は、日本・徳島県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 徳島商業高校を経て、1980年から1994年までヤンマーディーゼルサッカー部およびセレッソ大阪に15年間在籍。 翌1995年からはセレッソ大阪下部組織のコーチを歴任し、2006年にS級ライセンスを取得した。2007年途中からトップチームのコーチに就任し、レヴィー・クルピ監督就任までは暫定指揮を執った 。
桝本 厚志(ますもと あつし、1961年7月24日 - )は… 桝本 厚志(ますもと あつし、1961年7月24日 - )は、兵庫県 出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはMF(攻撃的MF、ボランチ)、DF。 小学校からサッカーを始め、中学校時代では、近畿大会で優勝。大会最優秀選手に選ばれる。北陽高等学校時代1年で、高校総体出場、全国高校サッカー選手権出場したが、準決勝で、早稲田一男、宮内聡、金子久らを擁する帝京高校に2対0で敗れ3位、2年で高校総体決勝で、八千代高校に3対1で勝ち初優勝。大会優秀選手(ベストイレブン)に選ばれる。この年の高校サッカー選手権大会大阪予選にて準決勝で明星高校にPKで敗れ2年連続出場できず。3年で高校総体に出場し、3回戦で浦和南2対1で逆転負けし連覇の夢断たれる。
大木 武(おおき たけし、1961年7月16日 - )は、静… 大木 武(おおき たけし、1961年7月16日 - )は、静岡県清水市(現静岡市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 静岡県立清水東高等学校(高校の同級生に望月一頼)、東京農業大学を経て、富士通に入社。MF/FWとしてプレー。1991年に現役引退した。 母校である東京農業大学からコーチの依頼を受け、次の可能性にトライしてみようと現役を引退し、富士通に勤めながら指導者としての道を歩み始めた。1993年には富士通を退社し清水エスパルスのユース監督兼ジュニアユースコーチに就任。その後サテライトコーチを経て、1999年にはスティーブ・ペリマンが一時帰国した際には代行監督としてナビスコ杯2回戦で指揮を執った。
森 正明(もり まさあき、1961年7月12日 - )は、長… 森 正明(もり まさあき、1961年7月12日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手、サッカー指導者、政治家。自由民主党所属の神奈川県議会議員(6期)。 福岡大学を卒業後にフジタ工業に入団。1988年5月29日のCRフラメンゴ戦でサッカー日本代表として初めて出場した。 1999年に自由民主党公認で神奈川県議会議員選挙(平塚市選挙区、現在は6期目)に当選し、2016年5月から2017年5月までは同議会議長を務めた。フジタ工業を前身とする湘南ベルマーレの試合やイベントにも度々顔を見せている。
川添 孝一(かわぞえ こういち、1961年7月4日 - )は… 川添 孝一(かわぞえ こういち、1961年7月4日 - )は、鹿児島県出身の元サッカー選手、サッカー指導者、サッカー解説者である。選手時代のポジションはフォワード(右ウイング)。 桜峰小学校4年時にサッカーを始め、桜島中学校では3年時に全国中学生サッカー大会で3位入賞。 卒業後に帝京高校の事務職員となった姉と共に上京し、同校へ進学。1年時から出場機会を得ると、冬の高校選手権(第52回)では3試合に出場。2年時には東京都選抜に選ばれ国体少年の部で優勝、3年時の1979年には名取篤、小門洋一らと共に高校総体で3位、国体少年の部で連覇。冬の高校選手権(第54回)では決勝の韮崎高校戦での1得点を含む5得点3アシストを挙げて優勝に貢献し、得点王となった。
中村 圭介(なかむら けいすけ、1961年6月23日 - )… 中村 圭介(なかむら けいすけ、1961年6月23日 - )は、福岡県宗像郡出身のサッカー指導者。
樋口 靖洋(ひぐち やすひろ、1961年5月5日 - )は、… 樋口 靖洋(ひぐち やすひろ、1961年5月5日 - )は、三重県四日市市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 三重県立四日市中央工業高等学校1年生時に兄である樋口士郎(元同校監督)を擁する同チームで全国高校選手権準優勝を果たす。卒業後、1980年に日産自動車サッカー部(現在の横浜F・マリノス)に入団した。選手としての活動は短く、1985年に日産サッカースクールのコーチに就任する。その後、Jリーグ元年の1993年からマリノスのユースコーチ・監督を務め、1999年からはトップチームのコーチに昇格した。2003年にS級ライセンスを取得する。 選手・指導者時代を通して日産/マリノス一筋だったが、モンテディオ山形の監督だった鈴木淳が2005年限りで退任したことに伴い、2006年から山形の監督を務めることになった。